2.旅をしているからこそ、夢を語るんです

「一、写真撮って写真!」

「俺も今うどんを作ってる途中なんだけど」

「一のうどんと私の思い出どっちが大事だと思ってるの。ほら」


栞は右手で器を持ちながらも、左手を器用に操りバックからデジカメを取り出した。俺は渋々受け取ると、ポットのようなものを押し、出汁を注いでいる栞をシャッターに収める。


「ありがとう。じゃあ席とっとくね」


そう言いながらも栞の足は、薬味コーナーへと向かっていく。存分にうどんを満喫するつもりだろう。これではどっちがガイドだか分からないな。俺は小さくため息をつく。


高松駅に到着した俺達は駅のロッカーにスーツケースを預け、駅前にあったセルフのうどん屋に入ったのだった。セルフということだけあり、麺を温める作業などもあり俺は驚いた。俺も栞同様、出汁を注ぎ終えた後に薬味を入れる。俺は一般的な七味、ネギ、天かすを選び、席に向かおうとすると、栞が待っているテーブル席に腰を下ろす。


「先に食べててよかったのに」

「ん、すぐ来るだろうなって思ってただけだから気にしないで」


俺と栞は写真を撮ってから手を合わせる。


「頂きます」


うどんをすすると、口の中でうどんのコシを感じることが出来た。力強く、口の中で弾むようだ。東京で食べるうどんとはまるで違う。うどんの本家、香川県ということだけでなく、自分で作るセルフという形態もまた、おいしさに拍車をかけるかもしれない。


「おいしい!」


栞も幸せそうに顔をほころばせながらうどんをすする。次の店のことも考え、量を少なくしたことを惜しく思う程、俺達はうどんを早く食べ終えてしまった。


「もう食べ終わっちゃった。一、次いけるよね?」


俺は頷くと、栞は手を合わせてご馳走様でしたと言ったので、俺も慌ててそれに合わせて呟いた。


「ちょっと休まなくていいのか?」

「平気平気! 時間には限りがあるんだから楽しまないと!」


俺達は返却口に容器を返してから、店を出た。


次のざるうどんのお店には電車で行くことも出来たのだが、せっかくの旅行ということもあり歩いていくことにした。


「暑い……」


歩き始めてから5分。自分から提案した癖に栞の口からは早くもネガティブな言葉が漏れ出している。確かに暑い。俺の額にも汗がにじみ始めている。しかし、夏だから暑いのは仕方ないような気もする。


「日傘とか差さないのか?」

「私、物事は自分の肌で感じたいの。この暑さも歩いた道も。自分の五感で物を感じたいのよね」


やけに文学的な表現で返ってきて一瞬反応に困ってしまった。しかし、さっきから暑い暑いを連呼されてはこっちまでネガティブな気分になってしまう。


「なら文句言わないで歩けばいいのに」

「文句じゃないわよ。それに普通だったら『栞、大丈夫? 水でも買おうか』っていう心配くらいするもんよ。気が利かないのね」


何だよ勝手だな。そう言いかけて俺は口をつぐんだ。今の栞は見るからにイライラしている。ここで俺が何か言い返すものなら火に油を注ぐ行為になってしまう。ここは穏便に事を済ませたい。


「俺……あそこに自販機あるからなんか買ってくるよ」

「桃の味がするお水が飲みたい」


……さっきは水でもいいみたいな口ぶりだったじゃないか! 文句を拳を握ることで殺し、栞ご要望の桃の味がする水を買った。栞に渡すと、栞はキャップを開けていい音を喉で鳴らした。


「ぷはーっ、やっぱりこの一杯に尽きるね。一、ありがとう」


ころころ表情が変わる栞に戸惑いながらも、機嫌が直ったようで俺はホッと胸をなでおろす。


「はーじめ」


栞の声に振り返ると、栞はイタズラを思いついた子供のような笑顔を浮かべ、ニヤニヤしていたかと思うとペットボトルを差し出してきた。


「飲む? 熱中症多いみたいだし、飲まないと危ないよ?」

「は……!?」


これは俗にいう、か、間接キスに当たってしまうんじゃないだろうか。俺は生まれてこの方間接キスが経験がない。俺が受け取るのに戸惑っていると、栞はこの反応を待っていたかのように笑い転げた。


「あはは。思った通りウブな反応! ありがとう一。これでざるうどんまで頑張れるよ」


結局、また栞のおもちゃにされてしまったのか。一体いつになったら、栞を見返すことが出来るのだろうか。


「でも本当に危ない時はすぐ言うんだよ。今年の夏の暑さは本物なんだから」


こういう心配もしてくれるものだから、栞はなんだか憎めないんだよなぁ。


それから10分程商店街を歩いていく。歩いている途中にはうどん屋だけではなくラーメン屋やカレー屋もあり、どこか懐かしく思ってしまった。このような静かで広い商店街も都会では見られない。俺はスマホで街並みの様子を写真に収めた。


栞は水分を取ることで楽になったのか、楽しそうに辺りを見回している。その様子を見てホッとすると同時に反省の念もこみあげてきた。いくら口うるさくても栞だって女の子なんだもんな。もっと、俺が気を配らないと……。


