第1話 クラブで友達と飲んでたら突然人がブッ倒れた件

 黒服を着たゴツい男に学生証を見せて3ポンドを払うとナイトクラブ『オーバーチュア』に入れる。荷物を預けるためには1アイテムにつき1ポンドなので荷物は少なめが必須条件だ。できればコートも羽織らないほうがいい。リリアンは必要最低限のものが入ったポシェットを肩にかけ直してまずはカウンターに向かう。

 途中彼女連れの男がリリアンの姿を見て口笛を吹き、連れの女に肘で小突かれていた。強めの攻撃だったらしく男が微かに仰け反る。

 リリアンの金髪は薄暗いナイトクラブの中でもキラキラと光り、金糸で作りあげた装飾のようだ。大粒のエメラルドをはめ込んだような目は長い睫に覆われており、贅沢な宝飾品を思わせる。透き通るように白い肌と長い手足、ふくよかな胸を持つ姿はその手の趣味を持った人間が愛好する球体関節人形を思わせた。人が欲望のまま描いた『美しい女』をそのまま体現させたような容姿をしている。肩をむき出しにした黒のミニドレスが体のラインを強調し、恵まれた容姿と相まって性的職業を連想させた。

 実際彼女の職業を勘違いした数人の男がリリアンに声をかけ、彼女はそれを笑顔で躱しながらカウンターまで歩いて行く。バーボンを一杯とスライスチーズを注文したリリアンはまた仕事を頼もうとする男たちの誘いを笑顔で断り、今度は数人の男女が集まるテーブルまでまっすぐ歩いて行った。集まった内の1人、赤みがかった金髪の女性がリリアンに気付き、片手をあげて合図を送る。


「リリー! こっちこっち!」


 友人の声を聞いた途端、男の誘いを断るため穏やかな笑みを浮かべていたリリアンがにっと歯を見せて笑った。


「わーってるよ! せかすなせかすな!」


 薄暗いダンスホールを色とりどりのライトがグルグルまわっている。酒とタバコと化粧と食べ物のニオイが混じり合い、人の熱気に満ちた空間はお世辞にも過ごしやすいとは言えないが、人の気分を高揚させた。大音量で流れているアップテンポなダンス・ポップも原因の一つかもしれない。

 理性も平衡感覚も狂いそうな中テーブルに辿り着いたリリアンを友人たちは笑って出迎えた。先ほど声を上げた女性――エリンがビールを片手に持ったままリリアンを肘で軽くつつく。


「遅刻よ! なにしてたの?」


「夏に買ったホモ本読んでたの」


 途端エリンの表情が呆れたものに変った。


「聞かなきゃ良かった」


 反対隣にいた黒髪の男、ハリーは芝居がかった様子で肩を竦める。


「わかりきった答えだろ」


 金髪の眠そうな表情をしたフランス人、ドナが腕時計を見ながら首を傾げた。


「あと誰が来てない?」


 楽しそうにニコニコ笑っている赤髪のイタリア人男、エヴァンドロがドナの肩に寄りかかりながらやはり笑って答える。


「隆弘がきてないけど、さきにやっててくれっていってたよ!」


 ビールを小さなテーブルに置き、ポシェットの中を漁り始めたリリアンがエヴァンドロを見る。


「それはなんだエヴァ、ホモなの?」


「うーん、違うなー! 俺は女の子のほうが好きだなー!」


 エヴァンドロに寄りかかられたままのドナが呆れたように目を細めた。


「これだから腐女子は」


 リリアンがポシェットから15g入りの胡椒を取りだし、スライスチーズにかけ始める。チーズの表面が真っ黒になったところで黒髪の黒人女性――アリエルがリリアンの手を掴んだ。


「絶対体に悪いからそれ以上はやめときなよ」


 リリアンが口を尖らせてアリエルを見る。


「止めないでー! 味が薄いと死んじゃう病気なのー!」


「治せ。あんたそれでも医学専攻か」


「やーだーぁ! ストレスになりますぅー!」


 エリンがポン、とアリエルの肩を叩いた。


「まあまあ、それより乾杯しようか」


 全員が飲み物を持ち上げ、ハリーが口を開く。


「じゃあこのメンバーのプリリズム突破を祝して」


 リリアンが自分のジョッキを軽く振った。


「私は夏コミの新刊完売を祝したいぜ」


 アリエルが呆れた様にため息をつく。


「試験が終った翌日私とエリンにトーン張りさせたのよこいつ。休暇はギリギリまで日本で遊んでたみたいだし。これで成績優秀者スコラーなんだから嫌になるわよね」


 彼らは全員オックスフォード大学の学生だ。去年受けた進級試験プリリズムの結果が出たので、オックスフォードに戻ってきたのを機にこうして祝賀会を開いている。全員無事進級できた彼らの顔には始終笑顔が浮かんでいた。

