午前: 四時限目、剣術 [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]
いたたまれない。己が恥ずかしい。
既に次の授業が始まったのに私の心は未だに先程の坐禅での惨めな思いが尾を引いている。
授業は途中に五分間の休憩を挟んで、前後半の二回に分けられたが、私は叩きに叩かれた。
これまでのクラス記録は透子の計六回だと学級長が言っていたが、授業前半部で既に記録を更新し、最終的には何と二十の大台を突破してしまった。
不覚、無念、醜態だ。
それだけの数を叩かれたのに私の肩は不思議と痛みも違和感も何も残っていない。むしろコリが取れたのか心なしか軽い気がする。
分からないことばかりだが、失態を引きずり続けることこそ雑念の塊と言えようか。次の授業に頭を切り替えねば。
『剣術』——それが現在の授業名であり、午前で終了となる本日最後の授業だ。午後は明後日に迫った昇武祭の事前準備に関する打ち合わせがあるとのことで、本日は午前授業である。
「いち、に、さん、し、」
剣道部に所属する一柳が全体に号令をかけている。場所は第三体育館一階、すなわち先程『坐禅』の授業をした建物の一階である。監督するのは、意外にも、沢庵教諭だ。
私達は備品の防具を身につけ、『竹刀』と言う竹製の模造刀を手に授業に臨んでいる。身につける防具は二箇所だ。胴体を守る『胴』と、腰と太腿を守る『垂』である。足元には頭と喉と肩を守る『面』、手首を守る『籠手』、脛を守る『脛当て』が置いてある。防具は皮と竹を組み合わせた頑丈なもので、面には
私は見様見真似で体を動かし、号令に続いて声を出す。右足を前に出しながら竹刀を振り上げ、左足を引き付けながら竹刀を振り下ろす。引き付ける足に力を入れ、体を絞りながら竹刀を振り下ろし、止める。
面、胴、垂、脛当ては打たれても良いように前面に装甲(と言っては多少大袈裟か)があり、そこから伸びる紐を後面で結び留める形だ。私とシャルロッテは学園の備品を借り受けている。シャルロッテは胴をつけるのに随分と難儀していた。そうだ、せっかく日本に来ているのだ。胸の大きな女性剣士が巻くと言う『さらし』を今度彼女に勧めてみるべきか。いや、まずは私が身をもって体験してみてからでも遅くはあるまい。
続いて竹刀を真っ直ぐではなく、斜め四十五度に振り下ろす。体の運びは基本的に同じで良いようだ。
私にとって嬉しいことは、この格好が昇武祭での基本正装と言うことだ。無論、弓術をする者が面具をつける訳もないが、私が出場を予定している
昇武祭とは、鳥上島に伝わる祭の一つで、この地で<八岐大蛇>を倒した際に命を落とした八人の若者の魂を鎮めるものだ。倒したのか封じたのかで意味合いが違ってきてしまうが、どちらにせよ自らの命を省みずに<原初の十種>に戦いを挑んだ勇敢な戦士達がいたことは事実であろう。
その
「んじゃ次、
一柳の掛け声が大きいものに変わる。前に踏み込むと同時に竹刀を振り下ろし、竹刀を振り上げると同時に後ろへ踏み込む。これをリズム良く繰り返す。何十本、何百本と続けるとなると足腰にきそうだ。
竹製の兵装を自分で用意できるのであれば、事前に申請し、実行委員会の了承を得て当日持ち込み可能となるらしい。白刃を好き勝手に振り回す訳にはいかないようだ。九割以上の学生が学園支給のこの兵装を用いて大会に挑むと言う。兵装の優劣は、技量と恩寵の差を簡単に覆す。授かった恩寵と培った技術を存分に発揮するには、兵装は平等な方が都合が良い。
竹刀は私の使う<氷の貴婦人>よりは短い。そして竹製である。木製ならば万が一と言うことがある。竹刀は先端がゴムで覆われており、防具を完全につければ大惨事には至らないだろう。
「はい、まだまだ〜! いち! に! さん! し!」
二十で終わるかと思えた号令は、順調に数を伸ばしていく。シャルロッテが号令に遅れ始めたのを除けば、皆は苦しい顔の一つも見せずに竹刀を振るっている。
