第2話 「月夜に浮かぶのはきっと腐りきった誰かさんの魂」

 目覚し時計のベルが鳴る。

それに応えるような鳥のさえずり。

日に日に早くなる4月下旬の青白い夜明け。

一睡もできずに迎えた朝は気だるく、まだ肌寒いベランダで吐き出したため息がゆっくりと空に昇っていく。

私の手の中で飲みかけのコーヒーが冷たくなっていた。

「………梨世ちゃん? おはよう」

ルームシェアをしているイズちゃんが寝ぼけた声で、

「早いね。いつ起きたの?」

いつものように、私に話しかける。

「うん? さっきだよ」

「そっか。じゃあ、朝ご飯作るね。食べるでしょ?」

「ごめん。今日はいいや。先に行くね」

私は、最低な女だ。

いつも私のことを気にかけてくれる優しい彼女を裏切った。

「そっか。じゃあ、いってらっしゃい」

彼女が気になっていると言っていた彼に手を出した。

「うん。いってきます」

私はメイクもしないまま、逃げるように部屋を出た。



いつもより早く着いてしまった大学はほとんど学生がいなかった。

朝練中の野球部が私を追い抜いていく。

学食で朝食に焼き魚定食を食べた。

今日の魚はシマホッケだった。

小さい頃は朝早くから仕事に向かう母親の代わりに祖母がよく魚を食べさせてくれた。

そのおかげか私は魚から上手に骨が取れる。

これがなかなか男子には好評だった。

派手な身なりからするとちょうどいいギャップになる。

そんなことを考えながらトイレでメイクをし終えると、普段通学してくる時間になっていた。

私はデザイン学部がまとめられている教室棟の28号館、通称デザ学棟には立ち寄らず、心理学の講義が主に行われている26号館、心理学棟に入った。

石畳の広場を挟んで隣にあるのにそれぞれの学生が行き来することは少なかった。

心理学科の学生達の中を私は目的の教室へと抜けていく。

彼はケータイの電波がギリギリ届く地下の教室にいることが多いと話していた。

開け放たれた地下教室のドアから中をのぞくと、デザ学の学生とは違う落ち着いた感じの子が多かった。

「あれ、デザ学のリセビッチじゃない?」

のぞき込んでいる私に誰かが気付いてそう言った。

また誰かか私のことを悪く言っている。

こんな時、文句があるなら直接言えばいいのにと思ってしまう。

「この前も学食で男にフラレて水かけて修羅場だったって」

「でも何でここにいるの?」

「さあ?」

そんな気もないなら無視してくれればどれだけいいことか。

他にもいろいろなことを言われる。

メンヘラビッチだのダメンズハンターだの、サークルに入ってもいないのにサークルクラッシャーだのと言われている。

しかも全てが陰口だった。

こんなことをどれだけ繰り返せば満足するんだろう。

「何かご用ですか?」

呆れながら彼を捜していた私の背後からの声に振り返ると、白いニットワンピにカーキのMA-1を羽織った緩く巻いた黒髪がかわいらしい女の子が立っていた。

「あのー、椋木くんいますか?」

「あ、椋木くん? ちょっと待って。椋木くんお客さーん!」

彼女が叫ぶと教室全体がざわついた。

奥の方で立ち上がった椋木くんが見えた。

隣の学生と何かじゃれ合ってからこっちへ歩いてくる。

私は小さく手を振る。

「もしかしてアナタが、新しいバイトのヒト?」

彼も友達と私の話をしているみたいだ。

私のことをどう言っているんだろうか。

「ん? あ、はい。鹿山梨世です」

バイト先にかわいい子がいて、なんて話だろうか。

それとも、悪口だろうか。

「あ、どうも。カニクリです」

「え?」

「カニクリームコロッケです」

かわいい真顔で彼女は言った。

「はあ」

「カニクリ、何してんの?」

「ただの自己紹介だけど」

「あー、はいはい。鹿山さんこっちいい?」

教室の入り口から休憩スペースに歩いていく彼はいつも以上によそよそしい気がする。

「それで何の用だった?」

彼は少し早口で話し出した。

「またバイト代わってとか? それなら電話でもよかったのに」

今日は時間があるから座って話でもって思ったのに。

「ううん、違うの。昨日の、ほらみっともないところ見せちゃったなって。ごめんね」

