1-3【邪術師(ボコール)の契り】

「うっわぁ……こいつぁ凄いッスねぇ……」

 自分達を出迎えた、見慣れない品の数々を認め、少年……矢代光吉は感嘆の声を上げる。


 赤く燃え立つ太陽は無論の事、青く冴える月、煌びやかに映える星……そこはこの世界のあらゆる光を拒むように、深い闇に満ちた空間……。彼らが立つ“ここ”が、まさにそんな場所だった。

 創作の世界にしか無い筈のものが溢れる、一般社会と地続きの異世界。“ここ”が、まさにそんな場所だった。

 山手線を真っ二つに分かつように走る総武線。秋葉原駅から乗り換えて、御茶ノ水、四谷、新宿と、都内屈指のメガタウンを車窓に見止めながら二五分ほどかかって辿り着くのは、中野。

 中野サンプラザ、中野サンモールなど、非常に名の知れたスポットが乱立する、東京二三区でもかなり“濃い”世界である。

 駅に降り立ったものを最初に出迎えるのが中野を代表する大規模商業施設、中野ブロードウェイ。秋葉原や池袋ほどではないにしろ、ここも二次元と三次元の境界が薄れ、そこに一際濃密なカオスが流れ込む、この世界の異端者アウトサイダー達の吹き溜まりである。

 その中野ブロードウェイの片隅……。オカルト業界では既に女史として畏敬の対象となっている漆黒の少女、リリィ・ファーランドが店主を務める、オカルトグッズの専門店『セカンド・デグリー』。

“そこ”に姫鶴脩一行が辿り着いた頃には、既に時刻は七時をとうに経過していた。

「ホント、いつ来ても慣れねぇな……」

 陳列棚狭しと並ぶオカルトグッズの数々を眺めながら脩は呆れたように呟いてみる。魔除け程度なら役に立ちそうなシルバーのアクセサリーや色とりどりのチャームやパワーストーン、タロットカード、水晶玉や真っ黒に塗りつぶされた鏡。

 儀式の道具として使われるのだろうか。祭壇に飾るための悪趣味な人形、短剣、杖、そして、一際大きな釜とチャリス

 また別の場所には中々どうして難しそうな……カバラやドルイドの古典魔術は言うに及ばず、北欧のルーン魔術、中国の方術、更には陰陽道の秘儀まで……古今東西の魔術を網羅した書籍グリモワールがぎっしりと並んでいる。


 リリィの店……セカンド・デグリーはまさに人間、そして世界が荒唐無稽な迷信として悉く排斥していった、人の心が生み出す暗部……そしてそれが生み出した恐るべき技術……オカルティズムの吹き溜まりであった。

 既にここのほぼ常連となっている脩でさえ、この店に並ぶ品物の数々、そして店主たるリリィの存在に、時折不覚にも強烈な疑いに似たような感情を抱いてしまう事も間々ある。

 とはいえ……決して脩はそんな黴の生えたようなオカルトをやたらめったら排斥したり、狂ったように現代科学万能説を妄信したりするような愚者ではない。

 目に見える科学の世界に限界というものを見出し、まともな者であれば辿り着く事も叶わないオカルトの世界に、敢えて身をおいたファウスト博士。

 そんなファウスト博士と同じ轍を踏んだ父・姫鶴鏡博士の背中を見て育った脩は……。いや、脩だからこそ、オカルトの世界の奥深さも、現代の科学者たちの底の浅さも、嫌と言うほどに理解している。

“効くと思えば効くもの”……。それが、脩が変わらず持ち続けている、魔術の世界に対するスタンスだ。


 いつものようにぼんやりと品物を眺めている脩と離れた有紗と光吉は、普段の日常であればまず見ない品物の数々に目を輝かせる。

 それはそうだ……今まで創作ファンタジーの世界にしか存在しないと思っていた様々なものが、目の前どころか少し手を伸ばせば容易く届く場所にあるのだ。コンピューターゲーム好きな光吉も、生粋の創作人である有紗も、胸をときめかせないわけがない。

 この世界の何より濃密であるはずなのに意外と曖昧な、現実と夢の境界線。そこに建つのが『セカンド・デグリー』。中野ブロードウェイの隅に隠れるようにあるここは、都内の若者達のちょっとした穴場スポットだ。

 ……と、有紗の両の目が、一つの細長いボトルを認めた。透明な樹脂製の一〇〇ミリリットル程度のボトル。ラベルに十字架をあしらったそのボトルの中身は透明な液体。まじまじとそれを見つめる有紗にリリィは告げた。

「ホーリー・ウォーター……所謂、聖水ね」

「聖水……これってゾンビを治すアイテムですよね?」

 後世に作られたイメージに裏付けされたあまりに頓珍漢な有紗の答えにも、オカルトのプロフェッショナルたるリリィは動じない。

「まぁ……貴女のイメージはそんなものかもしれないわね。確かに聖水にはそうした用途もある。だけど……本来の使い方は、魔術の儀式を行う際の道具や場所に、霊的な浄化をもたらす為のものよ」

 霊的な浄化……聞きなれない、というより普段なら絶対聞かないその言葉に、有紗も光吉も目を丸くする。

「まぁ、口で説明するより、聖水が如何なるものかを実際に見た方が分かりやすいわね。……着いて来なさいな」

 踵を返すとリリィは薄暗い店の更に奥へ通ずる古惚けた扉の向こうへ消える。有紗、光吉、そして脩がそれに続いた。


 そこは、あまりに殺風景な部屋だった。装飾品も何もない八畳程度の部屋には、四隅にキャンドルが灯された燭台。中央には古惚けた木製のテーブル。それを脩、リリィ、有紗、光吉が取り囲んでいる。

 テーブルの上に在るのは有紗が興味を示していた聖水と、銀板に六芒星ヘキサグラムが描かれたチャーム。

「これが聖水ですか~……」

「そう。そしてこれから行われるのが、聖水本来の用途。……ふふ。まるでどこぞの質の悪い街頭販売みたいだけど…………」

 街頭販売というよりはそれこそ怪しげな健康食品や運動器具を扱う、需要というものをまるで考えていない深夜のテレビショッピングのようだ。言うなりリリィは、必死に耳を欹てなければ聴き取る事叶わない小さな声で、聖別の祈祷文を読み上げて行く。

 一頻り唱え終わると聖水のボトルから透明な液体が零れ、チャームを聖水が満たして行く。チャームから漏れた聖水がテーブルに染みていくにつれ、先程から部屋に立ち込めていた空気の中の穢れが、少しずつ和らいで行くのを有紗も感じていた。

 ……儀式は、ほんの数分程度で終わった。

 リリィが有紗にチャームを持ってみるよう促す。恐る恐る有紗は、それを手にとって……。

(!!)

 不思議だ。日々の暮らしの中で絶えず感じていた、不安や焦燥といった感情が徐々に和らいでくる気がする……。

 いや、はっきりと感じる。和らいでくる。チャームそのものがそうした感情を、自ら風を発してそれに融かして流していくように。

 決してフィクションの世界ではない、これは現実に、自分の傍で起きている事……有紗は思わず息を呑んだ。

 とめどなく流れ込むインスピレーションが、有紗の中のイマジネーションを加速する。いつの間にか少女の脳内には、



「少しくらいは……理解、出来たかしら」

 小さく首を縦に振る有紗。創作の世界でしか触れる事叶わなかった魔術の世界。視認こそ出来なかったものの、確かにチャームが絶えず放つ“癒し”の力が、それをありありと少女に見せ付けている。

 チャームをその手にしているだけで、両手に放たれる力を感じるだけで、感嘆の溜息がノンストップで溢れ出る…………。


“これが、魔術の世界”。

 その重い扉を開け、大きな一歩を踏み出すまでの勇気は出なかったが、確かに少女は、それを“見た”。


「ん? アイツ……」

 リリィ言うところの“街頭販売”たる儀式を終え、いの一番に暗い部屋を出た光吉が、店の片隅にとある小さな人影を認めた。

「知ってんのか」

 脩と有紗も彼の者の存在に気付く。もっとも、それはあまりに陰気な、しかしすぐにでも萎びて消え入りそうな、希薄かつ不快な存在だったが。

「あぁ、俺のクラスメイトだった米田憲太郎ってヤツですよ」

 米田憲太郎と呼ばれたその少年。落ち着いていないのか視線を棚のあちこちに投げ、暗い表情を浮かべている。

 恐らく、此方の存在には気付いていないらしい。そして背後の三人の話題の中心に自分がいる事さえも。

「クラスメイト……だった?」

「アイツ、ついこないだウチの学校、退学処分になったんです。学校にトルエンを持ち込んで」

「ちょ……っ、トルエンって。劇薬じゃない!! あんな真面目そうな子が何で……」

「俺だって分かりませんよ!」

 有紗と光吉は喧々囂々。憲太郎という少年からじわじわと滲み出る陰鬱な気を感じ取って成り行きを見つめる脩。


 “アイツ……嫌な気を纏ってやがる”。


 脩の経験上、あの気を持つ者は大抵心に濃厚な闇を抱えているものだ。

 例えば億単位の借金に追われているとか。例えば重大な罪を犯して今もその影に怯えているとか。例えば自ら命を絶ちたくなるほどの壮絶な苛めを受けたとか……。

 奴はそんな嫌な気を全身から棚引かせている。真っ先にそれを感じ取った脩は彼を……米田憲太郎を警戒した。

「君。もうすぐ閉店よ?」

「あ、あぁ……はい……」

 不意に声をかけたリリィに対し、そう答える少年……米田と呼ばれた少年の顔には、明らかに翳りの色が浮かんでいる。だが暫くすると彼は顔を伏せたまま、一直線にカウンターへ歩み寄る。手元にあるのは小さな瓶。

「こ……っ。これ、ください…………」

「……何かしら…………!?」


 おずおずと少年が差し出した小瓶に、リリィは思わず息を呑む。それは中米ハイチに伝わる秘教・ブードゥーをルーツに持つ強力な呪術の道具であり、対象に振り掛けたり特定の場所に撒いたりして効力を発揮させる、マジカル・パウダーのひとつ。

 擦れたアルファベットでグレイブヤード・ダストと読めるラベルが貼られたパウダーの小瓶を少年はリリィに震える手で突き出している。グレイブヤード・ダストは、自分に対する敵を打ち負かすためのパウダーである“グーファー・ダスト”の強化版だ。

 グーファー・ダスト自体、敵の身体や家の敷地に撒いたりする事により、それに触れたり嗅いだりして影響を受けた憎むべき敵を、精神的な錯乱状態に陥れる非常に危険なパウダーである。それよりも更に強い効果を持つ恐るべきマジカル・パウダー……グレイブヤード・ダスト。

 その影響を受けたものがどのような末路を辿るかは想像に難くない。その効き目はあまりに強大なもの故、リリィもこうした危険な道具は本当に信頼の置ける者にしか売らないのを信条としている。

「グレイブヤード・ダストねぇ……こんな物騒なものを欲しがるなんて、貴方って相当訳アリなのかしら?」

「……復讐、したいんです。僕を苛めた奴等に。僕の人生を、台無しにした奴等に……」

 その重い言葉が空間を一気に鈍色に染める。まともな大人であればすぐさま一笑に付して蔑みの視線を向ける復讐という言葉。

 それがほぼ瞬間的に、少年の口をついて出たのだ。どうやらこの憲太郎とかいう少年、よほど壮絶な責め苦を、今日までその小さな身体に慢性的に受け続けて来たのだろう。

 少年の震える手は、がっちりと手元からこぼれ落ちそうなグレイブヤード・ダストの小瓶を握り締め、決して離す事はなかった。

「これを…………!!」


 パシィ!!


