第8話 また部屋が荒らされてるンゴ

 隆弘たちが住んでいる借家のフロントガーデンは常緑樹が所せましと枝をのばし、サルビアやコスモスが緑の中に彩りを加えている。日が出ているときは絵本の表紙にでもなりそうな美しい風景になり道行く人を楽しませるのだが、日が沈み霧もでてきたとなると雰囲気は一変してしまう。霧で湿った空気の中、例えばゴールデンモップの傍らに白いワンピースの女でも立っていれば10人中9人が幽霊だと確信するだろう。

 隆弘がツタの絡みついたウッドフェンスにもたれ掛かる。携帯電話を取り出すと電話帳を開かず直接電話番号を打ち込んだ。コール音が3度鳴っても相手は出ない。留守番電話にはならないので辛抱強く待ち続けていると10度目のコールが途中で途切れる。

 繋がったようだ。

 いつもより少しだけ深く息を吸い込んだ隆弘がたっぷり1秒の間をあけて口を開いた。


「よう、ジャッキー」


 電話口から少し驚いたような声がする。


『……隆弘?』


「ああ。久しぶりだな」


『……話すのは、一年ぶりくらいになるのかな』


「そうだな」


『なんのよう?』


 電話の相手が早く会話を終らせたがっているのは態度でわかる。隆弘は言おうと思っていた様々なことを省略して本題に入ることを決めた。

 解っていたことだ。相手が自分と話したくないことなど。


「リリアンが昨日、ストーカー被害にあった。鍵が盗まれたそうでな。昼間にお前、リリアンと話してただろう。話している最中か、あるいは見かけた直後、妙な人間がリリアンに近づくのを見なかったか」


 内容が内容なだけに言葉を選んだつもりだったが、ジャッキーは黙り込む。相手の反応を待っている隆弘にやがて向う側から不機嫌そうな声が返ってきた。


『……もしかして君は、僕を疑ってるの?』


「そういうわけじゃない」


『嘘だよ! 君だってあの場にいただろ! 僕はただリリアンと話していただけだ! 純粋に助けてくれたリリアンにお礼がしたかっただけだよ!』


 隆弘が喋ろうと口を開きかけて結局やめる。思いついた言葉のどれを言って良いのかもわからないし、どうやったら相手を傷つけないかもわからない。今のジャッキーには隆弘が何を言っても逆効果だろう。

 彼が黙っていると、電話の向うの声はさらに語気を荒くする。


『君はいつもそうだ! 自分が正しいことをしてるって疑わないで傲慢に人を傷つけるんだよ! 冷たくて強引で傲慢だ!』


 やはり言葉が見つからない隆弘は、今度も口を開けたはいいものの二秒後には結局閉じた。それから考え込むように目を閉じ、長い沈黙のあとあくまで冷静に言葉を吐き出す。


「……そんなつもりはねぇ。悪かった。リリアンが困っているから、なにか気づいたら教えてくれ」


 電話の向うでジャッキーが息を吸い込む。言葉を選ぶ隆弘と違って、ずいぶんと憤っているようだった。


『君を頼らなくても気づいたら直接彼女に言うよ!』


 ブツリと電子音がして通話が途切れる。向こうから切られたと悟った隆弘は携帯電話をポケットに突っ込んだ。ため息をつき、携帯電話の代わりにゴールデンバージニアを取り出す。タバコを2本引き出して口にくわえると、反対側のポケットに入れていたジッポで火を付けた。去年の誕生日叔父にもらった蒔絵入りのものだ。桜と虎が描かれている。

 2本分のニコチンを深く吸い込み、煙を吐き出した隆弘は深くため息をついた。空を見上げるも霧でよく見えない。もっとも年中曇り空が多いこの国のことだ。霧などなくても星は見えない。意味もなく外に出ていても濡れるだけだ。手早くタバコを吸い終えて家に戻ろうと決めた隆弘の視界に自転車のライトが飛び込んでくる。シャワシャワと廻る車輪の音から察するに随分と急いでいるようだ。近づいてくる自転車をよく見ようと目を細め、彼は思わず声を上げた。


