一限目

オレ達は学校を出て右手にあるまっすぐに伸びた砂利道を歩いていた。

奥にはオレ達が寝泊まりするための宿舎が見えていて、そこまでの道のりを仰々しいフェンスと黒々と生い茂った木々が囲んでいる。

オレ達を先導するロボット兵士は見た目も人間そのもので、どこか薄ら寒いものを感じさせる。

オレは、今ここにはいない草壁の言っていたことを思い出していた。


『今夜、君達の中から二人の人間を『ワルプルギスの夜』へご招待します。お察しの通り、その二人がこの殺人学園における犯人役と相成る訳です。あ、ご心配なさらず。顔と身長を隠す服はこちらでご用意させてもらいますので、ご希望の際は係の者にお申し付けください。宿舎にはそれぞれ個室を用意しましたが、当然ながら夜は外出禁止です。犯人役の方は我々がお迎えに上がりますので、心を弾ませながらお待ちください』


草壁はそう言って、薄気味悪い笑みを浮かべた。


『それではみなさん。今宵は、くれぐれもノックの音にご注意を』


オレは思わず歯噛みした。

あいつはこの状況を楽しんでいる。

狩られる側だった人間が狩る側に変わり、快感を得ているのだ。

たとえ生き残ったとしても、オレは絶対あんな奴のようにはならない。

そんなことを固く誓った時だった。


「耕ちゃん」


砂利道を歩いている最中(さなか)、清羅がオレの側へ寄って来た。


「……ごめんね、耕ちゃん。こんなことに巻き込んで」

「それは言いっこなしだろ」


清羅には、子供の頃からずっと世話になっていた。

放任主義の両親のせいで餓死寸前だった時、異変を察知して自宅で倒れているオレを最初に見つけてくれたのは清羅だった。

施設に入ったことで、クラスメートどころか教師からも執拗な嫌がらせを受けるオレを、ずっと支えて励ましてくれたのは彼女だった。

反抗的な態度を敢えて晒すことで自分を守れるようになるまで、オレを守ってくれていたのはずっと彼女だった。

だからこそ、オレは彼女を守ってここに来たことをまったく後悔していなかった。

もしも後悔するとしたら、それはきっと────

そこまで考えて、オレはその最悪の未来を振り払った。


◇◇◇


宿舎はなかなか広く快適な作りだった。

ロビーには柔らかいソファが鎮座し、六十インチはある液晶テレビがどっしりと構えている。

フロントの地図を見たところ、食堂や娯楽室、トレーニングルームに図書室など、至れり尽くせりな部屋が目白押しだ。当然、草壁が言っていた人数分の個室もある。


「……とりあえず、先に自室を確認しておこうよ。何か不備があっても困るし」


如月の言葉に、全員が無言で返した。

それだけ疲れているということもあるだろうが、何より敵となるかもしれない人間を相手に仲良くはできない。どう足掻いても、オレ達は殺し合わなければならない運命にあるのだから。


「じゃあ、ひとまずは解散だな。三十分くらいしたら食堂に集まろう」


オレの提案に、津川は露骨に眉をひそめた。


「何のためにだ? 殺し合いをする前に、全員で仲良く親睦でも深めるか?」

「ちょっと。そういう言い方やめてよ」


前嶋の注意もどこ吹く風で、津川は鼻を鳴らしている。


「……言いたいことは分かるが、今後どうなるにせよ協力関係を作っておくことは悪いことじゃないだろ。探偵役になっても、犯人役になってもだ」


犯人役は二人いる。ということはつまり、犯人役同士でも何らかの協力ができる可能性があるということだ。殺人はあくまでも一対一を想定したものだろうが、それでも一人じゃできないことだってある。

それになにより、この緊迫した状況をたった一人で処理し切るには、未成年であるオレ達には荷が重すぎた。

そんな事情を分かってか、結局津川を含めた全員がオレの提案を受け入れてくれた。


個室のある二階へ行くと、ずらりと並ぶ部屋がオレ達を出迎えた。

それぞれのドアにはネームプレートが掲げられており、その取っ手付近には指紋認証のための装置が備え付けられている。

オレは自分の名前のネームプレートが掛かっているドアを見つけると、指紋認証装置に手を翳した。地面に平行した直線の光が上から下へ移動し、取っ手の側にある小さなランプが緑に光る。

スラム暮らしのオレからすれば、まるで近未来SFの世界だった。


「それじゃあ耕ちゃん。また後で」


各々が部屋へ入って行く際、清羅はそう言ってオレに微笑みかける。

オレは小さく頷くと、自分の部屋のドアを開けた。

中は宿舎の内装とは打って変わって、殺風景で小ぢんまりした部屋だった。家具はベッドと机程度だ。その中で唯一ものを出し入れできるのが、ドア側の壁に埋め込まれる形で作られたスライド式のトレイだった。あまり見ない形式のもので奇妙には感じたが、何かを出し入れできる以外に用途はなさそうだ。

