第15話 偏執病の知りたがり

 祐未の携帯電話にテオから連絡がきたのは午後七時を少しすぎた頃だった。


「ンだよ?」


 その時祐未はJR駅前から少しはなれたファーストフード店で夕食をとっていたところだった。赤い紙の容器に少しだけ入っていたフライドポテトをすべて口にほうりこんで電話の向うにいるであろうテオに声をかける。


『食べながらしゃべるな』


 電話越しにテオの小言が聞こえてきた。どうやらもとの調子に戻ったらしくあきれたような口調だ。


「飯食ってるときに連絡するてめぇが悪ィんだろ」


 窓側のカウンター席には直樹の後ろ姿がある。さっきまでは友人と電話していたようだが、今は静かに夕食を食べていた。こんな時間まで外をうろついていていいのかと心配になったが近寄るなと言われた以上祐未に声をかけることはできない。仕方がないからこうして少し近くで様子を見ていた。


『そこに直樹がいるだろう』


 テオが直樹を名前で呼ぶのは珍しい。だいたいはガキとかクソガキとか祐未の神経を逆なでするような呼び名を使うのに。


「……おぉ、それがどうしたよ?」


 少し戸惑ったが、テオが直樹に拷問できないことは確信しているので正直に返答する。電話越しにクスクスと笑い声が聞こえてきた。


『今回の騒動の犯人に会わせてくれるそうだ。ついていけ』


「……は?」


 祐未が裏返った声をだすと直樹が突然席から立ち上がった。


『さっき連絡をつけたら、喜んで協力してくれるとさ。俺が思ったとおり、やはりそのガキは一枚かんでたようだ』


「え? なに? 犯人って、サンプル盗んだやつ? 直樹の知り合い?」


『いいからお前は黙って直樹に案内してもらえ。話はそれからだ』


 直樹が祐未に近づいてくる。その顔に怒りはなく、でも無表情だった。

 思わず身を固くしてしまう。ずっと会っていなかったとはいえ、いや、ずっと会っていなかったからこそ、弟に嫌われるのは嫌だ。


「おい、まてよ、テオ、どういうことだよ!」


『またあとで』


 テオに詳しく事情を聞こうとするが、その前に向こうが通話を終了してしまう。

 まばらにいる人のあいだを縫って直樹が祐未の目の前に立った。


「あ……」


 無表情を貫く弟になんと言って良いかわからず、口を開いただけで硬直してしまう。もっと頭の回転が速ければいろいろなことを言えたかも知れないのに。

 言葉を探す祐未に、直樹は無表情のまま言った。


「ウサギ野郎と、取引してきた」


 ウサギ野郎というのはテオのことだろうか。あの銀髪赤目を指してそう言っているのならなかなか良いネーミングセンスだ。自分もあとでそう呼んでからかってやろう。ぼんやり、今の状況とはまったく関係ないことを考える。


