昼: 萌子とテレジアさんの、スパルタレッスン [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]
——良かったら、寄ってみます、リズさん?
隣を歩く彼から思わぬ提案を受ける。
「む」
右手が顎に伸びる。
行ってみたい思いは確かにあるが、集合時間の変更になった巡回のことが気になる。
——こっからでしたらそんなに時間もかかりませんし……。
そうだ、先程の授業中の萌に対する管区長殿のご乱行を忘れてはいけない。
昼食は抜いても構わないが、時間が、
——そうです! 木刀とか木の槍とか、他にも武具をいっぱい飾ってるんですよ!
「むむ!」
日本国の武道に憧れを持つ者として、今の萌の言葉で食指が動かなかったと言ってしまっては嘘になってしまうだろう。
——はい、到着です! ここが僕のバイトさせて貰っている橘商会、橘木材店です!
彼が案内してくれたのは中央広場近くの家屋だった。暖簾と呼ばれる入口の布には『橘商会』の文字がある。左隣りは木材の置かれた広場になっており、木工道具を手に仕事に励む職人の姿がある。
——じゃあ入りましょう!
「ああ」
彼に促され暖簾を潜り店内へと足を踏み入れる。
「ここが、萌の仕事場、か」
店内には木製の武具が所狭しと並べられている。既に人がいた。警備の者だ。具足に羽織、大小二本差しで、槍を抱えている。無論槍の穂先は鞘に収まっている。
——仕事場、って言うかバイト先ですけど。ふふ。テストがあったり、昇武祭が近いせいで最近はお休みを貰ってます。わ、混んでますね。
八名もの警備の人間は奥の方で店の主人と思わしき人物と話をしていた。
その人物が萌に気付き、萌が頭を下げる。私もそれに習う。
警備の者達は私達に気付くと敵意の混じった視線と舌打ちを送ってきた。
「陣地を組むのに木材が必要なのだろう。——むむ、あれは……」
——
「懐かしい。まさかここで見られるとは」
それは木の人形だ。無論遊ぶためにあるのではない。対人用の技を練るための練習台である。木の棒が所々に出ている格闘用の物と、武器を持って叩く人の形を模した物とがある。
——リズさん、使ったことあるんですか?
「ああ。このような立派な物ではなかったがな」
祖国では、ただの『十』字型だったが、これは『木』の字型だ。両足部がついている。
手で触れてみると木独特の温かくも硬い感触が伝わってきた。今は商品として完璧な状態であるが、誰かの手に渡ればすぐにでも傷つき、凹みだらけになるであろう。
「萌、ここにある物は手に取っても構わないか?」
——えっ? はい、勿論大丈夫だと思いますよ。
彼の声を<見る>ために<強制視>を使っているせいか、この場で店内の商品を眺めるだけでそれがどんな物か分かってしまう。だが、実際の感覚は構えなければ分からないものだ。
ここは店の中だ。人もいる。邪魔にならぬよう気をつけなければ。
感応型の木剣、木刀を取る。先程授業で握っていた竹刀と違い、重く、形状が片刃で反りがある。そして、
「ふーむ、鍔が無い、か」
私が振るってきた木剣との違いはそこか。
——そっか。リズさん達の場合って、横に長い鍔がつくんですね?
「ああ。むむ、鍔付きのもあるようだが——」
——はい……。お値段がお高くなっちゃいます。それなら、え〜っと、こっちのこれです! 木刀用の木鍔です!
「なるほどな。しかし都合良い形状でなければ、はまらなそうだが……」
——ふっふーん。この橘商会の木刀だったらどれでもへっちゃらですよ、リズさん!
萌の思いがけないセールストークを微笑でかわし、次に私は壁に掛けてある木の槍を手に取る。
構えてみたいところではあるが、それをしてしまってはいい迷惑だろう。
——リズさんって槍も使うんですか?
「槍と言うか棍だな。長柄武器はまずクォータースタッフと呼ばれる棍から入る」
——クォータースタッフ?
