第25話

「ニャーオーゥ」


瞼が開いたのは、呑気なこの鳴き声のせいだろうか。


サクヤの身体は湖のほとりに横たえられ、服に着いた血が澄んだ水を汚している。ひどく冷えてはいるが、どうやら呼吸は止まっていないようだ。震える手足を不恰好に蠢かせて岸に上がる。


とにかく身体を温めなければ。そう本能が命じたのだろうか、気付けば手の中に小さな炎が生まれていた。触れても皮膚を焦がす事は無く、全身で包み込むと温かい。鼓動が正常な動きに戻るにつれ、周囲の様子を観察する余裕が出て来た。


「あの洞窟……か。私、どうやって……?」


「ニャーオゥ」


視線を湖面に向ける。鳴き声の主は当然あの謎生物。巨大な眼でサクヤを捉える事数秒、意識を取り戻すのを待っていたかのように水中へ姿を消した。おぼろげな記憶を掘り起こせば、おぼつかない足取りであの生物に乗り込んだ時の光景が僅かに浮かぶ。ここへ辿り着いてから意識を失ったのだろう。


「生きようとして、脳が身体にやらせたのかな……」


冷静に分析して、サクヤは自嘲した。


それから火を起こし、準宝貝を食べて体力の回復に努め、朝を待った。淡々とこなす様子を彼女を知る者が見れば、その異様な光景に眼を疑っただろう。しかし当の本人にその自覚がある筈は無い。


差し込む朝日に眼を細め、顔を洗う為に湖の岸辺に向かうサクヤ。静けさを取り戻した水面は澄み切り、湖底の水草が朝日を反射して美しい。少なくとも、そこに紛れ込んだ無粋な金属を容易に見付けられる程度には。


「あれは……もしかして」


手を伸ばせば届く位置にあったそれを掴んで引き上げる。


「どうしてここに?ひょっとして私が?」


見間違える筈も無い。吸血種のロアたるジゼルが用いていた、おぞましき腐食の剣だった。最後に見た時は床に刺さったままの筈だが、朦朧とする意識のサクヤが持ち帰ったのだろうか。しかし見た目よりも軽く、何より驚異的な力を持つこの剣を手放す理由は無い。洞窟を出てから見付けた適当な鞘に納めてからレザリクスに仕舞った。時間の流れの遅い空間にあれば腐食が進むのも自然と遅くなる。





スタルハンツの門番は先日と同じ人物だった。どういう訳かサクヤを目にするなり顔色を変え、怪我の無い事だけを確認すると何も言わずに通過させてくれた。


街を離れていたのはせいぜい2日か3日という所だが、建物の破損が残るのみで、初めて訪れた時のような活気を取り戻していた。


「サクヤさん⁈ご無事だったんですね。逃げた先では見かけなかったので心配してたんですよ!」


人の流れに任せて通りを歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められる。声のした方を向くと、買い物の途中だろうか、籠を提げたペレンネがこちらへ早足で向かって来た。


「あれからレザリクスの調子はいかがですか?そういえばジゼルさんの姿が見えませんが、別行動でも……」


どの辺りから話すべきか逡巡するサクヤが口を開くより先に、険しい目付きのペレンネに腕を掴まれる。


「あの……」


「一緒に来て下さい!!」


「え?あの……」


問答無用で歩き出すペレンネ。強張った表情とは裏腹に腕を引く手から敵意のようなものは感じない。急ぐ用事も目的も無いので黙って付いて行く事にした。


無言のまま連れて来られたのは、見覚えのある外観の店。血の跡や破損は綺麗に修理されている。


「マスター、マスターは居ますか⁈」


直ったばかりであろう扉を乱暴に開いたペレンネは店内を見回し、周囲の視線など気にならない様子で声を上げた。程なく店の奥から黒服を従えた老人が姿を現わす。


「他人の店で、はしたない振る舞いは控えて頂けますかな?君ももう立派な店主に……おや」


眉根を寄せてペレンネを諌めようとしたマスターもまた、サクヤの顔を見るなり口をつぐむ。


「顔に怪我をした覚えは無いんだけどな……」


「用件は分かりました。ペレンネ、君は少し待っていて下さい。サクヤさんはこちらへ」


マスター直々のエスコートで通されたのは館の情報を仕入れた例の一室。前回との違いは黒服が居ない事か。サクヤに椅子を勧め、自らも着席したマスターは思考の読めない瞳で両手を組んだ。


「さて……さぞお辛い目に遭われたのでしょう、みなまで言う必要はありませんよ。と言いたい所ですが、あの館に関しての情報を持ち帰られているのであれば話は別です。ジゼルさんと仰いましたか……お連れの方はどちらに?」


「……あぁ、やっぱり。知り合いじゃなかったんですね」


事の次第を話すのにそれほど時間はかからなかった。ジゼルの正体とミナトの思惑、サクヤを取り囲んでいた虚実。それらの悉くを焼き尽くしてここに居る事。


「なんと……まさかルミリア本人に彼女の情報を提供していたとは。私は街の外から流れて来た後にこの店を継いだもので、館のご息女のお顔を存じ上げないのです。しかしこれで合点がいきました、彼女は先代の頃からの符丁を知っていたのでしょうな。ご贔屓にして下さっているどなたかのご息女かと思い、失礼の無いように振舞ったのですが」


一連の話を黙って聞いていたマスターは額を指で押さえた。流石の彼も想定外だったらしい。


「ロアの大群も彼女が招いたものでしょう。意図した事かどうかは、今となってはどうでもいい事です」


決して少なくはない数の人間が命を落とした筈だが、サクヤにはそれがどこか他人事のように感じられた。自分が死なない限りは全てが他人事には違いないのだが。


「私が知ってる事はこれで全部です。それで……代わりに情報を頂けませんか?」


ジゼルを伴って街を訪れた張本人とは思えない淡白さで話を切り出すサクヤの様子に、マスターは僅かに眉根を寄せた後、惜しむように瞼を閉じた。

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