1-2【眩しき闇】

「気持ちいいわねぇ……」


 午後五時三八分。東京・秋葉原、中央通り。

 沈みゆく太陽に照らされた無数の大型家電店とサブカルチャー専門店からなる黄昏時のビル街の狭間。

 無個性な人々の群れの中を瀟洒な足取りで行く少女は、煤煙に霞んだ空を見上げ、悠然と一つささめいた。

 チョーカーとスカートの両サイドに蝙蝠のモチーフをあしらい、フロントに複雑な編み上げを仕込み、どっさりと波打つ三段のフリルがついたモノトーンのワンピース。

 軽く波打ったセミロングのプラチナブロンドの髪にはアクセントとして服と同じ色のヘッドドレスが載り、黒く分厚いタイツと小さなリボンが二つ付いた、華奢な足を彩る黒のカッターシューズ。等身大のアンティークドールを思わせる、ステレオタイプのゴシックロリータを纏った少女……。

 魔女ウィッチという形容詞が一番似合う少女は、藤色のコンクリートジャングルを行き交う人々の眼には、あまりにも眩しい闇を内包していた…………。


 秋葉原。昭和初期からラジオの部品や電気商材の問屋街として発展し、戦後は電気製品の闇市でその基礎を磐石のものとし、高度経済成長期以降は家電・パソコン製品やサブカルチャーの店により少しずつ形を整えていった、亜細亜最大級の電気街。

 日本を代表する産業の筆頭たる場所であり、かつては血みどろの惨劇の舞台でもあった街は、今も変わらずネオンサインとキャラクターの群れ、そしてその大海原の中を鰯の如く回遊する人々によりその形を成している。

 そんな光と音と機械と、何より濃密なカオスで出来た世界まちの中でも、少女の両足は迷い無く一つの場所へ向かっていた。

「いつ来ても、ここは喧しいわね……」

 秋葉原のメインストリートである中央通りから一つ角を曲がり、電気街口を渡って神田明神通りに入ると辿り着くのは、中央通りや駅前の電気街口エリアよりも更にディープな世界の様相を呈する、通称“アジアンサイバー街”。

 中古パソコンやそのパーツを扱う専門店が軒を連ねる、まさに機械の密林。今の所謂萌え要素という言葉にムラなく塗り潰され、今やすっかり埋もれてしまったような場所に、そこはあった。

 店名「ドリームスペース」。

 過剰とも言えるほど清掃が行き届いた真白い壁と窓ガラスに数多の光と音を反射させる、アジアンサイバー街では最古といえる程の、老舗のゲームセンター。既に建物自体築ン十年は軽く超えているだろうが、ここの店主は中々どうして潔癖な人物らしい。

 少女はそんな店の澄んだガラス越しに、旧知の少年の姿を認める。


 群青に近い髪の両サイドに銀のメッシュを入れた、華奢で小柄で女顔のその少年の周りには、誰もいない。

 どうやら先程“いつもの日課”を済ませたらしく、先程まで興じていたレトロな縦スクロールシューティングゲームの筐体から席を外し、派手なスタッフロールが流れる画面にすら目もくれず、出口に向かって歩いていく。

 何故かこの店では出入り口のあたりに一極集中している音楽ゲームやプリントマシン。そこに群がるアベックや学生達も、そこに少年が近づけばさっと道を開けている。誰ひとりとしてその歩みを妨げるような真似はしない。

 それは人としての礼とやらか。それとも、あの少年が迸らす、人ならざるものが持つオーラとやらの所為か。

 だが、賢明な判断だ。彼の歩みを止める事が何を意味するのかを、彼奴等は知らない。知ってはいけないし、例え知っていたとしてもその精神がまともな者ならば……いや極め付きの莫迦でさえも、積極的にその禁を破るような身の程知らずが過ぎる真似をする事はあるまい。

 恐ろしいほど規則的な動きで自動ドアが開かれ、今尚甲高い電子音が鬱陶しく鳴り響くそこを出た少年が向かう先は、中央通り。頃合いかと言わんばかりに、黒い少女の口元に薄い笑みが零れる。

