昼: 再会 [東雲萌]

 う〜ん、学校へ行く足が何処となく疲れているように感じる。

 何でだろう? 一日に二回も学園に行くからかなぁって思ったけど、夜警の時はそうでもない。外が夜だからかな? う〜、変に慣れちゃってて緊張感が薄れちゃってるとか? ダメだぞ、僕。そういう時にヘマをやっちゃうものだ。夜警を続けてからヘマ続きたけど。

 う〜ん、道すがらまた考える。

 着ているのは国司さんから借りている感応型の恩寵兵装である具足だ。佩いているのはこちらも借り物の<獄焔茶釜>だ。学園に行く時よりは重たい格好だけど、見た目程の重量感は無い。

 空は雲に覆われている。朝からどんよりとした雰囲気だ。日に日に天気が段々と悪くなっている気がする。リズさんが転校した日はあんなに晴れてたのに。このままだと雨が降っちゃいそうだ。

 学園に近づくにつれ、部活に励む人達の声が大きくなってくる。

 うぅ、凄い迫力の気合だ。去年の今頃はずっと志水君の神社にお邪魔してたから分からなかったけど、昇武祭に向けて皆すっごい頑張ってるんだ。

 よし!

 ほっぺをパシンと叩いて気合を入れる。僕は僕のできることを——これからする夜警を精一杯しよう!

 あれ? 夜にするから夜警な訳だから……ただの巡回になるのかな? リズさんに聞いてみたら怒られちゃいそうだからこっそり国司さんに聞いてみよう。

 学園に着く。集合場所の東門へと足を運ぶ。

「やあ、君は、東雲萌君だったか」

 ——あ、どうも。こんにちは。

 あの夜、僕やリズさん達の前で超爆弾発言をした須佐さんだった。

「怪我の具合はどうかな?」

 ——えっと、大丈夫です。

 怪我をしたところを、鎧の上からポンポンと叩く。

 あれ、本人だ。何でだろう? 政庁の偉い人だよね? 今回の警備時間変更の話なんて部下の人にさせちゃえばいい訳だし。国司さんにあらかじめ教えておけばいいよね? 昨晩、巣が発生した訳だから対応で忙しいはず……。

「ふむ、視線がやや痛いな」

 ——え?

 須佐さんの言う通り、行き交う学生達は僕達のことをうさんくさいものを見るような目でチラチラと眺めてくる。

 完全武装の学生と、背広で学園にいるオジサン——うん、変な組み合わせだ。立場が逆だったら僕も見ちゃうかも。

 程なくしてリズさんが到着した。

「萌、それに須佐政務官?」

「こんにちは、ヴォルフハルト君」

 リズさんもまさか須佐さんがいるとは思わずビックリした様子だ。

「どうかされたのですか? こんなところに?」

「わざわざ出てきてしまってすまないね。何、重要事項の伝達と言う奴だよ」

「……」

 んん? リズさんの肩が心なしかしぼんでる。昨日の夜警の時はピリピリしていた。けど、こけしを買ってあげた帰り道には何時もの感じに戻りかけてたのに。今は重たい石像を背負ってるみたいだ。

「さて、国司君が時間通りに来れるかが問題だが、日鉢君が一緒なら大丈夫だと思いたい」

「失礼ですが、国司殿はいわゆる方向音痴なのですか?」

 あー! リズさん聞いちゃったー!?

「どうしようもないほどのね。本人の戦闘技量を考えれば、何処かの特殊部隊の突撃兵ファーストアタッカーでないとおかしいのだけれどね。ああ言う部隊では方向感覚の無い人間は書類選考の段階で落とされるからね」

「なるほど、通りで……」

「こちらとしては願ったりだよ。そのお陰でこの地方でも指折りの戦力が指揮下にいる訳だからね」

 わー、やっぱり国司さんって凄く強い人なんだ。うんうん、あんな強い人がゴロゴロいると、強いって言葉の水準が随分上がっちゃう。

「おーっす、二っ人とも〜! てあれま、須佐さんまで来てますよ、巌サン」

「ん、ああ」

 リズさんに遅れること数分、日鉢さんと国司さんもやって来た。あれれ? 二人とも肩から鞄を二つ掛けてる。

 国司さん達が近くに来るのを待って須佐さんが始める。

「これで四人全員揃ったね。さて、始めようか。今日はすまないね、勤務時間を変更して貰って。実は君達でないと頼みにくい事案が発生してしまってね」

 国司さんと日鉢さんは話を聞きながら鞄を地面に降ろす。計四つ、地面に軽い音を立てる。

「昨晩の夜警から連絡の取れない部隊がいてね」

「何処の係です?」

「壱係の高瀬君達と田所君達だよ。彼らには——」

 そこで三時を告げる政庁の鐘が大きく響く。

 須佐さんは話を止め、余韻が消えるのを待ち、周囲に目を配りながら話を続ける。

「すまないね。彼らには北西区画の廃墟の奥地を巡回するよう指示を出しておいたのだけれどね、君達も知っての通り、巣の掃討作戦を急いで実施しただろう?」

「あ〜、な〜る〜。色んな部隊を呼んじゃったから高瀬サン達への応援か交代の人達がいなくなっちゃってたんですか?」

「せちがねえなぁ」

「急な部隊展開だったので現場の指揮が混乱してしまったみたいでね。巣の掃討には成功した訳だから文句をつけるのは酷だろう」

 混乱してたんだ。僕は全然そうは感じなかったけど。末端の一部隊員と現場指揮官の報告を読む政務官さんとじゃ認識に差があって当然なのかな?

「彼らには、この島に眠っているものに関する警備をお願いしていたのだよ」

 ——ぶーっ!!

「っ!?」

「ま、正確なところは何も伝えなかったけれどね」

 平然と言う須佐さんに僕とリズさんの顔色が変わる。

 眠るものって、まさか——? それに、そんなことを学園内で話しちゃっていいのかな?

 あたふたする僕を横目に日鉢さんは、

「それで、そのに仕掛けられた罠にでもひっかかっちゃった、てことですか?」

 どこか楽しそうに答え、

持ってトンズラしちまったのかもな」

 国司さんは鋭い視線でずっと須佐さんを睨み続ける。

「なるほど。宝について知っている私達の方が他の物達より捜索に派遣しやすいのですね?」

 ええと、皆が言うお宝って、<八岐大蛇>の隠語でいいんだよね?

「ああ。そんな大したものじゃないけれど丸秘だからね。いなくなった部隊の人達を探して戻ってくるのが君達にお願いする任務だ」

「一つ、宜しいでしょうか?」

 日鉢さんと国司さんが須佐さんに頷くのを待ってから、リズさんが手を挙げる。

「何かな?」

、いえ、の状態は確認しておかなくて宜しいのですか?」

「それは君達の判断に任せるよ。高瀬君達の安否を確認するのが最優先だ。それと——」

 須佐さんが僕たちの顔を順々に見渡す。

「彼らを探せなくとも日が暮れる前までには戻ること。行って貰う場所は必ず出るからね。ミイラ取りがミイラに——だったかな? 国司君、宜しく頼むよ」

 須佐さんは国司さんの肩を一つ叩き学園の外へと歩く。

 僕は会話についていくのが精一杯であたふたしてたけど、国司さんが須佐さんに向ける視線が気になった。教会で<八岐大蛇>の話を須佐さんが話した時と同じだ。

 敵を見る目付き——いや、それ以上に鋭い眼光を発していた。


「これから向かう場所は初日と同じですか?」

「同じってゆーより、その奥の奥——でいいんですよね、巌サン?」

「だな。巡回した時に見た森を覚えてるな? あそこをつっきった奥だ。まともな道は残ってねえから『存在強化』の結界には頼れねえ。これは昨日と同じか」

「昨日のお仕事を半分以上おサボりしてた人が渋い顔して言うセリフじゃないけど。探索に時間かけ過ぎると帰り道は森の中でヒトガタの大群を直進行軍しなくちゃいけなくなるかも。よいしょっと」

 日鉢さんが右肩から掛けている鞄を掛け直す。

 日鉢さん達が持ってきてくれた鞄には、食料や止血薬に止血帯、包帯や傷薬に縫い針や糸とか火打ち石なんかも入っている。万が一のための野戦道具一式だ。僕も一つ左肩に掛けながら歩いている。

 歩いていると見覚えのある橋が見えてきた。

 夜警の初日——僕の初陣の場所だ。

 無意識にその時傷を負った左胸を胴鎧の上からさする。

「伍係国司以下四名、巡回だ」

「話は聞いている。通れ」

 橋の袂には警備の人が立っている。

 ——うわぁ……。なんだか向こう側の地面がボコボコえぐれてる。櫓も建ってるぞ。

「御手口サン、お疲れで〜す」

「伍係の国司以下四名、巡回です」

「聞いている。小僧ォォ……貴様のこともだァ……!」

 ——ヒィィィ!

 向こう側の警備の人達の中に怒りの御手口さんがいた。怒っているせいか髪の毛が逆立っている……ような気がする。

「国司ィ! 学生だからと言ってつけ上がらせるな! 日鉢ィ、貴様もだ! その緩みきった態度が悪影響を与えとるんだ、分からんのか!!」

「あ〜御手口サン、何なら東雲クンここに置いときましょうか?」

「要らん! 誰が要るかそんなバカ者!」

 そんな即答されるとちょっと悲しいかもです……。

「小僧ォォォ!!」

 ——ひぃぃ、すみませ〜ん!

「戻ってくる時は無傷で帰ってこい! いいか!? かすり傷の一つでも負っていたら誰が何と言おうと地下牢直行だ! 覚えておけッ!!」

 ——は、はいぃぃーー!!


 怒り狂う御手口さんと警備隊の人達を後に、僕達は森へと入る。

 曇天の空の下に広がる森の中は、やはり暗い。

 やや起伏のある森の中を皆と一緒に歩いて行く。

 僕達の先頭を日鉢さんが作り出した一匹の火蜂がひらひらと舞う。

「お二人はこれから向かう先について何かご存知ですか?」

「そいつは俺より燈だな」

「う〜ん〜、ど〜こから話そっかな〜」

 日鉢さんが首を右に左にと傾けると、それに同調して先頭の火蜂がフリフリと動く。

「リーゼちゃんと東雲クンは知ってると思うけど、この島って元々遠呂智家って言う血族が刀を鍛えてたのね」

「この島で刊行されている瓦版の記録を見ました。二十六年前、その時遠呂智家を訪れていた当時の緋呂金家の者達もろとも遠呂智の一族全て盗賊に皆殺しにされたと。それで分家筋の緋呂金家で唯一難を逃れた緋呂金の者がこの島の鍛冶を取り仕切ることになったのですね?」

 図書室でリズさんと瓦版をまとめた奴を見ていたけど、<八岐大蛇>と関係なさそうなそんな記事まで見てたんだ。

「わ〜ぉ、この島に来てまだ一週間も経ってないでしょ? 良く知ってるわね?」

「それは——」

 リズさんがチラッと眼鏡越しに僕を見る。

「アタシん家、古くからこの島にいるからいろいろ聞いててね。その事件の時、アタシは小さかったし、外町にいたから記憶にないんだけど、島の中は滅茶苦茶大変だったみたいね〜。犯人は見つからないわ、お宝は盗まれるわ、処分された人はいっぱいいたみたい」

 僕達は日鉢さんの話を聞きながら足を進める。

 踏む土の感触は柔らかく、落ちている枝木を踏むとパチンと音が鳴る。

「元々、遠呂智の人達って人付き合いしなかったみたいでね。町から離れた森の中に住んでて、ひっそりと刀を鍛えてたのよ。逆に緋呂金は町と交わって打つって感じ」

「今、俺達が向かってるのは、その遠呂智の家の跡だ。二十年以上放置されてっからボロボロのはずだがな」

「ボロボロだけじゃなくて、事件があってから放置されっぱって話だからね。殺された人達の家が床やら天井やら畳やら飛び散ってるって話。幽霊とかでるかもよ〜?」

 自分の顔の下に火蜂を作って怖い顔をする日鉢さんに、

「それは怪異としてでしょうか?」

「うへ!? ま、まぁ、そうかも?」

 リズさんが真顔でつっこむ。

「東雲、なってねえぞ。しっかり日本のボケとツッコミを教えとけ」

 ——はい……。

「え〜っと、何処まで話したっけ? そうそう、遠呂智と緋呂金のとこか。遠呂智が全員殺されちゃったって言ってもこの島や外町は刀鍛冶で生計立ててるからねぇー、困っちゃた訳よ。そんで分家で生き残ってた緋呂金の人を新たな鍛冶宗家の当主にして、刀を鍛え続けることにしたのよ。『遠呂智に正当な者無くば緋呂金の者を迎えよ』って言い伝えもあってそこまでは良かったんだけど」

 遠呂智家に後継ぎがいなければ緋呂金のモンを養子にしろって意味だったみたいだけどねー、と日鉢さんが付け加える。

 森はまだ続いている。僕は段々と勾配がついてきた地面を一歩一歩踏みしめるように歩く。

「問題はその後なのよ。遠呂智を守れなかったってんで、お偉い人が腹切ったり、切らされたり、死罪になって首切られちゃったりしちゃうのよ」

「当時の長官が責を取ったと瓦版にありましたが、他にも処分にあった人はいるのですか?」

「もうね、滅茶苦茶。研ぎ屋とか、採掘店の女将さんとか関係ないはずの人まで神隠しにあっちゃったりね。その時に鎚を引き継いだのが——」

「現在でもこの島の鍛冶宗家の当主である男、緋呂金真行、なのですね?」

「おー、良く勉強してるわね〜」

 ——あ、あの!

 僕は国司さんの視界に入るよう右手を振ると、国司さんが僕の方を振り向いてくれた。

 ——青江家って、遠呂智家と緋呂金家とどういう繋がりなんですか?

「燈、東雲が青江の家の立ち位置が聞きてえとよ」

「青江のお姫サン? 青江は、遠呂智の血族なんだけど、緋呂金よりは血は薄いんだっけな〜? ん〜、遠呂智の事件とは関係なかったはずだけど、あの家、滅茶苦茶多いのよね、神隠し」

「だとよ」

「そいや、緋呂金の長男も神隠しにあって行方不明なのよね〜」

「ならば当主代行をしていると言うあの男は——」

「そ、緋呂金家の次男で、いなくなった長男の代わりよ」

 ——ありがとうございます、国司さん。

 僕は国司さんと日鉢さんに頭を下げながら考える。

 そっか、血の繋がりがあったから遠呂智家から緋呂金家へ鍛冶が変わっても天下六箇伝の印可は取り消されなかったのか。

 うーん。つまり、遠呂智家には特別な血統恩寵があって、それで刀を鍛えてたのかな? もし跡取りがその恩寵を発現しなかった時のために、分家の緋呂金も同じ血統恩寵を持ってたのか。

 んん? 待てよ……。てことは、青江さんの家は元々は遠呂智の予備の予備だったのか。予備は一つで十分と分かって段々と血の繋がりが薄くなっていった。

 なら、緋呂金が宗家になった今、青江さんの家が血の濃い分家にならないといけないんじゃ……?


「遠呂智家と緋呂金家、そして須佐家は<八岐大蛇>とどう関わりがあるのですか?」


 リズさんの言葉に僕達の足が止まった。

「眼鏡だ」

「え?」

「眼鏡を外せ。色の黒い木がある。『侵蝕』だな」

 リズさんが眼鏡を外し、国司さんの短槍が示す先を見つめる。

 僕も見てみると、遠く先に大っきな根っこが黒に変色している木があった。幹の半ばまで黒が茶を蝕んでいる。

 僕達は無言で木に歩み寄る。その木の生えている周りの土や草も黒くなっているような——?

「——!」

 リズさんが背中に負った鞘から大剣を抜き放つ。切っ先を地面に向け、右手で刃元を握り、左手の掌を刀身に当てて独逸語で祈りを捧げる。


 “—————<—————>—!”


 冷たい風が木々を揺らす。リズさんが戦場に舞い降りた貴婦人へと変貌する。

「……?」

 ——え?

 展開を終えたリズさんがちらっと僕に怪訝な視線を送ってきた。何だろ?

