第2話 見知らぬ人影
役局でハーレム願書を突き返された真中は、家までの帰り道の間、ハンコとは一体何なのかという問いに悪戦苦闘していた。
人間社会には神様の役所の説明書などというものはない。
神様に関わることを知るには倫学所に行くか、修学者から講義を受けるか、実際に神社会へ入るしかない。
だが、神社会に入るのは手続きが煩雑で時間がかかる。
倫学所に聴きに行くという手段もあるが、こんな世俗的な事柄を聞いたところで宗通先生が教えてくれるとは考えにくい。
彼は別にそういうことを嫌っているわけではないが、神倫教育の場に身を置くものとして、積極的に教えようとはしない。
真中としても散々世話になった恩義もあり、神格者でもある先生を困らせるようなことはしたくないと考えている。
となれば残る選択肢はただ一つだ。
人間の修学者から講義を受けること。
だが倫学所では教えない事柄は
最悪の場合は宗通先生に頼るしかないか、と真中はため息をつく。
しかし、こんな所で落ち込んでいても始まらない、と気を取り直すと、大きく深呼吸した後両頬を手で軽く叩き、家へ向かって走り出した。
もちろん、彼を追う陰の存在になど気付いているはずもなかった。
真中が家に着く頃には、大分空も暗くなっていた。
神役局への道は転界路と呼ばれ、人間社会の至る所に存在し、これを利用して境界領域との間を
真中は家の近くの転界路を通って役局へ行き、帰って来たのだが、それでも昼前に家を出てからかなりの時間が経っている。
転界路それ自体の形は様々だが、決まってその終わりは闇に包まれている。
そのため転界路の外から観察していると、歩行者が暗闇の中へ侵入して行く奇妙な光景が見られる。
しかし、路を歩く本人の体験する現象は、これとは異なるようだ。
前進している間に少しずつ白い光に囲まれ、その光が周りの空間に満ちた時、ほんの一瞬だけ上下が入れ替わるような感覚に襲われるという。
そこから更に前進していくと、今度は白い光が徐々に振り払われ、転界路を出ると転界が完了するとのことだ。
よって、転界路とそれぞれの場所の繋ぎ目は目視できず、その空間がどうなっているのかは不明である。
外から見る分には距離がそれほどあるわけではないのだが、神頼みの前には時間をかけて、二度三度と熟考してから来るように、というのが神様の方針である。
そのため、転界路を通る際は空間に歪みが生じて、実際の距離以上に長い距離を歩くことになり、それなりの時間を要する。
「さて、大分遅くなってしまったなあ。これは母さんにド叱られるぞ。やだやだ」
真中はそういいながら玄関のドアを開けると、小走りで台所に近づく。
何やらトントンと音が聞こえるが、夕飯でも作っているのだろう。
さあ、ここからはタイミングが重要だ。
先に見つかってしまうと間違いなく叱られてしまうだろう。
だがしかし、ここで先手を打つことができれば色々騒ぎたててうやむやにしてしまえるだけの話術を俺は持っている。
こともないが、母さんはいわゆる親ばかだ。
こちらから甘えてしまえばそう怒られることはない。
「よし、いくぞ……」
真中は勢い良く台所に飛び込み、目を瞑ったまま反論の隙を与えず早口で弁明する。
「ごめんなさい母さん。実は今日は神社会に行っててさ、もう宗通先生ったらずっと離してくれなくて一日中相手をしてたんだよ。それから転界路を通って帰ってきたもんだから、それはもう時間がかかって仕方なかったんだ。だから、俺は悪くないんだよ、不可抗力なんだよ。本当にごめんなさい」
用意していたセリフを言い終えると、瞑っていた目をゆっくり開く。
しかしそこに母の姿はなかった。
「あれ、あっ、今日は母さんいないんだった。びびって損したな、なんだよ。俺に宗通先生を裏切るようなことさせやがって」
いやあ、おっちょこちょいだな。
こんなことを忘れてしまうなんて。
とりあえず父さんはまだ帰ってこないだろうし、ゆっくりできそうだ。
あれ、誰もいないならさっきの物音は一体何だったんだろうか……。
まあいいか。
真中が安堵したその時だった。
「修学者たるものが人を騙してもいいんですか? 免許状はく奪されちゃいますよ」
ん、誰だ。
今この家には俺一人しかいないはずなのだが、幻聴か。
彼は辺りを見回してみるが誰も見つからないので、怪訝な顔をする。
「無視ですか、倫学所に密告しますよ?」
幻聴では無いようだが、とりあえず放っておくとまずい。
教えに背くと、折角倫学所に通った努力が無駄になってしまいかねない。
言い返そうにも相手の所在がわからないので、真中は天井に向かって叫ぶ。
「いや、本人の前で密告しますよはないだろう」
「やっと、相手してくれる気になりましたか? どうも、萬屋さん」
「あ、ああ、萬屋と言っても何か営んでるわけでもないけどな。一体何の用だ。神に教えを乞い、人として神の僕たるに相応しき良識人を脅すなんて許されないぞ」
「今教えを破ったばかりの人が、そういうこと言えちゃうんですね」