「国司殿の持つ短槍程の長さの木の棍だ。そこから、より長いロングスタッフ、穂先のあるスピア、そして両手で持つ大剣のツヴァイハンダーへと至るんだ」
——へぇ〜、何か意外です。
「剣は大事な武器ではあるが、リーチの長い
剣を信仰の対象として見ている面はあるにはあるが、この国と日本刀程に強烈なまでに結びついていないのかも知れない。
「むむ」
——わわ、混んできちゃいましたね。
又もや警備の衛士が入ってきた。これ以上ここにいては仕事の邪魔になってしまうか。
そう思っていたら、
——じゃあ次の所へ行きます?
と萌が意外なことを言った。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
——荷物運びじゃなく、店番をさせて貰う時はこっちなんです。
隣にある店舗をリズさんに案内する。
武具がこれでもかと置かれて活気のあった本店と違い、こっちはしめやかな感じだ。店には僕達の他に人は誰もおらず、僕とリズさんの二人だけだ。
「茶碗、湯飲み、皿、か。ふむ、こちらでは日用品を売っているのか」
——はい。お客さんを比べちゃうと少ないですけど。
「それを君が言ってはダメだろう?」
リズさんの的確な鋭いツッコミに僕は頭をかくしかない。
——あ、みゃ〜ご君いる! リズさん、リズさん、あの猫が例のみゃ〜ご君ですよ!
「むむむ」
ふわふわもこもこの毛を感じつつ優しく頭を撫でてあげると、みゃ〜ご君がごろにゃんと声を出してくれる。
——ほらほらリズさんも!
「むむ。——では、失礼する」
リズさんは律儀にも一礼し、みゃ〜ご君は愛らしい鳴き声でそれに答える。
みゃ〜ご君はリズさんに撫でられて声をあげる。その声に導かれるように固かったリズさんの手付きが柔らかいものへと変わっていく。
ひとしきり撫で終えると、みゃ〜ご君はご満悦な鳴き声をリズさんにかけてくれる。
リズさんは表情が固いままだけど、頬がほんのり赤くなっている。
「くっ……悔しいが——、これは私の認識を改めねばならないようだ……ッ!」
ふっふっふ、リズさんも、みゃ〜ご君の魔力にやられちゃいましたね!?
(きっと)猫派になっちゃったリズさんがやや名残惜しそうにみゃ〜ご君から離れ、店内に陳列されている商品を見る。
すると、
「はぅにゃ!?」
何故かリズさんが謎の大声を出し、驚愕の表情になっていく。
「な、何だと……!!」
——な、何がですか?
「…………」
声をかけるも心ここにあらずと言った感じだ。
雷に打たれたように時間が止まってしまっている。
「……こ……」
——こ?
「……こ、これは……!?」
——こけし、です。
「……こけし……こけし……こけし……」
リズさんが震える手を伸ばし、棚に飾ってあった工芸品の一つ、こけしをそっと手に取る。
——リズ、さん?
「こけし、こけし、こけし……」
丸みがかった頭部にはにっこりと満面の笑みを浮かべるおかっぱの少女が、胴体部には赤い模様の着物が描かれているこけしだ。
他のこけしがやや無表情に近い笑顔なのに対し、リズさんの手の内にあるその子は、百点満点の笑顔を浮かべている。
「む——く、うぅ、むぅ〜ー……」
——え、えー……リ、リズさん?