シャルロッテは静と透子と一緒に
号令は続く。慣れない体の使い方をしてはいるが、ついていけてはいるようだ。私のは見よう見まねの代物だ、細かいところでの間違いは多々あるだろう。
人柄とはこのようなところにも出るようだ。激しい運動をしているにも関わらず、静は何時も通り無表情であるし、透子は苦しいのか号令に合わせる掛け声がややヤケクソ気味に聞こえてしまう。大豪寺は、恐らく、クラス一番の声を出しながらも竹刀はぶれることなく同じ軌道を通過している。
「はい、ラスト十! いち! に! さん! し!」
最後の十本が始まった。皆、ここぞとばかりに大声を張り上げ、肉体の疲労を隠そうとする。私もそれに習おうとするが、皆の竹刀を振る様が気になってそれどころではない。
「——きゅう! じゅ! ——……はい、お疲れ。んじゃ礼して防具つけっか。予選明後日だから今日は型じゃなくて打ち込み重視で良いよな?」
一柳の問いかけには誰も答えない。皆、肩で息を吐きながらも居住まいを正して座り、正面で見本を見せてくれた一柳に礼をする。
次いで防具をつけに入る。私も皆に続き、まず脛当てを左、右と順番に取り付け、ついで面をかぶり後手に縛る。左籠手、右籠手と手を通して竹刀を持って立ち上がる。
「と、じゃ、前の列は後ろ向いて。最初は切り返しから始めっから。二人は初めてだから相手になった奴はそこんとこ頼むわ」
一柳の声に導かれ、二列に並んでいた前列が後ろを向き、私のいる後列と相対する。
さて何事かと周りの様子を伺っていると、お互いが左手に逆手で竹刀を下げて、礼をする。両者静かに歩み寄って、右手で竹刀を抜き両手に構え、腰を落とす。しばしの間の後、そのままの姿勢で立ち上がる。あれが基本の姿勢、青眼の構えで、なるほど、あれが稽古前の礼か。
皆に遅れること数秒、私は相手となった
目を動かし、周りの稽古の様子を伺う。
相手側の列の者が竹刀を上段に振りかぶり、気合の声と共に一気に間合いを詰めて面へと振り下ろす。そのまま竹刀で相手を押し込みながら、側頭部を狙うように右左右左と交互に竹刀を繰り出す。およそ五発打ち込んだ後、今度は後退しながら左右の後頭部を狙い打つ。受けるこちら側は、最初の上段の一撃は竹刀を外して面具で受け止め、左右切り返しの連続斬りに打ち合わせるように竹刀を動かしている。
皆、剣が——いや、竹刀が、速い。日頃の修練の成果か。
それが終わると、上段よりの一撃を見舞い、受け手側を通り越して、構え直す。攻守後退か。
感心している場合ではない。小野川の竹刀を受ける番なのだ、私は。
私の視線が戻ったのを見て、小野川が気合の声をあげ竹刀を繰り出す。面具の上より初めて受けた竹刀は、軽い衝撃こそあるものの痛みはほとんどなかった。
彼の左右の切り返しに竹刀を合わせ後退、前進した後に、抜け打ちの一撃を再度面具にて受け止める。
私とシャルロッテの組が終わったのを確認してから一柳が号令を出す。
「と、攻守後退で」
今度は私が攻撃の番か。
竹刀で打突する、と言うよりは動きをなぞっているに近い。考えながら打つのではなく、考えてそれに沿うように体を動かしていると言うのが正しいか。
運剣の法が微妙に異なるのだ。
剣と体が一致し運ばれるのに対し、私の剣は必ずしもそうではない。体で剣を運ぶよりも、手だけで剣を動かす方が速度に勝る。無論、私の剣でも体運びと一致させる斬り方も存在する。
私の習った剣では、剣を振るう時間を四種類に区切っている。手と腕だけで剣を動かす時間、体全身で動かす時間、それに一歩の足の踏み込みを加える時間、一歩ではなく複数歩の踏み込みを加える時間、それら四種類だ。
今稽古している運剣は、体全体と一歩の踏み込みでの時間となるだろう。四つの時間、それぞれを重視して稽古する私の剣と比べ、今私がしている稽古で得られるものは何だろうか?