そこまで考えて俺は恥ずかしくなった。こんな遠くの地で、可愛い女の子と二人旅をしている。今までの俺には考えられない事実で、さっきのお父さんの言葉じゃないけれど、本当にカップルの旅行みたいだ。


「一、着いたよ! あそこ」


栞が指差した先には、見るからに先程のセルフのお店とは違うたたずまいをしたお店があった。中に入ると、二階に通された。お店のおばあさんがメニューと共に水を運んできてくれたので、俺は水を一口喉に含む。この炎天下で、流石の俺も喉が渇いていた。


「だからお水あげようかって言ったのに」

「み、水が良かったんだよ」

「ふーん……」


栞は何か含みを持ったようにニヤニヤしている。俺は栞にその話題をふれてほしくなかったので、おばあさんを呼んでざるうどんを二つ注文した。


「一ってさ、どんな子がタイプなの?」

「……は!?」


突然の俺は思わず飲んでた水を吹き出してしまいそうになった。


「やだ。そんな意識しないでよ。それじゃまるで私が一に興味があるみたいじゃない。やめてよね、ただの暇つぶしなんだから」


何で自分で聞いておいて、眉をしかめるんだよ。本当に失礼な奴だな。


「で、どうなのよ」


ずいっと俺に詰め寄る栞。タイプの子と言われ、俺はある女の子が浮かんだかすぐに首を振ってかき消す。こんなことを言ったら栞に笑われてしまう。


「まさか、その鞄についているチャームの女の子とか言わないよね」

「ま、ま、まさか! そんなはずないだろ」


図星だった。何でこんな鋭いんだよ、栞は。


「嘘つくの下手過ぎ。後、現実みよう、一」


哀れんだかのように俺を見るのはやめてほしい。何故だか惨めな気持ちになってしまう。


「そういう栞はどうなんだよ?」

「私? 私の好きなタイプはね……」


「ざるうどんお待ちどう様です」


栞が答えようとした矢先にタイミング悪く、おばさんがざるうどんを運んできてくれた。


「うわぁ! 美味しそう!」


毎度お馴染みのデジカメを取り出すのを見るに、もう栞から好きなタイプを聞き出すことは無理そうだ。というかなんで俺は栞の好きなタイプをこんなにも気にしているんだ。そんなのどうだっていいというのに……。


「一、食べないの?」


気付けば栞は写真を撮り終え怪訝そうに俺を見つめている。俺は慌てて箸を持ち、手を合わせた。俺はうどんをつゆに入れようと箸で持ち上げたが、うどんは一本一本が長く中々途切れなかった。


「これ長いね!」


栞も箸を一生懸命に上へ上へと持ち上げているが俺と同様に苦戦している。


「上に持ち上げるんじゃなくて、つゆに引き入れるようにして食べるといいですよ」


苦戦している俺達を見かねたのかおばさんが声をかけてきてくれる。言われた通りにつゆに引き入れると、先程よりも労せずにつゆにつけることが出来た。コシのあるうどんを喉に流し込むと体内の暑さも和らいでいくようだった。かけうどんもおいしかったが、清涼感でいったらざるうどんが1番だ。栞もニコニコしながらざるうどんをすすっている。


「お二人はどこから来たんですか?」


「東京です」


おばさんの問いかけに俺達は同時に返事をする。思わず顔を見合わせたが、それ以上に俺は思うことはあった。栞も東京に住んでいる。俺が思っていた世界は広いようで狭いのかもしれない。


