3.旅の醍醐味、温泉と郷土料理の時間です
みかんの香りを含んだタオルが私の肌を撫でていく。うん、いい香り。道後温泉の受付で買ったみかん石鹸は想像以上にいい物だった。今日1日の疲れも一緒に流せそう。そんな気がする。でも、自分が思っていたよりもまだまだ体は元気だ。それには勿論理由がある。
私が一人旅の時に寝ちゃうなんてなぁ。
シャワーで泡を流しながら私は苦笑する。今まではこんなことなかった。そもそも、一人旅の最中に、まさか他の男と一緒に観光することになるなんて思いもしなかった。小説の話だとしても出来過ぎた設定だ。でも、隣り合わせたのが爽やかイケメンじゃなくて、理系のオタク君というところに現実味を感じて私は好きだ。
本当にむかつくことに一とは趣味が合う。生き別れた兄妹なんじゃないかって思う程に音楽の好みも、物の好みも良く似ている。悔しいけど、認めたくないけど、楽しんでしまっている自分がいる。
いや、旅行なんだから楽しみに思わなくちゃ失礼なんだけどさ。それにしても二週間前に正樹と別れたばかりなのに、もう別の男と二人で旅行をしているだなんて、尻の軽い女と思われても仕方ないのかもしれない。
いい女には恋が尽きないってことだよね、うん。そこまで考えて私ははたと思考が止まる。……恋が尽きないってどういうことよ。一に好きって感情があるってこと? ないないない。私は大きく首を振る。隣の人、お湯が飛んじゃったらごめんなさい。
あんなアニメの女の子をぶらさげている男に私が惚れるわけがない。それにきっと一も私のことそんなに好きじゃないのは私が痛いほどわかっている。
きっと一は私みたいな自由奔放で、思ったことを何でも言って、人をすぐ茶化しちゃう女の子はタイプじゃないだろう。きっと一歩下がって付いてきてくれる女の子がタイプなはずだ。
泡を流し終え、お湯を止める。愛媛県とはいえ、流石にシャワーのお湯まではみかんではない。
さて、待望の道後温泉につかりますか。
足から温泉に浸かっていくと、親父みたいな声が出そうになる。だけど私は華の二十才。こらえなくてはいけない。一気に肩まで浸かり、ふぅっと大きく息を吐き出す。
やばい、超気持ちいい……。なんで温泉ってこんなに気持ちいいんだろう。ポカポカしたお湯が私を大きく、優しく包んでくれる。旅の醍醐味といったらやっぱり温泉だよね。そんなことを考えている時だった。
「んっ……あぁー……気持ちいい」
さっき私が必死でこらえていた声が、隣から聞こえた。思わず横を見ると顔を赤くしている黒髪の女性と目が合う。その顔を見て私達は同時に指をさす。
「彩音!」
「栞ちゃん!」
また一と出会えると面白い。そんなことを思っていたけどまさか私が道後温泉で再会するとは思わなかった。
「また会えたね、嬉しい」
私はちらっと彩音の体のラインを覗く。悔しいけどモデルみたいに出るところは出てて、キュッとしているところはキュッとしている。羨ましくなるので胸は見ないことにした。私だってまだ二十才。これから発育していくんだから。
「彩音も一人で旅に来てるの?」
「そうそう。ちょっと考え事したくなっちゃってさ。埼玉を飛び出してきちゃったよ」
「考え事?」
「うん、進路と彼氏のことで、ちょっとね」
あー、やっぱり彩音、彼氏いるんだ。こんな体を独り占めしている彼氏が羨ましい。って私はなんてことを考えているんだろう。
「何か複雑そうな話ね」
「もし栞ちゃんがいいなら聞いてくれる?」
「私が聞いてもいいの?」
彩音はこくりと頷く。どうしよう。私一人だったら全然聞くんだけど、一を待たしちゃうかもしれない。
「私達がのぼせないくらいに話はまとめるよ」
「あはは、じゃあ聞かせて」
私の心配を見透かしているように彩音は笑う。ちょっと恥ずかしかったけど私も彩音の話には興味があったので話を聞くことにした。
「私ね、大学4年生でさ。ずっと就活やってたの。それでさ、この前やっと内定でたんだ」
「そうなんだ! おめでとう!」
就活という言葉に私は内心ちくりとする。今はまだ大学2年生。だけど2年後には彩音みたいに就活をすることになるんだろうか。正直、自分の進む道なんてわからない。いや、認めたくないだけなのかもしれない。
「ありがとう、でもね。福岡の支店に配属にされるかもしれないって人事の人に言われちゃってさ。それでさ、悩んでる」
「福岡に行くのがいやってこと?」
「一人だったら全然いいんだけどね。本当に私、子供みたい」
彩音の言い方で何となく私は察した。今の話がさっきの「進路と彼氏で悩んでいる」という言葉に繋がっているんだろう。
「彼氏には言ったの?」
「言ったよ。もらえた言葉は『そっか、頑張れよ』だけ。私と離れても何とも思わないの?って感じだよ」
私も彩音と全く同じことを思った。きっと私ならそんなことを言われようものならビンタの二発や三発浴びせてやるかもしれない。
