第12話 ICLO
その時祐未が最初に感じたのは痛みだった。身体中に針を突き刺されたように体が痛む。そのせいでいままで混濁していた意識が浮上し、飛び起きた。
――「……?」
目に飛びこんできたのは見覚えのない白い天井で、彼女は思わず首をかしげる。
自分はなんでこんなところにいるのだろう? 家族で旅行をしていたはずだ。父の運転する車で次の目的地を目指していたのだけれど……高速道路を下りてから、それからどうした?
頭に靄がかかったようになにも思い出せない。体が重くて、とても怠かった。気をぬくと寝てしまいそうになる。実際もう一眠りしたかったが、身体中の痛みがそれを邪魔していた。
――「あらぁ、目が覚めたのね」
目を閉じてはゆっくりと開け、また目を閉じるといったことを繰り返していた祐未の頭上から女の声がする。頭だけを動かして声の方向を見ると白衣を着た金髪の女が立っていた。
――「無事でよかったわ。大怪我して、死ぬかもしれなかったのよ」
多分自分の母親と同じくらいの年齢だろう。白い肌に真っ赤なルージュがよく映える。赤で彩られた唇が笑みの形に歪んでいた。
――「ほら、この子助かったわよ。来てごらんなさい?」
その女の顔を祐未は忘れない。
彼女は優しげな笑みと口調で愉しみながら人を傷つける。テオの人生も祐未の人生も、この女に狂わされたのだ。
――「恥ずかしがり屋さんねぇ。それでも私の子供なの? テオ」
ジュリアン・マクニール
テオ・マクニールの母親であり、加虐趣味の塊のような歪んだ女だった。
――「ここは、どこですか……? おとうさんとおかあさんは……私の……」
祐未が体中の痛みをこらえて涙まじりの声でたずねると、ジュリアンはとても嬉しそうに笑って質問に答えた。
――「ここはICLOっていうのよ。あなたは今日からここで暮らすの」
――「あ……なん、ですか……?」
その意味が当時の祐未にはわからなかった。不思議に思って尋ねると、ジュリアンが笑顔を浮かべたまま答える。
――「あとで教えてあげるわね」
ICLO。
正式名称を国際総合研究機構というそこは、今でも祐未とテオが所属している国際任意組織だ。多数の先進国からの出資でウイルスのワクチン開発から兵器開発、地球温暖化対策まで幅広い研究を行っている。
ジュリアンは、当時そこの研究員だった。
彼女は頭の回転が速く道徳的なブレーキというものが存在しないので、人体実験を躊躇なく行える。まさに加虐趣味が高じて研究員になったようなものだった。
――「その前に、あなたに協力してほしいことがあるの」
――「なん、ですか……?」
体が痛くて動かせず、祐未は涙声でジュリアンにたずねる。
女はにっこり笑って
――「すぐすむわ」
とだけ返してきた。
――「テオ。ちゃんとデータをとっておいてね」
そして、横にいる祐未と同い年くらいの少年に話しかけた後、懐から小さな注射器を取り出す。
――「ちゅうしゃっ……」
悲鳴をあげると体の痛みが酷くなったような気がした。ジュリアンは相変わらずにっこりと笑ったまま優しげな声で祐未に言う。
――「大丈夫。痛くないわ……打つのはね」
そして包帯が巻かれた祐未の腕に小さな針を突き刺した。
――「……っ!」
多分祐未にとってそれが初めての『苦痛』だったと思う。それ以前に自分が苦痛だと思っていたものは、まったく大したことのないものだったのだと実感させられた。
――「ひぃぃぃっ……」
体中に感じていた痛みがさらに激しくなる。自分の声なのかも疑わしい悲鳴が口から飛び出して、意志とは関係なく体が大きく跳ねた。そのせいで、また体が痛くなる。
――「がっ、ぁっ、痛っ……いだっ……あぁああああぁあああぁああぁっ!」
体がビクビクと激しく痙攣し始め、包帯から血がにじみ出てくる。身体中に刺さっていた針がずぶずぶと音を立てて体の内側に入りこんできたような感覚だ。
ジュリアンの注射が原因だろうか。
だとしたらなぜ自分にこんな注射を打つのだろう。
――「ぁああぁっ、ぎゃぁああああぁあああああぁああぁっ!」
ジュリアンの横に立っている少年は目を見開いて祐未を見つめている。顔は無表情だったけれど足は震えていた。
隣に立つジュリアンを目だけでみると彼女の足も震えている。顔も、とても悲しそうに見えた。
一瞬だけ。
――「あぁああぁあっ、なんて可愛いのかしら! 泣いているの? 悲しいの? 私が憎い? なんでこんなことされたか知りたい? ねぇ、いきなりこんな注射打たれてあなたはどんな気分かしら? 辛い? 悔しい? 憎い? それとももう痛すぎて気持ちイイ? なんで泣いてるの? ねぇ何で泣いてるの? 教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて!」