「いや、最初からみっとない姿しか見てないから」

「えー、ひどくなーい!? 私そんなに見せてないでしょ」

「そうだね。フラレてメイクボロボロだったくらい」

彼が自然に笑った。

いつもは仕事のことしか話さずに、暗い照明のせいか笑顔なんて見た記憶がなかった。

「ひどーい! あれは忘れて。見なかったことにして。お願い」

「わかった。そうする」

彼がそう言うと、

「椋木くん! 栄川先生がいらっしゃったよ」

さっきのカニクリームコロッケちゃんが入り口で彼を呼んだ。

「わかった! それじゃ、鹿山さん」

「うん。またね、椋木くん」

彼を見送り歩き出す私の足取りは弾む。



***



「私は、カニクリームコロッケ」

なんて初対面のヒトに言うつもりなんてなかった。

私だってそれくらいの常識は兼ね備えている。

それでも言ったのは彼女が「リセビッチ」と揶揄される「カヤマリセ」で、この大学では有名人だったからだ。

もちろん、いい意味では決してない。

男に言い寄られる数も多いがフラレる数も多く、この大学だけでは飽き足らず他の有名大学の男達と合コンを繰り返しているらしい。

そんな彼女が彼と、椋木くんと知り合いだとは思わなかった。

この大学で目ぼしい男は全て食い尽くし、椋木くんみたいな地味な男の子にまでとうとう手を出すようになったのか。

そう思うと、少し意地悪をしたくなったのだ。

自分のテリトリーを守る動物のような威嚇いかく

けれど、真相は他にある。

と私はプレゼミでお世話になっている栄川先生の深層心理学の講義を受けながら考えていた。

ヒトのうわさはセンセーショナルに伝わる。

それがかわいい女の子の話ならなおさらだ。

そう、彼女はいい意味でも悪い意味でも目立ってしまうのだ。

そんな彼女がなぜ、わざわざ彼に会いに来たのか。

それを取り次いだのが私なのか。

そもそもなぜ私だったのか。

私でなければならない理由は———



***



女の子のかわいいは、価値だ。

日々自分の持っているかわいらしさに磨きをかける。

持っていないかわいらしさを見付ければそれを取り入れる。

一つでも怠ればたちまち女子の中の生存競争においていかれてしまう。

もっとかわいくならなければ、彼は振り向いてくれない。

計算高いと言われればそれは認めるしかない。

だってそれはみんなやっていること。

それを成功に導けるだけの価値を私は奇跡的に持ち合わせている。

それだけのこと。

自分の魅力を、悪いところも含めてちゃんと理解して賢く利用しているだけのこと。

「私は、悪くない」

イズちゃんに用事ができて、メロスもバイトでいなくて、予定が全くなってしまった私は、一人さみしく駅のホームで夕日を見ていた。

「さみしいなー」

好きなヒトにフラレてさみしい女の子を演じていた。

「どうしたの?」とか、「大丈夫?」とか。

そう声をかけてもらうのを待っている。

優しい王子様を待っている。

私だけを愛してくれる王子様。

私だけをずっと見つめていてくれる。

私だけの王子様。

どこに行けば出会えるんだろう。

どこを捜しても見付からないなら、誰かのモノを奪ってでも、幸せになってやる。

それでもかなわないなら、私は———

一人で生きて、一人で死んでいくなんてえられない。

それくらい思わないと恋ではない気がする。

告白して返事がイエスならハッピーだけど、そうでない時はどん底だ。

恋をしかけるし、恋をする。

同時に進展して私は私だけの王子様を待っている。

「早く返事来ないかな」

そして私はそれ以外の恋も持っている。

『ごめん。今日は会えない』

けれど、それは恋ではないかもしれない。

『明日なら会えるよ。バイトが終わったら流星群を見に行かないか?』

見付けては消えていく、流星群のような思い。



金曜日のバイトは暇だった。

日付を間違えてせっかくの金曜日にバイトを入れてしまったことを後悔した。

こんな時に限っていつも暇そうな椋木くんは予定があるそうだ。

ミオ先輩は就活のこともあってか早々に帰ってしまった。

閉店までの残り一時間、私はまたいつものようにクラゲ達に餌をやり、その残りをすくう。

