ユーザーズ・マニュアル ~遣い人の手~

小鎬 三斎

序章

 ――炎を見ていた。


 蒼く暗い夜の曇り空を朱に染めて、轟々と炎が燃え盛る、無機質なコンクリの建物を見ていた。

 パチパチと弾けるように炎が爆ぜる甲高い音も、まだ建物の中にいるであろう生存者を呼ぶ人の悲痛な叫びも、大童で業火からの逃避に追われる人々の疎らな足音も、炎を見ている少年の耳には何一つ、届かない。

 突如として雷を伴い、深い深い森の中にあるこの建物……亜米利加アメリカ露西亜ロシア、中国に追いつけ追い越せとばかりに、既に火の車という言葉が似合いすぎる程似合う予算のほぼ三割八分を投じて設立された、この国が保有する超心理学……もとい、異能力研究施設の関東支局に降り注ぐ凄まじい雨の音さえも。

 何も聴かず、瞬きの一つもせず、少年はただそこに立ち尽くして、鮮やかな紅蓮の炎を眺め続けている。


 炎は人間の欲望の具現だ。遙か原始の頃、飢えや寒さに窮していた人々は、夜の闇に怯えていた人々は、今ここにある自分達の暮らしの危機を、せめて今この一時だけでも免れる術を、それこそ血眼になって欲していた。

 飢えて、凍えて、夜に生きる野の獣の手に掛かって、惨めに死んでいった沢山の仲間の顔がその脳裏に浮かんだ彼らは、彼らの後を追うまいとばかりに、遮二無二闇を振り払う術を探していた。

 幾つか時が過ぎた頃、突如として彼らの前に一条の雷が落ちた。烈しい閃光と耳をつんざくような轟音が収まった後、そこにあったのはあらゆる光と熱の素となる、暖かな火の輝き。

 火は人間に希望を与えた。夜の冷気を振り払い、夜の闇を明るく照らす火を人は尊び、崇め、それこそ大事に手放すことなく持ち続けた。

 そして、火は人間に英知を与えた。火が放つ光と熱は、火の誕生から今に至る長い時の流れは、確かに人々の成長を促した。

 燃え盛る火で煮炊きされた人々の日々の食物。火の仄かな明かりの下で紡がれた物語。火の膨大な熱がもたらした、無機質な被造物達が作り上げた産業。

 火は確かに、この世界の大きく重い歯車を、その大きな手で絶えず、回し続けていた。


 しかし、だ。神の作りし造形物の中でも火というモノは兎角、扱いの難しい代物でもある。人にとって命の源となり得る事には無論の事、その命を間違いなく脅かすことにも、火は使われた。

 洋の東西を問わず戦などが起これば悉く家屋や城郭は烈しい炎で焼き尽くされ、いわれもなく魔女呼ばわりされて無実の罪を着せられた者は生きながらその身を火に炙られ、残忍な人の作りし銃器の閃光は、それこそ微塵ほどの容赦もなく、人の命に死神を送り続けた。


 正のそれであれ、負のそれであれ、火は常に人間の欲望と隣り合わせにあった。


 暗い夜空を染めて今尚赤々と燃え盛る火は、炎は、その剥き出しの欲望を隠そうとする事など全くなく、むしろまだ喰えるものはないかとばかりにその勢いを増していく。南国のスコールを思わせる程の激しさを誇る雨さえも、その烈しい炎を消すには、あまりに力不足だ。