僕の声は届いていないみたいだ。
リズさんは赤面し、焦点の合ってない目で、僕が今まで見たことのない無防備な表情でポケ〜っとこけしとにらめっこしている。
ほわわ〜んとした甘い雰囲気が漂ってくる。
リズさんの顔が手にしたこけしに負けないくらいにほっこりした笑顔に変わる。
——ぅ……。
思わず見れたリズさんの柔らかく優しい表情に、僕の心臓が口から出ちゃいそうになる。
「……。ふふふ……」
リズさんがこけしに微笑む。
その光景に僕は金縛りにあったかのように動けない。普段の剣士然とした姿ではなく、一人の可愛い女の子として頬を緩めるリズさんに、ただただ見惚れることしかできなかった。
手の届く距離で繰り広げられるおとぎ話のような情景に、呼吸も瞬きもできず、心臓の鼓動だけが大きくなっていく。
リズさんの笑顔を見ているだけなのに、胸の奥いっぱいにまで不思議な幸福感が満たされていく。
何時までも続いて欲しかった夢のような時間は、意外な形で唐突に終わりを迎えてしまった。
みゃ〜ご君が一際甲高い声で鳴くと、
「——はっ!?」
魔法が解けてしまったかのように、リズさんがこけしを元の場所に戻してしまう。
「あ、ああ。そ、それでは行こうか、萌……」
——えっ、その……。
リズさんはそう言うものの、頬は赤いままだし、戸棚に戻したこけしのことをちらちらと何度も見ている。
リズさんらしくないそわそわした態度だ。
——あ。
もしかしなくても、これって、一目惚れしちゃったのかな?
——ちょっと待ってて下さい!
「萌——?」
僕は店の奥にいるであろう女将さんを探すため、自分でも気付かぬ内に店内を走り出していた。
——だからぁ、受け取って下さい、リズさん〜。
「い、いや——君の、好意に、だな……その、あ、ア、甘える訳にはいかない、うむ、いかないんだ」
店の外で僕がリズさんに例のこけしをあげようとするも、リズさんは力無く押し返す。
もう何回目だろう?
——ほら、もう買っちゃったんですから!
アルバイト代から天引きして貰って、僕は例の満点笑顔のこけしを買ってしまった。
「う、むむ、いや、しかし、だな——その……」
リズさんは煮え切らない態度だけど両目は僕を見ていない。さっきから、いや、最初っから僕の両手にある例のこけしに釘付けだ。
試しに僕の持っているこけしをゆっくり左右に動かしてみる。
するとリズさんはポーっとした虚ろな表情でそれを目で追いかける。
上下に振っても同じだ。僕がちょっと意地悪なことをしてからかっちゃってるのに気付かないでいるくらい重症だ。
——ほらぁ! リズさん! 覚悟を決めちゃってこの子を受け取って下さい!
「そ、そんなことは、だな、その、でででできない相談だ。第一、友である君に身銭を切らせて私が
も、萌子って誰ですかー!? リズさんまさかもう名前まで付けちゃってるんですかー!?
——僕、リズさんに何度も助けられてますし。それに! このこけしで日本の伝統工芸をきちんと勉強しちゃって下さい!
僕は強引にまくし立てて、リズさんのこけしの萌子ちゃんを握らせる。
「む、むむむむむむ……むむ——」
そう唸るものの、リズさんの視線は磁石で引き付けられたようにこけしの萌子ちゃんから動かない。
「うーむむ……相も変わらず強引だな、君は……。萌子よ、君もそう思うだろう?」
ええー!? いくらリズさんの<強制視>でもこけしの声って聞き取れませんよね!?
——ええーぃ!
僕は両手を離し、リズさんにこけしを預けちゃう。
「む!? 君と言う男は……」
リズさんは頬を赤らめたまま暫くこけしと僕を交互に見ていたけれど、
「ふぅ、全く……しょうがない奴だ……」
リズさんがとても暖かい言葉で呟いて、こう続けた。
「ありがとう、萌」
あまりに自然に出てきた言葉だったから、心臓が大きくドッキンするのに数秒はかかった。
リズさんの笑顔は、僕が今まで見た中で比べ物にならない程、断トツに綺麗で輝いていた。
——…………。
そんな宝物を僕にくれたって事実が、僕の理性を一気に吹き飛ばし、こけしの萌子ちゃんを愛おしそうに抱えるリズさんのことを黙って見ていることしかできなかった。
「この礼は、必ず君にしてみせる」
止まらない胸の高鳴りだけが、今僕の見ているものが現実なんだと教えてくれた。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
萌と別れ、修道院の門を一人くぐる。
この門を守る警備の者は昨日より減っている。昨晩の巣の発生で各地に人員を分散しているせいだろう。
「急がねば」
予定まで時間がない。
管区長殿に苦言を呈し、萌子の去就を相談するのは勿論だが、予定の変更が引っかかる。時間を逆算すると、間に合わないかも知れないが、
“貴様一人か?”
