第2話

喉元にヒリヒリとした不快な感触。逃れようにも身じろぎ一つすれば即座に首から華が咲く。


どうにもならない状態に頭は沸騰し、今にも破裂するのではないかという錯覚に陥りだした。


「しっかりなさい!少なくともすぐには殺されないわ。彼女が欲しい情報をわたしは持っているのだから」


そんなサクヤを落ち着かせるようにジゼルが言う。それを聞いた三田は数秒の後、身を震わせて笑い出した。


「あぁ、なぁんだ。そういう事か。あんたが1人で生き残れる訳無いよね。こっちじゃそいつの金魚のフンってワケ!」


馬鹿な、ジゼルはあの子とは違う。


喉まで出かけた言葉を、突き付けられた剣の感触が押し留める。


「どうでもいっか。山中、そいつ強いよ。もっと距離詰めとかないと油断した隙にやられるからね」


首肯した山中が一歩踏み出したその時だった。


「……?」


太陽に雲がかかったのだと思った。


頭皮を温めていた日差しが遮られたのに気付いたサクヤは、視線だけを上空へ向ける。影を作っていたのは翼を広げて飛ぶ生き物、しかし鳥ではない。


サクヤの認識では、上空を飛んでいるにも関わらず太陽をすっぽりと覆い隠してしまえる大きさの生き物を、鳥とは呼ばない。


少し遅れて異変に気付いた三田が頭上を見上げ、誰にともなく呟いた。


「何……あれ?」


「"翔魔"だわ。どうしてこんな所に……」


同じく空を仰いだジゼルの顔色が変わるのと同時に、サクヤはもう1つの異変に気付く。翔魔と呼ばれているらしい生き物から何かがパラパラと降って来ているのだ。


近くに落ちたそれを観察すると水などの液体ではない、小さくはあるが固形物である。


「……っ!!」


目を細めて再び上空の様子を見ようとしたサクヤの鼻先を掠め、頭ほどの大きさの何かが落下した。


焦茶色の表面に人工の模様が彫り込まれたその物体の正体に気が付き、すぐさま強引に身を捩って上を見上げる。


「平見お前っ……」


「山中さん!下がって!!」


翔魔に目を奪われて手元が疎かになっていた三田を押し退け、空を仰いだ格好のままで叫ぶサクヤ。視線を前方に移すと、呆けた顔で振り向いた山中と目が合う。



それが、彼女の顔を見る最期の機会となった。


先程とは比べ物にならない轟音と共に地面が波打ち、その場にいた3人の身体を一瞬宙に浮かせる。


「くそっ、何が……」


元々体勢を崩していた三田はその場に尻餅を突き、衝撃の中心地に視線を向ける。


山中の身体は浮いていなかった。狙い澄ましたように落ちて来た瓦礫が、彼女の身体を地面に押し付けたのだ。


かつて住居の外壁だったのだろうその塊は、ただでさえ崩壊寸前であったのを上空から放り投げられて原型を失っている。その隙間から這い出す様に流れ出る鮮血が、かつて山中だったものがそこにある事を告げた。


「呆けてないで、次はわたし達よ!」


瓦礫の向こうから回り込んで来たジゼルに強く腕を引かれ、再び地面と抱擁を交わす。姿こそ見えないが、背中の僅かに上を掠めて飛んで行く何かを感じた。


「大きな物を落として分断した所を襲う……奴らの典型的な攻撃ね、爪に捕らえられたら死ぬわよ」


苦い顔で上空を警戒するジゼルの顔には、気付けば珠のような汗が浮かんでいる。


攻撃を躱された事で警戒したのか、翔魔は巨大な翼を羽ばたかせて滞空していた。


人を2人は簡単に包み込んでしまえそうな巨体でなければ、その姿はほぼ鳥と変わらない。しかし、決定的に鳥とは異なる部分が1つだけ……頭が無いのだ。サクヤの知る鳥であれば頭がある部分は胴体と同じく黒光りする毛に覆われ、代わりに鉤爪とは別の人間の腕のようなものが数本蠢いている。


