第16話 March Hare! Time for Mad tea party!
「ひひゃっ、ひゃはははははっ!」
闇夜の町に飛び出してきた人影から高笑いが聞こえてきた。テオは思わずため息をつく。
あの女はやはり自分の弟が犯罪行為に関わっていた事実に動揺して重要な犯人を取り逃がしたようだ。いつまでたってもツメが甘いのは治らないらしい。それが自分の命に関わる悪癖だと、なぜ気づかないのだろう。
「……また後で、だな」
これが終わったら小言でもなんでもいって矯正してやらねばならない。
コートの中から拳銃を取り出して、暗闇を走る男にむける。
S&W社M38はアルミ合金製フレームで軽量化されたリボルバー銃だ。その軽さからエアーウェイトとも呼ばれている。
頻繁に使うわけでもないし、耐久力も望まない。持ち歩くなら軽いほうがいいからテオはこの銃が好きだった。
パァンッ、と腹に響く乾いた音がする。
エアーウェイトといえど発砲時の衝撃はそれなりにある。実弾を撃つといつも手が痛い。
「ひゃがぁっ?」
さっきまで笑っていた男がよくわからない悲鳴をあげて地面に倒れた。
「お前が梶山陸か?」
たずねても、男はひぃ、とかがぁ、とか意味のない悲鳴しか口にしない。
「……間違いないな」
苦痛に歪む顔を見て、直樹が言っていた男であることを確認する。
陸がテオを睨みつけた。
「お、お前っ、なんだよっ、なんなんだよっ!」
彼が痛みに身もだえると足から血が飛び散る。生臭い鉄の臭いがした。
「黙っていろ」
テオはこの臭いが嫌いだ。気持ち悪くなってくる。
口を開くのもおっくうだったので暴れだそうとする男をとっとと黙らせることにした。
「ぐぇっ……!」
陸の後頭部を思いきり銃のグリップで殴りつける。男はカエルが潰れたような声をだし、脱力して動かなくなった。
「さて……」
気絶しているのを確認したあと銃をコートの中にしまいこみ、男の襟首を掴む。脱力した男を引きずりながらドアが破壊された倉庫へ向かった。
獣の吠える声やうなり声が壊れたドアから聞こえてくるが、壁が防音になっているらしく思ったほど騒がしくはない。
「姉さんっ、大丈夫っ? 姉さんっ!」
それよりも直樹の悲鳴のほうが耳ざわりだった。
少年の横には出血した肩口を押さえて座りこむ祐未がいる。おおかた大事な弟をかばったのだろう。まったくバカな女だ。
「姉さんっ……姉さんっ!」
そして姉がバカなら弟もバカだ。こんな場所で名前を呼び続けても祐未の怪我が治るわけではない。
テオが今まで掴んでいた男の襟首をはなし、二人に近づく。
すぐ後ろで気絶した男が頭をぶつけるゴンッ、という音がした。
「下がってろ、足手まとい」
直樹がぱっと顔を上げる。
目には涙がたまっており、いますぐに零れそうだ。情けないツラだと笑ってやりたかったが、きっとそれをすれば祐未に殴られるだろう。
当の祐未はテオの顔をみてこの上なく嫌そうな顔をする。
「げっ」
失礼なヤツだ。緊張感のなさに思わず笑ってしまう。
クスクスと笑い始めたテオの足に直樹がしがみついた。今にも泣き出しそうな顔でテオのズボンを掴んでいる。
「姉さんを助けて!」
プライドがないのだろうか。緊急事態だと判断してプライドをかなぐりすてたのだろうか。多分後者だろう。
「残念だが、俺も戦闘に関してはお前とおなじくらい足手まといだ」
折角の決意なのに申し訳ないがテオは祐未を助けてやれない。
戦闘技術をたたきこまれたのは祐未だ。テオは非人道的な実験や研究のやりかたや聞きたいことを無理矢理他人から聞き出す技術くらいで、戦闘技術の知識など皆無に等しい。
「はっ、ずいぶん深い傷だな。大丈夫か?」
周りからは煩いくらいのうなり声が聞こえてくる。どうやら獣に囲まれているらしいが、奴らも自分たちを警戒しているようだ。
怪我をした祐未の肩を掴むと女がかすかに眉をひそめた。声を上げないだけ立派だが褒めようとは思わない。
「……あんた、三月兎じゃないのか……?」