「この後の予定は決まってます?」

「シンボルタワーから瀬戸内海を眺めたら、そのまま愛媛の方に行こうと思ってます。結構弾丸ツアーなんです」

「そうですか……。なら、あそこには行かないんですね」

「あそこってどこですか?」


残念そうにつぶやくおばさんの声に栞が反応する。質問をぶつけている栞の瞳は輝いて見えて、本当にこの旅を楽しんでいるように思えた。


「聖通寺(しょうつうじ)山展望台ですよ。恋人の聖地で名前が通っているんですよ」

「ははは……恋人ですか」


お互い苦笑いを隠し切れない。この短い時間で2回も間違えられてしまった。そんなに俺達は恋人同士に見えるのだろうか。


「四国には色んなところに恋人の聖地があるって聞きますし、時間がないようであれば是非他のところを見ていってください」


聖地という名前の割には案外どこにでもあるみたいだ。大体、大したご利益がないところばかりだろう。決して、恋人が出来たことのない男の僻みではない。


「恋人の聖地かぁ……」


栞はうんうん頷きながら小さなノートに何かを書き込んでいる。栞は2週間前に彼氏と別れたと言っていた。何かを思うところがあるのかもしれない。


「四国4県には色んな特色があります。是非楽しんでいってくださいね」


おばさんはペコりと頭を下げてから俺達の席から離れた。


「あったかいよね」

栞はポツリとつぶやいた。


「何がだよ?」

「マリンライナーの人もさ、今のおばさんも親身に私達に声をかけてくれるじゃない? 東京じゃ滅多になくない? こういうこと」


確かにそうかもしれない。比べるのも失礼だが、俺のバイト先のファーストフードでも店員である俺が客に日常会話を振ることなどない。業務的なやりとりをするだけだ。


「旅のこういうところ好きなんだよね。一も色んな人と話してみるといいよ。きっと面白いよ」


思い返せば、俺は栞がさっき挙げた二人とあまり話せていない。栞だけがどんどん話の輪に入っていく。いや、俺が入ろうとしていないだけか……。


「どうにも人見知りで……」

「私とこんなに話せてるのに?」


そういえばそうだ。栞とはもう普通に話せている。最初は栞と呼ぶのにも抵抗があったのに……。何故だろう。


「ほんのちょっとの勇気でいいから一から声かけてみなよ。私もついててあげるからさ」


栞はにこっと笑ってから最後の一口をすすり終わる。


「旅での出会いは一期一会なんだから。恐れることなんてないよ? ぶつかっていこう?」


旅は一期一会、か……。そうだよな。話しかけるのは無理でも次は頑張って会話に入るようにしよう。俺は心に誓ってから手を合わせた。


「ご馳走様でした」


「で、どうする? 行ってみたい? 聖通寺山展望台」


店を出て栞が大きく伸びをしながら口に出した言葉に俺はぎょっとした。


「恋人の聖地に何の用があるんだよ」

「別に特に深い意味は"私には"ないけど。折角来たんだし行ってみてもいいかなって思っただけ」


私には、の部分を憎たらしいほど栞は強調してくる。


「行っても恋人達がたくさんいるだろうし、居辛い空気になりそうだし、行かなくていいんじゃないか?」


「確かに……そうだね。私達恋人じゃないもんね」


あっけからんに言う栞も最初から行くという選択肢はないに等しいものだったんだろう。


「一、高松駅には電車で帰っていい? 流石に歩くの疲れちゃった」


今の時刻は13時を少し回る頃。気温もどんどん高くなってくるだろう。店に向かう前に暑い暑いと言っていた栞に無理はさせられない。俺は栞の言葉に頷いた。


「ごめんね。折角街並みを散歩できる機会なのに」

「いや、逆に電車にも乗ってみたかったし」


実際、俺は電車にも興味はあった。俺達がざるうどんを食べた店から片原町駅は近く四国の電車に乗ってみたいと思っていたのだ。


「ありがとう、じゃあことでんに乗ろう!」

「ことでん?」

「うん、高松琴平電気鉄道を略してことでん! 可愛いよね」


何も見ないでも高松琴平電気鉄道の単語が出てきたことに俺は舌を巻いた。流石、一人旅のエキスパートと言ったところか。


「なんか初めてガイドした感じだな。今まで食べてばっか……」


うっかり漏れてしまった言葉を見逃してもらえるはずもなく、栞にペットボトルで頭を叩かれる。


「一さ、デリカシーってものを覚えよう、うん」


でも本当のことのような気もするんだけどな……。流石にこの感想は口に出すのはやめておこう。俺は頭をさすりながら、片原町駅に向けて歩く栞の後を追った。


歩きでは20分程かかる距離だったが、ことでんではその半分の10分で高松駅に到着した。東京で乗る電車と比べると、俺達が乗ったことでんの車両は2両しかなく、スケールは小さい。久しぶりに買った切符の感覚も懐かしみを覚えたほどだった。


これから俺達が向かう高松シンボルタワーは高松駅の近くに建てられており、29階、30階には展望スペースがそして8階には展望広場が無料開放されていると、ことでんの中で栞に教えてもらった。


エレベーターに乗ると栞は迷わずに8階のボタンを押す。そして閉ボタンを押し、ドアが閉まりかけた時にバタバタと騒々しい足音が聞こえてきた。もしかして乗る人かな? そう思った俺は、開ボタンを押してその人をエレベーターの中に迎え入れた。


その人ははぁはぁと肩で息をしながらも顔を上げた。


「ありがとうございます」


栞とは違う黒くて長い髪は胸のあたりまで伸びている。背が高いその女性は俺よりもずっと大人に見えた。


「8階で大丈夫ですか?」

「はい」


ドアが閉まるとエレベーターは上へ上へと昇っていく。……この人も一人旅で四国に来たんだろうか。今更ながら俺は疑問に思った。だけど、俺も栞に会わなければ、この人と同じように一人で今ここにいたかもしれないんだよな。というかまず、このシンボルタワーに上るという選択肢すらなかったかもしれない。


そう考えると、この巡り会いには感謝したい。しおりを見て今後の予定を考えている栞を横目に見て、俺はそう思った。


屋上広場に足を着けると同時に、熱い空気が全身を包み込む。だが、その熱気も海からくる風が幾分吹き飛ばしてくれる。栞は俺が一緒にいることを忘れたかのように駆け出して手すりから身を乗り出した。


「すごいいい景色……」


快晴の空には青い海が良く映える。久しぶりに遮る物なく海を見ることが出来て、そのあまりの広大さに圧倒される。何か感想を言えと求められても栞のように単調な言葉しか出て来ないだろう。


「瀬戸内海の島を一望出来ていいスポットでしょ?」


どこか誇らしげにしている栞の言葉に俺は素直に頷いた。ガイドとしての面目を保つことが出来て嬉しいのかもしれない。俺はデジカメを取り出して目の前に広がるパノラマを写真に収める。撮った写真を見て俺はちょっとした既視感に襲われた。