「と、今日はも一回いくか。もっかい攻守後退で」
再度、受け手側に回る。
踏み込み斬る——思わず萌の剣を思い出した。この稽古で培われるのは、一つに死地へと自ら斬り込んでいく気概が挙げられるだろう。それこそが肝要だ。萌のように自らを省みない特攻は正直自重して貰いたいところだが、剣を振るう上で何よりも大切なのは己が斬りに行く気迫だ。少なくとも私はそう思う。
私のような攻撃一辺倒の剣は祖国では見られるものの、防御に重点を置いたイギリス式の剣や、フットワークを重視したスペイン式の剣など、剣は様々で、正解はない。敵を斬れるかどうか、それこそが肝要だからだ。
「よし、んじゃ礼して回るか」
先ほどの礼を逆からなぞる。即ち、腰を落としてから竹刀を左手に収め、静かに数歩下がり礼をする。
二列が反時計周りに一つずれる。今度の私の相手は
「と、次は正面打ちで」
礼をした後、竹刀を構えて立ち会う。
それからは一柳の号令のもと、様々に竹刀を振るい、その打撃を体感した。
上段からの打ち込み、右籠手からの上段、上段をいなしての横胴薙ぎ——踏み込み、打ち込み、発声、そして振るった後の残心——その全てを一致させる稽古だと感じた。
これは『剣術』の授業だ。次年度に習う『剣道』とは異なると言う。
剣道とは道、即ち日本の剣士として進むべき姿を履修する科目だ。対し、剣術とは術、日本の剣をどう扱うのかと言う方法論を学ぶ科目だ。剣道とは剣士としてのゴールを目指すものであり技術のみならず倫理的な理解度も問われる。剣術とはそこに至るまでの方法論だ。剣術の上に剣道がある、そう西田は私に教えてくれた。
つまり、そうやすやすとこの国の剣の深部は体験できないと言うことだ。
私達は竹刀での基本的な打ち込みを順々にこなしていく。汗が流れ落ち、面具がやや蒸れるのが気になるが、体に訪れる疲労は心地よいものだ。
恩寵を全く使わない、古式の剣術稽古だ。全員が同じ土台に立ち同じ技術を取得せんと切磋琢磨する。いいものだ。
「よーし、そんじゃそろそろ打ち込みは終わりで、掛かり稽古に行こっか」
そして列が一つ動き、
「む?」
「——!」
萌が私の相手となった。
「あー、掛かり側が自由に攻めっから、元立ち側は受けを頼むわ。んじゃ、各自始めちゃって」
計らずも萌が攻め手側となった。
互いに礼を取り、青眼の構えに竹刀を運ぶ。
さて、どうでるか——。
彼は言った、自分の剣では立ち合いは許されていない、と。ならばこの場、立ち合いを強制される場で彼が見せる剣とはいかようなものなのか……?
一つ、唾を飲み込んだ。彼は青眼からやや剣先を下げ、地面と水平近くに竹刀を取る。
「むむ?」
思わず声が出た。はて、これは一体なんなのかと。
彼が足を小刻みに動かし、こちらに斬り込むタイミングを計る。
動いた、だが発声はない。眼鏡をしている今の私では彼の声は推し量ることしかできない。
右の籠手、上段、右胴、籠手、上段の面、面、面と彼の連撃が続く。
が、残念なことに私はその全てを竹刀で払っていた。
踏み込みが甘い。昨夜見せた死地での今一歩の踏み込みが見られない。竹刀は速い。速いが、あの恐ろしくも芸術的な十一連撃と比べるまでもない。
昨晩は恩寵兵装による運剣だった。それをただの感応型の竹刀と比べては酷だろう。
だが、私の中に黒い何かがふつふつと湧き上がってきたのも事実だ。
手を抜かれている。そう私には見える。
眼鏡を外し、それが真実かどうか見るべきだったのかも知れないが、面具を縛った今となっては眼鏡を取って<強制視>することは難しい。
「じゃ攻守交代で」
私は竹刀を下段後方、『飢狼』に取った。萌のように、今日習った運剣法での立ち合いをすべきだったのかも知れないが、剣士としてのドス黒い意地がそれを上回っていた。
これは防具に覆われた模造刀を使っての立ち合いなのだ。彼があの奇抜な構えからの斬撃を放ったとしても、クラス中の皆が立ち会うこの場では気にも留められないだろう。万が一にも命の危険があろうはずもない。
彼が己の手の内を隠すというのなら——宜しい、私の全力を持ってその目を覚まさせてくれよう。
「シッ!」
真正面から踏み込む、初撃に小細工は不要だ。
下段から右頭部側面を狙った一撃は萌の竹刀によって防がれる。
私は間合いを開くのではなく、両足で地面の板を蹴り、逆に一気に詰める。
「——!?」
彼の顔色が変わる。が、もう遅いぞ、萌!
