午前: 異文化交流 [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]

 鳥上学園に留学させて貰い、はや五日目だ。今日の私は浮き足立つ我が身を抑えられない。

 それは今日の授業が午前中で終わるからではない。これから受ける授業が私にとって全くの未知な代物だからだ。

 体操着に着替え終えた私はシャルロッテ達と共に授業が行われる第三体育館へと向かっている。日差しが雲に隠れているが、暑い夏の日だ。

 シャルロッテを極東管区の修道院に送り届けた時点で私の任務は終了していた。それが、ルツェルブルグ家の好意と日本皇国の計らいにより、私もシャルロッテと一緒に日本の学府で学ばせて貰う機会を得た。

 その学校——すなわちこの鳥上学園が恩寵よりも武術や武道精神を重視すると知った私の昂りようは再現しようがない。

「私、次の授業、すっごく楽しみです! ザゼン? をするのなんて生まれて初めてです!」

「最初は足が痛いよ?」

「変に動くと沢庵先生からバシーって叩かれちゃうし」

「えぇえぇ〜!?」

 五日間、授業を受けて感じるのは、私が国元で受けている教育と文化の差異はあれど基本は同じだと言うことだ。

 無論、鳥上学園では聖書教典の解釈講義や賛美歌の合唱はしない。逆に国元では、日本国古来の考え方を学ぶ国学や、日本人としてどう怪異と戦うかを論じる士道は学べなかった。

「シャルちゃんさ〜、やっぱ小さいよ。もっと大きい方が良いんじゃない?」

「え、え? あのあの、でもこれ以上サイズを大きくすると裾がダブダブで変になっちゃうんです」

「えぇ〜。前から思ってたんだけど胸がピチピチになっちゃってるから男子連中とか他のクラスの奴らがやらしー目で見てたよ〜?」

「うぅ〜うらやましいぞ、シャルちー。そのお肉を分けて——ちょっ!」

「ひゃん!」

「ふははははーー! 怪盗πパイタッチ仮面、確かに参上いたしたのだー!」

「だーかーらー! 透子止めなってばぁー!」

「そーそー! 私達だってお触りしたいの我慢してるんだよぉ?」

「あのあの、皆さん、そのその、触ってみたいのですか、私の胸……?」

「ゴ、ゴクリ……」

「ダメよ、シャルちゃん! ダメダメ! 世の中にはね、私みたいな変な趣味の人とか多いんだからね! 許しちゃダメなのこう言うことは!!」

「え、え? は、はい……」

「うんうん」

 数学、自然科学、語学、怪異学や恩寵学などの基本的な座学は共通だ。体を動かす実技、武術や格闘術も同様だ。

「到着〜っと。あ、シャルちゃんもリズさんも靴下まで入り口のとこで脱いで、靴と一緒に下駄箱に入れちゃってね。ここ、裸足だから」

 到着したのは二階建ての建物だ。第三体育館との名前だが、木造の立派な建物だ。私達のクラスが入っている校舎とは雲泥の差である。

「はい」

「ありがとう、舞衣」

「え!? う、うん。お安い御用っていうか、何て言うか——」

「なぁ〜に、赤くなってんのよ〜」

「うっさい! ほっとけぇ! あ、そっちじゃなくて階段昇った二階だから!」

 授業は正面にある板敷の広い部屋ではなく、左手の階段の上でするようだ。

 口内に溜まった唾を飲み、背負う<氷の貴婦人>のベルトを握り直し、一歩、また一歩と足を踏み出す。

 未知なる領域——『坐禅』を踏破せんと。


 そして、『坐禅』の授業が始まった。

 私は今、畳と呼ばれる板を何枚も敷き詰められた間にいる。若草のような明るい色のそれは独特の弾力性を持ち肌触りは抜群だ。座布団と言うクッションの上に、まさに今、坐禅をしているのだが、足が、痛い。

