第14話 ピンチになったらイケメンが助けてくれるとかいう風潮

 リリアンが目を覚ますと、真っ先に目に飛び込んできたのは薄暗い天井だった。頭がひどく痛む。起き上がろうとして、体のバランスが取れないことに気がついた。

 どうやら手を縛られているようだ。

 無理やり起き上がろうと体を動かしているリリアンに声がかかる。


「リ、リリアン、目が、さめた?」


 声のするほうを見ると、薄暗い中にジャッキーが立っていた。息づかいが随分と荒い。どう考えても嫌な予感しかしなかった。リリアンが無理やり体を引きずって距離をとると、ジャッキーが一歩前に出る。

 彼は荒い息づかいのまま、じりじりとリリアンに近づいてきた。


「たっ、隆弘なんかと楽しそうにするから、こんなことしなくちゃいけなくなったんだよ。だっ、大丈夫だよ、き、君だって、こういうのが好きなんだろ? 本がたくさんあったよ。こ、これからは、僕が相手をしてあげるからね。ま、まずは、浮気したことを反省してもらわないと」


 ちょっとなにをいっているのかわかりませんね。

 リリアンは喉まで言葉が出かかったが、相手を刺激するだけだと思って飲み込んだ。

 ジャッキーの目がギラギラと異様に輝いている。あの森のコテージで見た男の目とよく似ていた。


――気持ち悪い。気色悪い。気味が悪い。


 どれだけ必死に逃げても、リリアンが体を引きずる速度よりジャッキーが歩いてくる速度のほうが当然早い。無理やり体を引きずって逃げるにも限界があった。ジャッキー同様、リリアンの呼吸も緊張と恐怖で荒くなる。

 それをどう勘違いしたのか、ジャッキーがニヤリと笑った。


「ふ、ふふふ、だ、大丈夫だよ。き、きっと楽しいよ」


 とうとう足もとにまで近づかれ、リリアンの喉がひきつった声を出す。


「ひっ……」


 ジャッキーは笑顔のままだ。笑ったままリリアンの足もとにしゃがみ込み、足を掴む。

 生ぬるい真夏の飲み水の温度がねっとりと絡みついた。

 恐怖で体がひきつる。思い出すのは虫が体全体を這い回るようなあの感触だ。


――気持ち悪い!! 気色悪い!! 気味が悪い!!


 ジャッキーの顔がぐっと近づく。覆い被さるようにされて生暖かい息が頬にかかる。

 思い出すのは森のコテージ。赤いルージュ。這い回る虫。生ぬるい体温。痛い。恐い。辛い。気持ち悪い。触らないで。近寄らないで。気色が悪い。

 ぶよぶよした手がリリアンの服に手をかける。今まで凍り付いていた喉がたまらず悲鳴をあげた。


「いやだぁああああああああああぁあああああああああっ!」


 拘束されていない足だけでバタバタと暴れ、ジャッキーが体勢を崩した隙を狙って腹部を蹴りつける。


「ぐぇっ!」


 蛙のつぶれたような声がしてジャッキーがリリアンから離れた。彼女は自由にならない体を無理やり動かしてうつ伏せになると、芋虫のように無様に体をひきずって扉まで逃げていく。当然鍵がかかっているが、そこまで考えが及ばなかった。ただ逃げたい一心だ。

 もう二度とあんな思いはしたくない。

 恐怖のせいで口からは意味のない悲鳴が漏れていた。10歳の時は固まったままだった体のすべてが、今は逃げたいという願望だけですべての機能を無意識にフル稼働させている。


「あぁあああぁああっ! あっ、あぁああぁっ! うぅぅううっ!! うぅっ!! ぐぅぅぅ!! うぅ!! うああああぁあああぁあっ!!」


 声を絞り出せばなんとかなるとでもいうようにリリアンは一心不乱に意味を成さない声を吐き出す。誰かが来てくれるかもしれないとか、相手が驚いて動きを止めるかもしれないとか、そんなことは一切考えていなかった。とにかく逃げるしかない。なんとしてでも逃げなくてはいけない。体を必死に動かしていたら自然に声も出ていた。それだけだった。

 腹を蹴られたジャッキーがゆらりと立ち上がる。振り向いている余裕などリリアンにはなかった。ただ男の怒ったような声が聞こえてくる。


「こっ、この尻軽女スラッグがぁああああああああああ!! ふざけるなよぉおおおぉおおちょっと優しくしてやればつけあがりやがってぇえええええ!! だまって足ひらいとけばいいんだよお前なんかぁあああ!!」


 ジャッキーがかけよってきて、リリアンの髪を掴む。髪の抜ける音がしてただでさえ痛い頭に激痛が走った。


「いやぁああああっ! やだぁあああぁああっ! うぅうぅぅっ! うぅぅぅ!! あぁああぁあああ!! あああああああああぁああっ!!」


 動かせない腕の代わりに足だけで思い切り暴れ、そのせいでまた髪が抜ける。ジャッキーを振り切って這いずったリリアンの肩がガツンとなにかにぶつかった。扉だ。鍵がかかっていてあかない。そもそも拘束された両手では鍵がかかっていなくてもドアを開けるのに時間がかかる。

