《Fog side - 3》『まどわすもの』
「なんでもこの坊やは魔法を封印しにきたんだとさ。バカだなせっかく与えられた力を封印しちまうなんて」
「まったくでございますな。力さえあれば何だって思いのままでございましょうに。無から
「その気になればこの世界だって支配できるってのに、なんだって魔法使いって連中は揃いも揃ってそんなに謙虚なヤツばっかりなんだ?」
「見栄や偽善でございましょう」
「ええかっこしぃだ」
「世界の秩序のためだとか申しますか?」
「本心ではそんなこと思っちゃあないない!」
「所詮は皆、自分の幸せが優先。まあ形は違えどこの坊やも結局は自分の自己満足を選んだということでございますからねえ」
「笑っちまうやね。“愛”なんて。この世にそんなものは存在しないってのにさ!」
“まどわすもの”──両方の
通常であれば人間の両目の位置にあたる場所にあるその右の口と左の口は互いに会話するようにひたすら喋り続けていたが、フォグは依然だんまりを決め込んでいた。
「ふふん、わかるぞわかるぞ。おまえの考えていること」
「この口と」
「この口の」
「間に、言葉を挟めば、それこそ相手の」
「思う壺。なんせこいつは」
「“人間を惑わすために存在するバケモノなのだから── ”ってところでございますか」
「惑わすったって坊や。おまえさんはオレたちが出鱈目を抜かしてその“力”を騙し盗ろうと思っているのかもしれんがね、それは一寸違うってもんだぜ」
「そうそう、それどころか反対も反対、そのまた反対でございます」
「むしろその“力”を手放すのはやめた方がいい」
「きっと後悔しますぞ」
「オレたちはそれをおまえさんに助言するために来たってわけさ」
──“魔”の言葉に耳を傾けてはならぬ。
ズブロッカ翁の言い付け通りフォグは聞く耳を持たぬように務めた。そんな様子のフォグを“まどわすもの”の巨大な目玉が唇の中からじっと見つめている。右の口と左の口がそれぞれ別の意識を持っているように、その目玉にもまた別の意思が存在しているかのように思えた。
「ズブロッカ……。坊や、今、あいつのことを考えておりますな」
「あいつは何もわかっちゃいない!」
「坊や。そもそも惑うってことがどういうことなのかわかりますかな? それは真実に直面した時なのでございますよ」
「そうそう。オレたちは真実を述べているだけ」
「そして人間たちは勝手に惑う。なにも私たちが“惑わせてる”わけではないのでございます」
「ズブロッカはその真実から目を背けようとしている」
「あいつこそが“まどわすもの”だってことがそのうちにわかりますぞ。まあ、わかった頃には時すでに遅しですがね」
聞く耳を持たぬはずだがこんな風に頭の中で思っていることを読まれてしまってはまるで会話しているのと同じじゃないか──フォグはそう思った。
そして悔しいことに“まどわすもの”の言葉の節々には問い返したくなるような〈含み〉が絶えずあった。
「例えばだな、坊やがこの洞窟で“力”を浄化し、やっとこさ“普通の人間”になっておうちに帰ったとしよう」
「だが、帰ったところでもし愛するアナもサーヤ姉さまもいなくなっていたとしたらどうしますかな?」
フォグは細い眉をピクリと動かした。
「おっと、例えばの話さ。例えばの」
「せっかく普通の幸せを掴もうとしたのに二人はもういない。魔法の力も使えない」
「そんな風に坊やが何もかも失ってしまうってんじゃあまりにも忍びないって話さ」
さすがのフォグもこの言葉だけには反応しないわけにはいかなかった。
「……どういうことだ」
その醜い二つの口から“アナ”の名前が出たことにフォグは胸がむかつくような憤りを覚え、睨みをきかせる。
「わかんねえかな。じゃ、こういうのはどうだい?」
(助けて、フォグ。熱い! 熱い……! )
今度は姉、サーヤの悲鳴が洞窟の闇に響き渡った。
ついにフォグは“まどわすもの”に対して口を開き始めてしまった。
「……なんだこれは。いったい何の妖術を使ってる。バケモノめ!」
「妖術?!」
「それはあなたがた魔法使いの得意分野でしょうに?」
「そんな目眩ましなんかよりオレたちは“真実”の方が面白いのさ」
フォグの額から脂汗がにじみ出る。
「これは近い未来に起こるかもしれない“真実”でございます」
「“かもしれない”ってのは場合によっちゃ回避もできる“かもしれない”って意味の“かもしれない”ってことさ」
「そうでございます、つまり今すぐにでも助けに戻ってあげればよいだけなのです!」
「だから力を使うんだよ。大鷲にでも姿を変えてひとっ飛びすれば間に合うかもしれねぇ」
── 惑わされるな……!
フォグは己の心に警鐘を鳴らした。洞窟の中で“力”を使うことは禁じられている。
── これは夢だ!
夢の中で“これは夢なのだ”と疑うくらい鋭い感覚を持てとズブロッカは言った。
サーヤやアナが助けを求めているなんてありもしないまやかしなのだ。ヤツの言ってることは全て虚言なのだ。
「そうやって僕に魔法を使わせておいて力を奪おうってんだろう。何らかの方法で」
二つの口はまたケタケタと耳障りな笑い声をあげた。
「わかんねえ坊やだな、オレたちは今珍しく人のためを思って助言してるんだぜ?」
「うるさい!」
「姉さまの声が聞こえなかったのですか? あれはきっと焼け死ぬ前の断末魔でございますねぇ……」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
「人はなぜ死ぬのかねえ」
「早くしないと間に合わないかもしれませんぞ。さっきの声はさほど遠くない未来かもしれませんからね」
この時のことをフォグは後々になって何度も考えるようになる。あの時すぐにでも戻っていれば二人の命を救うことができたのだろうか──と。
本来であれば知り得ようのない未来。それを“まどわすもの”の言葉によって知ってしまったこと。まさにそれこそが後にフォグの心を引き裂かんばかりの苦悩に導いた元凶なのだということをこの時の彼はまだ気付いていない。
“知らないが故に救えなかった”のと“知っていたのに救えなかった”のではその重さに天と地ほどの差がある。
“まどわすもの”が”真実”を告げる。それ自体が“罠”であるなどはたして誰が思うだろう。
“あの時ああしてればよかった、こうしてればよかった”と思うのは本来未来がわからないことからくる後悔である。だが“まどわすもの”がフォグに与えたかったものは〈決定的な罪悪感〉であった。それこそが彼の力を奪うための一番の近道なのだと巨大な目玉は見透かしていたのである。
フォグは奥歯を折れんばかりに食い縛る。額の脂汗は未だ止むことを知らずだらだらとフォグの毛穴を開き続けている。
── 僕は……ズブロッカ様の言葉を信じる!
彼の思いは正しかった。
さらに言うのであれば彼はこの先何が起ころうとその思いを信じ続けるべきだったのかもしれない。極端な言い方をすればフォグがもっともっと図太く、あるいは僅かながら自己中心的で、
無論それならばそれで“まどわすもの”は手を変え品を変え、やはりフォグを窮地に追い詰めようとすることに変わりはなかったのであろうが。なぜならそれこそが彼の存在意義であり彼の“
獲物を捕らえんとするその牙はじわりと、そして確実に、フォグのすぐ喉元まで近付いてきていた。
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