《Fog side - 2》『死に一番近い洞窟』
家の中がこれほど広かっただろうかとフォグは考えていた。サーヤの部屋に入るとふわりと彼女の香りがする。
いずれこの香りも空気が完全に運び去っていってしまうのだろう。そして渇いた匂いが人の住んでいた気配を消し、
──もし、
フォグは考えていた。
──もしあの時僕がここを離れることがなければサーヤとアナを救うことができたのだろうか? 死なせずにすむことができたのだろうか?
ぐっと唇を噛み締めてみたが涙も出ない。悲しいのか悲しくないのかもよくわからなかった。寄せては返す波のようにフォグの心の奧底に眠る声は次第に大きさを増し、そしまた引いていく。
──全て僕のせいだ。僕が“魔法使いにならない”なんて言ったせいだ。これは罰なんだ。運命の流れに逆らってしまった罰なんだ…… サーヤを、アナを、殺したのは僕なんだ。
フォグのぶつけようのない憤りは記憶の翼に乗り一週間前に訪れたあのフォート=サガンの寺院での出来事を辿っていた。あの得体の知れない
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「惜しいな──」
ふうと大魔法使いの翁であるズブロッカは溜め息をついた。
「本当にそれでいいのか?」
フォグは目の前に立ちはだかる断崖絶壁を見上げた。それは遠目で眺めればまるでプレートの上に無造作に置かれた巨大なパイのような形状で地域住民からはエル=トポと呼ばれている巨大な一枚岩だった。岩壁には人ひとりがようやく入れるほどしかない洞窟の入り口が見える。
まるで巨人の背中を鋭い刀で斬りつけたように縦一直線にパクリと割れた細長い入り口だ。
フォグはこれから自ら魔法の力を封印するためにこの洞窟の中で七日間を一人で過ごすのである。
ズブロッカ翁はフォグの申し出をとても残念がった。だが──
普通の人間として生きたい。アナと共に普通に暮らしていきたい。罪悪感は感じるもののフォグの思いは姉に打ち明けた時と変わりはなかった。人間として生きていこうとする限り“力”を持つことは決して許されない。
そして一度封印した魔法は決して戻ることもないことをズブロッカ翁はフォグに告げた。
「この洞窟で七日間過ごせば僕の力は封印されるのですか?」
「この中で七日間過ごすというのは、つまり七日の間、死んでいるということに等しい」
「?」
「おまえの力を天に返すということは一度死に伏すことが必要なんだ。この洞窟は死の世界に最も近い場所、そこで神が世界を創造した七日間を過ごすことによって、文字通りおまえは生まれ変わることができる」
理解したような、そうでないような──フォグは少しの間、目を泳がせた。
「それは危険なことなのでしょうか?」
翁は少しの間、返答の言葉を探す。
「死は恐れることじゃない。“死んでしまったもの”に危険など存在するかね? いわばこの洞窟に入った時点でおまえは“死んでしまったもの”になるのだ。ただ──」
「ただ?」
ズブロッカ翁はここでまた「ふぅ」と息をついた。
「おまえの力がただ浄化されればいいんだが……中にはそれを奪わんとする“まどわすもの”もいる」
「大丈夫です、翁。“魔”の力などに決して惑わされません」
「惑わすからこそ奴らは“まどわすもの”なのだ。奴らはそれを
フォグは細く、ごくわずかに開かれている洞窟の入り口を見つめた。
「いいな、君が普通の人間になりたい──本当にそう思うのであれば、その力が完全に浄化されるまで洞窟の中で魔法を使うことは決して許されない。決して、何があってもだ」
フォグは強く頷くと歩き出した。
「行きます」
「目覚めている時に眠った後のことは保証できない。夢の中で“これは夢なのだ”と疑うくらいの鋭い感覚を持ちなさい。幼いフォグよ、決して“魔”の言葉に耳を傾けるのではないぞ」
ズブロッカはフォグの背中に声をかける。その声はフォグが洞窟に足を踏み入れて闇が外光を遮断するまで続いた。それはまるでフォグの身を守るための呪文のように。
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小さなフォグが体を横にしなければ入れないほど細い入り口だったにも関わらずしばらく歩いていくうちに足場は少しずつ広くなっていった。さらに奧へ奧へと進むにつれて外からは想像もできぬほどの空間が広がっていく。
幾ばくも歩かないうちにすでにどこに天井があるのかもわからぬほど頭の上の空間も高くなっていた。
ひんやりと冷たく、それでいて湿り気のない空気が彼を包み込む。“死の世界に一番近い場所”。フォグは自分の手のひらを触ってみた。感覚があるし、ほの温かい。
──確かに存在してはいるがもはや自分は“死んでしまったもの”に近いのだろうか?