そんな繰り返しの時間、私はスマホに登録した番号を見つめていた。

この番号を消してしまえばすっきりすると思う。

消さなければ、またずるずると行くだけだ。

もう確実にフラレてしまっているのに。

いきなり恋の終わりを告げられても、私にはどうやって終わらせたらいいのかわからない。

「クラゲさーん、ごちそうさまは言えますかー?」

エプロンのポケットの中でスマホが鳴った。

『車で迎えに行くから店の前で待ってて』

メッセージが届いた。

『30分には着くから』

このお話も彼に聞いてもらおう。

それで、忘れてしまおう。

「うん、わかった。待ってるね」

そう返事をすると、残りの仕事に取りかかった。



閉店作業を終えて戸締まりを確認して、お店の鍵を裏にあるオーナーの家へ返しにいく。

「こんばんわ。鍵を返しに来ました」

「おお、すまんな。一人で問題なかったか?」

「はい。全然オッケーです」

私のバイトをしている『Crystal Jellies』のオーナーは昼間の営業にしか出ない。

ほんとうなら昼間も出たくはないはずだ。

彼の奥さんは入院している。

そのお世話と看病に彼は大半の時間を費やしていた。

ミオ先輩も空いている日は昼間もバイトに入っていた。

お店のことをほとんどがミオ先輩に任されているのはそのせいだった。

「そっか。ありがとな」

大きな体のオーナーは笑った。

クラゲのペットショップをやっているのも奥さんの影響らしい。

「それじゃ、失礼します」

「おう。お疲れ様」

片時も離れたくないという気持ちが伝わってくる。

私もいつかそんなふうに思ってくれる旦那様にめぐり会えるだろうか。

「お待たせ。今日はどこに連れていってくれるの?」

「少し遠くに行こう。そこは夜景もキレイなんだ」

タバコを吸いながら待っていた彼は、いつものちょっと疲れた笑顔を静かに見せた。

「うん。楽しみだなー」

私は彼の開けてくれる助手席に乗り込んだ。



夜のイルミネーションに飾られた東京を走っている間、私は私の話をした。

かわいそうな女の子のお話。

そしてどこにでもあるお話。

涙が込み上げてくるそのお話をしている私に、彼は一つ一つ丁寧な相づちを打つ。

BGMの洋楽は会話の邪魔にならない音量のまま車の中で揺れていた。

感情と記憶がぐちゃぐちゃになって話し疲れた頃、私は眠ってしまった。

うとうととしながら、けれど感覚はやけに彼の動く気配に敏感で、そっと頭をなでてくれることがいつもの何倍も心を満たしてくれた。

彼は、私のやしだ。

私の話を嫌な顔せずに全て聞いて受け入れてくれる。

そのことで私は自分では終わらせられない恋にお別れを告げられる。

「梨世、着いたよ」

彼の低い声が耳元に響く。

私は寝ぼけたフリをしてドアを開けて待っている彼に抱き着く。

彼は軽々と私を抱きかかえると、大きめのトートバッグを持った手で器用にドアを閉めた。

「ここはどこ?」

「小さな山の頂上。夜景がキレイなんだ。流星群を見るのにも向いてる」

「少し曇ってるけど見えるかな?」

「ピークは過ぎたけど運がよかったら見られるよ。運試しだな」

「私きっと今、運はよくないよ」

「大丈夫。オレはその分、運がいいから問題ないよ」

ここにしよう、と彼は芝生の上に私を立たせてバッグからレジャーシートを取り出した。

「準備万端ですね」

「シートだけじゃないよ」

私は彼と一緒にシートを地面に広げて座ると、今度はバッグから大きな厚手のブランケットが出てきた。

「未来の猫型ロボットですか?」

「まだまだあるよ」

二人並んでブランケットにくるまる。

彼はポットからコーヒーを入れてくれた。

「まだ寒いね」

「そうだな。風邪引くなよ」

「うん」

私達以外はたまご型の月と見渡す限りの星空と夜景だけだった。

「キレイだね」

あまりの美しさにしばらく言葉を失ってしまった。

「なかなか流星群は見れないけど、星はすごくキレイだな。見てごらん。あれがうしかい座のアークトゥルス、それでこっちがおとめ座のスピカ、そしてあのしし座のデネボラをつないだのが、春の大三角」