 

 時代がどれほど遷っても、景色がどれだけ変わっても、この場所だけはまだ戦後の残り香が消えずに残っている。

 アジアンサイバー街と呼ばれるそのエリアは、電気街口から中央通りに出て最初に突き当たるエリアではあるが、中古のパソコンやそのパーツといった、所謂人を選ぶ店がひしめくそのエリアを、積極的に訪れる者はそういない。

 少年がいるのは総武線の高架下。平日の夕刻、当然のようにそこを行く人は少ない。というより、その蒼い髪の少年しかいない。アジアンサイバー街の喧騒がまるで対岸の火事のようにそこはしんと静まり返り、少年の靴の音が異様に大きくこだまする。

 それがひときわ大きく響いて止まるのと、あたりに複数名の人の気配を感じ取るのが、ほぼ同時。

「チッ……いい加減芸がねぇのな」

 黒装束の屈強な男が約六名。しかしそのいずれからも、命あるもの特有の生体活動の鼓動リズムが聞こえない。乾ききって引き攣った土気色の皮膚が、血走った焦点のない瞳が、この男達がいかなる存在かを雄弁に語っている。

 無論、そいつらがどんな存在か少年は知っている。それだけに……またかよと、ため息を禁じ得ないのだ。

 名乗りも、咆哮も上げず、そいつらは異常な程の速さでもって少年に飛びかかる。殺気というものを全く持たずに襲い来るそいつの顔面に、少年の鋭い掌底打ちが火を噴いた。一直線に襲いかかった掌の撃力は男の体をトンネルの壁面まで吹っ飛ばす。

 僅かに生じた隙を突いて男の一人が少年のバックを取るも、すぐさま無防備な足を刈って倒され、そのまま膝に真っ直ぐ突き込むような蹴りが飛ぶ。それでほぼ確実に関節が木っ端微塵に砕けただろうが、そいつは苦悶の声を上げない。

 別の男がその硬い石のような拳で殴りかかろうと同じこと。少年は慣れた様子でその一撃を……上体を軽く反らすだけで難なく躱し、そいつが勢い余ってつんのめったところへ、無防備な顔面に膝の一撃。劣勢を悟った男達がわらわらと少年を囲繞する。彼のその顔に浮かぶ感情は間違いなく“不快感”だった。

 少年の真正面に翳した右手に灯る碧の閃光…………その右手は大口径の銃口、その双眸は外れる事なき照準。それが捉えたのは満身創痍の男達。

「そら……これで満足かよっ!!」

 それは撃鉄。もしくは開放。先程から少年の中で暴れて止まらぬその力は、獲物を認めた事実に対する歓喜に打ち震え、その姿を一筋の閃光と為して男達へその牙を剥き、一斉に襲いかかる。

 高熱、そして運動エネルギーを伴ったその碧の閃光が、黒尽くめの男達のその体を包み込み、炙り、打ち砕く。ようやく光が収まったそのあとに残るのは開放者たる少年と、ホンの僅かな光と熱の残り香だけ。


 大袈裟に肩で息をする少年の鼓膜に、ぱん、ぱんとふたつ、スローテンポの柏手。その音の主たる黒い少女が少年の背後から、冷笑を浮かべながら現れる。

「あらあら。今日も調子はいいみたいね……上出来だわ、脩」 

「どこまでも……悪趣味なんだよ、リリィ」

 窮地の少女をその目に認め、半ば諦め半分に、蒼い髪の少年……姫鶴脩という少年は毒づいた。

 声にこそ出さなかったものの、あの時からちっとも変わっちゃいないなと付け加えた上で。


 魔女術ウィッチクラフトのプロフェッショナルとして、都内のとある大規模商業施設の片隅にオカルト専門の小さな店を構える、リリィ・ファーランドという少女。波打つブロンドの髪、紅玉の如く赤い瞳、そして陶器の人形のような白い肌……その全てを覆い隠すように纏ったモノトーンのドレスは、この少女が決して所謂“まともな人間”では断じて無い事を、雄弁に語っている。

