第4話 ストーカーに本棚のエロ本見られた件

 警察が現場に到着したのはそれから20分後だ。被害者であるリリアンは警察の立ち会いのもと盗難されたものがないか確認することになった。三人来た警察官の一人が床に散らばった薄い本を見て怪訝そうな顔をしたが一見さんは大概同じなのでリリアンは気にしない。写真はやはりというか男性器の接写だったらしく、糸くずも陰毛で間違いないらしい。証拠品として押収されていくそれらを横目にリリアンは下着の収納されたチェストを開ける。

 今朝しまったはずの黒い下着が上下セットで無くなっていた。黒い下着の後ろにあったはずの青い下着も上下セットで無くなっている。

 それが今後どんな用途に使われるのかは想像に難くない。

 吐き気がする。

 とうとう耐えきれなくなったリリアンは横にいたアリエルを押しのけるようにしてバスルームへ駆け込んだ。


「うっ、げぇえ……えっ……!!」


 ドアを乱暴に開け放ち、トイレへ吐瀉物をぶちまける。

 ビチャビチャと汚い水音がする。芳香剤と酸味の強いタンパク質の臭いが混じり合ってさらに吐き気を誘発した。

 トマトとチーズをスポーツドリンクで無理やり胃に流し込んだような不快な味が口の中に広がり、便器に昼間食べたアボカドらしき細かい黄緑色が浮いている。赤っぽい細切れはローストビーフだろうか。胃酸で焼けた喉は中途半端に溶けてぐちゃぐちゃに混じり合ったものが逆流したせいもあり、切り裂いてかきむしりたいほどの違和感と痛みがある。

 喉が渇いて口の中がベタベタしていた。口をすすいで水を飲みたい。


――気持ち悪い。気持ち悪い気持ちわるいきもちわるいきもちワルイキモチワルイ!!


 なぜこんな仕打ちを受けなければ行けないのか。なぜこんな思いをしなければいけないのか。知らない誰かの悪意が体に纏わり付くようだ。知らない誰かの欲望に首を絞められているようだ。

 不快感を拭いたくて何度か嘔吐いているリリアンの背中に、なにかが軽く触れてきた。途端彼女の体は自分でも意外なほど跳ね上がる。


「……っ!!」


 もうこれ以上恐ろしい思いはしたくない。

 睨みつけるような目線でもってリリアンが後ろを振り向くと立っていたのはアリエルだった。


「リ、リリアン、大丈夫……?」


 不安そうなアリエルを睨みつけてしまったリリアンは罪悪感で彼女から目をそらす。しばらく戸惑ったように立ち尽くしていたアリエルだったが、リリアンがまた嘔吐いたときにゆっくり膝を床についた。便器を抱え込むようにして嘔吐しはじめたリリアンの背中にやはりゆっくりと触れ、やわらかくさすり始める。

 彼女はもはや空になった胃袋からそれでも胃液を吐き出しているリリアンにゆっくりと言い聞かせるように呟いた。


「大丈夫よ。私もエリンもついてるから」


 リリアンが嗚咽を漏らしながら何度も頷く。吐き気のせいではない涙が頬を伝い、先ほどあれだけ脅えてしまった手がとても温かくて、それだけで気持ちが楽になったような気がした。吐き気がゆっくりと収まっていく。

 少しづつ呼吸を整えたリリアンはアリエルをそっと振り返り、笑った。


「……ありがと……」


 アリエルも笑顔を返してくれる。なのでリリアンは極力いつもとおりの笑顔になるよう心がけ、わざとふざけたような声をだした。


「……エロ本、警察とストーカーに見られた……」


「ばか!」


 軽く背中を叩かれたリリアンが水道の水で口をすすぎ、フラフラと部屋に戻る。

 部屋ではエリンが警察に事情を説明していた。 警察は大体の捜査を終えたらしい。


「調査は終りました。まあ、またなにかあったら通報してください」


 やけにアッサリとした対応で帰り支度を始める警察にアリエルが眉をひそめる。エリンも同様の感想を抱いたようで険しい顔つきをしていた。口元をぬぐったリリアンに一人の警察官が言う。