彼は私の視界に真っ直ぐ空に向かって手を伸ばした。

「この春の大三角にりょうけん座のコル・カロリを加えたのが春のダイアモンド」

その左手の薬指にある指輪が光る。

「そうなんだ。空にもダイアモンドがあるんだね」

私はそっと彼の肩に頭を乗せる。

「私、幸せだな」

「どうした?」

「何でもない。ただ思っただけ」

「そうか」

少しずつ雲と月の光が夜空の星を覆い隠してきた。

「流星群、見れなさそうだな」

最後に流星群を見たのはいつだっただろう。

「そうだね。体も冷えてきちゃったし、そろそろ行こっか?」

「そうだな」

あれは高校の時、地元で有名なスポットにその時のカレと車で行って以来。

「今度は流星群がピークの時に来ような」

「その時は私のためだけに時間作ってくれる?」

「ああ、わかったよ。梨世のために時間作るよ」

きっとそれはかなわない。

年上の彼には私よりも優先するモノがあって、私は二番目だから。



それから同じ時間だけのドライブをもう一度繰り返して、私と彼は夜景のキレイなホテルに入る。

笑顔でいることとセックスをすること。

それが彼に支払う私の対価だ。

今が女として花盛りである私の価値ならお釣りが来るくらいだ。

だからせめて二人でいる時間だけは、私だけを愛してほしい。



イズちゃんには言えるはずもなかった。

私が二番目であることも、フラレたことも。

だってフラレたカレはイズちゃんが気になっているヒトだったから。

だから一緒に住んでいる部屋では泣けなかった。

理由を聞かれてしまえば言うしかなかったから。

彼女に嘘をついてまで私はこのことを秘密にしておける自信がなかった。

「あ、もっしー? ここな?」

私を絶対に裏切らないイズちゃんを裏切った。

「うん。———え? ちょっと待って。何の話?」

そして私も。

「私が水かけたヒト、ケイトのカレシだったの?」

イズちゃんがバイトでいない土曜日。

講義のない私は朝に帰ってきて昼過ぎまで寝ていた。

イズちゃんとは顔を合わせていない。

今日の夜の予定を作ろうと合コンメンバーのここな、ケイトの二人を誘おうとした。

そこで知ったのはケイトが既にあのカレと付き合っていたこと。

「でも知らない女といたよ」

私はまた、裏切って裏切られる。



日曜日のバイトはちょっと忙しい。

昼前から私と椋木くんとミオ先輩、三人で近所のコドモ達のために月イチでクラゲのお勉強会の準備をする。

クラゲが産まれてからの成長過程を写真とイラストで解説をする。

それらは私がバイトを始める前からあったので作ることはないが、話しながら説明をしなくてはならない。

正直、コドモは苦手だ。

得体の知れないイキモノ。

何を考えているのかもわからない。

無邪気で残酷ざんこくな動物。

だけどそう思うのは、私がまだまだコドモだからなのかもしれない。

自分の感情や欲望に素直で、悪びれない。

「梨世ちゃん?」

「はい?」

ミオ先輩が思い出したようにカバンの中から一枚のチラシを出してきた。

「来月のお勉強会はこういうカラフルなのにしない?」

彼女が見せてきたチラシは色とりどりの花の写真にクラゲが浮いていた。

「これ! 蝦川えびかわニナの写真じゃないですか!」

「あ、梨世ちゃん知ってるんだ? デザイン系だもんね」

「はい。めっちゃ好きな写真家さんなんですよ。写真集も持ってます」

蝦川ニナは海外でも人気のある写真家だった。

原色のカラフルな色使いが特に女性に人気だった。

「水族館で明日までコラボイベントしてるんだって」

「行きたいです! ミオ先輩行きましょ!」

「明日は定休日だけど私がお掃除と餌当番だから、椋木くんと行ってきたら?」

「え!? 椋木くんですか?」

クラゲの成長過程別に分けた小さな水槽を並べている彼の後ろ姿を見た。

「他に行けそうなヒト、捜してみます」

私はミオ先輩から渡されたチラシを事務所のホワイトボードに貼り付けた。



お勉強会は何の問題もなく終わった。

問題があったとすれば私のコドモ嫌いな部分だけだ。

質問されてもただ決まりきった答えを繰り返すばかりでコドモ達の興味は私から離れていった。

それでいいんだ。

「二人ともお疲れ様。何とか無事に終わったね」

「あ、ミオ先輩お帰りなさい。親御さん達、喜んでました?」

近所のコドモ達を家の近くまで送り届けたミオ先輩は少し苦笑いをした。

「おみやげはちょっと微妙だったかな。お母さん達は困ってたみたい」

今回のおみやげのコップで飼えるお魚は椋木くんの案だった。

「だってさ。椋木くん、今度はお母さん達にウケるヤツにしなきゃ」