竹刀を持ったまま体ごと体当たりをして彼をぶちかます。わずかに開いた時間的、空間的間に、私は彼の右手首を狙い竹刀を叩き落とす。間髪入れずにそれを喉元へと突き立て、再度接近する。彼は対応できず、籠手、喉と私に打たれ続ける。
接近した私は竹刀同士を打ち合わせながら左手で彼の左腕を掴む。そのまま左ひじを押し曲げ彼の胴体部に胴鎧の上から押し当て——
「セイッ!!」
一気に彼を吹き飛ばす。
しまった、やり過ぎた……! そう思った時、彼は宙を舞っていた。
一秒後、いや二秒後に、彼は体育館の壁にしたたかに叩きつけられ、どたりと床に倒れこんだ。
私は萌と二人、胴と垂以外の防具を取って、皆の様子を体育館の隅で眺めていた。
皆が稽古に励んでいる間、私達は正座で縮こまりながら、気まずい沈黙を味わっていた。
「すまない……。先程の授業といい面目ない……。私のせいで君に色々と迷惑をかけてしまった」
——い、いえ、そんな……。
眼鏡は外している。
「つい頭に余計な血が上ってしまった。本当にすまない」
——え……?
頭をさげる私に萌はキョトンとした表情で食い入るように私を見る。
彼は小さくため息をつくと、
——頭を上げて下さい、リズさん。僕、気にしてませんから。
と私に言う。だが私の目には彼が落胆し、私に少し呆れているのが分かってしまった。
「萌、怪我の具合はどうだ? 昨晩の刺し傷が開いたと言うことはないか?」
——え? 少しあざっぽくなってるみたいですけど、触っても痛くないですよ。
その言葉を証明するように、彼は昨晩ヒトガタに刺された箇所を触ってみせる。
やはり治りが早い。この島の『存在強化』の結界が良い方向に働いているせいもあろう。
彼の体質も影響しているのだろう。そこで思い出せた。図らずも彼との調べ物の際に見た資料の記述だ。旧史末期、恩寵に覚醒した新人類と旧人類が入り混じっていた時、新人類の恩寵は旧人類に驚くほど効果を発揮したとあった。恩寵に対し耐性が無いため、とその本では推察していた。
であるのならば、この世界中で最も旧人類に近いであろう彼には、私達の恩寵は最も効果を発揮する、そう言えるのか。それならば、信徒ではない彼への過剰なまでのヒーリングも頷ける部分がある。
「ん!?」
思わず我が目を疑ってしまった。
——え? この刀、どうかしましたか?
彼が脇へと置いている彼の刀に目がいった。のだが……
——もしかして、鞘、へこんじゃってます? 昨日あんなに乱暴に扱っちゃったし……。触った感じだと大丈夫だったんですけど、リズさんの目だとどれくらい歪んでるかとか見えるんですよね? はぁ〜、拵えの修理ってどれくらいかかるんだろ? そもそも青江さんから借りてるのに、お金ないよぅ〜……。
「何も見えない」
——え?
彼の刀、<獄焔茶釜>を見ているのだが、何も文字が浮かんでこない。
両目に意識を集中させ、刀を凝視するも、同じだ。
「——……」
目の奥からチリチリと焼けるような痛みが疼き出す。だが、
「見えない。何も見えてこない」
知っているはずの刀の銘すら浮かんでこなかった。
——え、え−!? 壊れちゃったんですかぁ〜!?
萌が頭を抱える。
「いや、そんな訳は、ないはずだ」
待てよ、考えられるとしたら……
——うわぁぁん、どどど、どうしましょう〜!!
「落ち着かないか。今は授業中だぞ」
——え、あ、はい。うぅぅ〜……。
萌が今度はしゅ〜んと縮こまる。
体育館の隅で座る我々の前では、皆が稽古に励んでいる。自由に打ち合いをする稽古をしているようだ。一柳は
全ての組が稽古に汗を流している訳ではないようだ。一柳は列から離れ周りで打ち合う皆の様子を見ているようだし、休憩している組もチラホラ見受けられる。沢庵教諭はうるさいことは言わないようだ。それを黙認している。
——あ! 青江さん!?
