0018 結婚してくれ。


 ——なにが起きたのかわからなかった。


 不可思議な現象が起きている、とでも言いたげな男の顔を睨みながら、エミルは地面に膝をつく。


 なにをされたのか、なにをしたのか、どういう原理でこうなっているのか、全く分からない。ただ一つ、分かったのは——自分は負けたのだということだけだった。


 地面に膝をつき、意識が途切れる直前でわけの分からない状況が元に戻る。求めていたものが一気に体に取り込まれ、激しく咳き込みながらエミルはアインに目で訴えた。


 ——なにをした?


 ——なぜ息が出来なかった?


「ははっ! 空気がなくなったのがそんなに不思議か?」

「……空気が、なくなる?」


 息を整えながらアインの言葉を復唱するが、やはり言っている意味がわからない。そもそも、空気とはなくなるものなのだろうか。


「火が消えないことには驚いたけどな。まあ、それはいい、結果オーライだ。……で?」


 疑問は尽きないが、アインがなにを言いたいのかは理解した。


「ああ、俺の負けだ」

「物分かりがいいな、助かる。じゃあ——」


 アインが言葉を言い切る前に、エミルが声を上げる。


「ダヴィド・コヴァルスキ!」


 主君に呼ばれ、玉座の間でアインと対峙した老人が入場口から歩み寄ってきた——その手に紋章の刻まれた鞘に収められた剣を持って。


 アインがよく分からない状況に困惑していると、エミルが剣を受け取り鞘から引き抜く。そのまま剣を両手で差し出してきた。


「……え、なに?」

「剣を取り、俺の首を落とせ。すれば、欺瞞と裏切りの悪魔アウナスはお前を宿主とし、力を与えるだろう」


 なるほど、とアインは頷く。


(あの炎になるやつとか、俺にも使えるようになるってわけか……)


 物理攻撃無効が手に入ると考えると、それは確かに便利そうだと思う。が、別にそこまで欲しいとも思えない。というか、それ以前に問題がある。


 剣を受け取り、その実戦向きでない装飾を胡散臭そうに見る。そして、つまらなそうに鼻を鳴らし、それをゆっくりとエミルへと振り下ろした。


 肩に置かれた剣先を一瞥して、エミルはアインを睨む。


「なんの真似だ?」

「——お前、俺の下につけよ」


 間髪入れずに返ってきた言葉に喉が詰まる。死にたいわけじゃないので、それは願ってもない誘いだが、しかし、民衆はそれを許さないだろう。エミルの無駄に高いプライドも、素直に頷くことを拒否していた。


 周囲を見て黙り込んだエミルを見て、アインは馬鹿にするように笑う。そして闘技場に響き渡る声量で叫んだ。


「——今、このときをもって、エミル・アウナスにこの国の統治を命ずるっ!」

「なっ……!」

「反論のあるやつは出て来い! 俺が相手をしてやる!」


 一瞬、ざわめきに包まれかけた闘技場内がその言葉で静寂を取り戻した。力で頂点に君臨していたエミルに勝った男に正面から勝てると宣うバカはいないらしい。


「どうして……」


 この男なら、自分を下につけるまでもないはずなのだ。わざわざ敵意を持っているかもしれないやつを仲間にする理由が分からない。困惑の色を浮かべるエミルに、アインはなんでもなさそうに言う。


「言ったろ? 俺は今回、人を殺さないと決めている。武器の方はまだしも、これを破ったら恩人にどんな顔で会えばいいか分かんねえよ」


 誰が見ても建前だと分かるような笑顔で言うアインに、一生敵わないのだろうなと感じた。この自由な男についていけば、より高みを目指せる、とも。


「誓おう——この命果てるまで、貴方の剣となることを」


        × × × ×


 天上に住まう神々に匹敵するとは言わないまでも、その使徒である天使と同等だとされる【天級】。おおよそ人間の到達出来る限界点であるその階級に君臨する一柱——【魔天】ユールヒェン・シュヴァルツリヒト・ベルゼブブは朝に弱い。


「ふぁ……」


 かわいらしく欠伸を漏らし、ぐぐっと伸びをする。朝日を浴びてもう一度布団に潜りたくなる欲求を堪えつつ、ベッドから降りた。


 ふらふらと覚束ない足取りで向かったのはクローゼットだった。ネグリジェを脱ぐと豊満な乳房が露わになる。あの男には「付けている」と言ったが、実際には「付けていない」。


