第2話 祐未
直樹が目を覚ましたのはベッドの上だった。白い天井が最初に見える。次に自分の寝ている白いベッドを確認してからここが病院なのだと理解した。
腕と頭には包帯が巻かれているようだ。服は貸し出しであろう入院着に変わっている。吐瀉物が付着した服でベッドに寝かせるわけにはいかないだろう。
「あら、目が覚めたのね」
ぼんやりとあたりを観察していると、ちょうど見回りにきたらしい看護婦が直樹に気づき声をかけてきた。
「はじめまして、あなたの担当看護師よ。金沢っていうの。よろしくね」
染めているのか、ナースキャップから覗く髪は少し明るい茶髪で、地味な色の口紅をつけている。
「よかったわぁ、昨日の夜連絡があってね。女の人が、道ばたで倒れてたあなたを病院まで運んできてくれたのよ。今日お見舞いにくるっていってたから、その人が来たら紹介してあげるわね」
金沢の明るい声を聞いて直樹はなんとなく意識が途切れる前に聞いた声を思い出す。病院に連絡をいれてくれたのはおそらくあの声の主だろう。
「怪我もたいしたことないみたいだけど、頭を怪我してるから、後で検査を受けてもらうわね」
直樹に体温計を渡しながら金沢は言った。彼女の言葉に頷き体温計を脇に挟む。これで検温が終わるまでは手持ちぶさただ。
突然部屋の入り口からノック音が響いた。
部屋に入ってきたのはスーツを着た二人の男だ。今までにこやかに笑っていた金沢が少しだけ顔をしかめる。男二人はそんな彼女の変化に気づいているのかいないのか、口を開き固い声を出した。
「失礼。白井直樹君の様子はどうですか?」
思いがけないところで自分の名前が飛び出し、直樹は思わず顔を上げる。金沢は少し暗い表情のまま男たちの言葉に
「ええ」
とうなずく。
「少しお話を聞かせてもらいたい」
金沢は今度こそ表情を完全に曇らせた。
「……患者は、さっき意識を取り戻したばかりです。ムリはさせないでくださいね」
「ええ。わかってますよ」
この口調だと、本当にわかっているかどうか怪しいな。
直樹はとっさにそう思ったが口には出さない。
「直樹君、少しいいかな……昨日の夜のことなんだが」
男の一人がゆっくりと直樹に近づいてきて横の椅子に腰を下ろす。まっすぐに直樹の目を見すえながら、彼はスーツの内ポケットに手をつっこみそこから警察手帳を取り出した。
「なんですか」
本物の警察手帳、初めて見たな。
少年はどうでもいいことを考えながら刑事の質問に首をかしげて見せた。
検温の終了を知らせる電子音が聞こえてきたので、体温計を金沢に手渡す。受け取った彼女はありがとう、と小さく微笑み表示された温度を確認した。
「最近、このあたりで撲殺事件が多発しているのは知っているね? すでに五人の死者が出ている。動物もあわせると、ここ三週間で発見された撲殺死体は二十を越える。それで、昨日君が倒れていた路地にも……」
「……撲殺死体があったんですね?」
二人の男がほぼ同時に言葉を詰まらせる。二、三秒の沈黙のあと椅子に座った男が
「そう。だから昨日の夜何があったかのか、覚えているかぎりでいいから教えてくれないかな」
体温計をケースに戻した金沢が、部屋の外へと出て行く。
部屋を出るとき彼女は心配そうな表情を浮かべた。直樹が会釈をすると、巡回のスケジュールが詰まっているのか足早に廊下を歩いて行く。
「覚えていること、ですか」
刑事の言葉を反すうして直樹はうつむく。昨日の夜に見聞きしたすべてが現実味にかけていた。けれど夢でないことはわかっているから、頭の中でゆっくりと昨日の出来事を整理していく。
