《Fog side - 4》『夢幻の花』

「もういーかい?」

「もう少し」

「もぉーいぃーかい?」

「もういいよアナ。目を開けてごらん」


 アナがゆっくり目を開くとそこには色とりどりの花々が咲き乱れていた。ぽかんと口を開き、やがて頬の肉がゆっくり持ち上げられる。

「すごーい! フォグ。すごいよ、見て!」

 先ほど目を閉じる前までそこは荒れ果てて殺伐とした大地だった────はずなのに。思わずアナは目を擦ったり何度も瞬きをしてみる。


「魔法ってホントにあるんだねぇ。私、そんなの全然信じてなかった」

 アナは目の前のパンジーの花びらにちょんと鼻を押し付けた。しっとりとした感覚に続いて淡い香りがする。

「これって本物だよ。絶対本物だよ!」

「そうだね。アナが本物だって思うんならきっと本物さ」

「でも魔法がとけちゃうとみんなまたもとに戻っちゃうんでしょ?」

「うーん、そうだなぁ、それは、その──」

「お願い、フォグ。とかないで、ねえ、お願い」

「魔法ってのはね、アナ。やっぱりまやかしなんだよ。でもね、“嘘”じゃないんだ、わかるかい?」

 アナはきょとんとなって首をふった。

「わかんない」

「ホントのホントはね。荒れ地を一瞬で花畑になんかできやしないんだ。でも種を蒔いて、じっくり時間をかけて一所懸命育めばいつかそれは本物の花畑になる。そう思わないかい?」

「そう……かもしんない」

「かもしんないじゃなくて、そう思うんだよ。そう願うんだよ。でなきゃ魔法は使えないよ?」

 フォグはいたずらっぽく笑うとそう言った。

「私も魔法が使える?」

「使えるさ!」

 アナは永遠にどこまでも続いていくようなその花畑を名残惜しそうにまた振り返る。

「それでも、それでも、やっぱり消さないでぇ!」

 今にも涙を流さんばかりのそのひたむきな訴えにフォグは目を細めアナの髪を撫でた。

「……わかった、だったら目を閉じて。アナ」

「?」

「ほら、こうやって目を閉じて」

 フォグは自ら目を閉じてみせた。そして大丈夫だよと言わんばかりに手を繋いできたのでアナもゆっくり目を閉じた。

「閉じた?」

「うん……」

「ホントにホントに閉じた?」

「閉じたってばぁ」

「よし。じゃ、このまま帰ろ」

「だって何も見えないよぉ」

「大丈夫、目を閉じても僕にはちゃんと見えてるから。帰り道も、アナの、泣きべそ顔も」

「泣いてないもん! フォグの嘘つき!」

 笑いながら歩き始めた二人を背に花畑はしだいにその彩りを消してゆく。


 やがて──


 その姿が雑草すら生えないようなもとの荒れ地に戻ってしまった後も二人の脳裏には大地いっぱいの花が咲き乱れていた。



 ▼▲▼▲▼▲



 ごぉん…………ごぉん……………………


 フォート=サガンの寺院から鈍く鐘の鳴る音がした。フォグが今いるこの“死の洞窟”の奥へも微かにその残響が届く。あれはズブロッカおきなのもとで魔道の修行を行う弟子たちが三時間ごとに打ち鳴らす鐘だ。


──三十五……三十六…………


 フォグがこの洞窟に入って四日が過ぎた。鐘が時を告げるのを聞くのがこれで三十六回目。ということは今は正午か、いやそれとも深夜の十二時の方だったろうか。

 闇だけが鎮座するその空間で時間という概念すらもはや溶けて失われつつある。フォグは膝を抱え込んだまま鍾乳石からしたたり落ちる水滴をじっと眺め続けていた。その脇では一匹のスカラベがごそごそと這い回っているのが見える。


 眠れない。


 心配事があるからとか悩みがあるからとかの“眠れない”ではない。これは文字通り“息を止めていられない”とか“外国語が読めない”のと同じく、眠ることが不可能といった“眠れない”だった。


