第3話 「水面にただよう少女は、その流れに冷たい花を沈ませる」

 季節は僕の気持ちを置き去りにして、むせ返る緑色の季節からどこか物悲しくなる雨の季節へと移り変わっていく。

僕は雨が好きだった。

金曜日の雨は水槽の向こう側で朝からずっと降り続き、天気予報では例年よりも一週間も早い梅雨入りを宣言した。

夕暮れの駅前はいつもより物静かで、そこから徒歩五分のクラゲがたくさんいるペットショップはいつものように穏やかだった。

店内にいるのは雨宿りに迷い込んだ中年の女性だけだった。

高級そうなバッグが雨に濡れている。

傘は持っているが歳の割に高いヒールが水分を含んで歩きにくそうだった。

女性が水槽をのぞき込むたびに独特の空気が僕のいるカウンターまで匂いを運んでくる。

苦手な匂いだった。

母親の記憶もないのに、思い出してしまうから。

ひと通り見終わった頃、店の前に通りに止まったタクシーに女性は乗り込んで去っていった。

「ありがとうございました」

聞こえてはいないだろうと思いながらドアベルが鳴ると反射的に言っていた。

入れ替わるように雨の匂いが入り込む。

そして誰もいなくなる。

こんなことは珍しくない。

ペットショップは、特にこの店のような水棲系の、クラゲがメインの店は主に通販や業者相手がほとんどだった。

通販に関してはオーナーの弟が仕切っていて僕らがすることはこの店の管理だけだった。

「あの、ソルトレイク産のブラインってあります?」

突然、水槽の向こうから声が降ってきた。

「———あ、はい。反対側の棚に………」

慌てて立ち上がった僕を、そのヒトは笑顔で見ていた。

「………シズク?」

「うん、シズク。久しぶり、だね。朋弥」

自慢だった長い黒髪があごのラインで切りそろえられたボブになり、それまでなかった前髪はマユ毛を長さでキレイに整えられていた。

濃いめのアイメイクと赤いリップに似合うスモーキーグレーのカラコン。

大きな赤いヘッドフォンを首にかけ、カーキ色のトレンチコートを羽織っていた。

「ほんとうにシズク?」

「ほんとにシズクだよ。失礼だなぁ。お客様だよ?」

「あ、そっか。失礼いたしました。お客様」

僕の知っているシズクはそこにはいなかった。

「朋弥、ここでバイトしてたんだね。そう言えば家ってこの近くだったもんね」

僕の知っているシズクは、胸までの長さの髪、真ん中で分けられた前髪の下はほとんどメイクの必要がないくらいのはっきりした目と色白の肌がとてもキレイだった。

「あ、でも朋弥がバイトしてくれててよかった。ほら知らないお店ってさ、何だか緊張するじゃない? 知ってるヒトがいると安心していられるっていうか」

シズクは昔と同じ話し方で水槽の向こう側に降る雨の水滴を見ていた。

「そういうところは変わらないね。見た目は随分変わったけど」

「それって、いい方? それとも悪い方?」

「わかんない」

「そっか。そうだね」

シズクはそう言って僕を見た。

「1年ぶりだね。元気だった?」

「うん。シズクは?」

「うん。元気だよ。4月から専門も行き出したし、クラゲの飼育代行のバイトもしてる。朋弥も知ってるでしょ? そこの先輩にこのお店教えてもらったんだ」

「ああ、そうなんだ」

「うちの近くのお店が潰れちゃってさ。どっかないかなって」

「ふーん」

「何か素っ気ないの変わらないね。朋弥は? クラゲ、ちゃんと育ててる?」

「うちのは………1ヶ月くらい前に全滅した」

「え? 何で?」