 黒化した草を踏みながら、リズさんが木の幹に手を当てる。

「侵蝕されていますが、最近のものではありません。日鉢殿、目的地は北西の方角ですか?」

「北西ってのが何処か分からないけど、リーゼちゃんが今指差してる方角よ」

 日鉢さんの火蜂が上下に宙を飛び、それを肯定する。

「見える範囲でですが、侵蝕されている箇所が続いてますね。黒化——いえ、濃い灰色に塗りつぶされてます。上部には——何とか及んでいませんね」

「なるほどね」

 国司さんが歩き出す。

「俺達警備にも立ち入り禁止を出してた廃墟の森が怪異の侵蝕地帯だったとはな」

「ここって壱係のみ出入りしてたみたいですから上は把握してたんじゃないですかねー」

 進むにつれて森の中の景色が徐々に薄気味悪いものに変わっていく。

 木の茶と、草の緑、土のこげ茶が黒に——いやリズさんの言を借りれば限りなく黒に近い濃い灰色だけになっていく。

 ここは怪異が出現する大地、侵蝕された森なんだ。

 侵蝕された場所では怪異は闇の中から生じるのではなく、闇と化した大地・大気から出でる。巣の怪異が居着いてしまった場所、それが侵蝕された大地だ。

 こうなってしまってはどうしようもない。怪異は次から次へと無尽蔵に出現する。侵蝕を浄化する鉱石や聖水はあるにはあるけど、数が限られる一回きりの消耗品だ。

 そうなったらその貴重品を使うか、森を大地ごと全部破壊しちゃって一からやり直すしかない。変に妥協しちゃうと侵蝕が残っちゃって怪異が出始めちゃうからだ。

 不気味な風が黒化した草木を揺らす。

 旧史の遺跡がほとんど残っていないのもこれが原因の一つだ。方々に張り巡らされた『電線デンセン』を元に侵蝕が進んでしまい建物自体を破壊せざるを得なくなってしまったらしい。

「野営や戦闘の跡は見つかったか?」

「いえ、全く。昨晩の二隊は目的地に向かったのでしょう。それか戦うことすらできずに全滅したか……」

「それはないでしょ、幾ら何でも。いわくつきの場所って分かってて部隊を派遣したんじゃないかしら? ほら巌サン、リーゼちゃん達が来た初日の戦闘経過報告書、随分撃破数減らされちゃってたじゃないですか。ここの侵蝕を隠したかったんじゃないかしら?」

「侵蝕源近くにしても出過ぎだったがな、あれは。遠呂智の館跡からヒトガタがわんさか出てくると都合が悪いのかね、上の連中は」

「ま〜、緋呂金のご当主サマが遠呂智をありえないくらい嫌ってるのは有名ですし。侵蝕を把握して何もしないのも緋呂金におべっか使ってるんでしょうし」

「日鉢殿は詳しいのですね」

「ん? ま〜ね〜」

「先程の私の質問をお答えできますか?」

「んっん〜、お姉サンの歳とスリーサイズはいっくらリーゼちゃんの、」

「日鉢殿」

 ボケる日鉢さんをリズさんが遮る。

 国司さんが短槍で僕をつつく。はい……分かってます……。

「も〜、せっかちね〜。教えてあげられるほど詳しくないわよ、アタシ」

「遠呂智、緋呂金、須佐、青江、これらの一族が<八岐大蛇>とどう関わってるのかご存知ありませんか? そもそも、本当に<八岐大蛇>は死んではいないのですか? 生きているのならば、どのように封じているのですか?」

 リズさんが立て続けに質問を浴びせ掛ける。

 日鉢さんはリズさんとは真逆、あっけらかんと、

「ごめん、分かんない」

 と答えた。

「え?」

「だとよ。あんま燈に期待してやんな」

「うっさいですよ、おでこ広い人〜。あのね、須佐さんからあの話聞かされてからウチのお父さんとか親戚のおじいちゃんやら、仲の良い旧家の人にも聞いてみたんだけど、皆口を揃えてこう言うのよ、『家を継いでないお前には何も話せない』って」

「つまり——」

「そ。つまり、この島の古い家の当主達は、他人に話せない秘密を共有しているってこと。リーゼちゃんの言う通りかもね〜。<八岐大蛇>が実は生きていて、それを封じる術を伝えているのかも」

 ぞわりと、首筋に冷たいものが触ったかのような嫌な感覚が走る。

 心臓の音が少しだけ大きくなる。

 あの時の図書館での話、本当かも知れないんだ。

「あ〜そうそう、こんなことも聞いたな〜」

 日鉢さんが付け加える。

「この島の鉱石採掘を管理してる永倉の偏屈爺ちゃんから聞いたんだけどね。ま〜、その人がもう石のことしか頭にないからもー話してくれるまで面倒だの何の。最近採れてまっかー、って聞いたら、『出戻り娘が。これを溶かせい』て星砂鉄の塊をぶん投げてきたのよ。もー頭にきちゃったから、」

「おい、燈、何を聞いたんだ何を。ヴォルフハルトと東雲が関係ない長話しすぎって面してんぞ」

 ——し、してません!

「それくらい喋らしてよ、ね? リーゼちゃん、付近は変化無しでしょ?」

「はい——いいえ、この侵蝕された状態を基準に考えれば変化はありません。ヒトガタが出る時間ではありませんし……」

「先入観はあまり持つな。怪異つーのはぶっ飛んだ化物だからな。ずっと夜に出続けているからつって昼出ないとは思うな。昼に出現できるよう変異するような奴らだ。あの世で自分のミスを悔いるはめになんぞ」

「そう、ですね。以後気をつけます」

「えー、何だっけ、そういう心構え。え〜っと……ハイ! 東雲クン!」

 ——常在戦場、ですか?

 常にこの身は戦場に在り。死を思い、死を恐れ、死に焦がれ、死に狂うが故に生を得んとす。

「お、分かってんな」

「学園三則の一つだな」

「……ぅえ? しぃまったぁ〜、お姉サンだけか、東雲クンの言うこと分かんないの。この、ていや」

 日鉢さんがピンと指を弾くと小さな赤い火蜂が僕に向かって飛んでくる。

 ——ひぃぃ!

 火蜂は僕の周りをくるくると回りながら時々僕を刺しにぶんぶんと近づいてくる。

「そんでお前は何を聞いたんだ?」

「ん〜とね、なっとらん、ばっかり。このお爺ちゃんだからしょうがないかなーって割り切ってたんだけど、『遠呂智と須佐と教会は平等にして不可侵。緋呂金のボンズも須佐の青びょうたんも、なっとらん』ってね」

 その言葉にリズさんの方を見ると、リズさんは頷き返す。

 教会が修道院の間違いじゃなくて、刀鍛冶を仕切る遠呂智家と行政を仕切る須佐家と修道院が同格ってことは、この島じゃ凄いポジションについてるってこと?

 ——て、わわわわ! 熱ぅ!

 日鉢さんの放った小さな火蜂が僕の視界を遮るように飛び回り、鼻先に停まりジュッと蒸発して消える。

「その三つが対等ってのはよう分からんな」

「アタシも同感ですけど、他は家を継いでないから教えられないの一点張りで。警備局の人間が教会に入り込んだり、須佐の人間が緋呂金にペコペコ頭下げるのなんて古い人には信じられないっぽいですね〜」

「日鉢殿、何とか詳しく話しを聞く方法はありませんか? 管区長殿は教えて下さりません。合点のいかぬまま剣を振るうと迷いが生じます」

「いや、いけるだろ」

「えっ?」

「お前と同じクラスにいんだろ? 旧家の当主が」

「あ、そいやそーだわ。ゴシップには興味ないとか言うわりにはしっかり覚えてんですねぇ」

「誰、ですか?」

「青江静ちゃん——青江家の最後の一人だから、青江家のご当主様ね」

「ダチのよしみで教えてくれるかもな。さて、おいお前ら、ここらで無駄話は終りだ。屋敷跡が見えてきてんぞ」

 視界を遮って乱立する木々が大きく開け、黒一色の不気味な草木の中に、一軒の大きな廃墟が佇んでいた。


 その屋敷の周りだけ切り取られたように木々が生えていなかった。今日が晴れていれば、うっそうとした黒の森に太陽の日を浴びる屋敷が幻想的な顔を見せてくれたに違いない。例えそれが、人の住んでいない捨てられた廃墟だとしても。

「ここだけさほど侵蝕が進んでいません。定期的に浄化しているのでしょうか?」

「壱係の人達が受け持ってたんならそれもあるかも。もしくは私たちを中に誘ってパクッと食べちゃう罠だったりして?」

「どっちにしろ行くしかねえか。ヴォルフハルトは俺に続け。ケツ持ちは燈だ。東雲ははぐれんなよ。何か見つけたら笛でも吹いとけ」

 ——はい。

「ほーい」

 僕達は先頭を歩く国司さんに続き、廃墟の門と思わしき場所へと行く。

 この屋敷を守っていた立派な門があったんだろうなぁと思うけど、影も形もない。傍を囲む塀も所々に黒のシミが大きな塊を壁面に作っている。塀は壊れ、裂け、ひび割れ、本来の機能を果たしていない。

「屋敷の体をなしていないせいか『存在強化』の結界が働いてませんね」

 門をくぐってすぐに、右手に木造りの建物があった。木は黒色に変色していて侵蝕が塀の内側の建物にまで及んでいるのが分かる。

「番兵の休憩所か。中は——こりゃ、血だな」

 国司さんが開け放たれていた入り口から建物内に無造作に入ると、ずかずかと土足のまま上がっていく。

「血が染み込んだ床板自体が腐食していますので正確には分かりませんが、少なくとも五名、刀剣による斬死ですね」

 リズさんも土足のまま乗り込む。うん、靴を脱ぐ脱がないなんて言ってる状況じゃないよね。

「燈達は外で待ってろ」

 中に入る国司さんとリズさんを僕と日鉢さんは番兵の休憩所の外で待つ。

「あの大きいのが母屋ね。蔵があるけど、隠れたお宝とかあるのかしら?」

 ——日鉢さん、あの、あっちは?

「え? あそこ?」

 今いる場所から見える中で、おかしなところが一箇所ある。壊れたり敷戸がなかったりしている母屋の隣の空間がごっそりと消えてなくなっている。もちろんそこにあっただろう建物を囲っていたはずの塀も合わせて消えている。土も抉れて、汚染された草むらと森が遠くに見えるだけだ。

「んっん〜、何だろね? どう見ても人為的にぶっ壊したみたいだけど。あ! あれよ、あれ! 東雲クン、アレ! 炉があった跡じゃない?」

 ——炉って、鉱石や砂鉄を溶かす火をおこす装置ですか?

 日鉢さんに鎚を打つ動作を見せる。

「刀鍛冶やってた家だから、『炉』がないとおかしいわよ。どんなのだったか想像できないけど。緋呂金の当主に遠呂智の話題を出したら首斬られたとか聞くし。お屋敷は残しても、刀鍛冶の象徴の炉を残すのは我慢ならなかったのかな〜?」

 うわぁ、いきなり首を斬っちゃうなんて怖い人なんだなぁ……って、え?

 ——何で捕まらないんですか?

 首を手に当ててから、両手を揃えてお縄頂戴ポーズで日鉢さんに聞く。

「んん? あー、ダメダメ、無駄無駄。あちらさんはこの島の特権階級だから、人を殺したぐらいじゃ基本手を出せないのよ。当主自身はここ数年緋呂金の鍛治場から出てきてないから助かってるんだけどね。代行の坊ちゃんは人に手は出さないけど、態度がでかいし口は悪いわよね。お姉サンつくづくあんなのと同じ時代に学園生活送らなくてラッキーだったわ」

 にや〜と日鉢さんが嫌〜な笑いを僕に向ける。はい、心当たりがあり過ぎです。

 でも壊しちゃうのってもったいないような……。

 ——日鉢さん、持って行ったんじゃないですか?

 あっちからこっちへと身振り手振りで伝える。

「おりゃ」

 ——わっ!

 ぺしんとおでこをデコピンされちゃった。

「東雲ク〜ン? お姉サンの話聞いてた〜? やや? 言ってなかったかしら? 緋呂金も緋呂金でずっと刀は鍛えていたのよ。外部的には遠呂智の刀も緋呂金の刀も、天下六箇伝、鳥上伝遠呂智の刀、ってされてたの。うん、後は分かるわよね?」

 日鉢さんが僕にウインクする。

 そっか。緋呂金は元々自分達で刀を鍛える技術と設備があったんだ。ならわざわざ遠呂智の炉を使う必要なんてなかったんだ。むしろ、遠呂智鍛治の象徴とも言える炉なんて壊しちゃう方が新体制のアピールになるのかな? 緋呂金の当主の人は遠呂智を嫌ってたって言うし。

「おい、お前ら。遊んでんな。部下をくどくのもほどほどにしとけ」

「いや〜ん、見られちゃいました。リーゼちゃん怒っちゃやーよ」

 ——え、ええ!?

 日鉢さんが僕の背後に回りこみ、僕の肩に両手を押し当て僕を前に突き出す。

「…………」

 国司さんと一緒に廃屋から出てきたリズさんは、渋い表情を浮かべながら険しい視線を僕に送る。うぅ、違う意味で緊張してきちゃった。

「何か面白いものでも見つかりました?」

「いや、ただの殺人現場だな。高瀬らのいた痕跡もねえ。引きずった跡があったみてえだからヒトガタにやられたんじゃなさそうだな。例の事件で人死にが出て、後で死体を運んで供養したんだろう」

「理性ある剣ではないと感じます。よほどの殺意と狂気を併せ持った人間の仕業でしょう」

「あれま、随分と血気盛んな盗賊さんだこと」

「私の見立てでは、あの廃屋にいた人間を殺害したのは正面から乗り込んだ一人です」

「ふ〜ん……」

「さて、母屋にでも行くか。蔵も見なきゃいかんしな。壱係が定期的にここに来てたんなら暖を取るのに使う薪か、飯を作る鍋の一つでもあんだろ」

「二、二に分かれて探します?」

 国司さんが周りに目を走らせながら考える。

「そうだな……。別れた方が時間と手間が省けるが、東雲と組む奴が貧乏神背負わされるだけだな。ヴォルフハルトの目じゃねえと跡が分からねえ可能性がある。残念だが四人全員で団子だ。俺とヴォルフハルトが前だ。燈は東雲が迷子にならねえように目つけとけ」

 ——はい……気をつけます。

「はいはーい」

 国司さんを先頭に敷石が続く母屋へと向かう。

 本当は随分大っきくて立派なお屋敷だったんだろうなぁ。青江さん家より大きいと思う。

 でも、箇所がいっぱい見える。

 こっからでも屋根瓦に三つの裂け目が見える、天井自体が無くなっている箇所もある。恩寵か兵装を室内で解放して、目標を屋根ごと斬ったんだと思う。左手にある蔵は僕のいる位置から見る限りは安全そうだ。リズさんなら見たら分かるんだろうけど。

「…………」

 母屋の玄関には扉が無く、無残にも開け放たれていて、二本の柱に何本もの傷が左右に走っている。

「待って下さい」

 リズさんの言葉に、母屋の中に行こうとした国司さんの歩みが止まる。

 リズさんの指が指し示す先は庭だ。母屋に近づいたせいで蔵が邪魔して見えなかった庭が見える。

「どうやらあそこが壱係の人達のキャンプ地のようです」

「先に庭に回るか」

 母屋を横目に見ながら足を進めると、

「昨晩はここで火でも囲んだっぽいですね。うわっ、ちょっと見てあそこ! 薪があんなに積んである。う〜ん、東雲クンの身長と同じかしら? ちょっと行って比べてみて〜」

 ——はー、いぐぅ!?

「行く奴があるかアホう」

「ここで火をおこし薪を椅子代わりに暖を取っていたようですね」

「侵蝕されてないってことは、ここいらの森のじゃないのかしら」

「壱係の新人が運んだんだろ。ここまで周りが侵蝕されてちゃヒトガタが出ねえ方がおかしい」

「腕試し兼実戦訓練の場ってとこですかね、エリート様専用の」

「この辺で最近ドンパチした形跡はなさそうだが……」

 皆が周りの地面を注意深く調べている。

 庭、だったんだと思う、ここは。植木とか、石や池とかが何も無いただの土野原だ。遠くには塀、左手には蔵、右手には母屋だ。蔵はどれも扉は開いているけど、中は暗くて見えない。

 母屋を横から見るとこの建物で起こった惨劇は僕の思っている以上だったことが分かる。

 切り取られている柱、血が擦り込まれ変色した床板、が開いて天井をなしていない屋根、どれも酷い。棚が倒れているとか本が散らばってるとかは何も無い。そういう意味では綺麗な姿での惨劇の後だ。そんな場違いな感覚に思わず頷いてしまいそうな異様さだ。

 あと目につくのは、

「井戸だな」

「井戸ね」

「井戸ですね」

 井戸がある。しかも木の桶が滑車についている。

「あの井戸から水汲んでたんですかね? 周りの森があんなに侵蝕されてるのに、チャレンジャーて言うか、おバカさんて言うか」

「見りゃわかんだろ。燈、一匹下に降ろしてくれ」

「ほいさ〜」

 日鉢さんの右の人差し指からはじき出された火蜂が井戸の中へと飛ぶ。

「お前は離れてろ」

「えっ、はい」

 国司さんと一緒に井戸の中を覗き込もうとしたリズさんが止められる。

「深いな。……水も壁も侵蝕は取り敢えずされてねえようだがな。っと、来ていいぞ」

「はい。——深いですね。水は飲めそうですが……」

「試してみるか」

 国司さんが桶を井戸に投げ入れ、ガラガラと縄を引き、井戸の水を汲む。

「東雲クン、飲んでみる?」

 ——う……。

「コラ、萌、先に安全を確保してからだ」

 日鉢さんと国司さんが何とも辛い表情で見合わせる間、リズさんは懐から木製の十字架を取り出し、

 ‘——、———————————————’

 リズさんが聖書の一節を何語かでつぶやいてから桶の水に十字架に入れる。

 けれども、何も起こらない。

「水質浄化を試みましたが、変化ありませんね。私の目で見ても侵蝕はありません。飲むのに問題はありません。いるか、萌?」

 ——い、いえ、いらないです……。

「遅くなると面倒だ。他をあたるか」

「あ、待って下さい。できればこの建物は玄関から入らせて貰えますか?」

「あン?」

 縁側から母屋へ乗り込もうとした国司さんをリズさんが制する。

「襲撃者は、正門から乗り込み最初の建物を襲い、次いでこの建物に玄関から侵入したと思います。ですので——」

「なら正面から回るか」

「え、いいんですか? 事件があったのって二十五、六年前ですよ? それに下手に探ったら緋呂金に睨まれますよ?」

「別にいいだろ。探るなって命令は受けてねえ。それに、俺がやろうとしたことをこいつがたまたま先に口にしただけだ。何かありゃ俺に来るだろ」

「巌サン、かっこいいこと言ったつもりかもしれませんけど、連帯責任って言葉知ってます?」

「バカな俺には分からねえな。ほれ、いくぞ、お前ら」


 何部屋もある大きな母屋だ。天井がところどころ切り取られていて空の曇り模様が見える。地面も板が抜け落ちていて腐っている箇所もある。雨も降りこんでるし、僕たちの他にも土足で入った人達がいるみたいで、床板は汚い。

「激しい戦闘があったようですね」

 リズさんがポツリと呟く。

「番兵所より暴れっぷりが激しいな。残りの衛兵達とでも戦ったのか? いるんだよな、燈?」

「緋狐ですか? この件で全滅して緋呂金が再編したって話ですから。なのかしら、東雲クン?」

 ——僕に振らないで下さい……。

 緋狐はこの島の鍛冶宗家専用の護衛部隊らしい。けれど、いるのかいないのか、はっきりしない。見たって言う人がいない、って言うのは志水君の談だ。昇武祭でいい成績を残すと直接リクルートがあるとかないとか。

 結局、壱係の高瀬さんって人達がいた痕跡は母屋の跡には見当たらなかった。リズさんは時々かがみこんで床の埃や泥を払ってじっと見ていた。

「んじゃ次は——……」

「離れた位置のあの小屋は後にして、先に向こう側の空き地を見ても宜しいでしょうか?」

「あ〜、そうだったな。先に空き地に行くか」

 母屋の縁側の通路跡を通り、空き地へと続く渡り廊下を皆で歩く。

 何も無い。こうして見ると母屋より少し小さいぐらいの建物があったんだと思う。それが地面ごと根こそぎ無くなっている。草一本も生えていない。さっき見た通り、周りにあった塀も一緒だ。

 リズさんは手で触りながら地面を調べている。

 右手側を見るとさっきの番兵所が見える。真正面と左手側に覗く黒化した森は相変わらず薄気味悪い。ヒトガタが出てこないのが不思議なぐらいだ。

「何? 面白いものでもあった?」

「いえ、何も……。もしかしたら井戸のようなものがあるかと思ったのですが……。地下に何かあったとしても潰されてますね」

「井戸? あー、刀を冷やす水をここでも引っ張ってるんじゃないかってことね」

「私の考え違いです。行きましょう」

「おーぅ、んじゃ離れに行ってから蔵だな」

 母屋に戻る前に、渡り廊下でリズさんが立ち止まり、足元をじっと見る。

 見ているのは血痕だと思う。古く汚れている木の板に、黒い染みがぶちまけられている。

 僕の目線に気付いたのか、リズさんはすっと歩みを再開する。

 離れにある建物には母屋から数分歩くと着いた。

「あれれ? 戸が残ってるわね? どうしてかしら?」

 あそこに見える離れの屋敷は戸が全部閉まっていて中が覗けない。他の建物には戸板なんか全部外されていたのに……。

「まさかあの中にいるなんてオチはないよな」

「実はあそこが本当の休憩所ってことですか?」

「いえ、恐らくは——……。萌、覚悟しておいた方がいいぞ」

 ——え?