赤に彩られた口元が今まで見たこともないくらい嬉しそうに笑みの形を作る。眉をひそめていたから悲しそうに見えただけで、表情自体はとても幸せそうな笑顔だったのだ。それがどんな表情なのか当時の祐未には理解できなかった。
『恍惚の笑み』という言葉がピッタリ当てはまるのだと知ったのは、五年くらい経ってから。テオに教えてもらったからだ。
――「ひぃっ、いぃぃいぃいだぁあああぁあああああああぁあっ!」
どのくらいそうして悲鳴を上げていただろうか。とにかく長いような短いような時間悲鳴をあげて体を痙攣させていた祐未は、しばらくしてやっと体の痛みが引いてくるのを感じた。
――「……はっ……はぁっ……はっ……」
さっきまでの痛みが嘘のように消え去っている。目が覚めたときから纏わりついていた痛みさえ消えていた。
――「あら、この薬は成功ね」
それでも祐未の涙は止まらない。声を上げて泣き出しそうになっている彼女の頭上からジュリアンの声が聞こえた。
とても嬉しそうに、彼女は言う。
――「この薬ね、怪我が普通より早く治っちゃうお薬なのよ。ただ副作用が強くてねぇ。この前の実験体はショック死しちゃったの。改良が成功したみたいでよかったわぁ」
それが自分にむけられているものなのかテオにむけられているものなのか、あるいは独り言なのか、祐未にはわからなかった。
あの薬を投与された時点でショック死していれば祐未も楽だったかもしれない。けれど運がいいのか悪いのか、彼女はその時生きのびてしまった。
だから彼女はそれ以降ずっとジュリアンの遊び道具になったのだ。
――「反射亢進ってね、神経が過敏になってすごく痛かったりするのよ。唾を飲みこんだり、風にあたったりするぐらいでも痛いって感じるくらい。このまえの実験体は使いものにならなくなったわ。でも、さっきマウスに打ってみたら大丈夫だったから、多分もう大丈夫よっ」
祐未は今でこそ表向きICPO特別捜査員ということになっているが、十六歳でその地位につくまでにはさまざまな訓練や肉体改造を行う必要がある。
――「あっ、がっ、ぎゃぁああぁああぁああぁああっ」
――「うふ、ふふふふふっ、可愛いぃぃぃぃいいっ、可愛い悲鳴ねぇっ!」
本来祐未は薬物投与や肉体改造の影響を調べるための被検体だったのだが、たまたますべての実験が成功してしまい、今まで生き残った。それで肉体労働の専門職に就かされることになったのだ。
本当に、祐未が今まで生き残れたのはたまたまで、偶然で、奇跡だった。
――「ほぉら、祐未ちゃん! そこに血だらけの男の人がいるだろう? あの人を殺せたら祐未ちゃんの痛いのをぜぇんぶ取ってあげるよ。武器は使わないで。自分だけでなんとかしなさい。どうやったら殺せるか、祐未ちゃんはもうわかってるはずだから!」
楽しそうに弾んだ声で祐未を促したのはジュリアンではなかった。ジュリアンより若い、けれど彼女と似たような歪みを持った男の研究員。彼は楽しそうに笑いながら祐未に取引を持ちかけた。
命乞いをする男を泣きながら殴り殺す祐未を見て気持ちよさそうな笑顔を浮かべていたのを、祐未は今でも覚えている。
――「……マクニール博士、薬品を連続投与すると正確なデータが取れない恐れがありますけれど」
祐未を傷つけて気持ちよさそうに笑っている人間がいるかと思えば、祐未が少し大きなモルモットであるかのように、無機質なモノのようにあつかう人間もいた。
――「あら、これくらいなら大丈夫よ。データがたりないならまた取ればいいじゃない。祐未ちゃんは丈夫なんだから!」
白衣と眼鏡を身に着けた男の冷静な指摘に、ジュリアンは笑いながら答える。
――「……わかりました」
言われた男は軽くため息をつくと人形の位置を変えるかのように無造作に、祐未の腕を掴んで引っ張った。
――「では、これより薬品を投与します」
祐未のことなどまるで気にしていない。彼にとって祐未はモルモットか人形のようなもの。自分と同じような感情はないし、実験のために用意されたのだから実験に使うのが当然なのだ。
――「ふふふふっ、祐未ちゃん泣きそうよぉ? 怖いの? 大丈夫よ、今回はそんなに痛くないはずだからぁ」
けれどジュリアンは祐未に自分と同じような感情があると理解している。きちんと理解しているから、祐未が泣きわめいたり暴れたりする姿をみて喜ぶのだ。
どちらの対応が酷いのか、祐未にはわからない。両極端な対応をされて、頭がおかしくなりそうだったのは確かだ。