“テレジア殿?”
意外な人物が私を呼び止めた。
緊張が走る。
先々日の萌への暴行、先日の国司殿との戦い——。この国に来るまでの道中に培われた彼女への畏敬の念が私の中で揺らぎつつある。
“丁度良い。あの男との約束を果たす、抜け”
ここは修道院の通路だ。間違っても武器を振り回すのに適した空間ではない。
“何と、仰いましたか?”
私は肩にかけている<氷の貴婦人>を何時でも展開できる態勢をとる。
私の問いかけに、彼女は開戦を告げる狼煙の声で答える。
“遍く天よ、聞け——我が<深遠からの咆哮>を!!”
その声に応じ、彼女の着ていた黒いスーツは、主人に仇なす敵を抹殺する白銀の全身板金鎧へと変貌する!
“何の冗談で——!?”
私の言葉は、白き一閃により遮られる。<深遠からの咆哮>の一撃は、修道院の壁面を軽々と破壊し、私の腹部を横薙ぎに襲う。身をよじり、<氷の貴婦人>を線上に置き防ごうとするも、
「がはっ!!」
あまりの衝撃に足は地を離れ、壁に猛烈な勢いで叩きつけられる! この身は壁を破壊し、その破片ごと隣にあった図書室の中へと吹き飛ばされる。
本棚が倒れ、内に収められていた本が空を舞い地に落ちる。
壁に開いた大穴からは完全武装したテレジア殿がハルバードを手にやってくる。
背中の激痛が、頭の中の鐘を鳴らし続ける。
謎だらけの状況で一つ確かなことがある。昨夜と似ている。国司殿が良く分からない呼びかけをし、テレジア殿がそれに応じた。似てはいるが、大きく違う——それは彼女が刃を向ける者の圧倒的な技量の差だ!
両膝を立てて上体のみを起こし、両手を剣に添える。
“我が愛しき<氷の貴婦人>よ!”
兵装を展開し、床に散らばった本を踏みつけテレジア殿を見据える。
う——!? 冷気が私の全身を取り巻き、ここ数日感じなかった胸の裂けるような吐き気と、頭を打ち砕きたくなる悲哀が私を襲う。
何故今になって、との疑問を、私に振り下ろされる銀光がかき消す。私の動揺を見透かすかのようにテレジア殿が、私との距離を一気に零にせんと飛びかかる!
「くっ————がっ!」
上段から振り下ろされた<深遠からの咆哮>は、私の肩口から斜めに両断せんと尋常では済まない風圧を伴い襲いかかる!
<氷の貴婦人>で下方から受け流すべく刃を合わせようとする私の努力は、刃のぶつかり合うただの一合で無に帰す。
ハルバードの斧刃が<氷の貴婦人>の刃ごと私の肩当に食い込む。地に接する左膝と左足が、その圧力に声にならない悲鳴を上げる。
この破壊力! 恩寵を乗せていない一撃だと言うのに<氷の貴婦人>が生成した氷塊など亀裂の入ったガラスのように霧散させられている!
私を斬り下ろそうとする力がわずかに方向を変える。思わず体勢を立て直そうと、ハルバードを押し上げるため重心が上向いたその瞬間、
声が響いた。白銀の兜で隠された私の正面に立つ人物からの声が。
“<概念付与、
恩寵の発現と共に、テレジア殿の左膝が跳ねるように高く上がり、
「ぐっーーーッ!!」
突き出されるは銀に輝く装甲に覆われた左足!
