第10話
ミナトではない、ロアだ。
すぐに距離を取ろうと後ずさる足がもつれ、顔から水路に飛び込む。水が戻っている状態だったのはせめてもの幸いか。しかし、
「ぷはっ!がぼっ、たす、助け……!うぶ」
完全にパニックに陥ったサクヤは膝丈にも満たないの水位の中でもがき、数秒で呼吸に支障が出る量の水を飲んでしまう。
すぐ後ろに迫るロアの事などは思考から失せ、頭の中に溢れるのは言葉。
苦しい、助けて、嫌だ、助けて、帰りたい、助けて、違う、助けて、どうして、助けて…………。
「ヤ……を、……して」
助けて、助けて、助けて、助けて……。
助けて?誰に?
「サクヤ!息をしなさい!!」
目を開くと同時に、猛烈な勢いで喉を込み上げる熱い感覚。吐き気に近いものだ。
「……ぅ、げぼっ!がはっ、っは……は……」
仰向けの顔にぶちまけられるそれは吐瀉物ではなく、水だ。ついでに言えばぬるま湯だ。どういう訳か両目からも熱い湯が溢れている、これは涙か。
「ぇほっ、こほっ!私、は……?」
「良かった、間に合わないかと……良かった、サクヤ……」
涙で潤んだ視界にぼんやり浮かぶ人影には見覚えがある。顔をよく見ようと起き上がると、その誰かはサクヤの上体を強く抱き寄せた。
「わわっ!あ、あの、えと……ジゼル?」
「ごめんなさい、ごめんなさいサクヤ。貴女を行かせまいとわたし、彼女……ミナトと同じ選択を貴女に迫ってしまった。力で貴女の意志を捻じ曲げた挙句、わたしの都合で酷な選択をさせてしまった!これじゃあ彼女を非難する権利は無いわ」
自分の服が濡れてしまうのも構わずに強く抱き締められる。強く寄せた頬が、耳元で絞り出される声が震えていた。
「貴女と別れてすぐに後悔した。そのすぐ後に怖くなったの、貴女を失ってしまうのが。それからの事はあまり覚えていないわ。走って、走って、剣を振るって……貴女を見付けた」
「うん、すごくドキドキしてるね」
密着した首筋から心臓の駆け足が伝わる。周囲には灰の跡が数か所と、持ち主の分からない剣が数本。
「水路で動かなくなっている貴女を見付けた時は心臓が止まるかと思ったわ。でもやっと気付けたの、わたしにとって貴女の存在がどれだけ大きくなっていたのかに。わたしはねサクヤ、あの館に死に場所を求めていたのよ。守るものも無く独りで戦っていたわたしの心はもう折れかけていた、生きる意味を見失っていたの。そんな時現れたのが貴女。初めてわたしに出来た大切な仲間。貴女を失えばきっとわたしはロアになってしまうわ」
「私もだよ。ジゼルを失ったらきっとロアになっちゃう」
震える肩をきつく抱き寄せる。このまま1つに溶け合う事が出来れば、互いが互いを失う恐怖から逃れられるのに、などと詩的な思いがサクヤの脳裏をよぎった。
しかしながらそんな超常現象が起こる訳は無く、震えが止まったのを見計らって2人の身体は離れる。
「約束するわサクヤ。わたしはもう貴女はの側を離れない。もし離れる事があるとすれば、それはわたしが死んだ時よ」
「…………やだ」
「あ……わたしったらまた調子に乗って……」
「ジゼルが死ぬなんて嫌だよ、2人とも生きるの。私だってジゼルを守れる。2人が離れる時が来るとしたらずっとずっと先、あったかい陽だまりの中で笑って、眠るように逝く時だから」
きっと後で思い出して赤面する事請け合いの、なんともサクヤらしくない発言だ。しかしそれが紛れも無い今のサクヤの本心である。
「もぅ、真面目に言ったのだからからかわないで頂戴。でも……ふふっ、やっと貴女の口から前向きな言葉が出たわね」
ジゼルにそう言わせる辺り、やはり珍しい発言だったようだ。すぐさま顔が熱くなるのを感じて顔を伏せる。
すると、どういう訳か胸当てが外され、シャツの胸元がはだけているのに気付いた。
「あれ?私服が……」
「あぁ、胸当てならここよ。蘇生術の邪魔だったから」
「あ、うん、ありが……と……」
何気無い顔で手渡される胸当てを受け取ろうと手を伸ばした所で、サクヤは固まった。
「そせっ、蘇生術?それって……」
サクヤのもっとも身近なものでは心肺蘇生術がある。胸元をはだけさせて胸骨の圧迫、それから……。
「じじ、人工こきゅ、呼吸⁈」
「いきなりどうしたの、顔が真っ赤よ?」