 バトルドレスはオーダーメイドなため、胸の形にぴったり合うようになっているし、内側にはパッドがあるのでつける必要がないのだ。適当に頼んだら背中が丸見えなものを作られてしまったが故に、ベルトが見えることを考えると付けたくないのも理由の一つである。


 丈の短いバトルドレスを着て、はあとため息を吐く。腰から下にかけては尾鰭のようにドレスと同じ素材の布を付けるため、屈んでも見えないようにはなっているが、やっぱりちょっと恥ずかしいというのが本音だった。


 だいたい、あの男が痴女だのなんだのと言わなければ、そこまで恥ずかしくはなかったのに。魔術的加工のされた装備は着ることに意味があるので、見た目はお洒落を重視したものが多い。これくらいの露出は、まだ普通の範囲内だ。


「普通の……普通、ですよね」


 なんだか自信がなくなってきた。が、そんな考えは頭を振って脳内から追い出し、立ったままブーツを履く。


 と、寝ぼけているせいかうまく履けずに転んでしまった。びたん、と床に突っ伏す。


「ぐすっ……」


 とてつもなく惨めな気分だ。しかし、涙目になりながらもブーツを履き終える。


 これだから、朝は弱いとあれだけ言っているのに。どうしてみんな自分を朝から働かせようとするのだろうか。ぶつけた鼻を擦りながらも着替えを済ませ、カツカツと床を鳴らして部屋を出た。


 部屋を出れば、もうそこに転んでぐずってしまう少女はいなかった。代わりに現れたのは、強者のオーラを纏った女王だ。部屋の外に待機していた兵に挨拶を済ませ、女王ユリアは別の部屋へと向かう。


 こんこん、と二回ノックして返事を待たずに扉を開ける。ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けて、静かに眠る黒髪の少女の髪を撫でた。


「フィーアさん……おはようございます」


 起きる気配のない彼女に、ユリアは言葉を続ける。


「アインさんは、どこに行ってしまったのでしょうか……」


 窓の外を一瞥して嘆息する。昨夜ベルンハルトに聞いた話では、炎の国アウナスに向かったらしい、とのことだった。アインには自分はアウナスの王と結婚する予定であると話してある。余計なことをしていなければいいのだが。


「アインさんのほうが、嬉しいのは事実ですけどね」


 くすりと微笑んでフィーアの手に手を重ねる。


 この少女の自慢の兄は、優しくて強いのだ。ちょっと変態っぽいところはあるけれど、そういう発言は主に空気を和ませるためにしていたように思う。


 人を何人も殺したと言っていた。殺さなければならなかったと言っていた。自由に生きたいと、そう言っていた。その願いは叶えられるべきだ。縛られ続けた分を、これから取り戻して欲しい。


 しかし、出来ればその前にこの少女を起こしてくれ、と思う。記憶は残っているようだったと話していたので、彼女のことを彼が忘れているとは思わないが。


 そして、そのついででいいから、わたしも助けてもらえないかなぁ、なんてことを思った。


 多分、これ以上ないほどに愛され、必ず助けると言ってもらえる彼女が羨ましいのだ。誰かに愛されて、誰かに助けてもらって、幸せになりたい。


 それは別にアインではなくてもいいのかもしれないが、彼以上に適任な人物に心当たりがない。


 別にエミル・アウナスが心底嫌だと言うわけではない。容姿は悪くないし、実力もそれなりにある。まちがいなく自分のほうが強いだろうが、それでも平和的に国力が上がるのならば、その対価としては安いと感じる。


 そういう点を考慮すると、王としてはエミル・アウナスと結ばれるのが最善手だ。しかし、個人としてはアインに軍配が上がる。


 戦闘を実際に見たわけではないが、ドラキュール王国からの刺客を二人で殲滅した実績、武器の威力の高さに高速移動。アインがかなりの戦闘力を持っているのは間違いない。


 考えていることが分かりやすいのもいい。騙されることはないだろうし、自分の命を捨ててまで妹を助けようとする姿勢には好感が持てる。


 得体の知れない相手と結婚する、なんて言い出せば反対されるのは目に見えているが、時間をかければ納得させることが出来る実力はあるのだ。


 魔族は大半が実力重視である。だいたい、反対と言うのなら、性格に難ありのエミル・アウナスとの婚約も相当反対されたのだから今更だろう。


 口を開けばセクハラばかりだが、ああいうタイプは案外、本当にそういう空気になると奥手になる場合が多い。そんな彼をからかうのも面白そうだ。たかだか十数時間のうちに散々セクハラをされた仕返しはしてやらねば。