「……ん……」
静が我々のところにやってきた。萌の状態が気になったのか、稽古を抜け出して来てくれたようだ。正座する私たちの隣に彼女が腰を屈める。
——うわ〜ん、ごめんなさ〜い! 僕、青江さんから借りてる刀を壊しちゃいました〜!
「…………?」
萌が泣き出さんばかりの勢いで叫び声を上げているが、当然のことながら彼女の耳には届かない。
——え?
静が右の籠手を外し、その手を伸ばして萌の鼻をスッと摘む。
「……ん〜……」
静の恩寵<感覚共有>だ。肌が触れ合っていれば相手の意識や感情を共有できる。
「……ん……」
どうやら萌の状態を確認してくれたようだ。
彼女は萌に一度だけ頷いて見せ、手を離して今度は私の鼻を摘む。
「……ん……」
彼女は表情を全く変えず、私に頷いた。
静は私から手を離し、その手を籠手の中に収め、竹刀を手に下げ稽古の列に戻っていく。
「萌、安心しろ。その刀は壊れてなどいない」
——え、え?
萌は未だ戸惑っている。
「私の目に何も映らないのは、君との同調が進んだからだろう」
——同調、ってええと、兵装に込められた想いを理解するって言うのですか?
「ああ。そうすることで自分の恩寵が及ぶ肉体の一部とすることができる。君の恩寵がこの刀にも及んでいるから、そのせいで私の目には何も映らないということだろう」
——う〜? まだこんがらがってるんですけど、そもそも僕の恩寵って、リズさんにはどう見えるんですか?
少し気まずいが仕方がないか。
「こうだ。『恩寵常時使用: 』だ。つまり、本来は文字化され見えるはずの位置に何も無い空白が見えている」
——うわぁ、凄い。じゃあリズさんって僕の恩寵が<何も無い>って分かってたんですね?
「ん、ああ」
——そっか。あ〜! 僕、分かりました。リズさんが眼鏡を外して僕のこと最初に見た時、ビックリしてたのってこれが原因なんですね?
「む——」
良く覚えているものだと感心する一方で、彼に気付かれていた自分を恥じる。
——他の人もそんな風に見えるんですか?
「いや、人それぞれだ。大豪寺の恩寵はただ、拡大身体、と言う四文字だけが映った」
やはり大豪寺だ。私の話を聞いて合点がいったのか、萌がウンウンと頷く。
私達の目の前では激しい稽古が執り行われている。その熱が私と萌のところまで来るのを拒んでいるかのように、私たちの間には優しい空気が流れていた。
「萌、変わったことはないか?」
——え? 変わったこと、ですか?
「幾ら兵装との同調が進んでいようとも、急に何も映らなくなるというのは気になる。君の場合、その刀を抜いた記憶が欠落しているのも気掛かりだ。恩寵兵装の中には、込められた想いが強すぎるが故に使用者を狂わせてしまうものが存在する。所謂、魔剣、邪剣と呼ばれるものだ」
——う……。
「この国の場合は、妖刀、と呼ぶべきか? 名剣、名刀には違いなく、自身の身体能力や恩寵を大幅に向上させれくれるものなんだが……。いかんせん、遅効性の毒のように使用者を知らずのうちに蝕んでいく代物だ」
私の言葉に萌は唸りながら考えていたが、
——う〜、何時も通りだと思います、はい。でも抜いている時の記憶が曖昧なんですよね。
「昨晩のことは憶えているのか?」
——う〜ん……。刀を抜いたことは朧げに憶えてるんですけど、そっから国司さんに助けて貰うまでの記憶が抜け落ちてます。
国司殿に助けて貰ったのではなく、攻撃を強行しようとする萌を国司殿が連れ戻したのが正解なのだが。覚えていないのか。
——あとは、その、う〜……。
「他に何かあるのか?」
——僕、目が覚めたらリズさんの部屋で寝てたんですけど……。
「それは今朝方話しただろう?」
——しかも、上半身裸でしたし……。
「血で汚れていたし、傷の経過を見なければならなかったからな」
——うぅ……。
萌が顔から湯気を出しながら真っ赤になる。
そうか、萌は自分が修道院の禁域に足を踏み入れてしまったことを恥じているのか。緊急事態だから仕方なきことだと私は考えたが、彼の気持ちを推し量るべきだった。
「ん、と、まだ時間あっから、ここからは希望者同士で組んでやるか」