 刹那、小気味いい打撃音が店内に響き、憲太郎という少年は手の甲を押さえたまま苦悶の表情を浮かべ蹲る。

 リリィの白い掌が、少年の手を打ったのだ。ようやく拘束から解き放たれ、自由落下により固い木の床の上に四散しそうになったグレイブヤード・ダストは、見事に脩の手元に収まっている。一秒のほぼ六〇分の一の世界…………。フレームの世界の見切りを可能とする眼を持つ脩だからこそ出来る芸当だ。

「逆上せあがらないで。復讐したいですって? 魔術を用いれば弱い自分にもそれが出来る、まさか本気でそう思ってるの? 縦しんば貴方がそれを成し遂げる事が出来たとして、貴方を苛めた輩が貴方の人生を返してくれる保障はあるのかしら!?」

 そう語るリリィの深紅の目から放たれる視線は……この世のどんな利器よりも鋭く、そして冷たい。

「うっ、うぅ……。なん、で…………!!」

「……貴方には認識がない。魔女術ウィッチクラフトは子供の喧嘩の道具でも、便利な殺人兵器でもないの。無明の暗がりの中で、それでも光明を見出そうとする人の為にある、人間が今日を生き抜くための生存術なのよ。それが分からないならばもう一発くらい、そいつらに殴られて来ればいいわ。そうすれば少しはピントが合うでしょう」

 黒い少女の、あまりに冷徹無比な言葉は、憲太郎という少年を圧倒するには十分すぎるほどの力を持っていた。

 カウンターに背を向け、よろめきながら退散して行く憲太郎。一同はそれをめいめいの気持ちを持った視線で見送った。その後恐る恐るリリィに一つ尋ねたのは有紗だ。

「あの……いいんですか? あんな風にきつく追い返したりして…………」

「……有紗さん。コヨーテロードランナーを捕らえられない理由が分かるかしら?」


 有紗はいつか衛星放送で見たとある短編アニメを思い出した。七分足らずの短い時間、草木もロクに生えてない荒野で、物凄い速度で地を駆けるロードランナーとそれを捕らえようとするコヨーテによるスラップスティックコメディ。コヨーテはロードランナーを捕まえて食べようとあの手この手を弄するがいつも失敗して痛い目を見るのである。

 とはいえ、別にロードランナーの頭が図抜けて良い訳ではない。コヨーテは時として何処からか通信販売で購入した様々なアイテムを用いてロードランナーを捕まえようとするが、大抵いい所でその道具が壊れたりして、ロードランナーが何もせずとも勝手に自滅していくのである。

 道具を上手く扱えず傷を増やすコヨーテ。彼を思い出し、何となく、有紗は黒い少女の言葉の意味がわかった気がした。

「どうせああいう子は身の丈に合わない大きな力を手にしても、そのまま自重で潰れるだけだから」

「だが……アイツ。憲太郎とか言ったな…………。本物だぜ、復讐してぇっていう意志だけはよ」

「……本物だからこそ危険なのよ。彼は魔術の行使に伴う代価リスクを、何ら計算に入れていない。目先の復讐に囚われて、その後が見えていないの。欲求、復讐心といった負の感情というものは、例外なく人を目暗にするものよ…………」

 リリィの口調はその見た目に似合わぬ、あまりに達観した、あまりに冷たきそれであった。

 無論、その場の誰一人、彼女に反論する事は叶わなかった。


(なんでだ……なんでだ……)


 帰り道、もう何度この言葉を呟いただろう。

 力では奴等に太刀打ち出来る筈などあるわけが無い。だから、それを使わずに復讐を成し遂げる方法を、死に物狂いで探した。

 書籍、ネット、根も葉もない噂話……。尽くせる手は全て尽くした。その甲斐あってつい最近、ここに一つの情報を得た。自分を傷つけたものに対する、復讐に使える魔術がある。

 魔術を用いれば法に触れるリスクを犯す事無く、彼奴等をそれこそ一人残さず、地獄に叩き落す事が出来る。危険な魔術には某かの代償は付き物だという事は理解していたが、自分自身それに対する恐れは無かった。

 このままでいれば本当に殺されると、自分なりに分かっていたから。結果は同じだと分かっていたから。自分は失うものも全て失ったとはっきり言い切ることが出来るから。

 魔術道具を扱う店。何の気もなしに手にした雑誌の隅にあったそれをふと思い出し、半信半疑ながらもそれを探し、ようやく見つけたのに。

 それこそ、藁にも縋る思いだったのに。最後に残った希望も、あの少女に無残に打ち砕かれた。しかも自分は彼女に“もう一発くらい殴られて来い”などと言われた。

「僕は悪くないのに……僕は何も悪くないのに…………っ!」

 なんでいつも世間というものは、強い奴の味方なんだ。なんで自分みたいな奴はいつも悪者扱いなんだ。

 なんで人は自分からチャンスを奪うんだ。先にそれをしたのはあいつ等なのに、なんで自分に“無実の人間を悪者に貶めている”ような、あまりに馬鹿げた認識をするんだ。

 なんでだ。なんでだ! なんでだ!! なんでだ!!!

 思わず大声で叫ぼうとしてやめる。こんなところで大声を出したら、またしても自分はいい物笑いの種だ。

 これ以上、後ろ指を差されるのは、御免だった。


(もう、死のう……かな……)


 そうだ……死んでしまおう。生きていても意味が無いなら、そうした方が建設的だ。

 そうする事で自分はようやく、家族の……この世界の消費を減らす事で、初めて世界に貢献する事が出来る。

 自分が死ねば誰か泣くだろうか? いや、そんな奴はいないだろう。家族は肩の荷が一つ下りたと安堵するだろうし、かつてのクラスメイトも教師達も、ようやく鬱陶しい奴が消えたと、狂喜乱舞して生きるだろう。自分は空の上からそんな彼奴等を滑稽だと指差して笑ってやる。

 それもまた、一つの復讐になるだろう…………。


 ――それでいいのか。


 不意に、低い男の声が背後から響く。振り返ろうとしたものの、まるでその身体は手足は勿論の事、指先や顔の筋肉に至るまで、金縛りにあったように動かせない。まるで声の主が“顔は見るな”とでも告げているかのようだ。

 冷や汗を絶え間なく流し、恐怖とも不安ともつかぬ表情を浮かべる少年に、男の声は続けた。


 ――死ぬべきはお前ではない。お前を死ぬ手前まで、愉しみながら傷つけた奴等の方ではないか?


 ――もしもお前が死して葬式が行われたとしよう。お前を苛めていた奴等はそこでどんな顔をすると思う? 取材に来た莫迦なマスコミにどんな話をすると思う?


 ――間接的にでもお前を殺しておきながら、ぬくぬくと彼奴等は生き続ける。そうしてトントン拍子に出世して、お前を苦しめた過去の瓦礫の上に暖かい幸せを築く。お前をそれを許容できるか?


 ――そんな事は可笑しいと思わないのか? それでは正義は存在しない。違うか? お前を殺した愚かしい者を、お前はこの世にのさばらせるつもりでいるのか?


 ――お前だけではない。今もこの広い日本、そして世界で、お前のように理不尽な仕打ちに傷つき、苦しんでいる奴がいるのだ。そんな奴等の無念がお前なら聞こえるだろう。まさか、その怨嗟の声に耳を塞ぐのか?


 思わず、はっとした。

 そうだ……自分の、復讐したいという意思だけは、確実に本物の筈だった。

 その手段を絶たれたという現実に思わず目を伏せたが、そんな現実は絶対に間違いであってほしかった。現実に絶望するなんて事だけは絶対にしたくなんてなかった。

「可笑しい……です。認めたく……ないです…………!!」

 何故かこの状況で、自然にハッキリと声が出た。生まれて初めて自分の意思というものを、明確に声に出した気がしてならなかった。

 傷だらけの心の片隅にほんの僅かだけ残った自分の正義感。もしかしたら、それが自分にそうさせたのか?

 他ならぬ自分の言葉に思わず困惑する。それを受けた声が続けた。


 ――それが、人の正しい感情だ。“汝の欲するところを為せ……”、それが人間に許された正義だ。

 無論、お前にもそれは許されている。後ろを見よ。お前に“力”をくれてやる。


 促されるまま後ろを振り返る。ロールプレイングゲームで見かけた小さな宝箱がそこにあった。意を決してそれを開く。

 思わずおぉ……と、感嘆の声が漏れる。少年に許された正義が、それを行使するための力と武器が、そこには沢山あった。目を凝らしてそれこそ穴が開くほどそれらを凝視し、興奮に息を荒げる。

 瞬間、箱の中にずっと潜んでいたと思われる、ひとつの黒き影が此方に飛び掛って来るのが見えた。それは姿はあまりに小さく、その動きはあまりに速い。振り払うどころか何物かと考える間もない。

 あれは、おそらく蛇か何かだろうか……。思わずひぃっ、と情けない声を上げそうになるが、ただそれだけだ。その前に影は何処ともなく消え去り、噛み付かれた痛みも毒の苦しみもなく、残されたのは自分と古ぼけた箱だけ。ただの幻だったかと胸を撫で下ろし、改めて箱の中身を確認する。その一つを手に取って、改めて確信する。

 力が、自分のものに……。誰にも苛められない、誰にも莫迦にされない、そんな力が自分の手にある。米田憲太郎は込み上げる愉悦を抑えられなかった。

 礼をしようと後ろを振り返った頃にはもうそこには誰もおらず、その声も聞こえなかった。


「ほい、終わったぜ」

「……ご苦労様」

 閉店時間を迎えたセカンド・デグリーの店内に、浄化(ブレッシング)のインセンスの香りが満ちてゆく。先程から立ち込めていた不快な陰の気が、インセンスの放つ香に溶け、その全てが無に帰していく。

 火をつけた木炭チャコールの上に振り掛ける事によって使われるインセンスは、セカンド・デグリーの主力商品の一つだ。自己変革、能力開眼、さらには攻撃的な魔術と、兎に角その種類は用途によって非常にバリエントに富んだもの。

 木炭と火を使用するため扱いが難しい、というより危ないのが難点といえば難点といえるが、それさえクリアすれば容易く使う事が出来、しかも効果は十分にある。それがインセンスの人気を支えていた。


「いつもこんな事してるんですか?」

「まぁね。道具に不浄な要素がつけば、その力はたちまち失われるから。因みに今日はいつもの四割増よ。久しぶりに不快な子を相手にしたしね」

 まるでいけ好かない客が去った後、店先に塩でも撒くかのごとく、リリィは終始インセンスを乱暴にチャコールにぶちまけていた。彼女とは相当長い付き合いの脩も流石にその光景を苦々しく思っていたが、まぁ無理からぬ事だと納得する。

 リリィもあぁいうタイプの客を相手にするのは初めてだっただろうし、相当苦痛でもあっただろう。

「悪かったな、二人とも妙な事に付き合せちまってよ」

「いいよ、別に。ところで脩はどうするの?」

「俺はもうしばらくしなきゃならねぇ事があるんでな。有紗と光吉は先に帰っといてくれ」

「あぁ……分かりました。脩さんもお気をつけて!」


 幼馴染がいたいけな少女と二人きり。有紗はそんなシチュエーションに釈然としないものを感じつつも、あまり気にしないように努める。

 別に脩と自分は恋人同士というわけではないし、有紗自身が仲のよい幼馴染という関係以上のそれを望んではいない。それに、一端の同人作家としての有紗は、所謂“萌え”が恋人のようなものだからだ。一般人とは根っ子から異なる存在だからだ。

