《Bird side - 8》『ヴァンブラン・ハウル』(前編)

 狼は死にかけていた。


 彼はもうずいぶんと長い間、このアーレファンの森に群れをなす狼の王として君臨してきたが、今、その役目を全うしようとしていた。


 ここ数日、森の中になにやら不穏な匂いが紛れているのを嗅ぎ取った狼はその正体を確かめるべく単身群れを離れた。まる二日ほど歩き回ってはみたが結局はっきりとした情報は何一つ得ることはできず、その帰り道に崖から足を滑らせて転落してしまったのだ。


──俺も老いたな。


 前後の足を一本ずつ骨折したらしい。おそらくはあばらも何本かやられているだろう。呼吸をするたび内臓がきしりとしめつけられた。


 日中に温存していた熱が地面からどんどん放出されていくのを感じる。ぐったりと横たえた体で茹だるような暑さを受け止めていたのも束の間、いつしかそれは反転し今では凍えるような冷たさだけが辺りを覆っていた。


 立ち上がることもできず、時おり木々の間から見え隠れする月に向かって遠吠えをこころみる。だが、そのたび腹部に激痛が走り、声は闇にかき消されてしまっていた。


──やはり届かぬか。この声では……。


 呼吸が乱れ、切れ切れとなる。いよいよ観念しようとしたその時、薄れゆく視界に小さなものが入ってきた。


 鳥だった。真っ黒な羽毛に身を包み、頭の先にはレモン・イエローの尖った毛が逆立っている。あれはブラック・バードだ。鳥は小枝にとまり、しばらく物珍しそうにこちらを見ていた。


「なんだ、鳥にしちゃ随分おとなしいんだな。この世の名残に何か一曲くらい歌ってくれてもいいんじゃねえか?」


 ブラック・バードは狼が攻撃できるような状況でもないらしいことを悟り、さらに近くの岩に飛び移ってきた。


「……おまえさん、口がきけないのか? 待てよ、そうか」


 小鳥はパクパクと主人を失った腹話術の人形のように口を動かしている。


「ははぁ、聞いたことがあるぞ。さてはおまえが“あの”ヴァンブランってやつだな。声を盗まれちまったとかいう。歌えなくなった鳥と動けなくなった狼か。いったい何の冗談だい、こりゃ」

 狼の王は失笑したが、この奇妙な巡り合わせに少なからず天の意思を感じた気がした。

「どうだい小鳥さんよ、俺と取り引きしないか?」


──?

 ヴァンブランは首を傾げた。


「俺はこの界隈の群れを仕切ってるものだ。が、もうダメだ。俺はもうじき死ぬ。だから俺の“声”をおまえにくれてやろうってのさ」

──!

「だがそれには条件がある。ひとつその翼を俺の足として使ってもらいたいんだ」

──?

「ここから真っ直ぐ南に下っていくと川にぶつかる。その脇には〈青の岩場〉と呼ばれる俺たち狼の集落がある。その名の通り大理石のような青い岩がゴロゴロ転がってるところだ。俺はまだ次の王を指名せずに群れを飛び出してきちまった。だから、おまえさんにそれを伝えてもらいたいんだ。この俺の“声”でな。さあ、もっとこっちへ来いよ。ガブリとなんてやらねえから安心しな」


 狼はヴァンブランにそう告げると片目を瞑ってみせた。


「どうした、そんな風に“声”を切ったり貼ったり簡単にできるのか? って顔だな。ふふん、おまえさん本当に何にも分かっちゃないんだな」


 狼はじわりと迫り来る激痛にぐっと顔をしかめた。


「だが、そのことについて悠長に説明してる時間は俺にはなさそうだ……。いつかセント=エルモの沖に潜む“竜の番人”にでも教えてもらうといい。あいつらならこの世界の成り立ちのことは大抵知ってる」


 狼は自分の顔にむず痒いものを感じた。何十匹ものありが体を這い上がってこようとしていた。


「どうやら本当にもう時間がなさそうだな。いいか、俺には三匹の息子がいる……伝えてほしいのはこうだ──」


 やがて狼が話を終える頃には、すでに蟻の数は何百何千にまで達していた。まるで黒い絨毯じゅうたんが辺り一面に敷き詰められているようにも見える。それは数によって獲物をしとめるマラブンタという獰猛なグンタイアリの一種だった。彼らに一度まとわりつかれようものなら逃げることはほとんど不可能だともいわれている。


「頼んだぞ。おそらくこれからは強大な、想像もつかぬような“力”の時代ときがくる。だから…………」


“黒い絨毯”は今や“黒い毛布”となり、狼の王の上半身を包み込もうとしていた。やがてそれは首へと移り、顔へと群がる。唯一、狼の尖った口もとだけがかろうじて見えるくらいになった時、その口が最後に呟いた言葉はこのようなものだった。


「俺の名はソゼだ。ソゼ=アレハンドロガルーシア。まあ、そんな名前も今となっちゃ意味を成さないがな。さあ、俺の名を言ってみろ。『ソゼ=アレハンドロガルーシア』──そう口に出して言ってみろ」



 ▼▲▼▲▼▲



「ソゼ………アレ……ハンドロ、ガルーシア?」


 スッと──


 その名前を口にした途端スッと、何かが自分の体に入り込んでくるのをヴァンブランは感じた。数百数千のグンタイアリが狼を骸に変えていくのを見ていたため、初めは自分の羽毛の中にも蟻が潜り込んできたのかと慌てた。が、そうではないようだった。それより──


 今、狼の名を口にした時、嘴くちばしの先が揺れはしなかったか? 音となり、信号となり、以前のように空気を振動させはしなかったか?


