第5話 彼女のBBC英語

 日は完全に沈みきり、明かりは太陽の光から街頭や店の明かりへと変化していた。時計を確認すると午後七時。部活帰りの学生や帰宅途中のサラリーマンなど、まだ人通りは多いが数時間すればそれもいなくなるだろう。

 すっかり汚れの落ちた学生服を着て直樹は走る。

 とにかくあの路地に行こうと思った。すでに処理はされているだろうが、あたりを歩いている人間に聞けばなにかわかるかも知れない。

 なにもしらない現状が嫌だった。

 吐き気がする。


「……はぁっ……」


 三月兎に会った路地は直樹の予想通りすでに処理がされていた。なにもなかったかのように静まり返っている。男が叩きつけられた壁だけが痛々しくへこんでいたけれど、血の跡もなければあの化け物二匹が争った形跡も壁のへこみ以外には確認できない。もう警察が入ったのだから当然だろう。

 直樹は少し考えてから大通りに戻ると、一番近くにいた男に話しかける。


「あの……昨日の夜、ここであった事件のこと、なにか知りませんか?」


「は? 昨日? なんかあったの?」


 呼び止められた男は不機嫌そうな顔で直樹をみると怪訝そうな声を出す。


「あの、男の人が一人、ここで殴り殺されたはずなんですけど」


「それならニュースでやってたけど、違うトコなんじゃねぇの? 俺昨日もここらへんブラついてたけど、そんな話聞いてねぇよ」


 この反応はおかしい。

 すでに日付は変わっているから現場が処理されていても不自然ではない。けれどだからといって事件の情報がまったく流れていないというのはどういうことだろう。男は昨日もここにいたというから、話を知らないのはいくらなんでもおかしい。小さな町だから一日であっという間に噂は広がる。それでなくても人が死んで警察が出れば野次馬くらいはよってくるはずだ。

 それさえも規制されるのだろうか?

 詳しい場所は新聞に載らなくてもだいたいの情報は載っているはずだろう。今までこの辺りで起こっていた事件だって、ちゃんと新聞に情報が……


「あの、本当になんでもいいんで、なにか知りませんか? 物音を聞いたりとか」


 いや、載っていなかった。

 今まで起こった事件も新聞の記事にはなっていたが、どこで死体が発見されたのかは大体の場所すら記されていなかった。

 小さい町なのに、噂にすらなっていない。不自然な状況だ。不気味ですらある。

 吐き気がした。

 誰も彼もが、直樹から真実を隠そうとする。


「しらねーよ」


 男が出した声はさきほどよりもっと不機嫌そうな声だ。これはマズい相手に話しかけてしまったかもしれない。

 けれどもそれよりも知りたい欲求が先にきた。


「なんでもいいんです!」


 なおもたずねると男はしびれをきらしたようで直樹の肩を乱暴に押した。


「っるせぇなっ! しつこいんだよっ!」


 とっさに体勢を立て直そうとするが足がうまく動かない。


「うわっ」


 一瞬だけ足の感覚がなかった。

 思ったように動かせない足がバランスを崩し、直樹はその場にしりもちをつく。男もまさかこれで倒れるとは思っていなかったのか、少し驚いた顔をしていた。


「……ぶさけやがって、このクソガキっ」


 けれどその表情はすぐに凶暴なものへと変わり、大股で直樹に近づいてくる。

 この雰囲気は危険だ。多分殴られる。

 長年のあまり蓄積したくないたぐいの経験からそう判断した直樹は、これからくるであろう痛みにそなえてぎゅっと目をとじた。

 けれど、いつまでたっても痛みは襲ってこない。


「おい、にぃちゃんよぉ」


 代わりに聞き覚えのある声が耳にとどいた。

 うっすらと目を開けると、さっきまで自分を睨みつけていた男の肩に、女の手が置かれている。一騎当千のシャツを着た祐未だった。


「あたしの知り合いにナニしてくれてんだよ?」


 口調は完全にチンピラそのもの。けれど声は少女のもので、背は男よりはるかに低い。


「あぁ? なんだてめぇ、このガキのツレか?」


 だからなのか、男は大して驚くことも警戒することもせず祐未を睨みつけて低い声を出した。祐未の口元に笑みが浮かぶ。眼鏡越しに瞳孔が見開かれ、男の肩に置いた手に、力がこもった。


