昼: お昼休みの一悶着 [東雲萌]
その日、二人が転校して来た初日——お昼休みまでは比較的平穏に過ごせてたと思う。
勿論、何時も通りって言う訳にはいかなかった。
最初はやっぱり戸惑うよね、って思っていたら、ヴォルフハルトさんの隣になった百地さんが、前の席の青江さんとシャルロッテさんを巻き込んで二人を質問攻めにした。
『この島に来るまで大変じゃなかった?』
『学生寮に泊まるの?』
『どうやって来たの、船? 船酔いとかしなかった?』
『二人とも日本語すっごい上手だよね、誰に教えて貰ったの?』
『その袋の中ってどんな武器が入ってるの? 見せて見せて!』
『実はね、女子なぎ部っていうすっごい格好よくて最高にイケイケな部活があるんだけど、二人とも勿論入るよね?』
『二人ってやっぱりお姫様と騎士様だったりするの?』、等々——。
二人が答えるよりも早く次々に質問を出した。流石は百地さん、初対面の人達にああやって話しかけてすぐに打ち解けられるなんて凄いなぁ。
そうやって四人でお喋りしている内に、クラスの女子が一人、又一人とその輪の中に加わっていって、気付けば女子の皆で輪になっていた。輪の中からは黄色い声と時々歓声が聞こえて、男子禁制の札が立ててあるかのように、僕達男子は近づくことすらできなかった。
授業中、二人は隣の青江さんと百地さんに机を寄せて教科書を見せて貰っていた。自然、教室の皆が四人の方をチラチラと見ることに。……僕も一度だけちらっと見ちゃった。
窓から差し込む日差しを浴びながら、ヴォルフハルトさんの雪のような白い肌がキラキラと輝いて見える。白金色の髪は向こう側が透けて見えるようなほど綺麗で透明だ。
するど、眼鏡のフレームの内側から覗き込むように、彼女の紅玉のような赤い瞳が僕の視線を捉える。慌てて目を逸らして教科書を持ち上げながら読んでる振りをする。うぅ、ジロジロ見てるの気付かれちゃった……。うー、雑念を振り払って授業に集中しないと! うん!
そんなこんなで、僕を含めて男子達は転校生の二人をチラチラと気にしつつも、休み時間は女子の輪の中に入ることができずに、女子達が喋っている内容に聞き耳を立てながら時間だけが過ぎていった。
そうしている内に、四時間目終了の振鈴が聞こえ、待ちに待ったお昼休みがやって来た。僕達のクラスでは、お昼ご飯の時間の過ごし方は四つある。
一つ目は、学食組だ。学食でご飯を食べる人はクラスでも多い。食堂の座席は多めにあるので、混んでても席を空くのを待つのが少ない。けれど、僕達参組は、壱組とか弐組とか、上級生から嫌がらせや暴言を受けるから行く時は皆で『学食行くぞー!』『おぉー!』ってなる。
二つ目は、購買組だ。購買でパンと飲み物を買って、クラスに戻るか学内の空いている所で食べる。今は昇武祭が近いから昼休み中でも部活の稽古がある人が多い。購買で買って、稽古場に行きながら食べる。
三つ目は、お弁当組だ。お弁当を持って来てる人は全然いなくて、クラスのほとんどは購買組だ。学期末試験が終わってもお弁当組なのは百地さんと僕ぐらいだ。
そして最後の四つ目が、座禅組——と言うかこれは大豪寺君だけなんだけど。お昼ご飯を食べないで、椅子の上で座禅を組んで過ごす。大豪寺君は座禅部の一員だし、彼曰く『剣も禅も目指す極致は同じ』とのこと。
これは『
つまり、ここ数日はお昼休みになると、教室に残るのはお弁当組の僕と百地さんと座禅組の大豪寺君の三人だけだった。
そして、今日が登校初日のシャルロッテさんに『学食と購買を見せてあげよう』と女子達が案内を買って出た。
勿論男子達も一緒について行こうとして、女子達に全力で断られ、最終的には学級長が取りなして『外に行く皆でシャルロッテさんに学食と購買を案内しよう』と言うことに落ち着いた。