私がそう言うと彼は少しむくれた。

「だったら鹿山さんが考えてよ。コドモ達にもお母さん達にもウケるヤツ」

「オッケー。女心がわかってないような椋木くんと違って私はお母さん達の心はがっちりつかめるからね」

「コドモは嫌いなくせに」

「ねえ、椋木くんって絶対モテないよね?」

「はいはい。二人ともケンカしないの。ちゃっちゃと片付けて」

「はーい」

私と椋木くんのコドモじみた言い争いをミオ先輩は終わらせてクラゲの小さい水槽を指差した。

「これはどうするの?」

コドモ達に説明しやすいように移されたクラゲの赤ちゃんやコドモ達。

「向こうに持っていって。あとはやっておくから」

私を見ることなく彼は奥へ水槽を持っていった。

ご機嫌は斜めのようだった。

「はーい。まだ怒ってんの?」

「………うるさいな」

「じゃあ、モテる私からアドバイスしてあげよう。とりあえず椋木くんはもう少し清潔感のある服装にしたらいいよ。私が選んであげようか?」

「遠慮します」

「頑固だなー。顔は悪くないからモテると思うんだけどなー」

「モテなくていいです」

「あっそ」

私は『エフィラ』と名札の貼られた小さな水槽の中で水と一緒にゆらゆら揺れるヒトデのようなイキモノ達と目が合った。

いくつもある足のようなモノの中心に、目があった。

不意に濡れた手から水槽が滑り落ちる。

つかみ直そうとしたが間に合わず、とっさによけた足下に落ちた。

時が止まったように私は茫然ぼうぜんとしていた。

「梨世ちゃん! 大丈夫!?」

一番最初に声を上げたのはミオ先輩だった。

飛び散ったガラスの破片が私の足首やくるぶしを少しだけ赤く染めた。

「………はい、大丈夫です。———ごめんなさい」

しゃがんで破片を拾おうとした手を突然つかまれる。

「やらなくていい。ケガされたら面倒だから」

椋木くんが私の手を離してガラスを拾い始める。

「椋木くん、ごめん。大事なクラゲ———」

「エフィラ」

「………え?」

「ミズクラゲが受精卵から1ヶ月と少しでエフィラって時期にまで成長する」

床に広がった水の中から彼は小さなイキモノを拾い上げた。

「君は産まれて1ヶ月の命を殺したんだ」

「殺したって………」

「ミオ先輩、消毒してあげてください。こっちはやっとくんで」

椋木くんはちらっと私の足首を見てそう言った。



「今日は梨世ちゃんが悪いかな」

向かい合ってイスに座った私にミオ先輩は微笑んだ。

「ほら、足乗せて」

私は言われるままミオ先輩のヒザに足を乗せる。

ペット用の吸水シートの上に真っ直ぐ伸ばした私の足首で血はからびていた。

「………はい。ごめんなさい」

「謝る相手が違うでしょ。あとで椋木くんにもう一回謝ろうね」

傷口に消毒液、弱った心にミオ先輩の優しすぎる言葉、どっちもしみる。

「梨世ちゃん、ちょっと足首回してみて。違和感があったら破片入ってるかもしれないから」

私は足を伸ばしたまま、両方の足首を回した。

違和感はなく、ただ傷口がしみる。

「大丈夫です。ちょっと痛いだけ」

「そう。ならよかった。絆創膏ばんそうこうで足りるかな」

ミオ先輩は救急箱から取り出した絆創膏をペタペタと私の足首に貼った。

「ねえ、梨世ちゃん。椋木くんのこと、嫌わないでね」

「え?」

「普通の人はクラゲがどうやって産まれてくるかなんて知らないものね。だから梨世ちゃんの気持ちわかるよ」

うつむいたままのミオ先輩が何を考えているのかわからない。

「お互いに知ろうとしない限りわかり合えないんじゃないかな」

顔を上げたミオ先輩はさみしそうに微笑みかけた。



次の日の月曜日。

振替休日の水族館はヒトであふれ返っていた。

私が水族館のチケット売場の前で待ち始めてそろそろ30分が経とうとしている。

私を待たせるなんていい度胸だ。

いつも男の子とデートする時は待ち合わせの時間ちょうどにしか行かない。

今日もそのつもりで向かっていたら彼から、

「電車を乗り間違えたので遅れます」

と仕事みたいなメッセージが届いた。

「あり得ない」

こんなことなら現地で待ち合わせなんてしないでお店から一緒に来ればよかった。

昨日、ミオ先輩に手当てをしてもらってから私はミオ先輩に見守られながら彼に謝った。

「はい、それじゃ明日二人で水族館にいってらっしゃい」

なかば強制的に私と椋木くんは水族館に行くことになってしまった。

そして彼は遅刻。

「ほんと、あり得ない」

もう帰ってやろうかと思った頃、彼は私の前まで小走りでやってきた。

「鹿山さん、ごめん。慣れてなくて反対側の電車に乗っちゃって」

「許さない」