鳴き声だろうか、石を擦り合わせたような不快な音声に合わせて前後左右に動く腕は生理的な嫌悪感を湧き上がらせた。


「馬鹿にしやがって……何笑ってんだよ!」


それを嘲笑と捉えたらしい三田は両目を大きく見開き、サクヤから奪った弓を翔魔へ向ける。もう人質がかなりの距離を取っていることには気付いていないようだ。


「やめなさいっ、矢で射落とせる相手じゃないわ!」


気付いたジゼルの警告は間に合わず、鈍い光を放つ矢が上空へ放たれた。が、


「…………えっ?」


既に翔魔の姿はそこに無かった。正確には、矢が放たれる直前に急降下したのだ。勿論サクヤにそれが見えた訳ではなく、地面に降り立ったその姿を見て後から推察しただけに過ぎない。三田の左腕を鉤爪に抱えるその姿を。


二の腕の辺りから先を失った三田は数秒それを見つめたまま沈黙し、やがて顔から色を失っていった。


「三田さんっ!」


ついさっき殺されそうになっていた事も忘れて思わず飛び出そうとしたサクヤの腕を、がっしりと掴むジゼル。諦観を覗かせた瞳で首を横に振った。


「彼女に標的が定まっている内に逃げましょう。治療する道具が無い限り、あの出血では手遅れよ」


もぎ取った腕を弓ごと放り捨てると、翔魔は追い討ちをかけるべく再び舞い上がる。顔を真っ青にした三田は呆然として動かない。


「まだ分からないよ!それにここで見殺しにしたら、私もきっと三田さんみたいになる!」


「サクヤ……」


思わず言い淀んだジゼルの隙を突いて腕を振り払い、三田の元へ駆け寄る。抜き身のまま腰にぶら下がっていた曲剣を素早く外して両手で握ると、やはり使い方が分かる。


人の腕をもぐ程の威力と速さの攻撃に対し、おかしな形をした剣1本で立ち向かうのは心許ないが、短いダガーよりはマシというものだ。それにあの速度なら、向かってくる翔魔に剣を投げ付けるだけでも傷を負わせる事が出来るかもしれない。


「ひ……らみ?」


虚空を眺めていた三田の瞳がサクヤへ向けられる。何か声を掛けてやりたかったが、あの不快な鳴き声に身体は思わず翔魔の方へ動いた。


「お願いっ……」


両手で剣を構え、こちらへと狙いを定める翔魔を睨みながら、ゆっくりと足を横に運ぶ。


何の確証も無いが、サクヤも三田も立ち止まった所を狙われた。ならば少しずつでも動いていればすぐには攻撃される事は無いだろう。

そう思うならさっさと逃げれば良いのだが、周囲には翔魔から身を隠せるような場所も無ければ、三田を見捨てる事も出来ない。


「倒さなきゃ。動物なら……ううん、あれは動物じゃない。倒さなきゃ……」


眼のような器官は見受けられないが翔魔もサクヤへ標的を変えたらしく、巨躯を僅かに傾ける。


三田とジゼルに左右を挟まれる位置でサクヤはその足を止めた。ここなら突進を躱せるし、2人を巻き込む事も無い。


翔魔は頭部の腕を蠢かせると、翼を一際大きく羽ばたかせて少しだけ上昇する。


やる事は簡単だ。翔魔が降下を始めたら曲剣を前方に放り投げ、左右のどちらかに跳ぶ。命は奪えずとも飛べなくするくらいは出来る筈だ。


「来るわよ、サクヤっ!!」


ほんの一緒、翔魔が静止したのを確認したジゼルは、剣を構えたまま瞬きすら忘れているらしいサクヤへ叫ぶ。



そのジゼルですら忘れていた事だが、武器を扱うというのは簡単な事ではない。

正しく使い方を学ぶならまずは体力・筋力を鍛え、基礎となる型を身体に染み込ませる事でやっと入り口に立てるのだ。ジゼルも、遠い祖先もそうして確かな実力を身に付けてきた。


だが目の前の彼女はどうだ。戦いとは無縁の人生を生きて来た細腕に、小さな山すら越えた事も無いであろう華奢な足腰。何より、彼女の異常なまでの殺生への拒絶。


気付くべきだった、使い方が分かることが、即ち使える事ではないと。


警告すべきだった、武器を安易に本来とは違う使い方をすべきでないと。


そうすれば、或いはサクヤでもあの怪物に傷を負わせる事は出来たかもしれない。

少なくとも、振り上げた剣の重量につられて転倒する事は無かっただろう。



「っ、わっ……!」


ジゼルの声を合図に剣を振りかぶったサクヤだったが、片手では予想以上に重い。なまじ勢い良く持ち上げた為に重心は後方へ傾いており、それに逆らえる足腰を持たない身体は頭から地面に激突した。