一柳の掛け声で、組んでいた者達がバラバラになり、思い思いの相手を探して声をかけていく。出来上がった組はお互いに礼をかわし、気合を雄叫びをあげて打ち合いを演じる。
シャルロッテ達に混じって体を動かそうかとも思ったが、萌を怪我させてしまった手前、無理に彼のそばを離れるのは失礼だろう。それに、彼との何処か心地良い会話を続けていたい自分がいた。
彼に聞きたいこと、問わねばいけないことがあるのだ。けれども、それを口にしてしまうことで、私達の間に流れる穏やかな空気が壊れてしまいそうで、踏み出せない自分がいた。
私は咳払いを一つ入れてから、慎重に切り出した。
「萌、君の剣術は、真鋭ジゲン流と言ったか?」
——はい。ふふ、僕、物覚えが悪かったからお師匠様から全部教わってませんけど。
師の話をする彼の声は明るい。良い思い出が沢山あるのだろう。
「とても激しい剣だな。ただ構えが少ないのが気になっていてな。あれは何と言うんだ?」
——
「構えではない?」
隅で私達は会話を続けるが、稽古は続いている。床を蹴る音、竹刀がぶつかり合う音、何よりも野太い気合の声が広間中に響き渡っている。
おうむ返しに問うた私に、萌の顔色が曇る。答えにくいのか、いや、答えてしまうと私に怒られそうになる、か。
萌が覚悟を決めた表情で話し始めた。
——その、真鋭ジゲン流だと、構えは防御の型って考えなんです。防御に回るんじゃなくてあくまで攻撃に専念するんです。敵が守りを固めたのならその守りごと斬る強い剣で、敵が仕掛けてきたのならそれを凌駕する速い剣で先に斬る——そう言う考えなんです。
それで合点がいった、彼の稽古と戦い方に。そして、腹が立った。
「つまり、君の剣には守りが無い、そういうことか?」
——う……。はい、そうです……。
「例え師から守りの無い剣を教えられたとしても、防御の必要性は考えなかったのか?」
——う……、大事だと思います……。
「守りの無い剣しか知らないからといって、怪異の群れに一人、援護もなく突っ込むのが最善だと思うのか?」
——ぅ……。思い、ません……。
やはり彼は覚えている。刃をその鞘に収めたままで一人単騎、女王と親衛隊に突撃したことを。
やはり腹が立つ。
「君は、今からあの夜に戻れるとして、いやあの夜がまた再現されたとして、どうする?」
——うぅ……。同じことを、すると思います。
「命の保証など、何処にもないんだぞ。君はそんなに死にたいのか?」
——うぅ……。違います。
腹が立つ、彼の決意を変えられない自分自身に。
「えっ! 見て見て、あの二人!」
「すっごい雲行き怪しいんだけど、どうなってるの? さっきまであんなに惚気てたのに」
「あっ! 距離を置きたいとか? ウソーん、リズさんってば東雲君のことふっちゃうの?」
「付き合ってまだ二、三日でしょ?」
「はっ! アタシにもチャンスがまだあるってこと!?」
「誰も君に命を捨てろとは求めていない。何故、君は、そこまでして戦おうとする?」
私の問いに、彼は、これまでとはうって変わった力強い口調で答えた。
——それは、『チェスト』です。
心臓の鼓動が高鳴った。
遠い冬の日の何処までも青い空が、私の両眼に色鮮やかに蘇った。
「いや、それは違う、はずだ、萌。『チェスト』とは、鞘から剣を抜き放ちながら下から上へ斬り上げる技だろう?」
——え、そうなんですか?
急に真顔になった萌に聞き返された。
「い、いや。そのはずだ」
あの光景は、私にとっては天啓に等しい。未だもって、この目で見たはずのものが私の理解の範疇を超えている。
——う〜ん、僕はお師匠様から教えて貰っただけですから。リズさんの方が正しいのかな?
な、なんだその言い方は? 防御など無い捨て身の剣など妄信しているのに、師の言葉より私を信じるのか?
——僕がお師匠様から聞いたのは、『チェスト』って言うのは薩摩の方言で、『死ぬ気でいったれー』とか、『もやもやな迷いを晴らす気合の声』だって聞きました。
「つまり、それは——」
『ハロハロハロハ〜。リーゼリッヒちゃ〜ん! お婆ちゃんですよー〜!!」
この人の声が、私の頭に響いてしまった。
——え、リズさん?