 左の太腿部に右足を乗せ、右の大腿部に左を乗せるこの姿勢、私が慣れていないだけなのか、気を抜くと眉をひそめてしまいそうだ。

 授業を受け持つのはクラス担任の沢庵教諭だ。何時もの作務衣と言う和風の服装に、この時間では木の棒を持っている。普段とは放つ威厳が違うよう感じる。

 私とシャルロッテにとって生まれて初めての坐禅であったが説明は簡素なものだった。

 結跏趺坐けっかふざと言う足の組み方をし、両手は手のひらを上に向け、左手を下に右手を上に重ね指同士を重ねる。これを法界定印ほっかいじょういんと呼ぶそうだ。

 あとは背筋を伸ばし、腹からゆっくりと呼吸する。目は閉じていても半開きでも良いそうだ。

『日々の雑念を捨て、心を無にせよ、以上!』

 それだけである。

 禅の歴史は深い。私の限られた知識だけでも達する境地は剣に通じるものがあると書いた資料がある。細かい作法や坐禅自体の解釈は様々であり、それこそ坐禅をして学ぶに値す

「喝ーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

「くっ!?」

 沢庵教諭の大喝と共に、木の棒が私の両肩へパパンと打ち落とされる。

「心を無にせよ。ただこの時に集中するが良い」

「は、はい……」

 叩かれた打棒は凄まじい勢いで飛んできたにもかかわらず、手で軽く叩かれた程度の痛みだった。

 くっ、何時の間に私の背後へと回り込んだのだ。音も気配も何も感じなかった。流石、と言ったところか。

 意識を腹部のへそに集中し、呼吸を落ち着かせる。

 雑念を捨て、心を無にする——

 はたと気付く。

 雑念とは何なのか、と。

 坐禅を学ぶ授業中に坐禅のことを考えるのは雑念と呼ぶのだろうか?

 怪異と対峙する際に敵の特性や変化する戦場の状況を考えるのは雑なのだろうか?

 否、それは違うはずだ。

「——!?」

 いや、待て。こう自問自答することこそが心の中に要らぬものがあると言うことなのか?

 即ち、雑念とは今まさに私が考えているものそれ自体であると

「喝ーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

「くっ!? し、失礼いたしました……」

 不覚……! またしても頂くとは。

 周りからはクスクスと忍び笑いが聞こえる。

 それも束の間、畳の間に静寂が訪れる。

「?」

 不意に音も無く肩が叩かれる。

 沢庵教諭だ。私と目が合うと、教諭は棒の先をぐるりと回す。

 そうか、皆の坐禅の様子を観察し学べということか。

 皆の迷惑にならぬようゆっくりと首を回す。

 向かい側の列の隅で座る大豪寺を見る。素人目にも分かる、堂に入った坐禅だ。姿勢もさることながら、大柄な体格の毅然とした座法、呼吸だ。周囲の皆と比べると、明らかに遅い。いや、深いと言うべきか。彼の一呼吸の内に皆は三回は呼吸を終えている。あそこまで深く呼吸をすれば心中は晴れやかに無となるだろう。

 次いで、私の二つ隣りで坐禅を組むシャルロッテに目が行った。

 意外なことに、いや、意外とは彼女に失礼か。大豪寺に負けずとも劣らず、彼とはどこか対照的な坐禅だった。

 足を組み手を重ね口元に静かな微笑を浮かべながら目をそっとつむる彼女は、さる画匠が生涯かけて描き上げた生きる肖像のようである。私のような凡人には決して持ち得ぬ翼を持った天使のような美しさ、気品がある。

 こと坐禅においては彼女と私のスタートラインは同じであったはずだが、すでに手の届かない距離にまで離されてしまったようだ。

 血統の差——考えたくない言葉が頭をよぎる。それと共に、さる恩寵学者が言ったとされる言葉が脳裏を掠めた。


『人の価値とは、九十九パーセントの血統と一パーセントの努力である』


 この言葉は、どんな優れた恩寵を持っていても、一パーセントの努力を積み重ねなければ成功に届かないと言うのが真意だ。

 彼を、見る——いや、見てしまった。彼は知らないだろう、欧州で提言されたこんな諺など。いや、知っていたとしても、僕はそんなこと気にしませんよ、と微笑むに違いない。

 第一おかしいではないか。私とシャルロッテの差が埋めがたい血統によるものだとしたら、私と彼の差は何なんだ? 恩寵を何も持たない彼と、怪異の特性や弱点すら見ることができる私——どちらが優れているかとなれば、私になるだろうか……。

 くそっ! どこまでバカなのだ、私は! そんな下らない物差しで人を評価するなど、一体私は何様なんだ。自分への憎悪と嫌悪感が、昨晩の攻撃を蘇らせる。

 彼があの緋色に発炎する刀で放った死の殺界と呼ぶべき斬撃を。

 分からない。一体どのような境地であのような連撃を振るったのか。私の言葉など全く聞こうともせず、己の命を溝に捨てるが如き戦いぶりは何だと言うのだ。

 どうして私は彼のことを考えると、胸をかきむしられるように苦しいのか。

 教えてくれないか? 聞きたいことが山のようにある。

 君はこう答えてくれたな、あの夕暮れの中、君の剣が目指すものは何かと言う私の問いに。

『それは、自分を好きになることです』——私の目には君がとても誇らしげに見えた。

 つまりそれは……君は自分のことが嫌いなのか?

