第7話 暗い道とかがいきなり怖くなる現象にそろそろ名前をつけたい

 オックスフォードにある図書館は当然だがどこも静かだ。ラドクリフサイエンス図書館も例外ではなく、真冬の朝を思わせる張り詰めた空気が満ちていた。1861年に建築された建物は外見こそ煉瓦造りでオックスフォードの町並みにふさわしい中世の趣を残していたが、閲覧室は白い壁に照明が直接埋め込まれた清潔で近代的なデザインだ。図書検索のためにパソコンが設置され、キーボードを叩く音やページを捲る音だけが微かに響いている。息をひそめた人々の気配が時間までもを止めてしまったようだ。手もとの本とノートに集中してしまえば時間などあっという間に過ぎていく。図書館とはそういう場所だ。リリアンも個別指導チュートリアルで教師に指定された本を三冊ほど積み上げ、机にかじりついていた。今日中にすべて目を通しておきたい。今持っているのが最後の一冊だった。

 図書館で本の内容を頭にたたき込み、家に帰って必要な情報をノートに整理しながら論文を書く。本はいつでも争奪戦だ。同じ専攻ならだいたい同じタイミングで同じ本を借りるのでリリアンは読書にあまり時間をかけたくなかった。順番待ちをしている人間にせっつかれるのも嫌だし前の人間が読み終わるのを待っているのも嫌だ。なるべく早く本を確保して早く読み終える。

 彼女が指定図書三冊をすべて読み終えた頃には窓の外は闇に包まれていた。時計を確認するとすでに16時をまわっている。夏の日照時間が長い代わりに、冬の日没が恐ろしく早いのだ。

 リリアンは指定図書を慌てて元の場所に戻し、閲覧室を後にした。

 カレッジに戻る許可がまだ出ないのでリリアンが戻るのはエリンとアリエルと一緒に借りた借家だ。許可が出て手続きが終るまで3日ほどかかると言っていたので、実際にカレッジに戻れるようになるのは一週間くらい先だろう。それまで隆弘たちも外を気にかけるようにすると言ってくれた。

 図書館を出ると10月には珍しく濃い霧が立ちこめていてリリアンは眉をひそめる。朝から少し肌寒かったからだろう。じっとりとのしかかる冷たい空気は多分に水気を含んでいるので服が少しずつ濡れていく。

 自転車を前にして少しだけ考えたリリアンは、この霧なら徒歩に切り替えなくてもいいだろうという決断を出した。なにせ歩いて帰宅すれば20分はかかる。すでに周囲が暗くなっているのにわざわざ帰宅時間を遅らせるつもりはなかった。

 二つついている自転車の鍵を外し、ライトと反射板を確認して道路に出る。外灯がぼんやりと霧の中を照らしていた。空中に浮かんだ水滴が風にのって動いている。中世で時間を止めたようなオックスフォードの町並みは霧に包まれるとホラー映画の趣があった。

 街路樹が並び、紅葉したツタの絡みつく煉瓦造りの町並みはいつ切り裂きジャックが出てきてもおかしくはないだろう。いっそ吸血鬼も一緒に出てきそうだ。

 そこで連続殺人犯と吸血鬼の男同士の恋愛に思考をシフトチェンジしたリリアンは霧に包まれた夜の町で殺し合う男性2人がどうやって恋仲になるかまでを10秒で考え、性交渉の際にどちらが女役でどちらが男役かで少し悩んだ。結果切り裂きジャックに男役の軍配があがり、吸血鬼が女役に決定する。その間20秒。

 シャワシャワと車輪が回る。すでにリリアンの脳内は殺人鬼と吸血鬼の性交渉に突入していた。霧を照らす街頭の下を通り抜け、脳内妄想が2R目に突入したところで背後に視線を感じて振り返る。霧で周囲がよく見えないが誰もいないようだった。気を取り直して前を向き、また自転車をこぎ始める。脳内妄想がどこまで行ったか思い出そうとしてまた人の気配を感じ、こっそり背後を振り返った。やはり誰もいない。

 車輪の音が自分のものとあともう一つ聞こえてくる気がした。

 少し自転車のスピードを速めたが、背後の気配と車輪の音が消えることはない。

 霧のせいで服が濡れ、足にまとわりつくズボンが動きを遅くしている気がした。体力の消耗が激しい。追いつかれる。

 もう彼女に後ろを振り返る勇気はなく、ただ全力で自転車をこぎ続けた。

 思い出すのは昨日見た夢のこと。


――いやだ、恐ろしい、おぞましい、気味が悪い、気色が悪い、気持ちが悪い!!


 人型に凝固した闇がリリアンを捉え、飲み込み、消える。生暖かい不快な感触と遠のく意識。

――もう捕まりたくない! もうあんな思いはしたくない!


 恐ろしい空想が背後に迫ってきているような気がする。悲鳴の形に開いた口からは、荒い息しか出てこなかった。

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