「仕事はね、ずっと私がやりたかったことなの。でも……さ、あぁ、もう、なんでこんな事なんかで迷っちゃうんだろう!」
濡れた髪をかきむしる彩音。今は私に気を使って明るく話してくれているけど、きっと物凄く葛藤してるんだろうな。自分のやりたいことと大切な人。それを天秤にかけないといけないなんて。
「でも福岡に行っても遠距離恋愛で続ければいいんじゃない?」
「そうなんだけどさ、ずーっと一緒にいたから想像つかなくて。実(みのる)のいない私なんて」
実というのは彼氏のことに違いない。でもなんだか楽しいな。私より学年が二個上なのに話していることは私の友達よりも甘い恋の話。人の暮らしには必ず恋愛が絡んでくる。だから私は色々な形の恋愛を書いている。
そんな私だからこそ、気にかかる言葉があった。
「彩音さ、悩むことを恥ずかしいって思ってない?」
私の言葉に彩音は肩をびくっと震わせる。やっぱり図星だったんだね。
「恋愛と仕事で本気で悩んでる自分がだらしなくて情けない。彩音はそんなことを考えてるの?」
「栞ちゃんは、なんでそう思うの?」
「"こんなこと"って言ってたから」
恋愛小説作家の私としては聞き逃せない言葉。
「どうして、恋愛のことをこんなことって言うの? 私は素敵なことだと思うよ、恋愛って。仕事と同じくらい、同等の物って考えてもいいと思う」
「私22歳だよ?」
「恋愛に年齢なんて関係ないじゃん。小学生だって、おばあちゃんだってきっと誰かに恋してる。皆が平等に楽しめる権利だよ、恋愛って」
旅先からなのか、一期一会だからなのか。それとも温泉で気持ちがほぐれたからなのか。いつもは筆先で紡いでいた文字たちが淀みなく私の口から言葉となってこぼれてくる。
「それに、それだけ悩んでるってことは、それだけ大切に想っているってことだよ。実君のこと」
「……栞ちゃんが実のこと名前で呼ぶだけで嫉妬しちゃうのも恥ずかしくないことなの?」
ぷくっと頬を膨らませる彩音。きっと一みたいなオタク君にやったら効果抜群だ。頬が赤いのは勿論温泉に浸かっているからだけじゃない。
「うん。素敵なことだよ。だからたくさん悩んで自分が納得のいく答えをだしなよ。話だったら何でも聞く。アドバイスだって私に出来るならする。でもさ、自分の答えは自分にしか出せないんだよ」
「……ありがとう、栞ちゃん。お蔭で答えを導く光明がほんの少しだけ差し込んだよ」
「私は何もしてないよ」
「とりあえずさ、私が実のことが大好きってことは素直に認めてあげることにした」
うんうん、恋する乙女の顔になってるじゃん。あぁ、たまらない。早く何かに書き留めておきたい。この顔を、気持ちを。ここが温泉でなければ、すぐに紙とメモが出て来るのに……。
「栞ちゃん、じゃあ私もう上がるね」
「あれ、晩御飯一緒に食べようと思ってたんだけど」
「なんか声聞きたくなっちゃって。また絶対あえるからそしたらその時一緒にご飯食べよう」
絶対あえる。不思議と私もそんな気がした。
「それに彼氏君との時間を邪魔するわけにもいかないじゃない?」
だ、誰が誰の彼氏ですって! 私は憤慨する。
「なんで一が彼氏なのよっ!」
「あれ? 私一言も彼氏が一君なんて言ってないんだけどなぁ」
ニヤニヤ笑っているところが年上の余裕を感じさせる。悔しい、さっきまであんなにメソメソしてたのに。それにこの私が嵌められたことが一番むかつく。
「じゃあね、栞ちゃん。素敵な夜を~」
「彩音っ!」
言いたいだけ言って彩音は扉をくぐって脱衣場へと消えてしまった。私の拳はわなわなと震えている。湯冷めではない。悔しさと怒りを私の体は感じているんだ。
このまま出ていくときっと一に八つ当たりをしてしまうだろう。それだけは避けたい。私は大きく息を吐いてから再び肩まで浸かる。絹のように柔らかい温もりと、ほんのり薫るみかんの香りがやさしく私を包み込んだ。
*
女性の風呂は長いと聞いていたが、どうやら本当のようだ。もう俺が温泉から出て20分が経とうとしている。道後温泉は多くの観光客が利用しており、さっきから幾重の人が俺の前を通り過ぎる。
その時、ガラッという音と共に女湯の扉があいた。やっと出てきたかと思い頭を向けたが、残念ながら栞ではなかった。しかし、気のせいかどこかでみた女性だった。
「一君」
胸の前で手を振られ、俺は驚く。じっと見てみるとそれはシンボルタワーで出会った三嶋さんだった。
「こ、こんばんは」
「栞ちゃんならもうすぐ出てくると思うよ」
三嶋さんは温泉上がりでご機嫌な様で、鼻歌交じりで財布を取出し、自販機でコーヒー牛乳のボタンを押す。ふたを外し、俺の隣に腰を下ろすと半分ぐらいまで喉に流し込む。その姿を見ると俺も飲んでしまいたくなったが、ぐっとこらえる。
「ぷはーっ、温泉上がりの牛乳は最高だね! 一君ももう飲んだ?」
「いや、飲んでないです……」
「えっ!? なんで飲んでないの!? 飲まないと勿体ないよー」