「昨日はクスリで今日はストーカーか。君も大変だね」


 まったく人ごとのような、むしろ半ば敵意さえ感じられる言葉にリリアンは苦笑だけを返しておいた。

 三人の警察官が去ったあと、エリンが腰に手を当てて少しだけ声を荒げる。


「なにあれ! やる気なさそうなだけならまだしも被害者に向ってあんな言い方!」


 アリエルも同様の感想を抱いたようでこちらは腕を組み低い声を出した。


「やる気無いってだけで問題でしょ! 昨日の事件、エクスタシー飲まされたのがボーモント議員のご子息だからそっちで忙しいのよ! 捜査したくないんだわ! やんなっちゃう!」


 怒る友人たちに苦笑を浮かべたリリアンはまだ多少散らかっている部屋の片付けに取りかかる。


「まあ、実際今日の午前中事情聴取行ったばっかりだしなぁ」


 アリエルとエリンもまだプリプリと怒りながら片付けを開始した。

 しばらくして、新しいゴミ袋を持ってきたエリンが申し訳なさそうな顔で言う。


「あのね、一応、フタの開いてる飲み物とかも処分しちゃったほうがいいと思うの。冷蔵庫の中も掃除しちゃおう」


 理由を想像したアリエルとリリアンは一瞬血の気が引いた。しかしそう言われるともう飲みかけのペットボトルなどは口をつける気になれず、リリアンとアリエルが部屋を片付け、エリンが冷蔵庫を掃除することになる。

 インターホンが鳴ったのはエリンが冷蔵庫に向った直後のことだ。

 現状が現状なだけに三人の表情が強ばったが、直後聞こえてきた知っている声に一同ほっと胸をなで下ろす。


「おーい! さっき警察きてたみたいだけど、なんかあったのか?」


 隣の借家に住んでいるハリーの声だった。

 エリンが急いで一階に下りていき、玄関の扉を開けると案の定ハリーが立っている。リリアンとエリンは階段を半分だけ下りて不安そうに様子を見ていた。

 ハリーが三人の顔を見て心配そうに首を傾げる。


「なにがあったんだ?」


 彼の質問にはエリンが答えた。


「リリーの部屋が荒らされちゃって、警察呼んだの。鍵を盗まれたらしくて」


「おっ、おいおい、それ大変じゃないか! 鍵付け替えてもらわないと!」


「さっき電話したわ。あと30分くらいで到着するって」


「それならよかった……リリアンは大丈夫か?」


 ハリーと目があったリリアンは笑って手を振ってみせた。リリアンの様子を見てため息をついたハリーがエリンに尋ねる。


「お邪魔していいかな? よければ僕らも手伝うよ」


 エリンがニコリと笑ってハリーを家の中へ促した。


「ありがとう。助かるわ」


「困ったときはお互い様だろ。他の奴らも呼ぶよ」


 どうやらエヴァンドロやドナも家の外に居たらしくハリーの後に続いて家に来た。最後に隆弘が入ってきて玄関を閉める。ハリーとドナは冷蔵庫の中身をゴミ袋に入れ始め、隆弘とエヴァンドロがリリアンの部屋に入ってきた。

 散らばった本をまとめて本棚にいれていたアリエルがエヴァンドロを手招きする。

 リリアンは隆弘に掃除機を渡し、自分は散らかった私物を拾い始めた。掃除機の音が響く中、リアンが床に落ちた毛布を拾い、たたむ。


「なんか私が部屋見たときにさ、知らないメルアドからメール来たんだよ。気持ち悪い奴。友だちにしかメルアド教えてないのに、どっから漏れたんだろ」


 アリエルが呆れたようにため息をついた。


「前提条件から友だちを疑ってないのが貴方の良いところだわリリアン。ところでそれ警察に話したの?」


「話した話した。ケータイも見せた。捨てアドだったからあんま意味ないけどな。あと友だちはさぁ、ほぼ女ばっかしなんだよ。あとはハリーたちくらいでさ。さすがにエヴァやらドナやらがこんなことするとは思えねぇよ私も」