直樹が、テオから少しはなれてぽつりとつぶやく。
「祐未、教えたのか」
テオがたずねると祐未は勢いよく首をふった。確かに弟に普通の生活を送って欲しいと願うこの女がよけいなことを教えるとは思えない。
ということはウイルスや姉のことと同様自力で調べたのだろうか。そのわりには情報が不確かだが、ウイルスの情報よりも厳密に管理されているしその名前を知っているだけ感心するべきと言ったところか。
もしかしたら偶然そう呼んでいただけかもしれない。
日本人なら銀髪赤目で飛び跳ねるとなれば兎という動物にたどりつくだろうし、そこから三月兎という単語を思いついてもおかしくはない。ICLOでも三月兎という呼び名を使い始めたのは日本文化に詳しい男だった。
「三月兎は俺じゃない」
テオの言葉を聞いて直樹は不思議そうに首をかしげた。その動作はよく祐未がやるクセとそっくりだ。やはりはなれて暮らしていても姉弟だということだろう。
男が笑って祐未を見る。彼女の表情は心なしか強ばっていた。
それはそうだろう。
誰だって大切な人間に無様な姿は見られたくない。
「祐未」
けれど今やらなければいけないとわかっているから、彼女は抵抗しなかった。いつだって彼女はやらなければいけないことを理解しているからテオに抵抗したりしない。
結構なことだ。祐未のそういうところは気に入っている。
「いっ……!」
祐未の肩を揺らすと今度こそ悲鳴を上げた。少し力を入れすぎたらしい。
テオが女の鼻先に触れるほど顔を近づけて、ニヤリと笑ってみせる。
痛みにこらえながら、祐未がテオを睨みつけてきた。
「
」
祐未の体がビクリと跳ねる。
傷ついた肩の痛みを意に介した様子もなく、彼女は眼鏡の奥にある黒い瞳を見開いて天井を見上げた。手足が痙攣しはじめて瞳孔が大きく左右にブレる。
それは何度見ても不思議な光景だ。
きっと初めて見る直樹にはもっと不可思議に映ったことだろう。
「……え……」
祐未の髪が、肌が、目が、みるみる色を無くしていく。
黒かった髪は透明かと見まごうほど白くなり、肌もテオと同じくらい白くなる。
目は鮮やかな赤に変色した。赤い目が左右に大きく揺れはじめる。
視線があわない。
口が開いて、そこから咆吼が吐き出された。
「ぁあああぁああああぁああああああぁああああああぁあああああぁっ!」
白い髪、白い肌、左右に激しく揺れる赤い瞳孔。口から吐き出されるのは意味のない獣の咆吼だ。
「三……月、兎……?」
直樹が恐る恐るつぶやくが、祐未の咆吼にかき消されてしまった。
驚いている彼の横に歩みより、テオは言う。
「お前はA-10の最も重要な特性を理解していなかったようだな」
ウイルスのデータの中でも特に厳重に管理されていたから気づかなくても仕方ないだろう。
「このウイルスは、当初の二週間こそ風邪に似た症状や反射亢進の激しい痛みに悩まされる。毒素によってシロチナーゼが破壊され、その後も生成されない。そのため色素が完全に欠乏した外見的特徴を見せるが、二週間のち感染者が生き残っていれば症状は消え、ウイルスは感染者との共存を始める」
祐未が吠えた。体がビクビクと痙攣して白くなった肌に血管が浮き出る。
直樹は驚いて、なかば怯えているようだ。
「そうすると症状は消えるが、シロチナーゼは回復しない。だがウイルスの生成する酵素が色素の代行をし、紫外線耐性および外見はシロチナーゼを破壊される前と変わらない状態になる」
油断するとテオの声もかき消えそうだ。横にいる直樹は、必死に男の声を拾おうとしている。
自分の姉になにが起こっているのか知りたいのだろう。
「宿主が興奮するとウイルスが活性化し、扁桃体の動きを活発化させる。その時の腱反射や瞳孔反射の亢進は二週間苦しんできたものをはるかにしのぎ、視力に関してはほぼ失明状態となるが、運動能力および視力以外の五感は向上する傾向が見られる」
周りでうなっていた獣たちが祐未の咆吼に怯えたようにうなり、声を小さくした。