「いくよ」


 いつまでも動かない彼女に業を煮やしたのか、しばらくして直樹が乱暴に祐未の腕を掴んだ。


「あっ、おい、直樹……」


 つられて立ち上がり直樹のあとについていく戸惑う祐未を直樹はなにも言わず店の外に連れ出した。


「なあ、テーブルまだ片づけてねぇんだ」


 そういったら直樹は


「ばか」


 と一言だけいってまた歩き始めた。どうやら立ち止まってくれる気はないようだ。


「どこいくんだ?」


 これではどっちが年上なのかわからない。少し恥ずかしかったが、腕を振りはらおうとは思えなかった。


「ウサギ野郎からさっき聞いただろ」


 直樹に連れられて歩く道はどこかで見た覚えがあった。駅からまっすぐ続く大通りを通って、半ばシャッター街と化した商店街に入る。


「だって犯人ってなんだよ。なんで直樹が知ってんの?」


 これから自分がどこに連れていかれるかわからなくて思わず声をあげる。

 直樹はちらりと祐未に視線をやると、すぐ前を向いた。


「色素の薄いハ虫類とか魚って、普通より高額で取引されるんだ。知ってる?」


「え? あ、うん……」


 祐未には話の流れがわからなかったが、たずねられたことには答える。

 直樹は歩きながら淡々と話し続けた。


「一部の例外をのぞいて、色素の欠乏は劣等遺伝で引き起こされる。だからそういう個体はすごく貴重なんだ。でも、それを人工的に作れたら大もうけだよね?」


 見覚えのある建物の前で直樹が足を止めた。少し広い敷地内に、平均的な建て売り住宅と大きな倉庫がある。斜め向かいにはCDショップ。

 陸のペットショップ兼自宅だ。


「陸っ、陸いる?」


 あ然としている祐未の横で、直樹が乱暴に家のドアを叩いた。返事はない。


「ははっ、あの野郎、こういう勘だけは鋭いんだ」


 なにがおかしいのか、直樹がケタケタと意地悪く笑う。そしてゆるりと視線を動かした。


「でもあいつ一人だと、いつもツメが甘い」


 視線の先にはほぼ半分をブルーシートに覆われた倉庫がある。窓にはうっすらと明かりが灯っていた。


「いこうか」


 意地の悪い笑みを浮かべたまま直樹が淡々と祐未をうながした。その笑顔がテオににていると思う。他人を見下すような笑顔だ。


「最初は魚とかハ虫類とかそういうのを売ってたんだ。観賞用として定着してるからさばきやすいし、愛好家なんかもいて、高い金で売れるから」


 直樹が倉庫に真っ直ぐ近づいていき、扉に手をかけるが、カギがかかっていて開きそうにはなかった。


「貸してくれ」


 見かねて祐未が扉に手を伸ばす。カギのかかった扉が音を立てた。


「ここあけりゃいいんだなっ……!」


 直樹の返答を聞かず、祐未が思いきり取っ手を引っ張る。バキバキバキッ、と嫌な音がして扉がはがれた。

 金属や木片が地面に落ちて耳ざわりな音を立てる。無視して倉庫の中にはいると白熱電球がうっすらと内部を照らしていた。電球が照らす範囲はあまりに狭く、広い倉庫の全ぼうを見ることはできない。


「ペットショップの、倉庫ねぇ……」


 ざわざわと生き物が動く気配がする。微かなうなり声や鳴き声もそこかしこから聞こえてきた。中には人のような声も混じっているようだ。


「こんな悪趣味なペットショップ見たことねぇぞ」


 祐未の言葉に直樹は眉ひとつ動かさない。倉庫の中を見ても驚いた様子はなかった。ただまっすぐに倉庫のある一点を見つめている。


「直樹……?」


 気づいた祐未が呼びかけるがそれにも反応を示さない。代わりに、直樹が見つめる闇の向こうから男の声が聞こえてきた。


「あれぇ、直樹ぃ、どうしたのこんな夜遅く」


 聞き覚えのある声が、嫌味なほどにわざとらしい口調で笑い声を響かせる。


「今日はバイト入ってないだろ? こんな薄暗いところに女の子連れてきたりしちゃだめだぜー」


 暗がりの中でゲラゲラと笑う陸の表情をうかがい知ることはできない。祐未に向けられた言葉ではないのに聞いているのがひどく不快だった。

 以前あった陸は、こんな男だっただろうか?

 会話したのも一緒にいたのも一時間たらずではあったが、あまりにも変化が激しすぎて戸惑わざるを得なかった。見た目だけを残して性格だけが他人と入れ替わってしまったような感覚。今の陸ならテオのほうが動機を理解できるぶんまだ可愛げがある。

 だが戸惑っている祐未とは違い、直樹のほうは口元に笑みすら浮かべて陸を睨みつけていた。

 彼の内面を、直樹は知っていたらしい。


――「ただ尊敬してないだけだよ」


 以前陸を紹介されたとき、直樹の言っていた言葉を思い出した。

 なら、なぜ直樹はここでアルバイトをしていたのか?