 だから、この秋葉原という街を行き交う人々の誰も彼も、彼女に触れたりしようなどという考えを起こす事はなかった。

 “まともな人間”であれば決して持ち得ないもの……現代人が迷信として排斥していった魔力じみた何かを、彼女は持ちすぎるほど持っていたから。

 そんなリリィという少女が、都内の私立高校に通う一介の学生である筈の姫鶴脩に、こうしてコンタクトを取ったのには勿論理由がある。

「いつにも増して今日は機嫌がいいんだな」

「えぇ。新しいオイルやインセンスがたくさん手に入ったからね。浄化(ブレッシング)のインセンス、手に入れるのに四ヶ月かかったのよ?」

「そんだけ今でも需要があるって事かよ。魔術って言うのは大半が偽薬プラシーボみたいなもんだってのに」

「……何それ。私への当てつけかしら?」

「別にアンタを貶してるわけじゃない」

「じゃあ何? いつもの事だけど、貴方の言はどうも要点というものが見づらいわね」

「…………効くと思えば効くって言っているんだ」

「ならよろしい。それに脩、魔術は決して偽薬と言い切れるものではないと知っているのは、何よりあなた自身ではなくて?」

「……アンタにゃ敵わねぇな」

「只管思考が単純すぎるのよ。現代科学とかいうリアルなまやかしに毒された現代の“人間”はね」


 魔術、魔法、超能力といったオカルトの世界の学術は、二一世紀を一〇年以上も前に迎えた現代においては、全く荒唐無稽な迷信。

 それが一般的な常識というものだ。とはいえ、そんな迷信を今尚自分の中に生かし、その力を自在に振るう存在……そのような人間が今もこの世に存在し、様々な分野で活躍しているのも事実である。姫鶴脩という少年もまた、そんな存在……世に遣いユーザーと呼ばれる人間の一人だ。 

 物心付いた頃から脩の中にあった不思議な“破壊の力”。一歩間違えばあらゆる物を傷つける、絶大な力。

 その存在理由を幼い脩は何度も自問し、苦悩した。力を理解し、制御出来るようになるまで命に関わる傷を無数に負ってきたし、ホンの少しその扱い方を誤ればその力がどれだけ危険なそれかも嫌というほど学んできた。 

 時に力に溺れそうになりながらも、考え、悩み、迷いながらも……若く未熟な脩は脩なりに、自分の中の“破壊の力”と付き合っている。


(人を超えた力を持てば、一度は誰でもそれを使ってみたくなるものよ。そこに銃があれば誰かを撃ってみたくなるようにね。私は……その心に力という大口径の銃を持った人間に、せめて正しい標的を用意したいの。決して撃つ相手を見誤らないように。彼等……いえ、貴方自身が絶大なる力に溺れ、無差別に人に害を為す危険な遣い人とならない為にね…………)


 ――かつて脩をこの世界に誘い込んだ頃、リリィが彼に告げた言葉だ。


「懐かしいわねぇ。あれからどれくらい経ったかしら……」

「……さぁな。だが、今でもあの言葉だけは忘れてないつもりだぜ」

「それなら結構よ。博士は何より貴方自身が、人類にとって最大の敵となる事を恐れていた。……それこそ、今際の際までね」

「……杞憂だよ。俺は少なくとも、善悪の判断くらいはつく人間だ」

「そうであってほしいわ…………」

 いや、特に貴方は如何なる時でも……世のどんな能力者よりも、そうあるべきだ……。

 リリィはそう言いかけて、やめた。

「ごめん脩! 待った~!?」

 二人の背が、快活な少女の声を受け止めたのだ。鮮やかな栗色の髪を二つ結い上げ、空色のブラウスと紺のプリーツスカートで全身を固めた、脩とほぼ同じ年頃の少女……。

 脩の幼馴染みである八幡原有紗。彼と同じ学校に通いながら、同人漫画活動に精を出しつつ、某商業誌に不定期で連載漫画を描いているという意外と凄い少女である。当然、リリィという黒い少女とも顔見知りだ。