「そんな急いでどこ行くんだクソアマ。便所か?」


 キキィッ、と自転車が耳障りな音を立てて急停止する。焦った様子でペダルを漕いでいたリリアンが隆弘を見た。肩で息をしている。脅えたような目をした女が呼吸を整えるにしたがってヘラリと笑う。隆弘には無理をしているように見えた。


「は、はは、便所とかいうなばーか。おしっこもれる」


「てめぇのほうが下品じゃねぇか。自分で言っといてなんだがな。本当はなにがあった」


 隆弘がタバコを2本くわえたままリリアンを睨みつける。彼女は浮かべていた笑みをひきつらせると自転車をひきながら隆弘の近くに歩み寄った。


「や、誰かにつけられてる気がしてさ」


 隆弘はタバコ2本を口から離し、リリアンが走ってきた方向を見た。


「今もか」


 女がゆるやかに首を振る。


「や、今はもう大丈夫」


「そうか。無事で何よりだ」


 男がタバコをくわえ直す。リリアンから自転車を奪い取った彼は


「あんまり意味はねぇが、送ってく。今日は俺とアリエルの部屋を交換することになってるしな」


 と言ってリリアンに歩くよう促した。短いやりとりの間で幾分か余裕を取り戻した女がホッと短く息をつく。脅えていたのが嘘のような笑顔で隆弘に話しかけてきた。


「ところでお前さ、なんでタバコ2本も吸ってんの?」


 自転車をひく隆弘はチラとリリアンを見やった。


「ああ、さっきちょっとな」


「もしかして機嫌悪いとタバコの本数増える系? そんな増え方初めて見たぜ。体に悪そー!」


 隆弘がスネたように顔を逸らす。


「てめぇの胡椒よりマシだぜ。あれ蓮の種みてぇじゃねぇか」


「私蓮コラ結構好きなんだよね。1回受けが蓮コラみたいになる病気のままセクロスするホモ本描いたら引かれたわ」


「おいなんだそりゃ」


「何人かには目覚めたっていわれたけど」


「俺にわかる言語で喋ってくれ」


「私のストレス発散法はホモ漫画描くことだよって話」


「馬鹿じゃねぇのか」


 隆弘がリリアンの頭を軽く叩く。ふざけた調子で


「いてぇ!」


 と叫んだリリアンの元に、家のほうからアリエルが駆け寄ってきた。


「リリー! ごめんなさい! 気をつけてたんだけど……!! 警察にも、さっき連絡したから……!!」


 今まで笑っていたリリアンと隆弘の表情が引きつる。いったん自転車を家の前に置いて中に入ると玄関前の階段に泥まみれの足跡がついている。リビングのドアが開け放たれ、ダイニングのバックヤードに面する窓が割られていた。部屋にガラスの破片が散らばっている。またリリアンの部屋が目的だろうか。

 隆弘が荒らされたダイニングを見て舌打ちした。くわえていたタバコ2本を噛みちぎり、ティッシュで口を拭う。


「クソッタレが! 手間ぁかけさせやがってっ!」


 タバコの火を踏みつぶして消した隆弘はポケットから携帯電話を取りだした。


「ハリーか。隣に来て女三人そっちにつれてってくれ。またやられた。警察は呼んだらしいから来たら呼ぶ。どうせまた10分くらいかかるだろ。警察くるまで女3人こんな場所にいさせたら危ねぇからな」


 電話越しにハリーの了承が聞こえる。隆弘は通話を終えるとポケットに携帯電話をつっこみ床に落したタバコの吸い殻を携帯灰皿に捨てた。


「聞いたとおりだ。今ハリーが来る。警察が来たら呼ぶからてめぇらそれまで隣行ってろ」


 エリンがリリアンの肩を抱き、宥めるように撫でている。


「わかったわ。隆弘は?」


「一応ここにいるぜ。警察がきたら隣にいてもわかるとは思うが、無人ってのも抵抗があるだろ。男なら防犯にもなるだろうよ」


 アリエルが頷く。


「……そうね」


 リリアンの鞄から場違いなほど明るい曲が流れてきた。日本語のわかる隆弘だけが歌詞を聞いて眉をひそめる。


「なんだそのふざけた曲」


 真っ青な顔のままリリアンがわざとらしく口をとがらせた。


「メールの着信だよ」


 返答を聞いて隆弘はますます顔を歪めた。このタイミングでくるメールなど嫌な予感しかしない。一応メールアドレスは変えさせたが、不法侵入を平然とやってのける相手に子供だましのような手段がどこまで通じるのかわからないのだ。