 ……恋より仕事、という大袈裟な話だというわけでもないが。

 中野ブロードウェイの雑踏に有紗と光吉が消えたのを認め、脩は振り返りもせずにそっと傍らの黒い少女に切り出す。

「邪魔者も退散した事だし……そろそろ、アンタの用事の話に入ろうぜ」

 アンタの用事……。それを聞いてリリィは口元をふっと緩める。この“アンタの用事”という言葉は、脩のような“力”を持った人間と、この世界の闇を見つめるリリィのような者との間にのみ、事細かに通じる言葉だ。

 オカルトショップ・セカンド・デグリーの裏の顔…………。遣い人派遣業の顔がむくりと擡げるのは、閉店時間を幾分過ぎた頃。

 片思いを成就させたいだの、不倫相手と別れたいだの、地位と名声がほしいだの、そして……時に憎い相手を殺したいだの。そういった人々の依頼に応え、それに応じた遣い人を送り、彼の者の願望を成し遂げる。

 インターネット上に掃いて捨てるほど存在する詐欺紛いの復讐代行サイトとは全く違い、セカンド・デグリーはそれなりに信頼の置ける業者の一つだ。依頼料は決して安い部類には入らないもののその成功率から、やはり需要は非常に高い。そして都内で活動する異能力者……遣い人達も、生きる糧とその身に滾る力のぶつけどころを求め、“召使い”として黒い少女の元へ集う。

 脩もまた、セカンド・デグリーの代表者たるリリィお抱えの遣い人……“召使い”だ。

「こないだのアレ……上手くやってくれたみたいね。流石に暴れすぎだとは思うけど」

「悪かったな……アイツ等が気に食わないから本気を出しすぎた」

 姫鶴脩にとって、それはただこれから何度も重ねるであろう罪の一つ。決して忘れてはならない重すぎる罪の一つ。

 黒い少女の、リリィの言が、あの日の記憶を、あの日の罪を揺さぶり起こす。それはとある朧月の夜の話。


 明日の降雨を告げる傘を被った朧月が躍る深夜の静寂を、バイクのエンジン音と血の臭いが引き裂いていく。

 人や車の通りも、繁華街の毒々しいネオンサインの点滅も疎らになった大都会の国道を満たす大量の排気ガスと大音量のホーンとエンジン音、そして無軌道な若者達の狂喜の声……。

 それらの響きはごくありふれた大都会の国道を濛々と殺気立ち込める無法地帯へと変えていく。

 混濁たる真白の夜霧にも似た濃密かつ冷徹なその殺気は、力無き人の体にはどんな劇物よりも強い致死性、そして即効性がある。

 うっかり触れたり臭いを嗅いだりすれば、たちどころに強力な毒はその鋭い牙を剥き、気安く触れた哀れな犠牲者の全てを食い散らかす。


 今日もまた、幾人か被害者が出たらしい……。殺気に混じって何よりもきつい、ひと舐めすれば不快な鉄の味が口腔に満ちる血の臭いが周囲に漂う。

 無論それらの主は高濃度の排気ガスと爆音をあたりに振り撒きながら、我が物顔で冷たき国道を駆けて行く、人の姿をとった狂犬達だ。

 僅かに街に残った人は須らく音と彼の者の影に怯え、命乞いの準備をせんとする…………その全てが無駄だという事は承知の上で。


 一歩間違えば直ぐにでも野戦病院に、更に下手をすれば死体捨場になりかねないピリピリした空気に満ちた国道を幅一杯に埋め尽くす勢いを持って駆けて行くのは、この辺りでも札付きとして名高い暴走族連中、名を関東弩羅厳会という。

 欲しいものがあれば奪い、気に入らないものはたちどころに殺し、まさに己の有り余る力と欲望の赴くままに騒音、恐怖、そして死を撒き散らす、その全てが非常に危険な奴等。

 構成員の数は既に二百を超え、しかもそのひとりひとりがまさに手の付けられない狂人という、正真正銘の武闘派集団。

 当然の如く、国道沿いの住民も警視庁の敏腕機動隊も皆彼等を、そして彼等の報復を恐れていた。


 彼の者達は決して存在そのものを許されてはいけない、紛れもない街の害毒。

 だが、力なき人にとって、その毒はあまりに強力すぎる。致死性の高い毒に立ち向かってそれを除去しようなどという勇気……いや蛮勇を、良識ある人はまず起こさない。それをするものはよっぽどの莫迦か極め付きの命知らずだと彼等は言う。

 君子危うきに近寄らず。障らぬ神に祟りなし。かような者は相手にせず、無関心を決め込むのが一番の対処法……

 それが現代に生きる人の常識、若しくは処世術であった。


 …………少なくとも、その夜までは。


「気に喰わねぇ……」

 少年はそう呟くと、左右両の拳を硬く握り締め、轟音の方向へその視線を定めた。

 群青に近い黒髪の両サイドに銀のメッシュを入れ、普段着として愛用しているシルバーのトップスとモスグリーンのロングパンツに身を固めた彼は……轟音を上げながら向かってくる無数の狂戦士達の四キロメートル先に立ちはだかり、先頭の一団をキッ、と見据える。

 音が近付いてくるにつれ、憎悪とも、義憤ともつかない抑えきれない胸の滾りは少年の中で、そのボルテージを上げていく。


 この場に誰か良識ある大人がいれば、“死ぬ気か、やめろ”と彼を止め、国道から引き離して説教の一つでも垂れていただろう。

 ここにいたのがこの少年ではなく他のまともな人であれば、すぐにその者に一つ頭を下げて、大急ぎで逃げ帰ったことであろう。

 しかし少年にそんな気はさらさら無い。彼には無法者の真っ只中へ飛び込んでも生還できるどころか、彼等を一人も生かす事なく斃せる自信があった。

 成長期特有の痩躯に見合わない程の強大な“破壊の力”を迸らせ、それこそ骨の一片も残す事無く対象を消し飛ばす自信が。


 国道のほぼ全てを覆う程の勢力を持った者達を見据えて、彼等一人一人がどれ程の戦力を持っているのかを、生まれ持ったその感覚だけで瞬間的に判断する。

 一団の中の一人だけを見れば、直ぐに分かることだった。


 トップスピード七〇キロ毎時。体躯は自分より一回り大きい程度。主武装、全長一メートル前後の木刀および鉄パイプ。

 その身体で本気で振るえば、人の骨の一本や二本は軽く打ち砕くだけの威力を秘める、紛れも無い人に危害を加えるための凶器どうぐだ。


 とはいえ、やはりそこは近接武器。少年の持つ“破壊の力”は、それのほぼ倍以上の威力と、倍以上の間合いをカバーできる……要は、奴等の間合いの外から完膚なきまでに打ち倒せる。

 多勢に無勢、そんなことは全く無い。万に一つも負ける要素は存在しない。

 むしろそもそもの問題は、彼奴等がその凶器を、まるで携帯電話かパス・ケースを持ち歩く感覚で手にしているという事。

 そしてそれは、この場にいる僅かな無関係の、力の無い人間にのみ振るわれるという事。それが何より、少年は癪だった。


 奴等が撒き散らすのは騒音だけではない。集団というものの生み出す言い知れぬ恐怖、歯止めというものを知らぬが故の理不尽な暴力、そして、死。

 彼等に直接的、あるいは間接的に、しかし無残に殺された人間が一体何人いたかは想像に難くない。


 そんな奴等が“癇に障る”。

 少年にとって、彼奴等を潰す大義名分りゆうはそれだけで十分だった。更に言えば……。


「国に護られてるって幻想を抱いてる、てめぇらの全てもよ」


 そう。彼等はものの見えぬ大人の作り上げた、抜け穴だらけの少年法という悪法に護られている。

 エンジンの空ぶかしを注意した者を鉄パイプで撲殺しようが、じとりと好奇の眼差しを向けた物好きな者を大径のタイヤで轢殺しようが…………国に、少年法に護られている限り、絞首台だけは須らく免れる。

 それが、少年は尚更気に喰わないのだ。


 …………ならば、そんな彼奴等を地獄の最底辺に叩き落してやる事に、何の問題もない。いや、今は奴等をそうしたくて仕方がない。

 少年の行動理念は極めて単純なそれだった。


 暫くするとかの無法者達はその襲来を待ち受ける少年のもとへ辿り着き、あっという間に彼を囲繞する。

 血やオイルの臭いと耳障りな駆動音に隙間なく包囲されながらも、少年はその冷淡な表情を崩さない。

「あん、何だテメェは!!」

「轢き殺されてぇのか、おいっ!!」

 無法者達が鼻息を荒げながら少年をグルグルと取り巻くように走り続ける。極彩色の髪に崩れかけた顔、無駄に大きな体躯と目に優しくない様々な色の特攻服。

 センスという言葉などとは無縁の彼等は、少年を脅すようにわざとエンジンを大きく吹かせながら、めいめいに大音量で喚き続ける。不協和音が少年の周囲を満たしていた。

 本当、鬱陶しく騒ぐことだけは上手い奴等だ。集団になれば、その手に鈍器を持てば、大きなバイクに乗れば、それだけで強くなったと思い込んでいる。

 それが少年は余計に気に喰わない。ならば…………。


「……………………死ねよ」


 瞬間、少年の意志は、実行に移された。


 希臘ギリシャ神話の大神ゼウスがその権威の証たる雷の錫をそうするように、少年……姫鶴脩は、固く拳を握り締めた右腕に渾身の力を込めて、無法者達の群れに向けて振り下ろす。

 その中の一人に“力”を直撃させると彼の者は悲鳴を上げる間も無く後方へ派手に吹っ飛ばされ、大きな放物線を描いた数秒後に国道に叩き付けられた頃には最早身元確認も儘ならないほど、その身体を粉々に粉砕されていた。

 大枚叩いてあしらえた派手な特効服が橙の炎を上げて、めらめらと燃え盛る。


 閻魔様の裁きを待つ前に目の前で無間地獄に落とされた仲間の姿を見せ付けられ、唖然とする無法者達。脩はそんな彼等を一人、また一人と、その華奢な身体を駆け巡る“力”を碧の弾丸に変えて撃ち放ち、絶え間なく彼の者達の肉体に叩き込み、その全てを皆同じ真っ黒焦げの肉塊へと変えていく。

「う、うわぁああ!!」

「なんなんだコイツはぁっ!!」

 恐れをなして無様に逃げ出す者の背中にも、容赦なく一発。そしてその度に出来上がる真新しい焼殺体。

 気が付くと軽く六〇人程度はいた無法者はたったひとりだけになり、そのひとりだけの男も自分が骸の山の中にいるという恐怖に怯えながら、姫鶴脩という少年を見上げていた。


「ひっ、ひいぃぃ…………!!」

 目の前で起きた惨劇に腰を抜かし、身体の彼方此方を痙攣させ、引きつった表情のまま後退る。そんな彼の無法者の存在を認めた脩はその腕を彼に翳し、少しずつ力を込めてゆく。