私は怒った顔を作って頬を少し膨らます。

「でもこれでおあいこね」

「………え? あ、そうだね」

彼は驚いたけど笑顔になった。

それにつられて私も笑った。

「さ、椋木くん。遅刻してきたんだから今日はいっぱいわがまま聞いてもらうからね」

その言葉に彼は少し嫌そうに笑って、

「お手柔らかにお願いします」

と言った。



やっぱり蝦川ニナの写真はほんとうに素晴らしかった。

背景に添えられた極彩色の花々の写真やカラフルなライトに照らされたクラゲ達はどの水槽も美しく、これだけでも今日ここに来た甲斐かいがあった。

そう思いながらスマホで何枚も写真を撮っている私を彼は後ろから見ていた。

「椋木くんも写真撮ったら? フラッシュつけなければいいみたいだし、来月のお勉強会の参考にしないと」

「うん。そうだね」

促されて彼はスマホをかまえて水槽に近付く。

「椋木くん近すぎ」

私は動画でその様子を撮っていた。

「いやだってミズクラゲの全体を収めるにはこれくらいじゃないと」

写真を撮り終えて振り返った彼は私がずっと動画を撮っていることに気付いた。

「ちょっ! 盗撮はやめてください」

私のカメラから被写体が消えた。

「消しましょうね」

スマホが不意に取り上げられた。

「ちょっと取らないでよ」

「あ、やっぱり同じスマホだね。今の動画は消しておくから」

私の背後に回った彼が動画を削除する。

「はい。盗撮禁止」

「はーい」

受け取ったスマホで私は素直にライティングされたクラゲの動画を撮り始める。

彼は私の後ろに立ってそれを見ていた。

「ねえ、椋木くんってカノジョいるの?」

彼の気配が背中越しに伝わる。

「今はいないよ」

「今は?」

意外だった。

「半年くらい前に別れた」

ずっとカノジョがいないなんて言うと思ってた。

「ふーん。どんな子だったの?」

彼は一緒に仕事をしていてもほとんどプライベートのことを話さなかった。

「どんな子って、………何かキラキラしててカッコいい感じかな」

その言葉だけで私は彼の気持ちがわかってしまった。

「へえー、そうなんだ。———まだ好きなの?」

「え? そんなんじゃないよ。アイツ、今カレシいるし」

「そうなの?」

「別れてからそのヒトと付き合って、大学も辞めて4月から専門行くってさ」

私はカメラを止めて歩き出した彼の隣を歩く。

「一緒に大学入って、東京出てきたのに、結局ダメでさ」

美術館のように水槽が並ぶ薄暗い通路で熱帯魚が私達を見ていた。

「意外」

「ん? 何が?」

「私はてっきりミオ先輩のことが好きだと思ってた」

「な、何言ってんの!? そんなわけないじゃん!」

「ふーん」

あからさまに焦る彼を置き去りにして、私はヒトの流れを縫う魚のように歩いていく。



そこを抜けるとアクアラボと題された飼育のスペースがあり、飼育スタッフと成長段階に分けられたらクラゲが泳いでいた。

「ねえ、椋木くん。椋木くんが育ててコドモ達に見せてた水槽ってここの水槽と一緒?」

「うん。参考にさせてもらってる」

プラヌラ、ポリプ、ストロビラ、エフィラ、メテフィラ、稚クラゲ、成体クラゲ。

彼は飼育員のように一つ一つの小さなイキモノを説明してくれた。

「私が殺しちゃったエフィラだね………」

八本の足を器用に動かして泳ぐクラゲのエフィラ。

「ごめん。あの時は、言い過ぎた………」

水槽から目を移すと彼は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。

「あのあと、エフィラ達に付いた破片を落として水槽に戻したら泳ぎ出したんだ」

「私、殺してなかった………?」

「うん。鹿山さんは何も悪くない。だから、ごめん。ひどい言い方して」

「ううん。あれは、私が悪かったから。ごめん」

「鹿山さんはもう謝らなくていいんだよ。もう何度も謝ってくれたから」

どことなくクセのある話し方。

そのせいか、会話を弾ませるのがちょっと下手で、目が合ってもすぐに外してしまう。

「うん、ありがとう。———次、行こっか」

そして歩き出すと彼は少し黙った。

私達の隙間をただよう空気に潮の匂いが混じる。

「椋木くん見て! ペンギン!」

小走りで私は吹き抜けのペンギンプールを見下ろせる手すりに飛び付いた。

「走ったら危ないよ」

彼はコドモに言い聞かせる口調で私の隣に立った。

「マゼランペンギンだって」

私達が見下ろした岩に立つ飼育員が餌をやっていた。

名前を呼びながら餌をあげたりあげなかったりしている。

「どうして餌をもらえない子がいるの?」

