第四話 そして僕はライトノベルの主人公になる

  第四話 そして僕はライトノベルの主人公になる


 昨日の雨は夜半に上がり、今日は朝から秋晴れの空が広がっていた。セシリアは午前九時にやってくるという話であったが、隼人が呼び鈴によって目を覚ましたとき、時計の針はいったい何時を指していたか。

「まだ七時じゃん!」

 時計を見て泡を食った隼人は、寝間着姿で部屋を飛び出し、一階の居間にあるインターホンの親機に飛びついた。ところが受話器を上げてみると、子機のカメラが捉えていたのはセシリアではなかった。大柄で溌剌とした、隼人のクラスメイトである。

「木村君……」

「よお、昨日はありがとう。で、開けてもらえるか?」

「う、うん。ちょっと待ってて」

 隼人は急いで玄関まで行くと、ひとまず剛弘を居間に迎え入れた。そこは洋室で、中央に四角い食卓が据えられており、その食卓に接しているキッチンカウンターの向こうは台所になっている。反対側にはテレビラックがあり、よく母はここでテレビなどを見ていたものだ。ほかに戸棚や、ポールハンガーや、庭へ降りていける硝子戸がある。

 隼人は食卓にある四つの椅子の一つを剛弘に勧めると、自分は急いで二階の部屋に戻って、長袖の黒いシャツに着替え、ジーンズを穿いてからまた戻ってきた。

 十月の朝の肌寒さも気にならぬのか、剛弘は黄色い半袖のシャツを着て、筋肉のよくついた腕をあらわにしていた。隼人はガラスのコップに烏龍茶を注いで剛弘に出すと、剛弘とは食卓をなかにして座った。

「で、どうしたの、急に?」

「今日、あのロビン・フッドとかいう女が来るんだろ? で、まどかを殺したあの女悪魔をどうするか話し合ったりするんだろ?」

「うん、たぶん……」

 隼人がそう答えると、剛弘は凄みのある笑みを浮かべて親指で自分を指差した。

「俺にも一枚、噛ませろよ。厭とは云わせねえ」

「……わかった。いいよ」

 隼人はほとんど即答していた。剛弘にはその権利がある。そう思ったのだ。

 そして隼人と剛弘はそれぞれ学校に休みの連絡を入れ、二人であり合わせの朝食を摂りながらセシリアを待った。

 きっかり午前九時に呼び鈴が鳴った。


 相変わらずベールをつけて髪を隠し、白いブラウスに黒いスカートという姿のセシリアは、例の巨大な銀の十字架を担いで隼人の家の居間に入ってくると、それを壁に立て掛け、自身は食卓にある四つの椅子の一つに腰掛けた。剛弘がその左斜め前の席に着く。隼人は三人分の烏龍茶をコップに注いで食卓の上にならべると、セシリアの前に座を占めた。

 そうして三人が席に着くと、さっそくセシリアが口を切った。

「あらためて自己紹介しましょう。私はセシリア・ロビン・フッド。悪魔退治を家業としている者です。今回、友人の報せであなたに悪魔が憑いたと知り、来日しました」

「そうでしたか。なんか、ご迷惑かけてすみません」

 頭を下げた隼人が顔を上げたとき、セシリアはアイスブルーの瞳で剛弘を見ていた。

「あなたは本来的には無関係のはずですが……」

「乗りかかった船だ。途中で降りるつもりはねえ」

 するとセシリアは剛弘を睨んだが、頑固な魂のかたちをその面貌から見て取ったものか、ため息をついて顔を隼人に戻した。

「まあ、いいでしょう。ところで、本題に入る前に報告しておくことがあります」

 隼人は目を丸くして続く言葉に耳を傾けた。果たしてセシリアは淡々と述べた。

「昨日、あれから教会に手を回してもらって、孔雀院輝子、一条奈緒美、鳥居ゆらの三名を保護しました」

「えっ!」

 隼人は食卓に身を乗り出した。が、あまりのことにすぐには言葉が出て来ない。その空隙をついて剛弘が口を挟んだ。

「どういうことだ?」

「あの三人は悪魔にその心を歪められてしまったのです。ですから、保護です。数日前からカトリック系の病院に受け入れ体勢を調えてもらっていたのですが、ファムが去った今が好機と見て、病院に強制入院という措置を執らせていただきました」

「強制入院……」

 隼人はその言葉を繰り返してから、目の色を変えてセシリアを見た。

「それで、どうなったの?」

 隼人が鋭く問うと、セシリアはまるでカードを配るように淡々と答え始めた。

「検査の結果、三人とも脳に萎縮が見られました」

「萎縮……?」

「アルツハイマー病とよく似た症状です。彼女たちは三人とも言動がおかしかったり、情緒が不安定になったりしていたでしょう? だとすれば脳になにかある……そう思って検査してみたら案の定でした。彼女たちは脳に物理的な障害を負っています」

 聞いているうちに隼人は体が冷たくなってくるような気がした。心臓が痛い。右手で胸をぎゅっと押さえたところで、今度は剛弘が訊ねた。

「どうなるんだ?」

「アルツハイマー病は色々なことを忘れていきます。最初は短期記憶が出来なくなり、ついで古い思い出が零れ落ちていく。最後には脳が臓器の動かし方さえ忘れてしまって死に至ります」

 そこでいったん言葉を切ったセシリアは、隼人に眼差しを据えて云った。

「医者の見立てでは三人とも余命五年ということでした。二十歳までは生きられないだろうと」

 隼人の頭には落雷があった。椅子ごとひっくり返るかと思った。

 ――死ぬ? 孔雀院さんも一条さんも鳥居さんも死ぬ? それも二十歳で?

