第3話

「ジゼル……?ジゼル!ねぇ、ジゼルってば!返事して!!」


死んだように動かなくなったジゼルを抱え、その胸に顔を埋める。


トクン


微かだが確かに聴こえたその音と共に、サクヤの脳裏にはこれから取るべき行動が反芻された。


「そうだ、泣いてる場合じゃないんだ……。ジゼルを助ける、絶対!」


服の造りが己の知るものと大差なかったのは幸いだった。おかげで胸元をはだけさせ、肩を露出するのにさほど手間取る事も無く傷口を確認する。


形の良い豊満な胸にほんの一瞬目を惹かれるが、すぐにどす黒く変色した矢傷に目を奪われた。


「これだ……」


キメの細かい柔肌を穢すその傷口へ口付け、飲み込まないよう毒を吸い出す。まるで血を好む怪物にでもなった気分だった。


(不思議……毒も混じってるからかな?すごく甘い)


か細いジゼルの吐息が徐々に色味を帯び始める。何度も吸って吐き出してを繰り返すうち、吸い付きの良いその肌へ口を付ける事に得も言われぬ心地良さを覚え始めた。


が、吐き捨てた血が美しい朱色へと変わった事に気付き、不気味な名残惜しさを感じながら例の革袋へ手を伸ばす。


「水を汲める物、それから何か拭く物を……」


欲しいものを思い浮かべるだけとは言われたが、どういう仕組みなのかよく分からない。恐る恐る手を入れてみる。


驚いた事に、程なく器のような感触に辿り着いた。引っ張りだしてみると深めのスープ皿が手に収まっているではないか。同じ要領で小振りの布も取り出す事が出来た。


革袋を枕にしてジゼルを横たえ、澄んだ水をたたえる地底湖に皿を沈める。


「!……洞窟の水ってこんなに冷たいんだ、知らなかった」


想像よりも遥かに低い水温が、水に浸した手首から全身へ鳥肌となって伝わった。


と、急に視界が霞み、ぐらりと上体が傾く。睡眠不足と疲労を抱える身体が体温の変化に驚いたようだ。しかしそれも一瞬の事、頭から湖に転落する前に空いた手で身体を支える。


「…………」


何処かから入って来る日の光のおかげで、水面に映る己の顔がよく見えた。髪が乱れ、顔は泥やよく分からないもので汚れている。


「私は大丈夫。ジゼルの言った通り手当ても出来てる。だから大丈夫」


短く息を吸って、冷たい水面に頭を浸す。滴る雫は頭を振って払った。



濡らした布で傷口を丁寧に拭い、革袋から取り出した包帯を巻いてから、ジゼルを横穴の中へ半ば引き摺るように運び込んだ。


横穴内の両側の石を削って造られた腰掛けに横たわらせ、頭はサクヤの膝に乗せる。


「さっきよりは顔色も良いみたい。呼吸も静かだし、これなら……」


容態が安定したと判断した所で、疲労しきっていた身体と頭が一気に休息をねだり始めた。


「ジゼルってば凄く早起きなんだもんなぁ、日の出と同時に起きるなんて初めてだよ」


かくん、かくんと船を漕いでいるのが分かる。疲れて睡魔に襲われるなんていつ以来の事か。


「明日は……今日より遅くまで寝てても文句言わせないんだからね。ジゼルだっていっぱい無理したんだから、お昼過ぎまで一緒に寝よう?」


約束だよ?