三嶋さんは信じられないと言いたげなまなざしを俺に向けてくる。俺自身、出た直後はすぐに牛乳を買おうとしたのも事実だ。でも、指がボタンを押すのを躊躇してしまったのだ。
「いや、それは、その」
「お金ないなら貸してあげるよ?」
三嶋さんは小銭入れからお金を取り出そうとしている。
「違うんです! どうせなら栞と一緒に飲もうと思ったんです」
しまったと思ってももう遅い。慌ててついつい口を滑らせてしまった。三嶋さんはニコッと笑い、コーヒー牛乳を一気に喉に流し込んだ。
「なるほどねぇ。うんうん、青いねぇ。私もいろいろと思いだしちゃうなぁ」
「いや、今のは……」
「一君、栞ちゃんのこと大事にしないと駄目だよ? また会える時を楽しみにしてるよー」
肩を軽く叩かれ、三嶋さんは建物の外へと出ていってしまった。結局弁解する暇もなかった。ったく、栞の奴、さっさと来いっての。
「お待たせ」
そんな俺の願いが通じたのか、栞は女湯から姿を現し、そのまま俺の隣に腰を下ろした。
髪が濡れている栞はどこか色っぽく見え、その髪からはほのかにみかんの香りがした。女の子の湯上り姿を見るのも初めてなのでどぎまぎしてしまう。
「なにじろじろ見てんのよ、気持ち悪い」
だが、中身は今までの栞と一緒だったので少し安心した。栞はそのままがまぐち財布から小銭を取出し牛乳のボタンに指を伸ばした。やっぱり、栞も温泉上がりには牛乳を飲むんだな。
栞が嬉しそうに牛乳を取り出し終わった後、俺も続けて牛乳のボタンを押した。
「一、二本も飲むの? おなか壊さないでよね」
「ちげーよ。まだ一本目」
牛乳を取出し、さぁ飲もうと蓋に手をかけたところで栞にその手を抑えられる。体の芯まで温まったせいかその手は火照りを帯びている。
「もしかして待っててくれたの?」
「後で栞が飲んでるのを見てると飲みたくなるだろうと思ってたから待ってただけだ」
「……あっそ。じゃあ、乾杯」
牛乳瓶をくっつけて乾杯とした後、俺と栞は一気に牛乳を飲み干す。
「ぷはーっ! やっぱこの一杯に限るね!」
「すげーな、一瞬で飲み干したよ」
「一気に飲むからいいんじゃん。それに一も一気じゃん」
男と女は違うんじゃないか? 俺はそう思ったが言わないことにした。『なによ、私が男みたいって言いたいわけ?』と突っかかられても困るからな。
「一、晩御飯食べる前に折角だし少し街並みを散歩しよう。ホテルに荷物も置いて身軽になったことだしね」
栞の言葉に俺は頷いた。道後温泉に来る前の温泉街には様々な店が出ていた。怪しいキャラクターグッズを売っている店、タオルを売っている店、バリィさんの店……。覗いてみたいと思っていたところだ。
「よし、じゃあ行くよ、一。迷子にならないでね」
「誰がなるかよ」
「荷物もないことだし、いざとなったら手を繋ごうね」
「は!? 手……!?」
栞と手を繋ぐ……? そんなことをしたらカップルみたいになってしまう。それ以前に女の子と手を繋いだことのない俺がそんなこと出来るはずがない。
「冗談だっての。それに一と手を繋いだらまた温泉に入らないといけなくなっちゃうじゃない」
「あのな!」
「ごめんごめん。ほら、行くよ?」
相変わらず、俺は栞の掌の上で弄ばれているような気がする。どうすれば俺が主導権を握ることが出来るんだろうか。俺は小さくため息をついた。
昼の時に、肌にじめっとまとわりついてきた風も、日が落ち始めている今はさっと肌を撫でていく。心なしかそれを心地よいと感じてしまう程だ。だからこそ、ストレスなく街並みを眺めることが出来る。栞も先程からペンとノートをせわしなく動かしている。いい作品のネタにつなげることが出来るだろうか。
「あ、みかんジュースだって。飲みたいなぁ」
そう思っていた矢先の言葉に俺はつい突っ込みを入れてしまう。
「さっき牛乳飲んだばっかりだろ。腹壊すんじゃないのか」
「じゃあ半分こしよう。おじさん、これください」
おいおい、半分食べるのは俺なのになんで俺の許可なしに買ってるんだよ。それにジュースを半分こするってことは間接キスになるじゃないか。
「栞、ちょっと待っ……」
「毎度あり!」
なんでこいつはこんなにフットワークが軽いんだ。ええい、栞には酷だけど全部飲んでもらおう。
「お二人さん、もうすぐ18時になるから駅前のからくり時計見に行った方がいいぞ」
「からくり時計?」
「ああ、面白いもんが見れるぞ、きっと」
おじさんの言葉を受けて、栞の顔は傍から見て分かるほど輝きだす。その瞳は好奇心に満ち溢れている。
「一、行くよ!」
とは言っても俺もからくり時計という言葉に強く惹かれている。速足の栞に負けないように俺は歩幅を合わせる。
「後これ」
栞は俺に先程買ったみかんジュースを握らせた。
「何だよこれ」
「一、私が飲んだ後じゃ飲めないでしょ? 先に飲んでいいよ」
有難いと言えば有難い気遣いだが、なんだか自分が情けなく思えてしまう。女性の方からこんな提案を受けているなんて男として駄目な気がする。