「だだ……だって、つまり……」
言葉を濁すサクヤの様子で察したようだ、ジゼルもまた頬を紅潮させる。
「なっ……!あれはれっきとした医療行為よ⁈やましい事なんて何も……」
互いに顔を合わせられず、気まずい沈黙が訪れた。両者しばらくモジモジと相手の様子を窺い、
「…………初めて、だったから」
沈黙を破ったのはサクヤ。
「えっ?」
「初めてだったの!ファーストキスだったんだもん……」
ただでさえ顔中真っ赤だったというのに、言葉にした事でもう耳まで熱を持っているのが分かる。
「そ、それを言うならわたしだって初めてよ!大体あれを回数に入れるべきじゃないでしょう⁈そんなに嫌がらなくたって……」
「い……嫌なんて言ってないよ、私は……」
サクヤの言葉がジゼルに届く事は無かった、頭上の穴から多数のロアが落下して来たのだ。金属音と水音がやかましく水路内を支配する。
「全く、気の利かない連中だわ。サクヤ、援護を!……出来るかしら?」
素早く剣を抜き放つジゼル。
弓を構える手はもう震えない、これなら……
「うん、いける!」
ニィと口角を上げたジゼルがロアが群れへ飛び込んで行く。
矢筒からよどみなく矢を引き抜き、つがえる。ジゼルの剣が届かない範囲、加えて死角となる位置に居るロアの頭を優先して狙い射つ。実際にこの弓を使うのは初めてなのだが、一本たりとも外す事は無い。というよりも、当たる相手が何となく分かるのだ。
事実、目にも止まらぬ動きで灰を量産するジゼルには当たらない事が直感で理解出来ている。
「サクヤっ!ここじゃいずれ数に圧されるわ、彼女を連れて逃げましょう!」
落下して来るロアの勢いは衰える様子が無い、恐らく付近に残る生者はサクヤ達だけなのだろう。
弓を背中に担ぎ、ダガーを抜く。術式を使えば一気に進路上のロアを掃討する事は可能だが、まだ威力や照準の加減に自信が無い。更にジゼルは絶え間無く動き回っており、炎に巻き込む危険がある。
視界の奥、壁にもたれかかるミナトの姿を捉えた。煤まみれではあるが目立った外傷は無い。気を失っているのだろうか。
安堵したのは一瞬だけ、まっすぐミナトへの最短距離を駆け抜ける。
ロアの数は多い。しかし落下の衝撃で落としたのか、武器を持たず素手で殴りかかってくる個体がほとんどだ。腰の入っていない拳を躱して喉笛に刃を突き立てるのは容易い。
驚く事に、落下の際の打ち所が悪く、そのまま灰と化す個体までいる始末だ。
それでも多勢に無勢という言葉の通り、程なく分厚いロアの壁に阻まれる。
「くっ……」
「伏せなさい、サクヤ!」
前後左右からの同時攻撃に思わず顔を歪めたサクヤは、耳に飛び込んで来た声に素早く反応した。数秒の後、風を裂く音と共に数体のロアが灰に帰る。
お得意のナイフ投げから、追い討ちとばかりに突貫するジゼルが流れるような足運びでロアを殲滅していく。
盾を構えたままロアの群れに突っ込み、将棋倒しのように転倒させる事で、僅かな間自身に有利な間合いを作り出す。左から殴り掛かって来たロアを盾の突起で打ち据え、正面からの拳を引き戻した盾で受けると同時に右からの剣を自身の剣で受け流した。
逆袈裟に斬り上げた剣を無理矢理水平に滑らせて眼前のロアの首を刎ねる間に、仰向けに倒れた左のロアの頭蓋を盾の下部で粉砕する。
敵の注意がジゼルへ向いた隙に、サクヤは一気にミナトの元へ駆け寄ってその肩を揺すった。
「ミナトっ!起きて、ミナト!」
「…………う……ぅ」
ひとまず息はしている。しかし、いくら揺すっても目を覚ます様子は無い。炎が生み出した煙を吸ってしまったのだろうか。
「どうしよう……私じゃミナトを運ぶのは無理だし、かと言ってジゼルを呼んだらロアもこっちに」
長身のミナトの身体は相応に体重があり、四肢に付いたしなやかな筋肉がその重量を増している。脆弱なサクヤでは引き摺って歩くのがやっとだ。
ジゼルと2人でなら担ぎ出す事も可能だろうが、当の彼女はロアの攻撃を全て引き受けている。無事ミナトの元へ辿り着けたとしても、ロアの壁が逃亡を許さない。
「どうにかしてロアを散らさないと……いや、違う。集まってくれた方が都合が良い」
翔魔と戦った時以来の、己の喉から出たとは思えない声。
「ジゼル!ミナトは動けない、どうにかしてこっちに来られない⁈」
