第一章 : 詩 < ハジマリ >
第1話 : 朝水恵の日常
朝水恵が泣かれるのが嫌いだ。
それだけで時間の無駄になるし、それ自体を武器にして事態を振り回す輩もいる。
彼自身はそう言っているが、本当のところは何も出来なかった頃を思い出されるからだった。
そんな彼だから見逃せなかったのだろう。
「あぁああん、ぐっす、うわぁああん」
じりじりと、朝から焼くような強い日差しが照り付ける住宅街にその泣き声は響いていた。
「っく、ぁぅ、ぅうううう」
泣きすぎたことによる嗚咽を交えながらも、止まることなく叫び続ける小さな存在はまだ傷の少ない赤いランドセルを背負っている。半袖の若草色をしたワンピースがこの季節に相応しい。
溢れる涙を止めたいのか、両手で何度も目を擦るもそれは溢れ続ける。
周りには少ないながらも通行人がいるものの、話し掛けようとする影は見当たらない。
誰かがなんとかしてくれる。
無関心を装っていたり、心配そうに見ていたりするだけで、声を掛けようとするものはいなかった。
つい先ほどまでは――
「どうした?」
白のワイシャツにオレンジのネクタイを身に着けた、ちょうど少年から青年へと変わっていくあたりの男の子は、自分の身長の半分ほどしかない女の子に目線を合わせるために腰を落とす。
「ぅっく、ぐすっ」
「道に迷ったのか?」
細長い黒い鞄を右横に置き、膝をコンクリートに付け、泣き続ける女の子を見るやや女性よりに見られることの多い顔立ちが優しく微笑む。
「ぐす……っ、っ、ぅぅ」
しかし、女の子は泣いたまま彼と目も合わせない。
「話してくれないと、何も出来ないんだけどなー」
困ったように笑う男の子。
どうするか? と内心で考えている彼を、女の子がちらりと僅かに覗き、
「しらないっ……ひと、と……はなしちゃ、ダメって、おかあさんっつ……ぅぅ」
独り言のようにそう漏らし、また大きく泣き始めた。
お母さんという言葉でもっと不安になったのだろう、そう思った男の子が何とかしようと口を開く。
「知らない人かー……なら」
男の子が自分の胸ポケットから手に収まるほどの手帳を取り出す。
「なら、ほら」
此原学園此原高校と書かれ、二輪の花をイメージした校章が表に載ったその手帳を男の子が開く。
女の子も、男の子の行動が気になり、泣きながらもそれを眺める。
「此原学園此原高校二年一組一番、朝水恵」
自分の写真が載っている学生証に書かれた情報を口に出した男の子――恵は改めて女の子に笑いかけた。
「俺の学生証、これで知らない人じゃないだろ?」
これでどうだろう、と思いつつ恵は女の子の動向を伺う。
だが、
「ゆうかい、かもっ、しれ、ない……」
泣きながらそう言われて、また困ることになった。
「はははっ、うーん」
どうするか……泣いたままなのは嫌なんだが。どうにか安心させたいけどな……。
苦笑し、また悩んだ恵が次の手段を考える。
「どうするかー」
食べ物はダメだろうし、玩具もない……歌ってみる、というのもありか? でも、あまり上手くないし。
「うーん……」
不安になるだろうし、あまり時間を掛けられないってのに。
あらゆる手段を僅かな間に考え、十秒ほど経った後に恵は次の手段に出た。
「それなら、これならどうだ?」
ズボンの右ポケットから手帳型のケースに守られたスマホを取り出す。
「俺のスマホ、これがあれば連絡できるだろ?」
そう言って女の子に学生証と一緒に差し出す。
「おかあさんがもってるの、みた……けど、つかい、かた……しらない……」
「あー、だよなー……」
やっぱりそうはいかないか……。
僅かに涙が収まりつつも不安の表情を消さずに言った女の子の言葉に、また苦笑する。
次の手段を考えつつ、自分のスマホと学生証を戻そうと手を引こうとして、
「でも……」
女の子がその手を掴む。