奥にある小さな窓からは景色を眺めることもできず、隅にある扉の奥は小さなトイレになっており、浴室すらそこにはない。

数週間ほど刑務所で暮らしていた身からすれば快適と言ってもいいのかもしれないが、それでも宿舎内と比べればずいぶんとグレードが下がる。そのギャップのせいか、刑務所の方がマシだったのではないかと思ってしまう。


机の上にはビニールの衣装カバーに入った学生服があり、机の対面の壁には、学園生活における簡単な注意書きが張られてあった。

オレはそれを目で追いつつ、椅子に座る。

基本的には何の変哲もないただの注意書きだ。しかしざっと目を通すと、公共の文書とは思えない異常な言葉が目に留まる。

殺人、ゲーム、探偵、犯人。

日常生活の中では、会話の中でさえ使われない単語の数々だ。

しかし、今更そんなことを気にしても仕方がない。オレはさっさと注意書きに目を通すことにした。

注意書きには以下のことが書かれてあった。


まず第一に、これは殺人ゲームである前に学校であること。

つまり平日は学校に通うことになり、放課後と休日は自由行動が許される。しかしどんな理由があろうと学校区域外へと続くフェンスは超えてはならない。


おそらくはセンサーか何かが張り巡らされているだろうし、ばれれば即射殺だろう。

脱出は不可能。そう考えておいて間違いはない。


そして第二に、学校生活以外でも生徒を縛る時間があること。

具体的に言えば、朝昼晩の食事の時間だ。

食事は常に食堂で、生徒が全員集合してからとることを義務づけられている。平日であるなら朝八時に宿舎、十三時に学校、夜八時に宿舎といった具合で、休日は全て宿舎で平日と同じ時間に集合することが決まり事となっていた。


「……嫌でも生徒同士でコミュニケーションをとらせようってわけか」


情が湧いて殺せなくなることを忌避し一人になろうと思っても、最低限は共に生活をしなければならないというわけだ。おそらく、これが草壁の言っていた“幸福な日常”というものなのだろう。

そして食事以外に生徒を縛る時間帯がもう一つ。夜十一時から朝六時の間。

この時間は、生徒は原則として必ず自室にいなければならない。

例外は初夜に行われる『ワルプルギスの夜』のみで、それも犯人役しか外出してはならないことになっている。

これは探偵役に犯人役が『ワルプルギスの夜』へ行く様子を目撃されないための予防策だろう。そしておそらく……

オレはちらと壁に埋め込まれたトレイに目をやり、しかしすぐに首を振った。

無意味な妄想をかき立てても仕方がない。必要な説明があれば、また草壁が何か言ってくるだろう。


後は他の生徒の部屋には入ってはいけないというルールや、毎朝八時の食事時に清掃が行われ、部屋にあるゴミは全て片づけられるなどといった細かなルールが書かれてあった。

それら全てを読み終えると、オレはベッドの隅に転がっていたツインベルの目覚まし時計を見た。

そろそろ夜の八時。ここに来て最初の食事の時間だ。しばらくしたら食堂に集まろうと約束してあったのでちょうどいい。

そこでふと、机に置いてある学生服に目をやり、自分の囚人服に視線を落とした。


「……こんな服よりはマシか」


オレはさっさとその制服に着替えて、自分の部屋をあとにした。


◇◇◇


食堂には既に全員が集まっていた。

まるで示し合わせたかのように、全員が制服姿だ。ずっと囚人服姿では窮屈だというのは、全員共通の思いだったらしい。

皆中央にある横長のテーブルに集まって座っているが、津川とユリアはそれぞれ別のテーブルを陣取っている。

前嶋が頬杖をついた状態でちらとこちらを見た。


「遅い」

「悪い」

「テンポ良く返せばチャラになるルールなんてないわよ」


オレは肩をすくめてみせる。

しかしそうは言っても、まだ八時まで五分はある。そんなに遅いとも思えなかったが、それだけ他の皆が早くから集合していたのだろうと一人で納得した。

確かに、あんな窮屈なだけの何もない部屋にいるくらいなら、少しでも早く食堂に行って他の皆を待っていた方がマシだろう。

オレが席についてしばらくすると、中央にある古ぼけた振り子時計からウズボン打ちの報時が聞こえてきた。

するとまるで計ったかのようにロボット兵士が顔を出し、オレ達が全員揃っているのを確認すると、キッチンからサービスワゴンを運んできた。ワゴンの上には上品な野菜のジュレやら分厚いステーキやら、豪勢な食事が並べられている。