 国司さんが短槍を右脇に抱え、左手を戸にかける。日鉢さんは音も立てずに火矢を引く。リズさんは大剣を矢のように構えているけど、顔色が優れない。

 僕は右手を刀の柄に置いて、国司さんが戸を開ける瞬間を待つ。

 国司さんが一気に戸を開け放つと、そこには、

「うえっ」

 ——ひっ。

「ひでえな、こりゃ」

 畳八畳の大きさの部屋はどす黒く変色した血の赤で一杯だった。天井まで派手に血が飛び散っているばかりでなく、全ての戸板に血が塗りたくられている。

 血、血、血、血——僕みたいな素人でもこの小さい部屋で大勢の人が殺されたのはすぐ分かった。

 国司さんは全ての戸を開け、外の空気を入れようとする。でもこのムカムカする不快感と視界が伝える血の匂いは決して消えはしない。

「東雲、手伝え、畳を外すぞ」

 ——はい。

 国司さんは短槍の刃を畳の隙間に差し込むとてこの原理を利用して持ち上げる。

 ——うぅぅ!

「下の板にまで染み込んでやがる。東雲、外に出すぞ。ヴォルフハルト、下も見とけ」

 吐き気を抑え、一畳一畳、畳を外に出す。

「何もありません。奥の部屋も同じです」

「ここだけ外見は綺麗なのに中は一番最悪ね」

「畳を元に。この建物は元の状態のままにしておきましょう」

 リズさんの力無い言葉に僕達は無言で頷いた。


 そこから三つの蔵の中を探すも、何の手がかりは見つけられなかった。蔵の中身は全て運び出されていて何も無かった。埃が積もっているだけで誰かが争った形跡も無かった。

 僕達は一度焚き火の跡があった場所へ戻り、鞄を下ろして薪を椅子代わりにする。

 国司さんが鞄から水筒を取り出して、中のものを口に含むと、自然と僕達もそれに習う。

 でも、あの離れで感じた不快感は胸の内でまだ渦巻いている。

「リーゼちゃんさ〜、昔、ここで何があったわけ?」

 あくまでも私見ですが、とリズさんは前置きを入れてから語り出す。

「襲撃犯は一人です」

「一人?」

「血の気の多い奴だな」

「犯人はまず正門の衛士を二人斬り殺し、門を閂ごと破壊し敷地内に侵入しました」

 リズさんが立ち上がり、体を正門へ向けながら言葉を続ける。

「側面の建物は番兵所、ですか? そこから出てきた衛士を一人斬り、中にいた人間を全員斬り殺しました。抵抗の跡が小さいのは単純な戦力差でしょう。犯人は刃の血をぬぐいもせず、この建物へ近づきます」

「獲物は何だ?」

「恐らく、萌の持っているような刀と、日鉢殿が腰に差しているような短刀です」

「大小二本を両手持ちかぁ。リーゼちゃんそんなことまで見えるの?」

「時間が経っていますし、場所も保存されていないので私の完全な推測です。血の飛び散り方や飛沫の大きさで獲物の長さはある程度分かります」

「う〜ん、リーゼちゃんの前じゃ浮気はできそうにないわね東雲クン」

「その歳で二股やんのは感心しねえなぁ」

「萌、後で話がある」

 ——皆さん何でそんな目で僕を見るんですかぁ〜!?

「萌への詰問は置いておいて——犯人はこの建物の玄関で、出てきた衛士を二名殺害し、中へ入りました。そこで大規模な戦闘がありました。これまで殺害した者達とは格段に腕のたつ者達が相手になりました。日鉢殿の仰っていた緋狐でしょうか?」

「でしょうね。いるのか、いないのか、影が薄いってか、見たって言う人がいないのよね。こんだけ派手に殺りまくってたら、そりゃ出てくるでしょう」

「その緋狐達を犯人は殺害しました。建物への破壊が大きく、痕跡が少ないので人数までは分かりません。その後、犯人は空き地へ向かい、先程の離れへと向かいました」

「空き地ってことは鍛冶場ね」

「そこに用があったんだろうなぁ。離れにいたのはこの屋敷の非戦闘員か?」

「はい。塀に裏口が設けられていた跡がありません。あるとすれば空き地の場所にですが……。離れには一時的に隠れていたのだと思います」

「で、皆殺しか」

「はい……」

 皆が押し黙る。

「そこから犯人はもう一度空き地へ向かいました」

「蔵は手付かずなのよね?」

「はい。犯人は蔵には近づかなかったと思います。再度、鍛冶場に訪れた理由は分かりませんが……」

「蔵っつったらお宝がたんまりあったんだろ?」

「鍵を開ける自信がなかったとか? それとも遠呂智の財宝目当てじゃなくて、ここの人達を殺すのが目的だったってことですか?」

「私にはこの家の人間を殺害することが目的だったと思います。並々ならぬ殺意が無ければこんなことはできません」

 あれっと僕は気付いた。

 ——でも国司さん。二十何年前、遠呂智一族は盗賊に入られて皆殺しにされて、多くの家宝の刀を奪われたんですよね?

「ああ、そいやそうだな。賊のくせに蔵に手ぇ出さねえってのはおかしいな」

「何です? 何です?」

「上の言うことなんて当てんなんねえことばかりだってこった。今の話、外でするんじゃねえぞ、いいな? それでヴォルフハルト、壱係の高瀬達の件はどうした?」

「いえ、跡が見られるのはここぐらいです。できれば外壁を含めてもう一度見廻りたいのですが……」

 昔の事件のことは少し分かったけど、元々ここに来た理由の連絡の取れなくなった人達のことは分からないままだ。

「敵影も一先ずは見ねえことだ。二と二で見回りと休憩に分かれるか。じゃ、まずは見回るのは俺と、」

「それですが、私と国司殿で宜しいでしょうか?」

「ん? ああ、それでいくか。燈、俺達が見回り終わるまでの間、しっかり東雲に首輪繋げて大人しくさせとけ」

「すいません、巌サン、アタシそういうマニアックなお遊びはちょっと……」

「縄なら井戸の桶のものを使えそうですが、使いますか?」

 ——……。ああ、お水美味しい。


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 風の一つでも吹いてくれれば少しは気が紛れる。あの目を背けたくなあってしまいそうな光景を直視してしまった記憶はそう簡単には忘れられなそうだ。

 人死にの場は幾たびも見てきたが、あそこまで圧倒的で無慈悲な虐殺は初めてだ。

「んで、俺に何の用だ?」

 隣の国司殿から声がかかる。

 この屋敷を塀の外側から見回っているが、収穫はまだ無い。

「聞きてえことがあるなら早めに済ませとけ。侵蝕地帯の台風の目にいるんだからな」

 言いにくく、聞きにくいことだが、聞かなければいけない。

「国司殿は、私と萌が戦ったらどちらが勝つと思いますか?」

「あン? んなもん十本中九本はお前の勝ちだろ」

「テレジア殿からは、百の内、三本取れれば良い方だと言われました」

「そらまたキツい見方だな」

 その理由は既に聞いている。聞いてはいるのだが……。

「国司殿はどう思われますか? いえ、そもそもテレジア殿はどうして助言して下さったのでしょう? お二人の対決は引き分けだったはず」

「そいつはだな……。答えが簡単な奴からいくか。あれは対決じゃねえ、ただの喧嘩だ」

「喧嘩?」

「条件が対等じゃねえんだ。覚えてるだろ、俺の言ったこと」

 テレジア殿が勝てば萌を好きにしていい、それができなければ二人の面倒を見てくれ、と。

「おかしいだろ。俺は引き分けならこっちの勝ちだって言ってんだぞ」

「あ」

 勝てなかったら、と言うことは引き分けの場合も入るのか。

「それにだ。喧嘩した場所だよ。あの姉ちゃんの主人の部屋の前だろ? 青江の屋敷でしたみてえな建物をぶっ壊す大技は使えねえってこった」

 例え床や壁が壊れてしまっても、シャルロッテならば喜んでしまいそうではあるが……。

「ま、そんな悪条件を呑んででもあの姉ちゃんは東雲をどうにかしたかったと、そう言うことだ」

「そして国司殿は勝てないにしても引き分ける自信があったのですね?」

「まあな。勝ち負けの定義にもよるが、対人の一対一サシ勝負なら俺は誰にも負けるつもりはねえ」

 この人の発する武人としての気迫に飲み込まれ、貴方が勝手に賭けたのではないですかと喉まで出かかった言葉を押しとどめてくれた。

「しかしとんだスパルタだな、あの姉ちゃんは。言いたいことは分かるけどな」

 やはり私では、彼に及ばないのか。

「タイプの違いだ。俺やお前は平均的な力で戦線を維持して戦うタイプだが、東雲は瞬間の爆発力で一点突破するタイプだ。あいつの場合は勝手に突っ込んで傷を負って帰ってくる神風戦法だけどな」

「何が、彼をそうさせるのでしょうか?」

 彼に直接聞けば良いのだろうが……、私はまだその勇気を持てない。

「だってあいつ、じげん流だろ? 分からなくはねえが——」

「えっ? 国司殿は萌の真鋭ジゲン流をご存知なのですか?」

「シンエイじげん? いや、知らん。知らんが、あんな剣の構えはじげん流だろ」

 俺も詳しくは知らねえが、と国司殿は前置きをした上で、右手で短槍の石突きを握り、右半身を前に出した上で右手を真っ直ぐ伸ばす。

「この構え、お前ならどう崩す?」

 槍のリーチを最大限生かした構えだ。私なら……

「刃で柄を弾きつつ側面に位置取ります。相手の出方次第ですが」

「ま、妥当だな」

 妥当と言うことは、相手も敵がそう来ると知っていると言うことだ、つまりこちらの対応は読まれている。

 それは分かっているが、武器のリーチ差を埋めるにはこちらから近づかねばならない。

「東雲ならどう出るか分かるか?」

「萌なら、ですか?」

 考える。彼なら、己の命すらも省みない覚悟を持つ彼ならば……

「柄に一撃振り下ろし、再度踏み込んで斬る、でしょうか?」

 直線的な連撃——それが私の思う彼の動きだ。

「いや、違うな。あいつなら猛ダッシュでブッ刺さりに来るな」

「——————は?」

「刺さって距離を詰めて斬る、まず間違えねえな」

「なっ!? そ、それでは相討ちになるだけではありませんか!?」

「俺の知ってるじげん流の使い手ってのはな、」

 語気を強める私とは対照的に、国司殿はあくまで冷静だ。

「『それでも俺は敵を斬ったぞ』って笑いながら死んでくような、豪快つーかある種ぶっ飛んでる奴らばっかだ。東雲も晴れて仲間入りか」

 自分の命を粗末にする剣などありはしないはずだ。だが、

『構えは無いんです』

 そう、私に申し訳なさそうに、でも迷い無く言う彼の姿が浮かんだ。

「で、だ。問題はこっからだな」

「ここから?」

「瀕死の重傷になるもからくも一命を取り留めた我らが東雲萌、あいつにもう一度同じ状況が降りかかる。あいつはどうするか、もう分かるよな?」

「また、同じことする、ですか? 今度は助からないかもしれないと知りつつ……」

「刺さりゃ痛えし、死ぬのも怖え。しかもそれで周りの人間にえれえ迷惑がかかることを知った上でな」

 ほんとどうしようもねえバカで阿呆だ、と国司殿は呟く。でも私は、

「それは、そんなものは決意でも覚悟でもありません! ただの狂気です! 認めて、」

「お前からすりゃ狂気でも、あいつからしたら立派な決意なんだろうよ」

「でも、そんな——!!」

「あいつの刀もそれを認めているからこそあそこまで同調が進んでんだぞ。どんな一品か知らねえが相性だけは抜群だな。外野がとやかく言うことじゃねえ」

「はい……」

「言うことじゃねえが、言いたいんなら相手は俺じゃねえ、だろ?」

「——はい」

 少し、掴めたような気がした。

 私と彼の決定的な差であり、私に足りず彼が持っているもの——

 私がここ数日苛立ちを隠せずに感じてしまっていたその理由を、少しだけだけど、掴めたような気がした。


 ちょっとだけ萌に近づけたような気がして、優しく嬉しい風が心の中に吹いた。


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「おっ疲れ様〜! リーゼちゃん何か見つけられた?」

「いえ、残念ながら、何も」

 やってきた二人は僕達と同じように薪の上に腰を下ろす。

「残るは床下か、もしくは天井か。それとも本当にお宝への隠し扉でもあんのか?」

「お宝を探しますかねー、壱係の人なのに。そんな指示があったならともかく、勤務一、二年の新参じゃないんですよ?」

「案外上からお宝の隠し扉を見つけろ、とでも命令があったんじゃねえのか?」

「あの、すみません——」

「それならそうと須佐さんが言うでしょ?」

「悪いが俺はお前ほどあの人を信用できねえなぁ、今はな」

「あっれ〜? もしかして須佐さんの隠れ女子人気に気付いちゃって嫉妬しちゃってます?」

「あの!」

「え?」

「ん?」

「どうして萌の両手が縄で縛られているのですか?」

 やった、気付いてくれた! リズさん助けて下さ〜い!

「あれはね、これ以上粗相がないようにお縄にするしかなかったのよ。お姉サン苦肉の策よ……」

 随分カットしてません、日鉢さん? しかもものすっごいノリノリだったじゃないですかー!

「はぁ、全く……」

 リズさんがため息をしてから両手の縄を解いてくれる。うぅ、やっぱりリズさんは厳しいけど、優しい!

「何故手を縛るのですか? もしヒトガタの群れにでも襲撃されたらどうするおつもりですか?」

「そりゃまー、東雲クンを両手の縄ごと燃やしちゃおうかな、とね?」

「お、そうすりゃ暴走しなくなっていいかもな」

 泣かない。僕は泣かないぞ!

「お二人とも! せめて縄は腰にかけるべきでしょう。手に火傷を負ったぐらいで萌が止まりますか! 足の指か口で刀を振り回しますよ。それなら腰に縄を結びつけて行動範囲を制限するのが上策です」

「飼い犬東雲萌の誕生か。悪くねえ案だ」

「はーい、東雲クン、お手〜」

 あれ、視界が霞んでるぞ? うぅ、グスン。

「——これで良し。うっ血しているかもしれないな。念のため治癒をしておこうか?」

 リズさんが縄を解いてくれて、首にかけてある十字架を取り出そうとする。

 あれ、何だか——?

「ん、どうした? 痛むのか?」

 ——ふふ、いえ大丈夫です。

 雰囲気が何時ものリズさんに戻ってる。

「む? ならいいが——。お二人ともこれからどうします?」

「本気でお宝への扉を探すか」

「リーゼちゃん、それらしい隠し扉とか、隠し通路って見つかった?」

「いえ、何も。ですがまだ全てを見た訳ではありませんので。床下や屋根裏部屋か庭に隠された仕掛けがあるのかも知れません。何せ、<八岐大蛇>の封印と関係があるのかも知れないのですから」

「<八岐大蛇>の封印ねえ……」

「ちょっと二人とも、せっかくその言葉を使わずにお宝とか暗号っぽく使ってたのに空気ぶち壊しの台無し」

 皆が話し合っている中、僕は立ち上がって両腕の筋肉をほぐす。う〜ん、立ったついでに全身の筋肉もやっておこう。

「壱係の高瀬と言う人達が特に何処かを捜索した形跡も見当たりません。高瀬と言う人物の部隊は元々その場所を知っていたのではありませんか?」

「ん〜、まぁそれもあるか。壱係はずっとここを定期的に見回ってたっぽいし」

「でも俺らには伝えねえか、辛いな」

 う〜ん、薪の山、井戸、そして廃屋に血染めの離れかぁ。ここで寝泊まりしろって言われたらやだなぁ。あの井戸の水、飲めるみたいだけど幾ら頼まれても飲めそうにないかも……。

「お二人は、封印とはどのようなものだと思われますか?」

「ん〜、何だろう? 巌サンはどう考えてます?」

「知らん。お前さんの方がこの島にいる時間は長えだろ?」

「私は遠呂智や緋呂金と言った刀鍛冶を鍛えている一族が権力を握っていることから、<八岐大蛇>の封印には刀が関係すると思います」

 ん?

 今、井戸の中から水が跳ねる音が聞こえたような……?