 ハリーが眉をしかめる。


「乾杯の音頭くらいまともに取らせてくれ、リリー」


 愛称で呼ばれたリリアンが声をあげて笑い、


「さーせーん」


 と言った。

 その間にエヴァンドロがジョッキを持ったままカウンターを見る。ただでさえ騒がしい店内でさらに騒がしい一角があった。女性ばかりが集まる場所に視線をやると彼は笑顔でジョッキを持つ手を掲げる。


「よぉー! 我らがミスターロメオー!」


 女性ばかりの人だかりから頭二つ分ほど飛び出た男が歩いてきた。右手にビールのジョッキを持ち、不機嫌そうに眉をひそめている。


「その呼び方やめろ」


 男は腕に絡みつく女の腕を振り払い、低い声で吐き捨てた。195cmあるらしい体躯は見事な逆三角形を描き、服の上からでも鍛え上げられていることがよくわかる。彫りの深い顔立ちと太い眉もあいまって非常に男くさい体格だが切れ長の瞳を覆う睫毛はとても長い。薄く色づいた唇とともに見る人間へ中性的な印象を与えた。見事な黒髪と深い緑に囲まれた湖のようなコバルトグリーンの瞳が彼を東洋と西洋の血が混じったハーフだと教えてくれる。古代ギリシアの彫刻がそのまま動きだしたような男だ。

 整った顔立ちの男がエヴァンドロを不機嫌そうに睨む。睨まれた当人は笑ったまま肩を竦めただけだった。

 名を西野隆弘というこの男は名前と印象の通り日本人とイギリス人のハーフで、父親は日本の複合企業社長、母親はイギリス人貴族の娘という今時漫画でも出てこないような典型的御曹司である。

 恵まれた体躯と容姿、ついでに非常に恵まれた家庭環境のため色男ロメオというあだ名がつくほど女性にモテるが本人は至ってストイック。むしろ言い寄る女性を鬱陶しいと一蹴するほどだった。そのため彼はあだ名で呼ばれることを酷く嫌う。言い寄る女性たちを振り払ってテーブルへ歩いてきた隆弘は眉をひそめてビールジョッキをテーブルに置いた。


「まだ指定図書一冊も読み終わってねぇんだよ。手間ぁかけさせやがって」


 彼の言葉にハリーが苦笑する。


「それ昨日言われたばっかりのやつだろ。むしろ一冊でも読み終わってたら正気を疑うね」


 言われた隆弘がニヤリと笑った。不機嫌そうな表情で吐き捨てたものの彼とて人付き合いが嫌いなわけではないのだ。

 エリンが男2人のやりとりを見て笑い、ジョッキを掲げる。


「じゃあ、成績優秀者スコラーが2人とも揃ったことだし、今度こそ乾杯しましょう!」


 全員がジョッキを手に持ち、狭いテーブルを挟んでお互いの目を見た。ハリーがワザとらしく咳払いをしたあと、先ほど言ったのとまったく同じ言葉を言う。


「じゃあこのメンバーのプリリズム突破を祝して、乾杯チアーズ!」


 ガシャン、とガラス同士のぶつかる音がしてビールの飛沫が飛び散った。全員がジョッキに口をつけ喉を潤すと再び談笑が始まる。気が向いたら数人踊りに行きもするが、休暇が終り友人同士久しぶりにゆっくり話せるとあって大体が互いの近況報告に費やされた。

 隆弘がポケットからタバコを取りだし口にくわえる。彼がタバコに火を付けている間にエヴァンドロがクイ、と彼の袖を引っ張った。


「なあ、あれミック・カーシュじゃねえの。セント・キャッツに住んでる」


「あ?」


 タバコの煙を吐き出した隆弘がエヴァンドロの視線を追う。リリアンもタバコを取りだし、同じようにエヴァンドロの視線を追った。ダンスフロワのすみに自分たち同様テーブルに集まっている集団がいる。尤も踊っていない連中はほとんど同じようにテーブルを囲んでいるから別段珍しいわけでもない。