そんな訳で、今教室に残っているのは、僕と大豪寺君と百地さんと、何とお弁当を用意していたヴォルフハルトさんの四人だけだ。ヴォルフハルトさんもシャルロッテさんに一緒に来ないか誘われたけど、断っていた。がらんとした教室に百地さん達のお喋りの声だけが響く。
「でも意外だったなぁー。リズっちってお弁当派だったんだ」
『リーゼリッヒ』さんだから愛称が『リズ』さんみたい。『リゼ』じゃなくて『リズ』になるのは僕達からしたら不思議だけど、彼女の地元——欧州圏では普通みたい。
僕が直接聞いた訳じゃなくて、休み時間の女子達の話から聞こえて来たことだけど。
「意外、と言うのは私もですね。シャルロッテのことですから、食事は用意して来たものと思っていたのですが……」
「お付きの人が一人いるってシャルちー言ってたよね? もぐもぐもぐ、そにょひほが——ゴックン、用意してくれなかったのかなぁ?」
「テレジア殿ですか? 彼女は刃を持って主を守る武人ですから。家事は不得意なのでしょう。ふぅ、さて、ごちそうさまでした」
「はや! ってかさリズっち、お昼ご飯がパン一枚ってどういうこと!?」
「それは違いますよ、
ヴォルフハルトさんは今回の日本行きで初めてシャルロッテさんと知り合ったみたい。長旅を一緒にしてたせいか凄い仲良しに見える。
「いやいや、そーいう問題じゃないっしょ! もー、そんな食べないのに何でこんなに育つの——ってあたたたた!」
「透子……いくら同性であっても、女性の胸を許可無く触ろうとするのが無礼なのは、日本でも同じだと思いますが、違いますか?」
「たたたた。お固いぞーリズっちー。あたしたちの仲だからいいじゃーん」
「『親しき仲にも礼儀あり』ですよ、透子」
「むむむ、リズっちのガードは固い、とメモメモ。でもさ、あたしが触ろうとしたの良く分かったね」
百地透子さんはうちのクラスの
その恩寵は『自分自身が透明になる』ってものだから、僕から見ると、百地さんは制服が人の形に盛り上がっていて、髪留めが二つ宙に浮かんでいるようにしか見えない。そしてお箸がひとりでにお弁当の中からご飯をとって、口らしき場所に運ぶと、パッと一瞬で消えてしまう。
服は見えるけど手は透明だ。今は夏服を着てるから手の動きなんて全く見えないはずなのに、それを捉えるなんて凄い。
「貴女の気配を読んだというのもありますが、先程の休み時間にシャルロッテに何をしたか、忘れたとは言わせませんよ」
「ぐぬぬ、あれはシャルちー許してくれたもーん」
「はぁ、全く、貴女と言う人は。テレジア殿があの場にいたら、即刻両腕を切り落とされていましたよ」
「もぐもぐもぐ。でさでさ、リズっちさ、部活の件、考えてくれた?」
「それは——。もし許されるのなら、一通り全ての部活動を拝見してみたいと思っています」
「うーん、それって部だけじゃなく、同好会も含めるんだよね? ずずず。ぷぱー。生徒会非公認のヤツとかも含めると結構な数あるよ?」
「それほど多いのですか?」
「アタシもそこまで詳しくないけどさ、学級長なら分かるかなぁ。学級長のお兄さん、うちの生徒会長やってるから。ほら、あそこにいる
「彼、ですか?」
——ぇ、僕!?
いきなり話題を振られ、ヴォルフハルトさんが僕のことを見ているのを感じる。
突然のことに、おにぎりを食べる手が凍り付いた。
「うんうん。ここだけの話だけど、アタシね、萌っちと志水っちって、怪しいと思うんだよねー。いっつも一緒だし、同好会も二人っきりでやってるしさー」
——ぶー! ゴホゴホゴホゴホ! ももも百地さん!? ななな何いってるのー!?