「は、はわ、はわわわっ…………!!!」

 目の前に突き出された右腕から放たれる、仲間を打ち砕いた碧の烈しい光。炎でも雷でもない、この世の何よりも強く純粋な破壊の光…………。

 それは先程の少年の台詞が決してハッタリでは無い事を証明し、同時に、無法者にこの後起きる一つの現実を突きつける。

 たった一人の少年の手により目の前で起きた現実。眼前の光が自分に向けられる可能性。それが齎すこの世で最も無様な死。

 それら一つ一つが一本の糸になり、無法者というリリアンによって丹念に織り上げられ、恐怖という鮮やかな斑の組紐を作り上げる。

 その斑の組紐を、己の意思と関わりなくその手首にかける事を余儀なくされた者が唯一出来る事はただひとつ……。


 …………この場から、逃げる事だけ。


「お……っ。おたすけぇ!!」

 恥も外聞も最早無かった。今は一刻も早く逃げ去りたかった。少年の手の及ばないところであれば何処でもよかった。

 男は只管逃げた。前もろくに見ずに逃げ続けた。無論……その全てが無駄だという事は、何一つ彼は分かってはいなかったが。



 ――ドゥッ。



 刹那、碧の閃光と烈しい灼熱、背中から伝わったメガトン単位の衝撃が、男の全身をリニアモーターカー並の速度で駆け抜けていく。

 筋肉、脂肪、臓器、骨格、その他諸々が白い煙を上げながらパンパン弾け、身体のどこかから手持ち花火のような火花が噴き出す。

 やがて男の身体のパーツの大きさ自体も倍以上に膨張し、耐熱温度が限界点を超えた時……ぼん、という派手な爆発音とともに、男の一つの身体は木っ端微塵になって彼方此方に散乱した。高熱により気化してしまったのか、流れ出でた血は驚く程少なかった。


 …………その全てが、一瞬だった。


 放物線を描いて宙を飛んだ無法者がアスファルトの上を何度か回転して止まった頃には、彼は己の先を逝った者達と同じ黒焦げの肉の塊となって、冷たい夜のアスファルトの上に横たわる。

 そんな無法者達の残骸を一瞥し、脩はその視線を改めて国道の方に向ける。

 ……粗方、雑魚は潰した。これだけ派手に暴れれば親玉も必ず現れる。


「出て、来いや」


 呟きが血煙に乗って、言の葉を伝えようとするように、一つの方向へ飛び去る。


 ……そいつは、すぐに現れた。

「へっ。テメェ、随分と派手にやってくれたじゃねぇか」

 ドスの利いた低音が脩の背後に響く。それを聞いた脩は口元に小さく笑みを零した。

 どうやら、あの呟きは無事に届いたらしい。一九〇センチは軽く超えているであろう、ブリーチで派手に染め上げたブロンドのオールバックが夜風を切り、特注品と思しき鮮やかな黒の特攻服を纏ったそいつは、先程脩がぶち砕いた手下の残骸をバックに、悠然と仁王立ちしていた。


「何だい…………悪名高き弩羅厳会総長とか言うからどんな厳つい野郎かと思ったら、なかなかどうして男前じゃねぇか」

「野郎、何のつもりでこんな事をしでかした? 返答次第じゃただで済まねぇぞ」

「……五月蝿く騒ぐテメェ等が癇に障った。それ以外に理由がいるか?」

「ふん。癇に障ったら殺すのか。どうやら腕は立つらしいが、頭の方はさっぱりらしいな、貴様は」

 ……よく言うぜ。そいつはテメェ等だろうが。敢えてそれを言葉には出さず、その意識を右腕に集約させ、体内を流れる強大な力を碧のスパークとして具現化させる。脩の“破壊の力”…………。

 それは学会始まって以来の、狂気の天才科学者たる父が提唱したプロジェクトの産物。


 弩羅厳会総長たる眼前の男の口元からふっ、という音が漏れるのを、脩は聞き逃さなかった。

 “こいつめ、余裕かましやがって……!”脩の怒りはスパークの輝きを更に高め、その眼の烈しい輝きも更にその輝度を上げていく。

 今に見ていろ。テメェは手下みたいに綺麗に死なせてはやらない。その鬱陶しい面も、似合いもしない特攻服も、テメェをテメェたらしめている全てを、この“力”でこの世から残らず叩き出してやる。

 脩の中に迸る碧の破壊の波動は、あと少しで最大出力に達する。コイツを男の土手っ腹に叩き込めばいい。それだけで、奴の体は粉微塵に消し飛んで跡形も無くなる。

 奴を完全に潰す。そのために、姫鶴脩はここにいる…………!!


「総長~~っ!!!」


 と、二人の間に割って入ったのは、白い安物の特攻服の小男。族にはあまりに不似合いな情けない面とともに総長の前へ躍り出る。

 恐らくアイツは会に最近入ったばかりの一番の下っ端だろう。理由はどうあれ、仲間から少々出遅れた為にこの場を生き残ったらしい。

「大変ですよぅ! 俺の班もやられちまいました! もうすぐサツどもも来やがりますっ!!」

 泣き顔でそう訴える小男。逃げましょう、ここは逃げたほうが勝ちです。その意思を精一杯伝えようと努め、掠れた声を張り上げる。

 だが、彼を見つめる総長の眼は……何よりも、どんな利器よりも、冷たい。


「テメェ、仮にも天下の弩羅厳会の癖に、むざむざ逃げてきたんじゃねぇだろうな」

「でも……でもっ! あそこで逃げなきゃ、全滅してましたよ! 分かってくだ……っ!?」

「腰抜けが。うちの会にゃ、テメェみてえな奴の席はねぇ…………!!」

 刹那、小男の眼前に総長が右の掌を翳すと。五尺にも満たない低身長の男の身体は、万有引力に逆らってふわりふわりと宙に浮く。

 高度にして約四メートルは超えただろう。踏みしめる大地も、その手に掴むものも、平衡感覚も失った小男は、両の手足をばたつかせて見っとも無く足掻き続ける。その間も高度は更に上昇し、大体国道に立つ街灯と同じくらいになっただろうか。

 総長が翳した右手を横に払うとその力に指向性ベクトルが与えられ、小男はそれと同じ方向へ高速で飛び去った。


 ドガシャァ、という鈍い破壊音が闇に響く。ビルの壁面をキャンパスにした悪趣味なモダンアートが完成する。

 全身を叩き付けられ、餅みたいにコンクリートにへばり付いた小男が不帰の客となる…………それらがほぼ同時だった。


念動力テレキネシス……。テメェ、遣い人か」

「あぁ? だからどうだってんだ!?」

 脩の問いに対する総長の返答はあまりに粗暴な、あまりに素気ないそれだった。

「何だァテレキネシスとかよォ。まぁ、確かにコイツは便利だ。遠くの物や金を易々と盗ったりも出来るし、分厚いサツのバリケードだってサッと退かす事が出来る。そして当然、こんな事もなぁ!!」

 叫びとともに再びテレキネシスを発動した総長の手から……斃された仲間のバイクの残骸が放たれる。標的は勿論眼前に立つ脩だ。

 一五〇キロを言うに超える七五〇ccバイクの残骸は恐るべき速度を持って宙を舞い、哀れな犠牲者たる脩を押し潰し……。

「分かってんのかぁ? 要するに、俺は選ばれた人間なんだよ。この力はこの世で最強を名乗ることが出来る最大の権利だ! コイツがある限り誰も俺を倒せねぇし、俺を裁くことも出来やしねぇ!! 分かったらクソガキはとっとと跪いて俺様の靴でも…………」


「確かに、な」

 は、しなかった。総長の力を受けて宙を舞ったバイクは空中で大爆発を起こし、橙色の炎と碧の光が、辺りを染め上げる。

 両の掌から光を迸らせた脩の面が、総長の烈しい怒りを更に滾らせる。総長はギリギリと歯を鳴らしながら脩を睨みつけていた。

 バイクを叩き落した脩は改めて改めて総長をキッと見据える。奴の下卑た笑いさえもその全てを焼き付けんとばかりの、鋭い眼差しで。

「確かにテメェ等遣い人は選ばれた人種だ。クロウリーの唱えた“汝の欲するべきところを為せ”という言葉の体現者だ。その力を己の中で眠らせて腐らす事無く、己自身の為に最大限それを振るう……。ある意味じゃあ、一番人間らしいと言える生き物だ。だがよ……」

「あぁん? 結局テメェは何が言いてぇ!!」

「“力”は決して、誰かを傷つけたり騙したり殺したりしていいという許可証ライセンスじゃねぇ。そんな権利は、この世に生きる誰にもねぇ…………!!」

 自分にとっての悪……この場のぶつけどころを見出した脩の力が、一際強く輝きを放つ…………!!

「バカかテメェは! 俺達にはどんな法律も通用しねぇんだ。要は何をしても許されるんだよ! テメェも遣い人ならそんぐれぇ分かってんじゃねぇのか、あぁん!?」

「…………そうかもな。俺達の力が“荒唐無稽な迷信”である限り、昨今のザルみてぇな人の法はテメェ等の罪を裁けねぇし、罰も下せやしねぇ」


 生きることは罪を犯すこと、そして罰を受け償うこと……。

 ――少年は、そう信じていた。


 だがその実どうだ。一歩外の世界に出て辺りを見渡せば、力という何よりも強い免罪符を手にした者が無数に存在する。

 そしてそれに比例して、理不尽な罪に泣き、悩み、苦しみ、最後には殺される者がいる。

 力が現代に生きる人にとって“荒唐無稽な迷信”である限り、現実世界のあらゆる法はその意味が失われる。

 意味の消失は力持つ者に驕りを生み、そうして罰を免れた彼等は、永遠に人が償えぬ罪をこの世に生み続ける……!!


「だったら……誰かが、どうにかしなきゃなんねぇのよっ!!」

 ならば俺が罰そう。人の世が裁けないなら俺が彼の者を裁こう。そして、俺もまた償えぬ罪を、際限なく預かり重ねよう。

 …………少なくとも、俺にならそれが出来る。罪を犯すのは俺一人だけでいい。

 俺はこの場で罪を…………親父が与えたこの力で持って、許されざる存在である奴を裁き、罰するという大罪を犯そう。

 決して揺るぎも歪みもしない、心に宿した一つの意思。もう一度その意思を脳の|頂点(てっぺん)に揺さぶり起こし、脩はその力を勢いよく、眼前の弩羅厳会総長に……自分にとっての絶対的な悪に向けて…………。 


 あの件の依頼主クライアントは、弩羅厳会により息子を失った母親だった。

 いつもの下校途中に彼等に因縁をつけられたその息子は、ともに下校の途についていたクラスメイトもろとも彼等のアジトたる廃棄工場へと連行され、殴る蹴るの凄絶な暴行の末、たった一五年の生に幕を下ろさざるを得なくなった。無論、クラスメイトと共に。

 当然、各々の母親は、すぐさま警察へ駆け込んだ。だが相手も息子と同じかひとつふたつ年上の、まだ一〇代の若者だった事……。

 それが響いたか、彼等は二人の母が望んだ処罰を、見事に免れた。

 最後の手段として二人はセカンド・デグリーに弩羅厳会の“呪殺”を依頼し、脩が動いたのだ。

 息子の無念。残された者の悲しみ。それに応えるように、脩は、只管に自分の中の“破壊の力”を振るった。

 結果、弩羅厳会の者は一人残らず、身体の一部を消し飛ばされたり焼き焦がされたり…………そこに、綺麗な屍は一つも残らなかった。


 そんな脩の力の性格上、彼に回る依頼はもっぱらこういう“呪殺”専門である。それもあってあまり仕事そのものが多く回る事はないが、一回の依頼料がかなり高額なため、リリィが仲介料を差っ引いても脩自身に入る額は相当なものだ。