 本を五冊ほどまとめて手に持っているエヴァンドロが笑った。


「んー、確かにねー! こんな面倒なことするくらいなら真正面から口説くよね!」


 今度は服をハンガーに掛け直してリリアンが笑う。


「酔わせてホテルに連れ込んでるって言わないお前が好きだぜエヴァ」


「え、気を使って言わなかった俺の本音がどうして解ったの!」


 アリエルがエヴァンドロの頭を軽く叩いた。

 掃除機をかけていた隆弘がパソコンに近づき、電源を確認している。掃除機の音が止まった。リリアンたちが何事かと隆弘を見ると、彼は落ち着き払った様子でリリアンを見る。


「てめぇ、帰ってきてからパソコンつけたか」


 彼の質問にリリアンは首を振る。


「いや、それどころじゃなかったし」


「でかける前に電源落してなかったっていうのは」


「今日はパソコン使ってねぇよ。っていうかなに、ついてんの? やだじゃあいつからついてんだよぉ!」


 電気代! と呟くリリアンを横目にアリエルとエヴァンドロは眉をしかめる。

 アリエルがパソコンを覗き込んだ。


「ちょっとそれ、部屋荒らしたやつがつけたってことじゃないの」


 エヴァンドロは呆れたようにリリアンを見た。


「っていうかなんでこの状況下で自分が電源落し忘れた可能性を真っ先に思い浮かべるの? ばかなの?」


 リリアンはしゅんと肩を落す。


「エヴァが珍しく辛辣すぎる」


 非難されたエヴァンドロがプイ、とリリアンから目を逸らした。


「自業自得だよ」


 隆弘はパソコンのスリープを解除し、通常のデスクトップが表示されているのを確認するとまたリリアンに尋ねる。


「お前、これパスワードついてねぇのか」


 私物ひろいを再開したリリアンが首を傾げた。


「えーだってほぼ私しか使わねぇし持ち歩くわけじゃないからよくね」


 隆弘が露骨に顔をしかめる。


「バカかてめぇ。今時観光客の日本人でももう少し危機管理能力があるぜ」


 リリアンは大げさに泣くまねをしてみせた。


「たっ、隆弘も辛辣でござる! いつものことでござる!」


 隆弘は相変わらず不機嫌そうな顔をしてリリアンを睨みつけた。


「パソコンのアドレス帳に自分の携帯のアドレス登録してあるんじゃあねぇのか」


「あ、うん。たまに使うから」


「馬鹿野郎」


「ひどいでござる」


 本を片付け終ったエヴァンドロがソファに座り、困ったような顔をする。


「あーどう考えてもそれが原因だね」


 掃除機かけを再開した隆弘が仏頂面で言い放つ。


「メルアド変更してパソコンにロックかけろ。鍵はどうやってバッグに入れてた」


「サイドポケットにいれてた。チャックついてるとこ」


「チャックがついてなかったらぶん殴ってた所だぜ。今度からベルでもつけとけ」


「そうするー」


 しばらくして業者が到着し、鍵の取り替えが完了した。ハリーが連絡した大家はまた騒ぎがあれば出ていってもらうと言ったそうだ。

 電話が終ったあと全員にその旨を伝えたハリーは苦笑して肩を竦める。


「まっ、よくある町と学生タウン&ガウンの確執ってやつさ。今すぐ追い出されないんだから気にすることじゃない」


 町と学生タウン&ガウンの確執はもともと大学側があらゆる特権を持ち、権力を強めていったことに由来する。オックスフォード大学というものができて700年は優に過ぎようというのに、この対立は未だひょんなことで頭をもたげるのが現状だ。

 学生が暮らしやすいよう格安の家賃を設定しているのも大学側からの要請である。家賃が高かった場合学生は裁判を起こせて、その場合ほぼ100%学生側の主張が認められる現状を面白くないと思う大家も多い。

 話を聞いたリリアンが困ったように笑い頭を掻いた。


「あー……まあ確かに、またあるかもしれねぇよな。うん」


 言って、彼女はいそいそと荷物を纏め始める。見とがめたアリエルが低い声を出す。


「リリー……なにしてるの?」


「今回は誰もいないときに荒らされたけど、今後私らの誰かが変態に遭遇しないともかぎらないし、今度は窓ガラス割ってでも侵入するかもしれない。そうなってここ追い出されるのは私だけじゃないだろ」


 エリンもリリアンの言い分を聞いて眉をひそめる。


「つまり、なにが言いたいのよ」


 リリアンが顔をあげ、ヘラリと笑う。


「カレッジに戻るよ。確か空き部屋あったと思うしさ。ダメだったら今日はホテルに泊まるし」


 彼女の言葉を聞いたアリエルがとうとう声を荒げた。


「今からいくの? もう暗いのに! 危ないじゃない!」


 リリアンは相変わらず笑みを浮かべている。


「さすがに友だち巻き込むのは遠慮してぇよ」


「そういうことじゃないわよ!」


 ドナが言い争いを見てオロオロとしている。エヴァンドロは困ったように苦笑し、隆弘は無言でやりとりを見ていた。ハリーが不機嫌そうな顔で頭を掻いたあとリリアンを睨みつける。