「何らかの恩寵を乗せて錬成した刀を結界の要の地に刺すことで——」

 井戸の中をひょいと覗いてみるけど、真っ暗で何も見えない。あ、また音がしたぞ。うぅ〜ん〜、やっぱり見えないや、

 ——!? っわわわ!?

 井戸の暗闇の中からひゅるりと灰色の舌のような粘着質の物体が僕の首に絡みついた。

 ——ぐえぇぇ!?

 下に引っ張られる。抵抗しようとするも、その力は僕より遥かに強力だった。

「萌!?」

「ちょ、えぇ!?」

「燈! ぽち公に首輪をつけろって話は何処いった!?」

 急激に僕の体が井戸の闇の中へと落ちていく。

 不味い! このまま水の中に引きずりこまれたら溺れちゃう! 甲冑自体の重さもあるし、服が水分を吸っちゃって——っぐぇぇぇ!?

 下に引っ張るだけだった力が強引に向きを変える。

 僕はその力に抗えず、井戸の壁へと叩きつけられる。痛みよりも喉の苦しさが勝った。それに体が回転した時、微かに足が水面を叩いた。水面近くまで引きづりこまれている!

「萌ーーッ!!」

 ——ぅぇぇぇえ!?

 見上げるとリズさんが井戸の中へと身を踊らせてきた。リズさんの兵装が暗がりの中で淡く蒼に輝く。

 僕が壁に捕まえられているのを見ると、片手で握った大剣を井戸の壁に刺し、落下速度を落とす。ししし、しかもなな何か、一瞬だけスカートの中身が見えちゃったような——いえ、見てないです!

「燈ィ! 団体さんのお出迎えだぞ!」

「は————うぇぇぇぇえええ!?」

 井戸の外から国司さん達の急を告げる大声が聞こえる。

「動くなよ、萌!」

 僕の傍まで落ちてきたリズさんが、僕の首に絡みつくものへ鋭い蹴りを放つ。

 ——えっ!? わわわ!

 異常な力で僕を縛り付けていたそれはリズさんの蹴りであっさりと戒めを解く。僕は井戸の水へと落下し、

「捕まれ!」

 ——はい!

 リズさんから差し出された手を掴む。

「萌を確保しました。敵です!」

「ああ、分かってるよ、こん畜生!」

「いえ、井戸の壁から敵が湧き出ています!」

 上を見上げると、灰色の空を、より濃い灰色の触手のような、蛇の頭のようなものが物体が無数に壁から生えてくるのが見えた。

「どうします、巌サン!? こっちもあと一分もしない内に相当な修羅場になりますよ!」

「チッ!」

 井戸の外からギィギィと言う鳴き声が何重にも聞こえて来る。

 井戸の内側からは無数の蛇達が姿を見せ、僕達を濁った瞳で睨む。

 くそっ! 僕が勝手に動いちゃったせいで分断されちゃったじゃないか!

「燈! 井戸の内側に全弾ブチ込め! ヴォルフハルト、上がってこい!」

「いえ、敵の発生頻度が勝り上まで登れません! 他に何か手は——……っ!?」

 リズさんの目が大きく見開かせる。一点を凝視し、信じられないものを発見したかのように大声を上げる。

「あ、あ、あ、ありました! 隠し戸です!」

 ——ええ!?

 リズさんが壁面に足を叩きつけると、石壁だったはずのそこに、ぽかりと穴が開いた。

「こんな時に当たりくじひいちゃってどーすんのよリーゼちゃん!?」

 日鉢さんの声が、熱風と爆風音と共にこちらまで響いてくる。

 上ではすでに戦闘が始まっている!

「こうなりゃ一か八かだ。畜生め。ヴォルフハルト、東雲をつれて先に行け! こっちが片付いたらお前らの後を追う! 必ずだ!」

「はい!」

「二人とも、お姉サンが見てないからって変なことしちゃダメ——よっと!!」

「萌、君が先へ行け!」

 ——ごめんなさい、リズさ、

「早く行け!」

 ——は、はい!

「燈ィ! 死んでも井戸の中には一匹も入れるな!」

「あんなにいたら一匹ぐらいは入っちゃいますって! 二人とも! いざとなったら井戸を塞いじゃうからごめんね!」

 僕は全速力で壁に出現した扉の中へと身を滑り込ませた。


 真っ黒な通路を這って進む。暗くて何も見えない中、手探りで進む。唯々前へ前へと這って進む。

 時間にしては数分ぐらいだったけど、僕には数時間ぐらいに感じられた。

 ——あ、わっ。

 唐突に通路が終わり、僕は何かの空間へと転がり落ちる。

 慌てて周囲を見渡すと、遠くに青白く光る灯篭のようなものが見える。

 ——リズさん、こっちは大丈夫そうで、

「手を貸してくれ、萌」

 ——は、はい。

 リズさんが差し出した手を掴み、通路から引っ張り出す。降り立ったリズさんは通路から大剣を取り出すとさっきまでいた通路を覗き込む。

「くっ! 行くぞ、萌! 通路にまで入り込んできている! あそこだ!」

 ——はい!

 灰色の蛇達がのたうち回りながら迫ってきている。

 僕達は遠くで青白く光る物体を目指して走り出す。踏み出す度に甲高い音が空間に響く。不思議にもこの空間の床は硬質の材料でできている。

「くそ! さっきまでは見えなかったのに! だと!? 私の目に扉が映るようになったのは刀の封印に気付けたからか! くそっ! 私のミスだ!」

 青白い鉱石で作られた灯台は、それ自体に明かりが灯っているようにぼんやりと照らしていた。

 その一箇所、光が途切れている。通路、いや見え方からして下りの階段だ。

 僕が、僕がもっとしっかりしていればこんなことには……!

「萌、この広場で敵を迎え撃つぞ! 先へ行けば地上に出る抜け道でもあるかも知れないが、これより——くっ!?」

 蛇達が這い出てきたのは井戸の壁からだけじゃなかった。僕達のいる部屋の光の届かない暗がりからうぞうぞと怪異達が蠢き出る気配がする。

 床、壁面、天井——全てから蛇が身を乗り出し僕達を捕食すべく牙をむき出しに息を吐く。

 どうする? リズさんの言う通り迎え撃つ?

 照明が部屋全体に行き届いていない、てことはリズさんの目でも蛇がどのくらいの速度で発生するのか計算できないはず。第一僕達の殲滅率が蛇の発生率を上回っていてもこっちの(主に僕のだけど)消耗を考えないと!

 左手で<獄焔茶釜>の鞘を握り締める。

 それとも井戸の中に戻る? ダメだ、井戸は蛇で溢れている。リズさんも言ってたじゃないか。倒しながら登ったとしても敵の発生速度の方が勝る!

 僕達が状況を把握しようと頭を回転させていた時、僕達の来た通路の奥からドンドンドンって大きな爆発音が響き、瓦礫が水に落ちる音がした。土煙が僕達のいる空間にまで舞ってくる。

「えっ——?」

 日鉢さんの言葉が頭に蘇る。

『いざとなったら井戸を塞いじゃうからごめんね!』

「く——! くそっ! 進むしかない! 行くぞ!」

 ——はい!

 信じられない、信じない! 日鉢さんと国司さんならきっと大丈夫だって、僕は信じる!


 先にあった階段を降りていくと、ポツン、ポツンとさっきの灯篭が立っている。お陰で光源を持たない僕らでも足元がおぼつかないということはない。

 つまり、ここは、灯篭が光る範囲を計算した上で建てられた人為的な建造物だ。

 僕達は階段を降り続ける。何段ぐらい降りたんだろう? 五十段? 百段? それとももっと? 地下に行き過ぎていないといいけど……。

 階段の終わりに近づき、リズさんが背後を見上げながら言う。

「後ろには追ってきていないが、先に進むぞ」

 ——はい!

 僕達は階段を降り、灯篭の設置されている通路を駆け抜けると、そこは、

 ——うわぁ……。

 光る灯篭が何十と立つ、あまりにも大きく、広い洞窟だった。空間の上部には灯篭の灯りが届ききっていない。僕の目にはこの空間の奥行きがどれくらいあるかも分からない。

「これならば、どこか他の出口があるはずだ」

 ——さっきの階段とこの通路って、この広場へ来るために作られたものですか?

「ああ、間違いない。くっ、見事な恩寵建造物だ。扉の先にあるものを知らないと現れない扉とはな……!」

 リズさんが憎々しげに呟く。詳しく聞きたいけど、

 ——今は出口を探すことを優先、ですね?

「ああ」

 等間隔に並べられた灯篭の中を小走りに駆けながら、僕達は他の出口を探す。

 もし他に出口があるのなら、僕達が通った通路のように、そこに灯篭があるはずだ。その灯りを見つけられれば——

 あれ?

 はぐれている灯りを探しているはずなのに、僕の目はより一層強い光を発する場所を目にした途端、そこから視線を離すことができなくなってしまった。

 自然と足が止まっていく。

「萌——……? あそこが、この地の中心のようだな」

 何があるのか、凄い気になるけど今はそんなことしてる状況じゃない。

「あそこに……——ッ!」

 ——えっ、リズさん!?

 何かが来た。

 空を裂いて到来したそれは、リズさんを大きく後ろに吹き飛ばす!

 リズさんが後ろに転がりながらも立ち上がり、声を上げる。

「く、敵だ! 萌ッ! 射撃だ!」

 ——え、え、え!?

 射撃!? 何処から!? あの光が強いところから? ならそこに敵がいるってこと!?

 ——灯篭の陰に隠れましょう!

「ダメだ! それごと射抜かれる!」

 リズさんの鎧と大剣が蒼い輝きを増す。

「はなはだ不本意だが、接近し敵を倒す他ない! こうも見晴らしの良い場所では格好の的になる!」

 リズさんが<氷の貴婦人>を下段に構え、射手の元へと疾駆する!

 僕はリズさんの後ろに回る。女の子の後ろに隠れるなんて、お師匠様に知られたら笑われちゃうかもだけど——!

 光に近づく中、その輪郭が次第に鮮明になってくる。

「いいか、萌。この敵の狙いは、君だ」

『気をつけろ、萌。奴らの狙いは……恐らく君だ』

 リズさん、昨日もそんなこと言ってたような?

「君なら——いや、一つだけ約束をしてくれ」

 リズさんが走るのを止め、小さく上へ飛ぶ。着地と同時に強く踏ん張りを効かせ、急停止する。

「頼むから、無茶だけはしないでくれ」

 リズさんは僕を振り返ることなく言葉だけを投げかける。

 力を全身にみなぎらせ、彼女は全力で迎撃の体勢を取る!

 下段に構えた<氷の貴婦人>の刀身が美しい蒼の輝きを増す。蒼く光るその刃は、周りに点在する灯篭や前方にある発光源なんかよりも、ずっと綺麗で気高く——そして、とても尊い。

「——ハァァァァァッ!!」

 飛び立った蒼と、振り上げられた蒼の大剣は、完璧な円を描き、飛来する物体と激突する!

 轟音が起こり、空間を揺らす。

 激突した一つは遥か斜め後ろの天井へ、そしてもう一つ——リズさんは後ろへ弾け飛ばされる。

 大地を滑りながらやってくるリズさんを僕は、

 ——リズさん!

「——萌っ!?」

 僕はあらん限りの力で抱きとめる。正直、こんな力で押されたら倒れない方がおかしい——でも、僕がリズさんを受け止めるんだ!!

 力を全て殺し、僕はリズさんを腕の中で抱えながら一息、

「助かっ、」


 鈴が、鳴った。


 視界の隅に捉えたそれは捕食者の赤い舌のように一直線に僕達へと音も無く襲い掛かってきた。殺意も敵意も気配も無かった。

 体がひとりでに動いた。リズさんから離した左手で腰に差している<獄焔茶釜>を半回転させて刃を下側に向け、下半身はリズさんの盾になるための位置を取った。右手は鞘から刃を放った。

 鈴の音が僕を知覚させた。刀を抜いた右手は、伸びてくる赤線と激突し、未だ斬れずにいる。衝撃は強く、気を抜けば僕をも貫く——いや、僕が斬れなければ今は刃に留まっている赤の殲光がリズさんを傷つける。

 その恐怖——焼いて捨てるべき恐れと、さっきまで全身で感じていた温もりが、僕に今一時の力を与えてくれる。

 ——キィィィエェェーーーッ!!

 振り上げ抜いた刀は真上を示す。

 散り散りになった赤を打ち破ったのは緋の刃——暗闇と蒼の光しかない領域に出現した焔の緋、それを手に僕はリズさんの隣に立つ。

「今の、技は——……? と、ともかく、今はこの場を二人で切り抜けるぞ!」

 ——はい!

 リズさんは下段に構え、僕は蜻蛉に取り、攻撃の飛来した方向、すなわち敵陣へと走る。不思議と、次の攻撃は来ないでいた。

「誘っているな。奴らには勝算がある。さっきの約束を忘れたら承知しないぞ!」

 ——えっ、はい!

 僕達が発光源に近づき、視認できる程の距離になるまで、次の攻撃はまったく来なかった。


「シャァァァァァアアアア!!」

「ジャァァァァァァアアア!!」

「ギィィィィジャァァァァァ!!」


 前方から怪異達の奇声が上がる。それと共に、前にも感じたことのある圧迫感が膨れ上がる! 間違えない、ヒトガタが僕達を狙っている!

 自然とお腹の奥が熱くなる。

 歩調は崩さずに、僕はリズさんと共に駆ける。

 決して慣れない死への恐怖と体ごとバラバラに裂かれるような傷の痛みが、ここから逃走しろと命じ続けている。

 煮えたぎり、発火しそうに猛る激情を使って足と体をむりやりに動かす。

 静かに深くゆっくりと呼吸する。

 戦える——僕はこの人のためなら。

 戦う——僕はそう決めたから刀を抜いた。

 斬る——刀が抜かれた以上、敵に与えるは斬死を、己が成すは唯斬ることのみ!!

「シシシジジジジィィィィーーッ!!」

 高速で『矢』が飛ぶ。僕の頭を吹き飛ばすべく。

 僕の目の前で、蜻蛉からの斬撃と、

「セイッ!」

 リズさんの蒼き大剣の切り上げとが合わさり、矢は十字の剣撃を受けて粉々に砕け散る!

 左の蜻蛉に刀を戻す。破片が飛び散り、装甲を裂いて皮膚を破り血が流れ出す。

 リズさんは大剣を回して左肩に担ぎ、僕の先を走る。

「何——だ、あのヒトガタは……!?」

 吐き気を催す怪異達が、そこにいた。

 屹立する灯篭の中心は、同じ青白い光を発する石畳が敷かれた広場になっていた。

 怪異が、五体のヒトガタ達がそこに立っていた。

「シシシシシ」

「シシシシシ」

 ヒトガタ達はショックを受ける僕達を見て、赤い舌を出しながら不快に嗤う。

 透明な水色の体躯、赤い瞳——これまでに戦ったぬめりとした灰色の個体と比べてとても鮮やかに見える。

 ——人を、食べてるんですか……?

「ギアアアアアアアーーーーーッ!!」

 それはヒトのような形をした蛇であり、

 ヒトを体内で喰らう怪物であり、

 ヒトのように武器を手に持つ怪異達だった。

 透明な身体の中に、人らしきものが浮かんでいる。奴らの体内で消化され吸収されてしまっているのだろう、人の骨格とそれに張り付いている肉塊のような良く分からないちぎれかけたものが、ヒトガタの体内で浮いている。

「ギニィィィィィィィィーーッ!!」

 五体のヒトガタは、体内で人間を咀嚼をし捕食していた。

 唖然とする僕達を尻目に、奴らは手に手に武器を持って襲いかかる。

「奴らは人間を喰い、その恩寵を行使する個体だ! 兵装との同調はできていないが、侮るな! 物としては決して駄作ではないぞ!」

 敵は五体、こちらは二人——その内一人は剣士と言えない半人前だ。

「シャアアアアアアアアーーーッ!!」

 正面から、一番巨体な個体が身体を揺さぶりながらこちらへと走る。胴体には簡易な胴丸をつけている。その隙間から半ば骨と化した人の頭部が覗いている。

「シシシシシッ!」

 一体は上空から身体を反転させながらこちらへと空を走る。両手には刃渡り一メートルはありそうな全長三メートル超の大身槍を持っている。空を漂うのもさることながら、重力に逆らう奇怪さも、胴体の中にいる人の残骸が揺れ動くのを見ると怒りへと変わる。

「ンギギギギギ!」

 両手に黒い籠手をはめて茶色の大弓を持ったヒトガタが、体中に浮かぶ何本もの人の骨を自らの体液で繋ぎ止めて矢を作っている。

「萌ッ!」

 ——わっ!

 リズさんが僕に横から猛烈な勢いで体当たりをし、一体のヒトガタの口から放たれた赤線が後方の灯篭に命中し瓦解させる。

 よろけた僕に、

「ギィィィィヤァァァァーーーーッ!!」

 これまで攻撃のなかった左側から太刀を両手に持ったヒトガタが、怪異らしからぬ見事な上段斬りを僕の首筋にみまう!

「セイッ!」

 リズさんが横から<氷の貴婦人>で薙ぎ払い、頭、喉、胴への三段の突きで返す!

「ギギッ!」

 信じられない器用さで刀を操り、頭と喉への突きを弾き、三段目は後退して回避する。

「くっ! 喰った人間の技術をも吸収しているのか!?」

 ヒトガタが左手を柄から離し、刀を横に構える。発光する灯篭が一基、大地の戒めから解かれ、吸い込まれるようにリズさんの頭部へと飛ぶ!

「甘い!」

 半歩踏み出しながら体を回転させ、柄頭に取り付けた宝石で飛来する灯篭を叩いてその軌道を変更させる!

 ——危ない!

 リズさんの動いた隙をついて、ほぼ垂直から大身槍の突き下ろしが迫る!

 火花と焔火が飛ぶ。刃と刃——本来ならば怪異を倒すと言う同じ目的で鍛えられた刃同士がぶつかり合う。

 追撃すべく再度蜻蛉に刀を取った時には既に遅く、敵は宙高くに逃げていた。

 高所からの攻撃、二メートル以上のリーチ差、重力を無視した三次元の機動力——敵の方が一枚も二枚も上手だ!