「わからない。だけど、ここでずっと育てていられるから」

あれから、僕の水槽は空っぽだった。

「そっか。じゃあ、さみしくないね」

シズクはさみしそうに笑った。

「朋弥、あのさ———」

奥で裏口の扉が開いた。

「ごめんね、朋弥くん。遅くなっちゃって」

とミオ先輩はずぶ濡れで現れた。

「ちょっとミオ先輩? 何でそんなに濡れてるんですか!?」

「傘、電車の中に忘れちゃった」

「忘れちゃったじゃないですよ」

僕はシズクをそのままにバックヤードからタオルを数枚つかんで彼女に渡した。

「ありがとう。———あ、もしかしてお客様?」

「あ、いえ友達の水窪みさくぼシズクです」

「そうなの。こんばんは」

「どうも」

長い黒髪からタオルで水分を絞り出しながら言うミオ先輩にシズクは簡潔に返した。

「あ、せっかくだから休憩一緒に行ってきたら?」

「ていうかミオ先輩、今日シフト入ってないですよね?」

「ああ、梨世ちゃんに頼まれて。今日もおデートなんですって」

少し、何かがざわついた。

「シズク。このあと時間ある?」

「え? うん。あるよ」

「ご飯行く?」

「どっちでもいい」

「出た。どっちでもいい」

「じゃあ、決めて」

「近くに美味しいところあるから行こう」

「うん。いいよ」

「じゃあ、ちょっと待ってて」

僕はミオ先輩にあとのことを頼むとシズクを連れて雨の中を歩き出した。



「朋弥さ、あのヒトのこと好きでしょ?」

駅の北側にある有名なハンバーガーショップで僕達は1年ぶりに食事をした。

「………いきなりどうした?」

「大事なことはそうやってしゃべろうとしないんだよね」

昔もこういうところ連れてきてくれてたらな。

さっきまで思い出話をしていたシズクが突然ミオ先輩のことを言い出した。

「何でそう思うの?」

シズクはハンバーガーに入っていたピクルスを器用にフォークとナイフで取り出すと僕の皿に何も言わずに乗せる。

「だって、高校の時の私に似てる」

ミオ先輩のことを言われるのは鹿山さんにイジられているおかげか、もう慌てることはなかった。

「似てるかな? 似てたとしても好きだって結論にはならないんじゃない?」

「だって朋弥、今も私のこと大好きじゃない」

何を言い出すかと思えば。

僕が返す言葉に詰まると、

「ふふっ。冗談」

とシズクは笑顔を見せた。



もともとシズクは小食だった。

目の前で大きなハンバーガーを半分ほど残したシズクは僕の顔色をうかがいつつ、皿を僕の方へと追いやった。

「ほら、クラゲみたいに食べ残しは誰かがすくってあげなきゃ」

「シズクはクラゲで、僕はスポイトか網?」

「そうそう。どっちかって言うと網?」

そう言いながらシズクはタバコを取り出して火をつけた。

吐き出す煙が懐かしい匂いを連れてくる。

「タバコ、まだ吸うんだね」

「そういうこと言うの、やめてよ。女の子みたい」

「そうかな。シズクの体を心配してるだけだよ」

「………うん。ありがと」

客の誰かが出入りするたびに雨の気配が僕らの席にまで届いた。

「雨、やまないね」

「梅雨入りしたからね。土日も雨だってさ」

シズクは暗くなった窓の外を見ている。

水滴が音もなくガラスを落ちていく。

「月曜日は? 晴れる?」

「曇りだったかな。何かあるの?」

「朋弥、月曜日大学行く?」

「うん。行くよ」

「ちょっと見たい本があるんだけど、付き合ってくれない?」

「どこに?」

「大学の図書館」

だって部外者は勝手に入れないでしょ?