 横で話を聞いていたエリンがヒョコリと顔を覗かせる。


「講師に気に入られてる人でしょ? ミュージシャン志望だっけ。『ハウス』の卒業生なのになんでキャッツなんだろうねぇ」


 『ハウス』とはオックスフォード大学のカレッジであるクライストチャーチの呼び名だ。オックスフォードには他にもたくさんのカレッジがあり、リリアンたちはオリオルカレッジに所属している。学寮でもあり学舎でもあるカレッジには教師も生徒同様に所属し、大体の学科は教師の所属するカレッジで授業を受ける。セント・キャッツもカレッジのひとつである。ハウスとオリオルは年代物の建物でどちらも煉瓦造りの中世を思わせる外見をしていた。オックスフォードの建物は大半が中世時代のまま取り残されたような見かけをしていて観光の要にもなっている。一方セント・キャッツは1962年にデンマークのユダヤ人建築家が設計した建物で近未来的な装いをしていた。つくられた当初は賛否が分かれたものの現在はそれ相応の評価を得ている。そんな外見だからなのかたまたまなのかリリアンたちはセント・キャッツに『変人が多い』という印象を持っていた。

 隆弘がテーブルに視線を向けたまま、さも興味がないと言いたげな声を出す。


「ルセックの野郎『芸術家の卵』が大層お好きみてぇだからな。スペンサーマニアだし、自分もスペンサーみたいな奴のパトロンになりてぇんじゃあねぇのか」


 ルセックはセント・キャッツに所属する英国文学の講師だ。

 ビールを飲んでいたドナが呆れたようにため息をつく。


「隆弘、君さっきスペンサーファン全員を敵に回したぞ」


「フン、別にスペンサー自体をバカにしたわけじゃあねぇさ」


 隆弘がまたタバコを咥える。

 彼が視線を向けたテーブルでは金髪に編み込みをいれた青い目の男が仲間たちと笑いあっていた。その中に小太りで気の弱そうな男がいる。決して背が低いわけではないのだが背中を丸めているため本来より小さく見えた。

 ダンスフロワの中央から帰ってきたハリーがリリアンたちの視線に気づき同じ方向を見る。


「あー、ミック・カーシュと『ハウス』のジャッキー・ボーモントじゃないか。ボーモント議員のご子息様があんなガラの悪い奴らと絡んでていいのかね」


 タバコをくわえたままの隆弘が目を細めた。


「……まあ、いよいよヤバくなったら逃げるなり叫ぶなりするんじゃあねぇのか?」


「そんなんできるタマかなぁ」


 ハリーが首を傾げた。リリアンは話を聞き流してタバコを咥える。隆弘は相変わらずミックとジャッキーに視線を向けていた。タバコの灰が長くなっている。もう少しで自然に落ちそうだ。リリアンもミックとジャッキーを見る。ジャッキーのほうはずいぶん顔が赤いようだ。そのわりに汗はかいていない。暗くてよく見えないが会話をしていても相手に目線がいっていないような気がする。

 少し様子がおかしいんじゃないのか

 リリアンがジャッキーの様子をよく見ようとした時、横に立っていた隆弘が叫んだ。


「おい! ジャッキーっ!」


 小太りの男がグラリと傾きそのまま仰向きに倒れる。頭を打ちそうになるところを駆け寄る隆弘が受け止めた。先ほどまで男と会話をしていたミックは茫然と目の前の出来事を眺めているだけだ。隆弘がジャッキーをダンスフロワの隅に寝かせたと同時にリリアンが駆け寄った。


「隆弘! そいつ意識戻らねぇのか!」


 タバコを咥えたままの隆弘がジャッキーを煙から守るように一歩離れ、駆け寄ってきたリリアンに向かって携帯灰皿を差し出してきた。リリアンは咥えていたタバコをその中に落す。

 意識を失っているジャッキーの肌は多少赤く、触ってみると熱かった。やはり汗はかいておらず高体温症が疑われる。

 今まで騒がしかったフロワから人のざわめきが消え音楽だけがかかっていた。不安そうにジャッキーの様子をみる野次馬の中からエリンが近づいてくるのを確認し、リリアンは彼女に視線をあわせる。


「エリン、救急車呼んできてくれ!」


 駆け寄ってきたエリンはコクリと頷く。


「わかったわ! あとはどうすればいい?」


「保冷剤かなんか持ってきてくれ! あるだけ! タオルかなんかまいてな! あと水! できれば霧吹きみたいなのに入れて!」


「わかった! アリエル、ちょっと来て!」


 エリンがアリエルの腕を掴み、人混みを掻き分けてカウンターへと向かった。彼女たちがカウンターへ行っている間にリリアンはジャッキーの衣服をできるだけ緩める。まずネクタイを外し、シャツのボタンを第三まで外す。ベルトも取り払ってズボンのボタンを外しチャックをあけた。胸元も随分と赤らんでいるようだ。意識がないのでここで水分補給してやることができない。気管に入る可能性がある。

