第5話

「いらっしゃいませ!あれ?もしかして新規のお客様ですか⁉︎」


入店するなり、サクヤの姿を目にした若い女性はそう言って顔に喜色を滲ませる。


「え⁉︎あの、新規って……?」


「そうよ、彼女に新しい"レザリクス"を作ってあげて欲しいの」


聞いた事の無い単語に眉をひそめるサクヤ。


「喜んでっ!!ささ、こちらへどうぞ。いやぁ〜、嬉しいです!去年祖父から店を継いで以来初めての作製なんですよ」


笑顔の女性に手を引かれ、店の隅にある作業台らしきものの前に連れて来られた。随分年季が入った物で、すぐ横にはそれを覗き込むように眠る老爺の像。


状況が飲み込めずに立ち竦んでいると、女性が安心させるように覗き込んでくる。


「あ、もしかして腕をお疑いですか?ご心配無く!これでも子供の頃から祖父の横で作製や補修なんかの助手をやってたんです。信頼して下さいな。あ、私ペレンネっていいます、どうぞよしなに!」


ペレンネと名乗った女性が自信満々な事しかわからず、ジゼルの方を見る。腕を組んだまま微笑んでいるので問題は無いようだが……。


「はい、それじゃまず"呪力"の量を確認させて貰いますね!」


「え、重力?」


「呪力ですよ呪力!あ、もしかして緊張してます?大丈夫!この世に生を受けて無事に成長出来てるって事は、一定の呪力を持つ証拠です。個人差はありますが」


景気良く話しながら作業台の上に手を伸ばすペレンネ。つられて見上げると、何かの動物の皮が天井いっぱいに括り付けられているではないか。


思わず息を呑むのと同時に、それがただのインテリアではない事に気付く。


「何か彫ってある……地図かな?」


「言われてみればそう見えなくもないわね。でも残念、あれは術式紋よ」


ジゼルの口からまたしても聞き慣れない言葉が飛び出し、顔中に疑問符が浮かぶ。


そんなやりとりを眺めながら皮を作業台へ下ろすペレンネにも、ようやく話の前提が間違っている事が伝わったようだ。


「ひょっとして、そちらの方は呪力についてご存知無い?」


「えぇ、そうなの。遠い異国の出身で、術式に頼らない生活をしているらしくて」


「そんな国があるなんて……世界は広いですねぇ。まぁ、私の仕事は変わりません!ささ、こちらへ」


僅かに驚きを見せたペレンネだったが、切り替えの早い性分のようだ。


「それじゃ、まず呪力について簡単に。私達の身体……正確には血には"呪力"と呼ばれる不可視の力が巡っています。生命力と言ってもいいですね。どこから生み出されているのかは分かっていません」


自身の身体を指差してくるくると回す。


「呪力の量は人によって差がありまして、少ない人は身体が弱かったりします。逆に多い人は身体が特別強い……なんて事は無くて、余剰分の呪力は身体の外へ流出しているんですが、そこで私達の出番です!」