とシズクは付け足して、

「朋弥がいてくれたら、安心だし」

頬杖をついたまま微笑んだ。



***



金曜日から雨は降り続き、4日目の月曜日。

午前の講義と食事を終えた私は栄川先生に頼まれた症例に関する論文や記事を図書館の共用パソコンで調べていた。

入り口の休憩スペースからセキュリティーゲートと司書のいるカウンターの前にあるパソコンブースは何の仕切りもなくどことなく落ち着かない。

自分のパソコンを持ってくればよかった。

一世代か二世代前のパソコンはハードディスクから少し嫌な音が聞こえる。

集中が途切れた頃、入り口の形だけのセキュリティーゲートを不正に通り抜けた二人がいた。

司書はカウンターの業務に追われていて気が付いていないようだった。

懐かしい二人組だった。

「ちょっとそこの二人、待ちなさい」

私は近くを通り抜けようとした二人に声をかける。

「あ! カニクリ!」

1年前に大学を辞めた水窪シズクが叫んだ。

「シズク、図書館ではお静かに」

「はーい。相変わらず優等生キャラだよね」

彼女が入学から2ヶ月で辞めてしまうまで、ずっと二人が一緒にいるのを眺めていた。

「椋木くん、部外者を入れるのはルール違反よ」

私は彼だけに聞こえるよう小声で言った。

「頼むよ、カニクリ。今日だけ。シズクが見たい本あるからって」

「それに午後は男子みんなで栄川先生のお手伝いでしょ?」

「そうなんだよカニクリ。だからシズクのこと頼めないか?」

「え?」

「シズクが見たい本を見終わって、ゲート通る時だけでいいから」

「お願い、カニクリ」

上目遣いでシズクが私を見ていた。

身長もさほどかわらないシズクと私はそれほど仲よくはなかった。

「わかった。パソコンで調べ物してるから帰る時は呼んで」

「さすがカニクリ。ありがと」

「悪いな。それじゃあ、行ってくるよ」

と彼はシズクと私を残して去っていった。

「いってらっしゃい」

彼の後ろ姿を見送ると、

「じゃあ本探してくるよ」

シズクは私から離れていった。

それから10分ほどしてシズクは本を何冊か抱えて戻ってくると私の隣のイスに座り本を読み始めた。

服装は前よりもオシャレになったがナチュラルメイクでボブになったシズクはやはりシズクだった。

「シズク、変わったね」

「そう? まあ1年前よりは服もメイクも気を遣ってるからね」

「メイクは変わらなくない?」

「ん? これは、朋弥の好きな顔だから」

シズクの視線は本から離れない。

「カニクリは変わんないね。マジメで、オシャレ。今日の服もかわいいよ」

さらっとヒトを褒めるのがシズクは上手かった。

「カニクリさ、心理学ってほんとうにやりたかったの?」

シズクとの思い出はほとんどない。

「何よ。急に」

彼女が大学にいた2ヶ月間はほぼ彼とべったりで、今日みたいに彼に用事があっていない時にこうやって視線もみ合わず話も噛み合わない会話をするだけだった。

「カニクリだったらもっと上のランクの大学に行けたんだろうなって前から思ってた」

ただ、一つだけ今もはっきりと覚えていることがある。

「自分みたいにってこと? 大学を2ヶ月でドロップアウトするヒトとは一緒にされたくない」

少し向きになって私は言ってしまった。

「アハハ、相変わらずキツいね。でも、私は後悔してないし、諦めたとかじゃないよ。ほんとうにやりたいことを見付けただけ」

それなのに彼女は笑って私に言った。

「ねえ、朋弥のこと好きなんでしょ?」

「さあ? 仮に好きだとしても元カノの顔が浮かぶような恋愛なんてイヤよ」

「それってほんとうに好きってことじゃない?」

「やめてよ。そうやって私のことを分析するのは」

「これはアナタがよくやってたことじゃない。それで私も気付かされたんだから。朋弥が好きじゃないって」

あの時、私がシズクは彼のことを好きじゃないと言わなければ、二人は今もこの大学で一緒に講義を受けていたのかもしれない。