「……祐未、周りをよく見てよ」


 口元に笑みを浮かべて陸を見すえたまま、直樹が祐未に語りかける。あわててあたりを見回す祐未の耳に、陸の声が聞こえてきた。


「直樹ぃ、本当にどうしたんだ? その子に全部教えてどうする気なんだよ?」


 陸の人を見下すような笑い声が聞こえる。傷つけられるまえに傷つけるテオのような嘲笑ではなく、ただ人を見下すこと自体に喜びを見いだす笑いだ。

 祐未が暗闇に目をこらしているのを確認し、直樹が口を開いた。


「……メラニン色素の欠乏した個体は、観賞用として高く売れる。それだけで非公式とはいえ国際任意組織にケンカを売るのはバカらしいけど……一度手に入ったなら、それを利用して金儲けをしない理由はない」


 陸の笑い声が聞こえた。

 薄暗い中で目をこらしているとぼんやり周りの様子が見えてくる。周りにはペットを飼育するゲージが置かれていた。赤い目と色素のない白い毛並みや肌を持つ、ありとあらゆる生物がゲージに入ってうなり声や鳴き声をあげている。ゲージの大きさは大小さまざまだったが、どれも頑丈な檻のようだった。

 まあ、これが祐未の知っているウイルスで人工的に作り出されたものなら、そうでもしなければ逃げ出されてしまうだろう。


「そうだな。お前がその話を俺に持ってきてくれて感謝してるよ。直樹ぃ」


 陸はクスクスと笑いながら言葉を吐き出す。祐未があわてて動物たちを観察していた目を直樹に向けると、彼は相変わらず笑みを浮かべたまま陸を睨みつけている。


「横にいる子は、やっぱりお前のお姉さんなんだろぉ? じゃなかったらお前がこんなトコロまで連れてくるはずないもんな!」


 そんな馬鹿な。

 なんで知ってる?

 直樹はまさか、テオに教えてもらったのだろうか。ファーストフード店で直樹が電話していたのはどうやらテオだったようだから、その可能性はある。

 そうだとしても、なぜ陸が知っているのだろう?

 教えるタイミングはなかったはずだ。そもそもなぜ直樹が陸にそれを教える必要がある?


「……僕が知ってるのは、ペットから人工的に色素を抜いて取引してたところまでだ。人間の色素まで抜いて、どうする気だったの?」


 直樹が淡々と陸にたずねる。あまりに非道な言葉だ。祐未は思わず目眩がした。

 色素を抜くなんて、あのウイルスに感染して出る症状はそれだけではない。

 発病すれば二週間近くは腱反射と瞳孔反射の亢進や、不安感や興奮性に苦しみ、シロチナーゼが生成できないがため紫外線に怯えながら、やがて脳の皮質を破壊されて呼吸障害によって死亡する。ICLOの研究によって死亡率は下がったが、それでも致死率が高いのに代りはない。幸運に恵まれなければ、二週間以内に死に至る。


「今まで見たことないような大金を積まれて、人間のアルビノを作れないかっていわれたら作るしかないだろ? しかも相手は、今までの客と違って寿命が短くても多少暴れてもいいってんだから、乗らない手はない」


 たった二週間。

 それだけのために生かされるというのだろうか。

 人間もトカゲも魚も犬も猫も関係なく、その二週間のためだけに身をさくような痛みにさいなまれ、光や風や水が体に触れることに怯えながら、短い人生を苦しみ、刹那的な愛玩のために生かされるのだろうか。

 祐未の喉から怒鳴り声がはき出される。


「なっ、直樹いぃぃっ! てめぇ、こんなことにホントに協力してたのかっ? お前が話をもってきたってのは本当かっ?」


 それでは、ジュリアンにもてあそばれていた自分と、このゲージに閉じこめられた動物たちはなにも変わらないではないか。

 視界のはしでは、猫や犬、トカゲのような生き物がゲージの中で暴れていた。

 人間の声も混じっている。

 多分、さっき言っていたように大金を積まれて作ったのだろう。

 二週間しか生きられない希少生物を。


「ああ、お姉さん! 直樹くんを責めないでやってください! そいつは、貴方に会うために必死だったんです! 善悪の区別なんてつかなかったんですよ!」


 嘲笑うようなからかうような陸の声が、祐未の耳に突き刺さる。


「直樹っ!」


 無視して弟の名前を呼ぶと、彼はゆっくり祐未のいる方向に視線を向けた。けれど口は開かず、さきほどの嘲笑さえかき消えた無表情でただ祐未を見つめている。

 聞こえてくるのは、陸の出す意地悪い声だけだ。


「騒ぎを起こせばお姉さんが会いにきてくれると思ったんだもんな? 直樹はお姉さんに会いたいがために、犯罪に手を染めていたんですよ! なんて健気な子だろう! お前は俺を利用してるつもりだっただろうが俺だってテメェの事利用して金儲けしてたんだよぉおおおぉおおあはははははははははっ!」