 口元を緩めていたユリアは悲しげに目を伏せる。


 ——そんな妄想も、実現することはない。


 自分はエミル・アウナスと婚約しているし、アインにだってそんな気はないだろう。自分の幸せのために、誰かを利用なんて出来はしない。してはいけない。する資格がない。


 もしかしたら、優しい彼は恩人とも言える自分が求婚すれば頷いてくれるかもしれない。しかし、彼の自由を望むのならば、彼が結ばれる相手も彼の意思によって決められるべきだ。


 本当に心の底から好きで愛していると叫べるわけでもないのに、自分の都合のためにその一つの幸せを奪うことは許されない。


「恩人なんて、そう呼ばれることを望んでいる時点で……」


 ああ、本当に嫌になる。今頃、心に棲む暴食の悪魔が、絶え間なく生まれてくる薄汚れた欲望を食い散らかしているだろう。


 恩人なんて呼んでもらえる権利もない。ありがとうと言われることにすら引け目を感じる。引け目をかんじて尚、それを喜んでしまうだろう自分がいることに反吐が出た。


 ——自分が誰かを助けるのは、自分が助けられたいからなのだ。


 誰かを助けて、それを免罪符として過去の罪を忘却し、幸せを享受したい。それは善とは程遠く、手前勝手なエゴイズムでしかない。


「わたしも、あなた方のように生きられれば、なにかが変わっていたのでしょうか……」


 起きていたら怒られるだろうな、と思った。人を殺し続けていた自分たちのようになんて、バカじゃないのか、と。


 でも、そういう話じゃない。そうではなくて、考え方の話だ。誰かを殺したことに罪悪感を覚えず生きていけたなら——という、話。


「もしも、なんて、意味のない問いですね……さて」


 もう行こう。ここにいると、なんだか余計なことばかりを考えてしまう。


 最後にもう一度フィーアの頭を撫で、ユリアは立ち上がった。と、そこでコンコンと強目にドアがノックされる。


「? どうぞ」


 キィと開かれた木製のドアから出てきたのは、長い金髪を一つに括った長身の男だった。目が冴えるほどに青い瞳は鋭い輝きを放っている。


「……クリストフ。どうしましたか?」


 クリストフ・ベルンハルト。【剣帝】の二つ名を持つ彼はこの国でユリアの次に強いと言われる騎士団長だ。見れば見るほど、弟とよく似た顔立ちをしていると感じる。


 そんな暢気なことを考えているユリアとは反対に、クリストフは真剣な表情で口を開いた。


「エミル・アウナスが、謁見を求めてきています」

「……は?」


 間の抜けた声が、室内に響いた。


        × × × ×


「陛下、どうか玉座に」

「嫌です。立場は同等なのですから。というか、そんな偉ぶった態度を取るのは好きじゃありません」


 クリストフの頼みを一蹴したユリアは、まだかまだかと室内をうろうろとする。


「格下です。無礼な真似を働こうものなら、私が斬り伏せましょう」

「アインさんがどういう状態なのか分からない以上、余計な真似は許しませんよ」


 戦う気満々なクリストフを睨む。この男は少しエミル・アウナスを敵視し過ぎだ。まあ、クリストフに限った話ではないが。


 エミル・アウナスとともにアインと名乗る男も来ていると聞いている。なにかの間違いでアインが人質に取られている、という可能性がある以上、下手に攻撃するのはまずい。


「そんな得体の知れない男、捨て置けばいいのです」

「もう一度、それを言ったらあなたにはこの場から出て行って頂きます」

「なぜ、そこまで……」


 ——あの男に拘るのか。彼の訊きたいことは分かるが、それには答えずユリアはゆっくりと開いていく扉に視線を注いだ。


「——よう。昨日ぶりだな」


 状況を理解していないのか、悠長に片手を挙げて入って来た男を見て、クリストフが剣の柄に手を掛ける。それを制して、少し小走りにその男へと近づいた。


「アインさんっ!」


 目の前に辿り着くと、その後ろでエミル・アウナスが入室して扉を閉めたのが視界に入った。そして彼は、そのままアインの斜め後ろで不満気な顔をして立ち止まる。


「? ところで、その、どういった……」