 降り続ける冷たい雨に打たれながら、その冷たさを感じることも忘れたか……少年は瞬きもロクにせず、燃え盛る建物を眺めている。

 既にその眼に光はなく、もともと虚ろだった表情も消え失せ、ただ、そこに、彼は立ち尽くしている……。


 ふと、少年の頭上が一面黒に染まった。

 同時に一切の容赦なく彼のその小さな躰を叩き続けた雨もぱたりと止まった。

 ――何事だ。少年がそう考えるその前に、その背後からひとつ、声が響いた。


「ごきげんよう、破壊者バケモノさん」

 艶っぽいアルトの少女の声。少女と呼ぶには異常に大人びた柔らかな声が、それをすぐ耳元で聴いた少年を今この瞬間の現実へと引き戻す。

 ――黒い少女。

 ベルベットのそれに似た柔らかい感触の漆黒に、フェミニンな純白のレースがあしらわれたドレス。軽くウェーブが掛かったセミロングの、柔らかいプラチナブロンドの髪。

 抜けるように白い陶器を思わせる肌を持つ、まるで等身大の美しい仏蘭西フランス人形を思わせる可憐な少女が、少年の背後にその衣より暗く黒き影のように、立っていた。

 そっと後ろを振り返り、背後の少女の姿をようやく認めた少年は、ようやく人間の感情を取り戻し。

 ――その瞳を、はっと見開いた。

 少年が、目の前の少女に最初に抱いた感情は、理屈抜きに恐怖そのものだった。


 何年切らずに放置すればそうなるのか分からないほど長く伸び、鋭利な刃物のように鋭く尖った爪。

 薄いパールピンクの唇の両の端、そこからうっすらと覗く獣のそれに酷似した八重歯……もとい、牙。

 そして、今尚困惑する少年をさも興味深そうに見つめている、大きく、きらきらした、深紅の澄んだ瞳。

 誰の目から見ても、無論その光を取り戻したばかりの少年の両の眼から見ても、その少女は……異質などと言う浅薄な言葉では到底説明がつかないものを無数に内包していた。

 人にはないもの。人であれば絶対に持っているはずがないものを、その少女は持ちすぎるほど持っていた。

 彼女がいわゆる人間に分類カテゴライズされない事は少年にもはっきりと分かっていた。だからこそ少年は少女に、恐怖していた。

 今まで彼女がそういう存在である事を知った者が例外なくそうしたように。

「どうしたの? もしかして、私が怖い?」

 力なく、機械のように首を縦に振る。

「そう。だけど……正直心外ね。この私からすれば貴方の方が、今まで出くわした化け物の中でずっと恐ろしいのだけど……目の前でお父様があんな事になったのに、涙の一つも流さない貴方がね」

 何かが、少年の中で一瞬だけ動き、しかしそれはすぐに静止する。

「……どうやら。恐れとやらは感じても、悲しみとかいうものを感じる機能は貴方にはないのかしら?」

 少年の中のネジが尽きた時計。それを再び動かすように少女は告げる。

 お父様。あんな事。涙。悲しみ……。


 父。死。そして力。

 破壊。悲鳴。そして轟音。

 煙。閃光。そして……炎。


 雑音とホワイトノイズを伴い瞬間的に現れては消えるビジョン。烈しい頭痛と共に数珠繋ぎに蘇る記憶に少年はこめかみを押さえる。

「……って、ない」

「ん?」

「おれは……やって、ない」

 押し出すようにそう発するだけが精一杯だった少年。少なくとも少年はこれだけの惨事をその手で……自らの意志で積極的に起こすつもりなど少しもなかった。

 いつものように壁や天井まで白一色の部屋へ連行されて、時間も座標も無い場所のほぼ中心点に引っ立てられて、抑揚も感情も何もない実験開始とかいうアナウンスを聞いて。

 ただ一つ違ったのは、目の前におかしな覆面をした屈強な男が立っていて、何も言わずそいつが巨大な、それこそ大人の背丈ほどはある長さの金槌を自分めがけて振り下ろしてきて。

 少年の記憶は、意識は、そこで完全に途切れている。そして気がついたら、こうして黒い少女が後ろに立っていた、と彼は言う。

「ふぅん……やってない、ねぇ。それじゃ」

 黒い少女が少年の前に、巨大な紅蓮の炎の前に立つ。

「この建物をこの通り滅茶苦茶にしたのは一体誰かしら? ここで働く研究員のおじさんや、そのご家族をこの手で粉々にして次々殺しまくったのは、果たして何処の誰なのかしらねぇ……?」

「それ、は……」

「まさか自分の中に棲んでる悪魔が目覚めたんだ、そいつがやったんだー、とでも言うつもり? ぶっ飛んだそれだけど、言い訳にしてはあまりに弱いわね。そんな根拠も突拍子もない言葉なんて、今の下衆な大人はきっと信じないわよ」

 その言と共に、少女の紅い瞳は、そっと少年に向けられる。何故か知らないが、少女のその眼は、心から笑っていた。

 それが少年は恐ろしかった。まるで「おまえがやったのだろう?」と暗に詰問されているようで。

「安心なさい。私は貴方を咎めない」

「え……っ」

「貴方でなく、貴方の中の本能がこれだけの事を引き起こしたなら。それに気づいているなら」

 少女が言を切ったとほぼ同時に息を呑む。

「まだ、貴方はまだバケモノの自分を許容していない。……まだ、望みはあるという事よ」

「そんな、こと」

「あるわよ。だってこの世でとびきり怖い化け物の私が言うのだもの」


 化け物? 何故この少女はこんなにも、自分の事をはっきり化け物なんて言い切れる?