化け物は二匹とも人のような形をしていた。途中ででてきた一匹がもう一匹を殴り殺し……そこから先はあまり覚えていないが、よく生きていられたものだ。自分の悪運の強さにほとほと感心してしまう。
「……殺されていたのは、男ですよね? 銀髪赤目の」
「そう。なにか思い出せるかい?」
「あの男、とても正気とは思えませんでした。口から唾液をたらしてうなり声をあげて、突然僕に噛みついてきたんです。腕の傷はあいつにやられました」
刑事が無言で顔を見合わせる。けれど直樹の言葉をさえぎることはせず、男たちは無言で話の続きをうながした。
「……なんとか引きはなそうとしたんですけど、はなれなくて、暴れたり殴ったりしているうちに、いつのまにかもう一人、銀髪で赤目の……誰かがきて、男を殴ったんです」
「その人の特徴は?」
刑事が直樹に向ける目線は、懐疑的だった。
「暗かったので、よくわかりません。銀髪で、赤目だったことしか。たぶん男じゃないでしょうか。女の人には、人なんて殴り殺せないですよね。そいつもうなり声を上げてて、たぶん、マトモじゃないですよ」
「……直樹君が路地に入った時、男はもういたのかな?」
「いませんでした。後から来たんです」
「逃げようとは思わなかった?」
「逃げようとしました。でも、動けなかったんです」
病院の個室で淡々と会話が交わされていく。横に立っている刑事が黙々とメモをとり続けていた。
「あの路地の前で、同級生とぶつかっちゃって、それで因縁つけられて……あそこにいたのはそいつらに連れこまれたからで、あの男がくるまで殴られたり蹴られたりしてたからうまく体が動かなかったんです」
「じゃあ、彼らもその男を見たのかな?」
「見たけど、あいつらはすぐに逃げたから」
「君は体が痛くてうまく動けなかった?」
「はい」
「じゃあ、その男を殴り殺したっていうもう一人の男について、なにか思い出せることはないかな? なんでもいいんだけど」
「だから、暗くてよく見えなかったんです。銀髪で赤目ってのは覚えてますけど、男かどうかもよくわからない」
「暗くてよく見えなかったのに、銀髪と赤目だけは見えた? 性別もわかった?」
「……どういう意味ですか?」
多分目の前の二人は、自分の言うことを信用していない。表情を見てそれを感じとった直樹は、眉をひそめて低い声をだす。けれど椅子に座った男は直樹の変化になんの反応もしめさず、ただ淡々と言葉を口にする。
「君のいうことが本当なら、自己防衛は認められるよ? その、君を殴ってたって同級生にも話を聞けば裏がとれるし」
「男だと思ったのは、殴り殺しているのを見たからです! 別に確認したわけじゃない。ただの予測ですから!」
「銀髪と赤目が見えたのは確かなんだね?」
「明るい色だったから、たまたま見えただけですよ! あいつらはなんなんですか! ヤク中ですか? 外人なんですかっ?」
後半、直樹はほとんど怒鳴っていた。
疑われている。
状況が状況だから仕方がないだろうが、それにしても不快だ。
刑事二人は直樹の質問に答えようとはせず、ただ顔を見合わせてうなずきあうだけだ。苛ついて、もう一度直樹が声を荒げようとしたとき、部屋のドアが大きな音を立てて開いた。
「てめぇらっ! 目ぇ覚ましたばっかりの怪我人にムダな体力使わせるんじゃねぇぞ!」
それは若い女の、というより、直樹と同い年か少し上くらいの少女の怒鳴り声だ。
毛先に少し癖のある黒髪をミディアムボブにし、黒縁の丸めがねをかけている。一触即発という四文字熟語の書かれたTシャツにジーパンといったラフな格好をしており、半袖から覗く腕はとても細かった。細いといっても、折れてしまいそうな弱々しさはなく、マラソン選手と言われれば納得してしまうような引き締まった体をしている。