お茶会の始まりだTime for mad tea party


 それは銀髪赤目の男が言ったのとまったく同じ言葉だった。彼女が喋る日本語よりもなめらかな発音の英語。


「あ?」


 彼女の言葉が聞き取れなかったらしく、男が不機嫌そうな表情をさらに歪めて低い声をだす。


「てめぇ、なにいって……」


 彼は最後まで言葉を言えなかった。男が喋り終わるより早く祐未が彼の頬を殴り飛ばしたのだ。


「ぶへっ!」


 男は間抜けな声を出して直樹のすぐ横へ倒れこむ。ぶざまに転げた男の背中を祐未が上から踏むようにして蹴りつけた。


「あたしのっ! 知り合いにナニしてくれてんだよ? あぁ?」


「がっ……」


 蹴られた衝撃で肺の中にあった空気がすべて出てしまったらしい。男の口から出るのはカエルが潰れたような情けない悲鳴だけだ。


「聞いてンのかコラァ! なンとか言えやぁっ!」


「ひっ、ひぃいっ!」


 祐未が出す犬のうなり声のような低い声に男が悲鳴を上げる。その姿は、殴られかけた直樹でさえ同情してしまいそうになるものだった。震える足を必死に動かし、男は一目散に路地裏を駆けぬけ逃げていく。


「あ……」


 足が震えた。

 刑事たちを怒鳴りつけた声よりももっと低い犬のうなり声。まるで自分の縄張りを荒らされた獣のようだ。地面にへばりついた相手を踏みつけ、さらに怒鳴りつける。まるでチンピラかヤクザだ。