 耳ざわりな声は途中から高笑いに変わり、呼応するかのようにゲージの中にいた獣たちがはげしく暴れ始める。獣たちはウイルスが与える不安感と興奮性の影響か、凶暴さが増していた。ゲージをあければいますぐにでも襲いかかってくるだろう。


「お姉さん、直樹君は情報収集に関して異常な才能を持っていましてねぇ、ハッキングなんかも大得意なんですよぉ? ぜぇえぇんぶお姉さんや、死んだ父親母親のことを知りたい一心で、一生懸命練習したんです! 感動じゃないですかぁ! 俺もこいつの身の上話を聞いたときは、危うく涙が出ちまいそうになりましたよぉお!」


 陸が耳ざわりに笑う。

 なんだ?

 あの男はなにを言っている?

 直樹がハッキング?

 そうしたら、ICLOからウイルスのデータを盗んだのは直樹ということになってしまう。

 一介の高校生が、そんなマネできるはずがないじゃないか。

 自分の立場も忘れて、祐未は必死に陸の言葉を否定し続ける。

 はやくあの男を黙らせなければと思いながらも、体は思うように動かなかった。

 わかっているのだ。

 こんなうなり声をあげる動物だらけの場所で顔色を変えない直樹が、犯人の居場所を知っていて案内できるような直樹が、事件と無関係のはずはない。

 感染者に噛まれて発病しなかったのも、水島とテオの会話を盗み聞いただけで状況を的確に把握できたのも、祐未がICPO特別捜査官だと言われたときすんなり受け入れられたのも

 多分全部、はじめから知っていたからだ、と。

 はじめから知っていて動物にウイルスを注入して色素を抜くことが目的なら、自分が感染しないよう事前にワクチンを摂取するだろう。そしてワクチンがあれば感染後のワクチン接種もたやすい。だから直樹は発病しなかった。だからテオは直樹を怪しいと思った。


「陸……僕は、お前が人身売買までしてるなんて知らなかった。僕は知らないことが一番嫌いなんだ」


「ああ、知ってる知ってる! でも、人身売買まできたらさすがにお前、怖じ気づいちゃうでしょ? お姉ちゃんに会いたいだけなんだから!」


 でも直樹がはじめからすべて知っていたというのなら、この騒動の大本が直樹だったというのなら、その種をまいたのは祐未なのだろう。


「この倉庫に大穴が開いたのは、お前のずさんな管理のせいで商品が逃亡したからだろ。どうせ僕のいないあいだにとっとと注文数の人間をそろえたくて急いでたんだ。店のパソコンを確認したら、取引の痕跡があったよ。僕に隠せるとでも思ってたの?」


 だって陸は何回も、直樹はお姉さんに会いたかっただけだと言っている。祐未が直樹になにも教えずにいたから直樹は自分で調べるしかなくて、情報収集に執着した。

 それは祐未も直樹から聞いている。ただ祐未が思っていたよりも、直樹の執着は強くて、犯罪にまで手を出していた。つまりそれは直樹が罪を犯したのは、祐未のせいだということだ。


「そのとおりだけど、逃げた商品が殺されたのは俺のせいじゃない。俺にはあんな化け物殺す力はないしね。それはお前のお姉さんが関係してるんじゃない?」


 混乱していた祐未はビクリと体を震わせた。直樹がまっすぐに自分を見ている。

 彼は、祐未が血の繋がった姉だと知っていたらしい。

 呆然と立ちつくす祐未になにを思ったのか、無表情のまま直樹が彼女に向き直る。ちょうど陸に背を向ける形になったが不安ではないのだろうか。

 祐未の心配をよそに、直樹は口を開いた。


「……驚いてる? 僕がこんなことしてたって知って」


 彼の問いに祐未はどう反応していいかわからない。直樹も特に返答を期待している様子はなく、淡々と言葉を紡いだ。


「昔から、家族のことも、家族が死んだ事故のことも覚えてない自分が、すごく悔しかった」


 あの事故は直樹も祐未も小さい頃に起こったのだから覚えていなくてムリはない。それにICLOから日本に帰されることになった直樹は故意的にそれまでの記憶をうやむやにされている可能性がある。