「いや、栞飲んでいいよ」
「だから全部はいらないんだって」
「後からもらうから、いい」
「……ふーん」
栞は頬を緩ませて俺からみかんジュースをひったくり、そのまま口に付けた。意識などしたくないのに、目は自然と栞の口元に行ってしまう。ちょうど半分くらいまで飲み干し、俺にまたみかんジュースは戻ってきた。
「しっかり味を堪能してね」
栞の歯が浮くような甘い声に、俺の体温は一気に熱くなる。こいつ絶対わざとやってる。若干の上目づかいも計算の内だろう。わざとだと分かっているのに、たじろいでしまう自分が悔しい。けれど、このジュースの口元にはさっき栞の唇が……。
いや、何を考えているんだ、俺は! これはただのジュース、ジュースなんだ。そう自分に強く言い聞かせ、一気にジュースを流し込んだ。
「おぉー、男らしい飲みっぷり。おいしかった?」
「ん、ま、まぁ、流石愛媛ってとこかな」
「無難な感想だね」
正直なところ味は全然わからなかった。
だけど……。
「いつもよりちょっと甘く感じたとか言ったら青春恋愛小説に使えそうなセリフなのに」
栞は不満そうに唇を尖らせ、メモに何やらを書き込む。その青春恋愛小説に使えそうな感想を抱いたということは秘密にしておこう。俺はそっと口元を拭った。
おじさんが教えてくれた時計台の前には人だかりが出来ていた。皆が視線を上の方へ向けていることからお目当てがからくり時計であることがうかがえる。栞もデジカメを掲げ、照準を合わせている。
その時計の針が19時を指すと、時刻を示していた時計の円盤の部分が回転して女の子の人形が出てくる。それだけでは終わらず、からくり時計本体も上へ上へと背を伸ばし始める。そして引き上げられるように人形が顔を出した。
「凄い……! これは動画で撮らなきゃ」
栞は興奮しているのか若干早口だ。更にからくり時計の側面までもが開き、人形たちが姿を現した。まさかそんなところからも出て来るとは思っていなかったので、驚いた。人形達はそれぞれ自分独自の動きをし、見ている人達を飽きさせない。勿論、俺もその内の一人だ。時間が経ち、お役御免とばかりにからくり時計の中に戻っていく人形達を見送るのを名残惜しいと思ってしまう程だ。
最後に、人形と入れ替わるように時計盤が戻るとからくり細工は停止した。
「思ってたより出てくる人形の種類が多くて楽しかったね」
栞は撮影を終え、今自分が撮った動画を確認しているようだ。満足そうに頷いてるのを見るといいのが撮れたんだろう。
「よしっ、それじゃ一! ご飯食べにいこ!」
「栞、ちょっと待って。俺、バイトの後輩にお土産買っていかないと」
「あー……そうだったね。じゃあちゃっちゃとすませてよね」
栞がせっかくプランを組んでくれているのに、自分の都合で長い時間取らせるわけにはいかない。俺は、このからくり時計を見に来るまでの道中で目星をつけていたお土産さんに入る。今治タオルにバリィさんがプリントされているタオル。これならお土産として文句なしの品になるだろう。
「バリィさん可愛い!」
栞はバリィさんのぬいぐるみに夢中の様で、両手で抱きしめている。やっぱり栞はバリィさんが好きのようだ。
……栞にも何か買ってやるか。そう思った俺は後輩用のピンクのバリィさんタオルのほかに水色のバリィさんタオルを同時にレジに持っていく。しかし会計を済ませた後にハッとする。
俺にこれが渡せるだろうか……。
「一、もう済んだよね? じゃあご飯いこ。私おなかペコペコなの」
大体プレゼントを渡すタイミングっていつなんだ? 今それとなく渡してしまっていいのか? いや、やっぱりムードが最高潮になった時に……。待て、ムードってなんだ?
「一っ!」
耳元で叫ばれ、耳元がキーンと響く。
「ほらっ、行くよ!」
栞はぷりぷりしながら速足気味に道後温泉の駅へと向かっていく。俺も置いて行かれないように着いていくが、頭の中ではいかに栞にプレゼントを渡すかでいっぱいだった。
*
「それではこちら、お先にみかんハイボール二つでございます」
店員の女の人が俺達の前にジョッキ二つを置く。
「お食事もすぐにお持ちいたしますね」
接客のお手本のような笑顔を残して、お姉さんは厨房に引っ込んでいった。
「それじゃ一、今日はお疲れ様ー! かんぱーい!」
栞の音頭に俺はジョッキを栞のグラスと合わせる。そしてその勢いのままみかんハイボールを口に含む。ハイボールの味にほんのりみかんの風味が薫ってくる。キンキンに冷えていることも手伝ってか、喉にスーッと染みていく。
「ぷはーっ、おいしい!」
ダンッと栞は机にジョッキを力強く置く。
「温泉上がりにこれ飲みたかったかもな」
「あーっ、確かに。でも湯上りには牛乳って相場が決まってるもん。仕方ないよ」
「じゃあ牛乳とみかんハイボールが並べてあったらどっちを選ぶ?」
俺が何気なく問いかけてみると、栞は目をつぶり腕を組んでうなり始めた。いや、そこまで真剣に悩む質問なのか? これは?