 総武中央沿線の郊外のアパートに一人暮らしで、しかも学生という身分を持つ脩が、それなり以上の生活が出来るのもこれのお陰である。

 数時間前にちょっとした儀式が行われた、奥の部屋のテーブル。その上に羊皮紙に事細かに書かれた資料が並ぶ。

「垂木源輔、四八歳。指定暴力団鬼王会の大幹部、そして高利金融業・ハッピーライフの経営者」

「ハッピーライフねぇ……看板に大いに偽り有りって感じだな」

「そうね。このハッピーライフ、金利も取り立ても苛烈そのもの。最高で法定の七〇〇パーセント。今日までに自殺者も八人くらい出ているそうよ?」

「依頼人はそいつの自殺遺児の一人ってか」

「……鋭いのね」

 ターゲットの縄張テリトリー。彼奴が一人きりになる時間。それらを聞き終え、いざ事を起こさんと歩みだす脩。

 その小さな背中にそっと、リリィは告げた。

「脩。貴方は、何も感じないのかしら?」

「…………何が言いたい」

「今回のヤマもそうだけど、貴方のする事は早い話、人殺しよ。人が同じ人を殺める、言ってしまえばそれは“共食い”。どれだけ限界まで餓えた獣ですらしない、自然界の絶対の禁忌なの。それを犯す事について……貴方は何も思うところは無いのかしら?」

 リリィは深紅の瞳を宿す目を細める。脩が戦う理由、それは彼がまだ何も知らない小さな子供だった頃からその傍らにいた彼女自身が一番分かっていた。

 しかし、まだ一七しか生きていない少年・脩が、この世の罪や罰といった重すぎる十字架を、たった一人で背負う様。それがはっきりと見えている彼女は……いや、彼女だからこそ、心配せずにはいられないのだ。

 危険な“力”をその身に宿す少年に、力のぶつけどころを与えてしまったリリィだからこそ。

「そりゃあ貴方が今まで屠って来たのは、死んでもらった方が世の中の為になる、人間が人間として存在するために必要なものを侵す悪党ばかりよ。だから貴方も罪悪感というものは無いかもしれない。でも、少しくらいは感じるはずよ……自分が、段々と今いる“人間”の領域から、遠ざかっている事が」

「リリィ。あんま深い事は考えなくていいだろうが……奴が気に喰わない、俺が動く理由はそれだけだ」

 あまりに粗暴だが、その声には確かな脩自身の、『意志』があった。

「それに、世の中には形はそうであっても、人に分類出来ないような奴なんてゴマンといる。俺やアンタのようにな」

 古惚けた扉の向こうへ去り行く脩。それを見送ったリリィの呟きが部屋に響く。

「ふふ……っ。ようやく、と思ったけれど、まだまだ彼は“バケモノ”のままか」

 脩が本気なら、ターゲットの生も確実に今夜で終わりだろう。リリィは思わず含み笑いを禁じえなかった。

 遠いあの日の言を、他ならぬ自身があの少年に告げた言を、ついつい思い出してしまったから。


 人は皆、あまりに深い、償い切れぬ罪を背負ってこの世に生まれてくる。


 誰かに対して、憤る。誰かを妬み、羨む。誰かを見下し、驕り昂る。

 食えるものがあれば際限なく喰らい尽くし、美しき者には獣の如き下心を露呈し、手に入るものは全て手に入れようと目論み、耐え難い現実に直面すれば逃げ道を探そうと躍起になる。

 人は罪とともに生まれ、生きる過程で更に罪を預かり、際限なく重ねる。そうしなければ人でいることが出来ないから。


 恐らく人の一生というものは、償い切れぬその罪を償うためだけの、永遠の苦行ばつ。地獄がもしもあるならば、大きすぎる罪を抱えた心を小さくやわな肉体に縛り付けた人が生きる地上そのもの。

 そして如何に大きな罪を背負い生まれた人も、罰を十分に受けて、それを終えるときは須らく重すぎる罪を振り捨てて、曇りなき清廉な心のまま逝くものなのだ……。


 少年は、そう信じていた。


 霞んだ赤い雲が夜空を覆う。

 生気のない冷徹な白一色の街灯と、それと対をなす極彩色の毒々しい繁華街のネオンサイン、せわしなく国道を駈けてゆく車のヘッドライトの群れ……。

 命を育む為の機能を何一つ持たない虚飾の灯火が、濁った夜空を妖しく照らす。

 硬く冷たいビルディングの群れは、今宵も眠りに就くことなく、光の隙間の暗がりの中で、その蠢きを止めずにそこにあり続ける。そして人々はその中にある偽りの光、偽りの慰めや安らぎを求めて、刑場へ牽かれる咎人のごとく、そこへ足を向けて歩みを進める。

 その淡泊な輝きが、間抜けな人間を骨も残さず焼き尽くす為の、あるいはその中心にある泥のように暗く淀んだ闇へ永久に閉ざす為の幽蛾灯わなである事を、分かっていながら。


 今からずっと昔のここは、杉や松、桐や山毛欅ぶなといった、緑の巨木が乱立する原生林だった。

 鳥や兎が野を駆けて、それを追う足袋がけの狩人達が猟銃を担いで巌根を踏み破り、木々を切り開いた荒れ地には田園が、その周りには村が出来、それらが小さな國として栄えていた。

 それから幾つもの昼と夜を越え、それらがつんつるてんのコンクリートで塗り固められ、命を育む存在を無駄な存在として排斥しながら、ヒトが生きる為の街は形をなしていった。水や空気を汚しながら、意思持たぬ動物達を外へ外へと追いやりながら、あらゆる不浄を受け入れる土を鈍色で押し固めながら。

  土地のど真ん中に松の木が六本あったからそう名付けられたともっぱらの噂のこの六本木の地も、ずっと昔は深い深い森の中、平均して七メートルは軽く超える大樹が乱立する場所だった。空は澄み、空気は清浄そのもので、四季を通して色とりどりの美しい花が競うように咲き誇り、鳥や獣達にとっての楽園そのものであったであろうそこには。

 人の領域を広げるために情け容赦なく伐採された大樹達の、三百年くらい前にはほぼ隙間なく乱立していた武家屋敷の後釜に、モルタル造りの無機質な雑居ビルが座っている。酸素を放出するための木々はアクセント程度に道の端に押しやられ、荒れ狂う水を吸うための土も一部を残して後は無機質なセメントをべったりとコーティングされ、過剰に増えすぎたヒト目ヒト科ヒトを受け入れるための器となるべくその芽を出した高く頑丈なビルディングが所狭しと立ち並び、現在の眠りを知らない街の形を作っている。

 それらは総じて排気ガスと人の血で汚れ、泥と錆がぐちゃぐちゃに混じった不快な臭いが絶えず立ちこめ、鼻から、口から、体表からそれを吸った者の心身を、じわりじわりと浸食していく。結果、人はますます悪くなり、我々が生きる今の世界は汚いものと邪なるもので構築されている。


 無論、今もそれは……発展という名の侵蝕は止まらない。

 今まであった美しい緑の下に鈍色の墓標を敷いて、鉄と機械による歪な彩りを添えて、哀れな人々はその輝きに儚い夢を垣間見る。

 一体全体、この国はあとどれだけバベルの塔をぶっ立てれば気が済むのだろう。この世は既に利便性と汚れを一緒くたにした価値も意味もないそれで、既に飽和状態にあるというのに。

 淀み、濁り、汚れ、腐り、萎び、徐々に壊れゆくこの世界。されどか弱い人の手では、それを止める術などあるはずはなく。水がこの世界からなくならないように、虚ろな繁栄や淀んだ欲望が、尽きることなくこの場所から、泉の如く懇々と湧き出て、呆れ返るほど野放図にこの地を犯し、冒し、侵していく……………………。

 この世界のあらゆる産業発展の構図というものはどれもだいたい同じだ。

 今あるものを潰して別のものを作る。そうやって、世界はその構築式を確かなものにした。

 総ては、自分達が活きるために。

 自分達の生きる世界を、よくするために。


 …………ヒトは、いつ気づくだろう。

 決して零にならない自分達の生きる世界が潰される可能性に。

 いつか必ず訪れる、別の何かに取って替わられる時の到来に。

 まさに青天井の人間の欲望が神の怒りに触れたその時に、塔の崩壊は訪れる。その時は果たしていつだろう。

 瓦礫と化す塔の姿を目にしたその時に、人々は果たしてどれだけの恐れを心から生み出すのだろう。


「あ~っ畜生、やってらんねぇ」

 赤を基調にしたアロハシャツのごつい男は実にけだるそうに、わざとらしい大声でそうボヤく。

「そう言うな。垂木の叔父貴はウチの組でも一番危ないお人だ。キレさせたら流石にヤベェぞ? せめてサボってると思われないようにするんだ」

 黒いスカジャンの金髪の男が、相棒たるアロハシャツの男を窘めるように告げる。

「しっかしよ~、今まで毎日こんなに念入りに事務所周りの見張りを続けてんのに、サツも他の組の鉄砲玉も全然来ねぇぞ。もうここは安全って事でいいんじゃねぇ?」

「わかってないなお前。叔父貴は人一倍用心深いお人だ。さっきのもう安全だとかいう台詞をホザいてくたばってった奴を、あの人は何人も知ってる……大丈夫だってフレーズはねぇんだよ、俺らの生きる世界の辞書にはな」

 スカジャンの男のその台詞に、アロハシャツの男はう~んと唸る。二人はこのビルに事務所を設ける高利金融業、ハッピーライフの従業員……というのは表向きで、実態はハッピーライフの資金源ともいうべきとある暴力団事務所に頻繁に出入りしている、ヤクザ渡世のチンピラだ。

 ロクに働きもしなかった事に腹を立てた親に家から叩き出された事がきっかけで、極道というこの国の暗部と呼べる世界に飛び込んでから、二人は“明日は我が身”という言葉の意味をイヤと言うほど思い知らされた。

 抗争で死んだ仲間の葬儀にはそれこそ直ぐにその回数を思い出せないほど何度も出席したし、警察沙汰になるほどの取り返しのつかないヘマをやらかして組に万単位の損害を与えて破門された奴の顔も沢山憶えている。

 昨日までそこにいた奴が次の日にはいない、それがこの世界の当たり前だった。


 眠らぬ街として世界的に有名な六本木駅前の大通りから、一五ブロックほど離れたエリアにある雑居ビル群。一番低いものでも六階建てほどはあり、丁度いわゆる九十年代初期のバブル景気真っ直中の頃に基礎が出来たらしく、現在あるビルのテナントの約七割強が飲食店や高級クラブといった、バブルの華やかな時代の残滓とも言うべき店舗で占められていた。

 竣工平成三年というプレートの表記が、このガタピシビルもまた、いつ消えるとも知れない虚飾の光に彩られたバブル世代の申し子であることを、雄弁に語っている。

 ハッピーライフの事務所はそこにあった。四階建てのビルの三階、清掃もロクに行き届いていない薄汚い階段や窓、寿命が尽き掛けて不規則に明滅を繰り返す踊り場の蛍光灯が、一般人かたぎの立ち入りを拒むようにそこにあり続けている。近隣住民からは入ったら決して生きて出られないとか、住人は全員鬼や妖怪の類だとか、床下には死体が百くらい埋まっているとか……といった荒唐無稽な、しかし恐ろしい噂が悉く立つ程の、不気味なほど寂れきったビルだ。


 夜も暗いが昼なお暗い、鬼が出るか蛇が出るかという言葉があまりにも似合う、深い闇が立ちこめるこの区域。昼に起きて夜眠るごくごく普通の人々が、好き好んで立ち入る場所では断じてない。