私の胸部肋骨を狙って繰り出された左の前蹴りは、それだけでも岩を砕く一撃なれど、彼女の恩寵により装甲の内部へとダメージを通す概念を持つ兵器と化す!
私は反応する術もなく、今度は後方の壁に叩きつけられる。
「——くっ!」
再度、私は壁を突き破る。<氷の貴婦人>を地面に突き立てて、強引に体をひねり一回転させて何とか着地する。
「ゴフゴフ」
軽く咳き込み、思考を動かすべく酸素を体中に回す。
上には曇り空が広がり、下には大地がある。後方は、後数歩進めば修道院の外壁だ。外壁と建物の僅かな間、私は今そこにいる。
穴の空いた建物からテレジア殿がゆっくりと現れる。
『約束を果たす』、か。昨日のテレジア殿と国司殿の立ち合いを思い出す。国司殿の約束は確か、『ウチの若いもんの面倒を見てくれ』、だったか。
だが、あの勝負は引き分けのはずだった。なのに何故——?
“目を使え”
私の疑問が、テレジア殿に遮られる。
私は眼鏡を外し、彼女を見据える。
装甲部にダメージがある。黒騎士との戦いで負ったダメージはまだ完全に回復してはいないが、私などには十分すぎる程だ。
“五だ”
その言葉と共に、テレジア殿は左半身を前に出し、右斜め上空にハルバード<深遠からの咆哮>を掲げる。
五撃目で仕留めると言うことか、それとも五撃受け止めてみろと言うことか。どちらかと言えば、前者に違いない。
私は、<氷の貴婦人>を下段前方の『愚者』に構える。防御や反撃に使う構えだが、今の私にテレジア殿の攻撃を耐えられるかどうか。
テレジア殿の恩寵は、『戦場で使われた兵器の概念をその身に宿す』と言うものだ。それだけならば応用力の効く恩寵と思いがちだが、彼女の恩寵の練り上げ方は尋常ではない。
構えを取りながら、そんなものありませんよ、と言う彼の顔が浮かんだ。
全く、今この場に君を呼んで問い詰めたい。そう思うと心を覆う負の重しが軽くなった気がした。
“行くぞ”
私の思考が終わるのを待っていたかのように宣言と共に、枷を外れた飢えた狼が一匹、地を走る! しかし打ち出されるのは巨人の手のような、私の左頭部を狙う斧刃の横薙ぎ!
「くっ!」
一歩引きながら刃元で受け止めるが、衝撃は殺しきれず、左足が軽く宙に浮き、右脚は数センチ地面に埋まる。
テレジア殿は振り抜いた<深遠からの咆哮>を上空で旋回させ、先程とは逆の構えに移行し、腰を溜めて——全身のバネを解放しつつ振り抜く!
「——ぐっ!?」
逆方向からの二撃目は、崩れかけた私のバランスに止めを刺すには十分だった。
酔っ払ったダンサーのようにふらふらと足元がおぼつかない。
不味い! 五撃ももたずしてやられる!
テレジア殿が左手を離し、右手一本でハルバードを少し回転させつつ素早く手前に引く。
目が告げる、その意図を。くそ!
緩急をつけた三撃目は、ハルバードの鉤爪部による私の右脇腹への引き倒し!
私は左足を軸に回転し、その攻撃をからくもかわすも、
“<
しまっ——!?
その声は回転し逃れる私の後ろから——つまり私の目が彼女の姿を捉えていない間に発せられた。
振り向いたときは既に遅く、彼女は恩寵を乗せた四撃目を放っていた。
直線のはずのハルバードの柄が、大きく半円を描くように湾曲しながら私の首の後ろへと迫る。
右手一本によるハルバードの視覚外からの攻撃——だが、私の目には彼女の残った左手、右足、左足、頭、膝、肘による攻撃意思があることを伝えている!