 それなのにどうしてあんなにも、私とは比べようもなく力強く剣を振るえるんだ?


「喝ーーーーーーーーーーーーーッ!!」


「くっ!?」

 肩に走る痛みに我に返る。しまった、一体私は何を考えていた!?

「バッカモンがぁーーーッ! 何を惚けておった喝ァーーーーーーー!!」

 沢庵教諭の建物全体を震わす大音量に、クラスの皆全員が目を開け何事かと私を見ているではないか。

 不覚——!

「く……申し訳ありません……。萌のことを、考えていました」

 偽らざる本心を述べる。

「……?」

「…………?」

「キャーーーーーーーッ!!」

「ウォォォーーーーーーーッ!!」

「ぬ?」

「え?」

 何だ、何だ? 皆が大騒ぎをしている。

「ちょっともーリズさんってばー! あのさー! 真顔でノロケるのナシナシナシー!」

「いい加減にしないと根掘り葉掘りあることないことまで聞いちゃうぞー!」

「おう、萌、ラブラブじゃねーかこのヤロー! 先に彼女作った方が昼飯おごるって約束覚えてるよな?」

「東雲、頼む! どうやってヴォルフハルトさんを攻略したのか教えてくれ! シャルロッテちゃんに試させてくれよぅ!」

 萌の近くにいる男子が彼のことをバシバシと叩きまくる。大豪寺も腕を伸ばし、いや拡大しがら彼をつついているではないか。

 当の萌はというと首から頭のてっぺんまで真っ赤にさせながらも坐禅の姿勢を崩していない。

 皆が騒然とする中、

「嗚呼、いけません、ハジメさん。この身は既に剣に捧げているのです。誰かを好きになることなど許されないのです」

 シャルロッテが役者のように大振りな身振りで芝居ががった声を上げる。

 騒いでいた皆が何事かと彼女を見入る。

 すると、

「でも僕、リズっちのことが——」

 隣に座る透子がシャルロッテに負けじと声をあげる。しかし、体操着以外透明なせいか、どのように動いているかは想像するしかない。眼鏡を外し、見るべきだろうか。

「ハジメさん……」

「リズっち……」

 役に入っているところを申し訳ないのだが、私は萌を『はじめ』と呼ぶし、彼は私を『りずさん』と呼ぶ。

 二人は見つめ合って——ガバシッと抱き合う。

「キャーーーーーー!」

「ウォォーーーーーー!」

「……おぉ……」

 皆がスタンディングオベーションで拍手せんばかりに盛り上がる。

「喝ァーーーーーーーーーーーーッ!」

「ひゃん!?」

「あタァ!?」

 目にも止まらる沢庵教諭の一喝と連撃がシャルロッテと透子の肩に襲いかかる。

「ま、待って下さい! 私には事情がさっぱり掴めないのですが、この件、全ては私に責があります、恐らく。どうか皆のことは——なっ!?」

 責めるのはお止め下さいと続けようとしたが、さっきまではしゃいでいたはずの皆が何食わぬ顔で坐禅に戻っているではないか! 肩を打たれた透子とシャルロッテもだ。

 違いと言えば、シャルロッテの口元がさっきよりもほころんでいるのと、萌の顔色が依然真っ赤なことぐらいだ。

 この変わり身は一体!?

「リーゼリッヒ・ヴォルフハルト……よう言うた。全てはお主の雑念より出でしこと! 観念せい、喝ァーーーーーッ!!」

 私の肩へ無動作に打ち出されるその一撃を、

「ふっ!」

「ヌ!?」

「おぉー!!」

「おぉ〜!」

 届く寸前に、両手の掌で木の棒をはっしと受け止める。

「フッ、やるではないか」

 発声と打撃が完璧に調和した一撃だ。人に物を教えるが故のハーモニーと言える。が、それ故に相手との距離関係が分かってしまえば、止めるタイミングを計るのは可能!

「教員生活数十年なれど、儂の警策けいさくを止めたのは主が久しぶりじゃわい」

 静かに木の棒が引かれ、

「止めるバカがおる喝ァーーーーーーッ!」

「ガハッ!?」

 バ、バカな!? 速い! 先程のそれよりも数段に上! しかし感じる痛みは最初と同じく肩を軽く叩かれた程度でしかない! 肩で感じた木の質量と速度からでは計算が合わない! 私の理解を超えた剣がこんなにも身近にあるのか!?

「その覚悟、その性根、儂の全力を持って叩き直してしんぜよう」

「もとよりそのつもりです」

 身住まいを正すほんの一瞬だけ、萌と目が合った。

 彼は恥ずかしそうに、伏せ目がちに私を見ていた。


「喝ァーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」


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