薄れゆく意識の中で、ジゼルと勝手に指切りをする。きっと彼女は約束を守るタイプだと思うから。




無機質な音を立てて、傍らに立て掛けてあった長剣が倒れた。


「……はっ、寝ちゃった!ジゼル⁈」


視線を移す。膝の上で眠るジゼルは汗も引き、穏やかな表情をしている。包帯の血の滲み具合から、どうやら眠っていたのは数十分程のようだ。


ほっと息を吐き、乱れた前髪を整えてやろうと額に触れる。


「冷た……い?」


洞窟の中がひんやりとしているせいだと思った。だが、膝枕をしていた以外の部分全てがゾッとするほど冷たい。


慌ててジゼルの身体を抱き起こし、その胸に耳を当てる。


水の音に掻き消されてしまいそうな微かなその鼓動に、サクヤの鼓動は逆に早鐘を打ち始めた。


「どうして……?ちゃんと毒は吸い出したはずなのに⁈」


身体が冷えたせいで消耗してしまったのだろうか。それならばと今度は強くその身体を抱き締め、毛布で包む。耳元に寄せた唇からは吐息を感じない。


「嫌だよジゼル、1人にしないでよ……」


冷え切っているのはジゼルの筈なのに、身体が小刻みに震えだした。それを誤魔化すようにきつく身体を抱き寄せる。


しかし、抱き締め過ぎて壊れた人形のようにその首はがくりと、サクヤの首筋に口付けをするようにうな垂れた。


目を見開く。もう、微かな鼓動さえ感じられない。


「…………」


暫し水の音が辺りを支配した。前触れ無く、目を見開いたまま硬直していたサクヤの顔に僅かな笑みが生まれる。


「ごめんね、ジゼル。3つ目だけはやっぱり出来ないよ。私きっと上手く出来ないだろうし、どうせ1人じゃすぐ死んじゃうだろうから」


ジゼルの身体を抱いたまま腰掛けに横たわる。防具を脱いだ身体の、年相応の少女の体重が胸を圧迫した。


「ねぇ、ジゼル。ロアに殺された人はロアになる……だったよね?それなら私はあなたに殺される事にするよ。あなたに助けてもらった命を誰かに奪われるなんて嫌だから、あなたに返す」