「……あ、ありが、とう……」


 けれどそれはきっと、直樹を助けるためなのだろう。


「あは、は……もっと早くくればよかったな!」


 震える声で礼を言うと、彼女はいつものように照れくさそうに笑った。

 そしてすぐに笑顔を驚きの表情にきりかえ、さっきとはまったく違う裏返った声を出す。


「お前っ、なんで病院抜け出しちゃったんだよ! まだ怪我も治ってねぇんだぞ!」


 やはり病院から追いかけてきたらしい。直樹の腕を掴み強い力で引っ張った。


「病院が嫌なら家まで送るから、傷が治るまで大人しくしてろよ!」


「いやだ!」


「なんで!」


 薄暗い路地で口論している姿をみたら第三者はなんと思うだろう。

 さっきまでの緊張感など微塵もない、まるで子供がダダをこねあっているような低次元の口論だ。


「周りのいうとおりにしてたら、誰もなんにも教えてくれないだろ!」


「はぁ?」


 困ったような表情をする祐未をまっすぐに見すえて直樹はなおも声を荒げる。

 知らないことは嫌だ。

 吐き気がする。


「僕は本当のことが知りたいんだ! もうなにも知らないままでいるのは嫌なんだよ!」


「はっ……っ……!」


 口を開いた祐未は言葉が見つからないようで、妙な呼吸音を響かせたあとすぐに黙りこんでしまう。

 直樹は彼女の言葉を待った。あるいは、彼女が諦めて直樹を見すごしてくれるのを。この少女ならわかってくれるはずだと、直樹は確信していた。


「……ぁ、」


 しばらくすると、祐未が困り果てたような顔をしてゆっくりと口を開く。彼女の言葉をさえぎるように、バタン、と車のドアが閉まる音がした。


「……祐未さん? どうしたんですか!」


 直樹の事情聴取をしにきた刑事の声だ。


「な、直樹くんっ?」


 祐未の近くにいた直樹の姿もみつけたらしく驚いた声をだす。


「病院にいたんじゃ……!」


 このままでは連れ戻される。

 そう判断した直樹はとっさに祐未の腕を掴みかえす。


「うぉっ?」


「あっ、おい、ちょっと!」


 後ろから刑事の声が聞こえたがかまうものか。祐未の手を引いて、すばやくその場を抜け出した。


「おいっ、直樹! どこ行くんだ、おい直樹!」


 祐未が声を荒げる。多分その気になればいつだって直樹の手をふりはらえるだろう。そうしないのは、抵抗する気がないからだ。


「病院には戻りたくない! あそこ、なんかおかしいんだ!」


「おかしいってなんだ、おかしいって! そんなわけねぇだろ!」


 バタバタと建物の壁に二人分の足音が反響している。路地を抜けて別の路地へと入り、直樹はどんどん入り組んだ場所を進んでいった。

 昔からずっと暮らしていた町だ。どの道をどう行ったらどの道に出るのかだいたい覚えている。


「だいたいお前っ、夜出歩いたら危ねぇぞ! 物騒なんだから早く家帰れよ!」


 息が乱れた様子もなく、祐未が声を荒げる。ずいぶんと体力があるようだ。でなければ大の男をいきなり殴り飛ばすなどという芸当はできないだろう。


「もうちょっとしたらね! 大通りに出たらまたあの人たちに見つかっちゃうかもしれないし!」


 外灯がない路地を曲がり、暗闇の中で足を止める。そろそろ息が切れてきた。深呼吸して体を落ち着かせる直樹の横には、汗一つかいた様子のない祐未が立っている。


「いきなり走るからだよ! 病み上がりなんだから大人しくしてればいいのに」


「……病み上がりって、軽い怪我だけだろ……」


 完全な健康状態でも全速力で走れば息は乱れるものだ。別に病み上がりだからだとか病院を抜け出したからだとかではない。

 小さな声で反論したが、祐未は大して気にしていないらしい。暗闇を見回して困ったように眉を下げた。


「で、ここどこだ?」


「ここをもうちょっと進むと、商店街に出るかな。まあ商店街っていっても今はほぼシャッター街だけど」


 直樹の説明は伝わったのだろうか。祐未はどこか上の空で、


「ふぅーん。そっか」


 と気のない返事を返してきた。

 直樹はなんとなく空気が変わったのを感じ取る。

 祐未の表情が変化し、あたりがピリピリとした緊張感に包まれた。


「直樹、そっから動くんじゃねぇぞ」


 そして、祐未の声が一オクターブ下がる。

 彼女が見すえる先を見ると、人影があった。


「……ぅ……」


 どこかで聞いたような低いうなり声が聞こえる。けれど相手は銀髪ではないようだった。


「うぅぅ……」


 もしかしたら怪我をしているのかもしれない。フラフラとした足取りで、ゆっくりとこちらに近づいてくる。壁に足音が反響し、それがだんだんと大きくなっていく。


「うぅ、ぅ、ぅ、うぅ……」


 近づいてきた人影が男だとわかる距離にきた。祐未が、直樹を庇うように手を広げる。


「様子がおかしい。声だすな」


 さらに男との距離が近づいて顔が確認できるようになった。


「……っ!」


 男の眼球が左右に激しく震えている。視線があわない。よくみると口からは唾液がぼたぼたと垂れ流されていた。髪と目の色こそ違えど、それ以外は直樹が腕を噛まれたあの男そのものだ。