 いるとすればその闇に片足を根本まで突っ込んだ愚かな者、あるいはあまりに深い闇に心まで安く売り渡し、闇への恐怖という人の本能をドブに捨てた下劣な者くらいだ。

 語るまでもなく、アロハシャツとスカジャンの男は無論後者の方だ。ただ強く大きな後盾バックボーンたる組の事務所に入り浸っているだけで好きなだけ甘い汁を啜れると知り、欲望を抑える術さえ忘れた人面獣心の男達。

 ただ今を漫然と生きる者達には、明日も命がある事を本気で信じて生きる者達には、知る術などある筈もない。


 そこに……人の世の暗部について回る、たったひとつの誤りを。

  

「そろそろ裏に回ってくる。油断するなよ」

「分かってらぁ。お前も気をつけろ」

 …………その言は、いつもの巡回の時間が来たという合図だ。

 スカジャンの男がビルの裏手へ回る。正門と裏門に一人ずつ、互いがそれぞれビルを挟んで向かい合うように立つ。

 そこから裏に回った者が正門側の組員に電話連絡を入れ、正門側がワン切りしたのを合図に同時に歩き出す。そして両者が時計回りに、ほぼ同じ速度で歩きながら見回りをするのが、ハッピーライフの経営者が考えた警邏の方法だ。

 この方法を採用してから今日の今日まで、このビルに同業者の殴り込みや警察のガサ入れが入った事はただの一度もない。ほんの僅かでも付け入る隙を与えないように計算された、まさに完璧な警戒方法。

 ぐるぐるとビルの周りを回りながら男は考える。今日は何も起こらない、いつも通りの日だ。それにこの方法を採っている限り誰かがビルに殴り込みにきても返り討ちに出来る。自分達に恐れることなど何も…………。


「へ!?」

 男には全く説明できない。このビルをぐるりと囲んでいる植え込みから、突然に一本の腕が生えて来た理由を。その掌が眉間を中心にして自分の顔を包むように掴んでいる理由を。そこを中心に、強烈な熱と痛みを感じる理由を。

「ばわぁ!」

 一瞬だけ、男の視界が碧色に明滅し、長いこと聴き慣れた拳銃の声よりも鋭くけたたましい音と共にブラックアウトする。

 瞬間的に解き放たれた膨大なエネルギーが一気怒濤に男の頭部を駆け抜け、その熱量が、その撃力が、その組織全てを蹂躙し、壊し尽くす。

 いちいちドラマなどで見たように脈など取って確かめるまでもなく、首がない死体と成り果てたこの男が助かる見込みなど無かった。つい先程まで頭部だった肉片があちこちに飛び散り、首の断面から泉のごとく溢れだした鮮血が、路地のタイル目に沿って規則正しく流れていく。

「うわぁぁぁあぁぁぁ!!」

 六本木の喧噪の中に悲鳴が響いたのはその数秒後。それからさらに数秒ほど経った後で、スカジャンの男がそれを聞きつける。

 何があった。それにさっきの強烈な音は何だ。確かあっちの方角は今頃は、相棒が自分と同じ速度でここいらあたりを見て回っていたところだ。

 考えられる可能性はたったひとつ。すぐにビルの周囲を駈けてそこへたどり着き…………。

「げ……げぇえぇっ…………」

 彼は、すぐにそれを……そこに行った事を後悔した。

 仲間がまさか殺されているなんて思わなかったから。

 自分達がとっていた警戒の方法が完璧だって信じきっていたから。

 更に、仲間のその亡骸は、首が根本から丸ごと無くなっているという、あまりにグロテスクなそれだったから。

「ち、ち、畜生! どこのどいつだ! こんな事しやがった奴ぁ……出てきやがれコラァ!!」

 精一杯声を張り上げるも、結局それが虚勢である事ぐらい男は理解していた。僅かに微動ふるえているその声が証拠だ。

 男は既に状況判断というものを完全に失っていた。目の前で首無しになって死んだ仲間。つい最近まで、あまりに下らない話で盛り上がる仲だった奴。

 その仲間がそれぞれのルート巡回の為にほんの少しだけ別れたその間に、こうして無惨に殺されていた。仲間の死に目に合うのは初めてじゃなかった筈なのに、今回の場合はその死に様があまりに残酷で、理不尽で、唐突すぎたから。

 心が、ひび割れる。

 理性の箍が音もなく外れる。

 自分が人間であることの証明が手からこぼれ、粉々に砕ける。 

「やってやる…………やってやるぞ、ドラァアァァアァァアァァ!」

 仇を取ってやる。男はすぐにそう思った。売られた喧嘩はいくらでも高く買ってやるつもりでいた。硬く拳を握りしめて顔を強ばらせ、仲間を襲って殺した奴の気配を探した。集中力の高まりを、血のたぎりを、はっきりと感じ取る。

 だが同時に、男は自分もまた、こいつと同じように殺されるのではないかという疑念も、うっすらと感じていた。仲間をこんなあっさりと殺したとんでもない奴が、もしもまだこの近くにいるのなら、と。


 ……その予感は、直ぐに的中した。

「なっ!?」

 ホンの一瞬、碧色の光が世界を包み込む。雷撃という言葉が似合うあまりに烈しい閃光を避ける術など、この男にある筈もなかった。

 まさに背後、人通りの絶えたビル街の向こうから、男の方向へ指向性を持たせた熱エネルギーの帯が飛翔し、一瞬のうちに標的へと到達したのだ。この世界に存在する電子、陽子、イオンが塊と成した粒子として具現化された希望なき光が、襲って来た。

 無駄に大きな男の筋肉、脂肪、骨格、内蔵が膨大な熱とエネルギーに耐えられず、大きな放物線を描きながら弾け飛ぶ。ようやく地面に激突する形で動きを止めたその残骸が、真っ黒焦げになって彼方此方から白煙を上げている。かつて一人の男だった巨大な炭の塊が突如として飛び込んできたものだから、雑踏の中から悲鳴が上がり、眠らぬ街たる六本木の街にちょっとしたパニックが起こる。

 とはいえ、その反対方向にいた少年の、やけに冷めた瞳に気づいた者は誰もいなかった。


「はっははは……げっへへへへ…………」

 低く野太い、下卑た笑いが、赤絨毯の応接室に木霊する。笑い声の主たる禿げ上がった頭の頂辺から凄まじい異臭を放つ足の先端まででっぷり肥太った中年の男は、その穢れた手に収まった大量の福沢諭吉を右から左に眺めて、歓喜に口元を震わせる。

 高利金融業・ハッピーライフの社長兼指定暴力団鬼王会の幹部、垂木源介は、今宵の儲けを勘定しながら歓喜に震えていた。

 今日は一際いい日だった。いつまでたってもほんのちょろっと貸した端金をロクに返さないいつものシャバいフリーターに、組の中でも一際屈強な若い衆を五人ほどぶつけてやったら、そいつはそれを膨大に膨れ上がった利子も含めて全部返してきた。

 強盗でもしたのか、臓器でも売ったのか、どうやって金を作ったのかは少々疑問だったが、今となっては全てがどうでもいいことだった。恙無く貸した金が戻ってきて、こいつからはもっともっと金を搾り取ることが出来るのだと気付いた、今となっては。

 人を動かす最強の梃子、それは恐怖心と罪悪感だということを、垂木は長いヤクザ生活の中で学んだ。

 恐怖心を抱いた人間はそこから逃れようと躍起になり、あたかも火事の家の中で一斉に出口に殺到するように……その手段を探して懸命に足掻き、結果的に相手の望む行為をして、もしくは破滅してしまう。罪悪感は人の心に責任という枷をはめ、元より単純な人の思考を正攻法一辺倒に制限させ、知らず知らずのうちにその人は傀儡と成り果ててしまう。

 この世界で生きるため、生き残るため、垂木源介はそのふたつの感情をいいように利用した。


 垂木という男が本格的に暴力団という存在に関わるようになったのは彼此二〇年ほど前。都内の三流私立大学をそこそこの順位で出たはいいものの、世の厳しさの為か中々どうして簡単に職にありつくことができず、湯水のごとく親の金を使って放蕩三昧の日々を送っていた頃のことだ。

 いつものようにこの六本木の繁華街をさしたる理由もなくぶらついていた垂木は、ちょっと目があったという実にくだらない理由で、この界隈を根城とするチンピラに絡まれた。

 誰に許可取って歩いているとか、通行料払えとか、具体的な内容は忘れたが、恐らく確かそんな内容の恫喝を延々受けていたと思う。

 それからはまさにあっという間だ。散々に打ち据えられ、ヤクザの組長の前に引っ立てられ、組長のその刺すような視線に釘付けにされ…………。

 気が付くと、自分もその会の一員として。

 一端に見栄もあったかもしれない。情けをかけられた恩義もあるかもしれない。

 だが、垂木にそれを……極道として生きる決心をさせたのは、他ならぬ“恐れ”の感情だ。恫喝され、打ち据えられ、命まで覚悟したあの瞬間があったから、垂木はそれを決意した。

 もう金輪際あんな思いはしたくない。あんなことをされるくらいなら自分がしまくった方がずっと楽だと、プライドの一欠片もない生存欲求で決断を下した。

 あんな目に遭いたくないから必死で会のために働いた。自分ひとりだけのし上がって、甘い汁を啜って、弱いものを思い切り踏みにじってやりたいと、本気で思いながら会のシノギに手を染めてきた。

 薬物や銃の密売。美人局。そして闇金融。たった一日やるだけで目玉が飛び出るほどの金が入ってくる。地味な就職活動に躍起になっていた過去の自分と比較するのも莫迦らしくなるほどだ。

 ここにいればけっして金には困らないとマイペースで働いていたら、いつの間にか垂木はこうして会が経営する闇金の“支店”の一つを任されるほどになった。


 今の垂木には、望んだ全てがある。

 立派な事務所、何もせずとも次々入ってくる金、そしていくらでも取っ替え引っ替えできる女。

 その全てに囲まれながら、垂木は日がな一日、銭勘定して過ごすことが出来る。一円足りないとか多いとかに一喜一憂し、自分にすがってくる人生の落伍者達をどう追い詰めようか考えながら“接待”するのが、垂木は楽しくてたまらない。恐怖に踊らされ、罪悪感に苛まれ、人が正常な判断を失って阿呆みたいに天手古舞いするのが、垂木には愉快で仕方ない。

 そんな奴がいるから、自分のこの楽しみはやめられない。縦しんばその至福の時を邪魔しようと誰かが乗り込んでこようが、この扉の向こうには、護衛にと上から派遣された鬼王会でも屈指の武闘派として有名な若い衆を、常に交代で番に置いている。奴がいる限り誰も自分の城たるこの応接室の平穏を、自分の楽しみを邪魔しない。

 さぁ、今日の分はもうすぐ終わりだ。今宵の儲けは如何程か。帰りはどこで一杯引っ掛けてやろうか。それとも、またいつものキャバレーで、贔屓にしているホステスといいことでもしようか。

 欲望が止まらない。その為にもあと一枚、二枚、三枚…………。

「おっ、叔父貴ぃ!」

 突然響いた情けない男の声。無粋なその声に顔を顰め、怒りを込めながらけだるそうにその方向に目をやって、思わずあっ……と声を漏らす。


 眼前で起きている出来事が信じられなかった。

 用心棒としてこのオフィスの扉を守らせていた若い衆、組でも指折りの武闘派の男が、両の手足をガッチリと羽交い締めの状態で拘束されていた。

 余程パニックに陥っているのか、男の顔は引き攣り脂汗にまみれ、口元は何かを訴えるかのごとくパクパクと小刻みに震えている。用心棒たる若い衆はロクに抵抗もせずに腕と足をだらりと下げているだけだ。