「この写真どこかで見たことあるような……」


勿論、俺は香川に来たことは一度もない。以前に取ったことがないのに何故こんなことを思ってしまうんだろう。


「どれどれ」


ひょいっと俺のデジカメをのぞきこんでくる栞。俺のすぐ前に栞の明るい茶色の髪が迫り、その香りに胸がくすぐられる。


「『ナミカゼ』の写真に似てるね。柚香さんもこの場所に来てここから写真を撮ったのかもね」


なるほど確かに栞の言う通りかもしれない。俺が四国に来たいと思ったきっかけになった一枚の写真。その写真を俺は今、自分で撮っているという事実に俺は喜びを覚えた。


「ていうかさ、さっきも思ったんだけど一、写真撮るの上手いよね」

「そ……そうかな?」


昔は電車の写真を撮っていたりしたこともあったが、最近はカメラを手にすることもなく今回の一人旅で久しぶりにデジカメを引っ張り出してきた程だ。正直言って自信はない。


「高松駅で撮ってくれた写真、あれも気に入ってるよ。だから……」


栞はわざとらしく頭を下げ、その手の先にはデジカメがこれみよがしに置かれている。


「写真撮ってください!」


初めからこれが狙いだったのか……。でも悪い気はしない。俺は栞からデジカメを受け取った。


「はい、チーズ」


栞は満面の笑みでピースを前に突き出す。さっきとった時も思ったが、栞は写真写りがいい。栞は俺が写真を撮るのが上手いと言っていたが、被写体がいいとも言えるかもしれない。


