#3 「AとB」
土曜の朝に目が覚めると少し損をした気分になるのはなぜだろう。
慌しい学校生活との戦いに安息を求めるのは学生戦士として当然だ。しかし母さんのネットアバターは朝っぱらから布団で眠るぼくに草むしりを手伝えという。そのくせ本人は昼から職場の同僚と買い物に出かけると云って、昼飯も作らずに出て行ってしまった。
「なんたる所業。母親としての責務を果たせ!」
百歩譲って草むしりと昼飯の件は許すとしよう。しかしそれならそれで少しくらい見返りをくれたっていいじゃないか。つまるところ小遣いだ。五百円でいい。十六歳の血潮みなぎる労働力がたったのワンコイン。大変お買い得であろう。それともあれか。ぼくには五百円を払う価値すらないのか。貴女にとって息子とは奴隷か。
「まあそうなんだろうな」
ぼくはこの家庭内圧政に断固として抗議する所存であった。許せん。屈辱と執念の涙を薬缶いっぱいに注ぎこみ、胸のうちにメラメラと燃える復讐の炎で湯を沸かし、怒りのあまり湯捨てついでに麺までどばぁしてしまったカップ焼きそばをゴミ箱に放り投げ、それが家に残された最後の食料であったと知ったときには怒髪天、口から火を吹きながら自室に戻り、修羅の如き形相で着替えをし、さながら突撃兵が蹴破るかのように玄関の扉を開け、……そっと閉め、またも修羅の形相で施錠をし、狂ったように愛犬と戯れ、唾液まみれになった服にさらに憤怒、その一切を乾かし尽くすべく自転車で猛疾走した。
そうして伊ヶ出高校にたどり着くころには、なんだかものすごく虚しい気持ちになっていた。このやり切れなさは一人で慰めたあとのあの空虚感に似ていた。おまけにこれが土曜日であると思うと尚さら気分が滅入ってくる。
「疲れちまったな……。何もかもにな……」
休日のグラウンドでドカベンごっこをする野球部員たちを尻目にぼくは悩ましげな空腹を抱え、いつの間にか先日の悪友が呟いていた言葉とまったく同じものを口にしていた。
「なんかあったかい飯が食べたいな……」
そこで天啓を受けた。
今日が土曜日ならばあいつがいるじゃないか。この閃きに胸いっぱいの期待を添え、ぼくは猛尾和長のいる美術部へと歩を向けるのであった。
「……珍しいな、今日は土曜なのに」
ぼくが美術部のドアを開けると、和長は筆を休めてそう言った。
和長はこの一年間、放課後はほとんど筆を動かす時間に費やしていたけれど、たまに思い出したように<改奇倶楽部>へと顔を出しては静かにコーヒーを飲みながら、安藤さんとぼくの話に付き合ってくれている。
そして都市伝説の偽造を計画する日には、ぼくらになにか面白いものを用意してくれて、その度に決まって「次はもっとクオリティの高いものを造る」と云ってくれた。心の友よ。明日世界が滅んでもぼくはお前との友情を信じよう。
「おれになにか用か」
「学生に許された貴重な休日を一筆に捧げるその精神を称えに来たのだよ」
彼は壁にかけられた時計に目を向けた。
「もう昼か」
「何時から来てんの」
「八時だ」
「早いなあ」
「予備校のカリキュラムと同じ時間で調整している」
「ぼくはさっきまで草むしりやらされていたよ。予備校だと、お昼は何時に食べるんだって?」
「丁度この時間くらいだ。一時からまた再開する。……見越して来たのか?」
「いやあ」
和長が怪訝そうな顔つきでぼくを見た。
「家に食べ物がなかったんだよ。最後のカップ焼きそばも台所に流れてしまった」
ぼくが正直にそう云うと、彼は隣の美術準備室から電気ケトルとカップ麺を二つ持ってきてくれた。
「和長は予備校には行かないの?」
ふたりでカップ麺をすすりながらそんなことを話す。
「講習の費用がばかにならんからな」
「いくら?」
「十五万」
「それはまた……」
「引っ越しのバイトがまたあればいいんだが、今はすっからかんだ」
「バイクなんて買っちまうからそうなる」