「もらえないんじゃなくてもう食べたんだよ。だからまだ食べていない子にだけ今はあげてるんだよ」

「へえー、さすが。でもよくわかるよね。私だったら見分け付かないな」

「腕に付けた輪っかで識別してるんだよ。だから鹿山さんでも覚えれば見分け付くよ」

「私、頭悪いから無理だよ」

「そんなことないよ。鹿山さん仕事覚えるの早いから結構いけると思う」

そんなふうに思われているとは思わなかった。

「何か今日は椋木くんの意外な部分がよく見付かるなー」

「え? そう?」

「ミオ先輩のこと好きじゃないって言ったり、元カノのことまだ好きだったり」

「だからそんなんじゃないって!」

「ふーん」

私は慌てる彼を残してペンギンプールを囲っているスロープを降りた。



「それで、椋木くんっていつからクラゲが好きなの?」

私達は小笠原諸島の海を再現した大きな水槽の前に置かれたイスに座り、色とりどりの魚が悠々と泳いでいるのをそっと見ていた。

「いつからかな。高校三年からだったかな」

水槽の中では大きな部類に入るエイがゆっくりと裏側を見せながらワタシ達の前を通り過ぎる。

「友達がさ、クラゲ好きでその影響って感じなんだけど」

友達。

きっとそれは、カノジョのことだと思う。

「ふーん。その子は? 今もクラゲ好きなの?」

「たぶんね。しばらく会ってないけど、クラゲはまだ好きだと思う」

彼はきっと嘘がつけない。

「そっか。もしかしたら今は椋木くんのほうがクラゲ好きかもね。飼育員になれそうだもん」

「そんなことないよ。飼育員になるのは大変だし、今からじゃ遅いよ」

「それは心理学やってるから? そもそも何で心理学?」

「………心が、他人のって言うよりも自分の心がわからなかったからかな」

ぽつぽつと話す彼の言葉の間で見上げた水槽で、一匹の魚が私を見つめていた。

「ねえ、椋木くん。ヤバい。お魚と目が合った」

「え? 何言ってんの?」

「ほらほら、あの子。さっきから私を見てるの」

私が伸ばした指先で名前も知らない魚が笑っていた。

「あの魚? 気のせいじゃない?」

「違うよ。だって今ね、笑ったんだよ」

「笑わないよ。だって魚だよ」

「そうだけど………」

私の言葉で彼は笑ってくれた。

「あ、ねえねえ。あれ見て。何か、美味しそう」

「もしかして、お腹空いた?」

「うん。ちょっとね」

横目で見る彼は私の横顔を見つめている。

「ヒトによっては食べるなんて考えられないって言うだろうね。クラゲを食べるなんて信じられないって友達言ってたな」

会話の中に出てくる友達はどんな女の子なんだろう。

「そっかー。あー、でもやっぱり美味しそう」

それを知らせないためか、言いたくないだけか、彼の優しい嘘が降り積もる。

「はいはい。そろそろ行こうか。意外にこの水槽の前で1時間しゃべってる」

「そうなの? 気付かなかった。どうりでお腹も空くわけだ」

私達は立ち上がって歩き出す。

足下を小さなコドモ達が走り回っていた。

「何か、コドモもかわいいかも」

「水族館の仲間じゃないよ?」

「わかってる。あのお尻とかかわいいと思う」

オムツで大きくなったお尻をふりふりしながらコドモが歩く。

「僕達だってあんな時代があったんだよね」

「うん。覚えてないけどね」

私はちょっと嘘をつく。

あれくらいの、3歳くらいの記憶が一つだけある。

私の大好きなおばあちゃんが、いとこばかりをかわいがっている記憶。

今でも時折思い出して悲しくなる。



水族館を出てすぐのショップでぬいぐるみやグッズ、お菓子の中からイズちゃんへのおみやげを買うのに優柔不断な私は随分と時間をかけた。

彼はあきれながらも文句を言わずに付き合ってくれた。

そして外へ出た頃、空は暗くなっていて、

「あっちでプロジェクションマッピングやるんだって」

ヒトを集めるためにスタッフが声を上げていた。

「プロジェクション、何?」

「知らないの? プロジェクションマッピング。見に行こ!」

ヒールのあるブーツで早く歩き出す私に彼は付いてくる。

ヒトが大勢集まった広場ではもうすでに映像が始まっていた。

「ほら見て。ああやって建物に映像を重ねるんだよ」

何もない壁にカラフルな映像が投影されていた。

「やっぱ蝦川ニナの写真って好きだなー」

音楽とともに移り変わっていく映像が彼の顔を極彩色に染めていた。

彼は花とクラゲとが入り混じる映像に見入っていた。

「この前さ、クラゲが死んだんだ」

流される音楽に消えてしまいそうな声だった。

「ペットのクラゲ。大切に育ててたのに、泣けなかったんだ………」

私は小さく相づちを打ちながら、スマホで移りゆく映像を写真にしていた。