薄い胸をトンと叩き、掌を皮の上へ乗せるペレンネ。


すると、その周りから地図のような紋様が青く染まり始め、まるで水が流れるように広がっていくではないか。


「これが私の呪力を可視化したものです。と言っても大した量はありませんが」


彼女の言う通り青い流れはすぐに途絶え、手を離すと霞んで消えてしまった。


「さぁさぁ、まずはこれで貴女の呪力量を計って、相応の術式紋を施したレザリクスを作製させていただきます!」


促されるまま皮の中心にある円に手を乗せてみると、ペレンネのそれとは違い、燃えるような赤い流れが紋様に沿って流れて行く。


それはまるで溶岩の如き奔流を生み出し、瞬く間に皮の端へ達した。


「えっ、ちょっとこれ……」


竜の息吹を思わせるそれに見入るサクヤの耳には、焦りを滲ませたペレンネの呟きは届かない。


皮の表面を覆い尽くした奔流は見えない壁を這い上がるかのように立ち昇り、眼前に迫る。炎が前髪を溶かす刹那。


「危ないっ!」


割り込んできたジゼルに手を掴まれ、床に押し倒された。


何が起きたのか分からず一瞬だけ惚けた表情を作ったサクヤだが、己の顔を焼きかけた炎を思い出してハッとする。


「私っ!何か変な事した⁉︎」


「いいえ、あれは単に手を置いて使う物、貴女は何もしてないわ。……でもこの場合、したと言うべきなのかしら」


ジゼルにしては珍しく歯切れの悪い返答に、起き上がって作業台の上を覗く。


結論が出から言うと、皮は炭と化していた。皮だけではない、木製の作業台の一部も燃えたようで、黒い煙を上げている。


「あわわわわ……曾お爺ちゃんの頃から使って来た大剣熊の皮が……。どどど、どうしよう!これじゃご先祖様に顔向けがぁぁぁ……」


「あ、あのごめんなさ」


「ヌシが詫びる必要は無い!こりゃ出来の悪い孫娘の失態じゃ」


顔面蒼白で頭を抱えるペレンネに向けて下げようとした頭は、嗄れた一喝によって止められた。恐る恐る視線を持ち上げる。


が、声の主が見当たらない。相変わらず作業台に寄り掛かって嘆くペレンネと、やれやれと立ち上がるジゼルの姿があるだけだ。


「これ、ペレンネ!過ぎた事をいつまで悔いておる、すぐにあれを持て!!」


「うわっ!!」


台の横にあった老爺の像から声がした。否、像ではない。確かに眼を開き、髭もじゃの口元を動かしている。


「はぁ……初めての作製で浮かれちゃった。反省しなきゃ……でもでも!初めてのお客様が術式の素養を持ってるなんて、これは貴重な体験だよね⁈すぐ取って来ま〜す!」


意気消沈していたかと思えば数秒後には目を輝かせ、足取り軽く店の奥へ引っ込んで行くペレンネ。どうやら本当に切り替えが早いようだ。


「ヌシ、名は?」


暫しの沈黙の後、老爺の像……もとい老爺の両眼がこちらを捉える。


「サクヤ……です。あの、私……皮を燃やしちゃって、大事な物なのに……」


「過ぎた事。それより、ヌシは常人よりも多く呪力をこさえておるようじゃ。術式紋から炎となって溢れたのが何よりの証、レザリクスは特製の紋を施した物を用意しよう。2つ無き一点物だ、ゆめゆめ大切に使う事じゃな」


正直言って何の事だかよく分からなかったが、眼鏡の度が合わなかったようなものだと無理矢理納得する事にした。



程無く奥から皮の束を抱えたペレンネが現れる。その中から老爺が選び出したいくつかが作業台の上に並べられた。


「ペレンネ、成型の支度をせい。紋はワシが刻もう」


懐から太い針のような物を取り出すと、老爺はその皺だらけの手指からは想像も出来ない素早さと精密さで皮に紋様を刻み込んでいく。


「すごいでしょう?祖父の腕は街で1番とまで言われていて、お城や館に呼ばれて高貴な方のレザリクスを作った事もあるんです」


さながら絵画のように描かれていく紋様を眺めていると、太い針や金具の入った箱を抱えたペレンネが自慢気な表情を浮かべていた。


「レザリクスとは、一定の法則で刻んだ紋様の上に呪力を走らせ、袋の形に成型する事で永続的に行使するものじゃ。紋の基礎は偉大な術師である……」


「要するに見た目の何倍も武器や道具を入れられる不思議で便利な革袋よ」


法事で会った話の長い親戚と同じ雰囲気を感じ取ると同時に、後ろに控えていたジゼルが歩み出てぴったりの解説をしてくれた。


「これ!偉大なる御方の逸話を聞かずしてレザリクスを持とうなど不敬であるぞ!ヌシが目をかけておる者と思うからこそ儂自ら語ろうというものを……」


「だって長くなりそうなんですもの」


「いつまでも館を飛び出して放蕩三昧が出来る訳ではないのだぞ⁈お父上や兄君は賢明かつ勇猛な方々だというのに、ヌシときたら街へ繰り出してはガキ大将の真似事ばかり……。君主たる器は持っておるのだ、館へ帰って少しはお父上の政を勉強せい!全く……」


