三月兎の目は紅い
うすしお
パブロフの兎
第1話 赤目の化物
衝動のまま直樹は地面に吐瀉物をぶちまけた。
ビチャビチャと派手な水音がしてタンパク質の臭いが鼻につく。酸味の強い緑黄色野菜と発酵した乳製品とをスポーツドリンクでむりやり胃に流し込んだような、不快な味が口の中に広がった。
のどが焼けつくように痛い。
胃酸で焼けたのもあるだろうが、中途半端に溶けてぐちゃぐちゃに混ざり合ったものが逆流したのも原因だろう。強烈な違和感と痛みに、自分ののど笛を切り裂いて掻きむしりたい衝動に駆られた。
「こいつ吐いたぜ! きったね!」
頭上からやけに低い笑い声が聞えてくる。
思いきり蹴ればこうなることはわかりきっているはずなのに、汚いと思うなら腹を蹴らなければいいのだ。
そう思ったが反論する気力がなくて結局口は動かさない。
「直樹くぅん、大丈夫ですかぁ?」
視線を少しずらすと、自分が履いているものとまったく同じスニーカーが四足見える。学校指定のスニーカーを履いた同じ高校の生徒だ。しかもあまり関わりたくない部類のガラの悪い連中。
「おい、なんとか言ったらどうだよぉ」
自分とは少しはなれたところについさっき買った新聞が転がっていた。あれを読みふけって前を見ていなかったことがすべての原因だ。ぶつかった相手がたまたまガラの悪い同級生だったりしなければ殴られる事態だけは回避できたかもしれない。そこは自分の運の悪さを呪うしかないだろう。
「無視ですかぁ、なっおっきっくんっ!」
腹部に軽い蹴りが入った。道ばたに転がった空き缶を蹴るような無造作な動きだったがやられたほうはたまったものではない。
「ぐぇっ……!」
わずかばかり肺に残っていた酸素が全て飛び出し、それが声帯を鳴らして妙な声が口からもれる。
「なんか変な声だしたぞ! カエル? カエルっぽくね?」
一番左にいた少年がゲラゲラ笑う。建物と建物の隙間と表現したほうが正しいような道だから大声を出しても誰かが来てくれるとは考えにくい。太陽はすでに沈んでおり、夕日の名残は西側にわずかな朱色を残すばかりだ。となれば、昼間でも薄暗いこの路地にわざわざ人が入ってくることはないだろう。大通りを歩く人々はみな帰路を急いでいて半ば非日常がかった煩雑な騒動に関わっているひまなどないだろうから。
「新聞読んでるって、オヤジかっつーの。カエルオヤジか」
「なんだよカエルオヤジって。お前ネーミングセンスねぇなぁ」
スニーカーが一足、直樹の持っていた新聞を拾い上げた。しげしげと一面をながめているようだがどうせ見ているのは写真だけだろう。この面子に文字の読める人間がいるとは思えない。
「お前、新聞見てわかんの?」
ほら、仲間内にだってそう思われているではないか。
「うるせー」
新聞を見つめる少年は仲間の皮肉に小さく反論したあと新聞をくるくると丸めて棒状にしてみせた。
「これアレじゃね。地元で5人死んだヤツ」
「犬とか猫とかも死んでるやつかぁ。先々週もあったよな?」
「ってか先々週からずっとだべ」
言いながら、新聞を持った少年がそれで直樹を叩いてきた。たいして威力はないが屈辱的だ。ゲラゲラと4人全員が笑い転げる。
「なんなの? 直樹くんは殴られて死ぬのがうらやましかったの? だから俺らにわざとぶつかってきたの?」
なぜそういう理論になるのだろう。誰が好きこのんで殴り殺してほしいだなんて思うだろうか。そういう理論を思いつく当たり、きっとこいつらは頭のネジが外れかかっているのだろう。
「自分のミライをヒカンしたの? カワイソウな直樹くん! 大丈夫だよ強く生きて!」
しらじらしいはげましのエールのあと、何度か聞いた耳ざわりな笑い声が聞えてくる。
「自殺シガンの孤児とか泣けるわぁ、ケータイ小説でありそうじゃね?」
「韓流ドラマや!」
「むしろ世界名作劇場じゃね?」
こいつら全員死ねばいい、とその時直樹は本気で思った。
幼いときに家族をなくしたらしい直樹はずっと児童養護施設で暮らしていた。