「嘘だ。そんなの」

「事実です」

「どうしてそんなこと云うんだよ!」

 隼人は叫んで右の握り拳を食卓に打ちつけていた。セシリアが憎いとさえ思った。

「治らないのか?」

「治りませんね」

「僕に出来ることならなんでもする」

「そういう問題ではないのです」

 セシリアは素っ気なく云うと立ち上がり、烏龍茶のコップを持ってその中身を一気に飲み干した。そして空になったコップを、突然床にたたきつけた。

 ガラスの割れる涼しくも危険な音が隼人の怒りを消し飛ばした。いったい、彼女はなにを考えてこんな暴挙に出たのか。

「見なさい」

 セシリアは砕け散り、尖った破片を剥き出しにしている硝子の残骸を指差した。

「あなた、これを元に戻せますか?」

「……できるわけないよ」

「そういうことです。彼女たちはもう壊れています。回復はしません」

 隼人はその割れたコップの破片を凝然と見つめた。それが砕け散った輝子たちの心のように見えた。と、セシリアが屈んで、そのしろい指で破片を一つまた一つと集め始めた。

「割ってしまってすみませんね」

「あ、うん。待ってて」

 隼人は椅子から立ち上がると、破片を踏まないよう気をつけながら、黄色いプラスティックのちりとりと雑巾を持って戻ってきた。セシリアが大きな破片をちりとりに集め、隼人は雑巾で小さい粒のような破片を集めた。

「俺一人、見てるだけで悪いな」

 気まずそうにそう云った剛弘に、セシリアはゆるゆるとかぶりを振った。

「三人がかりだと却って効率が悪いですからね。それにもう終わります」

「はは」

 隼人が苦笑いしたときには、もう破片集めは終わっていた。隼人が雑巾をちりとりに乗せて立ち上がったとき、まだ床に膝をついていたセシリアが隼人を見上げて云った。

「ところで、あの三人は依然としてあなたのことが好きなのです。それがたとえ植え付けられた、偽りの感情であったとしてもです」

「うん」

「どうせ長生きは出来ないのですから、せめていたわってあげて下さいね。彼女たちが死ぬまで傍にいて、愛しておあげなさい。と、これが私の云いたかったことなのです」

「うん、わかった」

 隼人は頷くと、ちりとりを棚の空いていたところに置いて食卓に戻ってきた。

 隼人が椅子に座り直すと、もう居住まいを正していたセシリアがまた話し始めた。

「さて、本題です」

 隼人も剛弘もたちまち背筋を伸ばした。いよいよファム・ファタールだ。彼女が戻ってくるまでに、対策を立てておかねばならない。セシリアは話の端緒をどうするか少し迷っていたようだったが、やがて口を切った。

「昨日、私は孔雀院輝子たちを病院に収容することで頭がいっぱいでした。ですから、ファムが突然あの場を飛び去った理由について心づいたのは、病院を出たあとでした」

「ファムが飛び去った、理由?」

 隼人が訊ねると、セシリアは一つ頷いた。

「私には一人の協力者がいます。名をミザリィと云って、天界から悪魔たちのあいだに入り込んだスパイで、フッド家や教会に色々な情報を流してくれていたのです。私が思うに、ファムはミザリィの裏切りに気づいたのではないでしょうか。そう思って急ぎ警告の電話をかけたのですが、電話は通じませんでした」

「じゃあ、もしかして……」

「はい。ミザリィは、もうファムに始末されたのかもしれません。となると、厄介なのが真名を知る術がなくなるということです?」

「真名?」

 剛弘が鸚鵡返しに呟いて小首を傾げたが、その単語に聞き覚えのあった隼人はきちんと心得ていた。

「前にファムからちょっとだけ聞いたことがある。悪魔の本名だよね? たしか真名を知られた悪魔は、もう逆らえないって」

「そうです。ですから悪魔退治においては、相手の真名を知ることが非常に重要です。私はミザリィにそれを調べてもらっていたのですが、ミザリィがやられたのなら、もうファムの真名を知る術はありません」

「てことは、どうなるの?」

「実力で倒すしかないということです」

 セシリアは壁に立て掛けた十字架に視線をあてた。隼人も剛弘もその視線を追いかけ、巨大な十字架をじっと見つめた。それはなにか悪魔に対する戦いの決意を現しているもののように見えた。

「まあ、大丈夫だろ。なんてったってこっちにはプロがついてるんだからさ」

 剛弘が明るくわらいながら顔を前に戻すと、セシリアは神妙な顔をしてこう云った。

「過度の期待をされても困ります。私はこれが初陣ですから」

 えっ? と目を丸くした隼人に向けて、セシリアは淡々と語り出した。

「現代においては、悪魔というものは滅多に現れるものではありません。フッド家の者が悪魔に相対するのもこれが百年ぶりのこと。父祖より技と使命を受け継いできましたが、なにぶん実戦は初めてですから、どこまで戦えるかはやってみないとわかりません」

 隼人は思わず剛弘と顔を見合わせた。自分たちにセシリアを宛にしていたところがあったのは事実だったからだ。しかし剛弘はその逞しい胸の前で腕を組むと、やはり莞爾と笑った。