これで大丈夫だと思っていなかったのか、恵がきょとんと女の子を見ていた。
「……しんよう、する」
ぼそぼそ、とそう言った女の子は恵の手に乗っていたスマホと学生証を受け取る。
「ありがとな」
それが嬉しくて思わずお礼を言った恵に、赤い顔をしている女の子が俯く。
「君の名前は?」
「なかの、ゆかり」
「ゆかりちゃんだな」
泣きそうで、必要以上に高い声で、それでもしっかりと素直に答えた女の子……ゆかりに恵が笑いかけ、立ち上がる。
「そんじゃ、ゆかりちゃんを俺がお巡りさんの所まで一緒に行くよ」
その言葉に驚いたゆかりが目を見開く。
「……いいの?」
恵がここで一番近い交番の場所を思い出しつつ、空いている方の手でゆかりの頭を撫でた。
「もちろんだ」
ゆかりは両手で恵のスマホと学生証を持っているため手を繋げないので、ゆかりを気に留めながら歩き始める。
「どうして道に迷ったんだ?」
歩く速度に注意すると同時に気を紛らわそうと、恵はゆかりに話しかける。
出来れば情報も得たいとも考えていた。
そうすれば交番に着いたとき、早めに安心させられるかもしれないからな。
そんな心配をする恵にゆかりはぽつぽつと喋り始めた。
「きづいたら、ここに、いた」
自然とスマホと学生証を持つゆかりの両手に力が入る。
「もうすぐ、なつやすみだから……たのしくて」
目にも涙が浮かび始めながらも、泣き声を上げずに彼女は恵に伝えた。
「およぎたい、とか、りょこういきたいって考えてたら……りえちゃんが傍にいなくて……探してたら……ぐすっ」
「そうか」
ぽんっ、とゆかりの頭を撫で気を紛らわせる。
「ゆかりちゃんは、どこの学校なんだ?」
出来る限り明るく声を出して、
「このはら、だいさん、しょうがっこう」
たどたどしくゆかりは答える。
「第三小か……ちょっと遠いな」
恵は頭の中に地図を思い浮かべ、此原第三小学校の場所を確認する。
子供が歩いて行けないわけではないけど、ゆかりが泣いていた場所からはそれなりに距離がある。
道に迷って学校から離れていった、ってところか?
そう思いつつ、恵は話を続けた。
「家は学校に近いのか?」
「ちょっととおい」
「家の周りにはどんなものがある?」
「ぞうさんのすべりだいとか、たぬきのケーキ屋さんとか?」
「たぬきのケーキ屋?」
そういえばあいつが前にお勧めだとか言ったケーキ屋もたぬきがマスコットなんて言ってたな。どこだったっけ……。
そんなことを考えたり、別のことを話していたりするうちに小さな交番に辿り着く。
道路の片隅に建っている白いその施設のガラス戸を恵は迷いなく開いた。
「すみませんー」
「どうしました?」
木の色を見せつつ、事務所のような内装の中で待機していた青い制服が恵に気付いて二人の前に出てくる。
先ほどまで何らかの書類作業をしていた、二十代前半ほどの警官は不思議そうに恵と恵の後ろに隠れたゆかりを見る。
「この子が道に迷ってしまって」
自分の足元に半身を隠して警官のお兄さんを見るゆかりを、ちらりと目に入れてから恵がさっきまでに得た情報を交えて説明していく。
この子の名前が『なかのゆかり』ということ。
自分が通学途中に住宅街でこの子を見つけたこと。
此原第三小学校の生徒だと知ったこと。
「うん。わかった、ありがとう」
それらを説明した恵に礼を言い、警官のお兄さんはゆかりの前にしゃがんだ。
「じゃあ、お巡りさんと学校に行こうか?」
こくん。
おどおどしながらも頷いたゆかりを見て、もう一度彼女の頭を撫でた。
そうして「ふぅ……」と安堵の息を吐いた恵は立ち上がった警官に頭を下げる。
「後はよろしくお願いします」
「うん。任されたよ、ありがとう。お疲れさま」
しっかりと頷いた警官の姿を確認し、軽く伸びをする恵。
「それじゃ、後は……ん?」
任せました、と言おうとしたが自分の足に違和感を覚え、下を見る。