暗転、突風、そして後頭部に鈍い痛み。強かに打ち付けたせいか視界が若干霞むが、どうやら生きている。


「あれ?剣が……」


転倒する直前まで握っていた筈の曲剣の重さが無い。しかしそんな事は二の次だ。


「あいつは……倒せたの……?」


答えは上空にあった。

傷一つ無い翔魔が悠然と曲剣を鉤爪に抱えている。


大分はっきりしてきた記憶を掘り起こす。


思い出した。転倒するのと同時に翔魔の爪が鼻先を掠め、手の中にあった剣が奪われたのだ。


「そんな……」


これでサクヤに残された得物はダガーのみ、曲剣の半分も無い長さのそれで戦うには翔魔は速すぎる。


「もう無理よ、逃げましょう!早くこっちへ!」


声のした方へ視線を移すと、顔を真っ青にしたジゼルがこちらへ駆けて来るのが分かった。彼女の視線を辿ると、既に剣を何処かへ捨てたらしい翔魔が再び狙いを定めるように静止している。


出会ったばかりの自分を心配してくれているのか、顔に大粒の汗を浮かべたジゼルは半ば足をもつれさせるように走っている。館の中では汗一つ掻いていなかった彼女がだ。


「……ジゼル?」


いや違う、あの汗の量は普通ではない。まるで猛暑の中を全力疾走でもした様ではないか。


「早くこっちへ来なさい!サク……ヤ……」


突如傾き始めた身体。驚いたのは他でもないジゼル自身だったのだろう、何が起きたのか分からないという顔で地面に崩れ落ちる。鎧と盾がぶつかりあい、耳障りな音が響いた。



「ジゼルっ!!」


ぼんやりとしていた頭が一斉に回り始め、周囲の情報を瞬時に収集する。


だが時既に遅し、サクヤの首をもぎ取るべく開かれた鉤爪が眼前にあった。ダガーを抜いてももう間に合わない。


思考は既に停止していた。もはや自力で採れる打開策は無いと脳が告げる。逃れられない死だけがあった。


「あーあ」


場違いな声がした。うっかりコップの水でも溢してしまったかのような、気の抜けた声。


目の前が暗くなり、すぐに明るくなった。そして紅く塗り潰される。肩には誰かの手の感触、突き飛ばされたのか。しかし、何故?


「どう……して?」


地面に滑り込んだサクヤは、驚きの表情で「それ」を見た。


肩から下、腰の辺りまでを抉り取られ、仰向けに倒れ込むそれには腕が無い。


「どうして?三田さん……」


近寄って覗き込むと、鈍く光る彼女の瞳に己の顔が映り込む。震える唇が僅かに開いたが、発声に必要な器官を失ったのであろう口からは吐息すら漏れ出す事はなかった。


「…………」


少しだけ口角を上げた三田の瞼がゆっくりと閉じられた。それがもう二度と開かれる事は無いと語るように、身体から急速に熱が失われていく。



どれ位足元を濡らす血を眺めていたのだろう?いや、ほんの数秒か。鼓膜を震わせる鳴き声に我に返る。


「そうだ、ジゼル……!」


血塗れの腕に抱えた三田だったものを地面に寝かせ、辺りへ視線を巡らせると、うつ伏せに倒れたままのジゼルとその上を旋回する翔魔の姿。動くものが居なかったからだろうか。何にせよ翔魔の標的はジゼルに移ったらしい。


と、それまで微動だにしていなかったジゼルが首だけを動かしてこちらを見た。顔中に尋常でない量の汗を掻いている。


「ジゼっ……!」


思わず声を上げかけたサクヤは、目が合った瞬間に言葉を失った。その瞳に映る色が同じだったのだ、三田を見捨てろと言ったあの時と。今度は自分を見捨てろと言いたいらしい。


「そんな……、ジゼルが居なくなったら私は……」


私は……何だ?