「ゆっ、祐未さん! お疲れさまです!」
今までどれだけ直樹が怒鳴っても表情一つ変えなかった刑事たちはそれが嘘のようにあわてふためいた。
椅子に座っていたほうはあわてて立ち上がり、二人で祐未という名前らしい少女のほうを向いてキッチリとした敬礼をしてみせる。自分よりはるかに年上の男二人に敬語を使われた祐未は、けれど不機嫌さを隠そうともせず彼らを怒鳴りつけた。
「調書とるのは勝手だがなぁ、ムリに話聞いてソイツになんかあってみろ! テメェらの目ん玉スプーンでスイカみてぇにくりぬいて口に突っこんでやるからなぁ!」
少女の脅し文句を聞いて直樹は思わずスイカをスプーンで食べたときの感覚を思い出した。くるん、とスプーンを動かして丸い形にくりぬける赤い果肉を想像してしまったあと、気持ち悪くなってとっさに頭を振る。刑事二人も直樹と似たようなことを考えたらしく、心なしか顔が青くなっていた。少女はまだ怒鳴りたりないのか、腰に手を当てて大きく口を開く。
けれど彼女が叫ぶ前に、廊下からバタバタと騒がしい足音が近づいてきた。
「病院内はっ! 静かにしてくださいっ!」
むしろその声のほうが今までの怒鳴り声より大きいだろう。
入ってきたのは直樹の検温をした金沢で、顔はさきほどの曇った表情や笑顔からは想像もつかない恐ろしい形相になっていた。
「すっ、すんませんっ……!」
刑事二人に敬語を使われる少女もさすがに恐れをなしたらしく、少し青い顔で謝罪の言葉を口にする。刑事二人は少女の脅し文句と金沢の怒鳴り声のダブルパンチでさっきよりもはるかに青い顔をしていた。
病室が静かになったことが分ると、金沢は気を静めるためか軽く息をついて怒りの形相からナイチンゲール然とした優しげな笑顔に変わる。
「……今度から気をつけて下さいね」
さっきまでのやりとりが嘘のような穏やかな声だった。
祐未と刑事二人がこくこくと何度もうなずくのを確認し、彼女はゆったりとした足取りで病室に入ってくる。
そして直樹の近くにやってくると祐未にてのひらを向けて見せた。
「直樹君。この人が昨日の夜、君を病院に運んできてくれた祐未さんよ」
祐未があわてて直樹と金沢に向かい、頭を下げる。こちらもさっきまで怒鳴り散らしていたのが嘘のような大人しい態度だ。
「たしか、刑事さんでいらしたのよね? まだ若いのにすごいわねぇ」
本当にその重大さを理解しているのか怪しい軽い口調で金沢は言った。おいくつだったかしら? という脳天気な問いが怪しさに拍車をかけている。
「十六ッス」
「あらあら、直樹君と一つしか違わないじゃない!」
たしかに直樹は今年で十五歳だから祐未の一つ年下ということになる。だからといって、十六歳の刑事を目の前にしてその反応はあんまりではないのか。内容に反し二人の口調は、主婦が買い出しの帰りに井戸端会議でもするような軽いものだ。刑事二人も直樹と似たようなことを考えているのか、なんともいえない表情を浮かべている。
「祐未さんは、ICPOの特別捜査員でして。今回の事件に関して捜査するため、日本に来たんですよ」
信じられないかもしれないけど、とは誰にむけた言葉なのかわからない。その言葉を吐き出したのは、あまりにも緊張感のない会話をなんとかしたかったからなのだろう。
刑事の一人がつぶやいたのを聞いて、直樹はなんとなくそう考えた。
「そうそう、大変なのよねぇ。頑張って下さいねぇ」
「あ、ハイ。どうもッス」
けれど刑事の、そして直樹の願いもむなしく、金沢は相変わらず世間話でもするように事実を軽く受け流し、祐未のほうもそれに対して『甲子園に出場することになった野球部部員』くらいの対応しかしていない。