何やらブツブツと呟きながら作業に戻る老爺以外の者は気まずそうに閉口した。ジゼルに限っては驚きの方が強そうな顔をしている。


「あの……ジゼル?」


「お、お爺ちゃん!サクヤさんに術式の使い方を教えてあげたら?運の良い事に同じ火の呪力を持ってるみたいなの。お爺ちゃんも少しなら術式が使えるんだよね?」


口元を引き攣らせ、努めて明るい口調で提案するペレンネ。紋様を皮の8割程まで書き上げた老爺は手を止め、暫しの後顎をさすりながら頷いた。


「ふむ……そうさな、後は紋入れの仕上げと成型のみ。これ以上孫の初仕事に手を出すのは野暮というものか」


針を懐に仕舞うと、何も言わずに店の外へ向かう老爺。年相応に曲がった背中を眺めていたが、少しして付いて来いという事だと気付く。


「行ってらっしゃい。わたしは術式が使えないからここで待たせてもらうわ」


老爺の発言に見た事の無い表情を作っていたが、今はいつものジゼルだ。ペレンネに一礼してから店を出る。



「モタモタするでない。戦も政も、遅い者から負けるのだ」


老爺は隣家の扉を開け、既に半分以上身体を滑り込ませていた。待つのが嫌いなのだろう。


後から慌てて扉へ飛び込むと、そこはなんとも異様な空間だった。部屋の壁という壁には奇妙な装飾が施され、僅かに発光している。いや、装飾に使われている金属が日光を反射しているのか。


「これ、もしかしてレザリクス……?に使われてる紋様ですか?」


「左様、呪力を吸収して循環させる為の物じゃ。本来ならばヌシの呪力量を測るのはここになる筈じゃった」


部屋の中央へ進み出た老爺はそう言って片手をゆっくりと持ち上げると、両眼を同じくゆっくりと見開いた。すると……


「……うわっ!!」


驚いて仰け反るサクヤ。無理も無い、老爺の手中に突如燃え盛る炎の玉が生まれたのだから。しかしよく見れば炎はその手を焦がす事なく、一定の大きさで漂っている。


「これが術式、己が身から溢れ出る呪力に形を与え、力として行使する技よ。見るのは初めてか?」


「は、はい。それがあれば火を点けるのに便利そうですね」


「…………ヌシ、気は確かか?この力を炊事に使うと?」


信じられないといった顔でこちらを見下ろす老爺の様子を見るに、失言だったようだ。


「なんと平和な頭か。いや、儂の頭が荒んでおるのか……考えても詮無き事よな。結論を言おう、これはそんな事に使うには大き過ぎる力じゃ。見ておれ」


手中で未だ燃え続ける炎を、老爺がまるで小石でも投げるように放る。放物線の先には成人男性ほどの高さの木偶が1体。程無く炎が触れた。


「…………!!」


それとほぼ同時に炎は木偶の全身を包み込み、瞬く間に消し炭に変える。


「これでは炊事には使えまいて。……儂はこれを"投げ火"と呼んでおる。これと後1つしか使えんがな」


人間相手に使えば間違い無く致命傷を与えるだろう。爆弾を作り出しているようなものだ。


だが同時にロアを離れた場所から焼き尽くす事も出来る。


「それならジゼルの足を引っ張らずに済むのかな?私にもあの技が使えれば……」


老爺の手に生まれた炎を思い出しながら己の掌を見つめる。倒せずともロアを怯ませるくらいの攻撃が出来れば、と。


(私にその力があるのなら、ジゼルの為に使いたい……!)



始めに、掌に熱を感じた。次に顔を温める熱風。


そして光が生まれ、炎が上がった。



「えっ、これ……」


「なんと!!ヌシ、術式を見た事が無いというのは真か⁈どこぞで手ほどきを受けておるのではないか?」


驚愕の表情で詰め寄られるが、術式どころか手品の手ほどきも受けた事の無いサクヤは首を横に振る。


すると、老爺はしばらく品定めするように、炎を四方から覗き込み、背中を向けて考え込むのを繰り返した。だが、やがて諦めたように部屋の隅を指差す。


「……そこに木偶が並んでいるのが見えるな?」


黙って首肯する。


「投げてみよ。どうやらその炎は術式で間違いない」


悔しさの滲む口調で指示された通り、数体の木偶へ向けて炎を軽く放る。


手を離れた炎は老爺のそれと同じく一瞬で木偶を包み込んで炎上した……のだが、その範囲は遥かに広い。


「うわぁっ!!」


数体の木偶を一瞬で焼き尽くすその燃焼は、もはや爆発と言って差し支え無い。驚きと共に爆風に煽られて転倒してしまうサクヤ。


爆心地にあたる場所には焦げ跡のような物だけが残り、その周囲の木偶も触れただけで崩れ落ちてしまうような状態だ。放った時点では老爺の物とさほど変わらない大きさだったのだが。