「お、いいねぇ。一も撮ろうか?」

「ん、俺はいいよ」


栞はカメラを受け取る素振りを見せたが、俺はやんわりと断った。写真を撮るのは好きだが、撮られるのはどうも好きじゃない。


「あのー」


遠慮がちに聞こえてきた声に俺と栞はほぼ同時に振り返る。そこには先程、エレベーターに駆け込んできた女性が立っていた。


「良かったらお二人で写真撮られます? 私撮りますよ?」


両手でカメラのポーズを作っている女性の厚意は有難いが、ここは断る以外に選択肢がない。一人でも苦手なのに、それが二人となると……。考えるだけで身震いがする。


「いや結構……」

「本当ですか! お願いします!」


俺の声と体を遮って、栞はグイッと前に出てその女性にカメラを渡す、その女性は嫌な顔一つ見せずにカメラを受け取った。栞は俺の横にスッと立つ。


「もっと二人近付いてー!」


女性の言葉に栞は俺の方に体を寄せる。もう10センチも近付けば栞とくっついてしまう。その距離感に耐え切れずに俺は栞から体を離した。


「一!」

「30センチ! それが最大の譲歩だ」


栞はその境界線に納得したのかそれ以上俺に近付くことはなかった。女性も一瞬困惑したような顔を浮かべたが、すぐに笑顔に戻りカメラを構える。


「二人ともいきますよー!」


カシャっと小さく音が鳴る。俺と栞の初めてのツーショットはとても恋人同士には見えない隙間が特徴的な一枚になった。


「ありがとうございました」

「彼氏さん随分シャイな方なんですね」


女性はクスクス笑いながらにカメラを渡す。


「いや、私達付き合ってないですよ」

「嘘!?」


栞の言葉にその女性は反射的に口を手を当てる。相当驚いているんだろう。


「じゃあもしかして私余計なことしちゃいましたか?」

「私はとてもありがたかったですよ。私は」


私はの部分を強調し、栞は鋭い目線を俺に向ける。そんな目をされても苦手なものは苦手なんだから仕方がないだろう。


「あの、ごめんなさい」

「いや、別にその、嫌だったとかじゃなくて。ただ俺がこういうの苦手なだけで、なんというかその……」


見るからに落ち込んでいるその女性の姿を見て罪悪感を感じてしまった俺はしどろもどろながらその女性に理由を説明する。


「あはは! 一、おろおろし過ぎでしょー! 本当に女の子に慣れてないんだね」


そんな俺の様子の何が面白いのか栞は腹を抱えて笑う。


「あの……じゃあお二人ってどういう関係なんですか?」


遠慮しているのか伏し目でおずおずと尋ねてくる。栞は何も答えずに俺の背中を小さく叩く。俺から説明しろということだろうか。


「5000円で雇った……」


そう言いかけると栞に頭を思い切りたたかれた。


「バカ! そう言うとイヤラシイ意味に聞こえるでしょ? 何でたまたま行きの新幹線で隣り合ったって言えないのよ」


イヤラシイって……。それは栞の早とちりなんじゃないのか……。そう言いたい気持ちをグッと堪える。


「まぁ、そんな感じです。今日知り合ったばっかりなんです」

「そうなんですか!? そう見えない程、息があっててびっくりしました」


息が合っていると言っていいのだろうか。俺と栞は平和に会話が終わることはない。いつも栞に叩かれるか強烈な一言を吐かれて終わるような気がする。


「じゃあ私そろそろ行きますね。何だかんだでお邪魔虫になっちゃいそうですし」


女性はぺこりと頭を下げる。


「待って、あなた名前は?」

「三嶋 彩音。お二人は?」

「私は二宮 栞、こっちのダサい奴は広瀬 一」


なんでこいつは普通に俺のことを紹介できないんだ。


「栞ちゃんに一君だね、次会った時にはもっと素敵なツーショットが撮れるといいね」


三嶋さんは茶目っ気たっぷりにウインクを残し、俺達に背を向けてエレベーターに続く道を歩み始めた。


「栞、どうして名前を聞いたんだ?」


今までマリンライナーであった親子、蕎麦屋のおばさん。今まで栞は名前を聞くことはしなかった。何故、今回の人は聞いたんだろう。


「企業秘密」

「はぁー?」

「言うと、笑うからヤダ」

「何だよ笑うって」


珍しく栞は俺と視線を逸らす。いつものような笑顔ではなく、ちょっと困ったような顏。言いたいけれど、言えないような……。


「まぁ一期一会の出会いだし言ってもいいのかな」


でも話したくてしょうがないような顔を栞は浮かべていた。


「私ね」


栞はスゥッと大きく息を吸い込む。俺から目を背け、栞は眼下に広がる瀬戸内海をただ見つめている。潮風は栞の肩までの短い茶髪を揺らしていく。栞が手すりを力強く握り、小さく呟いた。


「将来小説家になりたいの」


そう宣言する栞の言葉は凛と澄んでいた。きっと、本気の夢だろう。

今のご時世には珍しい夢かもしれない。今まで俺があってきた人の中に、漫画家を志望している人はいても小説家になりたいと言っていた人は記憶にない。だけど、それが三嶋さんにだけ名前を聞いた話にどう繋がってくるんだろう。


俺は静かに栞が口を開くのを待った。だが、栞はいつまでも澄んだ青い海を見つめている。いつまでも勿体ぶる気なのか。


「それで?」

「え?」

「だから、小説家になりたい夢は分かったけどそれがさっきの答えにどう絡んでくるんだよ」


中々口を割らない栞に痺れを切らした俺は、栞を問い詰める。栞はようやく顔をこちらに向けたかと思うとまじまじと俺の顔を見始める。


「な、なんだよ。またからかう気かよ」

「笑わないの? 小説家になるってことを?」

「どこに笑う要素があるんだよ。大体栞、文系だろ?」

「分かってない! 一は分かってないんだよ」


至近距離で大きな声を出されたので耳はキンキン響く。栞は俺に人差し指を突きつける。


「なろうと思ってなれる職業じゃないんだよ! 小説家って! ほんの一握りの人しか……なれないんだよ。大学卒業後に4年バイトしてようやく芽が出る人もいれば、30過ぎてもまだどこの賞にも引っかからなかったり、そんなのザラにあるんだよ。だから……親にも友達にも冗談だと思われたり、やめときなって忠告されることもあるんだよ!」


「だから、それが何だっていうんだよ」

「アンタ今の話聞いてたの? どれくらい小説家になるのが難しいのか……」

「難しいのは分かったけど、だから何でそれで笑うんだよ」


あれだけ理系のオタクを毛嫌いしていた栞が、今はあれこれ難癖をつけて考えを否定している。しかも他人のではなく自分の考えをだ。


「俺からすれば夢があるお前の方が羨ましいよ」


この旅行に来るまで俺は、ただ大学で講義を聞いて、お金の使い道も考えないままバイトをして、野球の結果をチェックしてから寝る。そんな毎日の繰り返しだった。何となく毎日を過ごしていく。夢は何?って聞かれても、いつも困ってしまっている。そんな自分がいた。


「それで、いいから理由を早く……いてっ!」


突如飛んできた額の衝撃に俺は思わず額を撫でた。栞が俺の額を指ではじいたのだ。


「何する……」

「お前って呼ばれるの嫌いってさっきも言ったでしょー。それに」


栞は左腕にしているピンク色の時計を指で示す。針はもう14時を示していた。


「もう行かないと特急乗り遅れちゃう。理由は特急の中で話してあげる」


先程から話が引き伸ばされていてばかりで、まるで週刊雑誌の漫画がいい場面で終わってしまった時の気分だ。とはいえ、ここでしつこく引き下がって特急に乗り遅れようものなら栞に何を言われるか分からない。ここは行くしかないだろう。


「後さ」

「ん?」


栞は頬をポリポリとかきながらばつが悪そうに視線を泳がせている。長時間日を浴びていたせいか汗が滲み、頬はうっすら赤く染まっていた。


「ありがとう。一、いい奴だね」


出会ってから初めて見る栞の仕草に俺は戸惑ってしまう。


「ほら! 行くよ!」

「あ、おい!」


駆け出した栞の後を俺は慌てて追いかける。本当に行動が読めない奴だ。きっと栞を主人公にした小説を書いたら読者はクライマックスまで飽きないだろう。


だけどそんな栞のおかげで今の今まで旅行を楽しめているのも事実だ。特急に乗ってしまえば、香川県から離れ愛媛県に向かうことになる。


「栞、ちょっと待って」


なんだか急に名残惜しくなった俺は、最後に瀬戸内海を一枚写真に収めた。どこまでも続いている青空と、限りなく澄み渡る海のコントラストがたまらない今日1番のベストショットになった。