「それは男色と言うことですか、透子?」
「え!? う、うん……。真顔で聞き返すんじゃなくてツッコミが欲しかったんだけど——」
——ごほごほ! ちちち違います! 百地さん、否定して! 否定!
「古来——いえ、旧時代より、同性愛を認めていた軍隊が存在していたのは事実ですよ」
「ほぇぇ!?」
——ブッハー!?
「そう言った固い絆で結ばれた兵士達は、仲間のために命を投げ出したり、命を惜しまずに奮戦することが多く、精強な部隊となることが多いと記憶しています」
「え……う、うん、そ……そなんだ……? リズっちさ……お固いのかお固くないのか、あたしゃもう訳が分からないよ」
——う、うん……。そう言う話題って真顔で言うものじゃないよね……。
異性がいるところじゃ言わないのが、男子と女子のお約束って奴じゃないかなぁ? うぅ〜ん、文化の違い?
僕と百地さんの慌てようとは裏腹に、ヴォルフハルトさんはキリッとした表情を崩さない。
「ずずずず〜」
——ずずずず。
暫し、僕達二人の飲み物をすする音が
「リズっちさ、パン一枚と水一杯だけなんてお腹減らない?」
「いえ、ずっとこの生活を続けていますから。それに透子、パンの数え方は
「あれ、そーだっけ? それよりさ、ずっとこの生活ってどゆこと?」
「それは——」
彼女がいったん口を閉じ、物思いにふけるように目を瞑りながら、厳かに答える。
「『腹の餓えを満たすには一切れのパンがあれば良く、喉の乾きを癒すには一杯の葡萄酒があれば良い。夜の寒さを凌ぐには一枚の衣が、そして御国へ参るには清貧・純潔・従順な魂があれば良く、主に仇なす獣を屠るには一振りの剣があれば良い。我らは他に何を欲するのか?』」
「ほえぇ、何それ、かっくいー」
「これは、私の所属する聖コンスタンス騎士修道会の誓いです。破ってはならない戒律、と言っても良いかも知れません」
「ふーん、じゃもしかして毎日パンしか食べてないの?」
「野菜のスープやハーブティーを頂くこともありますが、ほとんどは」
百地さんの問いに彼女が頷く。
「ほぇー。聞いてるだけでお腹空いてきちゃいそう。あたしはいっぱいご飯食べれた方がいいなぁ〜」
「ふふ。宗教観の違う方には理解され難いですが、己に負けることなく自分を律し続けると言うことですよ」
「あー、それならなんか分かるかも。リズっちさ、その、聖なんたら会って言うのに所属してたの?」
「聖コンスタンス騎士修道会、ですね。今回の日本行きで退会寸前のところを見逃して貰いましたから、まだ過去形ではないはずです」
「あー、それ、お偉い人達に『アナタ達はなってませーん、恥ずかしくないのですかー』とかガミガミ怒っちゃったんでしょ?」
「う……な、何故それを……?」
彼女が頬を赤らめて、少し伏せ目がちに、ちょっと恨めしそうに百地さんのことを見る。
その様子を横から見ていた僕は、胸の鼓動が高まるのを感じた。何だか意外だ。勝手にイメージ作っちゃってたんだけど、イメージと違う表情が見れた。
こんな可愛い一面もあるんだ。
「なはははは! お堅いですなーリズっちは」
「むむ、笑いごとではないのですよ、透子。全くあの方達ときたら——いえ、異国の方の前で自国の人間の悪口を言うべきではありませんね」
「あはは! はいはい、はいはい。もぐもぐ、んん、ゴックン。んじゃ、リズっちって騎士様?」
「騎士ではありません。私は下級従士ですから。騎士の付き人、いえ、騎士見習い——がニュアンス的に正しいかも知れません」
あ、これ聞き覚えがあるぞ。何でもシャルロッテさんはお姫様じゃなくて名家のお嬢様で、ヴォルフハルトさんは騎士じゃなくて見習いだとか。
「ふーん、でもさ、こう、ドリャーは毎日してたんでしょ?」
百地さんの持っている箸が上下に揺れる。多分、お箸を剣に見立てて振っているのかな?