それを見て、思わず目を丸くする人間も少なくなかった。


「……まるでホテルにでも来たみたいだね」


頬を掻きながら、如月が苦笑する。

こんな食事とは縁のなかったオレにとっては、多少こそばゆい気がしないでもない。


早速ご相伴にあずかることとなり、オレ達は思い思いに食事を口に運んだ。

その食事は、オレが今まで食べてきたどんなものよりもうまかった。世に言う金持ちは毎日こんなものを食べているのかと思うと、世の不条理を嘆かざるを得ない。


「味はまあまあですわね」


当たり前のようにそう言ってのけるユリアに、一瞬だけ妬みの視線が集中したのは言うまでもない。


食事は文句なく最高で、自室以外は快適と言っても申し分がない。

こちらを監視する兵士は気になったが、それでも草壁のように何かちょっかいを出してくることもない。

死刑囚への待遇としては、まさしく最高峰と言っても過言ではないだろう。

しかしそれでありながら、食事をしている間、ほとんど誰も喋らなかった。

前嶋のようにどこかイライラした様子を見せる者もいれば、あっけらかんとあくびしている涼音のようなマイペースな奴もいる。

清羅を見ると、彼女はいつも通りの様子で、食事を楽しんでいた。


彼女は優しく穏やかな性格に隠れがちだが、その芯はオレなんかよりも遥かに強い。

清羅に関して、オレが心配することなど何もないだろう。問題は……むしろオレ自身にあるのかもしれない。

ふと自分の手を見ると、かすかに震えているのが分かった。

そう。オレは恐れていた。

誰かを殺すことや、殺されることがじゃない。

清羅と殺し合わなければならないかもしれない。

ただそれだけが、オレにとっての恐怖だった。


◇◇◇


宿舎の一階フロアにある大浴場で疲れを癒し、オレは自室のベッドで横になっていた。

オレの身を包んでいるのは変わらず学生服だ。脱衣所に用意されていた服の替えは、芸もなくまったく同じ柄の学生服のみだった。

妙なところで気が利かないのは、草壁の陰湿な嫌がらせなのだろうかと勘繰りたくなる。


しばらくそのままの態勢で寝転がっていると、突然ドアから電子音が聞こえた。

目覚まし時計を見ると、ちょうど夜十一時を過ぎたところだった。

おそらく、勝手にロックが掛かったのだろう。部屋の主であろうと、朝の六時になるまではロックを解除できない仕組みなのだ。

……いや。今日に限り、その前提は覆される。

もしもオレが犯人役なのだとしたら……。


オレは布団を頭から被り、目を瞑った。

ドアから背を向け、寝返りを打つこともなくじっとする。

時計の針が動く音だけが部屋の中で木霊する。

肌寒い風がどこからともなく現れて、オレの体温を奪っていく。


ふいに、誰かの気配を感じた。

ドアの前で、じっと息を潜んで立っている。そんな気配だ。

オレはごくりと息を飲んだ。

心臓が高鳴り始める。

今この瞬間、ドアがノックされれば、オレは犯人役となる。未だゲームの全容が掴めていないとはいえ、直接人を殺さなければならない役だ。

本音を言えば、それは避けたかった。人殺しなんて、できるのならやりたくなんてない。

来るのか? 来ないのか?