「まあ、それでもなんとかなるだろう」

「はい、なんとかしなくてはいけません」

 セシリアが剛弘の尾についてそう云ったので、隼人もなにか発言しようと口を開きかけた。しかしそのとき折悪しく呼び鈴が鳴った。

「あ、はい――」

 椅子から立ち上がった隼人に、セシリアから鋭い声がかかる。

「警戒してください」

 云われずとも隼人とてファムのことを失念していたわけではなかった。その上で楽観していた。

「ファムならいちいち呼び鈴鳴らしたりしないよ。窓とかぶち破って入ってくるでしょ」

 隼人はそう云いながらインターホンの親機に歩み寄り、受話器をあげると同時にカメラの映像に目を注いだ。果たしてそこに映っていたのは、実に意外な二人組であった。

「も、もしもし……?」

 すると画面のなかの二人組はインターホンの子機に顔を近づけた。

「おっす、如月」

「ちょっと開けてよ」

 隼人は驚きのあまり二の句が継げなくなった。と、隼人の背後に立った剛弘が目を丸くする。

「武田と上杉じゃねえか」

 そう、そうなのだ。やってきたのはあの武田と上杉であった。武田は赤いTシャツにジーンズ、上杉は緑色をした長袖の服にベージュのチノパンという装いである。

「お友達ですか?」

 セシリアのその問いには、剛弘が答えた。

「クラスメイトだよ。こいつら学校どうしたんだ? って、俺も人のこと云えねえが……」

「なにか、あったのかも」

 隼人はそう独りごちてから、受話器越しに武田たちに声をかけた。

「すぐ開けるからちょっと待ってて」

 そうして受話器を下ろすと、隼人は居間から廊下に出た。

 隼人の頭には、まどかの死や輝子たちの入院があった。特にまどかの死については、武田もあれでなかなか衝撃を受けたらしい。ひょっとしたらそのことで、自分を問い詰めに来たのではないか。隼人は一方的にそう思い詰め、ともかく応対せねばならぬと玄関までやってきて靴に足を突っ込んだ。

 そのときセシリアが追いかけてきてまた云った。

「警戒して下さい」

「あの二人は大丈夫だよ。それよりファムがこのタイミングで飛び込んで来ないかが心配だ」

 隼人はむしろ自分こそがセシリアに注意を促しながら、なんの備えもなく鍵を開け、玄関の扉を外側へ向かって押し開けた。その瞬間である。一つの青白い手が外から扉の縁を掴んだかと思うと、扉を奪うように開けた。隼人はドアの取っ手が自分の手から吹き飛んでいったことに目を丸くした。その丸くした目で、すぐ前に立っている二人の男子を見た。

「武田君、上杉君……」

 どうやら格子門を越えて、勝手に前庭まで入ってきたようだ。それはともかく、隼人は二人の顔色が悪いのに気づいて心配してしまった。

「やあ、どうしたの。急に? ていうか、顔色悪いよ?」

 武田も上杉も真っ青だった。いつもは二人とも紅顔であるのに、今日は蒼白、まさに死人のような顔色である。果たして武田と上杉はにたりと笑った。

「はーやと君、聞いたぜ?」

 上杉にそうれ狎れしく名前を呼ばれて、隼人は初めて悪い予感を覚えた。なにかが違う。そう思って後ずさったところを、今度は武田が云った。

「おまえさ、悪魔と契約して山本たちを云いなりにしてたんだってな? どうりでおかしいと思ったよ」

 今度は声が出なかった。いったいそのことを、どうやって知り得たのか? 隼人が愕然としているあいだに、また上杉が云う。

「ずるいなあ、汚いなあ。俺、隼人君がそんなことするなんて思ってなかったよ」

 上杉は片手で顔をぴしゃぴしゃ叩きながら、どこか情緒の壊れたように続けた。

「でもさあ、気持ちわかるぜ。俺だって女の子、云いなりにしたいもんな。だからさあ、俺たちもさあ、悪魔と契約しちゃったあん」

「え……?」

「おまえらぶっ倒せば、孔雀院さんたちくれるんだよと。だから」

 上杉の手が蛇のように伸びてきて隼人の喉を締め上げた。そのときの言葉より、行為より、手の冷たさにこそ、隼人は愕然としたように思う。

「如月!」

 剛弘がそう声をあげる一方、セシリアは身を翻して居間のなかへ飛び込んでいった。十字架を取りに行ったのだろう。彼女が冷静に装備を調えに行ったのに対し、剛弘は猪突猛進に割り込んで来ようとした。ところがそんな剛弘の前に武田が立ちはだかる。

「よお、木村君。このあいだは俺に偉そうに説教してくれたよな」

「てめえっ!」

 剛弘は問答無用で武田を殴りつけた。すると骨の折れるような脆い音がして、武田の首がおかしな方向に曲がる。しかし呆気に取られた剛弘の目の前で、武田は何事もなかったかのように顔を前に戻すと、剛弘の胸倉を掴み上げた。

「おっ! おっ?」

 剛弘の体が宙に浮かぶ。武田が剛弘の巨体を、片手で宙吊りにしている。

「そんな馬鹿な!」

「はっはあ!」

 叫ぶ剛弘を嗤って、武田は剛弘の体を廊下の奥へ抛り投げた。

 ――人間の力じゃない。

 隼人は愕然と思った。今の武田の力は、人間の範疇を超えている。隼人の喉を締め上げる上杉の握力にしたところで、万力のようだ。それに上杉のこの手の冷たさはどうしたことだろう。まるで死人のようではないか。

「上杉、君……武田君、どうしちゃったのさ」

 かろうじてそう声を絞り出したとき、隼人は上杉の向こうに大柄な女の人影を見た。豊かな胸の前で腕を組み、竜の翼を大きくひろげている。

「ファム・ファタール……!」

「一日ぶりだねえ、隼人」

 ファムは隼人を見て嬉しそうに嗤った。

「さあ、おまえをライトノベルの主人公にしてやろう」

「なにが――」

 隼人が感情的に反駁しようとしたそのとき、上杉の手の力が先に倍するほど強くなって、隼人はもう息が出来なくなった。薄れゆく意識のなかで、ファム・ファタールを睨みつける。

 ――武田君たちに、なにをした?