 その大きな体躯の陰に隠れ、若い衆を捕らえている者の姿は見えない。恐らくこいつよりずっと小さな奴だろう。

 そんな奴がこの男を、その手足を固い錠にして体の自由を封じている。驚愕のあまり焦点が合わない目を必死に凝らしてふと気づく。

 …………出血している。四肢が漏れ出た生の証で汚れている。

 というより、男の両手足に、余りに真新しく余りに粗雑な風穴が開いている。直径にして約六センチ足らずの穴。それが若い衆の手足にバッチリと開き、そこから絶え間なく鮮血が漏れ出ているのだ。用心棒の男の四肢に力が入らず、こうして抵抗できずに今持って拘束されたままなのも、冷静に考えれば当然だ。

 ヤクザ生活三十何年という経験からくる予感。それに垂木は戦慄していた。

「逃げて…………っ、今すぐここから逃げてくだせぇっ! そうしないと、俺達は……俺達…………はぁ…………っ!」

 緊急停止したままの垂木源介の時。それを再び動かすかのように、若い衆の叫びが…………正確には断末魔の絶叫が響く。

「わげっ」

 …………垂木源介のような下劣な者ごときに分かるはずなどなかった。

 羽交い絞めにされた若い衆の顔の中心部分……ちょうど眉間のあたりから、甲高いシュウシュウという音と共に白煙と碧色の閃光が発せられている理由が。

 その光が最大の輝度となったその瞬間に、湿った爆発音と共にそこから血まみれの小さな肉片が大量に飛び散り、光と熱をモロに受けた若い衆の顔面に大きな風穴が開いている理由が。

 そして、出来たばかりの粗雑な断面に小さく火が灯るその傷の向こうから、少年の鋭い眼差しが此方を見据えている理由が!


 事ここに至って、ようやく、垂木源介はハッキリ悟った。

“殺される”…………と。


「くっ、く、来るなぁっ!」

 久しぶりだった。恐れという感情を、垂木源介という男が抱くのは。純粋すぎるほど純粋に、垂木は目の前の現実に恐怖していた。

 私利私欲のために、今日の今日まで利用するだけ利用してきた恐怖心という感情に、まさか今日この日に思い切り苛まれるなんて思わなかったから。自分は人の恐怖を意のままにできるなどという、あまりに荒唐無稽な思い込みがあったから。

 命の危機に曝されている。そのシンプルな恐れが、垂木の手を加速度的に早める。

 迷い無くダッシュボードの中に隠し持っていたトカレフを右手に携えて、マガジンに弾丸が残っている事を確かめる。残弾四発、眼前の少年一人を殺せるだけの弾数は十分に残っていた。

 襲ってきた奴に遠慮など不要な筈だ。これは正当防衛だ。銃刀法違反とか考えてられるか。相手は人殺しだ。人殺しを同じように殺したところで何を咎められることがある。

 いや、もっとシンプルに考えろ。殺さなければ殺される、と!

 そうひたすら自分に言い聞かせる垂木の手。銃を握るその手にじわりと汗が滲み、手にしたそれを落としそうになるのを必死で制する。

 慣れた手つきで照準を合わせ、安全装置セフティを解除し、トリガーに指をかける。

「死にやがぁ…………れっ?」

 爆発が二つ、垂木のすぐ手元で起こる。

「うわぁっ、うわわわわわわぁ!」

 あり得ない事だった。先程までずっと使い慣れたトカレフを一挺、硬く握って離さずにいた右手。

 そっと目をやると、肘から上の自分の腕が、丸ごと無くなっている。慌てて反対の腕を見ると、左の腕も同様に肘から先が消し飛んでいた。

 しかも。広い応接間のどこを見渡しても、今まさに無くなった両腕が落ちていない事に気がついた。確かにその手にしていた拳銃もこの場所から跡形無く消えている。

 それらの意味を全て理解したとき、垂木の感情の全てを恐怖が支配した。

 支配していたはずの恐怖心に心の全てが満たされたと気づいたその時に、最後の理性が消えるのが分かった。

「うわあぁぁ…………!!」

 腕の傷から溢れ出る血と共に抵抗する意志が漏れ出ていく。青い髪の少年が少しずつ距離を詰めてくるのを、恐怖の形相で眺めることしか出来ないという事実に、垂木の普段の冷静さはすっかり萎えていた。気が付いたら既に壁際まで追い詰められている事に、もう後がない事に、どんと背中が壁に当たる音でようやく気づく。


 少年がにじり寄る。

 両手に碧の光を宿しながら距離を詰める。

 少年との相対距離は垂木自身に残された猶予期間。その足音は地獄の使者の到来までの秒読み。

 それはあともう何メートルもない。それでもベストを尽くして生き延びねばと、垂木源介の本能が喚く。

「か、かかっ、か、金ならいくらでもあるぞ!? お前一体幾らで雇われた? ン千万か? それともン億か? なら……俺はその倍を払うぞっ。俺はこれでもここらじゃ顔が利くし、バックにゃすんげぇデカい組織が付いてるんだ。見逃してくれたらお前にもいい目を見せてやるからよぉ…………」

 必死だった。今まさに眼前に横たわっている命の危機。それを避けるためなら、垂木はその手段を選ばない。

 それがたとえ自分の中にあるなけなしの自尊心を丸ごと捨てることであっても。背中に背負った組の代紋すらも、すぐ隣にある死の恐怖の前には既に価値も意味もないそれでしかない。

 それらは絶対に、己の命と引き替えにするには、全く釣り合わない。

 だから今も、垂木はまさに必死の覚悟で命乞いをする。

 地獄の沙汰もなんとやらで、金さえ積めばいかなる鬼でも、皆その欲に破れ、事を起こすのを躊躇うものだ。垂木はいつもその手であらゆる艱難辛苦を免れてきた。

 今回も、きっと。それが垂木のかすかな希望だった。

 だが、それは同時に垂木の、あまりに大きな誤算でもあったわけだが。


「あぁ、畜生。どいつもこいつも!」

 少年が発した言は、垂木の命乞いに応えたそれではない。

「……テメェ等はいっつもこうだ。一言目には金、二言目にも金、兎に角金、金、金……」

 両の手に碧き輝きが宿る。だがその光に希望というものはこれっぽっちもなく、だがしかし、絶望すら欠片も存在していない。

 垂木源介は理解していなかった。手からこれだけの熱く烈しい光を放てる時点で、既にこの少年が人の領域に居ないという事を。

 そして、自分達人の言が、理屈が、人にあらざる存在に通じる道理がない事を。

 そもそも奴は初めから自分達をこの世から消し去るためにこの場所に来たのだという事を。

 冷静になって考えれば…………相手が化け物だとわかっているなら、全てはもっと早く気づけた事だった。

「何もかも気に入らねぇんだよ。 薄汚い金しか頭にないテメェも、テメェの親も、テメェをムザムザのさばらせたこの世界も、何もかも!」

 でっぷりと脂肪が付いた男の頸動脈を掴み、自分の中で絶えず暴れて止まらぬ力……炎にも雷にも似た破壊の力を、腕を介して注ぎ込む。同じ遣い人と呼ばれる者ならいざ知らず、ただ人より傲慢で欲が深いだけの下劣な人間である垂木ごときの体が、それに耐えられる筈など全くなかった。

 荒れ狂う力の奔流に垂木の眼筋が耐えられず、勢いよく顔面から両の眼球が飛び出す。ブチブチという首の筋組織が乱暴に千切れる音が、骨が砕ける音が絶え間無く響く。

 眼球がだらしなくぶら下がり、烈しすぎる痛みに大袈裟に口が開かれているという、実に無様な垂木の顔は、頭は、それを支える首の筋組織の崩壊と、全体に叩き込まれた強大な力に負け、垂直に飛び上がった。切り離された首の傷の断面から生の証が噴きあがる。

 事務所の応接室、その天井ギリギリまで飛翔し、後は重力に引かれて落ちていくだけの首に、容赦なく力が撃ち込まれる。皮膚組織、顔筋、頭蓋骨がその直撃を受け、跡形もなく消し飛ぶ。

 一連の動きに一切の無駄も躊躇いもなく、肥え太った脂肪だらけの垂木の首のない死体から漏れだした紅が応接室の絨毯を染めていく。

 ふと、今まさに主が居なくなった高級デスクの上にあるハッピーライフの帳簿が、少年の目に飛び込んで来た。一枚一枚頁をめくっていくうちに少年はその顔を曇らせていき、彼がそれを読み終えたその刹那、それは出来たばかりの真新しい血溜まりの中に乱暴に叩きつけられる。


 はぁ、と少年の口から息が漏れた。そこらへんに腐るほどいるただの業突張りなら両手足吹き飛ばすだけで済ませてやったのに、まさかここまでとは思わなかったから。

 地獄の閻魔と獄卒共に同情する。どうせ行き先は一つしかないのに、こんな面倒臭い奴まできっちり裁いて、その後の逝き場まで定めてやらねばならないとは。

 意思と命と首を喪い、もはやただドロドロの血が僅かに残る肉塊となった、つい先程まで垂木源介だったものを思い切り乱暴に蹴り上げる。

「テメェ……せめて死後の世界とやらがあるだけ、幸せだって思え」

 それとも完全に魂まで残さずブッ壊しておけばよかったかな、とそっと付け加え、少年は静寂に満たされたガタピシビルを後にした。


 己の犯した罪により滅んだ垂木源介のその代わりに。

 少年、姫鶴脩はここにまた一つ、新たな罪をその背に負った。


「で、からきし駄目だったんだよ! ハハハハハ!!」

「おい、そいつぁねぇだろ、ケケケケ!!」

「笑っちまわぁ!! イッヒヒヒヒヒ!!」

 真っ昼間からあまりに下品かつ、無軌道な若者の声が響くのは渋谷区センター街。待ち合わせスポットとしてあまりに有名な忠犬ハチ公像から、井の頭通りと文化村通りの間を西に進む街道が、この渋谷センター街である。

 敷地の有効利用の為にかつての宇田川を暗渠し、その上に作られたのがセンター街だ。もしもそこに川が無いのに、橋の欄干が残っているなんて場所があったら、そこは川を暗渠して作られた土地という証拠だ。

 さて、渋谷区の代表的な商店街であるセンター街は、ゲームセンターやファーストフードの店が乱立する、若者の町・渋谷の面目躍如というべき場所だ。

 そして無論、そこに屯する無軌道な若者達は須らく徒党を組み、堅気の人間を然したる理由もなく襲い、野の獣の如くその日その日を漫然に生き続けている。そしてそこがどういう場所なのかろくすっぽ理解せずにそこを訪れ、不運というべきか、それとも自業自得というべきか…………。

 無様に喰われる者と浅ましく喰う者が、それこそこの渋谷センター街にはゴマンといる。彼等はある種、この街の名物だ。そんな東京二三区屈指の危険地帯であるセンター街に、米田憲太郎はふらりと訪れた。

 既に高校は強制退学となったので、常に暇を持て余す日々を送る憲太郎。先日彼はホンの小さな噂で聞いた中野ブロードウェイ最奥にある魔術専門店、セカンド・デグリーを訪れ、その店主たる少女にきつく追い返され、失意のまま帰宅の途についているところを、とある声に呼び止められ……力をくれてやるという声の主に応じ、一つの宝箱を渡された。

 興奮しながら開いた宝箱の中にあったのは、人形、短剣、護符タリズマン、そして……極彩色のサラサラしたパウダーが入った沢山の小瓶。

 今回憲太郎はその中の小瓶を手に、渋谷センター街の雑踏の中にいた。パウダーの“臨床実験”をするために。

 あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、視線を絶えず動かし、今回の実験台ターゲットを探す。

 無論、憲太郎自身も半信半疑だ。こんな黴の生えたような、子供の玩具の延長のようなこれらの道具に本当に効果があるのだろうかと。だが、あのときの声はこうも言った。


 ――ただ、信じろ。話はそれからだ。


 信じろ。そう言われれば信じざるを得ないが、すぐに割り切るのも不可能な話だ。

(もしも効かなかったら?)