『グル……グルル……』


──まずい! 狼の仲間がやってきた!


 そう思って飛び上がったヴァンブランだったが、その唸り声はどうやら自分の体の中から発せられているらしいことに気付いた。


「なんてこった……信じられない」

 ヴァンブランは狼の声でそう呟く。

「声だ……」

 たとえ狼の声とはいえ、口の中からなにかしらの音が発せられている。ヴァンブランは嬉しさのあまりそのまま天空に向かって急上昇した。

「喋れる! オレは喋れるぞ!」


 大空を駆け上がりながらヴァンブランは月に向かって狼特有の遠吠えをしてみせた。力強く、どこまでも響いていくような声だった。


 ひとしきり叫んだ後に残ったものといえば、それはいくつもの疑問だった。自分の体に何が起こったというのか? これからいったい何が起こるというのか?


 自分に託された“任務”というものが何かとんでもないことのような気がしてヴァンブランは少し震えた。


 少なくとも──あのソゼと名乗った狼の王との約束を果たさねばならぬとしたら自分のやるべきことはまず、単身『狼の群れ』の中に飛び込んでいかねばならぬということなのだから。



 ▲▼▲▼▲▼



 ウォウ……ウォー、グルル、フォーグルル……


 ヴァンブランは狼の声を使ってなんとか“歌って”みようと試みていた。上空から狼の声が響いてくるので下界の小動物たちは慌てて空を見上げ、忙せわしなく首を動かしている。


「なんて不便な声なんだ……」


 どうやらこの声は歌うには不向きらしい。不慣れということもあるのだろうが、どう頑張ってみても出てくるのは喉の奥がごろつくような濁音ばかりで、唯一透き通った声が出るのは遠吠えをする時だけだった。


(俺の“声”で次の王を指名してくれ──)

 そう言って狼の王は死ぬ前に自分の声をヴァンブランに託した。


 その使命を思い出すと彼の気分は沈む。狼の群れが棲むといわれている〈青の岩場〉はもうすぐそこだ。だがこのままではまるで葱を背負ったブラック・バードではないか。


「待てよ……バカだな、俺は。あの狼は死んじまったんだぞ。そうだよ、そんな約束なんて御破算にしてこのまま逃げちまえばいいじゃんか」


 ふとヴァンブランの頭にそんな考えがよぎる。そしてくるりと体を反転させようとしたその時だった。



【──おまえの存在など無意味だ──】



 突然耳元で誰かにそう囁かれ、彼はビクリと震えた。

 まるでエア・ポケットに体ごと突っ込み、下降気流に頭をわし掴みされたような感覚だった。羽ばたくことすら忘れ、垂直に落下しそうになりながらも彼は忙しく辺りを見回す──が、生き物の気配などどこにもない。


 それでも何か得体のしれない悪寒の残り香がしているようで彼の小さな心臓はドキドキと波打っていた。


「……なんだ。なんだ? 今のは?」


 体勢を立て直し、空中で制止したヴァンブランはこれまで耳にしてきたさまざまな“声”を思い出していた。


(おまえはもう全てを使い果たしちまったんだよ、ヴァンブラン!──)

 友のワガリが自分をそう罵倒した声。


(神様はおまえに冒険のチャンスをくれてんだぜ? ──)

 そう言ったスカラベの甲高い声。


(つらいことがあるのはおまえさんだけじゃない。大丈夫だ──)

 白樺の木が優しく慰めてくれたあの声。


(生きたいんだ! 理由なんかくそくらえだ!──)

 山猫に襲われて死の淵でそう叫んだ自分の“心の声”。あの狼の王も、もう少し生きていたかっただろうか?


──自分の声?


 彼は今やずいぶん長いこと離れ離れになってしまった自分自身の声を忘れかけていた。


【──おまえの存在など無意味だ──】


 だが、先ほどそう囁いたあれはどことなく自分の声に似てはいなかったか?


──バカな!


 まるでこの世に存在する希望の芽、それらをすべてを飲み込んでしまおうとするような──地の底から伸びてくる巨大な鉤爪ような──あんな“声”が俺の声であってたまるか。ヴァンブランは激しく首を振ると、地上をきっと睨みつける。


「そうさ、ここで逃げたら今までと何も変わらない……それにこの先ずっと狼の声で飛び回ったってどうしようもないじゃないか」


 彼はそう意を決すると、狼の群れがいるという〈青の岩場〉に向かって滑空していった。


──きっとこれも何かの足がかりなんだ。そうに違いない……踏み出せ! 踏み出せ! 狼なんか怖くない!

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