「萌、あのでかいのに触られるな、意識が一発で吹き飛ばされるぞ!」

 一番大きなヒトガタが両手で万歳をしながら僕達へ倒れ込む!

 その後ろ、人骨を矢としたヒトガタが大弓にそれを番え、僕達を狙う!

 放たれた矢は前に立つヒトガタを胴巻ごと貫き——

「ハアッ!」

 全てを見過ごしていたリズさんが全身を叩きつけるように、視認すら難しい弓撃の一射を斬り砕く!

 ——わわわ!

 僕は刀を振らなかった。抜即斬、刀を抜いた以上、抜きと斬るとの行為のあいだは存在しない。でも僕は、リズさんを抱き抱えながら倒れこんできた巨大なヒトガタから間一髪で飛び退く。

「——くっ!」

 ——くっ!

 僕達は同時に立ち上がり、背中を合わせて敵を睨みつける。

「ギギギギィィィイイイイイ」

「シシシシシシシシシシシシ」

「ァァァァァァアアアアアアアーー!」

 五体のヒトガタは僕達の足掻きがおかしいのか、不快でカンに障る嘲笑をもらす。

 敵は五体、人間を食らい、恩寵を行使する人の形をした蛇の怪異だ。

 強大な体躯を持つ腹巻を着た奴は、触れると意識を奪うとリズさんは言う。

 太刀を持つ奴は接近戦を挑んでくる。多分、物体を飛ばす力を持っている。

 重力を無視して空を自由に歩く奴は全長三メートル以上の大身槍を持つ。立ち合いにおける自分の優位点を理解しているのか、こちらの間隙をつくように高所から突いては離れる。

 両手に黒籠手をはめて後ろから大弓を射つのは自分の、いや吸収した人の骨を矢に使う。射程だけならこいつが一番長い。単純な一撃の強さも一番かもしれないけど、射と射の間が長い。

 最後の五体目は赤い光線を口から放つ。手には刀を握っているけど、歩みは遅い。近づいてくるまでには時間がある。

 勝負の天秤は、相手に大きく傾いている。

 僕達が勝っているとすれば——


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 私達が勝っているとすれば、チームワークか。

 彼はどうか知らないが、私は彼のことを、その無鉄砲さも含めて良く知っている。

 奴らは個体ごとにバラバラに動いている。昨晩戦闘した巣の女王と親衛隊とは比べるまでもない。

 だが、それも時間の問題だ。

 人間を吸収しており、その人間の生前の恩寵の使い方までも習得しているようだ。いずれは、集団での恩寵戦における自分の力の使い方を知る——つまり、奴らは時間が経てばチームワークをも得るはずだ。

 加えて、私の目が告げる、奴らが消化しているスピードが格段に上がっていると。

 戦闘でカロリーが必要とでも言いたいのか、全くふざけている。

 だがこれは彼には伝えられない。短期で決戦しなければならないと分かれば、彼は無謀にも突っ込み、そして死ぬ。

 時間かけたところで相手を一体討てれば御の字だろう。数が、違いすぎる。

 手があるならば、萌の一瞬の爆発力だ。

 私が彼をカバーしきれればこの窮地をどうにか切り抜けられ、


『お前には無い——心の底から欲しいと叫ぶ想いが』


 私の胸を抉る彼女の言葉が頭を掠める。

 足りない、そう私には。

「くっ!!」

 槍が、弓が、刀が、赤光が、怪異の腕が私達を襲う。刃が風を裂いてあらゆる方位、方角から荒れ狂う。

 決意や覚悟——そして何より力が、私には足りない。

 瞬きなどする暇は無い。私達二人を取り囲む全ての敵の攻撃線を読まねばならないのだから。

「萌ッ!」

 背中合わせに立つ彼と体を入れ替えながら、迫る敵の攻撃を体越しに知らせる。

 彼はその全てを斬り落とす。

 強く、そしてはやい。私よりも。技量の差など簡単に覆えす破壊力だ。

 焦燥が募る。

 刃の弾ける音と、恩寵によって行使される力のぶつかり合う音が、地下の空間を震わせ続ける。

 怪異の攻撃速度と威力が増し続けていることは既に萌にバレてしまっているだろう。

 そしてもう一つ、赤い<破壊光線>を放つヒトガタがこちらへ歩き続けている。その手には一振りの刀が握られている。

 私と萌の防戦は紙一重のバランスの上で成り立っている。時間は敵の味方だ。


『心の底から欲しいと叫ぶ想いが』


 ——リズさん!?

 受け流しきれなかった弓撃が私のこめかみをかすめ、サリットを破壊する。

「上と左から来るぞ!」

 彼とて傷を負っているのに私の心配をする。

 手を取り合って踊るダンスではなく、背中合わせで私達はお互いの命を守り合う。

 痛覚と血の感触が、私の疑念を膨らませる。

 何故、私はここにいるのか、剣を持つのか、振るうのか?

 何も分からぬ幼い憧憬——それが私の剣の源だ。後ろにいる彼の覚悟とは比べるまでもなく、滑稽で惨めだろう。

 この窮地で、生死の綱渡りをしているのに、自虐の笑みでも浮かんできそうだ。だが、私の纏う<氷の貴婦人>と背中越しに伝わる彼の体温が、それを否定する。

 振り、走り、かわし、見て、指示し、

 私は彼を想った。

 大人しいのに、烈火のように激しい。人の心配はするくせに、己の命は紙切れのように投げ捨てようとする。

 そうか。一つだけ合点がいった。

 我ながらバカらしい。この必死の剣舞を二人で踊る最中に気付いてしまうとは。

 力及ばず倒れるとも、この場にいる理由が幼稚で未熟であろうとも、

 この望みだけは確かだと。


 音が聞こえる。

 この場に相応しくない、いや私が聞いたことすらない音だ。


 雪に囲まれた静謐な小屋の中——

 鍛冶師は一人、剣を鍛つ。

 この剣を持つべき主を想いながら、

 穏やかに笑みを浮かべながら、

 それ以上に——ただ一つの、私と同じ想いを抱く。


 “どうか、無事でいてくれ——”

 “どうか、無事でいて下さい——”


 冬の風が、この決意から解き放たれる。


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 白い冷気が、枷から解かれた猛犬のように吹き荒れる。

 背中越しに感じる温もりが、急激に低下していく。

「ギギギギ?」

 対峙する怪異達も気付いている。白い風が、僕の背後から吹いてくるのだから。

 白い風が収まるより早く、背中から伝わる鼓動が僕にリズさんの意思を告げる。

『次の第二射までに決着をつける、行くぞ、萌!』

「ジャァァァァアアアーーーー!!」

 一本目の矢が、白の衣を引き裂いて飛来する。

 僕達は走り出す。僕は前へ刀を掲げながら。リズさんは上へ宙を飛ぶ。

「ギギギギギィィィィィィィ!!」

「ジジジジジィィィーーーー!!」

 大型のヒトガタが手を広げ、宙を歩くヒトガタが大身槍を振り回し、空中へと駆け出した貴婦人を迎撃する!

 僕はただ前へと僕が倒すべき怪異の元へと走る!

「シシシッーーージャァァァァァァ!!」

 物を操る力を持ったヒトガタが、太刀を青眼に構え奇声をあげる。

 リズさんがどうなっているか、僕は分からない。斬るべき敵が前にいて、斬るべき刀を僕は握っているのだから!

「ジジジギギギィィィーーー!」

「ジジジジジジーーーーーッ!」

「ハァァァァーーー!」

 後方の戦闘音を聞こえる状態にいては、真鋭ジゲンの剣を振るう心境に到っていない。数秒後の敵との戦闘で地に伏すのは僕自身になる。

 それでも僕の中には、リズさんのくれた小さな温もりがあった。

 リズさんと共に敵の攻勢を防いでいる間、それは決して消えることなく僕を暖め続けてくれた。

 ——ッ!?

 これまでの常識が、決死の闘いの前に覆る。

 灯篭が二基、そう一基ではなく二基、ヒトガタの両肩後方から襲来する! 三方からの同時攻撃!

「シシシ!」

 ヒトガタがニタリと嗤う。その体内で溶かされている髑髏がどろりと溶けた。

 知覚した一瞬が、戦闘で興奮した脳により引き伸ばされる。

 左から来る灯篭を斬っても、正面のヒトガタと右の灯篭に倒される。右のを斬っても同じだ。左右の灯篭を無視し正面のヒトガタを相手にしても、相手が打つ間を変えれば灯篭で体勢を崩した隙をつかれる。

『くれぐれも、無茶はしないでくれ』

 リズさんの優しい声と、体の中の温もりが、この絶望した矛盾を斬り捨てろと、斬れぬのならば魂まで燃やし尽くしてみろと言う囁きに頷くのを思いとどまらせる。

(————燃ヤセ————)

 声が聞こえる。

(——燃ヤセ——)

 声は命じる。己を燃やし、敵を斬り捨て、灰となれと。

 でも、それじゃあ、それじゃあダメなんだ。

(燃やせ)

 そうだ。

 今は、僕の中で焔を燃やすんじゃなくて、

(燃やせ。燃やせ。燃やせ)

 リズさんの温もりを——体内に既にある火を、

(燃やせ、燃やせ、燃やせ、燃やせ、)

 守りたいから、大切にしたいから、

(燃やせ燃やせ燃やせ燃やせーー!!)

 この火を守り続ける意地を持ち続けられるのなら、


 魂すら燃やし尽くす煉獄の焔で罰せられ、自我など消え去り、この肉体が意思をなくし唯の茶釜となろうとも、


(燃やせぇぇぇーーーーーーーーー!!)


 僕はきっと、自分をちょっぴり誇りに思えるはず。


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 体が羽のように軽い。

 飛び上がりながら<氷の貴婦人>を下段から右肩へと移動させる。

 かつてない程の兵装との一体感がある。剣の切っ先、ドレスの裾のひとひらに至るまで私の意志が走っているかのようだ。

 剣の刀身の蒼の輝きが、私の意思に共鳴し闇を照らす。

 私は<氷の貴婦人>が描き出す氷塊に、両足を乗せ、宙を舞う。

「ギギギーーーイイイイ!!」

 ヒトガタの奇声と共に長槍が繰り出される。

 喉元に迫るそれを、右腕のガントレットを刀身に押しながら受け飛ばす。

 敵は槍を引くとすぐさまに後転する。本能で私の変化を感じ取っているのか。だが——逃す、ものか!

 すぐさま大剣で円を描き、生成した氷の足場により空中を再度駆け上がる。

 剣へ秘められた想いに触れられた今だから正しく言える、これこそが、氷の貴婦人の正式な礼装であると!

「ジジジギャァァァーーーッ!」

 かつてないほどに深く剣の蒼を感じながら、私は<氷の貴婦人>を音楽隊のバトンのように上下左右、縦横無尽に振り回し続ける。

 作られるのは空に咲いた氷結の階段——主である私には時に空気のように無な存在となり、時に槍を防ぐ盾に、宙の踊り場にもなる。

 相立つ敵は、<自在空歩>の恩寵を持つ人間を喰らいその力を振るう忌むべき敵! 私の大剣より一メートル以上越すリーチを誇る長槍を振るう怪異!

 だが、空駆ける者同士となったからには、長い棒に振り回される罪人にしか見えない。そんなもので私の剣舞に付き合えるとでも思ったか!

「ア"ア"ア"ア"ーーーー!」

 眼下には、のろまな動きで私を地面へ叩き落とそうと腕を振り回す怪異が一体いる。

 貴婦人の作り出した足場を崩しては、氷の雨に打たれ、苦悶の叫び声を上げる。

 私の目には——そのどちらもが狩られることを待つ獲物にしか映らない!

「ハァァァーーッ!」

 必殺の布石を打つ。

 天井近くまで追い詰めた敵ヒトガタの放つ苦し紛れの切り払いを、『飢狼』からの斬り上げで合わせる。剣が槍の柄を叩くより早く、足場を蹴り、衝突の勢いを殺さずに長槍の柄にそって剣を滑らせる。

 切っ先は柄を握るヒトガタの両手の指を全て斬り落とす。

 空の足場でステップを踏み、大剣を握った手首を返すと共に、作り出された氷塊に爪先立ちで着地しながら止めの一撃を放つべく体を回転させ、『日輪』の構えへと移行させた<氷の貴婦人>を、

「ハァッ!!」

 一気に振り下ろし、長槍を持つ水色の怪異をその中でもがき苦しむ亡骸と共に両断する!

「ギャァァァーーー!!」

 四散するヒトガタの断末魔の絶叫を背後で聞きながら、地面へと落下する長槍を左手で掴む。

 投げるべき場所は見えている。

 槍よ、怪異を討つべきものよ、主を喰われ怪異に扱われるとは、その無念、私に分かるはずがない。だが、その本分を果たすため——主達の仇を討つため、この一擲だけ力を貸してくれ!

 見える! 氷の間隙! 地上にいるヒトガタを空から刺し貫く一本道が!

 この身を階段から踊らせ、重力と共に走る。手にした長槍の銀光が本来の輝きを放ちながらこの手を離れ、彗星の如く地へと落下する!

「ーーーァァァァア"ア"ア"」

 銀の星はヒトガタの体内を通り抜け、その光をもってして大地へと繋ぎ止める。

「ヤァァァァーーーッ!」

 再び頭上から、されど今度はその誤った生命を完全に刈り取るため、雷撃の如き一刀を振り下ろす!

「ギギギ……」

 靴が石畳を踏み抜く音が、戦闘の終わりと勝利を告げる。

 空での舞踏を終え、地面に斬り込んだ<氷の貴婦人>を引き抜く。

 蒼い氷塊がヒトガタの頭から尾まで大地を穿ちながら体を左右二つに切り分ける。倒れ行くその体は水色の霧となって散り、消化しきれなかったかつて人だったものが朽ちた果実のように地の石畳とぶつかって弾け散る。

 散っていった戦士達に魂の安らぎを……。

 いや、今は祈っている時ではない。萌は!? 彼はどうなった!?

 彼は、

「萌——?」

 戦っていた。

「ジャァァァァァァァァーーーッ!!」

 ——キィィィェェェーーーーッ!

 深紅の光をその身から発しながら、刀を振るっていた。

 静の屋敷で見た彼と同じだ。超高温の炎で全身を焦がしながら彼は唯、刀を振るう。

 彼が刃を向けるヒトガタの中には、もう微かな人の欠片しか残っていない。

<斥引力場>——反発し合う斥力か引き合う引力の力場を物体に与える力を完璧に己のものとしている。私が目を離すまでは一対しか作れなかったのに、今では二十を超える物が、瓦礫が、剥がれた石畳が、灯篭が、矢のように、その全てが唯一人の人間、私の友である東雲萌を狙っている!

 引力から斥力へ、そしてまた引力へと力場を変え、対となるペアの物体をも変えている。その結果、飛び交う物体は私の目でも予測が困難なほどに複雑怪奇な攻撃線を描く!

 彼はその中を突き進む。緋焔の刀でかの敵を断ち斬らんと。

 彼の執る刀と、駆ける身体が炎の嵐を形作る。

 しかし飛びかかる全ての物体を破壊するには至っていない。斬り捨てた物自体がヒトガタの操るまた新たな手下となって彼の体へと襲来するからだ。焔の防壁を突破し、彼を傷つける音が私にまで聞こえる。

 それでも彼は——走ることを、剣を振るうことを決して止めない!

「萌ーーッ!!」

 彼の身体を包む焔が燃え上がり、トンボと言う構えのままヒトガタへの最短経路を突っ走る。

 周りを浮かんでいた物体が一斉に彼へと降り注ぐ! ——だが、彼は止まらない! 体を何度もくの時に変形させながらも、その構えのまま突き進む!

「シィィィィーーー!!」

 瞬きの間に、決着はついていた。

 それがさも当然であるかの如く、彼の緋焔の刀はヒトガタの構える刀ごとその敵を両断していた。

「はじ————避けろぉぉ!!」

 決着の虚をついたのは偶然か必然か、<破壊光線>が彼の胸元へと飛ぶ。

 国司殿の言葉が思い出された。

 彼は、躊躇いも見せず、光線を発した敵を撃破すべく直進する。

 結果、激突する。威力が違う、彼の緋の鎧をもってしても威力は耐えられない! 貫かれる!

 私は駆け出すも、この目は決して届かないと分かってしまう。

 光線は彼を貫き、彼方の闇へと消えた。

「あっ——」

 私が言葉を失っている間、敵が声を発するよりも速く、彼はその敵を斬っていた。

「は、じめ……萌、しっかりし……?」

 くそっ! 彼の炎が視線を遮って傷の程度が分からない。もっと近くに!

 彼は動かない。刀をトンボに構え直し、何処か彼方を見据えている。

 そうだ、あと一匹、敵はいた! 弓を持つヒトガタだ! 弓撃の間隔からするともうすぐに——えっ?


「こんばんワ。いえ、こんにちハ、デスカ?」


 その怪異がいたはずの場所にいたのは、いるはずのない存在——


 ‘臭えサル語なんぞ話してんじゃねえぞ、クソガキ’


 二人の異端執行官だった。


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 ‘カスカスカスカスカスカスカスがよォォォォ!’

 黒い剣風が静かに、音もなく吹き荒れます。

 ‘任務ですよ、ゲオルグさん’

 ‘あァ?’

 ‘ですから任務ですよ、ゲオルグさん’

 ‘あ"ァ?’

 重ねて念を押そうにもこの男には無駄なことだと分かってはいるのですが——

 ‘お静かに。人がいると面倒ですから’

 ‘人はいねェ。いるとしてもサルだけだ’

 この男は相も変わらずですね。ただ問題なのは、この先の祭壇が妙に騒がしいのです。御主の御神託など受けたことのないこの身ですが、任務に面倒と言う名の障害はつきものです。

 ‘いるぞ、オイ。サルがお遊び中だ’

 ‘ふぅ、困りますね。私達は一応死んでいるのですから’

 ‘おいクソガキ。これでだ。結界が反転する。後のことなんざ知るか’

 ‘——’

 ‘おィ、今思ったこと口に出したら首飛ばすぞ?’