「はい、稽古は日本に来るまでも欠かさずにしてました」
——うわぁ、旅行しながら毎日するなんて凄いなぁ……。
って、感心するようじゃダメだよね。『朝に三千、夕に八千、槍が降っても毎日続けろ』って言うのがお師匠様の教えだもん。
「おぉーっと! そんじゃ今度の昇武祭はうちのクラスから本戦出場者がいっぱい出れるかな?」
「昇武祭? 何処かで聞いたような……」
「あ、うん。えーっとね、うちの学園でやる体育祭の武術版みたいなものなんだけどね。全校生徒が五つある種目のどれかに参加して、一番強いのが誰かを決めるんだよ!」
「五つの種目?」
「うーんと、まずは
「
「うんうん、そそそ! でね、今度の日曜日に学園内で予選会をやって、中央広場で来週にする本戦に出場する人を決めるんだよ!」
そこで、百地さんはガタッと椅子から立ち上がる。拳を握りつつ熱弁している——と思うんだけど透明だから握り拳は見えなかったり。
「しかーも! 本戦で優勝した人達の中から一番活躍した人へ、何と何とのプレゼント! この島で作られた刀を一本、持ってっちゃえドロボー!」
「各競技の優勝者同士で戦うのですか?」
「ううん、違うよ。本戦は町の中央広場でやるんだけど、島のお偉いさんとかが見に来ててね、その人達が決めるんだって」
「優勝者……、一対一が一人、二対二が二人、三対三が三人、弓術が一人、乱戦が一人、しめて八人ですか」
「うーん、そーなるかな?」
「なるほど、<
「あれ、リズっち知ってたの?」
「はい。透子の話を聞いて、島を案内して下さった政務官から聞いた話を思い出しました。与えられる刀は、日本皇国政府が『門外不出』の印を出した天下六箇伝の一つに挙げられる刀剣鍛法、
「うーんとね。前まではそうだったんだけど、今は代替わりして
「もしや、個人用に調整されたものなのですか?」
「そそそ! 自分用に練成された恩寵兵装なんてどう頑張ったって手に入れられる訳なんかないし、そりゃー皆頑張っちゃう訳ですよ」
怪異と戦うための兵装は、恩寵兵装と呼ばれ、大きく二つに分けられる。
一つ目は持ち主の恩寵と同調しその一部となる、いわゆる同調兵装と呼ばれるものだ。感応型とも呼ばれたりする。
二つ目、こっちがメインだけど、持ち主の恩寵を増幅したり、全く異なる別の異能力を発現したりする。簡単に言っちゃえば『高性能な』同調兵装だ。練成するには、限られた場所でしか採れない稀少な幻想鉱石と、それを練成する技術や恩寵を持った専門の職人集団が必要だ。
だから恩寵兵装と一口に言ってもピンキリだったりする。僕がお師匠様からお借りしてる<鳴らない鈴>みたいな『音がする』だけのものとか、打ち身や痣を早く直してくれる薬を精製する<薬瓶>は、誰でも扱える、どちらかと言うと『キリ』の方で、昇武祭で貰える刀剣は『ピン』の方だ。
『ピン』の恩寵兵装になると、対人クラスの恩寵を対戦闘クラスを一気に飛び越して対戦術クラスにまで強化してくれたり、持ってるだけで中央政府の国家公務員試験第四種をパスできたりと至れり尽くせりだ。それが個人用に調整したものとなると一体どうなるのか——想像するのすら僕には難しい。
昇武祭
「それ目当てでうちの学園に来てる子も結構多いみたいだしねぇ〜。むっふっふ、そう言うリズっちも狙っておるのではないですかな?」
百地さん、今すっごく面白い表情してヴォルフハルトさんに顔を寄せてるんだろうなぁ……うーん、見れないのがつくづく残念だ。
「いえ、私とシャルロッテは昇武祭を欠席するつもりです」
「はぇぇ!?」
あれれ、昇武祭って全員強制参加で、欠席できないはずじゃ?