「……遅せぇぞ、有紗」

「そりゃ悪かったわよ……だけど、文句なら編集の井藤さんに言ってよね。あの人あぁ見えて拘り派でさ、私の苦手なきついギャグとか注文が細かいの。今月号の分の原稿、没が無かったのが幸いってものだわ」

「そいつぁ確かに幸いだ」

「っていうか、その辺は考えてくんなきゃ駄目でしょ? やってる事はアレだけど私は一応学生なんだから」

 愚痴る少女と涼やかな少年。幼馴染みの男女の、何気ない会話のやり取り。そんな二人を認めて、ふっ、とリリィは笑みを漏らす。

 脩はいつもの脩だし、有紗もいつもの有紗だ。今の脩ならば、自分の“用”を十分任せられる。

「貴方の用は済んだみたいね、脩。じゃ……次は私の用に付き合いなさいな」

 悠然と身体を捻って漆黒のドレスを揺らし、魔女は二人の先頭に立ち、そっと歩き出す。少年と少女はそれに続いた。黄昏時の中央通りを幽雅に駅の方向へ、リリィの先導で進んでいく二人…………。


「どこ見て歩いていやがる、テメェ!」

 と、突然にドスの利いた男の声が後ろから響く。声がしたのは通りに面した裏路地だ。

 とある一人の少年がコンクリートの塀に押え付けられ、その顔を恐怖に引き攣らせている様子が見えた。黒い詰襟に身を固め、刈り上げた黒髪が滅茶苦茶に散らばっている。

 あの真っ黒な詰襟の制服は恐らく都立天海高校のそれだろう。少年はその帰りにちょっと寄り道と洒落こんだつもりなのか、道の隅には学校指定の学生鞄が無造作に転がっている。

 彼を押え付けているのは一八〇センチを軽く越す、いかにも番長という表現が相応しい大柄な男。他にも彼の取り巻きと思しき中肉の男五名が主犯格の男と共に、逃走防止用の壁になるように少年を取り囲んでいる。


「人様にぶつかって来て挨拶も無したぁ舐めてやがる!」

「どうしてくれんだ! テメェの所為でナオキの足が折れちまったじゃねぇか!!」

 ナオキと呼ばれている男がわざとらしく、苦痛に歪んだ顔を作って右足を抑えたままぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「いてぇっ、痛ぇよぉ! 死んじまうよぉ!」

 ナオキの仰々しいそれは、実際は足など折れていない事、それどころか痛みすら全く感じていない事、そしてナオキというこの男が実際に今日まで足の骨を折るような怪我を負った経験が一度としてない事を、はっきり証明するそれであった。

 あまりに、わざとらしい。だがそんな彼の下手糞な演技さえ、突然のアクシデントに動揺していた少年は見抜けなかったらしい。

「そ、そんなに強くぶつかってなんか……。第一ぶつかってきたのはそっちじゃ…………」

「何出鱈目ほざいてんだコラァ!!」

 ばきっ、という鈍重な音とともに、少年はアスファルトの上に屈服する。口元と額から赤い筋がつぅ、と、それぞれ一本描かれた。

 うめき声を漏らす少年の身体に、街頭に照らされた大男の影が重なる。拳の骨を大袈裟に鳴らす下卑た男の笑いが、少年の恐怖心を激しく煽る程の冷たくも猛烈な突風を巻き起こしていた。

 そしてすぐさまそれは少年を直撃する。強烈なパンチが眉間にヒットし、少年の意識が揺さぶられる。

 倒れる暇もなく急所に飛び膝蹴りが入り、地面から数センチほど浮かせられたあと、少年は再び路地に倒れ臥す。髪が引っ張られる痛みに苦しむ少年の頭を、男は豪快に叩きつける。誰もが思わず目を覆いたくなるような残虐な私刑であった。


