stage1【邪術師は逆襲する】

1-1【復讐の炎】

【復讐の炎】


蛙よ、大海を知るなかれ。

汝の腕は海原を行くにはか弱すぎる。


猿よ、月を愛すなかれ。

汝の腕は望月を取るには短すぎる。


人の子よ、常に己に問え。

求めるそれは、己のその手に持てるものかを。


 光の翳にある闇。それを覆い隠すという事を、人は獣のような鋭さで逸早く覚えた。

 灰被りへの仕打ちの報復として、平和の象徴たる白い鳥に、両の眼球を突き取られた継母と姉。

 白き姫への嫉妬心の代償として、赤く焼けた鉄の靴を履かされ、狂いに狂って舞い散った王妃。


 幸福を勝ち取った者の翳に確かに存在するのは、そこに至った原因がどうであれ、傷つき、苦しみ、そうして無様に醜く野垂れ死んでいった者。

 されど、それらの存在は教育の健全化の名の下に巧妙に隠蔽され、そして、触れてはならない禁忌の存在として人々の流れの中で脈々と受け継がれてきた。

 親から子へ、教師から生徒へと。闇を恐れ、闇に目を背ける事を、人は美徳として継承し、伝承してきた。

 闇を悪とし、光を善とする事で、世界は清廉なるもので厚く塗り固められた偽りの秩序を作り上げていった。

 闇がそれでこの世から消えるわけでも、また闇が光に変わるわけでもないというのに。

 この世にある幸せというものは須らく、誰かの苦痛と死という、深い深い闇の上に築かれるという事は変わりないというのに。


 光の翳にある禁忌という名の深い闇は、そしてそこに追いやられた者達は、今も現世には届かぬ怨嗟の声を上げ続けている。

 永遠に訪れる筈などないというのに、踏みつけられた者、虐げられた者の勝利を虚しく待ち続ける者達。

 ほんの一時でも暇があるならば、試しにその心を鎮め、両の耳を世界に澄ませてみるといい。そこから彼等の声が幽かでも聞こえるだろうから。

 そして、彼等の住まう闇へ繋がる重き扉がそこにあるのが分かるだろうから……。


「以下の者、退学処分とする」


 とある朝のとある公立高校の掲示板に、その文字が躍った。明朝体の黒く太い文字、わざと大きく表示されたある人物の名前。

 それの存在を認めた生徒達は次々にどよめき、ある者は嘲りの笑いを漏らし、ある者はその顔を青ざめさせた。

 退学掲示……それはかつてここの生徒であった、今はここにいない一人の少年を、赦されざる咎人とするもの。

 だが、誰一人気付くものなどいない。少年の罪も、そして少年への罰も、彼を蛇蝎の如く疎む心悪しき存在により、精巧かつ丹念に作り上げられたものである事を…………。


 その少年にとって、学校はまさに戦場そのものだった。


 少年……名を、米田憲太郎よねだけんたろうという。一四〇センチ足らずの身長で小太り、顔は最悪、茸のような御河童頭に黒縁眼鏡。

 この地区では偏差値最低ランクのこの高校の中でも授業の成績は下の下、運動は全く出来ず、無論友達も恋人も皆無。

 自我は殆どないと言っていいほどに心身ともにか弱く、たまに学級委員会などで意見を出しても相手にすらされない。

 部活動に精を出しても思うように腕が上がらず、戦力にならないとして直ぐに強制退部。

 外には居場所も何もなく、彼の唯一の遊び相手はコンピューターゲームだけ。

 そんな子供だったから、実の両親も親戚一同も彼を“米田家の恥晒し”と絶えず冷遇していた。


 そんな絵に描いたような劣等生であった少年が、苛めという卑劣な行いの標的となる事は、ごく自然な流れだった。

 教科書などの持ち物を隠されたり、上履きの中に大量の画鋲を敷き詰められていたなどというのはまだ序の口。

 放課後ともなればほぼ毎日校舎裏へ連れて行かれ、自分よりちょっと勉強が出来るクラスメイトから壮絶な私刑(リンチ)を受ける。

 殴られ、蹴られ、彫刻刀で切り付けられ……。一切の容赦も手抜きもなく、彼等は日毎、少年に理不尽な暴力の嵐を浴びせた。

 絶対に、抵抗するななどと言った上で。ゆえに少年は、只管それを受け続けた。