「何を好きになって、何を嫌いになったんだろうね。わかんないや」

けれど私は、そのことを言わずにはいられなかった。

「私、シズクのこと、今もキライ」

椋木くんと仲よくしているのを見てうらやましいと思っていた。

まるで、昔に好きだったヒトとその恋人を見てるみたいで、嫌だった。

「わかってる。でも、私はカニクリのこと好きだし、友達だと思ってるよ」

「………ありがとう。———シズク、やっぱり変わったね」

「どんなふうに?」

「オトナになった」

「へえー。カニクリに言われたらうれしいな」

笑顔のままシズクは、

「ねえ、さっきからあの子、こっち見てるんだけど知り合い?」

と近くのパソコンの席からこちらを見ている女の子を指差した。

「あ、鹿山さん」

キャラメル色の髪の毛が会釈とともに揺れる。

「あ………どうも」

「誰?」

「デザ学のヒト。椋木くんと同じバイトなんだって」

「ショップのヒト? へぇー、アイツ真面目でしょ?」

鹿山さんはその席から動かずに顔が半分隠れた。

「そうですね」

私と一緒で少しご機嫌斜めのようだ。

「今度お店にブライン買いに行くからよろしくね」

「ブラインって何でしたっけ?」

「ブラインシュリンプ。クラゲの餌。知ってるくせに」

「そうですね」

「カニクリ、そろそろ行こっか。それとお願い。この本、カニクリの名前で借りて?」

「………返却は一週間後です」

「カニクリ、ありがと。今度ランチおごってあげる」

「期待してない」

私が冷たく返すとシズクは笑った。



***



シズクが本を借りてから一週間後、本を返しに行くからと再び大学に現れた。

「朋弥、これからどうするの? バイト?」

「うん。今日はバイト」

定休日の掃除と餌やり当番は僕と鹿山さんだった。

「じゃあ、一緒に行こうかな。この前ブライン買うの忘れちゃったし」

二人で図書館に本を返却すると、僕らはそのままモノレールに乗った。

「この前、鹿山さんだっけ? 会ったよ」

時折晴れの日もあったが、今日も雨だった。

「………あ、会ったんだ」

「たまたま図書館来てたみたい。すっごいかわいい子だね」

同じバイトなんでしょ?

シズクは窓の外側に当たる水滴を見ていた。

「朋弥、あーゆー子、好き?」

シズクは時々あらぬ方向からの質問を投げ付けてくる。

「何言ってんの?」

僕の初カノは君なのに?

「全然。好きなタイプではないかな」

この空気は一体何だろうか。

窓の外は雨。

思い返すとシズクとの初デートも雨だった。

それから、最後の日も雨。

「そっか。朋弥も意外とあの子みたいな濃いめのメイクでもイケると思ったのに」

そう言えば今日のシズクもナチュラルなメイクだった。

一年ぶりに会った日は濃いめのメイクだったのに。

「濃いメイクが嫌いってわけじゃないけど、何だか違う世界の住人みたいに思うかな」

たとえば、世間には見えないテリトリーがあって、僕らの世界と彼女の世界は同じところにあるのにちょっとした時空のゆがみで触れることすらできないような感覚。

「じゃあ私も違う世界の住人かもね」

とシズクは開いたドアから降りた。



それから最寄り駅に着くまでシズクはほとんどしゃべらなかった。

改札を出て南側の階段を降りた。

「やっぱりシズク、雨女だよね?」

僕は傘を開くと左隣のシズクとの間に差した。

「それは自分でもそう思ってる」

不服そうなシズクは、僕と一緒に歩き出す。

二人の足音が並ぶ。

同じ歩幅で同じ早さで。

少し体温の高いシズクのコートや切りそろえられた髪が揺れるたび、女の子特有の甘ったるくて悲しい匂いが僕の心を締め付ける。

「あのさ、朋弥」

雨がしとしとと傘を打つ。

「ん? どうした?」

シズクは少しうつむきながら、歩いている。

「………やっぱりいいや」

僕の隣にいるのは、いつのシズクだろうか。

「言いなよ。聞くから」

付き合った頃の高校生?

大学に入ったばかり?