 それを知っているから黙っているのですが、実に見事な理解力ですね。

 大鎌が振られ音なく黒風が吹き、そこに立っていた弓を持つ怪異の体を両断し死滅させました。断末魔など、あの男の風によりかき消されてしまいます。

 さて、ようやくご対面ですね——。

 ‘ほう’

 武は知らぬ私ですが、美は分かります。あの少女、以前見た時と身に展開する兵装が異なっていますね。特に鎧がまるで違います。ただの分厚い塊のような装甲から変化しています。何枚もの板を重ね打ちし、それら一枚一枚に入念な掘り細工まで施されているではありませんか。これは美しいと呼ぶに値するでしょう。

 もう一人は、ふむ、これは激しい。真紅に発光する炎が全身を焦がしています。彼女とは真逆の装いですね。おや、あの瞳……あれは間違えなく——。あの少年、僅か数日だというのにここまで変貌するとは……! 御主のお与えになった試練に打ち勝った証でしょうか。

「は、じめ……萌、しっかりし……?」

 問題はあそこの祭壇なのですが、このややこしい状況をどう切り抜けるかですね。

 いえ、これも御主からお与え頂いた試練なのです。この程度乗り越えられなくて何とするでしょう?


「こんばんワ。いえ、こんにちハ、デスカ?」


 発音がおかしいのはお許し頂きたいものです。


 ‘臭えサル語なんぞ話してんじゃねえぞ、クソガキ’


 話をややこしくするのは大変に困るのです。ここは黙殺すべきでしょう。

「あれヲ」

「えっ?」

「あの祭壇を見て下サイ。貴女なら見えるデショウ? そしてあの敵対者ガ」

 彼女を誘導しますと、

「あ、あれは……。この怪異達の生みの親?」

 私が指し示すのはこの広場の中心地にある祭壇です。正確には、その祭壇(この国で採れる幻想鉱石の塊ですが)に刺さる剣(カタナと呼ぶのでしたか?)に、です。もっと正確に言いましょう、そのカタナの根元から生えている一匹の蛇です。頭部が二股に分かれている水色の蛇がいます。

 大きさはさほどではありません。カタナの刃とほぼ同じぐらいの細身です。しかし発する邪気は先程まで少女達が相手にしていたものとは比べものになりません。

 蛇は二つの頭の口を開け、牙でカタナを噛み続けています。私には見えませんが、彼女のならば見えるでしょう、既に封印が崩壊しかけおり、手の施しようの無いことが。

 あとは、

 ‘あ〜……’

 彼女の協力を得るために上手く口車に乗せられれば良いのですが、さて。

 ‘あ〜ー……’

「ご覧の通りデス。ここハ一つ、」

 ‘るせェンだよ、クソカス共がァ!!’

 全てをぶち壊す下劣な叫び声を発し、あの男が<罪狩り>を担ぎ、鎧すら展開しないまま走り出します。

「はイ?」

 封印を蝕む敵対者へではなく、

「萌ッ!」

 未だカタナを構え続けている少年の元へと。

 意味が分かりません、全く。首を傾げる間にも、黒い旋風が灼熱の鎧とぶつかり合い、

「萌ぇぇぇぇーーー!!」

 あの男が腰をひねりながらに突き出された右脚が少年を捉えました。ゴムボールのように少年は無残にも床に二度跳ね、三度目に激突する前に目の少女によって支え止められました。やれやれ。

「——萌! おい、しっかりしろ!」

 ‘寝てろ、カス’

 唾を吐きながら御主をも恐れぬ暴言を吐き、思うがままに振る舞うこの男、もはや呆れ果てるほかありません。

 少年の着る炎の衣は、彼女の腕の中でゆっくりと薄らいでいきます。炎と氷の兵装の干渉のせいでしょうか、もしくはあの男の蹴りの一撃で少年の意識が刈り取られたせいでしょうか、いやその両方でしょうね。

「——シシッ?」

 これは? 封印を蝕んでいた双頭の蛇が鎌首をもたげ、彼女達を瞳に捉えるではありませんか。

 全く、をするのでしたらあらかじめ教えて頂かなくては。

「シャァァァァーー!!」

 双頭の蛇は口から奇声をあげ、身体を伸ばし地を這って少年の首元へと襲いかかります。

 ‘——カスが’

 一陣の風が敷地ごと地面を舞い上げ、宙に浮かび上がった蛇の双頭へ黒き大鎌が十字を描きました。

 ‘チッ!’

 よほど面白くもない戦いだったのでしょう。憎々しげに打たれた舌打ちと共に、突風が空を裂いて蛇に喰われていた封印へと疾走します。

 それでお終いです。蛇は切り刻まれ、封印の一柱は軽い音を立てて無残に折れてしまいました。

 ‘カスだな’

 あっけないですね。あの剣を喰って以来、この男の『風』を操る技術は天井を知りません。攻撃として用いるだけではなく、遠方の風の振動を読み取り音も聞き取れるようになっているようです。よほど相性が良いのでしょう。

 障害らしい障害もありませんでしたが、私達が生きていることを知られてしまいましたか。死んだままの方が動きやすいのですが……ふむ。あの二人を始末すべきかすまいか——さてどうしましょうか。

 目の少女は、

 ‘天におわす我らが父よ、願わくば御名を崇めさせ給え、御国を来たらせ給え。御心の天なる——’

 餌の少年にヒーリングを試みていますが、ふーむ、何でしょうかこの違和感は。少年を救うことに必死なのか、御主へ祈りを捧げることに必死になるのか、バランスが取れていません。なってない祈祷です。聖コンスタンスの名に連ねる者は所詮は剣を振るう蛮勇しか知らないと言うことでしょうか?

「おおット」

 封印が解かれ、何よりも血の滴るが近くにいるせいか、今回の揺れは激しいですね。

 揺れが続く中、そういえば今回は原種に繋がる特異能力を確認できませんでしたね、とのんびり考えていると、

「シギャァァーーッ!!」

 蛇が、あの男に斬られ消えていったはずの水色の蛇が蘇り、地に残った封印の破片を吹き飛ばし、亀裂からその身を這い出しているではありませんか!!

 ‘<ジャックのスリーカードトレス ジャックス>’

 左手から三枚のカードをばら撒き、手元に三人の兵を召喚します。

 蛇の形は先程と同様、首が二股に分かれた双頭の蛇ですが、その大きさたるや桁違いです! この迫力! 圧力! 何をさしおいてもこの殺意! これがこの敵対者の本性ですか!!

 あの男は下品な笑みを浮かべ、眼前に現れた罪を刈り取るべく鎌を取ります!


 ‘哀れな罪人よ、泣くのを止めよ。

 背に負いし一切の咎、今この場にて救済せん’


 黒い霧があの男の全身を埋め尽くし——


 ‘——<罪狩り>——!!’


 咆哮が黒い霧を霧散させ、黒き騎士が黒風を伴って出現します!

 ‘——ッラァ!’

 自身の三倍はあろうかという巨大な双頭の蛇を前に、何故かこの男は嬉しそうに大鎌を振り回します。

 作り出されるつむじ風は黒の色を持って視覚化され——なっ!? 天井からも蛇達が降りてきているではありませんか!? それら全てをあの男の駆る風が細切れにします!

「シャーーーーーッ!!」

 双頭の大蛇は、その身を斬り刻まれたにも関わらず、狂ったように頭を地面へと打ち続け、大地を振動させ続けます!

「くっ——萌! 頼む、目を覚ましてくれ!」

 大蛇に呼応し、地に敷き詰められているパネルの隙間から無数の水色の蛇が首をもたげ、その姿を現し始めました。上からは灰色の蛇達が雨のように降り、下からは水色の蛇達が次々と生えてきます。

 それを指揮するのは双頭の大蛇です。あの男の言い方を借りれば面白くなってきた、と言うところでしょうか。そして正しく言うのならば、やはり御主から御与え頂いた試練には楽に済むものはないと言うことでしょう。

 ‘各員に命じます。私を守護しなさい’

 剣、槍、弓の騎士をそれぞれ具現化し、私に背を向けて各々の武器を手に携えさせます。

 彼女達を援護すべきでしょうか? いえ、乗り越える障害が大きければ大きいほど、迷い子は御主の御愛を求めようと手を伸ばし祈りを捧げるのです!

 三方で戦闘が展開します。

 一つ、

 ‘オッーーーーーラァァ!!’

 中心には、漆黒の大鎌を黒き旋風を伴って振り回す黒き騎士が一人います。己の暴威を誇示し続け、我々人類の敵対者に絶対の消滅を与えます。

「シャァァァァ!!」

 三度、四度、五度、六度、七度! 鎌が振るわれるたびに双頭の大蛇に確実な死を与えます。ですが! 双頭の大蛇は何度首を斬り落とされても、体躯を切り裂かれても、細切れの欠片から蘇り、我々に牙を向くことを止めません!

 戦況は押してはいますが、こう着状態ですね。

 二つ、

 ‘<クイーンとナインのフルハウスレジナエ プレナ ニィネス>’

 私の周りにも蛇どもが湧いては降ってきます。<カードの兵隊>の人数をさらに展開し、

 ‘命じます、全軍、あくまで防衛に徹しなさい’

 私の命令に従い、兵士達が円陣を描いて展開し、襲い来る蛇達に武器を振るいます。

 喧騒から逃れられることはできませんが、他二つの戦闘を見守らなければなりません。

 一つ目の戦闘——あの男と渡り合うのは第二種の怪異ですね。第二種は原種より産み出されるが故に原種の持つ特異能力をほぼ確実に引き継ぐとされています。

 あの再生能力ですか。あの男の鎌で殲滅させられないとなるとやっかいですね。能力らしい能力が分かったのは、二柱目を破壊した時に出現した緑色の蛇の『傷を与えた攻撃の一切を無効化し、その攻撃手段を持つ怪異を創り出す』ですが、こちらもやっかいですね。攻撃の無効化はされてはいないものの、あそこまで斬られてもなお修復するとは。再生に関するもののようですが、さて?

 そしてもう一つ、三つ目に展開しているのが——

 カタナを握ったまま気絶し続けている少年と、彼を片腕に抱えながら、数えるのが苦痛になる程の蛇の群れと戦い続けている少女です。


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 深い眠りの中、暗い暗い闇に沈んでいく。

 足先から指先、頭の天辺までも。

「——萌——!」

『はじめちゃん……』

 全身すっぽりと泥につかったような重い感覚が支配していく。心臓の鼓動も意識も思考もからみとられて動きが鈍っていく。

「萌——!」

『はじめちゃん……』

 あれ、でも声が聞こえる。

 僕を呼ぶ、凛々しい声と哀しい声が……。

「萌! いい加減に目を開けろ!」

『はじめちゃん……ごめんね』

 急激に喉が絞め付けられ、僕の声が    に吸い取られて


「さっさと目を開けろ、萌ェ!!」

 ——ぷぅぅ!?

 誰かに左頬を猛烈な勢いで平手打ちされ、意識が急激に覚醒する。

 口の中で火花が散り、何処か彼方へ行っていた僕の意識は一気に現実に戻された。

 ——え、リズさん?

「よし、覚醒したか! 見ての通りだ! 今、」

 ——あ、リズさん……。

「ん、まだ意識がぼやけているのか? すまない、だが、」

 ——凄く、キレイ……です。

「————————は?」

 展開している<氷の貴婦人>が変化している。今までは女性らしい服飾の付いたドレスと、無骨なまでにゴツゴツした鎧が組み合わさった兵装だった。

 それなのに今は、外に出ている装甲は丸みを帯びた板金を幾重にも重ねられたものに変わっていて、可憐な文様が彫り込まれている。ドレスにガウン、三枚重ねのスカートにショール、頭を守る兜(サリットだっけ?)にはベールがついていて、裾から見える腕防具も、スカートから覗く脚防具の装甲も、

「寝言をぬかしている場合かぁ! このたわけぇー!!」

 ——ぷきゅぅ。

 もう一度頬をスパかーんと叩かれ、視界が渦を巻いてまた真っ黒に

「起、き、ろ、萌ぇ〜ー!!」

 ——はははひぃぃぃ〜ぃ!?

 首根っこを引っつかまれたガクガクガクと揺さぶられる。

「シャァァァーー!」

 ——わぁぁ!

「セィ!」

 蒼い一閃が、僕の目の前へと大きく伸びたヒトガタへと走る。それは僕の目の前を横切り、水色の蛇の首を勢い良く飛ばす。

 ——てぇぇぇぇ!? 何事ですか、リズさーん!

「だから君を無理やり起こしたんだ! 早く展開しろ!」

 ——ててて、展開って、兵装の展開ってどうやるんですかぁ!?

「バカ者! さっき君自身がしていたことだろう!?」

 ——いたたた。そ、そんなこと言っても、蛇蛇蛇! 蛇ばっかですし、ヒトガタもまじってるじゃないですかー!?

「だから! 一先ずは私が引き受ける! 萌は早く兵装の中へ入り込め!」

 ——は、はい!

 僕が戸惑う間、上からは灰色のヒトガタが絶え間なく降ってくる。地面からは、ただの水色の蛇と、腕や脚が生えている未完成な灰色のヒトガタの蛇と、そして完全なヒトガタとなった蛇が生え続ける。

「セイッ!」

 それをリズさんは一人、大剣を操り、迫り来る怪異を斬り払う。

 リズさんの<氷の貴婦人>は兵装としての外観が変わっただけじゃない。刀身が彩る色合いが力強い、氷塊もだ!

 それ以上にこんなピンチにいるのにリズさんの真剣な表情が、

「私を眺めている場合か、このおまぬけめ! あそこを見ろ!」

 ——え……あれは、

「そうだ、あれは、」

 ——く、黒騎士!? 死んだんじゃないんですか、リズさん!?

「私に聞くな! 良く見ろ!」

 ——あ、あの子もいる。

「バッカ者! 第二種の怪異だ! 双頭の大蛇だ!」

 ——わっ——!?

 僕とリズさんの間に、黒い剣風が襲来する。

「せェぞ猿カス! サカるならテメェらの臭ェ頭をカチ割るぞコルァ!!」

 この兜でくぐもった声は、

『人間様の邪魔してんじゃねェぞ、カス猿』

 同じだ、あの人と同じだ……!

 なら、さっき僕を蹴っ飛ばした人が黒騎士の中の人……じゃなくて、あの人が兵装を展開した姿が黒騎士なのか!

「ゲオルグさン、アナタの自己感情ハもういいデス。それでいかがデスカ? あの双頭の蛇の特性ハ?」

 視界内の怪異達が牙を剥き一斉に襲いかかってくる。瞳が奴らの動きを掴むや否や、体は自然と蜻蛉の姿勢を取っている。刀は、手の内にある。

 意志は刃となり、組み重ねた訓練が手に持った<獄焔茶釜>を動かす。

 茶釜から漏れ出す地獄の焔を刃に乗せ、周囲の怪異を切断し、跡形もなく溶かす!

 胸に違和感と痛みがある、けど、弱音を吐いている場合じゃない!

 ——リズさん、これどうしたんですか、一体!?

 隣で剣を振るいながらもリズさんは答える。

「ここは屋敷の地下だ。周辺は侵蝕された森だっただろう? 地下の土も同じだったと言う訳だ。上から降ってくるのはそれだ!」

 リズさんは上空で<氷の貴婦人>を回す。回転し、勢いを乗せて斬り下ろし、再度剣を上へと回す。

「ギャァァァァァアアアーー!」

「ギギギィィィィ!!」

 創り出される氷は硬い。ヒトガタ達の腕の刃をぶつけられても、研ぎ澄まされた牙の噛みつきにも、容易に壊れることはない!

 僕達の刃は一体一体確実に敵を屠っていく。でも、敵の数が、生まれ出る数が多い! 巣の女王よりも桁が違う! これが侵蝕された大地から出現する怪異なのか!

「第二種の呼応に答えているようだ! 私達全員を喰い殺すまで止まりはしまい!」

 あの子を見る。大勢の兵士達の円にかこまれて、その中心で静かに戦況を観察している。

 もう一人のあの人は、

 ‘————、—————!’

 風が吹く。その風は黒き色味を含みながら収束する——一条の光も無い暗闇よりもなお黒い大鎌の刃へと!

 ‘——————<——>!’

 解き放たれる! 全ての罪を洗い清める断罪執行者の強靭にして無双なる憤怒の一撃が!!


 漆黒の鎌より放たれた黒い何かが空間を飲み込む、双頭の大蛇も、鉱石で作られた祭壇も、音すらも消し飛ばす。消え去った空間へ大気が流れ土埃が舞い上がる。

「あれが……黒騎士の兵装の『解放』の一撃か……っ!」

 人を喰らうべき存在である怪異ですらその威力に恐れおののいて、声も発することができないでいる。

 次元が、違う。

 恩寵兵装の行使による力で、ここまで圧倒的な破壊力を発揮できるなんて……!

 しかし、

「ジャァァァァーーーーッ!」

 怪異の咆哮が、破壊の跡に舞う土埃を消し飛ばす。

 そこにいたのは怪異! 透き通るほどの水色の体躯を持つ双頭の大蛇! 以前よりも大きく、地面に生じた裂け目を跨んばかりに膨れ上がっている! 無論、あれだけの威力の攻撃を受けたはずなのに、なお傷一つ無く再生している!

 ‘————。—————、———’

 双頭の大蛇が狂声をあげる。周囲の空間、全てを埋め尽くそうかというヒトガタ達もそれに共鳴し、耳の奥までつんざく叫び声をあげる! それはこちらの体を震わせ、頭の奥で何度も反響する。

「元気なものデスネ。さて、聖コンスタンスの剣士サン? あの怪異の再生能力ハいかがなものデスカ? 核など消し飛ばしたはずデスガ」

 ヒトガタ達は勢いを取り戻し、僕達やあの子やあの人へと襲い掛かる!

「あれは——」

 リズさんが僕を苦しそうな表情で見る。それも少しだけだ。剣を振るい、怪異を斬る少女の瞳に迷いは無かった。

「あの怪異は、『二つの頭を同時に破壊しないと再生する』と言う力を持っています」

 ——えっ?