ゆかりが器用にも両手でスマホと学生証を持ちながら、恵のズボンの裾を掴んでいた。
「いっしょ……が、いい……」
不安な表情を浮かべならも、ゆかりは手を離さずに恵を見つめる。
「そうかー、一緒がいいかー」
困った表情を出さなそうに気を配りながら、しゃがんだ恵がゆかりの顔を改めてみる。
どうなるかわからなくて怖いんだな。
警察はさすがに信用できるけど、まだ不安は残っている。それなら信用する人に傍にいてほしい。
断れば泣くかもしれない、そこまで考えて恵は決めた。
仕方ないか。
「なら、俺も一緒に行くよ」
微笑み、ゆかりにもわかるようにしっかり頷く。
「ほんと?」
「あぁ」
まだ嘘なんじゃないかと怖いのか表情を変えずにそう返したゆかりにもう一度頷き、また頭を撫でる。
「……ありがとう」
そうして晴れた表情は、始めてみた小さな笑顔だった。
まだ不安は残っているものの、安堵を得たからこそ見ることのできたその笑みに恵は満足する。
ま、これが見えただけで充分か。
そう思いながら恵は立ち上がる。
「君、大丈夫かい?」
「……なんとかします」
警官のお兄さんの心配する声に、恵は苦笑しながら答えた。
駅を中心にした場合、此原第三小学校は恵の通っている此原学園此原高校の逆側に存在している。
それでもこのまま歩いてもこの女の子の登校時間には間に合うだろう。ただし彼女は、だが。
つまりはそういうことだ。
◆ ◆ ◆
「はっ、はっ……すぅ、はっ……」
此原学園此原高校前の並木道。
新緑の色を見せる木々の横を恵は苦しそうに走っていた。
制服の黒い長ズボンが少し走りにくいのを感じさせないほど恵は通学路を駆け抜ける。
身体の各所から汗が流れ滴る。それでも、冷めることなく体から高まっていく熱がひどく不快だった。
感じる熱は生ぬるく、爽快感は感じない。
肺と胃から込み上げる不快感を我慢し、恵は走り続ける。
「はっ、はっ、はっ」
門の前を曲がり、敷地内へ。
幸いなことに校舎はすぐ前にあり、すぐに昇降口が見えた。
花壇の横を駆け抜ける恵は下駄箱に飛び込み、自分の上履きを取り出す。そこで――
キーンコーン。
無情にも響く本鈴のベル。
「っつ、はぁ……まだ、先生が来てなければワンチャン……ある!」
それでも諦めず、慌てて自分の靴を押し込み下駄箱の扉を閉めて再び駆け出す。
荒い息そのままにすぐ傍の階段を上り、踊り場を鋭く切り返し再び上る。
それを二度繰り返し、廊下へ飛び出て三つ先の教室を恵は目指した。
「はぁ……はぁ、はぁ……っ」
すでに体力は底に近い、それでも走ることを止めずに目的の場所まで進む。
そうして辿り着いた、二年一組と書かれた札が示す教室の後ろの扉を恵は開いた。
「遅いぞ、朝水」
「はぁ、はぁ……です、よねー……」
教壇に立つその姿に思わず崩れ落ちそうになりながらも、恵は自分の机へと歩む。
「またか」
「すみま、せん。はぁ……はぁ、すぅ……中々魅力的な子が、いまして……」
窓際の一番後ろの机に自分の鞄をおいて、空元気の笑みを自分に担任に見せる。
今すぐに突っ伏したい気持ちではあるが、さすがに説明はするべきだろうとあったことをぼかしながら恵は話す。
「すぅ……はぁ、相手してたらこんな時間になりました」
次第に恵も息が落ち着き、ひどく喉が渇いていることに気付きながら説明を続けた。
そんな説明を聞いていた彼の担任が意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ほう、小学生の女の子がか?」
恵の思考と、体の動きが一瞬止まった。
「…………なんのことでしょう?」
右へ左へ視線が逃げながら恵は答える。
連絡が来るのはわかってたけど、さすがに特定が早過ぎないか? 学生証は見せたけど、あの女の子だけだぞ?