 リリアンが焦点の合わない目でメールを開く。

 メールの文面を追うごとに彼女の真っ青な顔がさらに蒼白になっていく。目の焦点があったかと思うと、エメラルドグリーンの瞳が恐怖に染まる。

 大きく開かれたリリアンの口から悲鳴が飛び出した。


「ひっ!」


 彼女は爆弾を手にとってしまったかのように携帯電話を取り落とす。ガシャンと大きい音がした。幸い壊れてはいないようだ。携帯を取り落としたリリアンはそのままトイレへ駆け込み、アリエルが後を追うように駆け出した。


「リリアン! 大丈夫!?」


 トイレから嗚咽が聞こえてくる。リリアンのことはアリエルにまかせ、隆弘は床に落ちた携帯電話を拾い上げた。メール画面が開いたままになっている。

 無断で見るのは多少抵抗があったが、あれほど顔色を変えるのだから昨日と同様ストーカーからのメールだろう。まだ明るい携帯電話の画面に目を落した隆弘は眉をひそめたまま画面をスクロールしていった。


『また他の男に媚び売りやがって尻軽女スラットが調子にのるなよ絶対犯してやるやらせろやらえろやらせろやらせろやらせろやらせろやらせろやらせろ』


 随分と酷い内容だ。あまりの不快さにメールを削除したい衝動にかられる。リリアンは昨日も部屋の被害状況を確認しているときに吐き気を催したらしいし今回は特にショックが大きいだろう。

 トイレから聞こえる嗚咽と水音が暫くして悲鳴に変った。


「うわぁああああっ!」


 リリアンの声だ。さすがにただ事ではないと思った隆弘がドアを開けたままのトイレに駆け寄る。


「どうしたっ!」


 アリエルだけがゆるゆると隆弘に顔を向けた。リリアンはトイレの汚物入れを凝視したまま硬直している。顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。冷や汗もかいているようだ。隆弘もつられて汚物入れを見るが、そんなに脅える要員がどこにあるのかわからない。

 アリエルが消え入りそうな声を出す。


「……ゴミ袋が、なくなってるの……中身が、盗まれてるのよ……」


 アリエルの言葉に隆弘は一瞬、ゴミなんか盗ってどうするんだと心底不思議に思った。そしてすぐに女性用トイレの汚物入れにを思い出し、眉をひそめる。

 部外者で男の隆弘でさえ気色悪いと思うのだ。当事者である女たちの気持ちは計り知れない。隆弘は脅えるリリアンに声をかけようとしてやめた。言うべき言葉が見つからない。

 メールの内容もこの窃盗も、非常に気色が悪かった。

 事の重大さに反して警察が到着するのには10分あまりの時間を要し、人数も2人というありさまだ。やはり先日の麻薬事件に力を入れているのだろう。やる気のなさが目に見えるようだ。

 隣の家に避難していた女3人がハリーたちに連れられてくると、警官の1人がリリアンに対して淡々と事情を聞いていく。


「先日も被害にあってるね。部屋の状況は確認した?」


「友人が先に帰宅して、被害にあったと教えてくれたので、まだです」


「そう。じゃあ被害状況確認したいからちょっと一緒に来てもらえる? あ、足跡踏まないようにしてね」


 リリアンが警官のあとについて階段を上っていった。心配そうに階段に近づいたハリーが眉をひそめる。階段の時点ですでに異臭が立ちこめていた。生臭い。腐ったイカのような臭いだ。

 警官に促されたので隆弘たちも階段を上る。

 眉をひそめるリリアンに警官は淡々と言った。


「壁や床の汚れは採取して検査するからね。まあ、前科があればわかるでしょう。こういうのは犯人の特定が難しいから時間をかけて捜査することになると思うよ」


 リリアンの部屋の扉や壁に白と黄色が混ざったような汚れが付着している。異臭は汚れから漂っていた。また彼女の下着が何着か盗まれているかもしれない。リリアンと警察を遠巻きに見ながら隆弘は新しいタバコを取りだし、火を付けた。