らしい、というのは自分がそのことをまったく覚えてないからで、家族のことも自分の置かれている立場もすべて人づてに聞いたからだ。
確かに自分でもどこの世界名作劇場だと思うときがある。
この生まれに劣等感を抱いているわけでもない。
触れて欲しくない、なんてしおらしいことを考えているわけでもない。
ただ、目の前の人間に笑われるのが嫌だった。
死ねばいいのに、と嫌な味がまだ残っている口で小さくつぶやく。
それに気づいたというわけではないだろうが、今まで笑っていた少年の一人が不機嫌そうな顔で直樹を睨みつけた。
「……なんだよその目。ムカツクわぁ」
低い声で吐き捨てられ、また腹部を蹴られる。
死ねばいいのに、とまた声に出さず口だけ動かした。
こんなアクシデントは彼にとってもはや日常茶飯事だったが、やはり良い気分はしないものだ。
黒い髪に黒い目。
それだけなら目立たないから、日常茶飯事と言えるほど絡まれることはないだろう。けれど童顔気味で体が細い直樹は不良によく目をつけられる。似たような顔の人間がいないというワケではない。なのになぜか直樹だけが目をつけられる。頼りなさそうと言われることもある。絡まれるのはそのせいだとも。
好きで童顔になったわけでも、わざと頼りない雰囲気を出しているわけでもない。けれどどうやったら絡まれなくなるのかもわからないからこうして黙って時が過ぎるのを待ち、被害を最小限に抑えるしかないのだ。
死ねばいいのに、とまた声に出さずつぶやく。
「へへっ、バァカ」
だれか知らないやつがここにきて、いきなりこいつらを殴り殺してくれればいい。
妄想が頭の中にあふれていく。
そうしたら僕はどこか物影にかくれてこいつらが殴り殺されるのを見てるから、通行の邪魔だったからとかそんなどうしようもない理由でだれかがこいつらを殴り殺してくれればいいのに。
何度も何度も蹴られながら、直樹はそんなとりとめのない妄想にとらわれる。逆らったらもっと酷い目にあうことは知っているから、妄想だけでフラストレーションを発散させる。
本当に、どこのケータイ小説の主人公だ。
行動がバカすぎて自分で自分を嘲笑う。
精神構造自体はきっと直樹もこの四人とあまり変わらないのだろう。危うく声に出して笑ってしまいそうになり、なんとかこらえる。
「あぁあああああぁああぁっ」
だからその声を聞いたとき、自分の声がもれてしまったのかと思って驚いた。
「……は?」
今まで直樹を蹴っていた四人も直樹とは別の理由にせよ心底驚いたようで、体を硬直させ声のほうを凝視する。直樹も彼ら同様、やや呆然としながら声のするほうを凝視した。
真正面からこっちに向かってくる人影がある。
フラフラとよろめきながらだれかが直樹たちに向かって歩いてきた。
壁に足音が反響する。
またうめき声が聞えた。
「……ぁぁああぁ」
低い男の声だ。苦しんでいるようなただ疲れているだけのような判別しづらいうめき声が聞える。
「おい、ヤベェってアレ。多分サイコさんだぜ」
だれかが小声で仲間につぶやく。直樹も立ち上がろうとするが蹴られた衝撃で立ち上がれない。
「あぁあぁああぁああぁっ」
「やっべぇ、ぜってぇ頭おかしいって! おい、逃げようぜ!」
頭上から焦った声が聞えてくる。さっきまで笑っていたはずなのにいい気味だ、とは思えなかった。
それより自分も早くここから逃げたい。
「おいっ、いくぞっ」
バタバタと足音がしていままで直樹を囲んでいた四人が走り去っていく。
直樹はもう一度立ち上がろうとして足に力が入らず地面に叩きつけられた。
耳元でビチャッ、という音がする。
よりにもよって、自分の吐瀉物にダイブしてしまったらしい。臭いにつられてまた吐きそうになるのをこらえ、体に力をいれるため深呼吸する。
いつの間にか男との距離が近づき、暗がりの中かろうじて相手の姿を確認できるようになった。
フラッシュ撮影に失敗した写真のような、真っ赤な瞳と目が合う。口のはしから唾液を垂れ流し、眼球が左右に揺れていた。走っている電車の中で外の景色を見ているように赤い眼が小刻みに揺れる。
ヤク中の外人?