首を振り、ショテルの概念を乗せたハルバードをかわしたとしても、
「くっ!」
考える時間などなかった。
私は湾曲した<深遠からの咆哮>の軌道を読み、左側に体を流しながら<氷の貴婦人>を彼女の刃に打ち付けてその進撃を止める!
も、
「え——?」
突如、半円に曲がっていたはずのハルバードの柄が直線と化し、私の背中に硬いものがぶつかった。
恩寵の解除!?
“五だ”
気付いた時は遅かった。
テレジア殿は右手でハルバードを引きながらに左半身を前へと乗り出し——
私の目が伝えるのは一秒にも満たぬ間に繰り出される止めの彼女の五撃目の左と、それを防ぐ術が私には何一つ無いことだ。
彼女の左の掌底が一直線に私の顎を捉え、頭部に走る衝撃が私の意識を瞬時に刈り取り、闇黒の底へと沈めた。
扉が規則正しく三度ノックされました。
何時来るとも分からないその音を心待ちにするようになったのは四度目の訪問からでしょうか。
『失礼する』
私が室内にして貴女を招き入れるのがさも当然と言う口ぶりでしたね。
ただ、この日、十度目の貴女の訪問は違いました。
それは何時もの貴女らしくない、大きな荷物を抱えていたことです。
何のつもりですかと尋ねる私に悪びれずに貴女はこう言いましたね?
『今回で十度目の訪問だ。はいと言って貰えるまでここに寝泊まりする』
全く、貴女と言う人は私の理解を超える人です。
かのご高名な女性騎士修道会の騎士様と知った時は大変驚いたものです。
『寝泊まりする以上、炊事洗濯掃除などの雑務はする』
そう言い放ち、貴女は荷を解きました。
本当に貴女と言う人は困った人でした。
私が主家に許可を求めますと言うのに一週間、主家と相談するのにもう一週間、主家から正式に許可が下りるのにまた一週間——貴女と共に過ごせたあの三週間はその一秒一秒が黄金色の輝きを放つ夢のような時間でした。
貴女が雑用をこなせばこなす程、雑用が増えていくと言う不思議な悪循環でしたが。
私が主家から命じられた武器を鍛えている間、そんなものを鍛えているのに何故私の武器を鍛えないのかと言う厳しい視線には大変に困ったものでした。
『世話になった』
まだ許可が下りたばかりで、材料すら届いていないのに、貴女は荷物をまとめて出て行ってしまった。
扉が閉ざされ、再び私は一人になりました。
その時、私は思ったのです。
もし私が貴女に贈るのであれば、きっとそれは——
冷えた水の感触が、私を現実に戻す。
“立て”
テレジア殿が私の腕を掴み強引に立たせる。その姿は何時もの背広姿に戻っている。兵装を解いたのか。
頭を振ると、顔についていた滴が弾け飛ぶ。気を失っていたようだ。
顎と右の肋骨に違和感がある。しかし、テレジア殿と立ち合って違和感程度で済んだのならば僥倖だろう。
傍らの地面に突き刺さっていた<氷の貴婦人>を抜き取る。
青い刃に、かすかに水滴が飛んで流れている。今日は曇りだというのに、太陽の光を帯びたかのように刃が一層蒼く輝いている気がした。
落ち着きを取り戻すと、先程の夢のようなものが思い出された。何だ、さっきのは……。夢? それにしては生々しい感覚があった。まるで自分が自分でないような……?
“お前は弱い”
テレジア殿の一言にはっと我に返る。
“十回立ち合えば十回ともお前は負ける。百の中、三本取れれば良い方だ”
自分の弱さは理解している。問題は誰と戦ってか、と言うことだろう。
“それは萌とですか?”