高松駅のロッカーからスーツケースを取り出してホームまで駆け足で向かう。既に乗る予定だった特急いしづちはホームに到着していた。


「栞、写真撮る時間ある?」

「じゃあ私の分まで撮っといて! 私は座席取っとくから!」


栞は俺の返事も聞かないまま特急いしづちに飛び乗った。俺は写真を2,3枚撮ってから栞の後を追った。


「一、こっちこっち」


栞は俺を手で招くとそのまま窓側の席を譲ってくれた。このまま特急いしづちに乗って松山駅を目指す。2時間30分という時間も景色を眺めていればすぐだろう。栞はあたりをきょろきょろと見まわして、メモ帳に何やらを書き込み始める。今日、何回か見かける行動だ。


「栞、何書いてるんだ?」

「小説のネタ」


今まで拒まれてきたのに、栞はあっさり答えてくれる。そのまま手のひらを返し、俺に書いてある内容を惜しげもなく見せびらかした。


・女の経験がないとウインクをしただけでどきまぎする。

・初めての一人旅にわくわくする一(ウブ)

・マリンライナーは瀬戸大橋を渡る時は速度を落とす。

・間接キスも恥ずかしくて出来ない一(笑)

・二次元の女の子がタイプの一(きもい)

・恋人の聖地

・ウインクでどきどき(二回目)(笑)

・彩音との再会(したらドラマチック)


女子特有の丸っこい文字で箇条書きで綴られた項目を見て俺は唖然とした。


「半分くらいおれの悪口じゃねーか!」

「それだけ特徴的ってことだよ! 誇りに思いなさい」

「ネタ帳っていうより感想をただ書いただけだろ……」


ふてくされながらも俺はメモ帳の1番下の項目に目が留まる。


「彩音との再会って?」

「偶然会った年が近い女の子とまた再会するなんていかにも小説でありそうじゃない? だから名前聞いたんだ」

「それならマリンライナーの親子だって」

「分かってないなー一は。彩音とだったら一と恋に発展する可能性ある……かもしれないじゃ……ない?」


てへっと舌を出しても、途切れ途切れ半信半疑で口にしたら「そんなこと100%あるはずない」と言われてるみたいじゃないか。


「ほら! 動き出したよ! 一!」


話を強引に変えることが狙いなのか、一はわざとらしくはしゃいだ声を出す。心に負った傷は消えそうにないが、それでも新しい県への出発に俺の心は躍ったのだった。


「じゃあ今までも栞は小説とか書いてたのか?」

「小説って呼べるほど大層なものじゃないけど、ネットとかで公開はしてるよ」


俺は小説と聞いて原稿用紙をとっさに想像してしまったが、このご時世ではネットという便利なものがあることを思い出した。


「じゃあ色んな人に読んでもらえるのか」

「私なんて全然だよ。でも読んでくれてる人も少なからずいるからメッセージとかもらえると本当に嬉しいよ」


照れ臭そうに頬をかく栞を見ると俺は作品を書いたことなんてないけれど不特定の人に読んでもらえる機会が出来たのはいいことだと思う。


「栞はどんな作品書くんだ?」

「……え?」

「いや、だから小説って色んなジャンルがあるだろ? 恋愛、スポーツ、推理、ファンタジー、冒険……。栞はどんな作品なのかなーって」

「え、いやー、それは……その、あれだよ、アレ」


栞は歯切れ悪く言葉を紡ぐ。


「あれってなんだよ」

「だから……その……れ、れ」

「何だって?」

「恋愛だよ! このバカぁ!」


突然の大きな声に俺は驚いて座席から飛び上がりそうになる。


「なんで急に大きな声出すんだよ!」

「だって恥ずかしいじゃん……。恋愛小説書いてるなんて……」

「栞、一応女だし、そんなことないと思うけど……」


今は男が恋愛小説を書くことも多く、この前劇場で公開され一大ブームとなった作品も原作は男の人だったと記憶している。女の人が恋愛小説を書くのは変ではなく、むしろ普通のことに思えてしまう。


「一」

「は、はい」


一気に栞の声のトーンが下がる。俺はまた何か悪いことを言ってしまったのかと身構える。


「一応とはなによー! これでも私立派に女の子してるんだから! 何、パンツスタイルが悪いの? ミニスカでも履こうものなら目のやり場に困ってしどろもどろする癖に生意気なー!!」


そ、そこに食いつくのかよ! 予想もしていなかったところに食いつかれ俺はうろたえる。


「ふーん、覚えてなさいよ一。明日は少し露出しちゃうんだから。ドキドキさせてあげるから覚悟しなさい」


腕を組んで不敵に笑う栞を見て、俺は喜んでいいのか困るべきなのか良くわからなくなる。だが、それ以前に俺は引っかかる言葉があった。


「明日も、一緒に回ってくれるのか?」

「……へ?」

「いや、今栞明日って言っただろ? 確か5000円は今日だけのはずだよな?」


「……そっか、そうだよね。明日はお互いが一人旅に戻るんだもんね。残念だよ、私の白い肌を見せつけられなくて」


栞はニッと笑い、またもや何かをメモ帳に書きとめる。


今日で終わり、か。自分で言っておいて寂しがるのもどうかと思うが心の中に気持ち悪い淀みがたまっていくのを感じた。だけど栞も一人旅の予定で来たんだ。今日だって本当は回りたくても回れない場所があったのかもしれない。そう思うととても明日も一緒に回りたいなんて、言えるわけがなかった。