少しずつ体勢を整えて男から距離をとる。まじまじと観察するが顔立ちは日本人だ。
じゃあ、ヤク中のヤンキー?
目はカラコンでもいれているのかもしれない。でも眼球があんなに小刻みに揺れていてカラコンなんていれられるのだろうか。
唾液が流れ出る口元からうなり声が響く。
「ぁああぁああぁああぁあぁあああぁっ!」
直樹が体を揺らして身がまえると相手も揺れる赤目で直樹を睨みつけてきた。
顔はコチラを見ているのに視線が合わない。
口の端からは相変わらず唾液が流れ出していていい知れない不気味さがある。大声を出されたときとは別の意味で体が震えた。赤目の男が身をかがめる。
そして揺れる眼球で直樹を見すえ、大地を蹴った。
「うわっ!」
躍りかかる、という言葉がピッタリの動作だ。
直樹との距離を一気につめた男が身がまえた少年の腕に首を伸ばす。
そして、噛みついた。
噛みつかれた場所から腕全体に痛みが走り、だんだんしびれに変わっていく。骨がきしんでそのまま折れてしまいそうだ。ぬめった舌が腕をなめまわすせいで肌が粟立つ。痛みと一緒に腕を伝う湿りけが相手の唾液なのか自分の血液なのかわからない。
もしかしたら両方だろうか。
とっさに振りほどこうとするが相手の力が思ったより強くはなれない。噛みつかれていないほうの腕で男の顔を殴りつけるもやはり腕を放す様子はなかった。
「うわぁああぁあぁっ!」
「ぐぁぅぅぅぅっ!」
むしろ逆効果だったらしい。男が縄張りを荒らされた犬のような怒号をあげ、小刻みに揺れる赤目が直樹を睨みつける。
「ひっ……!」
彼は思わず悲鳴をあげて、少しでも相手との距離をとろうと噛みつかれた腕を引っ張った。
男の歯が食いこんで皮膚が破れる。おもちゃで遊んで興奮しすぎた犬のように腕にかみついたまま男が激しく首を振った。そのたびに歯が皮膚の奥に食いこんできて涙が出そうだ。このままでは腕が咬みちぎられてしまう。
ギチギチ、と骨のきしむ音が聞えた気がした。
「……っ!」
痛みにたえるため強く目を閉じる。息をのんで体を強ばらせていた直樹の耳に、バキッという鈍い音が聞えた。
「ぐがぅっ!」
男のあげた声はうなり声と悲鳴の中間だ。なにごとかと目を開くと目の前にいるはずの男がいなかった。腕は解放されていて噛みつかれた場所から血が止めどなく流れている。
「ぐっ……がっ、ぁ……」
視界の外で、小さなうめき声が聞えた。あわててそちらを向くと、今まで直樹の腕に噛みついていた男が壁に押しつけられているらしかった。すでにあたりが闇に沈んでいるせいでよく見えない。
「がぁっ……がっ、ぐぅぅ……」
暗がりの中でうっすらと、だれかの輪郭が見える。
一人は、壁に押しつけられた男。
もう一人はその男を壁に押しつけているだれか。
こちらにいたっては、男なのか女なのかすら直樹にはわからない。男の姿は噛まれたとき至近距離で確認したから記憶をもとに判別できるだけだ。
「がっ……」
男がまたうめいた。
彼を壁に押さえつけた人影が腕を振り上げる。
空気を切る音が聞えた。直後に鈍い音がする。
「がっ、あっ、ぎゃっ、ぐぎっ」
ガツン、ガツン、ガツン、ガツン、と一定のリズムで鈍い音が聞える。それと一緒に男の悲鳴がやはり一定のリズムで聞こえてきた。男の足が音と一緒に小刻みに揺れている。
「ぎっ、ぎぃっ、がぁああぁあぁっ!」
男のうめき声が大きく響いた。今までだらりと放り出されていた腕が人影に伸びる。
ガツン、と鈍い音がして、人影が吹っ飛んだ。
「ぐぁぅぅうっ!」
男から距離をとって人影がうなる。やはり犬が威嚇しているような声だ。
「がぁああぁああぁあぁあっ!」
声が両脇の壁に反響する。腹に響くうなり声に直樹は思わず身をかたくして息をのんだ。
影がふらりと立ち上がり体勢を低くする。
そして、消えた。
「ぎゃぁぅっ!」
声がする方向を見ると男が壁に叩きつけられているところだった。いつのまに移動したのだろう。暗がりだからよく見えなかったのか。それにしても行動が早かった。