 そのとき清らかな風が吹いた気がした。ちょうど居間から巨大な銀の十字架を担いだセシリアが飛び出して来たのだ。

「ふっ!」

 セシリアはまず十字架の底で武田を突き飛ばした。ほとんど大砲の直撃を受けたも同然となった武田が玄関の扉の外へ吹き飛ばされ、ファムの足元に転がる。セシリアは間髪を容れず、十字架に指を滑らせて云った。

「三番形態デュランダル」

 直後に銀光一閃、セシリアの操る両手大剣が、隼人の首を絞める上杉の右腕を肘から切断した。上がり框に尻餅をついた隼人は、上杉の青白い手が自分の首からぶらさがっているのを見て嘘のようだと思った。上杉は切断された右腕を、目を丸くして見ている。しかし目を丸くしているのは隼人も同じだったのだ。

 ――やり過ぎだ。暴挙だ。

 命を救われたことよりも、隼人はセシリアが人の腕を断ち切ったことに衝撃を受けていた。と、上杉が右腕を掲げて笑った。

「痛……くない!」

「え?」

 そこで初めて、隼人は異変に気づいた。尋常に考えて、腕を切り落とされたとなれば血と絶叫を撒き散らしながら独楽のように回って倒れるのが普通である。ところが上杉は全然痛そうな素振りを見せない。また腕の切断面からも血が溢れ出して来ないのだ。

 ――そういうものなのだろうか。腕の切断というのは、僕が思っていたより痛みも出血も少ないものなのだろうか。

 隼人がそんな疑問に引き込まれたそのとき、セシリアが扉の外のファム・ファタールを鋭く睨みながら云った。

「ああ、これはあれですね。ファム・ファタール、あなたこの二人を殺しましたね?」

「おおさ。好みじゃなかったんでね。まあ、さっくりと。あとは欲望で餌付けして突っ込ませたってわけさ」

 隼人はそのやりとりを、どこか異国の言葉のように聞いていた。

「殺、した……?」

「隼人。この二人はもう死んでいます」

 云いながらセシリアは隼人の首にぶら下がっていた上杉の腕を取り上げ、投げ捨てた。

「立って。二階へ避難しましょう」

「待って。殺したって?」

「わかりやすく云えばゾンビです」

「ゾンビ……」

「マジかよ」

 このとき剛弘が咳をしながら立ち上がって隼人たちのところまで戻ってきた。武田と上杉が殺された。それが今や動く死体となり、ファムの走狗となっている。ファムの性格を考えればありそうなことではあるけれど、隼人はやはり衝撃と目眩を感じた。いったい、これで何人死んだのだ?

「立て、如月」

 剛弘が小腰を屈めて後ろから隼人を立ち上がらせようとした。セシリアは両手大剣を手に武田と上杉、そしてファムに睨みを利かせている。

「一時、二階へ避難です」

「ビシッとしろ、隼人!」

 業を煮やしたような剛弘のその叫びに、隼人はかっと目を見開いた。そうとも、こんなところでへたばっている場合ではない。まどかの仇を討つのだ。

 隼人がようよう立ち上がろうとしたところで、セシリアが云った。

「ついでに私のブーツを持っていってください」

 隼人はちょっとセシリアを見たが、黙ってその言葉に従った。下足のところにきちんと並べておいてあったセシリアの黒いブーツ一足を片手に、とっつきの階段を駆け上がっていく。

「行かすかよ!」

 体勢を立て直した武田が飛び掛かってくる。セシリアは大剣を寝かせると、剣の腹で武田を吹き飛ばし、上杉を打ち据えた。そしてファムを一睨みしてから、そびらを返して階段を駆け上がった。

 二階でセシリアを迎えた剛弘が素早く訊いた。

「ぶった切らなくてよかったのか?」

「ゾンビは切っても無駄です。四肢を切断したところで止まりません。這ってでも迫って来ますよ」

 その言葉に隼人は軽く身震いした。そんな隼人にセシリアが視線をあてる。

「二階で一番大きな部屋はどこですか?」

「父さんと母さんの寝室」

 隼人は云うが早いか先に立って二人を案内した。その部屋は、隣の隼人の部屋の倍ほども広かった。もう十日以上も使われていないダブルベッドが、ベランダに続く硝子戸からの光りに照らされている。他にも箪笥や鏡台などの家具があったが、セシリアが問題視したのはダブルベッドであった。

「あのベッドが邪魔ですね。ちょっとどけてください」

「バリケードにするのか?」

「いえ、壁際に寄せるだけで結構です。ベランダの硝子戸は塞がないで。光りが遮断されると却って面倒ですから」

 セシリアは云いながら大剣を床に突き立て、隼人の手から引ったくった自分の靴を急いで履き始めた。隼人は剛弘と顔を見合わせた。疑問は山ほどあるが、いちいちそれを問い糾している場合ではない。武田や上杉は今にも体勢を立て直して階段を駆け上がってくるだろう。ファムにしたところでそこの硝子戸から飛び込んでくるやもしれぬのだ。

 隼人と剛弘は迅速に動いた。力をあわせて大きなダブルベッドを縦にして壁際に寄せていく。そうして空いた空間に、ブーツを履いたセシリアが大剣を片手にすっくりと立った。そこで隼人はようやくの問いを投げた。

「で、どうするの?」

「私のブーツは爪先に鉄板が仕込まれていましてね。ファムを相手にする前に、まずはあのさまよえる二人を楽にしてあげましょう」

 それとこれとなんの関係があるのか。と隼人がさらに問いかけようとしたとき、ベランダに続く硝子戸が外から破られて、けたたましい音ともに武田が部屋に飛び込んできた。

「ヒャッハー!」

 同時に部屋の戸口から上杉が躍り込んでくる。

「死ね、死ね、死ねえ!」

 突然の挟撃に隼人は立ち竦んだ。剛弘さえ判断を絶したようだ。そのなかでただ一人、セシリアだけが冷静至極な顔をして携えていた大剣を素晴らしい滑らかな動きで変形させていった。

「十番形態アンジェラス」

 その言葉とともに、鈴蘭の花を伏せたような形をした巨大な銀塊が床に落ちた。そのときの音と衝撃もさることながら、隼人はその構造に瞠目した。武器ではない。あの巨大な銀の十字架は、十字架以外の形態を取るときは必ず武器のかたちをしていたのに、ここに来て武器とは違う形態を取った。

「これは、鐘……?」

 そう、まさにアンジェラスの鐘であった。それがこの部屋の中央に突如として出現したのだ。そのときにはもう武田と上杉は飛び掛かってきている。しかしセシリアはそんな二人に目もくれず、鐘の中心に向かって渾身の左回し蹴りを放った。鉄板入りのブーツの爪先が鐘の中央を叩き、そして美しい音色が一瞬で部屋を満たす。