「……じゃあさ、色々と話していい? 私の夢のこと」

「聞く相手は俺でいいのか?」

「何言ってんの。こういう一期一会の相手にだからこそ、話せるもんだよ。自分の夢って」


そう言う栞の顔にさっきのような遠慮やためらいは一切見られない。話したくて仕方ないような顔をしている。初めておもちゃを与えられたような子供のような眩しさ。俺にはそれが羨ましい。


「初めて小説家になろうと思ったのは、高校生の頃なんだ。ほら、私達の世代って携帯小説ブームのど真ん中だったでしょ?」


俺もそれはよく覚えている。高校時代、クラスの女子達が授業中にも関わらず下を向いて携帯を凝視していたからだ。人づてに聞いて、初めて携帯小説を読んでいたのだと聞いた。当時、俺が好きだった子も

目を腫らしながら「超泣ける」と言っているのを見て、スッと気持ちが冷めてしまったのもいい思い出だ。


「そこで私も書いてみたの。そしたら処女作だって言うのに色んな意見貰っちゃってさ。感動したとか、面白かったとか。それがさ、すっごく嬉しかったんだ」


「意見ってことは、批判とかもあったのか?」


「それはあったよ。文章力がないとか、何々のパクリだとかいう意見もさ。そういう意見には落ち込んじゃったりもしたけど、それもまた嬉しかったなぁ。自分の作品が色んな人に影響を与えているんだなぁって。素直に思ったの」


栞は詰まらすことなく俺に言葉投げかけてくる。きっと今までため込んでた重いというのもあるんだろう。栞と過ごせる時間は残り少ないし、しっかり聞いてやろう。俺は強く自分に言い聞かせた。


「でね、実際の友達も読んでくれてたりしたんだよ。お世辞でも読んでて面白かったって言われるとさ、お世辞でもなく天にも昇る気持ちになったんだよ。もうすぐ次の作品を書いたんだ」


「その次の作品はどうだったんだ?」


俺が聞くと栞は静かに首を横に振る。俺はまずいことを聞いてしまったかと一瞬思ったが、瞳が輝いているままの栞を見てホッと胸をなでおろす。


「ぜーんぜんだめ。半分以下の閲覧数におちちゃったんだ。変に泣かせようとか考えたのが駄目だったのかもしれない。ありのままに、自分の書きたいものを書く方がいいってさ、書き終わってから気付いたんだよ」

「ありのまま……ね」

「そ、だから一も思ったことはすぐ言っちゃったほうがいいよ。考えすぎると一は動けないからね」


余計なお世話だと言いたかったが、俺には思い当たる節があったので変に言い返せない。俺がさっき思った気持ち。もう、栞に明日は会えないと分かった時に胸をよぎったあの気持ち。認めたくないが、その気持ちの答えは既に出ている。


けれど、言うのが怖いに過ぎないんだ。


「俺は栞ほど単純じゃないんだよ」

「はぁー? 人がせっかくいいこと言ってるのに一は本当に素直になれない奴だね」

「……いいから続き、話せよ」


この話を続けるのはまずいと判断した俺は栞に話の続きを促した。栞は水を一口含んでからまた口を開く。


「その後、自分の書きたいように書いた話に離れちゃった読者もいたけど、すごく熱心に読み続けてくれた読者もいたの。詩音さんの作品は今まで読んできた作品の中で一番です、って。照れちゃうよね」

「シオン?」


突然出てきた謎の名前に困惑して聞き返すと、栞はしまったと言わんばかりに口元を手で覆う。


「シオンってなんだよ?」

「……私のペンネーム。流石に本名はまずいと思って、"しおり"と語感に近い名前にしたの。まぁ、しおる、しおれ、しおろ、しおんって感じですぐ決まったんだけど」


微かに頬の赤い栞を見るに、ペンネームというのは人に知られるのは恥ずかしい物なんだろう。ネットでいうチャットネームのような感じだろうと俺は推測した。栞の裏の顔を覗けた気がして、俺は少し嬉しかった。


その時俺のポケットのスマホが珍しく振動した。どうせメルマガだろうと思っていたが、表示された名前を見て俺は少し驚く。


『広瀬さん、四国旅行はどうですか? こっちは広瀬さんの穴を皆で"一生懸命"埋めてます! なのでお土産にはお菓子だけじゃなくご当地グッズもお願いします!』


差出人は最近入ってきたばかりの前沢さんだった。俺より歳が一つ下の女の子で中々可愛く、こんな俺にも優しくしてくれる数少ない女の子だ。


「鼻の下でも伸ばして何よ? 女の子からメールでも来たの?」


栞の話を途中で切ってしまったからか、栞はどこか面白くなさそうな声で聴いてくる。俺が首を縦に動かすと栞は大げさに座席からずり落ちた。


「は、一に女の子からメール来るなんて大雨が来るんじゃないの? やだ……不吉」

「失礼な奴だな!」


自分でそう言いながらも栞の言う通りこれは相当珍しいことだ。女の子はおろか男からもあまりメールが来ることなどないというのに。だが俺は本文をもう一度読み、その真意を思い知る。