 当然、一連の出来事はバッチリと三人の目前で起きていた。少年と三人の目が合う。

 恐怖でロクに焦点が定まらない彼のその瞳ははっきりと、彼等に助けを求めていた。


「何よあいつら! 頭来ちゃうわね、あんな子苛めて! 文句言ってやるっ!!」

 そう言うなり有紗は勇んで男達の下へ大股で歩き始める。が、すぐさま一本の腕が彼女の行く手を遮った。

「……引っ込め、有紗」

「何よ脩! あたしの邪魔しないで!!」

 なぜ止めるんだ、彼を見殺しにする気か、そう言わんばかりに激昂する有紗を脩はあくまで冷静にセーブする。

 これは一〇年以上もの付き合いがある幼馴染みという関係だからこそ、ほぼ瞬発的に出来るアクションだ。

「……その細ぇ腕で奴等に勝てるとでも言うのか?」

 脩の残酷な科白せりふに思わず有紗はどもってしまう。

 ……言われてみれば尤もだ。相手は男三人、自分は力の無い女の身。勝敗は火を見るより明らかだ。それにあの如何にもヤバそうな奴等ならば、何をしでかすか分かったものではない。

「それに、俺もあいつらにムカついてたところだしな」

 言うなり脩は男たちに向けて歩き出す。ただただ二人の少女はそれを見守る。

 リリィは悠然とした眼差しで、有紗は理由もなく不安げな表情で。止める事は出来なかった……いや、しなかった。

 他ならぬ脩自身の眼が、“ここは俺に任せておけ”と語っていたのだ。


「何とか言えってんだよ、このクソが!」

 顔の至るところから血を流し蹲る少年の土手っ腹に、男は容赦なく蹴りを叩き込む。彼等による非情な私刑は未だに続いていた。固い革靴の爪先が少年の五臓六腑を容赦なく壊す。もはや少年は悲鳴もロクに上げられない状況だ。

 この手の不良グループは往々にして、加減というものを知らない。いや、知っていてもまずしない。グループ内部で力を誇示するため、下手に手を抜いて自分が苛められる側に回るのを防ぐため、徹底的にやろうとする。

 その結果相手を死に至らしめても決して悪びれる事はない。それほど、群れをなす者は何より危険なのだ。

 自分はここで殺される……少年はそう覚悟を決めたのか、歯を固く食いしばりその両の瞳を閉じた…………。


 ドカァ。


 少年を殴るリーダー格の男を眺めるのに夢中になり、すっかり周囲に対する注意を欠いた取り巻きの一人の後頭部に、強烈な回し蹴りが入った。不意を突かれたその男は派手に前方に吹っ飛んでアスファルトに叩きつけられ、眉間から血をどくどくと流している。当然、その蹴り足の主は脩その人。

 彼の存在を認めた不良グループは一斉にどよめき立つ。雑魚を一人片付けた脩は、その睥睨の視線をリーダーに向ける。

「何だテメェは!!」

 先程まで少年を袋にしていたリーダー格の男が鼻息を荒げ脩に迫っていく。だが彼は多数の男を相手にしても、恫喝の嵐を真正面から受けても、その冷淡な姿勢を一ミリも崩さない。彼等を睨む脩の冷たい視線からは、むしろ余裕めいたものさえも感じられる。

「どこまでも情けない奴だな……自分より弱ぇ奴しか殴れないとはよ」

「何だと、テメェ! 関係ねぇ奴はすっこんでろ!!」

 シャキン、という冷淡な金属音がやたら大きく響く。取り巻きの一人である長髪のひょろ長いいかにもチャラ男といった感じの男が、ブレードを起こす際のアクションの格好良さから一時期流行した、刃渡り二〇センチのバタフライナイフを脩の眼前に突きつける。

 それでも脩は悠然と男の右手首を掴んで引き伸ばし、彼の右の肘の関節を強烈な掌底打ちで叩き折る。バキッという音と共にアスファルトの上に崩れ、その手からナイフを取落とし、苦悶の表情を浮かべ呻き声をあげる男を蹴り飛ばして壁に叩きつけ、改めてリーダー格の男と対峙する。