我ながら無茶な注文だとは理解している。実際サクヤには無理だ、だがジゼルなら……。
僅かに、本当に僅かにだが確かにジゼルが頷いた。
ダガーを収めて両手を前に突き出す。
ジゼルは笑みすら浮かべてその様子を確認すると、剣の間合いに居る敵全てを一瞬の内に斬り伏せる。直後に背後から斧を振り下ろすロアを目視する事無く突き殺し、灰に帰るまでの僅かな間に懐から抜いたナイフで前方の数体を仕留めた。
落下を始める剣を掴み取り、駆け出そうとするジゼルの左右から、示し合わせたかのように槍を持ったロアが飛び出して来た。
「あら、息がぴったりね」
しかしジゼルは浮かべた笑みを更に深くして剣を眼前に構えると、右から迫るロアに正対してその槍を受け流す。そのままダンスのようにターンし、数秒前までジゼルの頭があった位置を左から通り過ぎる穂先を見送る。
互いに頭を貫き合って灰と化すロアを視界に捉えたジゼルは、持ち主を失って落下する槍の1本を爪先で受け止めると剣を収め、代わりに携えた槍を値踏みするように振り回しながら悠然とサクヤのもとへ歩み寄ってきた。
「後は任せて良いのでしょう?」
すれ違いざまの問いに、サクヤは首肯して応える。
ジゼルはこちらの要求通りに動いてくれた。むしろ近い位置に居たロアを片付けてくれたのだから要求以上と言える。これで少しは余裕が出来た。
"投げ火"はあくまで特定の対象を焼き尽くす為の術式である。というのはペレンネの祖父の談だ。つまり炎に触れた対象を徹底的に攻撃する為のものであり、周囲のごく狭い範囲を巻き添えにする事は出来ても集団に対しては効果が薄い。炎に怯まないロアが相手なら尚更だ。
「投げ火は敵に触れると火力が増す……それなら最初から強い火力のまま打ち出せれば……!」
広げた両手に感じる熱を今度は小さくまとめようとはせず、ただただ暴れるようイメージする。条件は1つだけ、サクヤより前方に展開する事。
額から汗が一筋零れ落ちる、手の中の熱のせいではない。
ゆっくりとイメージの範囲を広げる。ロアの群れが迫っているのは視えているが、見ない。焦りは禁物である。
範囲を水路の端まで広げれば、後は炎の動きを命ずるだけだ。否、動きというよりは発生の仕方であろう。
爆発が望ましい。突如として発生した熱によって、逃れる暇を与えずに灰を生み出す力が。
「驚いたわ。いえ、慄いているわ。まだ炎が現れてもいないのに、既に空気の揺らぎが視える。炎はこちらに来ないと頭で分かっているのに、どういう訳か盾を手離せない」
揺らぎの向こうでロア達が各々の武器を振り上げるのが視える。頃合だ。
「……行けっ……!」
一瞬だった。
目の前に生まれた朱色が敵を覆った次の瞬間には、サクヤより前方から動くものは消えていた。ロアはもちろん水路の水も、炎も。まるでそこには最初から何も無かったかのように。
術式の名残を伝えるのは、水路を満たす熱風のみだった。
「すごい熱量だわ。ペレンネの店で片鱗は目にしていたけれど途轍も無い呪力量ね、一瞬であの数を灰も残さず焼き払うなんて」
ミナトの肩を担ぎながら、ジゼルが賞賛の言葉を口にする。
「お爺さんの教え方が良かったんだよ、私は言われた事をそのままやってるだけだから」
「謙遜のし過ぎは良く無いわね。さぁ、長居は無用よ。早く彼女を連れて逃げましょう」
促され、反対側の肩を担ぐサクヤ。ミナトは未だ目覚める様子が無い。出来れば起こして自力であるいて欲しい所だが、生憎頭上には新手のロアが顔を覗かせている。
「1体だけのようね。他のロアを引き寄せる前に倒しておきましょう」
2人とも片手が塞がっているが、サクヤなら術式を撃てる。
先程よりも手際良く生み出した投げ火を放ったのとほぼ同時に、サクヤは信じられないものを目にした。
反対側の肩を担ぐジゼル。空いている方の手に握られていた槍を手離したかと思うと、石突の部分を爪先に乗せてそのまま足を振り上げたではないか。
標的に向けて真っ直ぐ飛ぶ槍は、同じ標的を狙う投げ火とぶつかって炎を纏い、命中すると共にロアごと灰になった。
「あの……ジゼルの方がよっぽど凄い事してるよ……?」
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