何度考えたか分からないこの二つの問いを、永遠かと思われるほどの時間の中で繰り返す。

オレはハッとした。

部屋にある小さな窓から、日の光が差しこんでいた。

結局、オレの部屋がノックされることはなかった。


◇◇◇


「あ、神城じゃん」


部屋を出たオレは、ばったり前嶋と出会った。


「よぉ」


軽く挨拶を交わし、自然と一緒に食堂へ向かう。

わざわざ覗き込まなくても分かる。彼女の目の下には、うっすらと隈があった。


「眠れた?」

「いや、あんまり」


素直にそう言うと、彼女はどこかほっとしたように息をついた。


「アタシも。別にびびってたわけじゃないんだけど。……って、そんなこと言うと余計びびってるっぽい?」

「……別にいいんじゃないか? こんな状況じゃ、誰だってそうなる」

「んー、まあそうかもね」


少しだけ沈黙があった。


「……ノック、きた?」

「いいや」


露骨に安心する前嶋を見て、オレは苦笑する。


「言っとくが、ノックがきたとしてもそれを言う奴は絶対いないぞ」

「へ? なんで?」


彼女はきょとんとしている。

どうやら本気で分かっていないらしい。


「自分が犯人役だって名乗り出て、そいつに何かメリットがあると思うか?」

「……ない、かな?」

「かな? じゃなくて、ないんだよ」


前嶋は赤くなった。


「う、うっさいなぁ。馬鹿なんだから、ちゃんと言ってくれないとわかんないの」


照れ隠しなのか、自分の毛先をくるくると指に巻いてみせる。

外見とは裏腹に、けっこう純粋な子なのかもしれないなと、オレは思った。



食堂に着くと、既に何人かは席についていた。津川にユリア、それに涼音と清羅だ。


「おはよう、耕ちゃん」


清羅に挨拶を交わし、オレも席に座る。

ふと顔を上げると、彼女は未だにっこりと笑ったままこちらを見つめていた。


「どうして前嶋さんと一緒なのかな?」

「さっきそこで会ったんだ」

「へー。たまたま偶然、食堂に来るまでのちょっとの時間でばったり会ったんだ」


“たまたま”と“偶然”に強いアクセントを置いた、奇妙な喋り方だった。


「そうそう! アタシさっきまでちょっとブルー入ってたんだけどさ。神城に話聞いてもらって、なんかすっきりした」

「仲良しなんだね」


彼女はにっこりと笑っている。

オレは、なんとなくぞっとするものを感じた。


「……あのな、清羅。別に示し合わせたわけじゃないし、本当に偶然なんだ。何も特別な感情なんて持ってない。なぁ、前嶋?」

「特別……?」


途端、前嶋はぼっと顔を真っ赤にし、慌てて首を振った。


「ア、アタシ別にそんな風に思ってないよ!? マジマジ!」

「……前嶋。頼むから挙動不審にならないでくれ。余計怪しまれる」


どうやら、彼女の純真さが丸々裏目に出てしまったらしい。

しばらく押し門答が続いたものの、二人掛かりで説得することでようやく清羅は折れてくれた。

朝っぱらからどっと疲れるハメになった。

椅子に凭れ掛かりながら、オレは改めてここにいる面々を見回した。


津川は着崩した制服姿で足を組み、ユリアは一足先に紅茶とケーキを堪能しており、涼音は机に突っ伏して熟睡していた。

三者三様の在り方だが、共通するのは、この三人に精神的疲労が見られないという点だった。

自分がどの役になろうと勝ち残れるという絶対的な自信が窺える。それを頼もしいと思う反面、敵になればそれだけ脅威になるという事実は、厳粛に受け止めなければならないだろう。


しばらくすると、残りのメンバーがやって来た。

如月は昨夜とは打って変わって明るい様子で、鳥江もどこか肩の荷が下りた感じだ。

第一印象では、誰も犯人役になんて指名されていないように思える。

しかしこの中には、確実に二人、犯人役に指名された人間がいるはずだ。そしてその人物は、それを悟られることが致命傷に繋がることを知っていて、敢えて隠している。犯人役が誰にせよ、それなりに肝が据わった人物であることは確かだった。


八時になり、朝食が運ばれてきた。

ここに来て二回目の食事だ。朝ということもあって幾分かマイルドなメニューだが、漂う高級感は隠しきれていない。


「それじゃあいただきましょう」


鳥江がにこやかに手を合わせ、皆もそれに倣ってから食べ始める。

その隣で、涼音は大きくあくびをした。


「私、まだ眠い~」

「あ、涼音さん! うとうとしたままスープを飲んだらやけどしちゃいます!」


鳥江は慌てて涼音のスプーンを受け取ると、ふぅふぅと冷ましてからゆっくり彼女の口にいれてやった。ほとんど目を瞑った状態の彼女は、むにゃむにゃ言いながらもそれに従っている。


「上手ですね~。はい、じゃあ次はお野菜を食べましょうか」


鳥江はナイフで一口サイズに切った野菜をフォークで刺し、涼音の口まで運んでやっている。

そのやり取りを見て、オレは自然と質問していた。


「鳥江は兄弟とかいるのか?」

「え、私ですか? 別にいませんけど……」

「そうなのか。面倒見がいいから、てっきり手の掛かる弟か妹がいるのかと思ったんだが」


鳥江はそれを聞いて、大慌てで首を振った。


「そそ、そんなことありませんよ。子供は好きだし、誰かのお世話をするのも好きですけど、私ってかなりドジですし」

「へぇ。見えないな。涼音と並んでいるところを見ると、しっかりもののお姉さんって感じだ」


鳥江の笑顔が、みるみるうちにとろけていった。


「や、やだなぁ。お姉さんだなんて。ほんのちょっと……ほんのちょっとしっかりしてるだけですよ。えへへへ」


……さっき自分でドジだと言ってなかったか?