「こいつと同じようになりたくないならこれ以上は止めとけ」

 だが脩の一連の行動は、男をただ逆撫でするそれでしかなかったらしい。目の前で仲間を叩きのめされたのだから、至極当然の反応と言える。

「あぁん!? 何クソアマの前でカッコつけてんだぁこのシャバゾウ。半端モンの分際で一端に外歩いてんなよオイ! 一生部屋に引き篭もってエロサイトでも見てろってんだ、あぁ!? タコスケがよぉ!!」

 ごつい顔にオールバック、団栗眼に無駄に大きな口、今や絶滅危惧種と言っても間違いじゃないステレオタイプの不良番長といった感じの男は、額に血管を太く浮かばせて限りの大声で脩をどやしつける。そうすればビビッて財布を出して、そのまま尻尾を巻いて逃げるとでも思っているのだろう。

「こちとら子分が足折られちまったんだよ! ならその償いをするのが当たり前ってモンだろうが!! それともテメェ、そんな当たり前もわかんねぇ程の底無し莫迦なのか? おい! 何とか言えコラ!!」

 無論、その考えは浅はか以外の何物でもないわけだが。強ければ何をしても許されると思っている。体がデカければ強いと思っている。シャバゾウとかタコスケとか底なし莫迦とか、絶えず放たれる罵倒のボキャブラリーも浅すぎる。

 この男は脩の一番嫌いな人種だった。


「何だ、そのツラぁ!!」

 刹那、男のゴツゴツした大きな石のような拳が、脩めがけて飛んでくる。だがそれが命中するその前に、脩の掌が男の眉間を捉えていた。

 スピードだけで言えば打撃の際に腕の筋肉を収縮させてスピードを阻害してしまう握拳よりも、収縮によるブレーキがない開掌による打撃の方が遥かに速い。先んじて顔面に打撃を受けた事で、男は軽い前後不覚状態に陥る。

「クソアマ……だと?」 

 脩は怯んだ男の右の手首をいつの間にか左手でがっしりと掴んでいる。その瞳に、暗い炎をたなびかせて。

「……さっきから大人しくしてりゃ…………ガタガタ五月蝿いんだよテメェは!!」

 脩はそう叫ぶなり、空いた右の二本貫手を男の眼前に翳し、意識を瞬間的に人差し指に送り込む。


 バチイィッ!!


 刹那、脩の右人差し指と中指の間から、緑色の鋭い針のような閃光プラズマが迸った。

 超至近距離から男の右眼の瞳孔という的にピンポイントで命中した超高熱の針は薄い角膜と水晶体を容易く突き破り、ガラス体の奥深くにある視神経までもその強烈な熱で無残に焼き切った。

 周囲の眼筋、強膜、脈絡膜までもがズタズタに破壊される。もはや、男のギラギラした右の団栗眼が光を取り戻す事は二度と無い。


 ……脩が、その身に宿る『破壊の力』を振るったのだ。


「うぁっ、うぁああああ!! 眼が! 俺の右眼があぁぁぁ!!!」

 紅の涙が止め処なく溢れ出る右眼を押さえ、アスファルトの上をのた打ち回る男。その様は無駄に大きな図体からは想像も付かないほど見っとも無い。取り巻き達はというと何が起きたのか分からず呆然とするだけだ。

「眼が! 右眼が見えねぇよぅ! 誰か助けてくれぇ!!!」

「あ、兄貴ぃ!!」

「おい、誰か携帯貸せ! 救急車だ!!」

 手から火花を出せる人間。そしてそれにより右眼を失ったリーダー格の男。突然目の前で起きた、様々な信じられない事態。それを目の当たりにし、右へ左へと不良グループは大童になる。

