夢: 大切な思い出 [東雲萌]
『俺、本当は教師になりたかったんだよなぁ』
久しぶりに——お師匠様の夢を見た。
一日の稽古が終わると、階段に一緒に腰掛けながら、僕はお師匠様から大切なお話を聞いた。
夕暮れが始まり夜の帳が落ちるまでの間、空は幾重もの鮮やかな色合いを見せてくれた。この光景と、お師匠様のお話で、稽古の疲れが段々何処かに行ってしまう心地良い感覚が僕は大好きだった。
『でもなぁ、座学と実演は文句無くいけたんだけど、適性検査で落ちちまってなぁ〜』
——てきせいけんさ?
『あー、適性検査っつーのはだなぁ、先生に向いてるかどうかの性格テストのこったな。なんでも俺は、生徒に暴力を振るう傾向が見られるんだとよ』
——あ、わかります。それ。
『くぉぅらぁ、
——あぃた!
お師匠様のチョップは一見軽そうだけど、体の芯にズシリと響いてきた。
『絶っ対ぇ、暴力お師匠様なんて先生になれる訳ないじゃないですかぁ、とか思っただろ。こんにゃろ、こんにゃろ』
——ひぃぃ、あたまぐりぐりもいたいです〜。
『萌、いいか? こう言う時はだな……お師匠様は教師で収まるお方じゃありませーん、とかお世辞の一つでも言っちゃうのが弟子たる者のお務めなんだぞ』
——う〜、よくわからないですけど、めちゃくちゃですー。
『まっ、でもな。もし教師になってたらお前さんに出会えなかっただろうし、お前さんの師匠にもなれなかったしなぁ。落ちて大正解だな、なっ?』
——……。
遠くの夕暮れの空で、鴉の鳴く声が聞こえた。
お師匠様は普段いっつももおちゃらけてるのに、時々すっごい素敵で、すっごい恥ずかしい台詞を大真面目な顔で言った。それがとても格好良かった。
『なははは、こーいう時は頷いとけって、な、はーじーめ!』
——いたい、いたい、せなかばしばしもいたいです〜。
『そう考えると、巡り合わせってのも不思議なもんだなぁ。運命なんざちゃちな言葉信じる柄じゃねぇけど、お前さんと出会うために俺の世界は回ってたのかもなぁ』
——?
『こいつは俺の信条でな、世界は俺を中心に回ってる——てな!』
——……。
お師匠様にはいっぱい驚かされた。この台詞も正にそう。子供だった僕でも、そんな訳ないじゃんと思わず口をポカーンと空けちゃったのを覚えてる。
『俺の世界は、俺を中心に回ってるんだって。勿論、お前さんの世界はお前さん中心に回ってるわけだ』
——?
『俺の左にはお前が座ってて、下には石段、上には空、前には夕暮れがあるわけだ。今日は朝からついさっきまでお前さんの「
——はい。
『で、萌、お前さんからするとだな……。朝っぱらから
——はい! おにぎりおいしかったです!
『ほんで、そこにいる狛犬さんからするとだな。剣術の稽古を朝から二人の人間がしてて、途中昼ご飯を一緒に食べて、食べた後も稽古を続けて、夕暮れ時にやっと終わった——って感じか』
——うーん、えーと……はい、そうだとおもいます。
『さて、ここで問題。俺の話と、萌の話と、狛犬さんの話、言ってることがどれも微妙に違ってるけど、誰が正しくて、誰が間違ってるか分かるか?』
——? みんなただしくて、だれもまちがってないとおもいます。
『おう。まっ、物事を主観的か客観的か、どっちで見るかって話だな。大事なのは、全員正しくて、誰も間違ってない、ってことだ』
——……??