「だが予備校に行ったところでやることは変わらんよ。少しいい環境で絵が描けるようになるだけだ」
「そうなの? よく知らないんだけど、美大の予備校ってなにすんだろ」
「基本的にデッサン漬けらしい。先生からはそう聞いている」
「ふうん。今描いてんのは、自画像?」
「ああ。……この時期に描いておこうと思ってな」
ぼくにはあまりそちらの知識はないけれど、和長が言うには、しばしば美術部の部員たちには自画像を描きたがる傾向があるという。
「その意図は?」
「今の時期で自分がどういう描き方をしているのか。どう自分を表現したいのか。どういう被写体になるのか。どんな顔をしているのか。……理由はいろいろあるが、概ねそんなところだと思う」
「和長は、どうして?」
「おれは――」
そこで和長は視線を落とし、
「本当の自分がなんなのかを探っている」
「なんだよそれ」
ぼくはぶっと吹き出す。和長がそんなことを云うと、決まりすぎてまるでマンガだとかゲームの主人公みたいである。
「……笑うなよ。そうだ。そういえばお前、休みの前に図書室で本を借りてたな」
「なんか借りたっけ」
「ああ、たしか、レポートを書くとかなんとか言っていた」
「あ~、そういえばなにかレポートは書いた気がする」
「忘れたのか」
「うん、よく覚えてない。忙しかったからかなあ」
「薄情なやつめ」
自分が気にも留めていなかった行動を他人が覚えているというのはよくある話だけれど、和長にとってはぼくがレポートを書くというのがそんなに印象的なことだったのだろうか。
「お前は課題にアバターを使わんから印象に残る」
「たぶん安藤さんに頼まれて書いたものだろうな。都市伝説をまとめるためにやろうとしてたんだろうね、たぶん。絶対にたぶん」
「忘れっぽいやつめ」
「安藤さんは日常的にそういうこと頼んでくるからなあ」
「……まぁ、たしかに」
「ところで、今日は端本先輩は来てないんだな」
「あいつは休みの日には来ない。と言っても、毎日休みのようなもんだが」
和長は一年生の春、美術のコンクールに油絵を出展し、賞をもらっていた。その絵は審査員のひとりに高く評価されたらしいけれど、本人はどうでもいいところを褒められてしまったとひどく落胆していた。
その絵のモデルになったのが、あの端本先輩だというから驚きだ。
それはさておき、和長が描いたのはいわゆる肖像画というやつだった。
いつの間に仲良くなったのか知らないけれど、ぼくは和長と端本先輩が放課後にふたりして美術部に居残っているのを何度か見たことがある。
「和長と端本先輩って付き合ってんの?」
短い濁音が爆ぜて、ぼくの裾には和長の食べていたカップうどんの切れ端が飛び散った。
「何をいきなり……」
「いやあ、いっつも一緒にいるからさ」
「そんなわけないだろう。第一、おれはあの女に惚れてなどいない」
ぼくがにやにやしながらカップ麺をすすっていると、今度は和長が「お前こそ安藤とはどうなんだ」と聞いてきた。ぼくは「オゲッホン!」と自分でもこれはないわと思うくらいむせまくり、喉の奥から細切れになった麺やら油揚げやらが噴水の如く飛散した。
「どうって……」
「彰人からはそれなりだと聞く」
「え~、なんだよそれ……」
床を掃除しながら聞くに、かの悪友は厚かましくもぼくと安藤さんの関係が何やら悪くないと嘯いていると言う。断じていうが、ぼくにそのような自覚は微塵もない。
「実際のところはどうなんだ」
ぼくは逃げるように時計を見た。幸いにももう既に一時を過ぎている。ぼくが「そろそろ描く時間だよ」というと、和長はむっとしつつも箸を片付け始めた。
「お前はそういうことをあまり人に話さんからな」
ぼくは短く「お前もな」と言った。
しかし、恋愛か。
「なあ和長」
和長はぼくを見る。
「和長って、偏執狂だよな」
「自分で自分のことを変態だというやつは似非だ」
「なんだ、じゃあやっぱり自覚あるんじゃないか」