 食事をとらなくてもお腹が空かないし、眠らなくても疲れない。フォグはまた自分の体が“死んでしまったもの”に一歩近づいたことを確信した。“力”を封印するためには一度死に伏さねばならない。だからこれは起こるべきことが起きているだけなのだ、粛々と。ただ──


“まどわすもの”といえば隅の方にすわりこんでひたすらボソボソと会話を続けている。フォグを介入せずに話す右の口と左の口の会話はどうにも人間の言葉ではないらしく、その内容は理解の範疇を越えていた。


──あいつの言ったことが、もしも、もしも、嘘っぱちだったとしても、それがいったい何だっていうんだ。


 いつしかフォグの中でもそんな二つの思考が会話を始めていた。


“まどわすもの”が何を企んでいるのかは知らない。だが、万が一に備えて真っ先に優先すべきことはやはり姉さんとアナの安否を確かめることなんじゃないのか。


(惑わすからこそ“まどわすもの”なのだ。彼らはそれを生業なりわいとしている。甘くみてはいかん──)

 ズブロッカおきなの言葉がまた蘇る。


──ズブロッカ様、僕はいったいどうしたら……。


 心配なことは確かにいくつかある。“力“が浄化されぬうちにこの洞窟を飛び出してしまってもよいのか? ”死んでしまったもの“となりつつあるこの体で外の世界に出てしまうことが、いったいどんな結果を生むことになるのか?


 だが。そんな”もしも”をいくら並べてみたところで二人の命を救うこと以上に重要なことなど思い付くわけがなかった。たとえ、その結果“力”を“魔”に盗まれることになったとしてもそれは揺らぐことはないであろう。


──魔法を使ってみようか。


“力”さえ使えば遠く離れている二人の様子を見ることもできるかもしれない。フォグは首を振った。


──ダメだダメだ。アイツは僕が力を使うのを待ってるるんだ。そんなことはミエミエじゃないか。



 ▼▲▼▲▼▲



「まあ──」

 魔物の細く延びた腕が無造作に地を這う百足むかでを掴む。

「私たちを信用しすぎるってのも考えものかもしれませんねぇ……」

「わかるわかる。なんてったって俺たちゃ“まどわすもの”だからなぁ」


 今回はやけに自虐的に攻めてくる。腕が百足を右の口に運ぼうとした時、左の口が長い舌を出して牙を剥いた。先割れしたその舌は二つどころか五つに枝分かれしており、蛇というよりはむしろ磯巾着の触手のようだった。


「コラ! そいつは俺の獲物だぞ」

「いえいえ! 私がずっと狙っていた獲物ですぞ。さあ、早くこの口の中に入れてください」

 両方の口に命令され、腕はうろうろと迷った挙げ句、結局左の口の方に百足を入れた。

「ただ、後々になって“あいつの言ってたことはホントのことだったんだ!”なんて泣き言を言うのはやめてほしいものですな」

 左の口がくちゃくちゃと百足を貪りながらそう言うと巨大な目は満足そうに自らを細める。

「プライドが傷つくからな。おい、オレにもちょっとよこせ」

「そうそう、せっかく私たちが本当のことを喋ってるのに“アイツに惑わされたんだ!”なんて言われたんではたまりませんからな」

「しかし、たいしたもんだ、なあ。兄弟!」

「まったくです兄弟! アナや姉さまを見捨ててまでもズブロッカの言葉に従うなんてさすがに私たちもそこまで計算しておりませんでした」


 休むことなくひたすら食っては喋り続けるこの二つの口の中にフォグは粘土でも押し込んでやりたい気分だった。


(頼むから静かにしてくれ!──)


 フォグはたまらず目を閉じる。


 そこにはいつかアナと二人で見た花畑が広がっていた。フォグが魔法を使って作り上げた幻想の花畑だ。アナの泣きべそ顔まで浮かんでくる。そんな楽しかった記憶の風景、美しい音楽などを頭に思い浮かべないと吐いてしまいそうだった。


 だが──


 フォグは戦慄した。思わず額に手を当てずにはいられなかった。瞼の裏側に広がる色とりどりの花々がどうしても美しいと感じないのだ。それはまるでランダムにに並んだ文字列や数式のように冷たく、白い壁に付着した汚れを見るように無感動だった。


 食欲、睡眠欲といった肉体的欲求を越えて死の洞窟はいよいよフォグの感情自体を喰らい始めている。


“まどわすもの”の言っていることが正しかったとしたら?