「覚えてないことが悔しくて、ずっと調べてたよ。事件のことも家族のことも、最初は図書館で新聞記事を探して、ドイツで起こった事件だって知って、当時の記事を読むためにドイツ語勉強して、とにかく話を聞ける人からは話を聞きまくって、外国の人に話を聞きに行くわけにはいかないから、勉強したドイツ語でメール打って、目撃者がドイツ人だけじゃないって知って、今度は英語を勉強して」


 陸を、陸をはやく捕まえないと。

 でもそのあとはどうする? 直樹を捕まえるのだろうか。

 弟の直樹を?

 普通の生活をしてもらいたいと願っていた弟を非日常に引きこんで、その上これ以上の苦痛を強いると?

 きっと祐未には無理だ。


「人に話を聞きまくってたらいつのまにか知り合いが増えて、情報収集したいならもっと効率的にやれって、いろんなこと教わって、気がついたら他人のパソコンに侵入してデータ盗めるくらいにまでなってた。そこでやっと姉さんは生きてるって、僕に普通の生活を送らせるために、ICLOとかいうのと取引してたってことを知ったんだ」


 直樹の目がぎらりと光って、祐未を見すえる。

 わき水のようにわいてくる怒りと、許容量をこえて怒りを通り越してしまった少しの憎しみと、ぬぐい去れない愛着とがない交ぜになった視線。どこかテオの視線に似たその剣幕に祐未は思わず一歩後ずさった。


「僕を守るために、僕になにも知らせないで、全部一人で背負いこもうとしてるなんて許せない! 僕のことを守りたいと思ってるならそれでもいいけど、それなら知ってること全部教えてよ! それが出来ないなら、最初から守られなくても良い!」


 自分の行動理念を、一番否定されたくない人間に、真正面から否定される。祐未の足下がガラガラと音を立てて崩れてゆく。


「もう、なにも知らないでおいていかれるのは嫌だ!」


 でも直樹、お前にはなにも知らないまま普通の暮らしをさせたかったんだ。

 それは祐未の願いで、けれど拒絶されて崩れてしまった。

 何もしらないのが嫌だというのなら祐未は直樹になにをしてやるのが最善だったのだろう。


「だから、あの三月兎から連絡がきたときも姉さんと一緒にいられるようにしてくれれば、僕の持ってる情報は全部渡すっていったんだ!」


 勝ち誇ったように直樹が笑う。

 誰に勝ったのか?

 それは当然、今まで直樹にすべての真実を隠してきた祐未に決まっている。

 直樹は今、祐未に……自分に全てを隠してきた姉に勝ったのだ。負けた祐未は狼狽するしかない。


「なっ、バカか! あたしと一緒にいるって、どういうことかわかってんのかっ?」


 この勝利は直樹にとって良いことなのだろうか?

 祐未と一緒にいるということはいつICLOの実験体にされてもおかしくないということだ。いつ犯罪行為を強要されてもおかしくないということだ。祐未がテオと取引してまで救い出した地獄に、直樹は自分の足で戻ろうとしている。


「うるさいっ! 知ってるよそんなこと! 何年あんたのこと調べまわったと思ってるんだ!」


 直樹の声は叫び以外のなにものでもなかった。泣きわめく幼児にも似たその声は、きっと唯一の肉親である祐未に向けたSOSなのだろう。


「これでアンタの望む『なにも知らない僕』はいなくなったし、これからはずっとアンタのそばにいる!」


 気づかなかった祐未の負けだ。気づかなかった祐未は家族失格だ。


「僕の気持ちを知らなかったアンタの負けだ! ざまあみろ!」


 だって祐未がすべてを隠していたせいで直樹は犯罪行為にまで手をだすようになってしまった。よかれと思ってとった祐未の行動はすべて裏目にでていたのだ。

 でも、ならどうすればよかったの?

 直樹と緒に地獄を生きぬけば良かったのだろうか。犠牲者は一人でいいと言われたのにも関わらず?