 でも、だってそれは……

「ホウ。おかしいデスネ。さっきゲオルグさンが跡形もなく身体ごと消し飛ばしたはずデスガ?」

「あの怪異は、しないといけません。——セイッ! ですから……」

 ええ!? それって普通の方法じゃ絶対に倒せないってことじゃ!?

「なるホド。時間カ、空間カ、因果カ……。基底三律ノどれかに干渉できる攻撃方法ノ持ち主でなければいけませんカ。ゲオルグさン? お聞きの通りデスヨ」

「面白ェ——。さっきの言葉は取り消しだ。なら尚更だなァ……!」

 黒騎士は笑う。

「このカスヘビをぶっ殺せば、オレは時間をぶったれたってことかよォ!!」

 黒騎士は愉悦する。尋常ならざる手段、定められた恩寵を授かりし者でしか敵怪異を殺せないと知ってなお、いや知ったからこそ、あの人は己の限界を突き破ろうと高笑いする!

「ふゥ、やれやれ。あなた達、逃げなサイ」

「なっ!?」

「私達ガ来た方向——あちら二森へ出る道ガありマス。助けヲ呼びに行くと良いでショウ」

 僕達は刃を振り続ける。一匹、また一匹と、僕は<獄焔茶釜>を蜻蛉に取って斬撃を放ち、ヒトガタを斬り続ける。

「ならば、あなた達はどうするのですか?」

 言葉を紡ぎつつリズさんも刃を止めない。僕はリズさんにリードされるように刀を一心不乱に振る。斬り、戻し、目視し、取り、また斬る。

 その中で、僕の心は何処か懐かしい昔の記憶を掘り起こそうとしている。

 それはあの言葉を聞いたからだ、

「無理です。あなた達二人では、あの第二種を倒すことはできません」

『概念レベルで同時破壊する』と言う言葉を。

「オヤオヤ、流石流石。見破られましたカ。いいのデスヨ、時間ヲ稼ぎマスから。この島ノ人間の中には、時間律ヲ攻撃に使う人間は少なくとも一人ハいるでショウ」

「それを呼びに行けと!? ならば答えを下さい! あの怪異を自由に行動させたのは、あなた達があの刀を破壊したからではないですか!? 自分達で第二種を自由にしておきながら、それを倒す手伝いをするのは何故ですか!? 一体、何を考えているのですか!?」

 ヒトガタ達の牙と刃が荒れ狂う中、怒りを露わに問い正すリズさんにあの子は平然と答える。

「何と答えれバ、良いのでショウカ。愚問——ああそうデス、愚問、愚問ニシテ愚問、愚かしさココニ極まれりデス」

 あの子は淡々と続ける。ここが戦場ではなく、何処か、そう、リズさんの修道院にある礼拝堂にならば相応しいような口調で。

「何故、太陽ハ地平から出て、そして沈むのデスカ? 何故、未だに御主の御心ヲ信じない無知蒙昧で矮小な背教者どもガ息をしてるのデスカ? 何故、我々は——いえ、アナタは、剣を持つのデスカ?」

「それ、は……」

「それハ、御主がそうお創りになられたからデス。背教者の多きハ、我らノ信心の到らなさ故デス。そしてアナタが剣をもつノハ、」

「…………」

「そうデス、聖コンスタンスを冠する者が剣ヲ持つ理由は唯一つ、全ての怪異ヲ滅ぼすタメ、デショウ?」

「くっ——!」

 僕は、リズさんとあの子が問答する間にも剣を振るい続ける。体力が消耗していくのに、集中力は極限まで冴えていく。

 刀から爆ぜた火花が、僕を遠い光景へ導いていく。


『覚えてっかな〜。俺が前に言った、雲耀の太刀、っての? 教えたくねーんだけどなぁ〜、順序があんだよ順序が。ま、言うのはタダだし、どうも時間もなさそうだし……まいっか』


 頭の中が空っぽになっていき、お師匠様の声だけだ響く。


『雲耀ってのは速さのことでな。雲が輝く、っつーピカピカゴロゴロ、雷さんぐらいの速さって訳よ。雲耀の太刀ってのは、実は三つの意味があってな。一つ目がこれ、雷の速さ、な』


 そうだ、二つ目が数学的な意味で——


『手首の下のとこに指二本当ててみそ。——そ、どくどく鳴ってんのが萌ちゃんの心臓の音よ。示現流の考えでな、この四回半ドクドクする時間をつーのよ。このを八個に分けた一つがな。ほんでの十分の一が、そのの十分の一がこつこつのまた十分の一がごう、んでごうの十分の一が雲耀と。まぁ今の萌ちゃんには難しいなぁ』


 お師匠様がそこで地面に計算式と図を描いて——


『おおざっぱに計算すっとな。脈が四回半打つのを五秒とすっと、一は五秒となる訳よ。てぇと計算を続けてみっと、雲耀ってのはの八万分の一になっから、雲耀の間ってのは、一万六千分の一秒ぐらいになると。その間に太刀を振るってのが、雲耀の太刀な』


 当時の僕には全然分からない計算が続いて——


『腕が零点六0.6メートルで、腕から切っ先まで零点九0.9メートルとすると、雲耀の太刀の軌跡は大体半径一点五1.5メートルの半円の弧になると。んで、孤の長さは、面倒だから円周率三で計算しちまうと、距離四点五4.5メートルだ。それを一万六千分の一秒の間に振るわけだから……畜生、長え! 大体、秒速七万二千メートルぐらいか。どれくらい速えかってぇと、皇居から京都の御所まで約五秒で行ける速さだな。旧伊豆半島付け根の小田原までは一秒だ。音速のざっと二百倍だな』


 そうそう、お師匠様ったら変なところで話が長くて——


『旧史であったらしい電磁投射砲れーるがんの二十五倍ぐらいか。ま、旧史の電磁投射砲は射程が半端なくてそれこそ皇居から京都御所だったらしいんだけどな。——分かんねえって顔してんな、萌ちゃん。安心しろ、俺も分からん。おう、自慢じゃねえが分からん。実はこうやって計算すっと、本当の雷さんの速さはこれの約三倍、本気出した雷さんなら千五百倍速いんだな、これが』


 でも数値を目指して剣を振るうんじゃなくて——


『三番目だ。これが俺的にイチオシなんだが——ほいよっと。この半紙を、こっちの短刀で刺すと——プスリと穴が空いて向こう側に切っ先が出る。この切っ先が紙に触れてから向こう側に出るまでの間に振るう太刀——これが三つ目の意味での雲耀の太刀だ。おう、ぷすっとするのは一瞬だからな、えれぇ速えわけよ。そんでよ、』


 そうだ、僕達ジゲンの剣士が目指す雲耀の太刀は……


『この紙を半分の薄さにして、切っ先を二倍鋭くする訳よ。で、そいつを貫くまでの速さも雲耀になる訳だ。そんで、よ。紙をずっとずっとずーっと薄くしまくって向こう側が透けるまで薄くしちまって、こっとも切っ先を尖らせてまくって先が見えないぐらいにまでピンピンにしちまって——それで突く、と。どうなる、萌ちゃんよぅ?』


 ——倒せ、ます。


『つまりだ、雲耀の太刀つーのは、言っちまうと、速さとか時間なんざ——……』


(——————燃やせ——————)


 刀の想いが、僕に触れる。その言葉を、僕は明確に認識する。

「止せ、萌。容易に立ち向かえるが倒せない——あれはそう言った類の怪異だ」

 僕達は百を越えるヒトガタに囲まれながら、何十ものヒトガタを斬った。数字が持つ意味は薄れていく。敵を斬り、新たな敵に包囲され、再び敵を斬る。

「ここは退くべきだ。私達人間の体力は限られている。人体は何時間もぶっ続けて戦えるようにはできていない。倒せるからこそ次こそはと思い、剣を振るい続ける。そして集中力は低下し、いずれ奴らの牙と爪に捕まり、倒される。奴らに消化されていた人達はそうやって戦い続け、倒れていったんだ。この場は何とかして離れ、救助を呼ぶのが最善だ」

 目前三体のヒトガタに刃を走らせる。左、右、左と焔を宿す刃が敵を溶かす。そんなことよりも、どんな敵がいようとも、これからしようとすることがどんなにバカらしくて滑稽でも——僕にはリズさんが辛そうな顔をすることの方が大事だった。

 リズさんは僕に見えないものが見える。僕なんかよりずっと冷静だし頭も良い。

 でも——

 ——斬れ、ます。

「萌! その根拠の無い自信に君の命を賭けさせる訳にはいかない! 私が先導して道を見つける! 君はついて来てくれ!」

 僕には見えて、リズさんには見えていないものがある気がした。

 それを、見せてあげたいと思った。

 そうすればきっとリズさんは————

(燃やせ)

 もっと力強く笑ってくれるはず。

 そんな笑顔の礎になれるとしたら、

(燃やせ、燃やせ、燃やせ)

 僕がこの世界に存在した理由には、十分すぎるほど立派だと思った。

(燃やせ! 燃やせ! 燃やせぇぇーー!!)

 刀から伝わる絶叫が、僕の火に油となって注ぎ、焔がさらに勢いを増す。

 お師匠様と出会ってから練り続けたものと、リズさんと出会ってから芽生え始めたものが、練り合わさって一つになる。

 その熱が、唯一つの絶対不変の真実へと僕を掻き立てる。

 敵を斬る——その行為へと!!

(燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ!)

「萌? おい、バカなことは止めるんだ!」

 何時しか、刀から伝わる声すらも僕には聞こえなくなる。

 何故なら、極天を突破した火は、この身を一口の茶釜と成す。

 外見は僕と言う姿形でも、その内面には何も無い。

 獄の焔にくべられ続けた茶釜の内には、水も空気も、思考も五感も、無と言う概念すらもありはしない。

 全ては燃え尽き——空となる。


 ——キィィィエェェェェーーー!!

(燃やせぇぇぇぇぇぇぇぇーーー!!)


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 戦況の膠着は、直ぐに崩れました。

 針を動かすのは我々人ではなく常に敵対者達なのですから。

 頭上から降る人間と蛇の合成体のような灰色の怪異と、地面に敷き詰められた石の隙間から湧き出る水色の蛇——この二種類が我々に対応すべく変異しました。

 水色の蛇らは両腕、両脚が生え、末端は刃と化しました。灰色の怪異は変異した水色の蛇人間もどきに上からかぶさって取りつき、これと同化しました。

 結果、この怪異達の頭である双頭の大蛇と同じような形となりました。二つの頭と尾を持ち、濁った水色の体躯から刃を持った手が何本も生えています。

 数で押すのではなく、一個体の戦闘力を上げてきましたか。

 醜悪な姿へと次々に変わっていく中、無論我々への攻撃の手は止むことはありまさえん。

 あの男は全く意に介さず暴れまわっていますが、はてさて?

「萌? おい、バカなことは止めるんだ!」

 獣共の叫びの中から、少女の声が聞こえました。おや、まだ逃げていませんでしたか。

 私は、目を奪われました。

 カタナを上に立てる不恰好な少年の姿に。

 体内から炎が溢れ出て、その身を紅く焦がしています。あの少年の授かりし恩寵は<何も無い>とのことですから、剣の持つ力のせいでしょう。

 この国で発掘される幻想鉱石の一つ『緋々色金』は真っ赤な炎を発すると聞きました。

 少年の手にあるのはヒヒイロカネを使い錬成された恩寵兵装に間違えないでしょう。発する火、それ自体は美しく——惨めなまでに儚い。

 少女の悲痛な願いとは裏腹に、

「止せ、萌ェーーッ!」

 少年は顔を歪ませて走り出します。

「はイ?」

 群がる敵対者を斬りわけて進む先は、この闘争の中心地——あの男と第二種の殺し間でした。

 恩寵もなければ知性も理性もなく、彼我の戦力差も測れないとは愚か極まりませんね。所詮はただの背教者、未開の国の野蛮人と言ったところでしょう。

 喜びを敵対者があらわにします。何せ餌が己から自らの口へ来てくれるのですから。

 その騒音が、あの男へと届いてしまいます。

 ‘——あ"?’

 流石のあの男もこれは予想できなかったのでしょう。振り向いて唖然としている体です。

 そこに、

「シャァァァァァァーーーッ!」

 双頭の大蛇の頭の片割れが、首全体をねじりながら唸りを上げて、棒の様に立つあの男へとぶつかります。

 鋼鉄の塊に果実がぶつかる破裂音と共に、蛇の首が潰れて汚らしい体液を撒き散らすも、あの男を多少吹き飛ばすことには成功し、己へと走る少年へと大蛇は襲いかかります!

「萌ッ!」

 少女が声を上げ、駆け寄るも時は遅し。火の球になろうかとする少年に、蛇は健在な方の頭の顎を大きく開けて、火の玉ごと飲み込もうとします! ——が!

「どけや、カス共」

 意外、その言葉は日本語でした。

 鎌を携える黒騎士は突風と成り、大蛇へと突き進みます!

 その手に持つ大鎌の黒刃が、開け放たれた口をその首ごと斬り裂きます!

 それと同時、風が大蛇を吹き飛ばすよりも速く、黒騎士は右腕を伸ばして未だ再生しないもう一方の首へと突っ込み、自らの暴風を解放しました!

 右腕は首をねじ切り、左腕に携える鎌は大地を砕きながら下から黒き三日月を描き蛇の体躯を断ちます。その弧線は移動をし続け、蛇を斬らんと走る少年の元へと伸びるではありませんか!

 黒い風と赤い炎が激しく互いを喰らい合い、風と炎は消し飛びました。

 少年はその肩に刃を押し当てられて膝を屈しました。けれども、カタナを握る彼の目は決して死んではいないのです!

 これは、興味深い。

 金属音が鳴り、火花が散ります。

「萌ぇぇぇーーーーーー!!」

 ‘カッ!’

 黒騎士は大鎌を強く引き、少年を地面に転倒させました。血が踊りましたが、致命傷ではありませんね。刃の斬れ味をとっさに落としましたか。口と心の悪しき様とは裏腹に見事な技です。

「シギャァァァァーーーッ!!」

 ですが、千切れたはずの体躯は瞬く間に元に戻り双頭の大蛇はまたしても再生の声を上げるではないですか!

 再生速度が段々と上がってきましたね。

 ‘チッ’

 あの男が頭上で大きく鎌を振り回して黒き陣風を巻き起こすと、少年の元に駆けつけようとする少女へと飛ばします!

「くそっ!」

 その風圧に、目の少女は蒼き大剣を回転させ障壁を作ります。押し戻されないようにするのが精一杯です!

 おや? 少年はすぐさま立ち上がり、カタナを構えるや否や、地を這う様に前へと跳びます。

 あの男へではなく、双頭の大蛇へと。

 少年のカタナから閃光が煌めいた時にはもうその刃は振り下ろされ、大蛇の首は、斧を打ち込まれた薪の如く真っ二つに分かれていました。

 ‘——あ?’

 疾い! 何時の間に!?

 少年は再度カタナを構え直し——

 黒と赤の火花が暗闇に咲き乱れます。少年の刃を止めたのは怪異ではなく、やはりと言うべきでしょうか、あの男の大鎌だったのです。

 獲物を横取りにされ怒り狂うのかと思いきや、あの男は冷静に判断を下します。

 ‘おいクソガキ。そのメスザルを止めとけ’

 あの男のその言葉に反発する様に、少年の持つカタナからは赤い陽炎が立ち昇ります。

 ‘二軍展開、<ストレートフラッシュレクタ トランスヴェクタム オブポシタエ>’

 ほう、珍しいですね。あの男から私に命じるとは。

 十枚の絵札がパラパラと左手から離れ地面へと落下します。

 ‘各員に命じます、彼女を足止めし、周囲の怪異を討ちなさい’

 出現するは五人の剣兵と同じく五人の棍兵——主である私の命を実行すべく彼女の元へと動きます!


 ‘嗚呼、ひだるしやオウ、クアム シット イナネ

 此の身に狂う飢餓は決して満たされず、イネディア ランパゲド イン ホック コアポレ ノン コンフュラトゥラム心の底までもが干からびるイエニアンツア エット ホック フンド コオディス デシッカテ


「くっ——!」

 彼女は兵達に取り囲まれる中、大剣で活路を見出そうとするも、打撃と速力が共に足りていませんね。


 ‘我が渇望、有象無象を食すマイ アヴィディタテム グルプス パルヴァ フライ!’


 その一方で、あの男が狩り取るべき罪にして我ら人類の咎を体現化します!


 ‘此の罪の名は<暴食>ホック エスト ペッカトゥム グラエ!!’


 解放されるのは鎌に封じられたものの一つ! 周囲に存在する最も純粋なエネルギー——全生命力を食らう暴食の大嵐が吹き荒れます!

「ぐっ——!?」

 氷塊は瓦礫となり崩壊します。彼女は足を止めざるを得ません。この暴威の中で誰が動くことを許されましょう!?

「————ァァァァァァ!!」

 変異したヒトガタ達は、暴食の余波をまともに受けて吸い取られています。その命、殺意、最後の悲鳴すらも。

 私の召喚した兵達は波の捕らわれ、元の紙へと戻り、エネルギーを搾り取られて無残にも消えて行きました。

 しかし、双頭の大蛇は止まりません。いや、止まれないのです。力を奪い取られてなお完璧な姿で立ち上がろうとします!

「シャァァァァァァーーー!!」

 雄叫びをあげ、一回り大きい体躯となり、双頭を持ち上げて顎を限界以上まで開きます!