頬を熱い涙が伝った、もう全て諦めている筈だというのに。


ジゼルを助けられなかった事か、あるいは心の底でまだ生にしがみついているのか。恐らく後者だろう、自分は浅ましい人間だから。


「一緒ならロアになるのもそんなに怖くない。他の誰かだったら、きっと私は逃げ出してたと思う。ジゼル……」



ゆっくりと、酷く干満な動きで肩から重さが離れていく。


目を閉じる。瞼に残るのは、野に咲く花のような彼女の微笑みでいい。




まだ涙の伝い続ける頬に手が触れる。


「……そこは本能に従って逃げておきなさい。守った甲斐の無い子ね」


幻聴に続いて、涙を拭う感触。


「……………………」


目を開いて、また閉じる。


「幻聴なんかじゃないわよ?」


ぺちん。


今度は軽く頬を叩かれるような感触。


「…………どこから聴こえてたの?」


「"ロアに殺された人は……"の辺りかしらね。嬉しいわぁ、短い付き合いだったのにあんなに想ってくれていたなんて」


目は閉じたままだったが、にやけながら話しているのが声色で分かる。


「折角だからもう一度聴かせてくれるかしら?目が覚めたばかりでぼんやりとしか聴こえなかったの。一緒なら?」


瞼に映っていた花のような笑顔は、蛇のような悪戯っぽい笑顔にすり替わっていた。


その笑顔に頭突きを食らわせるように身体を起こすと、程なく柔らかい膨らみに顔が埋まる。


「馬鹿っ!ジゼルの馬鹿!意地悪!もう助けてあげないんだからね!」


温かく柔らかいジゼルの胸の中で、サクヤは叫んだ。嬉しいのと、恥ずかしさと、ほんの少し憎らしさを吐き出すように。



生死の境は越えたジゼルだったが、完全に体力は戻っておらず、スタルハンツの街へは明日向かう事になった。


洞窟の灯りはやはり日光を採り入れているらしく、気付けば澄んだ水色の地底湖は青みを増している。


「ここは水鳥や獣が入って来られないから、何かしらの魚がいるかもしれないわね」


「む、無理しちゃ駄目だよっ!私が見てくるから休んでて」


痛みが残るらしい肩を庇いながら起き上がるジゼルを無理矢理に寝かせる。


「だけど……」


仮に魚がいたとしても、釣りはおろか山菜採りの経験すら無いサクヤに捕獲出来るかは怪しい所だ。


「だ……大丈夫だよ、そう!天敵がいない動物は逃げる機能が退化するって、前に聞いた事あるし」


不安げに頭を持ち上げるジゼルを遮るように立ち上がり、未だ澄んだ水底をたたえる地底湖へ向かう。



ああは言ったものの、ろくな道具も持たずにどうすればいいのかわからず水面を覗き込んでみる。


「そっきは水を汲んだだけでちゃんと見てなかったけど、奥に行くほど底が深くなってるんだ……。もう少し深い所なら貝くらいあるかも」


脚甲を脱ぎ、裸足で水中へ。ひんやりと冷たいが凍えるほどではない。


滑らかな岩盤の湖底を進む。膝の上辺りまで水位が達した所で、水底に何か光るものが見えた。


「これ、貝……だよね?」


形はサクヤもよく知る小型の二枚貝だ。しかしその殻は光沢を放つ乳白色をしており、食べられるものかどうかは悩み所である。


何にせよ他に食べられそうなものは見当たらない。仕方なく周囲の貝を採り、ジゼルの治療に使った皿に積み上げた。2人分には十分な量を採った所で湖の先を見る。


「貝があるなら、他の生き物も居るかな」


様子だけでも見てみようと足を進める。


すぐに水位は太腿近くまで達した。


これ以上は下着が濡れてしまう。

引き返そうと踵を返したその時、静かな水面に波紋が起きた。サクヤが起こしたものではない。


振り向こうとして背筋が凍る。水の冷たさとは別の、得体の知れないこれは、畏怖だろうか。


みられている。


首は振り向くのを拒否しているが、幸い足は前へ進もうとしている。走り出したい衝動をなんとか抑え、ゆっくりとその場を離れる。


程なく、波紋と共に視線は消えた。



「お帰りなさい、サクヤ。どうしたの、すごい汗よ?」


すっかり顔色の良いジゼルが火を起こして待っていた。丁度淹れたてらしい紅茶の香りに、やっと肩の力を抜く事が出来た。


「……ううん、大丈夫。ちょっと多めに採ったから重たくって」


そう言って先程の貝を見せる。すると、ジゼルは目を丸くして貝とサクヤの間で視線を往復した。


やはり食べられるような代物ではなかったかと表情を曇らせていると、ジゼルの口から驚きの言葉が発せられた。


「これは……準玉貝じゃない!殻が美しいから宝石並の値段で取引されているの。スタルハンツの周辺では流通量が少ないから、これだけあればあの街で市民権を買えるわよ!」


「そ、そうなの?じゃあやっぱり食べるようなものじゃないんだ……」


「何言ってるの、聞いた話じゃ身は煮ても焼いても美味しいそうよ。だからこそ数が激減してしまったのだけれど」


ともあれ食糧はこれだけだ。早速ナイフで殻を空けてみると、見慣れた貝の身が現れる。白く肉厚で生でも食べられそうだ。


そのままでは味気無いので、塩茹でして食べることにする。ほんのりと甘く、牡蠣に近い味だった。


食事を済ませる頃には日没が訪れ、洞窟内を闇が支配する。


「ふぅ……お腹一杯だね。あんなに美味しい貝、初めて食べたよ」


「同感だわ。殻は洗って乾かしておきましょう」


両端の腰掛けに毛布を敷き、火を挟んで横になるとすぐに睡魔が襲って来た。あれだけの事があったのだから無理もないが。


「今日は散々だったわ……翔魔の相手に毒矢で意識朦朧、狂った女の相手もしたわね」


しみじみと呟くジゼル。悪気があっての事ではないだろうが、眠気は一気に吹き飛んだ。


「ご、ごめんなさい、私のせいで……。そうだ、さっきの貝!あれは全部ジゼルにあげるよ、高く売れるんでしょ?」


慌てて身を起こすと、ジゼルはやれやれといった様子でこちらへ身体を向ける。


「何言ってるの、貴女を助けたのはわたしの判断よ。毒矢から庇ったのも、食糧を分けたのもね。その結果ドジを踏んで死にかけたわたしの命を救って、食べ物を採って来てくれたのは貴女。それならわたし達はもう貸し借り無し、対等な関係だわ」


「で、でも……」


全てはあの館でサクヤを助けたために起こった事。ジゼルにとって得な事が少ないではないか。


「分かったわ、それじゃ貝を売って手に入った報酬の6割をわたしが貰う。それで手打ちにしましょ。その後はお互いに貸し借りの無い、ただの仲間よ。貴女が嫌でなければだけど」


「仲間……」


長らく聞いた事の無い言葉だった。


「……ごめんなさい、昨日会ったばかりよね。忘れて頂戴」


黙り込むサクヤの様子を暫し窺っていたジゼルだったが、やがてバツの悪そうな表情で撤回する。


その言葉に我に返ったサクヤは大きく首を振り、辺りに響く声でそれを否定した。


「ううん、違うのっ!仲間だなんて言われたの初めてだからびっくりしちゃって。でも……うん、ジゼルなら、ジゼルとなら私、仲間になりたい!」


目を逸らさずにはっきりと言うサクヤ。直後、思ったより大きな声を出した事に気付いて赤面した。


そんなサクヤを見て、ジゼルは声を上げて笑い出す。


「わ、笑わないでよ!こんな事言うの初めてなんだから……」


「ごめ……ごめんなさい……。っふふ、恥ずかしがるならそんなに真面目に言わなくても良いのに。耳まで真っ赤よ?」


「もぅ、からかわないで!私もう寝るからね!」


頭から毛布を被り、壁を向いて横になる。


「おやすみなさい。明日もよろしく頼むわね、サクヤ」


「こちらこそ、ジゼル」

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