どうにもピンとこなかった。
「さて」
フォグは近くの岩に腰を掛けて考えた。翁からは瞑想をしろとも座禅を組めとも言われてはいない。ここで七日間を過ごせと言われただけだ。
「“まどわすもの”か。いっそのことそんなやつでも話し相手になってくれた方が退屈しないですみそうだな」
フォグは苦笑した。
やがて闇に慣れてくるとフォグはどこからかぼんやりとした光の存在を感じた。
──おっとさっそくおいでなすったか? 魔か? 霊か?
だが、その光はどうやらフォグが腰掛けている岩の下あたりから発せられていることがわかった。苔だ。なるほど噂には聞いたことがあるがこれがひかりごけというやつか。苔は神秘的な緑青の光を放ちフォグを魅了する。それを見つめながらフォグはまるっきり暗闇というわけではないのだな、と少しだけ心が安らいだ。
“最初に声があった。次に光があった──”
この世界の成り立ちを説いた書物の最初の一文をフォグは思い出す。その光とはひょっとしてこんな感じの光だったんではないだろうか? だとすれば“最初の声”というのはいったいどんな“声”だったのだろうな。
フォグはしばらくの間、そんな思いを巡らせては空想の世界で遊んでみた。
── 何のため、この苔たちは光るのだろう? まさかボクのためというわけじゃああるまい。
“人間には光が必要だわ”と言ったサーヤの言葉を思い出す。
( あなたはその光を照らし出せる数少ない人物になれるかもしれないのよ? ── )
そうなのだろうか? そもそも外側からの光など偽りの光にすぎないのではないだろうか。
きっとあのアーレファンの森にいたブラックバードだって自分がただ気持ちよくなりたいから歌っていただけにすぎないだろう。この苔だって突き詰めて考えてみれば誰かのために光を放っているわけではない。それはあの太陽に至ってもそうだ。
自らを照らし出す光はおそらく内なる光なのだ。そしてその光を生かし、輝かすことができるのは一部の特別な人間だけなどでは決してない。それがフォグの考えだった。
フォグは視線をちらりと左右に動かした。
実をいうとフォグはこうしている間も“なにものか”の気配をいくつか感じていた。だが、どうやらそれらは自分に害を及ぼすというわけではなさそうだったのでじっとやり過ごしていたのだが ── フォグにはむしろそれらよりも気にかかったことがあった。
それらに対する恐怖心が薄い。いつもよりも遥かに。こういう場合、もっと恐れの気持ちがあってもよさそうなものなのだが、それはまるでただ目の前を他人が通り過ぎるのを見ているような感覚だった。
そんな得体の知れない気配や視線をあちらこちらに感じながらも一日目の夜は更けていった。
“生から少し離れた場所にいる──”
そうフォグがはっきり意識し始めたのは翌日の夕方辺りからだった。
この洞窟に入って丸一日以上経つというのにまったく空腹感がない。それどころか喉も渇かないので水一滴すら口にしていないのだ。
『食料や水は持っていく必要はない』とズブロッカ翁がそう言っていたのはてっきり断食などの苦行の一環だと思っていたのだがどうもそういうわけではないらしい。食事をとらなくてもいいのは助かるがこれはこれでなんだか少し寂しいものだなとフォグは感じた。
昨夜、“気配”たちに対し恐怖を感じなかったのも自分が彼らと同類になりつつあるためなのかもしれない。
“死”というものはこういった人間らしい感覚をひとつ、またひとつと失ってしまうということなのだろうか?