――「テオ、あなたならできるわよね。私の子供だもの。死なないように痛みを与えて心を折るの」
――「祐未ちゃんなら耐えられるよ。今までだってなんとか生き残ってきたんだもん。テオくんが今から君のことをいじめるから、それにたえて。なにがあっても悲鳴以外の声をださないでね」
祐未には拷問にたえる訓練、テオには拷問をする訓練だと言って、長時間無抵抗のままテオに殴られ続けたこともあった。
あの時ジュリアンに耳元で囁かれているテオは、体全体を震わせて今にも泣きそうな顔をしていた。
――「どちらかが負けるの」
ジュリアンがテオの耳元で嬉しそうに囁く。
――「どちらかが勝つんだ」
男が、祐未の耳元で楽しそうに囁く。
――「負けたほうがどうなるかわかってるよね?」
――「負けたほうがどうなるかわかってるわよね?」
負けたほう。
負けたほうは、この二人に殴られる。
負けたほうは、この二人に蹴り飛ばされる。
負けたほうは、性格破綻者の慰み者だ。
――「うわぁあああぁああああぁああぁっ!」
叫んだのはテオだった。
手足を縛られた祐未の顔面を思いきり殴り飛ばし、そのせいで口の中が切れる。
ジュリアンはテオが祐未を殴り続けるのを楽しそうな笑顔で見つめていた。
――「やっぱり祐未ちゃん可愛いわねぇえぇ、うちの子のほうがもっと可愛いけど!」
そんないつ気が狂ってもおかしくない、いつ殺されてもおかしくない状況で、彼女は本当にたまたま生き残った。
テオが生き残ったのもたまたまだろう。
ジュリアンは、自分の息子だからといって手心を加えるような人間ではない。テオも祐未と同じようにたまたま生き残って、今はICLOで働いている。
――「ゆみ、とりひきしよう」
テオにそう言われたのはいつ頃だっただろう。出会ってからそんなに時間は経っていなかったと思う。
祐未がジュリアンの趣味に大人しくつきあったのは、最初の一回だけだ。それ以降は暴れて抵抗して、絶対に素直に従ったりはしなかった。
祐未には家族がいるのだ。家族に会わせてくれとずっと叫んで暴れ続けた。
テオが取引を持ちかけてきたのは、祐未の抵抗に研究員が辟易とし始めたころ。
――「おまえがちゃんと協力してくれれば、……てやるから」
祐未が来るずっと前からテオはICLOの実験体だった。
今まではたまたま生き残れた。だからこのあともなんとか生き残ろうとしたのだろう。
彼は昔からとても頭が良かったから。
テオが言い出したその取引のせいでジュリアンはICLOを追われた。結果がでるまで随分と時間がかかったけれど、現在ジュリアンはテオが被検体になるはずだった実験の被検体になっている。
放っておけばそのうち死ぬだろう、とはテオの言葉だ。ICLOにジュリアンを被検体として差し出したのはテオ。
母と息子の立場が逆転した場面を、祐未はすぐ近くで見ていた。
――「これであんたも終わりだ! せいぜい泣きわめけ!」
彼の顔は憎しみと悲しみと喜びがない交ぜになって、よくわからない表情を作り出していた。
それを見たとき祐未は……テオは、きっとジュリアンのようにはならないだろうと思ったのだ。
他人を傷つけるのに憎しみと悲しみが必要な人間はジュリアンのようにはならないし、なれない。
――「あんたが今までいたぶってきた奴らと同じ末路だ、悔しいだろう! これで俺は両親とも実験体なワケだ!」
テオの笑い声が、祐未には悲鳴に聞こえた。
テオの父親は誰なのか祐未は知らない。なんでも実験体の一人だったらしいが、顔を見たことはなかった。
きっとジュリアンのペットで慰み者だったのだろう。テオや祐未と大して変わらないあつかいだったに違いない。
ジュリアンは人をいたぶるのが好きで、人を苛むのが好きな加虐趣味の塊だ。子供を作ったのだって半ば無理矢理であろうことは容易に想像できる。
そんな母親に育てられたテオだから、見下される前に他人を見下し、傷つけられる前に他人を傷つけるという護身術を身に着けた。
そんなに人間嫌いでそんなに人間が怖いなら関わりを絶ってしまえばいいのに。テオにそれができないのは結局のところ寂しいからなのだということも祐未は知っている。他人が自分に従って当然だと思っているのはそう思わないと寂しくて仕方がないからだろう。
一人で死ぬのが怖いのだ。独りでいるのが嫌なのだ。
人が嫌いで人が怖いくせに、一人になるのも嫌いで独りになるのも怖いから、彼は他人を見下し傷つけながらも人の傍にいる。
テオはジュリアンにはなれない。
人を傷つけて悦に浸れるほど、強い人間ではないのだ。
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