「それがどうした」
ぼくは予てより、訊きたかったことを言葉にすることにした。
それはぼくの知る、ふたりの男女の異常な恋愛関係のことだった。
「例えば、A子ちゃんのことを好きなB太さんがいるとする」
ぼくは美術部のモチーフに使われているらしい、マグカップくらいの大きさのだるまの置物と、それと同じくらいの大きさの、壊れて左腕の関節が外れているデッサン人形を並べた。
「このだるまがA子ちゃんで、この左腕が壊れてるのがB太さんだ」
「ああ」
「A子ちゃんはだれかが助けなくちゃいけない状況です」
ぼくが指でつつくと、だるまはごろんと揺れた。
「それはどういう状況だ、病気かなにかか?」
「まぁ、なんでもいいよ。……でも、B太くんは助けない。助けたいんだけどね」
和長が眉をひそめる。
「助けてやれよ。ぐずぐずするな。男だろ」
「B太くんは、A子ちゃんを助けたくても助けないことが、気持ちよくて仕方がないらしいんだ。罪悪感がたまらないらしい」
「変態じゃねえか」
「困ったことにA子ちゃんはその逆で、B太くんに助けられないことでB太くんを憎み続けることに快感を覚えてしまっている」
「それは……」
和長がコメントし辛そうな顔でだるまとデッサン人形を見つめている。
「B太のほうは本質的にはマゾなんだろ。お前の言葉でいうと被虐主義者だ。でもやっていること自体はサディストの下衆な趣味そのものだ。おれは恥ずかしげもなく自分をドSだとかいうような男には反吐が出るが、こいつはそれ以上に情けない」
「じゃあ、A子ちゃんのほうは?」
ぼくが訊くと、和長はこう答えた。
「体を壊さないよう気を付けるべきだ」
「お前は女の子の性癖に関しては寛大だな」
「寛大なんじゃない。その女に感情移入できないんだ。……しかし複雑な関係だな。お前はどう思ってる」
ぼくは少し考える。
「そりゃB太くんはA子ちゃんを助けるべきだろうね。それが男のあるべき姿だ。ただA子ちゃんのことが好き過ぎて、逆に嫌われたくないから現状を維持してる可能性もある。まぁ、本当のところがどうなのか、ぼくにはよくわからないけどね」
「繋がれているのはいつも男のほうなのさ」
ぼくはまた吹き出しそうになる。こいつはよくこんな臭い台詞を真顔で云えるものだとと、ぼくはたまに関心する。
「だが当人たちがそれでいいなら問題はないのかもしれん。お互いにしかわからない関係なんだろうから、それもプラトニックのありかたかもな」
「ちなみに、和長だったらどうする?」
「こうする」
和長はデッサン人形にだるまを抱えさせた。
「それができりゃあねえ」
「……そうだな。やったらたぶん、嫌われるんだろうな」
和長が手を放すと、デッサン人形の左腕がぶらんと垂れて、そこからだるまが転げ落ちていった。さすがにこのデッサン人形に、だるまの彼女は抱いてやれないだろう。
「今日はこれから雨が降るようだ。家に帰るなら急いだほうがいい」
「マジか。天気予報だと晴れだったけど」
「湿ったにおいがしてるから、多分降る」
ぼくはほんの少し鼻息をすんすんとしてみたけれど、特になにも感じない。生徒たちが描いたらしい生乾きの油絵のにおいがするだけだった。デバイスに頼ってばかりだと勘が鈍るという話を安藤さんや和長から聞いたことがあるけれど、そうかもしれない。
「明日、安藤さんと一緒に駅周辺に出かけるよ。和長も来るか?」
「晴れたら行く」
「うん。また適当に電話してくれ」
短く別れを告げて美術部を後にした。帰り際に一度振り向くと、キャンパスに向かって手を動かす和長の背中が見えた。
ぼくが自宅に着いたころ、ちょうど小雨がぽつぽつと地面を濡らしはじめていた。
なるほど和長の鼻は猟犬並みだ。
けれどこの天気では、伊ヶ出タワーに行くのはちょっと無理だろう。
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