それとも、今の知らないシズクだろうか。

「うん、今度ね。もう少し大きい水槽を買おうかと思ってて。LEDで光るヤツ。ちょっと遠いけど一緒に見に行かない?」

別れてからのシズクを僕は知らない。

どこの誰と付き合ってキスをしてセックスをしたのか。

「うん、いいよ。いつにする?」

僕とシズクが別れた理由を僕の中で消化しきれていない。

「来週の水曜日がいいな」

「わかった。鹿山さんにバイト代わってもらえるか聞いてみるよ」

「そっか。ダメだったら別の日で考えるね」

「たぶん大丈夫だよ。鹿山さんには貸しがいっぱいあるし」

「そうなの? 私からも鹿山さんにお願いしてみようかな。今日いるんだよね?」

「うん、いるよ。今日は昼から掃除してる。だけど、シズクはいいの?」

「え?」

「カレシ。男と、しかも元カレと出かけるのは嫌なんじゃない?」

「んー、どうかな。でもちょっと前に別れたから関係ないんじゃない?」

「え? 別れたの?」

僕を好きじゃなくなったとシズクが話を切り出したあの日、シズクにはもう新しい恋人がいた。

年上の優しいヒトだとシズクは言った。

「うん。だから、今はカレシ、いないよ?」

僕とシズクの間を雨音だけの沈黙が埋めている。

「………着いたね」

「うん。着いちゃった」

「表は開いてないだろうから裏口から入ろう」

「うん。ブライン買ったら今日は帰るね」

「わかった。いくついる?」

「今日は一個でいいよ。定休日だったのにごめんね」

「いいよいいよ。今日は掃除したらすぐ帰れるから」

「すぐ帰れるの? 何時くらい?」

「んー、それでも8時くらいかな」

僕はそう言いながら裏口の扉を開けた。

「あ、椋木くん遅ーい! 餌やりとお店の掃除は終わったから椋木くんは水槽の………掃除ね………?」

「どうも。鹿山さん」

僕よりも先にシズクは彼女に挨拶をした。

「どうも。えーっと、ドロップアウトさん?」

「水窪シズク、です」

「そうなんだ。へえー」

何やら入り込めない空気を感じて僕は立ち尽くしていた。

「今日は定休日なのでまたの機会にご利用ください」

「朋弥がいいって言ったんでブライン買ったら帰ります。ね、朋弥」

「あ、うん」

「ふーん。じゃあ、あとはよろしくね。椋木くんが遅いせいでデート遅刻しちゃう」

と彼女は僕に着ていたエプロンを投げ付けて出ていった。



「朋弥。これで終わり?」

シズクは最後のミズクラゲを水槽に移して言った。

「だな。悪いな、手伝わせて」

「全然。バイトでいつもしてることだし。てか毎週一人でやってるの?」

「いや。ほんとは二人」

「あー、それはごめん。私のせいか」

「いいよ。もともと今日は鹿山さん早上がりの予定だったから」

「そっか。ならいいけど。………あのヒトとも一緒にやるんだよね?」

「あのヒト? ミオ先輩? 前はたまにそうだったけどミオ先輩の時はオーナーがやってる」

「そうなんだ。じゃあ、また朋弥が一人の時は手伝ってあげるよ」

「だったらバイト代出さなきゃね」

「それは朋弥に払ってもらうよ。今日の予定もズレちゃったし」

「予定あったの? 先に言いなよ。無理に手伝うことなかったのに」

「いいのいいの。予定って言っても朋弥におごってもらう予定だったから」

「………え? マジで?」

「バイト代、代わりに払ってよね。今日は肉が食べたいな」

「………焼肉でいい?」

「やった。にく、ニク、肉」

今にも踊り出しそうなテンションで歌いながら掃除道具を片付けている。

懐かしい後ろ姿。

「シズク」

懐かしいって、何だろう。

「ん? なぁに?」

僕の好きだったシズクはそこにはいない。

「………食べ放題でいい? 安いヤツ」

「もちろん。高級な焼肉は後々の楽しみにしておきます」

「いつだよ。それ」

だけどその笑顔は、好きなんだと思う。



夜空は相変わらずの雨模様で服に染み付いた焼肉の匂いが少しだけ残っている。

一つの傘の下で口直しのガムを食べながら僕とシズクはたわいない会話を焼肉の余韻と一緒に歩きながら続けていた。

「でも朋弥、昔ガム好きじゃなかったよね」

「うん、今もそうだよ。何かだんだん味がなくなるじゃん」

「あー、なくなるね。食べながらちょっとさみしくなるよね」

「口さみしい、みたいな?」

シズクはガムをバッグから取り出したティッシュに吐き出した。

「だからタバコ吸うんだろうね。お口がさみしいのですよ。はい」