走ってきたからということもあり、心臓が騒いでいる。
素直に答えるのは恥ずかしい、なんて思っている恵がどう誤魔化そうかと悩んでいると、
「まあいい。席に座れ、遅刻はなかったことにしておく」
先に彼の担任が口を開いた。
「ありがとうございます! さすが担任様、よくわかっていらっしゃる」
「本当にな」
勢いよく頭を下げ、都合のいい煽てを言う恵を、困った表情で彼の担任は見てから軽く息を吐く。
「さて、もうすぐ夏休みだが……」
話が全体に向かったのを確認し、恵は自分の席に着いた。
休んでいくことで落ち着いてくると塩っぽい自分の汗の匂いに気付いた。
担任の話を聞きながら、タオルを出そうと鞄に手を入れる。
「そんなところだ――あぁ、それと」
恵がタオルを取り出したところで思い出したように彼の担任が顔を少し動かした。
恵の方へ。
「朝水は放課後に学生証とスマートフォンを此原第三小学校に取りに行けよ」
「あ……了解でーす」
思わず自分のポケットを確認しながら、恵は引きつった笑みを浮かべる。
そりゃわかるよな、学生証も向こうにあるんだし……。
謎が解決するも何とも言えない気持ちになる恵だったが、あの女の子を助けたことに対する後悔はまったくなかった。
◆ ◆ ◆
「ようロリコン」
水筒に入れて持ってきた冷たいお茶を勢いよく飲み干した恵が、タオルで髪や首元を拭いているとすぐ目の前の席からそんな言葉を掛けられた。
顔を上げると意地悪そうな顔をしたクラスメイトが恵の机に肩ひじを付いて笑っている。
「シスコンを拗らせて、とうとう事実が見えなくなったか、響?」
そんな友人の姿を半目で見ながら恵は遠慮のない言葉を返す。
恵よりも背が少し高く、やや男性寄りの顔立ちをした筋肉質なその男子は右腕を頬杖にしたまま、軽くため息を吐いた。
「なんども言っているが俺はシスコンじゃない」
「一つ下の妹と風呂に入りたいなんて言ってる奴はシスコンだろ?」
前に聞いた話を持ち出す恵に、響と呼ばれた彼はさも当然にように、
「いや、兄妹の礼儀じゃね?」
と首を傾げた。
「礼儀って言葉を辞書で百回引け」
呆れた視線で恵は友人の姿を見た。
彼と話す内容の半分は妹の内容で埋められ、時には妹の話しかしない時も多々ある。
やれ妹と買い物をした、妹とと食事をしたと嬉々として語るのは日常茶飯事のことだ。そのたびに自分の思う妹の魅力を細々と説明している。ちなみによく共にいる恵は、おかげで白部兄妹の事情に詳しくなっていた。
「そんなだからまた口聞かれなくなるんだよ」
そう言いつつ恵は机の下から教科書とノートを出していく。
「それについては妙案がある」
「どうせ、いつもの通り食べ物か謝り倒すかだろ?」
自信満々な響の声が聞こえるも、恵は気にも留めずに今度は抱えた鞄からペンケースを取り出した。
「甘いな、恵」
そんな恵に対して響は腕を組んで胸を張り、得意げに笑う。
「今は肩たたき券で機嫌を取っているところだ」
「正気か?」
間髪を容れずに言いつつ疑わしい視線を向ける恵に、響は笑顔そのままにウンウンと何度も頷いた。
「日々菜の疲れを取り、俺も日々菜に触れるいいアイディアだと思わないか?」
「ダメだろ」
どうしたらそう思うんだよ。
満面の笑みで自分の考えを自慢する響に恵は頭を抱えそうになった。
「ってか、お前のひなちゃんは肩が凝ってるのか?」
それをどうにか抑えて、とりあえず気になることを聞いていく。「あんまりそんなようす見えないけど」と恵は付け加える。
やや苦労性な感じはあるものの、響の妹が肩が凝ってような様子をあまり見ないためそこがまず気になった。
本当なようならハーブティーでも差し入れるか、なんて恵が心配りを考え始める。
「わかってないなぁ、恵は」
肩を大きく下ろし、溜息を吐くパフォーマンスを見せた響は呆れた目から即座に誇らしげに笑みを浮かべる。
「女の子は男と違って、胸が膨らむんだぜ? 肩たたきは必要だろ?」
「……あー、うん、そうだなー」