 こんな美しい音色は聞いたことがなかった。隼人は忘我してその音色に心を奪われ、音が部屋のなかで反響を繰り返し、やがて細くふっつりと途切れるのに及んでも、なお夢を見ているような心地がしていた。その夢を破ったのは、目の前で武田がどうと倒れたときの大きな音だった。上杉もまた崩れ落ちてぴくりともしない。

「今のは……?」

 剛弘がまだなにかの音に聞き惚れているような顔をしながらセシリアに訊いた。セシリアは鐘に回し蹴りを放った姿勢のままでいたが、ゆっくりと脚を下ろしながら答えた。

「アンジェラスの鐘です。悪魔に憑かれた者を正気に戻したりするのにはこの鐘の音色を聞かせるのが一番でしてね。動く死体やらなにやらにも効果は覿面というわけです」

「なる、ほど……」

 隼人はごくりと生唾を呑み込んだ。映画などでは、たとえば吸血鬼は日光や十字架に弱い。ゾンビは焼かれたり頭を潰されたりすると活動を停止する。武田と上杉の場合は、今の鐘の音を聞いたことで、まるで操り人形の糸が切れたごとくに倒れてしまった。

「聖なる音色ってことなのかな」

「はい、まさに」

 セシリアはそう云いながらアンジェラスの鐘に歩み寄り、それを両手で一抱えにして持ち上げると空中に抛り投げ、そこで素早く指を走らせた。

「四番形態ロンギヌス」

 鐘は小さく折りたたまれたかと思うと、昨日にも見たあの銀色の美しい長槍に姿を変えていた。それを中国の武術家のように巧みに操ってみせたセシリアは、周囲の静けさを訝ってか、辺りに油断のない視線をあてた。

「ファム・ファタールは……?」

 隼人とて忘れていたわけではない。だがあの女悪魔の姿はどこにもなく、家全体がしんと静まり返っている。

「逃げた、とか?」

 剛弘のその言葉に、セシリアはかぶりを振った。

「彼女は隼人の魂を諦めていません。ですから隼人の願いを叶えようと、するはず……」

 そこまで云ったところで、セシリアはふとなにかに気づいたように目を瞠り、そのアイスブルーの瞳を隼人に向けてきた。

「待って下さい。そういえば私、まだあなたが彼女になにを願ったのか聞いていません」

「えっ? あれっ、云ってなかったっけ? 僕の願いは……」

「ライトノベルの主人公にしてくれ、だよねえ」

 突然のファムの声とともにその青い手がセシリアの足首を掴んだ。その手は倒れている武田の、影のなかから伸びてきている。そういえばファムは影に潜り込むことができたのだ。隼人が遅まきながらそれを思い出したときには、ファムは武田の影のなかから飛び出して立ち上がり、セシリアを逆さに吊り上げていた。それでも長槍を離さなかったセシリアはさすがである。しかしそれでファムの脛を薙ぎ払うより早く、ファムが腕を振り上げてセシリアを投げた。

 セシリアの悲鳴さえ、彼女の体が壁に激突する音に掻き消されてしまったようだった。壁に大穴が空き、セシリアは壁の向こうの隼人の部屋にまで体をめり込まされている。こちら側には両脚が伸びていたが、もうぴくりともしない。死んだか、生きていたとしてもしばらく動けないだろう。

「セ、セシリア……」

 もっとも頼りにしていた悪魔祓いエクソシストの沈黙に隼人は戦意を奪われたような想いがした。一方、剛弘はファムに向かって飛び掛かった。

「オリャア!」

 剛弘の渾身の力を込めた右ストレートがファムに向かって炸裂する。と見えて、ファムはその拳を紙一重で見切って躱すと、剛弘の腹に肘鉄砲を見舞った。その一撃で剛弘もその場に頽れた。

「ふん、他愛のない」

 ファムは足元に崩れていた剛弘を邪魔くさそうに蹴り飛ばすと、ここでようやく隼人に向き直った。その悪魔的な美貌に嗤笑が泛ぶ。

「これでやっと、二人きりだね」

 この両親のものだった居室は、ダブルベッドは壁に立て掛けられ、ベランダに続く硝子戸は壊され、壁には大穴が空きと惨憺たる有様だった。室内にいる六人のうち、武田と上杉はもう動かない。剛弘と、頭から壁に突っ込んでいるセシリアもぴくりともしない。残るは隼人とファム・ファタールだ。

 立ち竦む隼人を抱擁しようとでもいうのか、ファムは両手を広げて隼人に迫って来た。隼人は我に返るや指を揃えた右手を怯えたようにファムに向けた。

「来るな……!」

「おや、どうしてだい? 醜い家鴨あひるの子が白鳥になったみたいに、おまえも本当の自分って奴になりたかったんだろう? だからこその『ライトノベルの主人公になりたい』じゃないか。その願いを叶えてやろうと云ってるあたしを拒む理由がどこにある?」

「夢だ夢だ。馬鹿な夢を見たんだ!」

 思えばファムには夢を壊された。このうえ魂まで奪われるなど、冗談ではない。隼人は屹然とファムを睨み、泣き出しそうな目をして云った。

「僕は、もう、おまえにこの魂を譲り渡す気はない」

「じゃあどうする?」

 答えの代わりに、隼人は叫んだ。相手に見極められているのは感じていたが、自分にはこれしかないのだから、愚直に叫んだ。

「スターランサー!」

 右腕の肘から先が光りの槍となって迸る。ファムはそれを軽やかに躱すと、一気に距離を詰めてきた。胸焼けしそうなほどに甘い香りが見えない靄となって頭を覆う。その甘い靄のなかで、ファムは隼人に誘惑するように云った。