僕の口にティッシュを差し出す。

僕はガムを吐き出すとそのゴミを受け取って服のポケットにしまう。

「そのまま洗濯しないでよ」

笑うシズクの首にかかっている赤いヘッドフォンに少し雨粒が付いている。

「わかってる」

高校の頃から同じ型のヘッドフォンを使っていた。

シズクが言ったことはなかったけど、別れた時は三台目だった。

「あ、シズク。ちょっと髪の毛食べてる」

けれど、今が何台目かを知らない。

「え? ほんと? 取って」

とがらせたシズクの口から髪の毛を引っ張り出す。

「はい。オッケー」

「うん。ありがと」

何気ないこの距離感が不思議だった。

まるであの頃に戻ったみたいに近い距離。

「シズク、やっぱり変わったよね」

「またその話?」

たった1年でシズクは変わってしまった。

「それは、朋弥もだよ」

「………え?」

「1年前は、そんなに優しくなかった」

シズクの視線は前を向いたままだった。

「ううん。優しかった。………でも優しくなかった」

シズクの中で呼び起こされている記憶の中の僕はどんな僕なんだろう。

「———ごめん。何か、頭の中ぐちゃぐちゃ」

目にたまった涙がこぼれ落ちそうで、それをぬぐうシズクの指に少しだけ黒い線が伸びる。

僕とシズクは駅前の広場に立ち止まる。

涙をこらえるシズクに僕は何もできず、ただシズクのバッグから再び出てきたティッシュで涙を吸い取った。

「………あのね、朋弥」

しばらくの沈黙をおいてシズクが話し出した。

「私の頭の中にね、二人の自分がいて交互にこう言うの。―――朋弥とやり直したい。だけど別れを切り出したのは私なんだからそんなワガママは許されないって」

いつもは前を向いて気が強いシズクが、今はうつむき僕にだけ聞こえる小さな声で話す。

僕達はこのままどこへ行くのか。

「———どっちもシズクだろ」

僕も話し出す。

「別れたことに理由を求めるなら僕だって悪いんだ。シズクの気持ちをわかろうとしてなかった」

「朋弥は悪くないよ。許してなんて言えな———」

「許すよ。自分だけが悪いみたいに言うなよ」

ただこれはシズクのかまってほしいだけのワガママに振り回されているだけかもしれない。

「別れたことは二人で選んだ結果だろ? シズクだけの責任じゃないよ」

「朋弥………」

そのワガママなカノジョの涙のしずくがあふれてしまいそうな瞳は、僕だけをゆらゆらと映している。

「朋弥、好きだよ」

高校の時、夕暮れの西日が薄い角度で入り込む教室で、

「うん。僕も、好きだよ」

僕とシズクは、そう思いを伝え合って、付き合った。

「———だけど、ヨリ戻すかは少し考えさせてくれない?」

好きだからと言いながらどこか違うとも思ってる。

「………うん。わかった」

もう一度うつむいたシズクの瞳から一つだけ涙がこぼれた。

「あー、それとね、朋弥。私、終電なくなっちゃった」

僕はシズクを好きなんだろうか?

「だから、家行っていい?」

シズクを、愛しているんだろうか。



***



窓の外は、いまだに雨が降っている。

シズクは窓を開けて雨音を聞きながら、懐かしい匂いのするタバコを吸っていた。

ごめんね、なんて言いながら煙の行方を気にしているシズクのくしゃっとした笑顔は間違いなく好きだ。

けれど、その好きはホンモノなんだろうか。

僕はマグカップに入った温かいコーヒーを渡しながら思っていた。

ほんとに空っぽだね。

とシズクは置かれたまま水槽を見て言った。

好きだと思っているシズクと一緒にいるのに、僕の心はこの水槽みたいだった。

大事なモノが、大切なモノがいない。

好きだという嘘が、僕の心を締め付ける。



***



あのあと、私が彼にエプロンを投げ付けたあと、二人がどうなったのかなんて知らない。

知りたくもない。

私はそんなことを合コンの最中に思っていた。

デートなんて嘘だった。

目の前ではしゃぐ年上の会社員達は寒々しい下ネタで盛り上がっている。

私の性癖について聞いてくるデリカシーのないオトナに私は愛想よく振る舞っている。

今日もまた、嘘が降り積もる。

雨なんて、降らなければいいのに。


***


「雨の匂いに僕は思う」

「嘘をついて私は願う」

「このことを話したらキミはどんな顔をするんだろう」



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