第31話

 頭上から声がしたと思った次の瞬間、周囲から湧き出たかのように殺意が刺さる。全く気付かぬ内に囲まれていた。

 つい先程まで先輩風を吹かせていたのが恥ずかしい。スタルハンツからいくつかの鉄火場を経験しただけで、荒事は慣れたものと得意になっていた。


「"お前達は完全に包囲されている"って奴っスね。別にその道の達人じゃあないっスけど、全然気配を感じなかったっス」


「ごめん、私が気を付けておくべきだった」


 口調は軽いが額に汗を滲ませるレホ。森の湿度が高い事だけが理由ではあるまい。即座にマチェットを鞘に納める冷静さは、賞賛に値する。


「旅人よ、引き返すがいい。これより先は我らが住まう場所、災禍を持ち込むというのならその身は森の獣の餌となるであろう」


 そう告げるのは頭上からこちらを見下ろす集団の1人、装いの違いから察するに集団の長だろう。更に言えば集落の民に違いない。サクヤらと身体的な違いは殆ど無いが、その脚は常人のそれよりも太く、足は鳥に近い。長く発達したそれで枝をしっかりと掴んでいる。

 得物は弓と腰に下げた刃物。今は一様に弓を引き絞り、こちらを狙っている。木陰から堂々と姿を晒している者もあれば、鏃だけを覗かせている者も見受けられる。目視出来るだけで十数人、戦いにすらならない。長の言葉は決して脅しではないようだ。


「一体何なんスか。いきなり偉そうに"殺すぞ"とか言われて背中は見せられないっスね」


「レホ、抑えて。ここは私が」


 だがレホの言う事にも一理ある、踵を返した途端に矢の雨に降られる可能性も無くはない。ハリネズミはご免だ。


「皆さんの土地に勝手に近付いた事はお詫びします。でも、今から引き返してはそれこそ夜の森の餌食になってしまうでしょう。一晩でいいんです、集落の隅を使う事を許していただければ夜明けには出て行きますから。もちろんお礼も出来ます」


「…………」


 長の男へ向けて懇願するが、返答は無い。


「私達はグレーリンに登りたいだけです、皆さんの暮らしを脅かすつもりはありません」


「……小娘め。その浅慮、怒りを通り越して憐れみすら覚える。既に貴様らは我らを脅かしているのだと知れ」


 周囲の殺意がその鋭さを増した、ように感じた。取り付く島も無いとはこの事だろう。街で仕入れた情報では善良で友好的な民だと聞いている。鵜呑みにしていた訳ではないにしろ、一応対価を払って得た情報だった。あまりの情報との落差に、サクヤは落胆を隠し切れない。

 とはいえ引き返すという選択は自殺と同義だ。昼でさえ人の身ではかかる火の粉を払うのがやっとの森だが、夜になればその危険度は跳ね上がる。グレーリンを目指すなら日がある内に森を抜け、洞窟なりを見付けて朝までやり過ごすか、点在する集落の厄介になるのが定石なのだそうだ。

 太陽の位置からすれば間も無く日は傾き始める。サクヤ達が生き残る為には集落へ行くしかない。どうすれば……。


「あの……」


 緊迫した沈黙を破ったのは、消え入りそうなキルトの声。


「キルト、今は下手に喋らない方が……」


「この人達、様子が変です。何かに……怯えているような……」


 長の男との会話に集中していたサクヤはその言葉に、己の視野が狭まっていた事を自覚した。言われてみれば、こちらへ向けられる視線が時折何処かへと逸れている事が分かる。


「この連中がチラチラ見てるの、あの山っスよ」


 すぐさまレホによって示された視線の行方に、集団の殺意が確かに揺らいだ。動揺によって。


 出会ったのがこの2人で良かったと、サクヤは心底から思った。かつてのサクヤのように恐怖で思考を停止する事も、誰かのように短絡的な暴力に訴える事も無く、冷静に判断出来る人物で良かったと。


「皆さんの心配事は"悪食"……違いますか?」


 おかげで交渉の余地を見出せた。


「あくじき?何スかそれ」


 無論彼らの嗜好についてではない、ここでのその言葉はとある存在を指す。


「私にも詳しい事は分からない。確かなのはグレーリンに居る事だけ」


 説明は後だ、動揺を突く絶好の機会を逃す手は無い。


「私達の目的はあくまで悪食、皆さんの暮らしに害を及ぼすつもりはありません。正体を突き止めたいだけなんです。もちろん、望まれれば討伐も検討しましょう。ですから!」


「何度も言わせるな小娘。貴様らは既に災禍そのものよ。あれを討伐と言ったか?同じ大口を叩いた腕自慢共の末路を知らぬと見える、一様にロアとなって山を降りて来たわ」


 長は冷静だった。怒りも、怯えも滲ませず、顔色一つ変える事なく、一蹴した。


「果ては遠く他所の国で名を馳せたロアまでが悪食の強さの程を見ようと現れる始末よ。今やグレーリンは混沌と化し、明日にも女神の寵愛を失うであろう。誰が悪食の討伐など頼んだ?我らは山から出る事の無いモノになど関わらぬ。貴様らの偽善と功名心、それこそが我らに害なすモノの正体よ」


 失態だ、大失態だ。よりにもよって、彼らにとって最も忌避すべき存在を交渉の場に持ち出してしまったのだから。キルトが勘付き、レホが導き出してくれた要素を考え無しに使ってしまった。


「……どうしても、聞き入れてはもらえないんですね?」


 この場に居る者の中で一番愚かなのは間違い無くサクヤであろう。未だに学習しない己に嫌気が差す。


「無論。加えて、災禍の芽は摘んでおかねばならぬ。引き返すか否かに関わらずな」


 自らの愚によって招いた事態ならば、せめて後ろの2人は守らなければなるまい。例えそれが愚を重ねる行いであるとしても。

 散っていた殺意が再びサクヤの元へ収束する。後は長が命ずるだけで3人の短い人生が終わるだろう。だが、サクヤが呪力を展開するのはそれよりも速い。

 つがえられていた矢がいよいよ引き絞られる。放たれたが最後、サクヤには避ける目も脚も無い。だが、現れた炎は矢が届くより前に灰と変える。


「……2人共、そこを動かないで。私から離れないように」


 後方の2人にだけ聴こえるように囁く。手が届く程度の距離ならば巻き込まない自信がある。後は展開した呪力を炎と変えるだけだ。



「皆、矛を収めよ!己と仲間の命が惜しくばな!」



 突如響いたよく通る声はサクヤ達の物でも、ましてや長の物でもなかった。

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