どうやら、褒められると図に乗るタイプらしい。

その時一際大きな空咳が聞こえ、オレの足に激痛が走った。

横に座っていた清羅がふくれっ面でオレの足を抓っているのは、見なくても理解できた。


昨日までとは打って変わって、他愛のない雑談で食堂は賑やかだった。

今まで張りつめていたものが、自分が探偵役だと分かったことで緩んだのだろう。

どれだけの期間をこの場所で過ごすのかは分からないが、ずっと辛気臭く塞ぎこんでいるよりはマシだと、皆が思った結果なのかもしれない。


「やっぱりここのごはんはおいしいですねー。意外と快適でびっくりです」

「遊び道具も充実してるよね。娯楽室には映画とかCDもいっぱい置いてあったしさ」

「品揃えはそんなによくないけど。ニッチ系少なすぎだよ」

「部屋は少し窮屈だよね。私の不満点はそれくらいかな」

「あ、アタシ服はなんとかしてほしい。この制服も、デザインはまあまあいいけどさ。それだけだと飽きちゃうし」


それぞれが、思いついたことを思いついたまま気軽に喋っている。

それはあまりにも普通の会話だった。

朝起きて、眠たい目を擦って学校へ登校し、それぞれのちょっとした制約に文句を言い合う、普段の学校生活と。

そんな空気の中にいると、ふと思ってしまう。

殺人学園なんてただの夢で、本当はいつもと変わらない生活が待っているんじゃないかと。


「おい」


遠くの席に座っていた津川が、いつの間にかこちらへ来ていた。


「早速だがお前らに聞いておく。誰が『ワルプルギスの夜』に招待された?」


その瞬間、オレ達は嫌でもその現実と向き合わされることになった。

先程まで和やかだったムードが、一気に暗く沈み込む。


「……あのさ。そう言って手ぇ挙げる馬鹿がいると思うわけ? 空気壊す質問するくらいなら黙って食べてれば?」


さっき同じ質問をした人間とは思えない言動だ。

津川は前嶋の反論など意に介した風もなく続けた。


「俺は自分の手を煩わされるのが嫌いだ。犯人役二人が名乗りを上げればそれでゲーム終了だろ? ならさっさと白状させるのが手っ取り早い」

「手っ取り早くても、誰も何も言わなければ意味ないんじゃないかなぁ」


涼音は低血圧なのか、どこかふらふらしている。


「なら、罪状を告白し合うってのはどうだ?」


ぴたりと、全員の動きが止まった。


「俺を含め、お前ら全員が何かしらの罪を犯し、ここに連れて来られた。その罪状を知っておくことは、これから起こる殺人事件に対応する上でも必要なことだとは思わねえか?」


先程からずっと黙っていたユリアが突然くつくつと笑い出し、椅子をこちら側へと向けて座った。


「それは面白いですわね。わたくしも、その辺りについては多少興味があります」


全員、どこか渋っているようだった。

しかしそれも当然だろう。

こんな場所にやって来る発端となった出来事だ。特にそれが犯罪行為であるならば、誰だって嬉々として喋りたい話題ではない。


「……じゃ、アンタから話しなさいよ、津川。言いだしっぺなんだから」


前嶋に振られると、津川は簡単に話し出した。


「俺は簡単に言うとサーバーへの不正アクセスだ。政府の極秘データベースを閲覧しようとして、足がついた」

「政府のデータベース? 津川、お前レジスタンスだったのか?」

「馬鹿が。そんな割に合わねえことを俺がするはずないだろ。クラッキングは単なる暇つぶし。まあ、成功していればその騒動における景気変動で数億円は儲けることができただろうがな」


結局捕まって死刑宣告を受けているんだから、相当気合の入った暇つぶしだ。

しかしそもそもこいつは、自分の生死なんていうものにそれほど興味がないんじゃないだろうか。

そんなことを思ってしまうくらい、こんな場所にいながらも、津川はぶれることなく堂々としている。


「だが、この国が腐っていると判断していたことは認める。そういう意味では、今回のクラッキングはテロといってもいいかもしれねえな」


この場合、罪状としては国家反逆罪にあたるのだろうか。

しかし結果捕まったとはいえ、政府のデータベースへアクセスすることができたというだけで、この男の並々ならぬ才能を感じ取れる。

津川は頭が良い。少し話をしただけで、そう思わせる何かがある。

だからこそ、こんなところで捕まらなければ、後々この国をより良い方向に導いてくれたかもしれない。

そう考えると、なんとも勿体ない話だ。


「じゃあ次はお前だ、前嶋」

「え!? ア、アタシ!?」


前嶋は驚いて、思わず自分を指差した。


「ア、アタシのは……大した罪じゃないよ」


後半は消え入りそうな声だった。

明らかに彼女は動揺している。


「感想を言えなんて誰が言った。さっさと罪状を言え」

「べ、別によくない? そんな風に聞いていかなくてもさ」

「良い訳ないだろ。さっさと言え」


津川の感情を挟まない冷酷な瞳に睨まれ、前嶋はとうとう観念したように肩を落とした。


「わ、分かったわよ。言えばいいんでしょ」


そう言ったものの、前嶋は指を忙しなく絡めたりしてしばらく黙っていた。

しかしとうとう観念したのか、やがてぽつりと声を漏らした。


「…………や、夜間外出」


周りがしんと静まりかえった。


「十八歳未満は夜十時以降の外出は禁止……、だったね」


如月も、思わず苦笑いだ。


「し、仕方ないでしょ! むしゃくしゃしてたの! まさか親父が警察に通報するなんて思わないじゃん!」


前嶋はそこまで言ってから失言に気付き、しゅんと項垂れた。

実の親に売られたという事実が、彼女にとってどれほど傷つく結果になったのかは想像に難くない。


「鳥江はどうなんだ?」


話題を変えるべく、オレは鳥江にそう聞いた。


「え!? わ、私ですか。ええとですね……その、私子供とか大好きで、近所の幼稚園でアルバイトしてたんですけど……、その時に、私のドジで子供にちょっと怪我をさせてしまいまして……」