『リーゼリッヒちゃぁ〜ん! います、そこにいます〜?』
黙って無視しきれない自分が恨めしい。
「管区長殿、授業中ですので失礼します」
『シクシクシク。リーゼリッヒちゃんが日に日に冷たくなってお婆ちゃん悲しい』
「一体何用ですか? 暇だから話しかけてみた、と仰るのでしたら今晩のスープはただのお湯にしますが?」
『あらま! リーゼリッヒちゃんってば! そこまでお婆ちゃんのことを分かってくれるなんて。シクシク、嬉しくて涙で溺れちゃいそう』
——あ、あのーリズさん?
私の声は萌には届いていない。
『告解』とは、自らの罪を告白し、主の子から継承されてきた秘跡を持つ司祭が許しを与えることだ。秘跡を受け継ぐ司祭と懺悔する者の会話は秘匿され、外に漏れることはない。
つまり管区長殿の『告解』を模す恩寵によって会話している私の声は、管区長殿にしか聞こえない。
萌にしてみれば、突然私が怒り出して口をパクパクしているようにしか見えないだろう。
「管区長殿、授業に集中させて貰えますか? 隣にいる萌に不審がられています」
『あらま、萌ちゃんもそこにいるの?』
「管区長殿、お分かりかと思いますが、」
突如、萌の体がビクンと浮かび上がる。萌が口をパクパクさせながら私を見る。が、
何と! 私の目に彼の言葉が映らないではないか!
興味深い。私の目で読み取れるのは、顔や首の筋肉と口や舌の動きだ。筋肉の微動値は読み取れるものの、言葉だけが見えない。管区長殿の恩寵故か。
「萌、それが管区長殿の恩寵だそうだ。すまない」
萌が涙目になりながら私に何かを訴える。何と言われているのか、言おうとしているのか、想像するに容易い。
恩寵は時に相対する時がある。恩寵兵装ともなると尚更だ。『必ず貫く槍』を実現すべく名匠が生涯をかけて錬成した槍と、同じように鍛え上げられた『全てを防ぐ盾』——この二つは両立しないはずだ。槍が盾を貫けば、盾は偽となり、盾が槍を防げば、槍は偽となる。
これをこの国では矛盾と呼ぶ、辻褄が合わないことだ。
しかし現実は単純だ。そんな槍と盾がぶつかり合って、どちらが勝つか。より強いものが勝つ。錬成者が練り上げた『必ず』や『全て』の理論がより完璧な方か、もしくは、その兵装を上手に使いこなす方が他を打ち負かす。
つまり、『強制的に彼の言葉を読む』私の力より、管区長殿の『告解』が優っているのだ。故に私は彼が訴えることが見えない。
しかし妙だ。完璧な『告解』を実現する恩寵であれば、外の情報からはシャットアウトされるはずだ。私が管区長殿から話しかけられていた時に、稽古の音は聞こえたし、萌の声を見ることはできた。私のあずかり知らぬところがあるのだろう。
彼の肩に手を添えながら、
「すまない……」
私の偽らざる思いを告げる。
「え〜! うっそ!! 見て見て!」
「あ〜ん! 東雲君、振られちゃったかー」
「うちらが騒ぎすぎちゃったのが悪かったかな〜」
「でもリズさんにはそこにめげないで突っ走って欲しかったなぁ〜」
四限終了を告げる振鈴が聞こえた。本日の授業はこれまでとなる。
「と、んじゃ皆お疲れ。整列頼むわ、礼すっから」
一柳の号令で、向き合って打ち合っていた皆が互いに礼をし、正面に向き直る。その場に座り、防具の結ぶ紐をほどく。
私達は後ろからその様子を姿勢を正しながら見ていた。萌の体がビクンビクンと震えている。
管区長殿の口撃で精神的なものが削られ続けているのであろう。察するに余りある。
そして皆で正座をしてから礼をし、授業終了となった。
「行くか、萌」
私は防具を脇に抱えて立ち上がる。彼もそれに続くが、涙が止まっていない。
「安心しろ。君の無念は必ず晴らす」
萌が私の手を握り、何度も何度も頭を下げる。
「主ら、」
防具を用具倉庫に片付けようとする私達を、沢庵教諭が呼び止める。
「警備局から連絡が入った。今日の夜警は二十時ではなく十五時から開始とな」
彼に聞きたいこと、管区長殿に問い詰めねばならぬこと、多々あったのだが——どうやら、せっかくの午前授業である今日の午後の予定はキャンセルしなければならなくなったようだ。
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