「一に牛乳飲ませて、私はみかんハイボール。半分飲んだら交換こかな? もう間接キスなら出来るもんね」
間接キス……。その単語に背中から一気にむずがゆさが押し寄せる。
「赤くなっちゃって、本当にウブだね、一は」
「さ、酒のせいだから」
「その割には飲んでないみたいだけど」
ジョッキを比べてみると栞は半分くらいまでみかんハイボールを飲んでいるのに対し、俺は栞の半分ほどしか飲んでいなかった。俺は一気に半分よりも下くらいになるまで流しこんだ。
「おーっ、一、見かけによらずいける口だね? でも無理しちゃだめだよ」
俺は今まで飲み会でも吐いたことはないが、それは俺自身盛り上げ上手のイケメンみたいにアホみたいにアルコールを摂取しないからだ。無理しないように自然とリミッターはかけているつもりだ。
「栞は酒強いのか?」
「んー、まぁハイペースで飲まなければ一が望んでるような状態にはならないかな」
「何だよ、俺が望んでいる状態って?」
「あーそっか一には分かんないか、ホテルに連れ込める状態って言えば分かる?」
ホ、ホテル? こいつは何言ってるんだ!? 俺はたまらず咳込んでしまい、そんな俺を見て栞はけらけら笑う。
「百点満点のリアクションありがとう」
「お、女が変なこと言うな!」
「何言ってるの。三次元の女はもっとエグイこと言ってるわよ。二次元の子くらいよ。可愛いこと言ってくれる女の子は」
俺は思わず水上 零(みずかみれい)のチャームに目を落とす。確かに零は純真で下な話にすると途端に顔が赤くなる。そういうところが俺のツボに入ってくるのだ。
「また二次元の子のこと考えてる?」
「ち、ちげーよ!」
「大体一は……あ、ご飯きたぁ!」
栞が何か言いかけた時に、さっきのお姉さんが料理を運んできてくれた。
俺達のテーブルに置かれたのは、五色そうめんに鯛めしといった愛媛県の郷土料理だ。そうめんは自分でつゆに入れるのではなく、初めから麺とつゆが一緒になっている。とても美味しそうだ。早速、箸をつけようとしたが栞が店員さんを呼び止める。
「おねーさん! みかんハイボール二つ追加!」
俺の許可もなく栞は注文を入れる。別に酒が目の前にあったら口に付けるタイプなのでどっちでもいいのだが一言くらい声をかけてほしい。
毎度おなじみの料理撮影が終わり、俺達は手を合わせる。
「いただきまーす!」
俺はそうめんを口に運ぶ。冷たい触感が喉を伝う。やっぱりそうめんは夏に食べるに限るな。どんどん箸が進んでしまう。栞はお店が用意してくれたたれに鯛を絡ませている。そのまま口に運ぶと、栞は大げさに頬を抑える。
「美味しい! 頬がとろけちゃいそう」
栞の反応に釣られ、俺も鯛を味わうことにした。なるほど、確かに口の中でとろけて消えてしまいそうだった。口が寂しくなったのでみかんハイボールを足してやる。
「一、いいもんでしょ。旅先で美味しいもん食べるのって」
「ああ、こんなおいしい店に連れてきてくれてありがとな」
「何言ってんの。温泉とその土地の料理を味わうのが旅行の醍醐味じゃないの」
栞はそう言いながらもメニューに目を走らせる。
「まだ食べるのかよ」
「言ったじゃない」
栞はほのかに赤い顔で俺を見る。アルコールが回り始めているのかもしれない。
「私の夢の話聞いてくれるんでしょ?」
「ああ、存分に聞くよ」
「ふふっ、たっぷり付き合ってもらうんだから」
栞が笑いながら鯛めしに箸を伸ばそうとしている時、栞のスマホが振動した。栞はさっとスマホを自分の膝の上に引き寄せたので、誰からはおろか、メールか着信かさえ分からなかった。気のせいか栞の顔はひきつっているように見える。
「……大丈夫か?」
「うん、なんでもないから気にしない……」
栞の言葉を遮るようにスマホが一回、二回と再び振動する。
「あーもう、うるさい!」
栞は舌打ちをして、スマホの電源を落としてしまった。
「振られた癖にウジウジとうるさいんだから」
吐き捨てるように言った栞の言葉で俺はなんとなく栞のスマホを震わした相手の想像がついた。
「元彼か?」
「うん、まぁ、そんなとこ。折角の旅行中にかけて来るなって感じ」
自分で元彼と言ったのに、なぜか胸がもやもやする。栞は俺と違って恋愛経験が豊富そうだ。彼氏がいたことがあるなんて当たり前だ。アニメの零とは違う。なのになぜこんなに胸が苦しくなるんだろう。
「まぁ、元彼の話はいいよ。未練なんてサラサラないし。未練があるって言ったら夢の方だよ」
「夢?」
俺が聞き返すと、栞はこくりと頷く。
「いつまで、小説家っていう夢を追いかけていていいんだろうって。さっき彩音と話した時にふと思っちゃった」
「三嶋さんと?」
「彩音、最近まで就活生だったんだって。そんな話をしていたら、"就活"って言葉が急に身近なものに感じられちゃってさ」
就活、か。確かに俺のバイトの先輩も就活を理由にバイトを休むことが増えている。今の内に旅行をしておけと言ってくれた先輩も就活には苦戦している様子だった。