「
「えええぇー!! そんなのダメっしょー! シャルちーとリズっちは女子なぎ部に入って、あたしと静っちの四人で
「透子、シャルロッテはともかく、私はまだどの部に入るかは決めていませんよ」
あ、やっぱり。
「昇武祭は、この地に<原初の十種>の一つを討ち滅ぼす際、犠牲になった八人の英霊を讃える神聖な儀式でしょう? 私のような外国人——しかも数日前に来たような部外者が参加すべきではないと考えています」
「えぇー、そんなの関係ないって! 沢庵先生が聞いてたら『喝ーっ!』て怒られちゃうよー!」
——うんうん。
「それにほら、最初に言ってたじゃん、『お主らはもう儂の生徒だ』って。昇武祭を欠席なんて知られたら、沢庵先生の『鬼の座禅説教コース』まっしぐらだよ!」
「しかしですね、透子。やはり数日前に来ただけの新参者が、もしその兵装を貰うことになってしまったら、と思うと……皆さんに申し訳ないのですよ」
「もー、リズっちお固すぎー。強い人が貰うんだから、誰も気にしないってそんなことー! こりゃ皆が帰って来たらお説教だぞー」
百地さんの追求にヴォルフハルトさんが少し困ったように眉をひそめる。
すっごい真面目なんだなぁ、彼女。
「それにほらぁー! 騎士と武士のどっちが強いかなんて戦ってみないと分っからないじゃーん!」
「い、いえ、透子。ですからそれは勘違いです。手違いと言いますか連絡ミスと言いますか、管区長殿のいたずらと言いますか……」
さっき言ってた戒律も凄い厳しそうだけど、破っている感じはしない。日本語のアクセントも僕達と遜色無いくらい上手だ。こうして聞いてると尊敬語とか謙譲語とか細かい所もしっかり勉強してるんだろうなぁって伝わってくる。
真面目で、すっごい努力家なんだ。
ふふ、何だか学級長より学級長っぽいかも。僕達の学級長ならこう言う時、皆の前でバシーッと演説して、皆と一緒にイェーイってなるはずだけど、彼女の場合は自分で答えを見つけようと頑張るのかな? くすっ、何だかそれって——
「なんでぇ、そりゃ。俺らみてぇなクソ雑魚共は眼中にねぇってか?」
後方から聞こえてきた大豪寺君の怒気をはらんだ声が、教室に流れていた穏やかな空気を一変させる。
首を後ろに向けると、大豪寺君が椅子の上で組んでいた足を解き、ゆっくりと椅子から立ち上がるのが見えた。そして、今にも飛びかかりそうな険しい眼差しを、彼女へと向けている。
——うぅ、嫌な予感が……。
「いえ、そのようなことは……」
「ちょっと大豪っちー、リズっちそんなこと言ってないって。もー大豪っちまでお堅くなっちゃダメっしょ」
「チッ、あー〜……」
大豪寺君が首をゆっくりと回し、首の関節がポキポキポキと鳴る。ゆらりと立つその姿には、力が入っているようには見えない。両手もぶらりと下に垂れている。鋭い目つきを除けば、指先から頭のてっぺんまで全身が弛緩しているようにも見える。
でも、僕は知っている、無駄な力の入っていない筋肉の方が、瞬時の内にしなる鞭のように躍動できることを。大豪寺君からは今にも爆発しそうな闘志が彼女に向けて発せられている。そして何より——大豪寺君は言葉じゃなくて拳で会話するタイプの人だってこと!