 そんな疑問を挟む余地など全く無く、気がつけばまたしても、少年は黒い少女に背後を取られている。いつの間にと考える前に少女の吐息がそっとうなじにかかる。

 艶めかしい息遣いをすぐ傍で聞いていた少年を次に襲ったのは、首筋に迸る鋭い痛み。

 液体をストローか何かで吸い上げるような湿った音。それが一つ響く度に、脳の中に一際濃厚な靄が掛かり、広がっていく。

 出来たばかりの二つの刺し傷を少女の舌がなぞっていく。身震いと快楽を同時に与えられるという、不可思議な感覚を憶える。

 脈が、体温が急激に、下がっていく。隣に、背後に、眼前に、ほんのすぐ間近に死が迫るのを実感する。

 ついに覚悟を決めたその時に、しかしそれらの感覚は、引き潮のようにさっと消え去る。同時に少年の意識もすぐさまその色彩を取り戻した。その牙剥き出しの口元を紅く染める少女を睨みつけてみると、やはり少女は笑っていた。

「下僕にでもされると思った?」

 全力で首を縦に振った。それに対する少女の返答は人形のそれに似た冷笑だけだ。

「安心なさい。他の死にぞこない共なら兎に角、私はそこまで野蛮じゃあないから」

 ホンの少しもその優雅な態度を崩さずに黒い少女が言を紡ぐ。

「ただ……私がこういう存在だ、という事を知って欲しかっただけよ。どうせ私は化け物です、だなんて口でいくら言ったって信じられないでしょうし。実際皆、こうでもしないと信じてくれないし」

 少し言い淀み、すぐに納得する。事の善悪はどうあれ、確かに手段としては手っとり早い方法だ。あんな事をされればイヤでも信じるほかない、といった具合に。

 おかげで少年はすぐに理解できた。少女が自分を化け物と呼んだ、その理由を。

「あら。それとも……私と同じになってしまうのもそれはそれで楽しそうだとでも考えたかしら?」

 そんな事は流石にない。まさか人まで捨てろと言うのか、この娘は。その人を食ったような化け物の少女の言に少年はぐっと唇を噛む。

「別に同類相哀れむってワケでもないけれど。せめて情緒不安定になるくらい怖がるのはこれきりにして欲しいわね……化け物同士、だもの」

「ちがう……おれは……」

「何が違うの? 貴方、まさかまだ自分を人間に分類するつもりなの? それなら私から聞くけど。人間と人間以外の生き物の違い。その違いを、貴方は今から筋道立てて一から十まで私に説明できる?」

「そ、そ……それは…………」

「出来ないわよね。出来なくて当然よ、有史以前に誰かが問うた時から何千年以上も経ったというのに、今に至るまで誰も答えを出していないし、答えを考えたところでその行いには何の意味も価値もないもの。答えが出たところで貴方も私も、何も変わらないもの」

 気がつくと少年の右の腕を、黒い少女の白く細い手が、包むように捕らえている。生気も何もない、本物の人形のように小さく冷たいその手。その感覚が、人のそれと余りに解離したその感触が、少年の中の防衛本能を、反射的に、一辺に、解放する。


(っ!!)


 バシュゥッ!

 刹那、辺りが目映いばかりのエメラルドの光に満たされる。計り知れない光と熱が細い帯となって飛翔し、その直撃をモロに喰らった巨木が甲高い軋み音を上げて真っ二つに裂け、炎と煙を上げ始める。

 無意識のうちに放たれた恐怖の感情。それが何より烈しい破壊の力……。炎にも雷にも似た膨大なエネルギーの形をとり、少年の右手から解き放たれたのだ。

 すぐ眼前で起きたそれに、少年自身が驚き、動を失っていた。雨降りしきる闇の中から小さく柏手が聞こえてきたのはその後だ。

 黒い少女が今まで見せたそれより更に深い笑みと共に背後から現れたのだ。

「どう?」

 いつの間に、なんて考える間も余裕もなかった。右腕を捕まれたその刹那、全くの無意識の中でも自分は確かに黒い少女へ向けて先程の閃光を迸らせていた。全く見当違いの方向を攻撃したという事は、絶対無いと言い切れる。


 だが……何故だ。


 そもそも何故、自分はその右腕から碧色の閃光を迸らせて、少女へ向けて放ったんだ。そして何故それで大きなあの木を、あそこまで綺麗に真っ二つに裂いたんだ。

 ――いや、違う。そこじゃない。

 何故なんだ。何故自分の手から碧色の閃光なんてものが出てきたんだ。何故木を真っ二つに出来るほどの高エネルギーが自分の手から出たんだ。

 普通に考えたら。普通の人間の思考で考えたら、絶対に不可能な事を自分がしたのだ。

 何故そんな事が出来たんだ。その答えなどたった一つしかない。だが、それを認めるのが、少年は何より恐ろしい。

 もし、あの巨木が人間だったら。傍らの黒い少女のような、人の形をした生き物にあの閃光を当てていたら。

 ……まさか、今尚あの建物が燃えている原因が、あそこから手や頭や胴体が無くなっている無惨な死体が次々運ばれている原因が、他ならぬ自分にあったとしたら……。

「これでもまだ自分は人間だって声を大にして言う事が出来る?」

 追い打ちをかけるように放たれる少女の言に、とうとう少年の口元から慟哭が漏れ始める。すでにそれは言葉どころか叫びにすらなっていない、放たれてすぐに消え入りそうなか弱いそれ。