「正しかったとしたら?」

「正しかったとしたら?!」


 フォグの思考の中に土足で入り込んでくる魔物は彼の焦りを“言葉”にして襲ってくる。


「『明日になればまたひとつ感情が薄れているのかもしれない?』」

「『アナを救わなきゃって感情までもが消えて無くなるかもしれない?』──坊や、今、そう考えておりますね」

「いわゆるおまえらのいうところの“愛情”ってやつだっけ?」

「まあ、もともとそんなものは存在しないわけですから無くなりようもないんでございますがね」


 二つの口は声をそろえて同時にゆらゆらと笑った。


 フォグといえば自分の腕を、顔を、胸を触った。確かにまだ肉体は存在している。それを確認してフォグが安心したかといえばそれは決してそうではなく、むしろ違和感のほうが大きかった。次第に空っぽになっていく自分の心に肉体が未だ付属していることがおかしいような気がしたのだ。それはまるで裸のまま毛皮を着ているようなそんな違和感。あるいは荒れ地に咲く魔法の花のような実体のなさだった。


(お願いフォグ、魔法をとかないで! 消さないでぇ── )

(笑っちまうやね、“愛”なんてものはこの世に存在しないってのにさぁ)


 あの時アナが消さないでといったものはいったい何だったのだろうか?


 フォグはそこに何か答えのようなものを一瞬感じたが頭がうまく回らなかった。ただ、言えるのは時間がもうあまり残されていないことだ。悔しいが“まどわすもの”の言ってることは正しい。このまま何もせず迷っているうちに自分の感情が先に死んでしまうこと──その方がより恐ろしかった。


 気がつくとフォグは翼を広げていた。ひかりごけが壁面に映し出す影がむくむくと伸びていく。その巨大な翼と鉤かぎのようなくちばしを目にしてフォグは自分がいつしか一羽のオオワシに姿を変えてしまっていることに気付いた。


“まどわすもの”の目玉がぎょろりと光る。


「そうだ、それでいいんだよ。坊や」

「さあ、飛ぶのです。その“力”を使って。さあ、早く」


 洞窟の中で魔法を使ってはならぬという戒めを破ってしまったフォグにもはや迷いはなかった。大振りに翼を羽ばたかせ離陸すると洞窟の天井近くまで舞い上がり、そのまま引力にそって洞窟の出口に向かって滑空を始める。


 壁にぶつからぬように旋回しながら来た道を戻る。あの細い入口を真横になって通過するまでに費やした羽ばたきはわずか二三度であった。


 表に出るなりフォグは絶壁を吹き上げる風を踏み台にし上昇気流を嗅ぎ分けた。そのまま高く上ろうとした時、月の光が思わず目に突き刺さる。洞窟から出たばかりのフォグにとって月明かりは灼熱の太陽ほどに眩しく視界を奪われてしまったのだ。素早く体勢を立て直すと自分の位置と方角を確認する。


 いざこうして行動に移してみると“なぜ、もっと早く決断しなかったのか?”という悔いばかりがフォグの頭に浮かんだ。とはいえ“まどわすもの”の言葉を全て鵜呑みにしているわけではない。いや、そんな馬鹿なことを信じるわけにはいかないのだ。


(──それで帰ってきちゃったの?)


(──馬鹿ねえ、フォグ。私たちが死んじゃうわけないじゃない)


(──なぁんだ、結局僕はあいつに担がれただけか。はは……あははは……)


 そうだ。そうして三人で笑うのだ。それでいい。むしろ望むのはそんな結果の方だ。


──消すものか!


 アナの小さな小さな命の灯を。サーヤのいるその暖かな家路へと続く道を。


 大鷲に姿を変えたフォグの翼はごおっと空を扇いだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る