第10話 女神様の名は

 女神様は、机までゆっくり歩いてくると、ふうと息を吐く。そして、盆に乗った三つの湯呑を、それぞれ二人と自分の近くに配り、籠を机の中央におろした。


「さあ、どうぞ。もっと楽にして、気張らなくてもいいんですからね。ふふ」


 目に見えて、動きがぎこちなくなっているようだ。いや、神様だから見えなくてもわかるのかもしれないな。そう言われても、畏まってしまうのが人の悲しい性。


「あ、はい。これ癖みたいなものなんで、気にしないでください」


 作り笑いでこんなことを言ってしまう情けなさよ。ちらりと横を見てみると、充希の動作が堅い。なるほど、これは神様じゃなくても気づいてしまうな。

 真中の言葉を受けた女神様は、手で口の辺りを少し隠しながら、本当ですかと悪戯っぽく笑って言う。その後、机を隔てて二人と対面する椅子に腰を下ろした。

 


 さあ、忘れてしまう前に、先生から預かっている書簡を渡してしまおう。

 そう思い立った真中は、何か発言しようとした充希を制止して、鞄から件の書簡を取り出した。

 俺が手に取った書簡を見たとき、ほんの一瞬女神様の顔から笑みが消えた気がしたが、まあ、気のせいだろう。


 真中が書簡を差し出すと、左手でそれを女神様が受け取る。真中の触れた女神様の手は柔らかく、優しく、そして暖かい。神様にも赤い血が流れているのだろうか、とぼんやり疑問に思う真中だった。


「それ、宗通先生からの預かりものです」

「ええ、待ち望んでいたものです。お二人とも、本当にありがとうございます」

「何か頼み事でもあったんですか? 私たちより、師匠が来た方がよかったのでは」

「師匠? ああ、宗通の事ですか。いえ、そんなことはないですよ。寧ろ、あなた方に来ていただいて良かったくらいです」


 それは、よかった。しかし、何の書簡なんだろうか、態々内容を聞き出そうなんて野暮なことをするつもりは毛頭ないのだが、気になるものは仕方がない。

 なんとか、逸る好奇心を抑え込もうと、真中は書簡の事を記憶の片隅に追い遣ることを試みる。


「ところで、女神様はずっとここにいらっしゃるんですか?」

「ええ、かれこれ三百年ほどはここに住んでいますね。ふふ」


 彼女が事も無げに、笑いながら答えた三百と言う数字に、真中は動揺して頓珍漢な質問を充希に投げかける。

 

「三百年……。充希、三百年後の俺たちって何してると思う?」

「死んでるんじゃないですか」


 何を言ってるんだこいつは、とでも言いたげに真中を凝視した充希は、あっさりとそう答えた。

 まあ、当たり前だよな。俺はどうしてこんな事尋ねたんだ。馬鹿なのか。

 間抜けな質問をしてしまった、と彼は後悔したが、それと気づかれない様に平静を装って言う。


「だよな、桁が違う」


 神様は長寿だというのはよく言われていることだが、こう目の前で聞かされると改めて驚かされる。何年生きているのだろうか。

 女神様だし、こんな事聞くのは失礼だよなあ。などと遠慮している真中の心など知らず、充希はずけずけと踏み込んでいく。


「女神様は一体何歳なんですか?」

「いくつでしょうね。私達は、何時生まれたかというのが、厳密にはわからないものですから。恐らく、二千年ほどでしょうか」


 驚いた充希は、ええ、と大声をあげると、真中の腕を掴んで揺すりながら、大きく見開いた目で彼を見て言った。


「聞きましたか、萬屋さん。私達が十回ずつ人生を繰り返してもお釣りが来ますよ」

「ああ、想像もつかないな。宗通先生もそれくらい生きてるのかな」

「宗通は、既に四千年は超えていると思いますよ」


 さらに規模の大きい数字に、つい真中は嘆息し、顔を下に向ける。


「はあ、四千年……か」


 人間と神様の邂逅が、歴史上は三千年前となっているのだから、それより前には既に生まれていたことになる。とんでもないことだ。それでは、五十年の歳月など誤差の範囲内でしかないのも当然だ。