 その間につかまるだろう。

 肩で息をするリリアンは絶対に開かない扉をみてボロボロと涙をこぼした。口でドアノブを掴もうとするがうまくできない。


「うぅうぅぅっ、うぅぅぅぅっ!!」


 ガチガチと奥歯が何回か噛み合って、結局ドアノブを掴めずバランスを崩したところで近づいてくるジャッキーが目に入った。


「あぁあぁあっ、あああああぁああ……!!」


 声は意味を成さない。もはや自分が何を考えているのかもわからず、ただ目の前の壁が自分を絶望させる存在であるということだけを認識して嗚咽を零した。


――そこで、彼女はガチャリ、とドアノブの廻る音を聞く。


「手間ぁかけさせやがって」


 扉の向う側から声がしてリリアンはぱちくりとまばたきをした。背中で縛られた腕が痛い。


「そこから動くんじゃあねぇぞ」


 轟音がして横を大きな固まりが通り過ぎる。バタン、とガシャン、のまじりあったような音がリリアンの鼓膜にダメージを与えた。床に破壊された扉が一枚落ちている。そのあとすぐ片割れの扉も音をたてて引き剥がされ、視界から消えた。

 リリアンの目の前に扉を引き倒した腕がのびてきて体が強引に引き寄せられた。暖かい壁にぶつかり、トクントクンと一定の音が聞こえてくる。心臓の音だ。

 彼女が首を動かすと頭上に見知った顔があった。黒く長いまつげに覆われた切れ長のコバルトグリーンが前方を睨み付けている。


 隆弘だ。


 リリアンの肩を抱く隆弘の腕に力が入り、彼の心臓の音がよりいっそう近くで聞こえる。ブチリと音がして火の付いたタバコが床に落ち、隆弘がツバを吐いた。口の中に残ったタバコの残骸を吐き出したのだろう。


「ふざけやがって」


 彼は腕にリリアンを抱いたまま大きく右足を振り回した。

 ドガッ、と腹に響く低い音がして何かが床に倒れ込む。先ほど自分に乱暴しようとした男だと気づいたリリアンはけれど強い力で抱きとめられているせいでその様子を見ることが出来ない。

 隆弘の低い声がした。


「――覚悟しやがれ」


 声と、喉を使った振動と、心臓の音が、聞こえてくる。血液の流れる音さえも聞こえてきそうで、そのほうが安心できると思えて、リリアンは隆弘の腕の力に従うフリをして彼の胸に顔を押しつけた。


 蹴り飛ばされた男が起き上がり、小さく呻く。


「やっ、やっぱり君は僕のことを疑ってたんだ! ひどいよっ!」


「疑うもなにもてめぇがやってたんじゃねぇか」


 ゲホゲホとジャッキーが咳き込む。荒い呼吸音を響かせてなおも彼は叫いた。


「君はいつでもいろんな方法で僕を傷つけるんだ! 友だちだとおもってたのにっ!」


 男が隆弘に掴みかかる。リリアンを右手だけで抱き留めた隆弘が、左手でジャッキーを殴り飛ばした。バキンと大きな音がして男がまた床に倒れる。

 床に倒れたジャッキーを見下ろし、隆弘が怒鳴った。

 低い声がビリビリと空気を震わせる。


「被害者面すればなんでも許されると思ってんじゃねぇぞ! 自分だけが可哀想だとか思ってるから自分のことしか考えられねぇんだ! 好きな女がこんなに悲鳴あげてんのになんとも思わねぇのかてめぇは!」


 ジャッキーからの返事はない。どうやら気絶したようだ。小さく舌打ちした隆弘がリリアンに話しかけてくる。


「もう大丈夫だぜ」


「あ、あぁ……」


 殴られたせいか、リリアンの頭はひどく朦朧としていた。叫びすぎたせいかもしれない。彼女は鈍った頭で隆弘の腕がとても温かいのはなぜだろうと考える。ジャッキーに触れられたときは気持ちが悪くて恐ろしくて仕方がなかったのに、隆弘の腕はとても安心する。


「不思議……だなぁ……」


 緊急コールを終えた隆弘がひどく心配そうな顔でリリアンを見た。大方恐怖で意識が錯乱しているのかもしれないと思っているのだろう。

 実際そうなのかもしれないあたりが情けない。

 隆弘の顔をみてクスクスと笑ったあと、リリアンはすぐに安心の理由を見つけた。


「ああ、心配……してくれるからか……」


「おい、なんの話だ」


 意識が遠のいていく。隆弘の声をどこか遠くに聞きながら、リリアンは呟いた。


「お前の手、あったかいな……ひだまり、みたいだ」


 すでに自分の声もうまく聞き取れない。言いたいことをどこまで言えたのかもわからずにリリアンの意識はブツリとブラックアウトした。

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