「ふぅむ……驚いた、驚いたぞ。凡百の術士よりも多くの呪力を持っているとは思っていたが、これは予想外じゃ」


顎を摩り、困った様子の老爺。


「本来であれば高名な術士の下で学ばせてやるべきじゃが、生憎知り合いの多くは既に死しておる。口惜しいが、旅の中で学べとしか言えんな。ほんにもどかしい事よ」


「そ、そんな!私1人じゃ何も出来なかったですし……」


「とは言え、術式とは元来己で創り出す物。儂が授けてやれるのはたった2つじゃが、応用と研鑽でいかようにもヌシだけの術式を組み上げる事は出来ようて」


口の端を上げて諭す老爺の口調は心なしか優しい。


「さて次はとっておきじゃ。儂の知る多くの術士の誰にも編み出す事の敵わなかった一点物の術式よ」


さらに口角を上げた老爺の顔は萎れた老人の物でも、優しき好々爺の物でもない、ふさわしい言葉を当てはめるならそう……老獪とでも言うべきか。




老爺の指導は短く、これで良いのかと思うほどあっさりとしたものだった。


まずはやってみせ、サクヤがそれを模倣する。それが出来たら何度か繰り返させ、賞賛と共に使い所を指南して終了。


「威力は違えど儂の創った術式に相違無い。ヌシは下手に知識が無い故か、他者が構築した術式に関して素直じゃ。まずは教えを受け入れ、理解する事で応用は生まれる……ゆめゆめ忘れるな」


そう締めくくると、老爺は足早に扉に手を掛ける。


サクヤはその背中に深く礼をして、後を追った。




「あれ、おじいちゃんもう終わったの⁈随分早いけど……」


店に戻ると、目を丸くしたペレンネの顔が出迎えてくれた。手元には袋の形に成型されたレザリクス。


「たかだか2つ教えるのに時間は掛けん。それよりも今の作製が終わったら昼飯の用意じゃ」


それだけ言うと老爺は始めの位置ーーすなわち作業台の横に戻り、再び眠るように動きを止めた。


「お昼なら早めに食べたでしょ?まぁ、ちょうど仕上げに入る所だったから丁度良いけど。サクヤさん、こちらへ来てもらえますか?」


レザリクスに紐を通したペレンネに手招きされ、作業台へ歩み寄る。ジゼルの姿を探すと、カウンターのそばで優雅にティーカップを傾けていた。


「後は貴女が呪力を注げば完成よ」


説明は任せた、と言いたげな視線を受けてペレンネが続ける。


「その通りです。祖父自らが術式紋を刻んだ、世界にただ1つのサクヤさんのレザリクスですよ!さぁ、ここに触れてみて下さい」


言われた通りに印の付いた縁の部分に触れるが、見た目に変化は無く、ただの革袋のように見える。しかし、


「……っ、あれ?寒い……」


室温が一瞬急激に下がったような感覚を覚え、身を竦める。錯覚だろうか。


「身体の周りを漂っていた余剰分の呪力を全部使ったので、火の呪力を持っているサクヤさんは寒気を覚えたと思います」


印の部分に手慣れた様子で線を繋ぐと、ペレンネは作業台の脇から取り出した焼印を袋に押した。武具で言う所の銘のような物だろうか。


「お待たせしました、これで完成です!さぁさぁ、どうぞ。腰に付けてみて下さいな。わぁ、とっても良くお似合いですよ!!」


半ば強引に腰に括り付けられたレザリクスを、宝石でも見るかのような輝きに満ちた瞳で褒めそやされ、サクヤは気恥ずかしくて僅かに頬を染めた。


「ありがとう……ございます。あの、お金はおいくらですか?」


「それなんですが……お代は頂きません」


「えっ⁈あの、でも!私、大事な皮を焦がしちゃったし、それに術式の練習もさせて貰っちゃって……」


老爺の話では特製のレザリクスを作ってもらった筈、無償で受け取る事など出来ない。寧ろあっさりとタダにされては裏を疑ってしまうというものだ。


「元々年季の入った物でしたから、良い替え時になりました。それよりサクヤさんには、今後ともうちの店を贔屓にして頂きたいんです。あとはうちの店の宣伝も」


先程の焼印を指差してペレンネが言う。


「貴女の呪力量はかなりのもの。それを見事に制御して循環させているレザリクスは、それだけで作製者の技量を教えてくれるわ」


つまりは広告塔という訳だ、それならサクヤにも出来る。


「ですから、サクヤさんが色々な場所でレザリクスを持ち歩いて下さるだけで、店の売上に貢献して頂けるという事なんです。今回はその報酬の前払い、と思って頂ければ」


「そういう事なら、お言葉に甘えておきます。何から何まですみません」


出来たてのレザリクスに手を添え、深く頭を下げる。


「謝る必要はありませんよ、これは真っ当な取引ですから。そんな事より!今回は祖父に術式紋の工程を譲りましたけど、私だって祖父から教えを受けて同等の腕を持ってるんです。破損した時には是非私にご用命を!」