「冷たいじゃないか。あたしとおまえは比翼連理、だろう?」

「違う!」

 隼人は奥歯を噛みしめて叫んだ。鬼の形相になって声を振り絞った。

「おまえは、僕の、敵だ――!」

 肘から先はまだ光りの槍となっている。隼人は今、それを剣のように操ってファムを袈裟斬りにしようとした。だがあえなく躱され、勢い余って転んでしまう。弾みで腕から先も元に戻った。そんな隼人を、ファムは爪先で仰向けにひっくり返した。天井を背景に、青い女悪魔の姿が見える。

「あくまであたしに逆らおうってのかい?」

「ああ」

 隼人はふたたびスターランサーを放とうとしたが、それを見抜いたファムに右腕を踏み抜かれた。苦悶の表情を浮かべる隼人に、ファムはもう見せかけの愛情さえ浮かべぬ冷たい目をして云う。

「それならすべてを御破算にして、もう殺しちまおうか!」

 隼人が死と敗北を覚悟して目を瞑った、そのときである。

「うおおっ!」

 雄々しい叫び声が聞こえて、隼人は弾かれたように目を開けた。

「なにっ?」

 ファムが動揺の面持ちで肩越しに背後を見やる。だがもう遅い。恐らくしばらく前から意識があって、好機を窺っていたのだろう。今まさに、剛弘がファムを後ろから羽交い締めにしてのけた。それは見事な不意打ちだった。

「木村君!」

 隼人は一声叫ぶや立ち上がった。ファムと剛弘がもみ合っているうちに、隼人の右腕を踏んでいたファムの足も動いて、隼人は自由になっていた。

「この……離せっ!」

 ファム・ファタールの力ならば剛弘をどうとも出来そうなものであった。しかし今の剛弘は一味違うのか、ファムに腕を振り回されようと竜の翼で叩かれようと小揺るぎもしない。それどころか豪気にわらって隼人に云った。

「隼人、今だ。やれ。俺ごとそのスターなんちゃらでこいつを串刺しにしろ!」

 隼人は背筋に冷気が走る想いがした。剛弘ごとファムを仕留めろだって?

「出来るわけないよ!」

「いいからやれ!」

 そう隼人に大喝を浴びせる剛弘の目は、もうファムへの殺意一色に染まっている。

「俺はこいつを許せんのだ。だからやれ。絶対やれ。今ここでなにもしなかったら、俺はおまえを、一生恨む!」

 隼人はその言葉に胸を打たれた。それは侠気のゆえである。それは剛弘の侠気にあてられただけかもしれなかったが、自分にもこんな男らしさがあったのだと場違いにも喜びながら、隼人はゆっくり右腕を起こした。指先を揃えて、ファムの体に狙いを定める。

「くっ!」

 ファムの顔から余裕が消し飛んだのを見て、隼人はこれが本当の好機なのだと悟った。あと一声叫ぶだけで、ファムを仕留められる。だが剛弘をも殺してしまう。本当にそれでいいのか? 隼人がそのことになおも躊躇していると、ファムが激して叫んだ。

「いい加減にしろ!」

 空中に青い光りがきらめいた。かと思うとそれは十本からなる氷の短槍となり、それぞれが空中から剛弘の背中に狙いを定めた。

「木村君!」

 まるで隼人のその叫びが号令となったかのように、氷の短槍は剛弘の逞しい背中に一斉に突き刺さった。たまらず剛弘は叫び声をあげ、同時に口から血を吐いた。だがファムを羽交い締めにする腕からは力が抜けない。この女を地獄の道連れにする。剛弘の目はその執念に輝いていた。

「やれ! 隼人!」

 その鬼気迫る叫びに動かされ、隼人は涙を振り払って目に力を込めた。ファム・ファタールの口元が引きつる。

「おい、待て……友人ごとやるのか?」

「ぶっ殺せ!」

 剛弘の鬼の面魂が、隼人をもまた鬼にした。このとき隼人は、どちらかといえば自分の意志というより剛弘の鬼気が乗り移ったような感じで絶叫した。

「うわああああっ!」

 こうした叫びは、無意味なようで無意味ではない。人は叫ぶことで、自分自身を鼓舞し、常ならぬ勇気を奮い起こすことができるのだ。隼人は構えていた右腕の先端を、ファムの胴体目掛けて勢いよく突き込みながら叫んだ。

「スターランサー!」

 右肘から先が光りの槍となって伸び、それはファムと剛弘をもろともに貫いた。その瞬間、ファムは瞳を抜かれたように愕然とし、剛弘は満足げに微笑んだ。

 このスターランサーはファムを相手に何度も躱されてきたけれど、今こそはファムを串刺しにしてのけた。だからきっと、この力はこのときのためにあったのだ。

「そんな……馬鹿な……」

 ファムがそう力なく呟いたときである。彼女の姿が崩れ始めた。まるで映画で観た吸血鬼の最後のように、全身が光りの塵となって崩れていく。その豊艶な女の肢体は不出来な泥人形のようになり、やがてその人型も崩れて、あとにはなにも残らなかった。同時に、剛弘が大の字になって倒れた。

「木村君!」

 はっと我に返った隼人は、右腕が元に戻るのを確かめると剛弘に駆け寄ってその傍らに膝をついた。だが剛弘の背中の下からは、血溜りが恐ろしい勢いで広がっていき、もう手の施しようがない。

「き、木村君……」

「よお、そんなしけた顔すんなよ」

「でも、でも、僕は……」

 後悔に胸を刺し貫かれている隼人に対し、剛弘は優しい目をしてゆるゆるとかぶりを振った。

「気にすんな。どっちみち俺は、あの女悪魔に背中をやられてたんだ。助からなかったさ」

 それは氷の短槍のことを云っているのだろうが、隼人にはそれさえも自分が躊躇していたせいだと思った。隼人は泣きながら剛弘の右手を、双の手で包み持った。

「君たちは、幸せになれたんだ!」

 剛弘はちょっと目を丸くしたが、すぐにあきらめ顔になって目を閉じた。

「まあ、しょうがねえよ……済んじまったことはよ……」

「死なないで」

「さて、そいつは無理な相談だな。体の真ん中に穴あいてるし……」

「木村君」

「寒い……」

 それきり隼人が何度呼びかけても、剛弘は返事をしなかった。指一本動かさない。隼人はそれでも声をかけたり、その体を揺さぶったりしたが、やはり剛弘は目を開けなかった。やがて隼人は剛弘の呼吸が止まっているのに気づいた。そしてそれから幾許かの時間をかけて、ようやく剛弘の死を受け容れた。