言い掛けて、三田の言葉を思い出す。


ーー「こっちじゃそいつの金魚のフンってわけ」


"私は誰を頼りにすれば"、きっとそう言い掛けたのだ。突然現れた見ず知らずの者に寝食を分け与えてくれた彼女が死ねば生きていけないと。


心の何処かで思っていた、ジゼルの側にいれば何とかなると、守ってもらえると。


三田の言う通り、精々が草木の栄養になる程度の価値しか無い存在がここでのサクヤである。正に金魚の糞という訳だ。


醜い己への怒りと羞恥で頭に血が上るのが分かった。噛み締めた唇から流れる血まで熱い。「あの子とジゼルは違う」などと、口には出さずとも思っていただけで心底死にたくなる。



「いや、どうせ死ぬならジゼルを助けてからだ」



自分の口から出たのかを疑うような、低く感情の無い声だった。そのせいか頭もどこか靄がかかったように現実味を失う。


真っ直ぐにジゼルの元へ足を運ぶ。翔魔が再び不快な鳴き声を上げても止まらない、気にならない。怖くて逃げ出したい筈なのに、足が勝手に動くのだ。

倒れ伏すジゼルの手元に転がっていた盾を掴み、両手で構える。苦しげな顔でジゼルが何か言っているようだが聞き取れなかった。


「盾で防ぎながら逃げれば……」


呟いて、衝撃に備える。すぐに甲高い音がして身体は後方へ吹き飛ばされた。


「ぐ……痛い……。息が、苦しい。これじゃ駄目だ」


瓦礫の山に叩き付けられた身体に電流でも流されたような衝撃が走り、呼吸にはヒュウと高い音が交じる。双眸から止めどなく涙が溢れた。


「盾を、離しちゃった。これじゃ……次は避けられない。避けないと死んでしまう。死んでしまったら、ジゼルを助けられない」


瓦礫の上、盾を探して両の手が彷徨う。衝撃の強さから何処か遠くに弾き飛ばされた事は頭で理解していたが、壊れた玩具のように瓦礫の上で踊った。


「盾……無い。何か……何でも良い、何か……痛っ」


滑らせていた掌に鋭い痛み。反射的に顔の上に翳してみると、真横に赤い線が走っている。


「痛、い……。血、私の血。痛い、血、痛い、血……。私、死ぬ?」


滴る血が顔に落ちた。上空には翔魔。

傷口からドクンドクンと鼓動を感じる。心臓は確かに胸の中にあるのに。


やはり盾は無い。再びあの化物が攻撃してくれば、サクヤの身体も三田や山中のように破けた血袋と化すだろう。その後はジゼルが。


「血……どうして、痛い?どうして……私、死ぬの?」


ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。


鼓動が早鐘を打ち、急降下する翔魔の姿が徐々に大きくなる。鳥の形をした死の姿。その爪が死神の鎌のようにサクヤの首へ届く、寸前。


血塗れの右腕が瓦礫へ潜り込み、上体は何かに引っ張られるかのように持ち上がった。


再び轟音。大小様々な瓦礫が宙に舞い、辺り一帯を砂埃に包む。


「サクヤ……」


視界は数分で開けた。


何とか身体を起こしたジゼルが目をやると、翔魔の巨体がサクヤを瓦礫ごと覆い隠しているのが分かる。最悪の結果を予知して、ジゼルの顔色が更に青みを増した。


程無く翔魔の体がゆっくりと持ち上がり、翼の上に落ちた瓦礫がパラパラと舞い落ちる。

見ると2本の足の上、丁度三角形を作る位置に、新しい足が生えていた。


否、足ではない。それよりも僅かに太く、鈍い光沢を放つそれは人工の物。ジゼルにはそれに見覚えがある。


「はぁっ、はぁっ……死ぬのは……お前だ……!」


サクヤは生きていた。両耳を掠めて瓦礫を掴む鉤爪の間で、山中が持っていた槍を突き立てている。鉤爪が届く寸前に突き出した槍が見事翔魔の胴体に食い込み、頭をもぎ取られるのを逃れたのだ。


深々と突き刺さる穂先から赤黒い血が一筋、槍を伝う。この怪物の急所など知る筈もないサクヤでさえ、致命傷を与えたと確信出来た瞬間である。


断末魔を上げる事も無く、翔魔の体がズシリと重さを増す。掌の出血のせいで槍が滑って再び瓦礫に埋まっていく。


「ジゼルの所へ……早く……」


翔魔と瓦礫の間に挟まれながらも、なんとか身を捩って這い出そうとするサクヤ。その頭に何かが当たった。


瓦礫とは違う感触のそれを払いのけようと伸ばした手から怖気が走る。


「ひっ……!」


思わず腕を引っ込めた。


人の腕。違う、翔魔の頭部に生えていた人の腕"らしきもの"だ。ひんやりとした表面にしっとりとした肌触りも人間のそれと変わらないように思えるが、同じものと認識する事は出来なかった。