 我慢しきれなくなって彼等からの禁を破り、此方から手を出すとそれは更にエスカレートし、あの時は本当に殺されるのではないかと恐々としたものだ。

 今になって思えば、むしろ殺されていた方が幸せだったのではないかなどと、身も世もない事を考えた事もある。


 ある時は所謂使い走りみたいな事をやらされた。とある店で指定されたものを買って来いとの事だ。

 その間ずっと、グループの一人が付いて回っていたのが気になっていたが。まぁ普段の苛めに比べれば幾分ましな方だった。さっと行って、命令通りに買い物をすればいい。金は全て自分持ちだが、それはいちいち気にするべき事ではない。何も考えず、ただ言い付けられた事だけをしよう、そう思った。

 …………少年はその時も、いかに自分が甘憎かを思い知らされたものだ。

 店に着いて、目当ての商品を手に取ったその瞬間、パシャリという音と強烈なフラッシュが背後から迸った。直ぐに後ろを振り返ると、誰もそこにはいなかった。

 数日後、普通に登校した少年はいきなり教師から呼び出しを受けた。彼が手にしていたのは一枚の写真。キャプションには恐らく筆跡から誰が書いたそれかばれない様に細工したのであろう、わざとらしい下手糞な字で『万引きの瞬間を激写』。

 米田憲太郎という自分の名前と住所まで、そこにはっきりと書かれていた。


 とことん、後悔した。なぜ自分はただの使い走りに、グループの一人が付いて回っていた理由を計算に入れなかったのだろうか。

 その殆どを教師からの厳しい取調べに費やしたあの日、少年は劣等生に加えて不良のレッテルまでもベッタリと貼り付けられ、当然それに伴い苛めは益々酷くなった。

 奴等はあの写真を大量に焼き増しして近所に貼って回っていたのだろう、あろう事か自分の家の周りの人からも後ろ指を差されるようになった。家の中にも外にも、少年の居場所はなくなりかけていた。

 反面、彼を苛めていた不良達は少年の偽りの悪事を透破抜いた英雄として、校内外で高く賞賛されたのだ。


 当然、そんな目に遭えば、教師やら何やらに訴えるのは自然な事だ。一応その場では善処すると教師は言った。これで苛めもいくらか収まるだろうと、少年は安堵した。

 だが……それも全ては糠喜び。少年を待っていたのは更に過酷な仕打ちと、何よりもつらい教師の裏切り。

 それはとある体育の授業の時だった。その日の授業はサッカーで、勿論少年もジャージを着てグラウンドの上にいた。

 教師が到着すると少年は一番に彼の前に引っ立てられ、すぐさまゴールポストにロープでぐるぐる巻きに固定されてしまった。突然の出来事に少年が目を白黒させる中、教師は叫ぶ。


「よ~し、今からサッカーのシュート練習を行う。お前等、しっかりあの薄ら馬鹿の米田を狙うんだぞ!!」


 そうしてざっと小一時間それは続いた。全身を縛られて身動き一つ出来ない自分の顔に、足に、胴体に……容赦なくボールは飛んできた。体や顔に青痣が出来、黒縁眼鏡は打ち壊され、ジャージも土埃まみれになり……少年はたった一時間でまさに満身創痍の状態になった。

 終業の礼をして去って行くクラスメイト達。縄を解かれ、教師と二人きり取り残された少年に、教師は容赦なく告げた。

「米田。苛めを受けるなんてお前、本当に最低だ。考えても見ろ、ウチの学校で苛めがあったなんて事がマスコミに知れたら一体どうなると思う? 学校の評判落ちて、来年度の生徒数が少なくなったらお前のせいだからな」

 はっきりと、少年は悟った。

 学校にとって結局自分は害毒でしかないという事、そして自分の味方などどこにもいないという事を。


 ……ある日、ついに我慢しきれなくなって、少年はちょっとした復讐に打って出た。

 それは移動教室の授業の時。担当の教師にトイレに行きたいと言って教室を抜け出し、奴等の教科書や上履き、鞄などを有りっ丈手に取り、そのまま校舎裏の焼却炉へ全て投げ込んで灰にしてやった。