『そいつにとっての世界ってのは、そいつ中心に回ってるってこと』
お師匠様のお話は時々とても難しかった。
今から思うと、それはお師匠様の話を鵜呑みにするんじゃなくて、自分で考えてみろってことだったのかも知れない。
『だからさ、そいつが何をしようが、そいつにとって——そいつの世界、そいつが歩いてきた人生の道と、そいつが感じてきたことからすると、正しいんだよ、百パーセント。だって、そいつの世界の中心はそいつなんだからさ。つーまーりーだ、お前さんのことを毎日ボコボコにぶん殴ってた連中だって、それを黙認してた連中だって、お前さんが泣きながら顔腫らしてるの見てせせら笑ってた連中だってさ、そいつら自身は自分が間違ってるなんてこれっぽっちも思ってないぜ、きっと』
——……。
『お前さんの何か気に喰わねぇのか、俺にはさっぱり分かんねーけどよ。そいつらの中じゃ、お前さんの女っぽい面が気にくわねぇとか、サラサラの髪が羨ましいとか、喋らないのがムカつくとか、やり返さないから何をしても良いとか。まー、ただ単にお前さんをぶん殴るのが面白いとか、ストレス解消に最高とか、両親にも見捨てられた人間をバカにしたいとかかもな? 最低な恩寵を持ってる奴を罵倒して優越感を得たいとか、自分より劣ってる
ふぅ〜、と遠くの空を見ながらお師匠様がため息をついた。
『お前さん、怒ってもいいんじゃねーの? 憎んだっていいんじゃねぇのか?』
ぽつりと、意外なことをお師匠様が呟いた。
『あのいじめっ子連中とか、お前さんをガン無視する大人達とか、お前さんの陰口しか言わない町の連中とか、自分をきちんと殺してくれずに勝手に逝っちまったお前さんの両親とか、文句無く世界一クソッタレな自分の恩寵にさ。自分の生まれっつーか、血統つーか、生まれた瞬間から勝ち負けが決まってて、全部が全部不公平であべこべなこの世の中にとかさ』
お師匠様の言葉は、何時になく暗く、ズキリと、僕の心に突き刺さってきた。
『文句ねぇぜ? だって、あいつらの世界じゃお前さんを蹴ったり殴ったり、恩寵の的にして燃やしたり斬ったり半殺しにするのは正しいんだ。お前さんの世界でお前さんがどう思ったって問題ねぇだろ』
お師匠様はすっごく悪い顔をしながらニヤリとした。
『ま、この国は法治国家だから、法律を違反する行為は取り締まられるんだけどな。つっても、ここいらの連中にとってはどーにも怪しいけどな』
たぁ〜それはここいらだけじゃねぇよな、とお師匠様はちょっと悔しそうに笑った。
でも僕は、言葉にすることができない何かが——今だってはっきりとこれだって言い切れないけど——心の底から沸き上がってくるのを感じた。
『どうする、萌? 怒るか?』
お師匠様の問いかけに、僕は首を振った。
『恨むか? 妬むか?』
二度、力一杯首を振った。
『それとも、憎むのか?』
僕は……やっぱり首を振った。
『違う、って顔してんな』
でも、この問いには頷けなかった。
『そっか……』
このポツリとした呟きは、とても暖かい響きが含まれていた。
お師匠様の温もりが、どうしようもなく暗く冷たく沈んだ僕の心に染み込んできた。
急に涙が出てきた。
『じゃさ、お前さんは、どうしたい?』
——う……ひっく……。
詰まりそうな声を、お腹に力を入れて押し殺す。
お師匠様にこんなみっともないところ、見られたくなかった。それ以上に、僕が何で泣いてるのか、自分でも分からなかった。そんな自分が、情けなかった。
『仕返しとか、強くなって見返すとか、虐められないようになりたいとか、僕みたいな弱い人を守りたいとか色々あるべ?』
——ひっく……ひっく……ぐずん。
僕は、お師匠様の問を否定することも、肯定することもできなかった。
ただ、泣き出さないように、お師匠様に僕の泣き顔を見られないように、両手を握り締めていた。
『ふーん』
お師匠様は、空を見上げていた。
今なら分かる。僕のちっぽけな気持ちに気付いてて、わざと僕の方を見ないでいてくれたんだって。
『もしかして、分からねぇか?』
——ぐすん……ひっく……。
僕は、口を開いたらあふれてきちゃいそうな弱音を噛み殺しながら、頷いた。
『分からないけど、何か違う——ってか?』
——うぅ……ひっく……はい……ぐすん。
『そっか、そっか……』
やっと頷けた僕に、お師匠様はまた暖かい呟きをくれた。
未だに分からないけど、お師匠様は僕の答えに何故か嬉しげだった。
『やっぱり——お前なら、俺や師匠がいけなかった
——ぐずっ……ぐずん……。
僕は、流れて落ちてくる涙と鼻水を何度も何度も拭いた。
『ほーら、萌、泣いてんじゃねーって! こんなところで萌えキャラアピールしたって俺しか見てねぇーぞ』
——はい……ひっく……。
お師匠様が、僕の背中を優しくさするように何度も叩いてくれた。
そして、お師匠様が僕の方を向いた。
お師匠様の真剣な顔が、夕日を浴びて幾重もの色合いを含んで見えた。
『いいか、萌、良く覚えとけ。俺達「ジゲンの剣士」はな、他人に理由を預けない』
——ぐす……たにんに、りゆうを、あずけない?