「あぁぁっ! だから……五月蝿ぇっつってんだろうが!!」

 ところが耳障りな悲鳴、そして取り巻き達の混乱する様は、却って脩の神経を逆撫でしたのだろう。脩はもう一度二本貫手を男の眼前に翳し、針の如き閃光をスパークさせる。解き放たれた力は男の左目までも修復不可能なまでに破壊しつくした。

 リーダー格を倒されたこの不良グループの中にはもう、抵抗しようなどという考えは欠片も残っていなかった。

「うぅ……うあぁぁ…………!!」

 光を完全に失い、もはや悲鳴を上げる気力もなくした男は、取り巻き達の肩を借りてすごすごと退散する。

「畜生! 憶えてやがれ!!」

 という、取り巻きの典型的な捨て台詞と共に。


 嵐が一つ過ぎ去る。有紗自身は眼前で起きた現象に暫し呆然としていたが、すぐに思い立って暴行を受けていた少年に駆け寄る。

「君! 大丈夫!?」

「うぅ、は、はい……っ」

「全然大丈夫じゃねぇじゃねぇかよ。強がりやがって……ほら、掴まんな」

 脩の腕を借りて立ち上がった少年はその顔を上げると……すぐにその表情を一変させる。驚きとも、慶びとも取れるそれに。

「しゅっ……、脩さん! やっぱり脩さんだ!!」

 少年にいきなり自分の名前を呼ばれた事で脩は思わず目を丸めた。

「……何で、俺を知ってる……?」

「あれぇ? ほら、憶えてませんか? 中坊ん時の舎弟だった矢代光吉ですよぅ!!」

「何よ……脩の知り合い!?」

 有紗の問いに先に答えたのは何故か光吉だった。つい先程まで不良達に滅多打ちにされて危うく再起不能一歩手前までという状態にいたというのに、今ではすっかり立ち直ってしまっている。

「知り合いも何も……いや、さっきも言ったじゃないですか。俺は脩さんの一番の舎弟ですって。あの時から凄かったんですよ、脩さん。喧嘩も滅茶苦茶強かったですし、成績も学年トップテンにいつも並んでましたし他にも体育祭とか文化祭とか…………」

「…………俺は別に舎弟にしたつもりはねぇんだが。ったく、調子のいい奴だ」

 とはいえ、脩の表情はそんなに難しいそれではなかった。中学を卒業してから光吉とは久しく会っていなかったが、軽薄だがどこか憎めない、ノリのいい光吉特有のキャラクターは全く変わっていない事に安堵していた。そんな光吉を脩は決して嫌っていなかったのだ。

 しばらくすると光吉の視線は、脩の傍にいた二人の少女をしっかりと認める。

「うわぁ……脩さん、いつの間にこんなにモテるようになったんで!?」

「ちょ、ちょっと、矢代……光吉君だったわよね、君。違うのよ! 私は脩とはただの幼馴染みってだけだからね!?」

 しどろもどろになりながら有紗は光吉の言葉を否定する。その傍らで微笑を溢すリリィ。

「あらあら……何だか脩が可哀想ね。ま、私もそこまでの関係ではないのだけど。君の想像に任せておくわ」

「……フォローになってねぇよ」

 二人の“何でもない”という趣旨の発言を受け、わざとらしく大きく脩はため息をついた。


「リリィ。用ってのはいつものあれか」

「まぁね。新しく入荷したインセンス、試してみたかったの。頼めるかしら?」

「……それを世間一般じゃ人体実験って言うんだが。ま、断っても無駄だろうからよ」

「……流石ね。有紗さんと……光吉君だったかしら。興味があるなら貴方達もおいでなさいな」

 リリィは再び彼等の先頭に立ち、小気味よくカッターシューズを鳴らしながら歩き出す。悠然たる少女のその仕草は、道行く人を須らく惹きつける。

 脩も、有紗も、そして光吉も、黒いドレスの少女の後に続いていた。


 一組の少年少女が消えた後の黄昏時の秋葉原は、先程までと何ら変わりのない、極彩色のカオスが入り混じった大理石マーブル模様の都市のままであった。

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