 リリアンが口元を押さえ、背中を丸める。また吐き気だろうか。眉をひそめてひどく苦しそうな顔をしている。いつもヘラヘラ笑っている姿とは似ても似つかない。

 ガタガタと震えるリリアンに警官が無遠慮な言葉を投げつけた。


「トイレにも入られたんだっけね。一応指紋とっておこうか。まあ君美人だし誰かにこういうことされてもおかしくないかもね。心当たりないの? 元恋人とか」


 警官の表情は気だるげだ。言葉を投げつけられたリリアンは口元から手をはなし、なんとかしゃべろうとする。表情と同様声帯も凍り付いてしまったようで声が出ていない。パクパクとなんどか開閉を繰り返すだけだ。

 アリエルやエリンはもちろん、ハリーや隆弘も眉をひそめる。

 かまわず警官は続けた。


「元恋人とかだったらすぐわかるんだけどねぇ。今の彼氏さんは誰? 元カレの話とか聞いたことないの? 今の彼氏と付き合うのに別れたとか、そういうので恨まれてるんじゃないの?」


 警官が隆弘、ハリー、ドナ、エヴァンドロを順番に見る。

 ブチリと隆弘の耳元で音がした。気がつけば新しく火を付けたばかりのタバコを噛みきっていたので口に残った残骸をツバごと床に吐き捨てる。怒りにまかせて大股で警官へ歩み寄り胸ぐらを掴むと、気怠そうな顔目がけて思い切り拳を振り抜いてやった。

 ドゴッ、と鈍い音がして拳に痛みが残る。吹っ飛んだ警官が床に背中を打ち付け、微かに呻いた。

 ハリーが叫ぶ。


「たっ、隆弘! なにやってんだお前!」


 だが隆弘は友人の悲鳴を無視してさらに警官に歩み寄り、胸ぐらを掴む。


「ふざけんなよてめぇこのクソポリ公が! こんな脅えてる奴の前でよくそんなことが言えるな! その腐った根性たたき直してやるぜ!」


 隆弘が大きく振り上げた腕をハリーが掴んだ。


「わぁあああ! やめろ隆弘! ドナ! エヴァ! 手伝ってくれ!」


 ハリーがしがみついたことで動きの鈍った隆弘にドナとエヴァンドロが飛びつく。


「ゼルダの新作やるまで死ねないのに!」


「こんなことなら先週の据え膳カッコつけずに食っとくんだった!」


 怒りにまかせて3人を少し引きずった隆弘は、肩で息をしたまま警官を殴る寸前で停止する。なんとか2度殴られることを回避した警官は最初こそ隆弘に脅えていたようだったが、すぐさま顔に怒りを滲ませて声を荒げた。


「なっ、なんだお前はいきなり! 公務執行妨害だぞ! こっちは仕事してるってのに突然非常識にもほどがある! 学生だからって調子にのるなよ! 留置所で頭を冷やして貰うからな!」


 エリンが小さく


「非常識なのはあんたじゃない」


 と呟いたが、それはドナのわざとらしい


「あ~ああ~」


 という声にかき消された。

 警官2人がかりで連行されることになった隆弘は床に落ちた吸い殻を携帯灰皿に入れ、吐き捨てたツバをティッシュで拭う。

 それから手錠をかけられ家の外へ出た。リリアンが真っ青な顔色のまま追いかけてくる。


「隆弘っ!」


 リリアンに声をかけられたので隆弘が立ち止まった。横の警官は乱暴に彼の背中を押したが、そのくらいでふらつくようなやわな体はしていない。

 肩で息をするリリアンが今にも泣きそうな顔をしていた。


「隆弘っ! ごめんな! 迷惑かけて、そのうえこんな……!!」


 彼女が途中で言葉に詰まったので、隆弘は首を横に振った。


「気にするな」


 さらに言葉を続けようと口を開いた隆弘は、脳裏に浮かんだ言葉数個を吟味して結局表に出すのをやめることにした。口を閉じた瞬間また警官に背中を押される。未だ泣き出しそうなリリアンの目をまっすぐに見て


「また明日」


 と告げて、彼はパトカーに乗り込んだ。

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