「一は就活のこととか考えてる?」
「……いや、全然。このままパソコン関係の仕事に就くのかって漫然と思ってた」
「私の周りもそうだよ。皆、堅実な仕事に就く、サラリーマンやOLを目指している。勿論、馬鹿にしてるわけじゃないよ」
実際栞の言うとおりだ。俺は勿論、俺の友達も理系の情報学部に籍を置いているからなのか将来はシステムエンジニアを目指す人がほとんどである。その仕事がやりたいからこの大学に入ってきたから当然でもあるが、皆が皆将来のことをどこまで考えてるかが分からない。
「でさ、私はずーっと小説家を目指してていいのかなって。皆が就活で必死になっている中、自分はただただ自己満足の小説を書き進めている。それでいいのかなって。不安になるの」
「自己満足なんて……」
「だってそうじゃない。昼にも言ったけど、ほんの一握りなのよ、小説家になれる人って。ちょっとネットで面白いって言われてその気になってる大学生がなれるわけないじゃない」
栞は語尾荒く吐き捨てると、そのままみかんハイボールを豪快に流し込んだ。その勢いのままメニュー表を開き、みかんサワーを注文する。
「……小説は働きながらでも書けるじゃないか。だからそれこそOLで働きながら書くとか……」
「それも考えたんだけどね。でもね、過去の中途半端な評価がどうしても心に絡みつくの」
「中途半端な評価?」
「私ね、昔、小説の賞に応募して審査員特別賞を取ったことがあるの」
「え、凄いだろそれ!」
過去から今にかけてそのような賞をもらったことのない俺からすれば十分すぎる栄誉だ。それって栞には物を書く才能があるってことじゃ……。しかし、栞はしおらしく首を横に振る。
「形だけの賞だよ、そんなの。きっと応募者の半分くらいに送ってるんじゃないのかな」
「そんなの分からないじゃないかよ。確かめてみれば……」
「電話が来るの。『私、○○社の△△と申しますが、詩音さんですよね。今回応募した『恋愛パラドクス』読ませて頂きました。惜しくも入賞は出来なかったものの、当社で自費出版というのは……』ってね」
栞はお姉さんから運ばれてきたみかんサワーを一口含む。俺もお姉さんにみかんサワーを注文し、再び栞に問いかける。
「自費出版を勧められるだけでも……」
「200万」
「は?」
「私が応募した作品を自費出版する際にかかる費用のこと」
俺は想像していたよりも遥かに多い金額に言葉を失う。本を出すというのはそれ程お金がかかってしまうのか……。
「勿論、私の場合はだけどね。払えるわけないから断ったけど、少しだけ胸の中に本を出したいって気持ちがよぎったのも事実なの」
「栞の夢だもんな」
「うん……。だから次は特別賞なんかじゃなくて入賞するような作品を書きたいって思って頑張って……。変に期待しちゃうからこそ、いつかは小説家になれるって思っちゃうんだよね……」
今にもここから消えてしまいそうな程、儚い笑みをしながら栞はふぅっと小さく息を落とす。柄にもなく栞は落ち込んでいるみたいだ。だけど俺には栞にかける言葉が見つからない。俺は今まで熱を入れて取り組んだことがないからだ。夢に向かってその為に行動を起こしたことなどない。そんな俺からどんな言葉をかけても、栞には届かない気がする。
「だから誰かに引導を渡して欲しいなって。お前は向いてないって。そしたら……私も諦めるんだけどな」
出会ってから一番と言っていい程、弱弱しく見える栞の姿に俺は戸惑いを隠せない。だけど、それだけ悩んでいるんだ。そして、その弱みを自分にさらけ出してくれているんだ。力になりたい。だが人生経験が人並み以下の俺に、栞を励ませるような言葉は用意できない。
「なんて、ごめんね。自分のことなのに一に色々こんなに愚痴っちゃって」
「いや、俺の方こそ、聞くだけになっちゃって……力になれなくてごめんな」
「……聞いてくれるのが嬉しいの。本当に一に会えてよかったよ」
みかんサワーを飲み干し、ニッと笑う頬の赤い栞に言われ、俺の心がざわつく。やっぱり栞の笑顔は俺には凶器だ。こんなにも心が揺れてしまう。
「……ちょっと、すっぴんなんだからそんなに見つめないでよ」
犬を追い払うような仕草で手を払う栞。そういえば温泉に入ったんだから化粧は落ちているのか。今の今まで気づかなかったということはそこまで厚い化粧をしていないのだろう。
「栞、化粧落としてもあんま変わらないじゃねーか」
「それは私が化粧下手ってこと?」
ギロッと栞がにらみを利かせてきたので俺は慌てて否定する。
「違う違う。厚化粧しなくても元のままでも十分ってことだよ」
「え?」
きょとんとした表情を浮かべる栞。アルコールが入っているせいかついつい思ったままのことを言ってしまった。いや、思ったままのことってなんだよ……。あぁ、もう頭がこんがらがってしまいそうだ。
「ありがとう」
栞は目を伏せて、髪を仕切りに触っている。今まで見たことのない栞の仕草だ。もしかして、栞、照れているのか? 俺の言葉に、栞が……?