そっとカメラを彼に向けてシャッターを切る。

フレームに写り込むように見切れた彼の横顔。

彼は気付かずに壁に合わせて変化していく映像を見ていた。

「あれ? 私、何してんだろ」

つぶやきは彼に届かず地面に落ちた。

そう思って消そうとしたけれど、思いとどまった。

私達はそのまま、何も言葉を交わさずに目の前で繰り広げられる幻想的な光景を見続けた。



それから私と彼は私のわがままで魚を食べに行った。

そこで私はついつい、

「魚、ウマい!」

なんて言ってしまい、

「鹿山さんてちゃんと話すと実はオトコっぽいよね。サバサバしてる」

なんて言われてしまった。

せっかく今日はオトナっぽくしてきたのに。

そのあともよくわからないテンションの上がり方でくだらないことをだらだらとしゃべっていたら思っていたよりも遅くなってしまった。

「つか椋木くんとこんな話せると思わなかった」

「こっちこそ鹿山さん、話しやすいかもしれない」

帰り際、最寄り駅の改札から出て私達は南口の階段を降りた。

「メロスの気持ちがわかるよ」

「メロス? あ、言ってたね。二人が友達だったのも意外だった」

「電車が一緒だったからね」

「私も一緒ですけどね。それで? メロスの気持ちって?」

「オトコ関係さえなければいいヤツだって」

「メロスめ、褒めてるのか、けなしてるのかわからない」

「そうだね。でもいい友達がいてうらやましいよ」

「何言ってんの? メロスとは椋木くんも友達でしょ?」

「そっか。鹿山さんって何かコドモっぽいのに変なところオトナだよね」

「それは褒めてます?」

「はい。褒めてます」

「それならよかった」

「そう言えば鹿山さんって家どこなの?」

「北口から出て五分くらいの………あ、出口間違えた」

階段を降りて広場まで来ていた。

「反対側だね」

「バイト行く時のクセで来ちゃった」

彼も私も笑った。

「それじゃ、また明日」

「うん。また明日」

薄暗い街灯の中で彼は微笑む。

明日、大学で会えるだろうか。

それとも、同じ電車に乗り合わせるだろうか。

彼は、私のことを許してくれるだろうか。

「椋木くん。あの、———ごめんね」

「もういいよ。怒ってないから」

「違うの。聞いて」

手を伸ばせば届く距離で彼は私を見つめる。

「クラゲのこと、もっと勉強する、から………教えてくれる?」

何だそんなことか、と彼は笑った。

「もちろん。いいよ」

「うん。ありがと」

私は何だか照れくさくなって夜空を見上げた。

星がほとんど見えない空に大きな満月が白く輝いている。

「椋木くん、見て。月がキレイだよ」

彼は振り返って見上げた空はまだ肌寒く雲一つない。

「僕が産まれた日もこんなキレイな満月だったんだって」

「誕生日いつ?」

「今日だよ」

「え!? もう時間ないじゃん!」

スマホを見るとあと五分で日付が替わるところだった。

「椋木くん、お誕生日おめでとう」

「ありがとう。鹿山さんは誕生日いつ?」

「10月30日だよ。ちょうど半年後だね」

「わかった。覚えとく」

「プレゼント期待してるね」

「えー、考えとくよ」

「前後半年間受け付け中だから大丈夫」

「それずっとじゃん」

そんなことを言って笑いながら彼と私はそれぞれの家に帰っていった。



***



これは私の私自身への裏切りかもしれない。

水族館にお出かけはするけど彼は友達。

「そうなの? 梨世」

頭の片隅にいる真っ黒な髪をした高校生の私が問いかける。

だって彼は私の好みじゃない。

「そうなの? 梨世」

肩までの黒髪を三つ編みにした中学生の私が問いかける。

だって彼は私を好きにならない。

「そうなの? 梨世」

ケガレを知らない小学生の私が見ている。

だって私の好きなヒトは今だって―――



***



君が話してくれるのが嬉しくて、君の声が心地よくて、僕はついつい言葉を見失う。

彼女といると全ての思考が停止して、その僕を見つめる瞳や形のいい鼻。

キレイにそろえられたマユ毛とアーモンド型のよさを最大限に引き出すようにかたどられたアイメイク、口紅で控えめな赤に彩られたくちびる

それらを僕は見つめ続けてしまう。

こんな気持ちを何と言うんだろうか。

僕はそれを降り始めた雨の匂いに思う。



***



「きっとそれは私の勘違い」

「たぶんこれは僕の間違い」

「もしこの気持ちがそうなら、自分が自分でなくなってしまう気がする」

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