「ゆ、祐未っ……!」


「しっ! だぁってろ!」


 背筋にぞくぞくと悪寒が走る。あわてて祐未の腕を引っ張ると、小さな声で沈黙を要求された。

 そして彼女は直樹が黙ったのを確認し、にやりと笑う。

 そう、たしかに口元は笑っているはずだ。

 なのにそれは、縄張りを侵された獣が歯をむき出しにしているように見える。


お茶会の始まりだTime for mad tea party!」


 獣を連想させる口元からうなり声のような声が聞こえた。ふらふらと歩くその男は祐未の声に反応したかのようにピタリと歩みを止める。


「ぅ、うぁああぁああぁあぁあっ!」


 そして、吠えた。

 左右に激しく震える眼球が祐未を見すえ、思いきり腕を振り上げて走り出す。


「うらぁっ!」


 襲い掛かってきた男に向かって、祐未が勢いよく腕を振り下ろした。同時に彼女の口からもれたのは腹に響く低い怒号だ。


「ぁがっ!」


 妙な声が聞こえて、男が地面に叩きつけられる。祐未の足が男の頭に振り下ろされ、また妙な声が聞こえた。


「ひぎっ」


 そして男は、そのままぴくりとも動かなくなる。


「……死んだの?」


「いや? 寝てるだけだぜ」


 おそるおそる直樹がたずねると祐未がなんでもないような声を出す。


「とりあえず、こいつは警察に引き取ってもらうからよぉ」


 そういって、彼女はポケットから携帯電話を取り出した。警察と祐未のやりとりを、直樹はただ呆然と見ている。

 銀髪赤目ではないにしろ、男の様子は直樹の腕に噛みついたあの化け物と酷似していた。

 この町になにが起こっているのだろう。

 撲殺事件のこともそうだしヤク中のような浮浪者もいる。

 祐未が言っていたように、この町はとても物騒だ。

 撲殺事件の犯人であろう三月兎もこのあたりをウロついているかもしれない。


――お茶会の始まりだTime for mad tea party……


 病院で見た銀髪赤目の男も、同じことを言っていた。

 あの男が三月兎なのではないだろうか?

 だとしたら、彼と同じ言葉をつぶやく祐未はあの男の関係者か?

 話を終えたらしい祐未が携帯電話をポケットにしまいこむ。


「……とにかく、病院がヤだっつーんなら、家まで送るからよぉ、せめて今日はもう帰れや」


 それでも、銀髪赤目ではない祐未が三月兎ということはないだろう。関係者なのかもしれないが、水島のように全容を知らされずに動いているのかもしれない。


「……うん……いいけど、少し休んでからでいいかな?」


 昨日のことを思い出して足が少し震えていた。できれば少し落ち着いてから行動したい。


「お、おぅ。それくらいなら別にいいけど、ここで休むわけにゃいかねぇよな。ファミレスかなんか、近くに……」


 直樹の心情に気がついたらしい祐未が、視線を泳がせて直樹の腕をひく。この町の地理に詳しくないであろう彼女に対し、直樹がひとつの提案をする。


「商店街の近くに知り合いの家があるから……多分、この時間ならまだ起きてると思うし、金もかからないから、そこに行こうよ」


 案内するよ。と直樹が言う。祐未は少し悩んだあと、


「そうだな、そうするか!」


 と言って微笑んだ。


「じゃあ、ついてきて」


 直樹が案内したのは商店街のすみにあるペットショップだ。ななめ向かいにレコードショップと呼ばれていたころから存在しているCDショップが建っている。正面には店の入り口があり、今は閉まっていた。