「お土産の催促だよ。お菓子だけじゃなくてご当地グッズ欲しいみたいだ。香川はもう無理だとして、愛媛、高知、徳島に何かあるといいけど……」

「なら、愛媛県にいいグッズがあるよ」


栞は小さなカバンからお馴染みのしおりを取り出す。オレンジ色のインデックスに手をかけ広げると、そこにはひよこのような黄色いキャラクターの姿があった。


「愛媛県今治市のゆるキャラ、バリィさんだよ」

「ほー、結構可愛いな」

「今治タオルとか買ってあげたら喜ぶかもよ? 今治ってタオルが有名だから」


確かにタオルだと、中井さんが使わなくてもその家族に重宝してもらえるかもしれないし丁度いいかもしれない。俺は「分かった。きっと喜んでもらえるもの買って帰るよ」とだけ返信し、スマホをポケットにしまう。


「栞、ごめんな。話の腰折っちゃって」

「……まだ聞いてくれるの?」

「人の夢の話聞くの、なんか好きだ」


夢を語る人は本当に輝いている。俺もその輝きを受け、自分の夢を見つけたい。刺激をもらいたい。そんな気持ちだった。だから純粋に、栞の話を聞きたいと思った。


「……やっぱり一、いい奴だね」

「褒めても何も出ないぞ」

「ちぇっ」

「あのな!」


気付けば栞とも男友達以上に普通に話せてしまっている。俺はこんなにも長い時間女の子と話したことはない。女の子と話すのが苦手な俺がこうも楽な気持ちで会話が出来るのも、日常を飛び出した旅の解放感からくるもののおかげかもしれない。俺は、ポケットのスマホが振動するのも気にせずに、栞が話し始めるのを待った。


「ここから先の話は、場所を変えて話そう? そんなこんなでさ、ほら」


栞は自分のスマホの地図アプリを起動し、現在位置を表示させる。


「なんともう愛媛県に入ってるんです」


現在位置を示している赤い点は確かに香川県を離れ、愛媛県の西條付近を左に左に移動している。


「何か実感湧かないな」


俺がそう感じるのは香川県に入る時にマリンライナーを用いたからかもしれない。今回は栞の話を夢中になって聞いていたらいつの間にか、という感じだったので正直自分が今愛媛県にいるということが信じられないのだ。


「なーに、松山の駅に着いたらすぐに実感が湧くと思うよ」

「松山駅にみかんでも置いてあるのか」

「ふふ、さっき話したバリィさんの置物がでっぷりと置いてあるからだよ。そこでも写真撮ってね」


栞はしおりをめくるとバリィさんのページを再び見せつける。もしかしたら栞もバリィさんのことが好きなのかもしれない。


「一、晩御飯は一緒に食べるよね?」

「……え、あ、ああ」

「そこでさ、お酒でも飲みながらゆっくり私の夢物語に付き合ってよ」


栞はそれだけ言うと小さく欠伸をして目をこする。


「話しすぎちゃって疲れちゃった。松山駅の直前になったら起こしてくれない?」


本当は俺も慣れない早起きと新幹線での移動で若干の眠気があったのだが栞に言われたら断れない。よくよく考えれば栞は女の子だし、昼には暑さでへばっていた。女の子に慣れていない俺でもここで取るべき行動の答えは導き出せる。


「分かったよ」

「ありがとう、後、何か気にかかることがあったらこのメモ帳に書いておいて」


栞に渡されたのは小説のネタ帳だった。俺に預けてくれるということは少しは信頼されてきたのだろうか。


「書くと言っても何を……」


書くんだよ。そう言おうとしたが途中で言葉をつぐむ。栞は目を閉じて小さく寝息を立てる。女の子の寝顔を見るのは初めてで、あんなにも騒がしい栞が静かに寝ているのがなんだか不思議だった。


"じゃじゃ馬も寝ると静かでかわいい"


と書き込んでやろうかと思ったが、流石に栞に叩かれる。だけど、やられっぱなしも癪に障る。俺は一瞬考えた後、一番最後のページにこっそり書き込むことを決めた。パラパラとページをめくり、最後のページを開く。さぁ書き込んでやろうと意気込んだが、そこには既に言葉が書き込まれていた。


"零れ落ちた星の砂

イタズラな風に吹かれ夜に舞う

憧れていた夜空に

もう帰れない"


これは何だろうか。栞は柚香さんのファンだったし、柚香さんの詩かもしれない。ただ、この詩は静かな海辺を想像させる。一体、栞は何を思い、この詩を書いたのだろう。


問い質したいことだったが、じゃじゃ馬は夢の世界を旅行している。答えを聞くことは出来ない。大体ガイドが先に寝るなんてありかよ。


「……こりゃ明日もガイド、残業だな」


起きていたら決して言えない言葉と本音が俺の口からするりと洩れた。

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