(おれは……にんげんだ……)

「認めなさい。貴方は人間じゃない。人間と異なる生き物。人間と違う倫理と価値観を持つ生き物……要するに、化け物」

「うぁぁっ、うぁああああぁぁっぁああ――――!」


 僅かに残った少年の理性が、少年が人の領域に存在できることを保証するよりどころが、ついに音もなく砕ける。

 少年の体から計り知れない強大なエネルギーが辺り一面に放たれ、それはたちどころに強大なエネルギーの奔流となった。

 建物の残骸、駆けつけた消防車、施設から逃げる人々、雨に濡れた樹木……力は碧い閃光となって、全くの無差別に、彼の周囲にあるものを誰彼構わず次々に襲い始める。

 そして不運にもその直撃を喰らったあらゆる被造物は、立ち所に粗雑な欠片となって悉く砕けていく。やがてホンの僅かの後に、未練がましくここに残った彼らの残骸が鮮やかな炎を上げ始める。

 ようやく破壊の奔流が収まり、辺りにあらゆる死の匂いが無秩序に混じった悪臭が立ちこめ始めると、黒い少女はその力を使い果たし肩で息をする少年の背後に、そっと立った。

「まったく。少しは落ち着いたらどうなの。私は化け物が皆須く悪だとか、人間と化け物は相容れないものとか、そういう類の事は一言も言っていないわ」

「うぅ……うぁあっ…………」

 少年が己のその奇っ怪な言を理解しているか。鋭い笑みとともに、それすらロクに考えず黒い少女は続ける。

「人間は人間しか愛さない。人間しか好きにならない。せめてそれだけは否定しなさい。さもなくば貴方は今度こそ、この世界で居るべき場所を全て失う。いつか一人になって、誰とも繋がる術を失くして、やがては淋しいという感情さえも分からなくなる……誰にとっても、辛い事よ。貴方が、私が、人の形をした生き物である限りね」

 黒い少女の非情な言。少年は、それが怖い。まさにたった今、それに初めて、明確な怖さを憶えた。

 ひとりぼっちになりたくない。そんな酷く小市民的な、しかし酷く贅沢な欲望を、少年はその小さすぎる胸に憶えた。

 同時に、何も知らぬ子供心に、その為にはどうすればいいのかという疑問も憶えた。

「それがイヤなら、その心まで化け物に成ってしまうのが恐ろしいなら……来ればいい。扉ならもう、とっくに開けてあるわ」

 黒いドレスのひらひらした袖口から、小さく白い手が伸びて、少年の眼前に差し出される。

「せめて。道連れくらいになら、してあげるから」

 それは誘いの手。一度取ってしまえば今まで居た清らかで暖かな人の領域にはもう戻れない、忌むべき魔女の汚れた手。

 だが。既に、少年は……。


(おれは、にんげんじゃない)


 少年がただの無力な人間である証明は、ここには何もない。

 手からあんなに烈しい閃光が出せるなら。 それでどんなものでも壊す事が出来るなら。

 何より恐ろしいそれを、一体どこに向けるべきかを知る事が出来れば、あるいは自分は。

 ……失うものなんて既にない。先程全部失ったから。

 そう考えると、無明の闇に包まれた未知なる領域へ進む事への恐怖もまた、既にない筈なんだ。

 今の自分には何もないからこそ、どんなものでもその中に入れられる。正義も、勇気も、命も、希望も、人の愛も。失くした筈の、自分の中にある人間も。

 そう考えたら躊躇う理由も、もはやない。だから……。


 だからこそ、傷ついた少年は。

 そっと差し伸べられた黒い少女の小さな手を、己のその手で取った。

 烈しい炎と激しい雨を背に立つ黒い少女の口元は、その時もやはり、笑っていた。


 ……それが、黒百合の名を冠する少女と、ただ壊す事しかできない少年の出会い。

 そして、この世界で遣いユーザーと呼ばれる異能の者達の、終焉なき叙情詩の始まり。

 この場所から遥か遠くで、錆び付いた歯車が回り出す重く鈍い音が、かすかに聞こえた気がした。

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