棒読みにならないように気を付けながら、恵はやや細くなった目で響を見ていた。
ひなちゃん、スレンダーな方だけどな。
響の妹を思い出しつつそう恵は思うも、デリカシーがないだろうし、また響が面倒なことを言い始めるだろうから口には出さなかった。
「ちなみに、どうやって渡したんだ?」
響の妹も何か言うはずだろうと、予想していた恵はそこも気になっていた。
何か言われたのならこんなに自慢げに話すわけはない。
そんな確信を持つ恵の目に、響の得意顔が映った。
「日々菜へのプレゼントだぜ? ちょうど良さそうな柄のギフト券袋買って、それに入れて日々菜の机の上に置いたに決まってんだろ?」
どうだ? と言わんばかりの響に「決まってない、決まってない」と恵が軽く突っ込む。
「帰ってきて、すぐに俺の元に来るかと思ったんだけど、おかしいよなー」
真面目に首を傾げる友人の姿に彼女の妹の苦労が見えそうで、恵は同情を隠せなかった。
「そりゃそうだろ……ひなちゃんは大変だな」
「当たり前だろ? 女の子だぜ!」
「……それもあるんだが、そういうわけじゃなくてだな……」
本当に大変だな……と改めて思いつつ、恵は忠告も兼ねて口を開く。
「それ商品券とかカードなんかと間違われてると思うぞ」
「はははっ、そんなことはないだろ?」
今ならまだ弁解が出来るかもしれない。
そんな恵の気遣いに気付かず、楽しげに笑って否定する響に「……そうだといいな」と軽く疲れた表情をして恵は肩を落とした。
◆ ◆ ◆
「それじゃ、朝水はちゃんと小学校に取りに行けよー」
「わかってまーす」
全ての授業が終わり、帰りのホームルームでも釘を刺され苦笑する恵に前の席の友人が右手を上げる。
「じゃ、俺は妹が待ってるかもしれないから早めに帰るわ」
「……あぁ、また明日な」
何を言っても無駄だろうと判断した恵はウキウキと帰宅の途に就く友人をそのまま見送った。
何事もなければいいな。
心の中で響に僅かなエールを送りつつ、恵も自分の用事を済ませるために立ち上がる。
いつ行けばいい、という約束は聞いてないのでそのまま行ければいいのだろう。
「朝水くん、ばいばい」
「おう、日和。また明日なー」
声を掛けてくれたクラスメイトの女子に手を振り返し、自身も親しい友人たちに挨拶してから教室を後にした。
◆ ◆ ◆
「本当にありがとうございました!」
少し道に迷いながらも此原第三小学校に辿り着いた恵を待っていたのは、迷子だったゆかりとその担任の教師だけではなかった。
「えっと……ちゃんと学校に行けてよかったです」
何を言おうか迷って、恵はそう言う。
空き教室に案内された恵の前には様子を見守るゆかりの担任のやや年の入っている男性と、ゆかりと――ゆかりの母親がいた。
ゆかりは恵の学生証とスマホを持ってジッと恵を見つめており、その隣の母親は手を前で組んで恵に頭を下げている。
「話を聞いたとき、すごく驚いて……もしかしたら誘拐されていたかもって思ってしまって」
そのことを思ってか、上がった彼女の顔は怯えているように見えた。
だけどそれはすぐに安心の色に変わる。
「だけど、あなたが見つけてくれてよかったです」
心から安堵したその表情に恵も、話しかけてよかったとまた思い、
「本当、よかったです」
そんな言葉が漏れていた。
「はい……ありがとうございます」
そう言って優しく微笑んだゆかりの母親は近くに置いてあった、たぬきの描かれた箱を手に取る。
「これ、お礼です。よかったら、どうぞ」
両手で大事に持ったそれを恵に差し出す。
「サンクロスってケーキ屋ので、うちの子も好きなんです。入っているのはショートケーキなんですけど、味は保証しますよ」
と説明したゆかりの母親に恵は驚いた顔で首を振った。
「あの、そこまでしてもらうわけにはいきません。当然のことをしたんですし」
両掌を前に出して、困った表情をする恵だが、ゆかりの母親も引きはしない。
「いえ、本当ならこれくらいじゃすみません……ですから、受け取ってくれませんか?」
「ですけど、その……」
どうするか……?