「ちょ、ちょっと何ニヤニヤしてんのよ! そんな言葉に私が喜ぶはずないでしょ! オタクのくせに調子に乗り過ぎ! お姉さん、みかんハイボール二つ!!」
「おい、お前そんなに飲んで……」
「一が飲むに決まってるでしょー? 私の上に立とうなんて生意気過ぎ」
やっぱり勘違いか。栞に限って俺の言葉に照れるなんてこと、ないよな。いや待てよ、もしかしたら……。
「照れ隠しとか思ってるなら注文倍にする」
「そんなことないです」
そう、そんなことはない。恋愛経験値ゼロの俺が、栞を照れさせるなんてことがあるはずないんだ。
お姉さんがみかんハイボールを俺達のテーブルを運んできてくれる。栞はその内の一つに手を伸ばした。
「栞、そんなに飲んで大丈夫か?」
「平気平気、文系の新歓飲みでも潰れなかったから」
右手でピースを作り、栞はジョッキに口を付ける。栞はもう四杯目になるのだが、本当に大丈夫だろうか。俺が泊まっているホテルはここ大街道にあるので近いが、栞は道後温泉の方まで戻らなくてはいけない。
「一こそ大丈夫? 明日に響かせないでね」
明日……か。もう、明日には隣に栞はいない。今日は何だかんだで栞におんぶに抱っこの状態だった。明日から正真正銘の一人旅になるのだ。明日は高知県の桂浜を観光しようと考えている。特急の乗継ぎや時間調整を一人で行う。少々不安だが、やるしかない。
「栞もな。また明日ばったり会ったらよろしくな」
「こちらこそ」
心のどこかで『なーに言ってんの。明日も一緒に回るわよ』って言ってくれないかと期待してしまっている自分がいた。小説のネタになるんじゃないかと。だけど現実はそうは甘くない。
「明日は桂浜、高知城と回ろうかなぁ。でも、もっと遠くに足を延ばしてもいいかな」
栞はポーチからしおりを取り出してパラパラとめくる。きっと栞は入念な予定を立てているんだろう。その中には、俺と一緒に回るという考えはさらさらないはずだ。
……それでいいのか? 今日で栞と会うのが最後になってしまっていいのだろうか。
「高地にもとさけんぴっていうゆるキャラいるから見るの楽しみだなぁ。あ、そういえばバリィさんグッズ買うの忘れちゃったよ」
しおりを見ながら楽しそうに高知県のことを話す栞。今日一日、栞と過ごしてきて、ケンカもしたし、からかわれることもあった。だけど何より……楽しかったんだ。
「桂浜に付くのは昼ごろになっちゃうかなー。あ、でも夕日が沈む桂浜もみたいなぁ。うーん、どうしよう。迷っちゃうなぁ。あ、でも桂浜からだと夕日って綺麗に見えないっけ。どうしようかなー。一だったらどっちがいいかな?」
いつも栞の方から動いてくれた。同い年の女の子が、だ。情けなくないのか? オタクだって言われ続けて情けないのか? それに俺だって、今日は間接キスだってした。こうやって酒を二人で飲んでいる。俺にとっては大きな進歩だ。言うしかない。
「ちょっと一、聞いてるの?」
「栞!!」
自分が思ってたよりも三倍は大きな声が出た。栞も驚いたのか、こてんと自分の席に体が揺り戻った。
「あ、あのさ……」
言いたいことは頭の中にあるのに、言葉が出て来ない。なんでここで詰まってしまうんだ。栞も不審げに俺を見つめている。
あと一歩の勇気。悔しいが、今の俺にはそれが湧いてこない。でも……今言わなかったらきっと後悔する。俺はみかんハイボールのジョッキを一気に空にした。
「ちょ、ちょっと一、そんなに一気に飲んだら……」
一気に飲んだからか、アルコールが体中を駆け巡る感覚に襲われる。それと同時に気持ちが高ぶってくる。俺は財布からお札を出し、立ちあがって栞の前に突き付けた。
「……これで、明日も頼む!」
言えた……。だけど栞は特に言葉を出さずに、何も言わずに俺とお札を交互に見ている。一体、どっちなんだ?