「怪我ってどんなの?」


涼音が少しだけ鳥江から身を引きながら言った。

怪我をしたという子供と今の自分をダブらせたのだろう。ぼーっとしているようで、意外と身の危険についての意識は持ってるんだなと、オレは妙なところで感心した。


「大したことじゃないんですけどね。後ろから子供を驚かそうとしたら転んでしまって、思わずその子をコンクリートの壁に叩きつけて頭蓋骨を陥没骨折させたくらいで」

「……ごめん。かなり大したことあると思うんだけど」


如月の言葉に、オレ達は無言で頷いた。

鳥江は目を瞬かせる。


「それでですねー」

「無視かい」


前嶋の華麗なツッコミもスルーし、鳥江は続けた。


「幸いその子は後遺症もなく完治したんですけど、その後の裁判で罪に問われることになりまして。意図的な傷害ではないことについては立証できたんですけど、結局……ええと、確か過失傷害罪、でしたっけ? それで死刑宣告を受けました」


今の日本では、裁判というもの自体がほとんど機能していない。

何故なら、昔から日本の刑事事件における有罪率は99,9%といわれており、検事にとって有罪であることを立証するのは比較的簡単なことだからだ。

以前は刑期を軽くするために弁護士を雇うこともあったそうだが、今は罪状によって刑が軽くなることはない。つまり刑事事件の裁判で被告となった場合、まず間違いなく死刑が待っているということだ。


こんな状態では、裁判所などあってないようなもの。ただの死刑宣告所だ。

刑事訴訟法の取り決めで事案の真相を明らかにしなければならないから、形ばかりの裁判を行っているだけに過ぎない。


現に鳥江が行ったことについて、悪質性は否定されている。それなのに彼女は、死刑を宣告され、こんな場所に来るハメになった。

そのことを理不尽に感じるのは、決して同じ犯罪者同士だからというわけではないはずだ。

鳥江に何の過失もなかったとは言わない。

だが本当に悪いのはこの国で、こんな国を作り出した大人達だ。


「如月。お前は何の罪だ?」

「僕はその……ま、万引きで」


消え入るような声だった。

如月が好き好んで万引きするような性格ではないことは、会って間もないオレ達にだって分かる。

おそらく、誰かに強要された結果なんだろう。


「あ、あーっと……ま、まあさ! 過ぎたことくよくよ悩んでも仕方ないし、ほら、食べよ食べよ! あ、アタシのからあげ一つあげるよ」


前嶋は箸で自分のからあげを如月の皿に入れて上げた。


「あ、ありがとう。前嶋さん」


オレの顔からは、自然と笑みがこぼれていた。

これから、ここにいる全員で殺し合わなくちゃいけないかもしれない。それでも、オレ達はこうして誰かを思いやる気持ちを忘れていない。

それはオレ達が人間である証だった。たとえどれほど惨たらしい世界で生きていても、人として生きている証だった。

ふと、清羅と目が合う。

あいつがオレと同じような顔をしているのを見て、このひと時の平和をどうにかして守りたいと、本気で思った。


「それで? 澄まし顔で寛いでいるユリア。お前はどうなんだ?」

「わたくしは殺人です」


あまりにすんなりと出てきた言葉に、オレは最初その意味を咄嗟に理解できなかった。


「……ユリアさん。悪いんだけど、もう一度言ってくれない? 聞き間違いじゃなければ殺人って聞こえたんだけど……」

「聞き間違いではありません。わたくしは人を殺しました。だから逮捕されたのです」

「理由を聞いてもいいですか?」


清羅の声はどこか緊張感があった。それはユリアを恐れてのことではなく、その事実が飛び火することを恐れてなのだろう。


「理由なんてありません。殺したいから殺しただけです」

「まるで何人も殺したみたいだねぇ」


心なしか、涼音の声はうきうきしていた。


「まるで、ではありませんわ。実際に、何人も殺したのです。俗っぽい言い方をするなら……殺人鬼、といったところでしょうか」


しんと、辺りが静まり返る。

ごくりと、誰かが息をのむ音が聞こえた。

このどことなく浮世離れしている以外何の変哲もないか弱い女が、殺人鬼などという常人の理解の外にいる怪物だとは到底思えなかった。


「わたくしはよく知りませんが、殺人事件に報道規制を敷くこのご時世にあっても、わたくしのことはそれなりに有名だったようです。政府の尽力もむなしくネット界隈を騒がせ始め、挙句つけられたあだ名が確か……」

「歩く都市伝説」


突然涼音が言った。


「ええそれです。確かそんな名前でした」


全員が、涼音に視線を集中させる。

彼女は興奮で身を乗り出し、らんらんと目を輝かせていた。


「歩く都市伝説。本当に存在するかも分からない殺人鬼のことを、政府から隠れて語るためにつけられた名前だよ。その殺人鬼が殺した人間は、まるで日常に溶け込むように遺棄されてるのが特徴なんだ。ベンチでうたた寝しているように見えたり、土手で昼寝してるように見えたりね。一流の検死官でさえ一見しただけじゃ生きた人間と区別がつかないくらい、外傷もなく見事な死化粧が施されてるって話。死体発見が遅れて腐敗しないために、場合によってはエンバーミングまでしてある死体もあったとか。美学を追及した殺人鬼でありながら、その正体は全てが謎。手がかりはたくさんあるはずなのに、決定的な証拠が一切なく、警察も年齢はおろか性別さえ分かっていない」