『相手がどうとか、周りがどうとか、そんなんじゃねぇんだ。自分だ。自分がどうかなんだ』
——……。
『言ったろ、お前の世界じゃお前中心なんだって。お前が辛いって思っちまったら、世の中全部辛くなる。お前がダメだって思ったら、何にもできやしねぇ。お前が周りを憎みだしたら、この世は全てクソッタレだ。だけどよ、萌。お前ができるって思ったら、できるんだ、できないことなんて何もないんだよ』
お師匠様の声は、何時もの少しふざけた感じは全然なく、何時になく熱を帯びていた。
『お前の価値を決められるのはお前だけだ。周りの連中はお前のこと、アホだ、バカだ、クズだ、死んじまえ、哀れな小僧だ、下等恩寵者は消えろ、そう言うだろうさ。それは間違ってない。世の中、皆、間違ってる奴なんていやしねぇ。そいつらにはそいつらなりのこれまでの生きてきた人生からお前のことをそう思うんだろうからな。それが道義的におかしくても、どんなに自己中心的でアホらしくても、そいつらにとってみれば正しいんだ。納得する必要はねぇ、ただ理解だけはしとけ。刀ってのは人を斬るためにあって、俺達の剣術の目的は人を殺めることだからな』
お師匠様が教えてくれた剣術は、最終的に人を斬ることを目的とした古式剣術だ。
自分が正しくて相手が間違ってるから斬る、斬っても許される——それは違う、そうじゃない、そう言いたかったんだと思う。
涙はもう、止まっていた。
『だから、自分なんだ。全てを自分自身で背負うんだ。他人がどうだろうが、正しかろうが、どう思おうが関係ねぇ、他人に勝とうが負けようが意味ねぇんだ。自分だ。お前さんが自分に——東雲萌って自分自身に勝てるかどうかだ。世界中の人間全てを敵に回しても、そんなの屁でもねぇって思えるぐらいお前が自分を信じきれるかなんだ』
——じぶんを……しんじる……?
『他の誰でもない、お前が、お前自身が自分を信じないで、他の誰が信じるってんだ? 自分を信じきれない奴を、他の誰が信じるんだ? 自分に勝てないような奴に、刀を抜く資格があると思うのか?』
——……。
『お前は恨まなかった、憎まなかった、妬まなかった。他人も、親も、自分も。な、そうだろ?』
——はい……。
僕は頷けた、涙を流さずに。
『自分の心の底にある、よく分からねぇでっかいもんが、恨むな、憎むな、妬むな、そうじゃねぇ、そんなんじゃねぇんだ、って叫んでんだろ?』
僕の心のもやもやした霧みたいなものが、お師匠様の言葉で段々と薄れていった。
——はい。
『それは、意地だ。お前さんの絶対譲れねぇ、魂の叫びって奴だ』
——いじ……?
『その意地が——俺達ジゲンの剣士が振るう、誠の刃だ』
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