 ちらちらとエミルに視線を向けながら、アインに問う。これではまるで、エミル・アウナスが彼の従者のようだ。


「いや、お前と別れた後、結局、不具合かなにかで大破することはなかったんだが……恩人のところへ出向くのに手ぶらってわけにもいかねぇだろ?」


 ——まさか。エミルを一瞥して過ぎった一つの可能性を振り払う。目の前の男は無謀なところがあるが、そこまでバカじゃないだろう。


「そ、そんなことお気になさらずとも……」

「気にするさ。命を救ってもらったんだ。どんなものもその対価にはなり得ない。それでも、なにかを返しておきたかった。まあ、多少、俺のストレス発散もなかったわけではないが」

「ストレス発散で潰される方の身にもなって欲しいですね……」


 アインの言葉に、エミルが苦々しく反応する。この王が敬語を使ったのは初めて見た。が、なんだか急な展開に頭が追いつかない。なにが、起きている?


「それに、こんな素性の分からないやつを受け入れるのにはある程度の貢献が必要だろう。そこの剣士とか、めっちゃ睨んでくるし?」


 言ってることは分かる。アインなりに、自分に恩返しをしようとしてくれたのだろう。ただ、その恩返しの大きさが問題だ。もうほとんど、その内容に予想はついていた。


 しかし、納得は出来ないのだ。彼が暴れたのなら、本当にエミル・アウナスを下したのなら、それは、それにかかった犠牲は。


「何人、殺したのですか……?」

「ああ、一人も殺してねぇよ。まさか血濡れのプレゼントを贈るわけにはいかねぇだろうよ、そんなのはお前も望まないはずだ。俺は今回、誰一人殺していない。な?」

「……はい」

「なあ、その敬語止めねぇ?」

「無理です」


 にべなく断られ、アインは困ったように笑う。が、本当に困っているのは自分だと言いたい。まさか本当になにかが返ってくるだなんて、期待していなかったのだ。それも、こんな形で。


「少し、考えたんだ」


 まだ迷っている様子のユリアに、アインがぽつりぽつりと言葉を漏らす。気恥ずかしそうにする彼が新鮮で、その言葉に聞き入ってしまった。


「どうして、お前は俺たちのことを助けてくれたんだろうってな」

「それは……」

「知り合いに似ていたから。それは確かに、と思ったが、それじゃ足りないとも思った。人を助けるのはいいことだ。でも、それをすべて慈善事業でやれるやつなんて、いないだろ。気色悪い」


 正鵠を射た発言に言葉が詰まってしまう。その通りだ。自分が彼を助けたのは、自分と似ていたからだ。そして、自分が誰かを助けるのは——


「お前が誰かを助けるのは、お前が助けて欲しいからなんじゃないのか」


 ユリアより身長の高い彼は、優しくユリアの頭を撫で照れ臭そうに笑う。


「王だから。お前はそれを自分の行動の理由にしていたが、それはつまり、王じゃなかったら、そんなことはしていないということになる」

「それはいささか……強引なのでは」

「強引でいいさ。俺を助けてくれたお前を少しでも助けてやりたいし、俺に自由をくれたお前に、自由になって欲しい。だから、誓うよ——俺はこれから先、お前のために命を尽くす。絶対に、だ」


 アインはパチンっと指を鳴らし、唐突に宙空に現れた花束を掴んで膝を着いた。


「もう充分かっこつけたからな。キザな台詞はいらねぇだろ」


 そう言った彼は、悪戯っぽく笑って花束をユリアに向ける。


「——俺と結婚してくれ、ユリア」


 望んでいたのだ。一人で何十、何百万という国民の命を背負う立場からの脱却を。


 エミル・アウナスの求婚を受け入れたのも、心の奥底で国を渡してしまえるのではと考えたからなのだ。自分はそういう、利己主義な人間なのだ。とても、王の器ではない。


「はい……っ!」


 きっと彼なら、そんな自分を、欲に濡れた汚い自分を受け入れてくれると思えた。


 だから、今ならおまけで国が付いてくるぞ? なんて、軽い調子でとんでもないことを言う彼に、思わず頷きを返してしまったのも、仕方のないことなのだろう。

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