ひと時に喋り終え、涼音はふうと息をついた。


「……涼音。お前、詳しいんだな」


昔ならいざ知らず、暴力的な単語を使うことすら禁じられている現在、そういった噂は探そうと思ってもなかなか探せないはずだ。


「そりゃあだって、私が名づけ親なんだもん」

「は?」

「私の罪状は暴力描写頒布罪。殺人鬼とかの情報をネットに載せてたら、サイバー班に見つかって逮捕されたの」

「……ちなみに理由は」

「ただの趣味」


その幼い顔からは想像できないほど悪趣味だった。


「ね、ね。ユリアさんはどうして逮捕されたの? 警察が何の手がかりも手に入れてないってのはガセだったのかな」


何をするにもやる気というものを感じさせない涼音が初めて見せる食いつきぶりに、全員たじろいでいた。


「その情報は事実です。わたくしも前嶋さんと同じですから」

「へ? アタシ?」


つまり、肉親の通報か。

確かにそれなら、警察が情報をまったく掴んでいなくとも、逮捕されることはあるだろう。


「わたくしの家は裕福でしたから、殺人を隠ぺいするのに色々と都合がよかったのです。世間体を大事にする親でしたので、まさか通報されることはないとタカをくくっていたのが敗因ですね。おそらく、警察と取引して何らかの情報操作を行うことを条件にしたのでしょう」


警察には秘密裏に逮捕してもらい、周辺の人間には娘を海外へ長期留学させているとでも言っておけば、一応世間体は立つだろう。


「ねぇ、ちょっと待って。これってよくよく考えたらおかしくない? だってアタシ達、更生の余地があるから殺人学園に入学させられたんでしょ? コイツもそうだってこと? アタシ達はコイツと同列ってわけ?」


前嶋の言いたいことは分かる。

津川は置いておくにしても、他の四人の罪は本来なら軽犯罪で済むものだ。なのに死刑を宣告され、挙句連続殺人鬼とまったく同じ条件の更生プログラムを受けさせられている。文句の一つや二つくらい出てくるのが自然だ。


「それに関しては、わたくしも些か同情しております」


紅茶を飲みながら何でもないように言ってみせる。

その冷静な態度は、前嶋をさらに苛立たせる結果になった。


「ていうかさ。ぶっちゃけた話、アンタが犯人役なんじゃないの? 殺したがりのアンタにはぴったりの役じゃない!」

「わたくしは美を追求するシリアルキラーなのです。わたくしにとって人殺しは手段であり、目的ではありません。人の命にも、自分の命にも、大した興味はないのです。まあしかし、今回探偵役に抜擢されたのは、多少残念ではありますね」

「ふざけないで! そんな話信じられるわけないでしょ! こんな殺人鬼がいて、犯人役じゃないなんてさ!」


今にも掴みかかりそうな勢いに、如月が慌てて止めに入った。


「き、決めつけるのは良くないよ! 犯人役がただの抽選で決められる可能性だってあるしさ」

「で、でも、これが実験なら、慣れた人に犯人役をしてもらおうって考えるのが……普通のような気も……」


辺りを見回すと、ほとんどの人間が鳥江の意見に賛成しているようだった。

客観的に見れば、確かに人殺しであるユリアは怪しい。

だからこそ、オレは口を開いた。


「前嶋。それはありえない」

「ありえないって、何を根拠に……」

「そんな理由で犯人役が決まるなら、推理するまでもなく犯人役の枠が埋まるからだ」

「……え? なんで?」


前嶋はきょとんとしている。


「耕ちゃん!」


清羅が思わず立ち上がった。

が、それでも構わずオレは続けた。


「オレの罪状も殺人だからだよ」


◇◇◇


オレと清羅は幼馴染だった。

家が近いという理由で知り合い、特に親同士の仲が良い訳でもないのに自然と仲良くなった。気が合った、という子供らしい理由もあるにはあったが、それ以上に、頼れる相手をオレも清羅も探していたということの方が大きかった。


スラムで生きるオレ達二人にとっては、自分の親さえも敵だった。

オレの親は徹底した放任主義者で何度も餓死させられそうになったし、清羅も父親の暴力で生死を彷徨うことがあった。

幸い、オレの場合は病院に搬送された際に誰もが虐待を認めざるを得ない決定的な証拠が見つかり、施設に入れられることになった。しかし清羅は違った。

虐待の立証は難しい。しかもなまじオレの両親が保護責任者遺棄罪で死刑になったりするものだから、清羅の父親はより慎重に、かつ執拗に虐待を繰り返すようになった。


その日、オレはたまたま学校で授業をさぼっていたお叱りを受け、帰りが遅くなっていた。

オレがいつも下校時間に清羅の家を経由するのは、通りがかりであるというだけではなかった。清羅は何も言わなかったが、最近になって彼女への虐待がエスカレートし始めていることに、オレは気づいていたからだ。