「破ってなどいないぞ。母さんがいなかったからな。あれは、独り言っていうことでセーフだ。たぶん」
恐らく宗通先生は全部お見通しなはずだ。
もしこれで俺の資格がはく奪されるならとっくにそうなっている。
だからこんな脅しに屈する必要など全くないのだ。
「へえ、神様って随分甘くてお優しいんですね。ますます楽しみになってきた」
「一体誰なんだ、せめて姿を見せたらどうだ。卑怯だとは思わないのか」
「おっと、そうですね。これから神倫を学ぼうという者が、こんなはしたない真似はするものではないですね」
何者かがそう言うと、部屋の外で足音が聞こえた。
「既に脅迫というはしたない真似をしてただろうが。さっき」
「それじゃ、こっちに来てください」
真中の言葉には反応を示さず、部屋の外から声がした。
彼はここで反抗するのは得策ではないと考え、彼女の言う通りに廊下へと出る。
そして玄関の方向へ体を向けた時、背後の階段から人の気配を感じ取った。
「振り向かないでくださいね。今、あなたの後ろにいます。これからどうして欲しいですか?」
なるほど、すぐ後ろから声がする。
背後をとられた真中は反射的に両腕をあげ、何者かに向かって話しかける。
「どうって、まずは姿を見せてくれよ。話はそれからだろ」
「わかりました、こちらを向いてください。ゆっくりと」
言われた通りに彼が振り返ると、知らない女性が其処に立っていた。
背丈は真中よりも少し小さい。
その華奢ではあるが、丸みを帯びていて凹凸のある体つきは、異性に慣れていない彼に、触れることを躊躇させる。
体で隠れていてよく見えないが美しい黒髪は真直ぐに伸びていて、その大きな目は少し吊り上がり、細い眉もそれに倣う。
口角の上がった小さな口にぷっくりとした唇は真中をひきつける魅力があり、興奮気味に頬を少し赤らめていた。
警察呼んだほうがいいのかな。
したり顔でにっこりと微笑むこいつは、一体何者なのだろうか。
そんな考えが頭の中を駆け巡りながら、真中は呆然と立ち尽くす。
数秒の後、正気を取り戻した真中は頬を掻きながら彼女に尋ねる。
「えっと、どちらのどなた様で、どうやって家に入ったのか教えてくれないかな」
「おっと失礼、私は
真中の質問を受けて少し慌てたそぶりを見せた後、彼女はそう答えてお辞儀した。
今更礼儀正しく見せてなんだよ、と真中は思ったが、口には出さない。
「お願い? 俺に頼み事なんて物好きな奴もいたもんだ」
真中がそう言った時、彼女の顔から感情が消え失せたように見えた。
「いえ、あなたでないといけない、というわけでもないんですけどね。さっき神役局にいらっしゃったじゃないですか。それを偶々お見掛けしてですね。まあ、あなたでもいいかな、ということでめでたく選ばれたわけです。おめでとうございます」
顔色一つ変えず平坦にそう言い放つ充希の姿は、言葉に感情が籠っていないことを如実に表していた。
頼みごとをする立場の人間だというのにやたらと偉そうだな。
そんなに俺でなくてもよかったって強調する必要無いだろうに。
それに神役局からずっと追いかけてきてたのかよ。
ストーカーだよ、やっぱ通報しようかな。
しかし、わざわざ神役局で人を選んでする頼み事というのは少し興味があるな。
通報は後にしてちょっと話を聞いてみるか。
とにかく好奇心旺盛な真中にとって、それは聞かずにいるのはもったいない、と思
わせるに十分なものだった。
真中は立ちっぱなしでいるのも疲れたからと、充希を伴って階段を上がると自分の部屋に彼女を招き入れ、座布団を二つ敷き向かい合って腰を下ろす。
その後一度立って茶を入れに行こうとしたが、彼女が断ったので止めて、再び座布団の上に胡坐をかき、彼女の目を見つめながら勇ましい声で喋り始める。
「よし、この際多少の無礼には目を瞑ろう。その頼み事っていうのを聴かせてもらおうじゃないか」
真中がそう言った途端、最初に対面した時以来眉一つ動かさずにいた彼女の顔がほころんだ。
「本当ですか! ありがとうございます。頼み事というのはですね、その……」
少しもじもじしているのが可愛い。
が、俺は色目を使われたくらいで判断を誤るような軟派な漢ではないぞ。
そういった真中の目は充希をまじまじと見つめ、しっかりと脳のメモリに彼女の姿を焼き付けた。
この後HDDに保存するかどうかは、この後の流れ次第だ。
そう心に決めて、彼女の次の言葉を待ち続ける。
しかし、人に頼みごとをすることに慣れていないのか、喋ることを躊躇しているようでなかなか先へ進まない。
じれったくなった真中は、早く喋らないと聞かないからな、と発言を促した。
すると、彼女は思い切ったように深呼吸した後、大きく口を開いて言う。
「えっと、私を倫学所に推薦して頂きたいんです!」
何を言っているんだと真中は思ったが、彼がその言葉の意味を頭の中で咀嚼する間を与えることなく、彼女の口からは次々と言葉が発せられた。
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