第10話 困窮

 祐未は困っていた。今まで生きてきた中で一番だろうというくらいとても困っていた。

 直樹が怒ってしまったのだ。

 直樹が祐未を拒絶した。近寄るなとまで言われてしまった。このままでは直樹になにかあったときそばにいてやれない。助けてやれない。


「どうしよう、どうしよう……直樹が……」


 感染者に噛まれたのだからいつ発病してもおかしくない。たまたま発病が遅れているだけかもしれないのだ。


「直樹が、病気になったら……どうしよう……」


 死んでしまったらどうしよう。

 最悪の結果だけが頭に浮かぶ。

 その前になんとかしないと。

 直樹だけは、直樹だけは守らないといけない。


「なんだ、素人の尾行に気づかなかったのか?」


 直樹に拒絶された場所で呆然と立ち尽くしていると背後からバカにしたような笑い声が聞こえた。全身黒ずくめで弱視用の杖を使い歩いてくる。

 テオ・マクニールという男だ。


「うるせぇ! 今テメェの相手してるヒマはねぇんだよっ!」


 怒鳴りちらすと、男は嘲笑を浮かべたままわざとらしく肩をすくめた。

 頭にくる。こうなったのは全部この男のせいなのに人を小馬鹿にするように笑って。性格の悪い男だ。

 殴ってやりたい衝動をなんとかこらえてポケットから携帯電話を取り出す。


「もしもし、この前電話した祐未です。あの、直樹君のことなんスけど……」


『あら、刑事さん! 直樹くんがなにか?』


 電話口からは、年配女性の優しげな声が聞こえてくる。直樹が暮らしている施設の責任者だ。


「今日ちょっとケンカしちゃって。多分なんかあってもあたしのところには連絡こないと思うんで……ちょっとでもおかしいと思ったらすぐ連絡ください。すいません」


『まあ、あの子ったら……恩人になんてこと……』


 彼女は祐未に協力的だ。病院の費用は全て支払うといったら最初こそ拒否していたものの、最終的には信頼できる人徳的な人間という評価とともに提案を受け入れてもらえることになった。


「いや、直樹くんにちょっと話聞こうと思って、そン時あたしの言い方がマズかっただけです。直樹君は悪くないです。本当すいません、お願いします」


 通話終了ボタンを押して携帯をズボンのポケットにしまいこむと、タイミングを見計らったように背後からテオの声が聞こえた。


「相変わらず言葉使いがなってないな。少し勉強したらどうだ?」


「うるせぇ黙れ」


 嫌味ったらしい男の口を黙らせるために低い声で怒鳴りつける。相手には効果がないようで嘲笑とともに肩をすくめられただけだった。

 病院にも連絡しておこうと思ったが、テオの根回しでもしもの時はすぐ対応してくれるようになっている。わざわざ時間をさくこともないだろう。

 とにかく一緒にいることを拒否されてしまった以上気づかれないよう細心の注意をはらって直樹を見守る必要がある。施設の場所はわかっているから夜は近くに待期していなければならない。

 いっそのこと、こっそり忍びこんでしまおうか。

 学校は駅から少し離れた場所にあったはずだ。話をつければ学校の中にも入れるだろうが、直樹に見つかってしまえばきっと今以上に怒られるだろう。

 とにかく、今日はもう帰ろう。明日は朝から直樹の様子を見なければならない。今までのように放課後偶然を装って声をかけるようなことはできないから見つからないように気をつけなければ。


「必死すぎて気持ち悪いな、お前は」


 呆れたようにため息をつくテオの言葉はこのさい無視する。


「おい、どこにいく?」


 一番近い私鉄の駅に向かって歩き始めると、テオが背後から声をかけてきた。

 無視してもよかったのだが、そうなると後々イライラするような小言を言われるであろうことが予想できたため、嫌々ながらも答える。


「直樹になんかあったら困ンだろ。今から施設いくんだよ」


「まさか、そのまま観察しているつもりか?」


「様子見ろったのテメェだろ!」


 祐未が声を荒げると、テオがクスクスと小さく笑い出した。口元の嘲笑がいっそう強くなる。


「……必死すぎて気持ち悪いな。お前は」


「もう、聞いたよ」


 短時間に二度も同じセリフを聞いて、思わずため息をついてしまう。


「そうか、悪かった」


 テオは背後でクスクスと楽しそうに笑っていた。もう話しかけてはこなかったので、足早にその場を立ち去る。

 とにかく早く直樹を追いかけないと、なにかあってからでは遅いのだ。祐未は一晩なら寝なくてもなんとかなる。すぐ外で待期していよう。なにかあったときは施設の責任者から連絡があるはずだからすぐに対処できるだろう。一ヶ月野宿していても平気だったし、長丁場には自信がある。

 レンガ造りのこじゃれた駅はたいやきを売っているらしく、駅名よりも大きくたいやきの文字が躍っていた。

 携帯が入っているのとは反対側のポケットに手を突っこみ、サイフを取り出す。この駅から最終駅まで三百十円。最高二車両の私鉄にしては運賃が高い気がする。

 直樹はもう帰ったのだろうか。はち会わせにならないようにしなければならない。顔をあわせたらきっとまた怒られてしまうだろう。

 直樹に怒られたくない。

 直樹に嫌われたくない。

 だから絶対にもう二度と怒られてはいけない。

 学校にもあとで連絡しておこう。

 直樹になにかあったらすぐに知らせてもらえるように。

 その日は施設の駐車場で待機し、明日は学生の登校時間よりも早く高校へいこうと決めた。

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