さっき口を開いた刑事が、がっくりと肩を落とすのが見えた。そして力ない視線を直樹に向ける。
「直樹くんは、あまり驚かないね」
「そうですか?」
目の前でのんきに世間話をしている看護婦がいるというのに、それを無視して直樹に話しかけるほど驚いていないように見えたのだろうか。直樹が尋ねると、刑事はため息をついて苦笑した。
「金沢さんだって、いちおう最初は声をあげて驚いていたよ」
金沢の『声を上げて驚く』がどのていどのものやら。せいぜい口に手をあてて、まぁ。といういくらいではないだろうか。
そう思っていたら考えを見抜かれたらしい。
「さすがにね、身分証をみせないと信じてもらえなかった。だけど君は、最初から疑う様子もないから」
「……警察が、そんな下らない嘘をつく理由なんてないでしょう?」
刑事が考えこむように黙った。そしてどこかつまらなさそうに
「……まあ、それもそうだね」
とつぶやく。
「君は大人びてるなぁ」
もしかしたらもっと大げさに驚いてもらいたかったのかもしれない。男の顔はどこか寂しそうで、どこか不満げだ。そんな刑事をキレイに無視し、祐未は照れくさそうに頭を掻きながら何度か金沢に頭をさげた。ICPOの捜査員であるわりに、所作のひとつひとつがやけに日本人的だ。名前も顔立ちも日本人だから不自然さはないが、そのかわり彼女の肩書きだけがヘリウムガスよりもこの場から浮いている。
少し顔を赤くした祐未がゆっくりと直樹に近づいてきた。
刑事二人を怒鳴りつけた場面を目撃している直樹はおもわずビクリと体を硬くする。けれど彼女は直樹の想像に反し、心底嬉しそうな笑顔で少年の肩をがしりとつかんだ。
「直樹ぃっ、目ぇさめてよかったなぁ!」
そしてやはり心底嬉しそうな声で祝いの言葉をのべる。
「あんな人気のないところで倒れてたの見たときはどうしようかと思ったよ! 頭と腕にひっどい怪我してるし……でも、なんともないみたいでなによりだ!」
今にも抱きついてきそうな近い距離で目尻に涙さえ浮かべ、少女は直樹の目覚めを喜んだ。
「さっきはワリィな! いきなり事情聴取みてぇなことされてビックリしただろ? でも大丈夫だ。一回助けたからには怪我ァ治るまできっちり面倒みるし、ちゃんと話聞き終わって、退院できるようになったら普通の生活に戻れるから、安心してくれよ!」
後ろで刑事二人が少しだけ気まずそうな顔をしている。
金沢がその少し手前で嬉しそうにニコニコと笑っていた。
「じゃあ、私たちはこれで……失礼します」
「おぅ、おつかれー」
祐未の機嫌はいつの間にか直っていたらしい。刑事二人が小さく挨拶をすると、視線こそ直樹から動かさなかったが手をひらひらとふって二人にねぎらいの言葉をかけた。
直樹は自分だけが事態から取り残されているような感覚に陥り、けれどそれが決して気のせいではないことを確信する。
吐き気がした。
刑事に疑いをかけられたからではない。実際に殺されかけているというのになにもしらないこの現状にだ。
何も知らないのは嫌だ。
わからないことがあるのは嫌だ。
銀髪赤目の男や、そいつを殺した化け物の正体。
なにがなんでも調べてみせると直樹は強く誓った。
「なんか欲しいものとかあったらいってな!」
椅子に座った祐未がにこにこと笑いながら尋ねてくる。どうやら、本気で怪我が治るまで面倒を見る気らしい。直樹の意識が戻ってよほど嬉しいのか、機嫌良さそうにニコニコと笑っている。彼女の顔を少し見つめたあと、自分に今必要なものはなんなのか考え、口を開く。
「ここの病院って、パソコン使えるところあるんですかね?」
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