 きっと、それも祐未にはムリだった。

 こうなることがわかっていても、祐未は何度だって直樹の代わりに自分を差し出すだろう。


「あららぁー、折角再会したのに、ケンカかよ?」


 突然、直樹が背を向けた暗闇からケタケタと不快な笑い声が聞こえた。

 そうだ。あいつを捕まえないと。どうも直樹のことがショックすぎて頭も体もうまく働いていないようだ。ただでさえテオにはワラが詰まっているなどといってバカにされる出来の代物だ。まともに動かなくなったらどうなるのか想像するだけで恐ろしい。


「てめぇ、このクソ野郎っ!」


「女の子がそんな言葉使いじゃいけないよぉ?」


 ケラケラと不快な笑い声を響かせながら、陸が後ろ手になにかを引く。

 ガチャリ、と音がした。

 多分勝手口かなにかだろう。逃げる気だ。


「待ちやがれっ……」


 ガチャリ、とまた音がする。

 なぜだ? 開く扉は一つのはずなのに、なぜまた音がした?


 ガチャリ、ガチャリ、ガチャリ、ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ!


 けたたましい金属音が鳴り響いて、そこかしこから聞こえる獣のうなり声や鳴き声が大きくなる。


「なんの用意もなく悠長に話してるとでも思ってたのか? ばぁああぁか!」


 不快な笑い声とともに、乱暴な音を立ててドアが閉まった。


「陸! 待て!」


 その音で金縛りから解放されたように直樹が走り出す。

 獣のうなり声がさっきより近くで聞こえた。

 さっき、けたたましい音とともに開いた扉は一つではない。祐未の背後にある扉は破壊されて打ち捨てられているから開くはずがないし、陸が使った勝手口だけでは数が足りない。


「直樹!」


 ならなんの扉が開いたのか?

 簡単だ。

 不安感と興奮性で攻撃的になっている獣どものゲージが開いたのだ。


「……っ!」


 陸を追いかけようとした直樹の目の前に、赤い目を光らせた犬が飛び出す。

 鋭い歯がずらりとならんだ口を開け獲物に向かって襲いかかる。直樹が危ない。

 だから祐未の体は、その時勝手に動いていた。


「どけっ!」


 乱暴に直樹の手を引きながら体を一回転させ、遠心力で直樹の体を自分の背後に放り投げる。


「祐未っ!」


 背中からバリバリと嫌な音が聞こえて肩口のあたりに何かが食いこんだ。湿った息と唾液が背中にあたって不快だ。犬の鋭い歯が、血管と肉を傷つける。犬の唾液と一緒に祐未の血が背中を伝った。


「グァルルルルルル!」


 犬のうなり声がする。噛みつかれた肩口に強烈な痛みが走った。首を振って肉を食いちぎろうとしているのだろう。犬が祐未の背中に爪を立てているのも、痛みの原因だ。


「ぎっ……」


 祐未の血と犬の唾液が混ざり合って背中を伝う。それが傷口の上を滑り落ちてさらに痛みが増した。


「うわぁあああぁああぁあぁっ!」


 直樹が叫ぶ。

 今なら壊れたドアから逃げられるだろう。

 どれだけ傷ついても訓練も受けていない獣どもに負ける気はしない。だから今のうちに逃げろ、と直樹に伝えようとした。

 口を中途半端に開けたまま直樹を見る。

 それは見ようによっては酸欠の金魚か死ぬ直前の人間に見えたかも知れない。

 でも、きっと直樹にそう思う余裕はなかっただろう。


「姉さんからはなれろぉぉぉぉぉぉぉぉおおっ!」


 彼は祐未が逃げろというよりも先に走り出していたのだ。


「キャンッ!」


 赤目の犬は横腹に思いきり蹴りを入れられ、悲痛な叫び声をあげる。そのまま祐未の体を離し、二、三度地面に叩きつけられたところで体勢を立て直した。


「姉さん、姉さんっ!大丈夫っ?」


 叫んでいたときのさまざまな感情が入り交じった視線とは違う、ただ純粋に相手を心配して気遣っている目だった。


「おっ、おう……大丈夫、だぜ……!」


 少し背中が痛い。


「姉さんっ!」


 直樹の目にみるみる水の膜が張られていく。

 祐未は弟が泣くのを見るのは嫌だった。なんとか元気づけようと笑顔を見せる。そのまま立ち上がって無事をアピールしようとしたが、背中の痛みが邪魔をしてしばらく立ち上がれそうになかった。

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