 しばらくするとアリエルがタオルにくるんだ保冷剤と霧吹きに入れた水を持ってかけてきた。


「霧吹き観葉植物にかける用みたいだけど大丈夫!?」


 保冷剤を受け取ったリリアンはまずひとつを首の前頚部へとあてがい、霧吹きを受け取った。


「ああ、あっただけ上出来だよ、サンキュー」


 友人に礼を言ったリリアンは残りの保冷剤をジャッキーの脇の下と足の付け根へあてがい、大静脈から体を冷やす。霧吹きで細かい水滴を体につけ表面からもできるだけ熱を取った。あとは救急車を待つだけだ。このまま意識が戻らないようなら水分補給は点滴でやってもらうしかない。

 このジャッキーという男が夜のダンスフロワで高体温症になった理由は大体察しが付いている。いくら熱気に溢れているとはいえ、ナイトクラブで自然に過ごしていて高体温症になることなどありえない。となれば体温コントロール機能が障害を起したのだ。テーブルの上を確認すると色とりどりの錠剤がジッパーのついたビニール袋に入って放置されたままだった。いくつかの錠剤が袋からでたままになっている。自主的か無理やりかは解らないがジャッキーはこれを服用したのだろう。

 リリアンが周囲を見渡し、いたはずのミックと彼の友人たちが見あたらないことに気づいた。リリアンの横に立っていたはずの隆弘が人混みの向う側にいる。背が高いので非常に目立った。


「おい」


 隆弘が入り口に立ちふさがるようにして誰かに声をかけている。リリアンが立ち上がって様子をみると金髪の編み込みが見えた。ミックと友人達がいつのまにか人混みを掻き分けて避難していたらしい。隆弘が声をかけなければそのまま逃げられていただろう。


「ダチがあんなことになってるってぇのに、てめぇらそのままトンズラする気か?」


 タバコを咥えた隆弘が男たちを睨む。道をふさがれたミックたちは焦ったように目配せしあい隆弘を避けるようにして少しずつ距離を取った。そのままじわじわと彼を避けて出入り口へ行こうとする。


「い、いやぁ、きゅ、救急車がさ……来たら、すぐ、誘導できるようにさ……」


 男たちの言葉を聞いて隆弘が鼻で笑ってみせた。


「そうかい。だが俺のダチがもう行ってるぜ。安心してジャッキーの傍にいてやりな……そのうち、警察もくるだろうぜ」


 ピクリとミックの肩が揺れる。なにやら張り詰めた雰囲気が流れているようだ。ミックたちは再び目配せをしあい、もう一度隆弘のほうを睨み付ける。

 そして、駆け出した。

 隆弘を押しのけてでも逃げるつもりのようだ。数人の男に突進された隆弘が咥えたタバコに歯を立てる。ブチリと音がして火の付いたタバコが床に落ちた。彼はポケットからティッシュをとりだして口元を拭うと、突進してきた男たちの足をすくうように蹴り飛ばした。バタン、と大きな音を立ててミックが倒れる。彼が痛みに呻いている間に隆弘の足がミックの腹に乗った。


「手間ぁかけさせやがって」


 足に力を込められたミックが咳き込むように呻く。そのまま腹を踏みつけられたミックはぐったりと脱力して動かなくなった。男が気絶したことを確認し、隆弘は近くにいた友人2人に視線をやる。


「エヴァ、ドナ、他の奴らも大人しくさせとけ」


 言われたエヴァンドロとドナがバタバタとかけてきて呻いている足下の男たちを蹴り飛ばした。

 エヴァンドロがへらへらと笑い、もう1人蹴り飛ばす。


「わーってるわーってるよぉ!」


 横でドナが自分の上着をねじり上げて呻く男の腕を縛り上げた。


「服がシワになるよ。これどうすんの」


「もうどうにでもなぁれ!」


「エヴァウザい」


「わぁお!」


 入り口からハリーが顔を出し、パタパタと手を振る。


「救急車きたぞ! 警察も!」


 隆弘が噛みちぎってしまったタバコの変わりを取りだし、火を付ける。それを一口楽しんでから彼はニヤリと人の悪い笑みを浮かべてみせた。


「おう。じゃあ引き渡すか。病人も、悪人もな」

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