「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ……」
——ダメだよ、大豪寺君!
「——っせーんだよォ!!」
「!」
「わっ!」
その怒号と同時に、限界まで引かれた弦から放たれた矢のように大豪寺君の闘気がヴォルフハルトさんへと突き刺さる。彼の右足が跳ね上がり、ゴツっと鈍い音をたてて、隣にある机をヴォルフハルトさんへと蹴り飛ばす。机は滑るように移動し——
「危ない透子!」
「どぉおわっきゃぁー!」
目的点、ヴォルフハルトさんの座っていた椅子へとぶつかる寸前、彼女が百地さんを横に突き飛ばし、自分はひらりと軽やかに回りながらステップをして飛んで来た机を回避する。
机と椅子のぶつかる鈍い音がする。けど、それは大豪寺が予想した通りの行動! 既に次の攻め手を終えている!
「オラァ!」
蹴っ飛ばした机と対になっていた椅子を右手で掴み上げ、大きく後ろに振りかぶって投げ槍を投擲するかのように、全身のバネを利用してヴォルフハルトさんへ一直線に、彼女を貫くかのように狙いを定めている! 一秒もしない内に椅子は大豪寺君の右手から放たれ、ヴォルフハルトさんに激突する。でも——!
——ダメだってばぁぁー!!
予想できたんだ、こうなっちゃうかも知れないって。
手を伸ばす。でも届かない。余りに距離が離れすぎている。
なら一歩、全身を投げ出すように一歩前へ。何時もの稽古のように、速く強く教室の床を蹴りながら体の重心を沈める。でも、まだ届かない。それなら!
跳躍する! 一の足で縮めた体全体のバネを、二の足で踏み切り、その場所へと手を伸ばす——そう、大豪寺君が振り上げた椅子の足へ!
——掴めた!
良し! 絶対離さない——ぞ……って、あれ?
体全体がグワンと大きく揺れて、僕の周りの世界が大きく回転しだす。体が大きく揺さぶられ、掴んだ右手を離させようとする力が加わるけど、絶対に離さない!
揺れていた世界が一定方向に流れ出す。ゆっくりと、僕は時間の流れが遅くなったように感じながら、空を飛んでいるような感覚に支配されていた。
いや、実際に僕は、文字通り空を飛んでいた。
右手にはきちんとした椅子の感触がある。それを僕は掴んでいる。でもゆっくりと宙を舞いながら、僕は椅子と一緒に窓へと突き進む。
「やべっ!」
「ほぇ!?」
「あ……!」
——あ。
下を見ると、黒い縁の四角い眼鏡越しに彼女と目が合った。これで三度目だけど、こんなに近くで目を合わせることになったのは初めてだ。宝玉のような輝きを持った瞳が、信じられないようなものを見たように大きく開かれている。
何故だか僕は——わっ、やっぱり眼鏡が凄い似合ってる——何て呑気なことを考えながら、気味の良い音を立てて、教室の窓ガラスを突き破り、椅子と一緒に窓の外へと放り出されていた。
「やっちまっ——!」
「ちょぉぉーー!?」
不思議と痛みは感じなかった。むしろ、
そっか、大豪寺君の方が力強いし、そんな急に動作を止められるようなやわな投げ方する訳ないよね、うんうん、と緊張感のないことを考えていた。そしたら、
「貴様ァァー!」
彼女——ヴォルフハルトさんの叫び声と、何かがぶつかり合って弾け飛ぶ大きな振動音を、段々と遠のいていく教室から聞いた。
あっ、地面に落ちるから受け身取らなきゃ、と言う真面目な考えと、今のヴォルフハルトさんの声、すっごい気合い入ってて格好良かったなぁ、と言うのんびりしたことを考えながら、キラキラ光るガラスの破片と右手に掴んだままの椅子と一緒に、下へ下へと落ちていった。
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