 そのうちにセシリアを助けねばならない、という考えが頭の片隅で動き始めた。彼女は壁に頭から突っ込んだまま気絶しているのだ。早く助けて、場合によっては救急車を呼ばねばならない。それなのに剛弘の死に顔から目が離せなかった。と、そんなはずもないのに、剛弘の声が聞こえた気がした。

 ――おう、ビシッとしろ、隼人。

 ここ数日で何度となく云われた言葉だった。もし剛弘が生きていれば、こうしてまごついている自分を見下ろしてそう云ったに違いない。隼人はそう思って、ようやく、ぎこちなくではあるけれど笑った。

「うん、ビシッとするよ、木村君」

 セシリアを助けよう。隼人はそう決意して立ち上がった。セシリアを助けて、彼女が意識を取り戻したら、剛弘のおかげでファムを倒すことができたのだと語ってやるのだ。剛弘の命がけの勇姿を一人でも多くの人に知ってもらいたい。そして願わくば、剛弘とまどかが天国で再会できますように――。

「はい、めでたしめでたし」

 突然、足元からそうした女の声が聞こえて、隼人は凍りついた。

「え……?」

 嘘だ嘘だ、空耳だ。隼人はそう切実に祈りながら、ぎこちなく自分の足元に視線を注いだ。そこに自分の影がある。その影のなかから、青い女の顔が浮かび上がってきていた。それはたちまち影から抜け出して、屹立し、竜の翼をひろげて隼人の前で腕を組んだ。

「ふふっ」

 その笑顔を前に、隼人は悲愴な顔をして後ずさった。こんな馬鹿な話はない。どうして彼女が生きているのか。

「ファ、ファム・ファタール!」

「もちろん、あたしだよ」

 ファムは愉快そうに嗤って、竜の翼で部屋の空気を一打ちした。見れば見るほどファムである。自分に悪夢をもたらしたこの姿を見間違えるはずがない。隼人はこれが幻覚であるよう祈りながら、ふるえる声でうったえた。

「ど、どうしてだ! 確かにスターランサーで、おまえを串刺しにしたはずなのに!」

「ああ、串刺しにされたよ。だがスターランサーはあたしの与えた力だ。あれでは、最初からあたしに傷一つつけることはできなかった」

 あまりのことに声もない隼人を、ファムはせせら笑った。

「考えてもみろ。自分を脅かすような力を相手に与える馬鹿がどこにいる?」

「で、でも、おかしいぞ……! だったらどうして、やられたふりなんかしたんだ?」

「おまえの願いを叶えるためだよ」

 ファムはそう云って左手を軽く掲げた。するとその手に、またしてもあの本が出現した。緑色の装丁に、美少女の表紙が添えられた、ライトノベルの概念書だ。

 ファムはその本をぱらぱらと捲ると云った。

「ライトノベルの主人公になりたい……それがおまえの願いだったろう? で、あたしはライトノベルのテンプレートにおまえを当て嵌めることにした。ラノベと一口に云っても色々だが、要諦だけを抜き出せばこんなもんなんだ。つまり『可愛い牝と選ばれし者的な特殊能力がセットでやってきて、退屈な日常よさようなら、そして本当の自分よこんにちは、ってね。ついでに憎たらしい敵役を出して、そいつを倒してスカッとさせてやればいいわけだ』――あたしはそう考えた。わかるか、この意味が?」

 ファムは手にしていた概念書を手品のように消すと、隼人に悪意ある微笑みを送った。隼人は自分がこの悪魔と出会った当初から、あまりにも大きな罠のなかにいたことを、ようやく感じ始めていた。

 ファム・ファタールが嗤う。

「あたしはまずおまえに異能の力を与えた。それから親のいない一人暮らしを実現してやり、女たちの取り巻きを作ってやった。だがそれだけでは不十分だ。憎たらしい敵役を出して、そいつを倒してスカッとさせてやる――という部分が抜け落ちてるからね。だからおまえに戦ってもらう必要があったのさ」

「じゃあ、おまえは……」

「もちろんすべてが計算通りにいったわけじゃない。特にミザリィの裏切りとロビン・フッドの介入は想定外だ。だが隼人、おまえが造反するのは筋書き通りなんだよ」

 見えざる衝撃が隼人を打ちのめした。つまり自分は猿回しの猿だったのだ。

 あはははは――とファム・ファタールが哄笑する。

「あたしが人間心理の機微に通じていないと思ったか? 親を殺され、女たちの心をねじげられ、なかでも一等好きな女が殺されたとなれば、いくらおまえが意気地なしでも叛旗を翻すだろうと思ったさ。案の定だったねえ、隼人。だがあたしの掌の上だったんだよ、隼人。高校を卒業したら殺すというのは別に嘘じゃあなかったが、二年も待つのはしんどいからね。期待通りに動いてくれてよかったよ。ラノベの主人公らしくさ!」

 そこでファムは隼人の絶望の顔を見てまたわらい、傷口に塩を塗り込むように続けた。

「ここまで云えばあとはもうわかるだろう? 雨の公園でおまえが逆らったとき、おまえの放つスターランサーを懸命に躱してのけたのも演技だ。そこの男があたしを羽交い締めにしたのも、その気になれば簡単にふりほどけたが、ここらがクライマックスだと思ってピンチのふりをしたのさ。おまえがぐずぐずしてるから、男の背中に氷の槍を突き刺したりしてやったがね。でもって、おまえが切り札として使うだろうスターランサーは、実はあたし相手にはなんの効果もないってわけだ。どうだ、完璧だろう?」