「おい、もう閉まってんぞ?」


「いいから、ついてきて」


 どうやら併用住宅になっているらしく、庭から裏手へ回るとまた玄関があった。

 直樹が乱暴にインターホンを押す。


「陸っ! 陸いるっ?」


 二回立て続けにインターホンの電子音が響き、同時に直樹が声を張り上げた。


「っるさいなぁ、近所迷惑だろっ! 何の用だよ不良少年っ!」


 直樹がもう一度インターホンに手をかけたところで不機嫌そうな男の声とともに扉が開く。

 暗いブラウンの髪をゆるく巻いた姿は少し女性的な印象を受けた。直樹の記憶が正しければ、今年で三十二になるはずだ。

 怒鳴りつけられても知らん顔で、直樹は扉から顔を出した男……陸に向かって片手を上げる。


「疲れたから、ちょっと休ませてよ」


「はぁあぁあ?」


 陸があきれたため息をついたが、それでも直樹はやはり知らん顔のまま言いはなつ。


「のど渇いたからなんか飲ませて」


 噛み合っていない会話に陸がまたため息をついた。


「……ところで、その横の女の子はだれ?」


 陸がドアを開けて二人を招き入れる。

 戸惑う祐未の手を引いて、直樹は無遠慮に玄関へと入りこんだ。


「知り合い。祐未っていうんだ。手ぇ出さないでよ?」


「そりゃ犯罪だからな」


 祐未が軽く頭を下げて玄関へ入った。そのまま居間へと通され手近にあったソファへと腰を下ろす。

 直樹の横に座った祐未が、小声でつぶやく。


「どういう知り合いだ?」


「中学二年の時かな……職業体験で一回アルバイトしてから、土日はここでバイトしてるんだ。だから、バイト先の店長」


「ふぅーん……そのわりには、なんつーか、親しげだな……」


 直樹がソファから身を乗り出して閉まっていたカーテンを半分だけあける。薄暗いながらも、外灯の明かりでぼんやりと庭が見えた。


「ただ尊敬してないだけだよ」


「うぉおぉい」


 遅れて居間に入ってきた陸が抗議の声をあげる。直樹は無視して、テーブルに置いてあったリモコンに手を伸ばした。

 これ以上の会話はムリだと諦めたのか、陸がまたため息をつく。


「二人とも、コーヒーでかまわない?」


「うん」


 テレビのリモコンをいじりながら、直樹が答えた。


「あ、あたしもそれで大丈夫っす」


 祐未の言葉にうなずいて、陸は直樹をあきれたような顔で見る。


「すっかり自宅気分だな不良少年」


「家みたいなもんだ。僕の部屋より広いし、テレビも見られるし」


「お前の部屋と一戸建ての家を比べるなよ」


 陸がキッチンへ歩いていきながら肩をすくめた。

 テレビをつけると、新人芸人が海に素潜りして夕飯の食材を取っている。祐未が珍しいものを見るような目でその画面を凝視していた。


「こいつすっげー器用だなー!」


 感心したような声を聞くと、とてもさっき男を二人殴り飛ばしたとは思えない。

 リモコンをいじりながら、直樹が窓の外を見る。

 家自体の大きさはよく見る建て売り住宅と変わらない。違うのは敷地の大きさと庭に大きな倉庫があることぐらいだ。ただ倉庫の半分を覆うようにブルーシートがかかっている。


「陸、あれどうしたの?」


「ああ、倉庫か。先々週、壁に大きい穴があいちゃってさ。直すついでにもうちょっと大きくしようと思って」


 テーブルの上にコーヒーカップが二つ置かれた。直樹が自分の手前にあるコーヒーカップを手に取り陸を見上げる。


「うそ、僕知らない」


「お前、そんときちょうどテスト週間とかいってバイト休んだんだよ。そんでそのまま」


 自分の知らない事実に直樹が眉をしかめる。不機嫌そうな直樹を見て、陸が笑う。

 たしかに先々週から先週にかけてはテスト週間でバイトが禁止されていた。ルールに従い、直樹はバイトを休んだのだ。


「倉庫なんかリフォームして、なにに使うのさ」


「ペットフードとかの在庫を置いておくのにもいいしペットだってずっとケージに閉じこめてたらストレスたまるだろ」


 陸がカーテンを閉めて、外の景色が見られなくなる。