「がぁあっ!」
男が短く吠えて影に飛びかかる。襲ってきた男を飛び越えて影が男の背中を蹴り飛ばした。
直樹は逃げようと思ったけれど足に力が入らない。どうやら、腰が抜けてしまったようだ。
「ぎゃぁああうぅぅぅぅぅぅっ!」
どちらの声なのかすでに直樹にはわからない。どちらも獣のように吠えるだけで、言葉を話す様子はなかった。
男が体勢を立て直しまた影に向かってくる。影は低くうなり声を上げながら大地を蹴った。
「……え?」
直樹は思わず間抜けな声をあげて見上げてしまう。
見上げるほど高く飛び上がっていた。
影の背後に月が見える。
攻撃を避けられた男は一瞬だけ体勢を崩し、けれどすぐに影のあとを追って跳んだ。
影が空中で体の向きを変えて男の顔を蹴りつける。
「ぎゃぐっ!」
男が悲鳴をあげて、空から落下してきた。
そのうえから影が振ってきて、男に馬乗りになり腕を振り上げる。
「ぎゃぁああぁああぁあぁっ!」
男の悲鳴が聞こえた。
ガツンッ、と鈍い音がして、今まで暴れていた男の腕がだらりと地面に放り出される。
――人間じゃない。
一定のリズムで打撲音が聞こえてきて、足と腕がそれにあわせてビクリビクリと痙攣している。
――人間じゃない。
男のうなり声も悲鳴ももう聞こえない。体は完全に力が抜けていた。多分、死んでいるだろう。
人間じゃない。
こいつら二人とも人間じゃない。
人間だったらもっとまともな言葉を喋るはずだ。
人間だったらあんなに高く飛び上がったりうなりながら殴り合ったりいきなり噛みついてきたりなんかしないはずだ。
人間じゃない人間じゃない人間じゃない人間じゃないこいつらは人間なんかじゃない。
じゃあ、人間じゃないならなんだ?
そんなこと決まってる。
こんな獣がいてたまるか。
こいつらは……
こいつらは、化け物だ!
とにかく早く逃げ出したくて動かない体をむりやり動かそうとする。まだ打撲音が一定のリズムで音が響いていた。
恐怖で吐きそうだ。さっき胃の中身はあらかた吐いてしまったので、吐いても胃液だけだろうが。
ガツン、ガツン、ガツン、という音が、だんだんとグチャッ、グチャッ、グチャッ、という湿り気をおびた音に変化していく。
吐きそうだ。
力の入らない体を引きずって少しでも化け物二匹と距離を置く。
思ったより体を引きずる音が大きく響いてしまった。
それが聞こえたのだろうか。
湿り気を帯びた打撃音がピタリと止まる。
そして、化け物が直樹のほうに振り向いた。
「ひっ!」
悲鳴を上げた直樹と化け物の視線が絡み合う。暗がりの中で確認できたのは噛みついてきた男と同じ銀色の髪とフラッシュ撮影に失敗した写真のような赤い目。
やはりこの二匹は、同じ種類の化け物なのだ。シルエットは人型のように見えるが油断してはいけない。言葉も喋らないし、うなり声をあげて殴り合うし、いきなり噛みついてくるし、人間よりあきらかに知能の劣る野生の化け物に間違いないのだ。
グシャッ、と花の茎が折れる音を大きくしたような音がした。
「ぐっ!」
気色の悪い音だな、と頭のすみで思っていると後頭部に強い衝撃が走る。化け物の影は相変わらず少しはなれたところにあるからヤツに殴られたというわけではないようだ。
意識が遠のき、視界がかすむ一瞬……自分が倒れている足下にコンクリートの塊が落ちているのが見えた。どうやら、コレが頭に直撃したらしい。
ああ、でも、原因がわかったからといってどうなるわけでもない。
意識を手放してなるものかと思えたのも一瞬だけで、体はすぐに支えを失い地面に倒れる。
「おい、大丈夫か!」
背中に冷えた吐瀉物の感触がしたけれど、体を動かせる気力もない。
「大丈夫か、おい! しっかりしろ!」
見知らぬ女の声がする。
声にこたえる気力もやはりなく、直樹は女の声を聞きながら意識を手放した。
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