「あのさぁ、ここにいる全員君が一人でカレッジに帰るなんて許すわけないだろ?」


 乱暴な口調で反論されたリリアンは不満そうに口を尖らせた。


「でもさ、キモいメール来たの私が家に帰った直後だぜ。タイミング良すぎだよ。どっかで見てたのかもしんねぇし、まだ見てるかもしんねぇじゃん。まだ見てたらさ、今日また来るかもしんねぇじゃん。鍵つけかえたけど、窓ガラス割られて入られでもしたらさ。危ない目にあうの、私だけじゃねぇかもしれねぇよ」


「もしかして眠い? まだ見てるかもしれないってことは君が1人で出歩いてたら格好の餌食ってことじゃないか」


「むぅ」


「ここに居るのが不安だってんならカレッジにでもなんでも行けばいいけどさ。一人では行かせないよ。こっちの後味が悪すぎる。行くなら僕らのうちの誰かが送っていく」


「え、いいよ。悪いよ」


 隆弘はリリアンを凝視し、口を開いたが結局すぐに閉ざした。

 ハリーが盛大にため息をつき、天井を仰ぐ。彼は心底呆れたような声色で言葉を紡いだ。


「危ないって言ってるんだよ。1人でフラフラ出歩くなんて馬鹿のすることだ。疲れてるなら素直に今すぐ自分の部屋で寝たら? 友だちを巻き込みたくないっていうなら心配もかけないで欲しいね」


 吐き捨てるような言葉を聞いてリリアンがしゅんと肩を落す。女が黙り込んだのを確認した隆弘はリリアンの腕と彼女のまとめた荷物を掴んだ。

 アリエルが声をあげる。


「まっ、まって隆弘! カレッジに行っちゃうの?」


「いや。今から行ってもしょうがねぇだろ。だがこいつの言ったとおり女だけでいさせるってのも不安だからな。問題ねぇなら俺らの家で寝かせるぜ。こっちにも誰か一人泊まれば安心だろ。エヴァ、てめぇ泊まっても大丈夫か?」


 名前を呼ばれたエヴァが軽く手を振った。口元には笑みが浮かんでいる。


「大丈夫だよ~。じゃあリリアン、悪いけど今日は部屋借りるよ~。大丈夫。床で寝るからね~」


 隆弘に腕を掴まれたままのリリアンは状況がよくわかっていないようで、エヴァと隆弘を交互に見比べ、必死に首を横に振る。


「え、え、いいよ、悪いって。危ないし」


「あ?」


 隆弘が咥えていたタバコに歯を立てた。ブチリと音がして火の付いたタバコがフローリングに落ちる。ポケットからティッシュを取り出した隆弘は口元を拭いながらも目線はリリアンから外さない。彼女はビクリと肩を振わせ咄嗟に隆弘から逃げようとするも、服を掴む男の力が思いの外強く逃亡は失敗に終ってしまった。

 隆弘が低い声で唸る。


「これ以上ガキみてぇに駄々こねるんじゃあねぇ。誰もてめぇの眠たい意見なんざ許すわけねぇだろクソアマ」


 睨みつけられて再度肩を振わせたリリアンはこれ以上拒否しても無駄だと判断した。エヴァがこちらに泊まるというならアリエルとエリンも安全だろう。エヴァンドロにヒラヒラと手を振った。


「エヴァ! ごめん、泊まり頼むわ! 私のベッド使っていいぜ~!」


 エヴァンドロもリリアンに手を振り替えす。


「頼まれたよ! じゃあベッド使わせてもらうよ~! リリアンもベッド使ってね~」


 そのままリリアンが外に連れ出され、玄関が閉まった。引きずられるようにしていたリリアンが自分で歩き始め、隆弘の横に並ぶ。


「なんか悪いな。迷惑かけてばっかで」


 隆弘が新しくタバコを取り出し、火をつける。リリアンからふいと目を逸らして言った。


「一人で動かれるほうがよっぽど迷惑だぜクソアマ」


 彼の言葉にリリアンは


「ぶっきらぼうだなお前」


 と言って笑う。

 隆弘は目線を会わせないまま少し穏やかな口調で


「うるせぇ、手間ぁかけさせやがって」


 と呟いたのだった。

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