「その時発生する反射亢進は、ウイルスが生成する酵素のためだ。色素の代行をしていた酵素が宿主の興奮とウイルスの活性化によって働きを変える。すると色素の代行をしなくなり、当然宿主の外見も変化する」
肩口から血をまき散らしながら祐未が立ち上がった。敵がどれなのか彼女はちゃんと理解している。
「祐未はウイルスと共存する唯一の成功例だ」
テオがクスクスと笑うと直樹にギロリと睨みつけられた。
姉が実験体で、しかも物騒なウイルスの保有種とあっては良い気分はしないだろう。しかしテオは笑いを止めるつもりはない。
「ここまで来るのには苦労したぞ」
祐未が体勢を低くして戦う準備を整えた。こうなれば彼女は敵を全滅させるまで暴れるだけだ。
「パブロフの犬の実験を知っているか?」
犬にメトロノームを聞かせ、そのあとエサを与えるという行為を繰り返す。すると犬はメトロノームの音を聞いただけで唾液を出すようになるというものだ。多分祐未は知らないだろうが、直樹なら知っているだろう。
「それと似たようなものだ。
「そんなっ……」
「本来の効果は望めないが、あいつ自身もジンクスのように使っているな」
テオを見る直樹の目は認めたくないものを目の前にした恐怖と侮蔑に彩られていた。どれだけ姉の状況を否定したくとも目の前で起こっている出来事を否定はできまい。
「がぁああああぁああああああああああぁああああぁああああああああああぁっ!」
祐未が一際大きく吠えた。そして、低い体勢のまま大地を蹴って、一気に走り出す。
「姉さんが……三月兎……」
直樹の声はどこか絶望したような響きだった。
「ああ。三月兎はお前の姉だ」
今の彼女はまさに三月兎という呼び名がふさわしい。
本来三月兎というのは、ジョン・ヘイウッドの辞典に収録されている『三月兎のように気が狂ってる』という慣用句が由来だ。繁殖期間が始まる二月の終わり頃、兎の雌がいきり立った雄を前足ではねつける。その時の狂ったように飛び跳ねる姿こそ、三月の兎は頭がおかしいと言われる所以なのだ。
だから気が狂ったように敵を攻撃する祐未は――三月兎に違いなかった。
「キャンッ」
祐未が走っていった方向から犬の悲鳴が聞こえる。幾重にもうなり声や鳴き声が重なって、その間から微かに祐未の咆吼が聞こえてきた。
「がぁあああああぁあああぁああぁああっ!」
襲いかかってくる獣をさけて横腹を蹴り上げる。
大地を蹴って空中へ飛び上がりそのまま足下にいた猫を踏みつけた。
「にぎゃぁあっ」
耳を塞ぎたくなるような猫の悲鳴が聞こえる。
次に彼女を襲ってきたのは人間の女だった。
「がぁあああぁあああぁああっ!」
白銀の長い髪を振り乱して祐未に襲いかかってくる。
頭からつっこんでくる相手に対し祐未も頭から相手につっこむ。頭突きの形になるのは当然だった。ゴンッ、と鈍い音がして長髪の女が倒れる。
祐未が白いワニの頭を踏み台にして赤目のヘビに食らいつく。白いヘビは空気をきり裂くような鋭い音を出したがすぐ聞こえなくなった。細長い胴体が二つに分断されて地面に落ちる。
食いちぎられたのだ。
「ぐぁるぅぅぅぅぅぅぅぁあああああああっ!」
祐未の口からもれたうなり声に意味はない。唾液をまきちらしながら歯をむき出しにする姿は、敵の獣と変わらない。
祐未の腕に人間の女が噛みついてきた。それを地面に叩きつけ、馬乗りになって殴りはじめる。
充満する鉄と獣の臭気にあてられたらしく、直樹が口元を押さえてうつむいた。
「……うっ……」
祐未の咆吼が聞こえてくる。
「姉さんは……なんでこんなふうに……」
女であることも、人間であることさえ捨てた咆吼。
彼女がこんな風になった理由は一つだけだ。
「お前を守るためだよ」
テオが教えてやると、直樹が驚いて男を見つめる。
そしてもう一度獣のように戦っている祐未に視線をむけた。
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