 そこで、ふと疑問が湧いた真中は顔を上げて、充希を凝視する。

 あれ、そういえば充希はいくつなんだ。


「充希、あんたは何歳なんだ? 俺は二十だけど」

「二十二ですが。というか女性に年齢を聞くなんて、無神経にも程がありますよね」


 この人は鳥頭か。ついさっきの自分の発言さえ、覚えていないのだろうか。

 にしても、年上だったとは、言葉遣い改めた方がいいのかな。癪だけど。


「ああ、すみません。知っての通りの無骨ものですので。赦してください、橘さん」


 後頭部に右手をかぶせて、軽く頭を下げながら、真中は充希の言葉に応える。


「いや、私は別にいいですけどね。その気持ち悪い言葉遣いも辞めてください。今まで通りで問題ありません」

「そうか」


 気遣いは無用らしい。少々気が強いが、こういうところが付き合い易くて助かる。


「そうだ、御礼状をしたためますので、暫くお待ちいただいてよろしいですか」


 そう言って、女神様はまた部屋を出て行った。



 ここまで走ってきたのと、緊張と、話していたので、喉が渇いてきた真中は、出されたお茶を一気に飲み干す。少し苦味が強く、飲んだ直後はあまり気分が良くなかった。しかし、しばらくすると体中の緊張がほぐれて、さっきまでの疲れが吹き飛んでしまった。

 驚いた真中は、帰ってきた女神様に、これはどんなお茶なのかと尋ねる。


「これですか、この地域で採れる十快草という薬草を茶葉として使ったものですよ。これを飲むと、たちまち疲れが取れて元気になったでしょう?」

「ええ、凄いですね、これ。最初は苦くて飲めたものじゃないな、とか思ったんですけど、良薬は口に苦しってやつなんですかね。ははは」


 話を聞いていた充希も湯呑に手を伸ばし、茶を飲み干す。最初はあまりの苦味に、目を瞑りながら舌を出して小さな悲鳴をあげていたが、効き目が表れてくるにつれて、その効果に驚き目を見開いて、口を大きく開けていた。

 そのまま、真中と顔を見合わせると、無言のまま目でやり取りをしたのか、互いに頷いて見せた。


 二人の様子を見ていた女神様は、優しく微笑みながら書状を差し出して言った。


「これを宗通に渡して頂いてよろしいでしょうか。それと、門下生をあまり扱き使うのは感心しませんね、とお伝えください。あなた方も大変だったでしょう。ふふふ」

「いえ、そんな」

「そんな、私が無理を言って使いをさせて頂いたんですよ。宗通先生は、私達の身を案じてくださったほどですからね」

「あら、道中に何か危険でも?」

「あ、いえ。何でもないですから、お気になさらず。……こら」

「すみません、迂闊でした……」


 斜め下を向いて小声で真中に謝る充希。

 危ないところだった。本当におしゃべりだなあ、もう。いつ失言するかとはらはらして、こっちは心休まる暇がないぞ。

 こうやって、しおらしくしていると可愛いんだがなあ。


「それじゃ、その書状は確りと先生の元へ届けさせて頂きますのでご安心ください」


 そういって真中は立ち上がり、それに続いて充希も立ち上がる。

 それを見て、少し驚いたような、残念そうな表情で女神様が言う。


「あら、もうお帰りになるのですか?」

「今日のところは。早く帰って来い、と先生からも言われておりますので」


 嘘は言っていないぞ。


「そうですか、仕方ありません。また、暇な時にはいらしてくださいね」

「ぜひ」

「女神様、この度はお世話になりました。書状は責任もってこの私が、不肖橘充希が、師匠に届けますからね! もちろん、またお邪魔させてもらいますよ!」

「ふふ、お願いしますね」


 にっこりと笑う女神様に見惚れる真中は、はっと我に返ると、そそくさと帰り支度を始める。先に支度を終えた充希につつかれながら、真中が支度を終えると、二人と一体は屋敷の外へと向かった。



 屋敷を出て、二人は帰路に就く。

 少し行ったところで、追いかけてきた女神様は、息を切らしながら言った。


「あの、私の名前を教えていませんでしたね。私は透華蓮すき かれんと申します。以後、お見知りおきを。ふふ」










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る