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


「——くそっ!」

 私は何度目か分からない己を呪う言葉を吐く。

 少年が呼び出した十五人の兵隊に足止めをされ、包囲網を突破しようとうする度に弾き返されている。

 黒騎士が握る<罪狩り>の解放の一撃により、ヒトガタは第二種以外の全ては塵となって喰われた。侵蝕された地域にも余波は及んでおり、天井から降りる灰色のヒトガタは姿を見せていない。地面からは石畳がひび割れ、隙間から水色の蛇達が頭を出そうともがいているが、体躯となるに至っていない。

<カードの兵隊>も同様だ。全てが喰われ、紙へとなり、消滅していった。しかし、あの少年はあっと言う間に兵士達を再召喚し、私を萌から遠ざける十五の兵を具現化させていた。

 周囲にいる怪異は一体だけだ。水色の双頭の大蛇、それしか存在していない。そして敵とも味方とも分からない者が二人——

 ‘カス’

 黒騎士の操る鎌の石突きが、萌の側頭部を強く打つ。離れている私にまで鈍い音が響き、萌が頭から地面に倒れ込む。

「止めろーー!」

 魂の声が、口から叫びとなって漏れる。地面を前へと蹴り飛ばし、両手に持つ大剣で血路を開く! だが、

 前に立ちそびえる兵士達の持つ長剣と長棒ロング スタッフが壁を作り、行く手を封じる。そんな動き、見えていないとでも思ったか!

 踏み出す一歩は棒の上へ、続く左足で兵の肩を踏み台にして壁を飛び越え——

「ぐっ!」

「う〜ン、甘いデス。が血走って突撃して何ヲするのデスカ?」

 少年が傍に召喚した射手から放たれた視覚外の射が、私の横腹を捉えた。私はもんどりをうって地面を転げ回る。

 くそ、こうしている間にも——!

「ァァァァーーー! シャァァァーー!」

 双頭の蛇が再生する。幾度となく見た光景だが、その大きさ、再生速度は姿を新たにする度に確実に上がっている!

 黒騎士は動かない。大鎌を携えて、微動だにしない。少年に従う兵は、私と萌を遮る無言の壁となる。ただ一人、萌だけが立ち上がる。四肢に糸を取り付けられた人形のように、不自然な動作で。

 身にまとっていた赤き炎は既に無い。ただ真上に掲げられた刀身だけが真紅に燃え続けている。

 同じことが、繰り返されようとしている。

 自らの体格の倍を越す大蛇が体躯をくねらせながら猛然と這い寄り、

 萌の刀が二度、怪異の体躯を貫く三日月の弧を描く。頭部を的確に両断する軌跡は、怪異に束の間の死をもたらす。

 「よせーー!」

 ‘カッ!’

 黒騎士の鎌の柄が萌の足を払い、僅かに浮いた萌の胴へ、黒騎士の鉄靴が針を打ち込む金槌のように打ち下される。聞きたくもない何かが壊れる音が耳に届く。彼の上半身と下半身はその衝撃で上を向くも、だらりと力なく地へ落ちる。

 くそ、くそ! くそ! くそ! くそォォー!

 私の目の前で、すぐそこで、彼が血を吐きながらそれでも剣を離さないのに私は何をしているんだ!?

 自己嫌悪と私自身への憎悪が心の中で動き回る。兵装、<氷の貴婦人>の展開装具の冷たさが、張り裂けそうな私の内面を締め付ける。

 繰り返されてしまう、また同じ光景が。

 双頭の大蛇は無情にも再生し、萌はゆらりと立ち上がり剣先を天に向ける。

 二度、瞬光がまたたき、雷鳴の如き剣風が轟く。

 切断された怪異は霧となって消え、

 ‘いい加減、飽きだな。カッ!’

 愚劣な言葉と共に黒騎士が無防備な萌の体を打つ。彼の体は不自然な方向に曲がったまま動かない。

 何故だ、何故だ、何故だ!?

 何故こんなことをする!? 萌よ、君の剣でどうにかできる相手ではないことはもう分かっただろう!? 黒騎士よ、萌を殴り悦に入っているのか!?

 無理だ。萌では倒せはしない。あの怪異は双頭を破壊しなければならない。萌の剣術では振るわなければならないのだ。例え一回の斬撃で二つの首を斬り落とせても、首同士が物理的に重なっていない以上、先に斬られた首と後に斬られた首が存在してしまう。

 つまり、東雲萌ではあの怪異は倒せない。

 二人同時に攻撃すると言うのも無理だ。時間概念上同時でなければあの怪異は滅せない。

 全身ごと消し去るような攻撃でも無理だった。先に当たる首と後に当たる首ができてしまうからだ。現に、黒騎士の<罪狩り>の解放の一撃でも蘇ってみせた。

『——斬れ、ます』

 つまりは無意味、萌のしようとしていることは全部無駄なのだ。彼の胸中にどんな算段があろうとも、では決して敵わない相手なのだ。

 彼はいずれ、倒れる。蛇の牙にかかるか、黒騎士の気まぐれな攻撃が彼の命を絶つ。だから、一秒でも早く私は彼の元へと行かねばならない。

「邪魔を、するな!!」

 突き出される棒を最小の動きで弾き、鎧を襲う衝撃に耐え強引に包囲を突破する! 十五の兵は五と五と五の三組から成り立っている。三組とも、<ストレートフラッシュ>の役が成立しており、兵装の補強・強化がなされている。だが、一体でも崩すことができれば役は不成立となり敵戦力は一気に低下する。

 つまりは、三体、剣兵と棒兵と槍兵のそれぞれの一団から一体ずつ倒すことができれば——!

「くっ——!?」

「危なイ、危なイ」

 少年が傍らに召喚した弓兵の放つ矢を、頭を動かしてかろうじてかわす。

 迷っている時ではない!

 私へと振るわれる棒と刃の旋風をかいくぐり、右手に立つ槍兵の脇腹に刃を突き入れ、剣を抜きながら体を回転させ、左手に立つ棍兵を兜ごと頭部を強打する!

 抜けた——!

「萌ェェーー!!」

 彼を呼ぶ私を声を、

「ジャァァァァーーー!」

 復活した蛇の叫びと、

 ‘<セブンのスリーカードトレス ヘブドマデス アッドレヴィアタエ>’

 新たな兵の誕生を告げる声が上書きする。

 三人の兵士達が私の突破を遮るように立ちふさがる。

 怪異の声にひかれるように、萌がのろのろとした動作で立ち上がる。

 止めろ、頼むから止めてくれ。

 体が恐怖に震える。熱が急速に冷め、心臓の動きが止まっていく。

 彼が傷つく未来しか、私には見えない。

 私には足りない——何よりも力が。

 覚悟、信念、戦う理由——そんなご題目を吹き消すだけの力が。どんなに欲しいと思っても、今この時には手にすることができない、彼を助ける力が。

 剣の軌跡のに氷塊を発生させられるとて、そのへ突き進むに足る力が私には無い。

 奇跡など、起こりはしない。

 力を欲する者にその力が与えられるなど、都合の良い夢物語だ。

 奇跡とは神の成す技——すなわち人である私では到底できぬのだ。そんな奇跡の力に頼らなければ、彼が傷つくことを止められはしない。


 私は嫌だ。

 私は嫌なのです。

 君が傷つくのが。

 貴女が傷ついてしまうのが。

 優しい君が血に汚れるのが。

 凛々しい貴女が痛みに耐えるのが。

 だから私は、力が欲しい。

 だから私は、剣を鍛えましょう。

 君と共に明日を掴む力が——!

 貴女が今日を無事に過ごせる剣を——!


 その時、

「えっ——」

 ‘あ"ァ?’

「おヤ?」

 目を開けることをはばかるような真紅の光の本流の中、

 鈴が、鳴った。

 血と苦痛と絶望にまみれたこの場に全くふさわしくない、透き通った音色が。

 二度、その音が私の耳に届いた。


 何度も繰り返されていたはずの光景はそこにはなかった。

 緋色の刃が裂いた蛇の体躯は、消滅する。

 しかし、その操者たる剣士は地には伏せず、刀を握る。

「何で——だ……?」

 私の目が、萌に届かない。

 さっきまで見えていた彼の名も、彼の声も、体の状態も、全てが何も見えない。

 彼の隣にいる黒騎士の特性は、その名も、兵装名も、硬度、恩寵、その全てが見える。

 この地に敷かれた建造物の名、材質、錬成者、制作年すらも見える、見えてしまう。だが、

 見えない、彼のことだけが。同じだ。今日の授業中、彼の刀を見た時と同じだ。

「ジャァァァァァーーー!」

 蛇は、滅びない。声をあげ、彼の一太刀がなかったかのように完璧に、より力強い姿で蘇る。

 萌の振るう刀が、私の見えぬいかな仕組みであろうとも、彼の蛇は定められた法則に則った攻撃でしか倒せない。

 私の目にはそう映る。

 これまでこうして怪異を倒してきた。その経験が私に告げるのは、萌ではこの怪異を倒せないと言う絶対の真実だ。

 蛇が二つの首を萌を挟み込むように大きく左右に振り、中心に捉えた彼を押し潰す!


 鈴が、二度——鳴った。


 私には何も見えなかった。

 ‘痛えぞ、オイ’

 萌はただ刀を振るった。萌の刀の軌道上にあったのだろう、黒騎士の左腕の肘から先が地面にドサリと落ちる。

「なん、ト……! 斬ったのデスカ……!?」

 血すら流れない。黒騎士の能力<鉱石喰い>は既に騎士自身を人と言う枠から外している。

 萌は、右から迫る頭にまず刀を振るった。

 そして、左からの強襲を黒騎士が腕で受け止め——その腕ごと蛇の頭を切り落とした。

 ——  、   。

 萌の口が二言三言言葉を発するようにもごもごと動く。しかし私には彼の言わんとすることが見えない。

 私は口を開け、ただ唖然と立っているだけだ。周りにいる私を阻むはずの兵隊も何の動きも見せず硬直している。

 兵装と恩寵の同調か! 萌の持つ<何も無い>恩寵が、彼の兵装<獄焔茶釜>に同調されたのだ。そして刀は、<何も無い>と言う力を実現し、私の目に何も映らなくなった。兵装との同調が進んだ結果、同調による恩寵の増幅が起こり、彼自身が私の目に<何も無い>としか映らなくなったのだ。

 黒騎士は、兜の内で嗤う。左腕の断面図が緑色に変色し、落ちている左前腕部へと幾条もの触手のようなものを垂らす。双方が意思を持つかのように繋がり合い、その腕は寸分違わず元通りとなる。鉱石、永劫回帰ノスフェリウム永遠の翠エターナルグリーンの特性を取り込んでいるのか。

 そんなことより——

 私の脳がシグナルを発している。

 何処か、似たような光景を、私は見たことがあるはずだ。

 あの鈴の音は、前にも何度か聞こえていた。違う、もっと、もっと前に私は一度——

 とてもとても寒い、怖い、冬の日、雪降る夜に、

 私はとても綺麗な胸を打つ音と、未だ理解できない剣さばきを、この目で、見たのではなかったか?


 ‘嗚呼、妬ましやオウ クアム フォアティス エムラトゥア

 其の放つ光、薫る匂い。ノン ハベオ、エト ノン此の身、持ちぬ、持ち得ぬコムプトゥルイト、エト ルメン

 何故、何故、其の光の園をエト クア ノンどうして持つこと足りぬのかイントロ ホアトス ルシス

 此の身、此の心、此の霊魂すらインヴィデオ ヴォビス エジケレ投げ捨ててもでも、其れを欲すエトシ コルプス ポネレ


 黒騎士は謳う。彼の鎌に刻まれし忌まわしい呪いの言葉を。


 ‘我が艶羨、天地万有を模ねるインヴィディアエ メアエ コピエス アドヴェアスム ウニヴェアサ コンスアゲト!’


 黒騎士はその大鎌を静かに、萌と全く同じ構えへと持ち上げる。


「ジジジジィィィーーー!!」


 蛇は止まらない。より早く、より大きく再生する。

 この怪異を構成する狂った歯車は時間律に干渉しない限り未来永劫回り続けるはずなのだ。

 萌や黒騎士がいかに足掻こうと、


 萌が、刀をトンボに構え、


 ‘此の罪の名は、<嫉妬>ホック ペッカトム エスト インヴィディア!’


 黒騎士が持つ<罪狩り>が解放され、萌の剣をコピーし、


 一度だけ鳴った鈴は、私の胸に澄み渡った。

 その音色は、あの夜聞いたものと同じだったような気がした。


 漆黒と真緋の雷光が、虚空に二筋の破壊の軌跡を描いた。

 緋色の閃撃を放ったのは、東雲萌——<獄焔茶釜>を手にした<何も無い>はずの剣士だ。

 黒き雷光を轟かせたのは、黒騎士——<罪狩り>の解放の力にて、緋の斬撃を放った剣士の技を完璧にコピーした騎士だ。

 二人の戦士が斬り下ろした刃は、双頭の大蛇の頭を完璧なまでに破壊し尽くしていた。


 鈴の音が告げたのは蛇の終焉だった。

 二本の光の奔流により斬り裂かれた怪異の体躯は、二度と戻ることなく水色の霧となって消え去った。

 黒騎士が萌の攻撃をコピーして放った一刀は、萌のそれと併せて、双頭の大蛇の概念武装を打ち破っていた。

 それが何だったのか、私の目では分からなかった。ただ、黒騎士の振り抜いた斬撃の名を、私の目が『雲耀の太刀』とだけ告げていた。

 蛇の最後を見届け、黒騎士は大地から大鎌を抜き取る。

 ‘カッ! 見たか、クソガキ。サルが二本足で立ちやがったぞ!’

 黒騎士が、刃を振り下ろしたまま微動だにしない萌に対し、漆黒の鎌を振りかぶり、

「どけ……ッ!」

「ム?」

 ‘あ?’

 私では黒騎士には勝てない——そんなお題目など、彼が何度も何度も傷つけられた姿を見せられた私にとっては意味がなかった。<氷の貴婦人>の刀身が、放つ蒼が、私の怒りを感じ取りかつてない程に強く輝く。

「どけェェェェェーー!!」

 前に立ちふさがってた兵士もどき達へ蒼き剣風が襲いかかる。私の目が導く敵の死点へ、手当たり次第に片っぱしから蒼刃の切っ先が完璧な円と鋭い直線を何度も描く。その一つ一つがまがい物の命を与えられた使役型の兵士達をその装甲ごと斬り飛ばし、貫く。

「ホゥ!」

 強引に開いた血路を、私は一直線に駆け抜ける!

 萌のそばから——!!

「そこをどけェェェェ、黒騎士ィィィィィーーー!!」

<氷の貴婦人>を左構えの『憤怒』に構え、黒騎士へ、この猛る激情と憎しみを全て乗せて打ち込む!!

 ‘足りねェ’

 私の最大の渾身の一撃は、彼の騎士の鎌の刃によって防がれてしまう。刃が打ち合う甲高く鳴る音を認知した時には、騎士は下段後方へと鎌を引いていた。

 私の<氷の貴婦人>はそれに受け流されて体が泳ぎ、体勢が崩れ、黒騎士の左手の貫手が私の無防備な腹部を貫こうとした時、


 彼が動いた。


 瞬時にして緋焔に燃え上がった炎の塊となった彼が、トンボに刀を取り一足の跳躍にて黒騎士を斬り間に捉える!

 ‘カッ、悪かねェ!!’

 黒騎士は鎌を地面に接地させると、萌の放つ信じられるような速度の斬り落としを上空へ飛んでかわす。そ、そうか! 萌の斬撃はただでさえ体勢の低い構えから体幹を沈み込みながら放つため、通常の上段より斬る軌道が低い——即ち上空に逃げられればかわされてしまう!!


 宙に飛び上がって萌の一刀をかわした黒騎士が大鎌を振り回し、萌の後頭部を強打した。


「は、萌ェェェェーーーーー!」


 スローモーションで地面に崩れ落ちる彼を、私は<氷の貴婦人>を手放して両手で抱き止める。

 地に降り立った黒騎士は、私などはなから眼中に無いように味気ない声を出す。

 ‘カッ、に免じてしまいにすっか。おいカス、そこのボロ雑巾、次に会う時までに元に戻しとけ’

 ‘八割方貴方のせいでしょう? 全く……。貴女の見ての通り、この一帯は暫くは敵対者共はでないと思いますが、一刻も早く逃げなさい。夜を迎えれば、この地域一帯は足の踏み場もないほどに奴らで溢れ返るでしょうから。——では、ご機嫌よう’

 戦いの場に残っていた数名の兵士が、カードへと戻りパラパラと地に落ちる。

 私は、死んでしまいたいほどの自己嫌悪と後悔にさいなまれながら、何処かへ消えた黒騎士達のことなど思考の外に追いやり、彼の名前を呼ぶ。

「萌! 萌!! 萌ェェェ——!!」

 彼を抱きしめると、先程までは何も見えなかったはずの文字が視界を埋め尽くす。

 甲冑の凹み具合、全身の裂傷と打撲傷、骨折箇所、傷が開いてしまった胸部の射創——そして、私をかばったせいで彼に負わせてしまった後頭部の傷が、嫌が応にも目に飛び込んできた。このまま放っておけば出血多量でショック死する。

「私は、何をしたんだ……!! 萌、すまない、すまない!! 頼む、目を、目を開けてくれッ!」

 私の悲痛な呼びかけも、既に意識を失っている彼には届いていない。

 私は未だ刀を離さない彼を抱きしめ、まずはロザリオによる治療を試みる。私のレベルでは応急手当にしかならないだろうが、一刻も早く<治癒>をしなければならない。

 幾重にも無残に破壊された石畳と灯篭の残骸から、水色の怪異が体躯を出現させようとしている。だがそんなことより、何処かへ消えた黒騎士達よりも、私には萌のことだけが気がかりだった。

 何度言ったか分からない焦りの声を口から出し、首にかけている十字架を萌に押し当てる。

 ——あ、あれ……リズさん、ですか……?

 彼が口を動かす度に、赤い血が口から吐き出される。

「いいから黙っていろ! 君の苦痛を和らげて——」

 彼は刀を手にしたまま、私の体に全体重を預けてきた。

 ——無事、だったんですね……良かった……。

 そう言い残し、彼の意識は今度こそ闇へと沈んだ。

 私はそれを聞き、どうしようもない怒りが全身を駆け抜けるのを感じた。


「あ、あ、あ……。あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 彼の場違いな発言よりも、

 彼にそう言わせてしまった私の未熟さと、私のせいで彼に余計な怪我を負わせてしまった自分の愚かしさが、行き場のない激情となって口からこぼれ出た。


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