 直樹がコーヒーを口に含んだ。独特の苦みが口の中に広がる。


「陸ってそんなこと気にするタイプだったっけ」


「お前は俺をどんだけヒトデナシにしたいの?」


 祐未がコーヒーを一口飲んで少し顔をしかめた。陸のほうに首を動かし口を開く。


「あの……クリームありますか?」


 どうやら苦みが嫌いらしく、クリーミングパウダーをご所望のようだ。


「え? ああ、ミルクと砂糖ならあるから。今もってくるよ」


「すいません」


「直樹も使いたきゃ使えばいいよ」


 陸が持ってきたのはスティックシュガー五本とコーヒーミルク四つだ。手で掴めるだけ持ってきたらしく、三人分だとしても少し多めだろう。


「僕はいらない」


「マセガキが」


 ブラックコーヒーを飲むくらいでマセガキと言われていてはかなわない。


「言いがかりだ」


 直樹が口を尖らせたが、陸は目をそらして知らないふりをした。


「あーざーっす」


 その横で祐未が砂糖とミルクに手を伸ばす。最初に掴んだのはミルク三つだ。一口分量の減ったコーヒーにミルク三つが投入され、またたくまに変色した。


「……え?」


 思った以上の投入量に、直樹は思わず声を上げる。祐未は立て続けにスティックシュガーを三本掴んだ。

 いや、スティックシュガー三本はさすがに多すぎじゃないかな。

 陸も同じ気持ちらしく、心なしか表情が引きつっている。


「どばー」


 泥遊びをしている子供のような無邪気さで彼女はスティックシュガーの封を切り、変色したコーヒーの中に白い粉末をぶちまける。

 心なしかコーヒーのカサが増えたような気がした。


「……体に悪いよ?」


 香りさえも変化したコーヒーをながめて直樹がつぶやく。

 もうそれコーヒーじゃない、という言葉はなんとか飲みこむことができた。


「そうかな?」


 祐未は直樹の言葉を気にした様子もなく、不思議そうな表情を浮かべた。

 それから一時間ほど休んだだろうか。

 休んだというよりは陸と直樹がぐだぐだ会話していたと言ったほうが正しい。


「そろそろ帰ろう。直樹、送ってくよ」


 時計の短針が八時を指し、長針が二と三のあいだにきたころ。

 祐未がソファから立ち上がり、直樹に帰宅をうながした。


「あー、どうしよう。このまま帰ったら怒られるだろうなぁ……」


 だが直樹はソファから動かず、代わりに情けなく眉をハの字にして弱々しい声をだした。


「……帰りが遅いからか?」


 祐未が尋ねると、直樹が静かに首を振る。


「ちがう。病院抜け出しちゃったから。入院したって連絡はいってるだろうし」


「それならあたしが病院にもお前ん家にも話つけとくから大丈夫だぜ」


 祐未のさし出した手を掴み、ソファから立ち上がる。


「うそっ、本当? ありがとう!」


「もしかしてそれが怖くて、ここで休むとか言い出したのかよ?」


 あきれたようなとがめるような目線に直樹が肩をすくめた。


「疲れたのものど渇いてたのも本当だよ」


「祐未ちゃん、こいつはこういう奴だからしょうがないよ」


 ソファに座ってへらず口をたたく陸の足を、直樹は黙って思いきり蹴ってやった。


「お世話になりました」


 祐未が陸に頭を下げた。ガツン、という音は見事に無視だ。


「あ、あぁ……いいよ、気にしないで」


 右足の、ちょうどすねあたりをさすりながら陸が言う。


「大丈夫、ひどくてアザだろうから」


「てめぇはとっとと帰れ」


 直樹は陸の言葉に笑い声で返すと、『お邪魔しました』と心のこもっていない挨拶をして家を出た。


「で、お前ン家ってどこだ?」


 直樹の手を引く祐未はにこにこと笑っている。まるで直樹と一緒にいること自体がとても幸福なことであるかのように。


「私鉄の最終駅から十分くらいだから……ここからだと三十分くらいかかるかな」


「そっかぁ! 送ってくな!」


 彼女はとても幸せそうに笑っていた。

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