頭部まで来たという事はもうすぐ翔魔との抱擁も終わりという事。気色が悪いので迂回したい所だが、大きな瓦礫せいでそれは出来そうにない。


仕方無く腕を掻き分けて出口を目指す。近くで見ると人間の腕の倍程の長さがあり、掻き分けるという言葉がぴったりだった。狭い瓦礫の中では自然と身体に密着する位置に来る為、全身を弄られるような悪寒に包まれる。


ぺたり。と、1本の腕が肩に触れた。何かの拍子に垂れ下がったのだろうと身体を揺すったサクヤだったが、その手は肩から離れない。


「えっ?」


ハッと息を呑む。瓦礫に激突した痛みで皮膚の感覚が鈍っていたのだろうか。


本当に全身を弄られているのだ。


翔魔は既に息絶えたというのに、頭部の腕はまだ活発に蠢いてサクヤの身体を這い回っている。まるで何かを探す様に。


「早く……早く……!」


言いようの無い恐怖に駆られたサクヤは一刻も早くそこから抜け出そうともがく。


しかし、腕が目当てのものを見付けるのが先だった。



「あっ、が……」


陸に住む動物の殆どに共通する部位、即ち首である。


腕の1本が首筋に触れたと思った次の瞬間には強い力で締め上げられ、喉から聞き慣れない音がした。


「ひゅっ、な……何これ、ぐひゅ……」


みるみるうちに視界が霞む。口の端からだらしなく涎が垂れるのがわかった。


反射的に腕を引き剥がそうとするが、驚く程強い力で締められている上、瓦礫の下では体勢も悪い。すぐに身体にも力が入らなくなる。


ダラリと落ちた右腕が冷たい何かに触れ、曇っていた思考に僅かな光が射した。



ーー「いい、サクヤ?貴女が持っていたこのダガーは私の剣の半分も無いわ。だけどお互いの距離が近い、狭い場所での戦いならすぐに抜けて取り回しの利く方が有利よ」ーー



昨晩のジゼルとの会話が脳裏に浮かぶ。


右利きのサクヤが剣を順手で扱うなら、当然左腰に差しておくべきだ。しかし閉所での戦闘に真価を発揮するダガーを素早く抜きたいなら、少しでも無駄を省きたい。


右手でダガーを抜き、そのまま逆手で斬り上げた。


固いゼリーでも切るような感触と共に喉が開き、顔面に何か液体のようなものがぶちまけられる。


「げほっ!げほっ!う……ぺっ、えほっ……」


呼吸とほぼ同時に口に入ったせいで余計に咳き込んでしまったが、なんとか窒息は免れた。潤んだ目で周囲を確認する。

なんと、斬り付けられた腕の敵討ちとばかりに他の腕がこちらへ殺到しているではないか。


「こ、こ、来ないで!早く……外に……!」


多くの酸素を失った脳がまだ混乱していたのだろう、もがくようにダガーを振り回しながら光が射し込む方へ身体を運ぶ。

近付いて来た腕をダガーが斬り裂くたびに得体の知れない液体が服を濡らしていくのは、不快という言葉では足りない。


獣のような吐息が自分のものだとわかったのは、瓦礫から頭が出た時だった。


「やった……!」


やっとの思いで陽の下へ這い出たサクヤが周囲を見回すと、うつ伏せに倒れるジゼルの姿があった。よろめきながら駆け寄る。


「ジゼル……?」


「…………」


反応が無い。顔から血の気が引いていくのがわかった。


「……の……が、する」


「……え?」


「水の……音がするわ」


呼吸は荒く、顔色も悪い。それでもこちらを安心させるように口の端を上げたその笑顔に、思わず目頭が熱くなる。


「大丈夫、ジゼル⁈」


「なんとかね。サクヤ……わたしの目、充血しているかしら?」


顔を覗き込むが、特に充血しているという事はなさそうだ。首を振って否定する。


「そう……ワムナの毒ね。よかった、ボーダンの毒矢なら貴女に人殺しをさせる所だったわ」


言葉の意味を察して、意図せず喉がごくりと音を立てた。


「……よく聞いてサクヤ。何処かこの近くに水場があるはずよ、微かだけれど音がする。申し訳無いのだけど、肩を貸してもらえるかしら?1人じゃもう歩けないみたいなの」