“——そうだ”
もうその名は二度と口にするなとばかりに怒気を込めた声でテレジア殿は私の答えを肯定する。
確かにそうかもしれない。昨晩のあの戦いぶり、平均で見れば軍配は私に上がるだろうが、あの殺界を作り出したあの瞬間だけを比べれば、私では到底勝てないだろう。
たが、昨晩のことをテレジア殿は知らない。知っているのは緑の大蛇を切った夜の萌だけだ。
“分からんか。やはりな”
テレジア殿は続ける。
“お前には、無い。両手両足を切り落とされて、両目両耳鼻口を潰され、両の肺と心の臓を抉り出され、命の炎が燃え尽きる寸前であろうと、心の底から欲しいと叫ぶ想いが”
“……”
“それが無いお前に、剣を持ち、戦場で死ぬ資格は無い”
テレジア殿の言葉が私に重くのしかかる。
“貴様は何故ここにいる? 下らん命令に従った結果か? 上に疎んじられたせいか? ふん、この国に一度来てみたかったからとは吐かすなよ?”
私は何も答えられなかった。
私が目を生かすのではなく、剣の道を選んだのはあの人達を見たからだ。
あの人のようになれるのならと、憧れたからだ。
この国に来れたのは、そう命令が下ったからだ。
私には、テレジア殿の言葉を否定する力がなかった。
それだけでは足りないのですか? 私の決意など、取るに足らないのですか?
“手段があるとすれば——”
テレジア殿が呟く。
“『
“昇華——?”
“何だ、最近のお嬢ちゃま学校はそんなことも教えないのか?”
“同調、展開、解放とは違うのですか?”
“解放とは何だ?”
“それは、兵装に秘められた想いを自身が真に共感することで、外界たる世界に働きかけ実現することです”
“言わば、使用者が兵装に従属的な奴隷になると言うことだ”
“それは仕方ないことではありませんか? 錬成者の込める想いとは、実現不可能な突拍子もない尊い夢物語です。だからこそ、どこまでも強く解放できるのでしょう?”
“ふん。昇華とは、その先を使用者が示すことだ。夢物語の終わりの続き、実現し醒めてしまった夢の続き、届かぬ想いのさらなる果ての世界——それを現実に創り出すことが昇華だ”
だが、とテレジア殿は続ける。
“兵装の想いと同等以上の存在になることなど所詮常人には不可能だ。人として届く範囲はせいぜいが多重解放だ。昇華に値するに足る想いが込められた兵装など何処に存在する? 万が一にもそれを手に入れたとして、何処まで高められれば解放を通り越し、昇華の域に到達するのか見当もつかん。そう、狂気の域だな。嗚呼、どちらにしてもお前には無理か、ただの優等生のお嬢ちゃんにはな”
眼鏡を外しているせいか、私には見えてしまった。
“テレジア殿、貴女は何をそんなに憤っているのですか?”
“——何だと?”
“萌に対して怒りを抱くのは、その、分かります。私のような者が貴女の主人と対等に会話するのを許せないのも分かります。ですが、それだけなのですか?”
彼女の怒気を、私の瞳は映していた。
旅の途中にはまるで見えなかった。しかし、この女性はどうしようもない怒りを抱えて私の前に立っている。
“そうか、今の貴様には見えるのだったな”
テレジア殿が力無く言葉を続ける。
“ただの八つ当たりだ”
“え?”
“私にはどうしようもなくお前達が羨ましい。……お嬢様を、ああも簡単に笑顔にしてしまうお前達が……”
彼女は迷い子のように、いや、己の罪を悔いる罪人のように立ち尽くしていた。
“何を仰るのですか? 貴女の前でもシャルロッテは笑っているではないですか?”
彼女の目は光を失い、例えようもない闇に沈んでいた。
“お前は——、何も分かっていない……”
その言葉の重さに、呼吸が止まった。
“話し過ぎたか。片付けは私がする”
始まりと同様に終わりも唐突だった。
とぼとぼと歩く彼女の背中を、私は黙って見送ることしかできなかった。その後ろ姿は、私が知る彼女からは到底想像できないものだった。
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