「しお……」
俺が栞の意思を確認しようとした時、栞はぷっと吹き出し、そのまま大きな声で笑い始めた。
「な、なんで笑ってるんだよ!」
「だって、ぷっ……くくっ、だめ、苦しい」
何がツボに入ったのか、栞はお腹を抑えている。YesかNoかも分からない態度に俺はやきもきする。三十秒程経ち、ようやく栞の呼吸が整った時に、栞の手が俺の手に伸びた。
「一、後悔はないね?」
「ああ、栞が迷惑じゃなかったら明日もガイドやってほしい」
アルコールの力と言ってしまった勢いもあるのか、二回目の頼みはすんなりいうことが出来た。後悔なんてしていない。今日一日一緒に行動して導き出した結論だ。栞は俺の手からお札をするりと抜き取り、俺の目の前に広げる。
「一、毎度あり。これ一万円だけどいいよね? 後悔はないって言ったもんね」
ぷぷっと笑う栞に言われ、俺は慌てて目の前の紙幣を確認する。確かにそこは樋口さんではなく諭吉さんの姿があった。勢いのあまり、取り出すお札を間違えてしまっていたのか……。情けないミスに頭を抱えてしまいたくなったが、それで栞をガイドに雇えるものなら安いものだ……。そう思うことにしよう。
「ああ、俺も男だ。二言はない」
「何らしくないこと言ってんの。……もう! 本当にしょうがないわね、一は!」
栞はピースサインを作る。
「二日分ってことにしておいてあげる」
「……え?」
「だから、明日と明後日面倒見てあげるって言ってんの! もう! 私お手洗い行ってくる!」
栞は勢いよく立ち上がり、そのまま姿を消した。俺の予想だにしない最高の結果になった。言ってみるもんだなぁ。俺はひっそりと拳をグッと握った。酒の力というのが情けないが、一歩前進ということにしておこう。
*
「おおーっ、この時間になると幾分楽になるね」
お店を出て、栞が伸びをしながら呟く。風もあり、栞の短い髪の毛を揺らしていく。この風があれば、アルコールも幾らか吹き飛びそうだ。
「栞のホテルまで送っていこうか?」
「ん? 大丈夫大丈夫。大街道の駅まででいいよ」
栞の頬はほんのり赤いままで少し心配だったが、あんまりここで送りたがっても勘違いされそうだ。ここは大人しく引き下がることにしよう。
「私、結構ガード固いでしょ?」
「ああ、そうだな」
勝ち誇ったように栞は俺を見る。
「文系女だってちゃんとしてるんだからね」
「……そうみたいだな」
もしかして朝の新幹線の時に文系のことを根に持っていたのだろうか。でも今は素直に悪いと思える。文系だから、と一括りにしてしまうことがどれだけ失礼なことだったのかと俺は反省する。
「星はあんまり綺麗に見えないんだね」
栞が空を見上げているので、俺もつられて夜空を見る。栞は酔いが残っているのか、昼に比べて歩くペースが遅い。なので、愛媛の空をゆっくり眺めることが出来た。大街道駅の周辺は店が多いのもあり、あたりは明るいからか、星は微かに見える程度だ。
「一、海好き?」
「まぁ、好きだけど」
「じゃあ明日は夜の海見てみよっか。海と星なんていい小説のネタが生まれそうじゃない?」
自分が見たいだけじゃないのか? 俺は苦笑しつつ、栞の顔を見つめる。瞳がキラキラと輝いている。無邪気な輝きは少年のようだ。
「一、明日は十時に松山駅だからね?」
「分かってるって」
「女の子と待ち合わせなんて初めてでしょ?」
「余計なお世話だっての」
図星なのが余計に悲しく、むなしい。だからこそ、待ち合わせという言葉の響きにどきどきしてしまう。栞は予想通りの反応だったのか、くすくす笑っている。
「でも、一にしては頑張ったよ。頑張った結果の待ち合わせじゃん。だからね、ご褒美を上げる」
「ご褒美?」
それは何だと聞く前にご褒美の正体が分かった。
「もしかして初めて?」
「……もしかしなくても初めてだっての」
右手には栞の左手のぬくもりがあった。
「ちょっと一、汗ばんでる。やだ、気持ち悪い」
「う、うるさいな!」
それでも栞は俺から手を離さない。ご褒美、というのはこのことだろう。でも俺としては緊張してしまうのでむず痒かった。
「……ガード固いんじゃなかったのか?」
「これはノーカン」
「都合のいいガードだな」
そう言った瞬間、右手の甲に鈍い痛みが走った。栞が爪を立てているのだ。栞に怒ろうと思ったが、栞はそれ以上に憤慨している様子だった。
「あのさ、私誰とでも手繋いだりする女じゃないから。一だから繋いでるんだからね?」
栞にそう言われてしまってはたまらない。今はその言葉を素直に喜ぼう。少なくとも嫌われているとは思われていないということだろう。
気付けば、口数も自然と減っていく。栞も何も話そうとしないし、俺も右手に伝わる栞の感触に慣れるのに必死だったからだ。しばらく無言で歩いていると大街道の駅が見えてきた。
「今日はありがとう、栞」
「いいえ、こちらこそ割と楽しかったよ」
割と、という言葉が余計だ。駅の時刻表を見るともう三分後には来るみたいだった。駅には既に人がいたので、栞は俺から手を離した。少し名残惜しさを感じたが、それと同時に少しホッとした。あんなに胸が騒いでいたら、倒れてしまいそうだったからだ。お互い、特に言葉を口にすることなく路面電車が来るのを待ち続ける。
この沈黙を割くように路面電車は駅に滑り込んでくる。
「じゃあな、栞。また明日」
「うん。後ね、一。ごめん、一個ウソついた」
「ウソ?」
「……割とじゃなくて、すっごく楽しかったよ!明日も楽しもうね」
まだ酔いがあるのか顔を赤くしながらも今日一番の笑顔で俺に発してくれた言葉。栞が手を振ると、俺も自然に右手が反応する。扉が閉まり、路面電車が大街道の駅を出るまで俺は見送った。
……最後の最後に一番嬉しい言葉を言ってくれた。すぐに言い返せなかったのが悔しい。
「俺の方が楽しめたっての」
届くことのない言葉を俺は夜に溶かした。
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