 自分の怒り。それを、奴等に思い知らせるつもりでいた。

 これだけ派手にやれば流石に奴等も、自分の本気というものに恐れを為して苛めを止めるだろう……そう考えた。


 尤も、その全ては、苛めグループという火に油を注ぐだけの、所謂愚考そのものでしかなかったわけであったのだが。


 しばらく平穏な日々が流れ、土日を挟んで翌週の月曜日。復讐という正義を行使し、意気揚々と登校した少年を待っていたのは、校門前に仁王立ちしていた担任からの朝一番の呼び出しだった。

 職員室ではなくいきなり校長室へ連れて行かれ、教師一同にずらりと周囲を取り囲まれた。

 その一人一人が自分に刺し貫くような視線を向けている。どういう事かと尋ねる前に少年を襲ったのは校長の怒号だった。


「一体これは何なんだ!」

 漆塗りのいかにも高そうな接客用テーブルの上にあったのは、理科室で何度も見た、透明な粘性のない薬品が入った寸胴のガラス瓶。いや、正確に言えば、口の部分をラップで覆った、目盛入りのビーカーか。

 ラベルに書かれていた文字は『トルエン』……。模型店などで手に入るラッカーシンナーの主成分で、依存性も極めて高い危険な薬物だ。これが自分のロッカーから出て来たのだという。

「トルエンを吸っていたとは何て奴だ。コンビニや書店で万引きするのとはわけが違うんだぞ!!」

「ト、トルエン? そんな……こんなの…………」

 無論、少年の身に憶えはない。強力な劇薬であるトルエンは、薬局で一介の高校生が簡単に手に入れられるような代物ではない。

 入手ルートがあるとしたら駅前やら呑屋街やらを根城にする売人くらいだ。そのような者は少年のような真面目な人間であればコンタクトも儘ならない。


(まさか、あいつ等が、僕を嵌めるために……!)


 あいつ等ならやりかねない。全ては復讐に対する報復なのか、それとも自分への完全なる止めのつもりだったのか。

 どうやらあの時、自分の復讐は誰かに見られていた。そして自分は奴等を本気にさせてしまった。その結果が、これだ。

 自身の詰めの甘さを少年はとことん呪った。苦しみや痛みを耐え忍ぶ勇気も、面と向かって奴等に立ち向かう勇気も、死という最後の逃げ道を選ぶ勇気すら持ち合わせなかったばかりに、こうして最後の最後で身の置き場を自ら失ってしまった、というわけだ、自分は。

「兎に角。こんな事態になった以上、米田。お前は退学処分だ!」

「待ってください! 僕は何もしてません!」

「五月蝿い! もうこの件は日本中のマスコミの知る所なんだ。せめて刑事告訴されないだけ有難いと思え!」

 彼是二〇分くらい、少年は教師の言う事とはとても思えない罵声を、絶える事無く浴びせられた。

 それらはもともと脆弱な少年の精神を、ボロボロに壊すには充分すぎた。


 ――どうして僕が、こんな目に遭わなければいけないんだ。


 身長が人より低い所為か。眼鏡を掛けている所為か、茸みたいな髪をしている所為か。

 それとも、そんなガリ勉丸出しの出で立ちでありながら、ちっとも勉強が……学生として当たり前の事が当たり前に出来ない所為か。

 兎に角そうした要因が積もり積もって、自分は壮絶な苛めの標的となった。そしてそれを止めさせる為に、復讐という自分の中の正義の行使に訴えた。

 だが自分を待っていたのは、自分を犯罪者にでっち上げるという彼等の更なる報復、そして何も知らぬ……いや、知ろうとせぬ大人達による理不尽な制裁。

 そうして学校、家庭、そして社会の中で居場所を失った自分が、唯一手放さず握り締めて残していたもの。それをもう一度思い返す。


 ……復讐してやる。あいつ等全員に。そして大人達に。

 倍返しなんて生温いものでは、もう決して済まさない。

 今度こそ徹底的に、誰一人として、生かしておく事無く。

 骨の一片、髪の毛の一本だって、残す事無く。


 少年の双眸に、冷たい炎が宿る。

 その炎は心なしか、病んだ瞳から溢れ出て小さな全身を包み込んでいるようにも見えた。


 そしてその炎は、彼と関わった者達を木端微塵に爆ぜる為の強力な爆弾の導火線に今、その火を灯した…………。

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