この洞窟にいればいるほど“怒り”や“喜び”といった感情が薄れていってしまいそうな気になってくる。
感情── さまざまな心の揺れ。その名のあるなしに関わらずそれらを全てひっくるめた総合的なものとしてのひとつの感情。
おそらくは“良い面”だけを残して他の感情を捨て去るといった都合のいいことなど人間には許されていないのではないだろうか。
悪の心が消えるということはすなわち善の心も同時に消え去る。そういうことなのではないかとフォグは考える。つまり無くなる時はまとめてごっそりと──である。喜びや虚しさ、悲しみや儚さ、そんないろんなものが詰まっているものが“感情”という巨大な一個の風船だとしたら、それは現状を維持するか割れて無くなってしまうかのどちらかでしかない。そういうイメージだ。
目、鼻、口、それら全てを合わせて顔と呼ぶように感情にも良い面と悪い面がバランスよく重なって初めて形成されているはずだ。
──バランス。
“出過ぎたものは引っ込め、隠れているものは引っ張り出す”
それを理性と呼ぶのならまさに魔法使いの役目というのはそれと似たようなものなのかもしれない。
彼らがこの世界の秩序を守っているように一人一人の心の中にも秩序を守るための魔法使いというものが潜んでいるのかもしれない。
フォグはまったく感情を持たない自分というものを想像してみたがどうにもピンとこなかった。それは人間というには哀し過ぎるからだ。もしもこの洞窟から抜け出すことができなかったら自分はそんな人間になってしまうのではないのかと少しそら恐ろしくなったその時だった。
ケタケタと甲高い笑いが洞窟の中に響き渡ったと思った次の瞬間、フォグの耳元で低い声が囁いた。
それは左右の耳から聞こえてくる雑音、いや、むしろ雑音同士が重なり合い、不協和音同士がハーモニーを奏でているといったような奇妙な、そんな声だった。
「あーあ、もったいねえ。止めちまいな止めちまいな、そんなこと」
フォグがピクリと振り返るとすぐそこに顔があった。真っ青な顔だった。さらにその顔を下からひかりごけが不気味に照らし出していたためフォグは思わず一歩跳び退き、おののいた。身体中の毛穴という毛穴が一斉にぶわりと開くのを感じる。
── 違う 。
それはこれまで感じていた気配とはあまりに違い過ぎていた。その姿はかろうじて人間や獣のように四肢に支えられているものの、フォグはその体から“生けるもの”の肉質を感じ取ることができなかった。それもそのはずである。彼のその顔にはあるべきところにあるべきものがなく、あってはならぬところにあってはならぬものが存在していたからだ。
“それ”はゆっくりと左右の目を開いた。
二つの“目”の中で細い牙のようなものがうねうねと蠢いているのが見える。フォグが目だと思っていたもの。それは二つの“口”だった。
フォグは身を強ばらせた。
本来ならば右目の位置にある“口”は言う。
「いやいや、そう言うな。この坊やは魔法の力を捨てて普通の人間のように暮らしたいのさ」
そして本来の人間であれば左目の位置にある“口”がそれに答える。
「なるほどなるほど、力さえ捨てれば普通の人間のように生きていけると信じているわけでございますな。それはまた随分と都合のいい考えですなあ」
そういって“それ”は口を開けて笑うのかと思ったがそうではなかった。
本来なら口の位置にあたる場所。そこには確かに“唇”は存在していた。だが、その開いた唇の中からぐにょぐにょとのぞいているもの、それは身の毛もよだつような巨大な一個の目玉であった。
“まどわすもの”が今、目の前に現れたのだ。
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