受け取ればいいんだろうけど、受け取ってもいいのだろうか?
一応遠慮はしたし、受け取れば向こうも少しは気が晴れるだろうし……。
体裁なども気にしていろいろ考える恵。そんな彼に、
「あの……」
下から声が掛かった。
「ん?」
考えるのを一度止めて、自身の足元を見るとゆかりがいた。
「これ」
そう言ってゆかりが恵からの預かりものを差し出す。
あぁ、そういえばまだ返してもらってなかったな。
そもそもの目的を思い出し、恵はまた忘れて帰るところだったと心の内で苦笑する。
そうして恵は膝を折り、ゆかりに目線を合わせる。
「ありがとうな」
笑顔で学生証とスマホを受け取り、立ち上がって胸とズボンのポケットにしまった。
「あの……」
そうしてまた恵に声が掛かる。
「あの……」
声の方へと視線を下すと、顔を真っ赤にしているゆかりが俯いていた。
「ん?」
どうしたのだろう?
またしゃがんでゆかりを見た恵に、大きく息を吸ったゆかりは口を開いた。
「あの……ありがとう……」
「え?」
「……ありがとう……」
驚いた恵にもう一度はっきりとゆかりは言う。
そうして微笑ましくなった恵は「どういたしまして」とゆかりの頭を撫でた。
それをくすぐったそうに、だけど嬉しそうに受けるゆかりを見て、彼女の母親は小さく笑った。
今日のこと、お父さんに話したらどうなるかしら?
そんなことを考え、それを想像してまた微笑ましい気持ちになる。
「どうかしました?」
「いえ、大したこと……あるかもしれませんね?」
「んー?」
悪戯を思いついた少女のように笑うゆかりの母親に、真意がわからず恵は首を傾げる。
ゆかりはそんな恵を見つめたまま同じように首を傾げた。
気付いたのはゆかりの担任のみで困ったように苦笑している。
「ふふっ……これからもゆかりと仲良くしてくださいね」
「はい。もちろんです?」
見た感じ悪い予感はしないからいいか?
楽しそうなゆかりの母親に頷きつつ、恵はそんな結論を出す。
そこに、
「ん?」
ズボンの右ポケットが震えた。
先ほど戻ったばかりの、僅かな振動音を響かせ続けるそれを恵が取り出す。
「ちょっとすみません」
そう言ってスマホを確認する。
白部響。
着信画面に、自分の友人の名前が浮かんでいた。
さっそく愚痴でもいいに来たのか?
恵はゆかり達から僅かに離れながら通話を開き――
「もしもし」
『助けてくれー、恵ぃ』
スマホを耳に当てた直後に耳に飛び込んできた情けない声に、恵の右の目や眉に皺が寄っていく。
このシスコン……今度は何をしでかしたんだ。
思わず溜息が漏れそうになりながら、そう恵は思った。
ひとりの少女が揺蕩う夢 花水坂 @tabineko_1stflower
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ひとりの少女が揺蕩う夢の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。