いつ倒壊してもおかしくないような木造建築の家の前で、オレはいつもとは明らかに違う雰囲気を感じ取った。

誰かが部屋を走り回る音。食器が割れる音。騒々しいはずなのに、誰の声も聞こえてこない。

オレはすぐに玄関の引き戸を蹴破り、中へ入った。

それを目撃した時のことを、オレは今でも鮮明に覚えている。

何度も顔を殴られた痕。はだけた服。彼女の細く美しい二の腕には、タバコを押し付けられた跡もあった。

それは、オレが初めて人間に殺意を覚えた瞬間だった。


すぐ側で転がっていた、清羅を脅すために持ち込んだであろう金属バッドを手に持ち、突然の乱入者に混乱しているその男を床に押し倒す。

無防備な後頭部。

そこにバッドを振り下ろす時、確かにオレは一瞬だけ躊躇った。

オレの激情を、理性が止めたのだ。しかしそこで出した結論は、こいつはいずれ清羅を殺す、というものだった。

だからこそオレは、至極冷静にそのバッドを振り下ろした。


結局、側にいた清羅も殺人ほう助という形で逮捕され、オレは警察の言いがかりを跳ねのけることができなかった。

しかし不思議と、そのことに対する後悔はなかった。

オレの理性が凶行を止めた時、たとえどうなろうとこれがベストな行動なのだと既に決断していたからだ。

ああしなければ、清羅は遅かれ早かれ死んでいた。そう思ったからこその殺害だったからだ。

今までずっと守ってもらっていた清羅を助けることができなかったのは我ながら情けないことだとは思うが、後悔するくらいなら、あの時バッドを振り下ろしてなんかいない。

オレはあの決断の時、既に自分というものを諦めていた。この世界で人を殺すというのはそういうことだ。

ずっとオレを守ってきてくれた清羅に、オレは文字通り全てを捧げたのだ。



「耕ちゃん! なんであんなこと言ったの!!」


朝食が終わり、皆が食堂から出て行った後、清羅は血相を変えてオレに突っかかって来た。


「なんでって……事実だから仕方ないだろ。仮に嘘をついたとしても、津川辺りは今日にでも草壁から確認を取るだろうしな」

「それでも、あんな態度とらなくてもよかったじゃない!」


自分が殺人を起こしたという事実を語り、あとはだんまりを決め込んでいたオレを庇うために、清羅は必死でその時の状況を説明していた。それがどれほど他の皆に届いたのかは分からないが、少なくともオレには、そんな行為に意味があったとは思えなかった。


「別にいいだろ、過ぎたことは」

「過ぎたことって……」


清羅はまだ言い足りないらしく、感情に邪魔されながらもどうにか言葉を探しているようだった。

そんな彼女の肩を掴み、オレは言った。


「そんなことより、お前に聞いておきたいことがある」


オレの改まった態度に、清羅も少し緊張気味だ。


「……お前、犯人役か?」


前嶋にあんなことを言っていた自分が彼女と同じことを聞くなんて、何とも馬鹿らしい話だ。

しかし、オレと清羅は別だ。


「もしも犯人役ならそう言ってくれ。オレはお前を守るためなら、命だって惜しくない」


それは既に実証済みだった。このご時世、罪を犯すことは死と同義だ。そんな時代で、オレはよりにもよって殺人なんていう大罪を犯した。今更あがいて生きようだなんて思わない。

その時、オレの頬に鋭い痛みが走った。

清羅がオレを叩いたのだ。

父親からの虐待を受け続けたことで、暴力を振るうことを誰よりも恐れ、禁じていた彼女が。

オレは思わず清羅を見た。

涙を流しながら怒りに震える彼女を見るのは、長い付き合いの中でも初めてだった。


「そんなこと、二度と言わないで!」


ぼろぼろと零れる涙も関係なしに、彼女は叫んだ。


「私のために死んでもいいなんて、二度と言わないで!! 耕ちゃんがどう思ってるかなんて知らないけど、私は……私は、あなたをこんなところに連れて来てしまって、すごく後悔してる」


オレはハッとした。

オレにとって、オレの行動は全て自分で納得したことで、全て自分の責任だと思っていた。だが、優しい清羅がそんな風に思えるわけがない。そのことは、オレが一番良く知っていたはずなのに……。

オレはそんな小さなことすら見落としてしまうほど、自分のことしか考えていなかった。


「私が、ずっと結論を先延ばしにしてたから。私が、現状に甘んじて、何も変えようとしなかったから。だから何の関係もない耕ちゃんが、私のせいで──」


オレは彼女を抱き寄せた。

今にも折れてしまいそうなほど、細くか弱い身体だった。


「……悪かった。あんなこと、もう二度と言わない。だから泣き止んでくれ」


清羅は、オレの背中に両手を回し、ぎゅっと強く抱きしめた。


「……耕ちゃん。君は、こんな場所にいても自分の価値を見失わない強い人間だよ。どんな状況にもめげずに戦える、本当に強い人。だから私なんかのためじゃなく、自分のために生きて」


その言葉は彼女の心の底からの言葉だった。

それが分かっていながら、オレはそれに返事をすることができなかった。


一限目 了

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