進み出たペレンネに詰め寄られ、苦笑しつつも約束を交わす。


次にこの店を訪れるのがいつになるのかは分からないが、それまでなんとか生き抜かなければなるまい。




「さぁ、大分遅くなってしまったけれど、昼食にしましょうか」


ペレンネの店を後にして、2人は未だ食欲をそそる匂いを放つ方向を目指す。


「…………」


店では術式の存在に圧倒されていたサクヤだったが、落ち着いた所でジゼルの様子が気になっていた。


老爺の口から零れた言葉。まるでつい最近の事を話しているかのような口振りだった。しかし現実には館は寂れ果て、ジゼルの家族が住んでいるとは思えない。


驚きの表情を見せていたジゼルも、店に戻るといつもの調子を取り戻していたし、サクヤが居ない間にペレンネと何か話していたのだろうか。


「視線がむず痒いわ、言いたい事があるなら手短にお願い」


知らず見つめてしまっていたようだ、眉をひそめて振り返るジゼルと目が合う。


「ご、ごめん。その……さっきお店で、お爺さんが言ってた事が気になって……」


意を決して話してみたが、即座に後悔した。誰も老爺の話を広げなかった事で察するべきだったのだ。


ジゼルが嘘を言っている訳ではないのだろう、恐らく自分が解釈の仕方を間違えているだけ。それに関してもペレンネとの間で解決したらしい事は2人の態度で分かる。それなのに。


「なんだ、そんな事。言っておくけれど、あのご老体の話は貴女が思っているほど難しいものじゃないわよ?」


「違うのっ!別にジゼルの事情に首を突っ込んだりするつもりは無くて…………えっ?」


「もう随分なお歳なんですって、最後に食べた食事やら若い頃に館へ出仕した記憶やらが一緒くたになっているの。2人きりになった時、彼女に平謝りされてしまったわ」


痴呆によるもの、という事らしい。ペレンネが気まずそうな顔をする訳だ、本人の目の前でそれを指摘する事は控えたいだろう。


ともあれ、要らぬ気を遣って嫌な空気を作ってしまった。詫びておいて間違いはあるまい。


しかし、下げかけた頭は額を突かれて押し戻される。


「痛っ!…………あの、その」


「貴女の所ではどうだったのか知らないけれど、ここでは言いたい事ははっきり言った方が良いわ。わたしの身の上話に疑念を持ったんでしょう?」


真っ直ぐな視線に射抜かれて上手い言葉が浮かばない。出来る事と言えば、精々己の視線を彷徨わせるくらい。


実際ジゼルの言う通りだ。お互いに包み隠さず話した筈の身の上を根底から覆す恐れのある出来事に、どうしようも無く疑念を抱いてしまった。私は全て話したのに、と。


ジゼルの口から嘆息が漏れる。


ただの嘆息ではない、腹の底から押し出されたかのように引く重いそれを聴き取ったサクヤは、予想される非難を受け止める覚悟を決めた。


「疑った事に引け目を感じているのなら、それは筋違いというものよ」


「えっ?だって…………」


「サクヤ、貴女とわたしは仲間よ。仲間なら下世話な干渉や、信頼に関わる秘密は当然忌避すべきだわ。つまり今回、わたしの身の上に疑念を持つのは当然の事だし、貴女にはそれを追及する権利がある。だから…………」


右手で肩を、左手で顎を掴まれ、視線が合う。


「仲間同士で下手な遠慮はしなくていいの。もちろん配慮は必要だけれど」


今度は視線を逸らさない。そうだ、洞窟でジゼルが言ってくれたではないか。


2人はもう何の貸し借りも無い対等な関係だと。


「そうだったね…………ありがとう、ジゼル。やっぱりジゼルはジゼルだよ」


「当たり前の事を…………でもねサクヤ、これだけは覚えておいて。たとえ仲間でも、他人の言う事を鵜呑みにしたり、盲目的に信用するのはとても危険よ。常に疑いなさい、それだけが最後に貴女を生かすのだから」


僅かに微笑んだ後、ジゼルは憐れむような、それでいて縋るような目でそう言った。


「ジゼル?一体何を……」


「サ〜クヤ。やっと見付けたぜ、こんな所に居たのか」


どうしてそんな事を言うのか尋ねようとしたサクヤの思考は、一緒にして停止する事となる。

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