「当たり前だよ!ジゼルを置いて何処かに行ったりしない……私だって、もう戦える!」


言われるまでも無くジゼルの腕を引いて抱き起こす。簡素だが鎧を纏っているはずの身体は、思ったより軽い。


「心強いわね、ふふっ……。それじゃ騎士さん、まずは真っ直ぐよ」



力無く笑うジゼルの指示に従ってゆっくりと歩みを進めると、廃屋の群れは姿を消し、石のようなもので舗装された道に出た。


その十数歩先、あの館を見上げる位置に来た所でジゼルの足が止まる。


「この辺りだわ」


しかし、周囲には水場どころか、そり立つ崖しか見当たらない。


「別の場所なんじゃないかな?土とツルツルした石しか……わっ!」


ふと手を置いた箇所が突然沈み込み、すぐ横に大きな亀裂が走った。

否、よく見れば亀裂ではなく、隙間が空いて四角い扉が生まれたのだ。


「こういうの本当にあるんだ……映画でしか観た事ない……」


「偶然でもお手柄よ。とにかく中へ……この手の仕掛けはすぐに閉まるから」


蒼い顔のジゼルに促され、扉を押し開ける。読み通り中へ入ったのとほぼ同時に隙間は消え、一瞬の暗闇が生まれた。


ポチャン。


突然の暗転に思わず目を閉じたサクヤの耳にも届いた水音。そっと目を開けてみる。


「…………ぁ」


良い意味で言葉を失うという体験は、この先そうは無いだろう。


一言で言えばそこは鍾乳洞だった。淡い青色の光の先に澄んだ地底湖が広がっている。


「天然の洞窟に手を加えて貯水地に使っていたようね。あの穴は休憩所と言った所かしら、あそこなら水も滴っていないはずよ」


地底湖の手前、岩を削って作ったらしい人工の横穴があった。町からここまではそれなりに距離があり、水を汲みに来た者が一休みする場所は必要だろう。


「そうだね、あの仕掛けなら外のロアは入って来られないだろうし、少し横にならなきゃ」


穴の中に動くものが無い事を確かめ、ジゼルの肩を担ぎ直そうとした時だった。


糸の切れた人形のようにジゼルの身体から力が失われ、突然の事にサクヤもまた体勢を崩してしまう。


「じ、ジゼルっ⁈駄目だよ、しっかりして!」


なんとか踏み止まって身体を抱き抱えると、弱々しく胸元を掴まれた。安堵して声をかけようと口を開くが、それを遮るように荒い息遣いでジゼルが話し出す。


「サクヤ、よく聞いてサクヤ。恐らくわたしはすぐに意識を失うわ。その前に貴女に3つお願いがあるの」


「待ってよ、ジゼ……」


「聞いて。……1つ目、私の服を脱がせて肩の傷を確認するの。黒く変色しているはずだから、綺麗な赤色になるまで血を吸い出して頂戴。口に含むだけなら害は無いから」


了承を得る間も無く、震える手で自身の胸当てを外すジゼル。服を脱がし易いよう気を遣ったのだろう。


「2つ目、血を吸い出したらそこの水で傷口を清めて化膿しないように手当てを。必要な道具はこの中よ、欲しいものを思い浮かべながら手を入れれば取り出せるわ」


そう言って腰に付けていた革袋を手渡される。昨夜、毛布や調理道具を収納したあの奇妙な袋だ。


「血を吸い出して、手当て……それなら私にも出来る。3つ目は?」


「わたしが目を覚ましても人の言葉を話さなかったら……わたしの剣で首を撥ねなさい」


心臓を鷲掴みにされたようだった。最初の2つがさほど難しい注文でなかった事にほんの少し安堵したのを激しく後悔する。


「……いいわね?首を撥ねるのよ。それ以外の急所を違わず狙うのは難しい、貴女の為でもあるわ」


答えに詰まるサクヤの手が握られた。今度は力強く。


「ジゼル……大丈夫だよね?だってあんなに強いんだもん!毒なんかに……負け、ないよね……?」


しゃくりあげながら覗き込んでくるサクヤへ、一瞬だけ困ったような笑顔を向けたジゼルは直後、今度こそ完全に崩れ落ちた。



























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