 高校時代の苛烈な苛めによって刷り込まれたそんな疑問が思わず首を擡げ、その行動にブレーキをかけてしまう。いつの間にか憲太郎にはネガティブな事から先に考えてしまう悪癖がついてしまっていた。

 憲太郎の精神は、既に葛藤によって形成されたも同然の状態だった。ただでさえどっちつかずな、はっきりしない米田の性格が、魔術などという奇っ怪もしくは胡散臭いそれに触れたせいで、ますますそのブレ幅を大きくしていたのだ。

 いざという時に、最初の一歩を踏み出せない。そんな米田の忌むべき悪癖は今もこうして、他ならぬ米田自身を苛んでいる。

「おぅ、待ちな!!」

「何ガンたれてんだ、ガキがよ。どっから湧いて出た!!」

 と、突然に、先程まで口汚く談笑していた四人組のチーマー達が、憲太郎の前に立ちはだかった。

 秋葉原、新宿、池袋……場所を選ばずに現れては弱き者に寄って集って絡み、襲っては、金品やら何やらをごっそり奪っていく、このあたりでも札付きのストリートギャング集団だ。

 しかも生意気に知恵も回るのか、今日まで警察の必死の捜査をのたりくたりとかわし、許されざる犯行を際限なく重ねて来た。今日は渋谷でひと稼ぎと洒落込んでいたようだ。先日秋葉原で高校生に絡んで、そこに乱入してきた蒼髪の少年に完膚無きまでに叩きのめされたばかりなのに、彼奴等はどうやら懲りるという言葉を知らないと見える。

 そいつ等にとって憲太郎は、実に相手にしやすい“カモ”だった。

「あぁん、殺しちまうぞこのカスが。てめーのその犬の糞踏んづけた足で渋谷の道をムダに臭くすんじゃねえや!」

「どうなんだ! 返答次第じゃただじゃおかねぇぞ、えぇ!!」

 腹の底から吠えて恫喝する。そうすれば相手は完全にビビッて、財布ごと差し出して逃げていく。

 無論、彼等はそれを逃がすはずもない。金はいただく、そして……命もいただく。それが彼等のスタンスだ。初めから彼奴等は、憲太郎を生かして帰すつもりなど毛頭ない。

 こんな所で絡まれるのは、憲太郎にとって全くの想定外だった。センター街に屯する若者達。その中でも一際弱そうな奴を実験台に選ぶつもりだったのに、そんな奴すらなかなかどうして見つからなかった。

 それどころか逆にその中でも怖そうな奴に、よりによって目をつけられた…………。危険信号アラート・シグナルが大音量で喚き始める。

「何とかいえよ、クソバカ野郎!!」

 痺れを切らしたチーマーの一人が憲太郎にその拳を振上げる。この後の結果に怯える憲太郎の頭に、あの時の声が響いた。気がつくとその右手には今日の実験に使うつもりでいたパウダーががっちりと握られている。


“念を込めて、そのパウダーを対象に振り掛けよ”。


(ただ、信じろ……!!)

 小瓶の中身を一掴みとって、全身の力を込めてそれをぶちまける。飛散したパウダーはそいつの顔面にクリーンヒットした。

「ぶわっ!!」

 目や鼻に少なからずパウダーが侵入したのだろう。そいつは一瞬苦悶の表情を浮かべて蹲る。

「……ざけやがってぇ!!」

 だが、それもやはり束の間。自分の攻撃は相手を逆上させる結果を招いたようだ。

 そんな……自分の力が足りないのか? それともやはり騙されたのか? そんな事を考えている間にも奴は鼻息を荒げ、血走った目で此方を睨んでいる。

 怒らせた肩、硬く握られた拳。当然、それが振り下ろされるのは、間違いなく自分の顔面。

 …………このままでは、確実に、やられてしまう!!

(……来るな!!)

 心の中で思い切り、迫り来る奴に向けて、大きな叫びを上げる。

「…………」

 ……どうした事だ。あの叫びから数秒ほど時が経っても、自分のもとに拳が飛んでくる気配は無い。それどころかそいつは呆然とその場に突っ立ったままだ。既にその瞳には何も宿っていない。

「オイ、何ぼさっとしてんだよ、ナオキ!!」

 仲間がナオキとか言う奴を小突いても、全く反応なし。憲太郎も不良達も唖然とする。

(まさか…………効いたのか?)

 それに触れたものの魂に死を齎し、その肉体を己の操り人形とする、ヴードゥー由来のマジカル・パウダー。昨日の宝箱の中に入っていたあのパウダーが“効いた”ならば、あんな事も出来る筈だ!!

 意を決した憲太郎はその魂を失い、自らの完全なる操り人形と成り果てたナオキに、その邪な心で命令を下す。


 “奴等を……残った三人を殺せ!!”


「――――――――――――――――!!!」

 顔を歪ませ白目を剥きながら、人の言にならない咆哮を上げるナオキ。他の不良達は突然の仲間の絶叫に腰を抜かすが、そんな暇すら与えぬとばかりに、ナオキの拳が一人の顔面を捉えた。派手に後方に吹っ飛び、もんどりうって倒れる男。

 その力はかつての彼のそれをはるかに凌駕していた。理性による力のブレーキを失った身体による一撃が与える威力は、もはや語れる次元には無い。人間の身体というものは本来、非常に強いものなのだ。

 脳が、心が、理性というブレーキをかける事で、人はそれを制御し、必要以上の力が出ないよう、自らを抑圧している。憲太郎の放ったマジカル・パウダーは、そのブレーキを壊すのだ。もはや今のナオキは檻から放たれた獣も同じだ。

 ナオキは仲間の一人の髪を乱暴に掴むと……思い切りその頭を路上に、何度も何度も叩きつける。そのたびに奴の頭とアスファルトは血に染まっていき……二五回くらい叩きつけられた頃には、もうその男は、何も痛みを感じなくなった。

「うっ、うわっ、うわぁぁぁああああ!!」

 仲間による公開殺人! 当然のごとく、残った二人は蜘蛛の子を散らすように別方向へ逃げ去ってゆく。

 しかし、憲太郎の傀儡と化したナオキはすぐさま彼等に追いつき、一人の急所を突き上げるように膝を何度も入れ込む。完全に抵抗する力を失った男は、無数の鉄の猪の群れが高速で疾駆する、国道のど真ん中に放り込まれる。

 数秒後に不運にも彼を直撃したのは四トントラック。時速約五〇キロ前後で渋谷の国道を行くトラックのバンパーが、アスファルトに屈服し再び上体を起こそうとした男の顔の中心部分に、速度と重量を伴ったストレートパンチを叩き込んだ。


 顎に素手の打撃を受けただけでもその衝撃と梃子の原理で柔らかな脳は激しく揺さぶられ、硬い頭蓋骨と何度もぶつかってそれはそれは計り知れないダメージを負う事となるのに、顔の急所の中でもひときわ脆弱な部類に入る中心部分に、人間が耐えられる限界衝突速度と重量を遥かに超えるそれを持った一撃が入ったのだ。

 脳に縦横に張り巡らされた血管があまりに強すぎる衝撃に耐えられず一瞬のうちにほぼ全て断裂し、頭蓋内に大量の血液が飛び散る。

 衝撃が鼻骨を楔にして頭蓋骨全体に伝わり、前頭骨、頭頂骨が万遍なくひび割れ、やがて粉々に砕ける。守るものがなくなった脳も同様に衝撃で四散する。

 無論、バンパーの一撃をモロに喰らった頭を支える首の筋肉や頚椎が耐えられる筈などある訳が無く、それらは悉く千切れ、砕け、彼の者の首は無残にも胴体との永遠の別離を余儀なくされ、高々と飛翔してそのまま落下する。

 ――その全てが、ほぼ一瞬。なんの心の準備もないままトラックに撥ねられ、今や引きちぎられた首だけとなった男が出来る事といえば、唯一自由な……しかしすぐにその機能も失われるであろう眼球を動かして、手足がありえない方向にひん曲がり、それでもなおピクピクと痙攣を続ける首無しの骸を見つめ続ける事だけであった。せっかちな地獄からの御使いは彼の男に“痛い”という叫び声を上げる事すら許してはくれなかった。

 もう一方の男は奴が片一方に構っている間に逃げるだけ逃げて、ビルの隙間に身を隠している。流石にここまでは追っては来るまい。脇目も振らず我武者羅に走ったから息も既に絶え絶えだ。だがあまりに、あまりに尊い犠牲を払って自分は生き延びた。

 とりあえず今は体力の回復を待とう。そして警察に駆け込もう。警察といえば自分達が一番嫌いな奴等だが、今の状況では自分は全くの被害者だ。

 ありのまま目の前で起こった事を洗い浚い話せば、きっと彼等は、今やただのケダモノとなってしまったナオキから自分を守ってくれるだろう……。

「え……っ」

 と、安堵した彼に大きな影が重なった。何事かと目を見開き、そいつの存在を認めた頃には……………………。


 ドカァ!!


 全てが、遅かった。

 金属バットによる打撃が、彼を捉えたのだ。それは一片の躊躇いも抑圧も無い、無慈悲な強打。本気で殺すという覚悟が無ければ絶対に振るえない、少なくとも自分達では確実に不可能な一撃。それが何度も襲い掛かる。

 逃げ回り続けた事で体力も限界間近だった彼では、逃げる事もままならず、ただただ打撃を受け続けるしかなかった。いったいどれくらい殴られたのか……いつしか彼は、自分が殴られているという自覚すらも、すっかり無くなった。

 三人を……かつての仲間を無意識のうちにあっという間に屠ってしまったナオキ。憲太郎はそんな彼を冷たい眼で見つめ続ける。

 なるほど……このパウダー、紛れも無い本物らしい。これならきっと、望んでやまなかった復讐も、容易く成し遂げる事が出来る。

 かつて自分を傷つけた奴等を使っての臨床実験は大成功に終わった。協力者たるナオキに、憲太郎は最後の命令を下す…………。


 それを受けてナオキは。

 ゆっくりと雑居ビルの非常階段を上り、やがて屋上に辿り着き。

 一切の戸惑いも躊躇いも無く、その身を、大地へと躍らせた。


 アスファルトがナオキの頭を叩き割る。流れ出た鮮血が歩道のタイル地に沿って広がっていく。センター街を行く人々が悲鳴の大合唱を響かせる。

 冷たい眼差しのままそれを遠巻きに見つめ、憲太郎は口元を緩ませ、邪な含み笑いを漏らす。

 マジカル・パウダーに、ヴードゥー魔術に狂いなし。


 未だに響く悲鳴のオーケストラを背に受けながら、邪術師ボコール・米田憲太郎は、渋谷の人の波の中に紛れ、そして姿を消した。

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