「ふざけるな」

 隼人は強張りきった声でそう切って捨てていた。

「ふざけるな、木村君が命を懸けたんだぞ!」

「ああ、そうだねえ。友の死の上に仇敵を討ち取ったわけだ。筋書きとしちゃ、上々だろう。だが、もう幕は下りたんだよ? あとはエンディングの時間だ」

「エ、エンディング……?」

 その言葉に隼人はなにか不吉なものを感じて後ずさった。だがすぐに背中を壁に押え込まれてしまう。つまり逃げ場はない。うふっ、と嗤ってファムが隼人に一歩、また一歩と近づいてくる。

「そう、エンディングさ。エンディングでは、ライトノベルの主人公は最後の使命を果たさなきゃならない。それはメインヒロインと結ばれ、彼女を幸せにすることだ」

 ファムの目が炯々と光る。それは今まさにずっと欲望していた宝石に手を伸ばそうとするときの、毒婦の目だった。

「メインヒロインって……」

 隼人が掠れた声で呟くと、ファムはまたしても嗤った。

「もちろん、あたしだよ。あたしとおまえは一蓮托生、比翼の鳥、連理の枝、鴛鴦の夫婦、あたしがおまえの運命の女ファム・ファタールだ」

 そう云いながら、ファムは隼人の目の前に立ち、隼人の顔に顔を接した。その甘い香りと悪魔的な美貌に、隼人はすべての感覚を支配されたような気がした。そして耳に悪魔の歌声が吹き込まれる。

「さあ、隼人。あたしを幸せにしておくれ。おまえの恐怖で、絶望で、あたしとの約束を果たしておくれ。心臓を抉り出して血を流し、命燃え尽きて最後に残ったものをあたしにおくれ」

 そこでファムがかっと目を見開き、牙を剥き出しにした。悪魔的な美貌のヴェールを脱ぎ捨て、荒々しい獣の素顔をあらわにした。その落差、その変貌は、隼人を心を打ち砕いて恐怖の虜にするのに十分だった。

「さあ、おまえの魂を寄越せ!」

 ファムが右手の黒い爪で隼人の心臓を抉り出そうとする。それを隼人はどうしようもない。運命は決したのだ。悪魔と契約した者は、やはり破滅するに決まっていた。

 隼人は目を閉じ、一筋の涙を流した。

 ――ごめんよ、山本さん。ごめんよ、木村君。やっぱり僕なんかじゃ駄目だったよ。

 両親の顔が、剛弘の顔が、まどか、輝子、ゆら、奈緒美、武田と上杉、そしてセシリアの顔が自分の心のうえを流れて過ぎる。

 そして隼人の死をもって最後の幕が下ろされようというとき、天使の羽音がした。羽ばたく音が聞こえた。それがいやに生々しくて、隼人は天使が助けに来てくれたのかと儚い希望を懐きながら、一度は瞑った目を開けた。すると頭の白い、胴と翼と尾羽は青い、引き締まった一羽の鳥が天井のあたりを縦横無尽に飛び交っているのが見えた。

「鳥……?」

 隼人は夢見るように呟いた。ファムもまた意外な闖入者に隼人の心臓を抉る手を止めたらしかった。どうやら武田の割った硝子戸から入ってきたらしい。それが足場を探して飛び回っている。

「あれは、ミザリィの飼っていたインコ……」

 なるほど、インコだ。そのインコはどうやら母の使っていた化粧台に目をつけたらしかった。鏡の頭を掴むようにして舞い降りると、羽を休めて毛繕いをしている。それが突然毛繕いをやめると、翼を大きくひろげて自慢げにいた。

「イシュタル!」

 その瞬間、まるで電撃にあてられたかのようにファム・ファタールがびくついた。それはほとんど劇的と云ってもいいほどの反応だった。青ざめ、わななき、目と口を丸くする。なにか云おうとしたらしいが、唇がふるえていてうまく声にならない。そんな感じであった。

 そのあいだもインコは翼をはためかせながら何度となく同じ文句を繰り返した。

「イシュタル! イシュタル! イシュタル!」

 インコがそうくたびに、ファムは見えない鞭を浴びているかのように体をぐらつかせた。隼人はそんなファムとインコを交互に見て、はてなと小首を傾げた。ファムのこの反応はどう考えてもおかしい。インコがわけのわからぬ単語を口走ったくらいで、こうも動揺するはずがない。

 と、ファムがようやっと声を絞り出した。

「や、やめろ……」

 ファムはこれまで隼人が見たこともない顔をしていた。先ほど剛弘に羽交い締めにされていたときの演技などとは違う、本気の追い詰められた顔だ。

 イシュタル、と隼人は自分でも口のなかで呟いてみた。一方、インコは翼を打ち鳴らして、盛んに囃し立てるように繰り返している。

「イシュタル、イシュタル、イシュタル――」

「おおっ!」

 ファムが顔を引き歪めて髪を掻き毟った。そして右腕を病的な感じで振り上げる。

「鳥の分際で、あたしの名前を呼ぶんじゃない!」

 ファムの右手の黒い爪が虚空を引き裂いた。それは壁に届いたはずもないのに、壁が引き裂け、鏡台も壊れた。インコは壊れた鏡台から素早く飛び立った。

「くっ!」

 ファムが瞳で鳥を追う。彼女はあのインコを一撃で仕留められなかったのだ。攻撃を外した。動揺のためであろうことは、隼人にも推察できた。そしてその理由も、もう透かし見えた。今、ファムが自分で口走ったからだ。

 あたしの名前。

 ファムは確かにそう云った。そして隼人が思い出すのは、彼女と初めて出会った日の晩に、悪魔の名前について話したときのことだ。

 ――悪魔が自分の本名を教えることはない。真の名前を知られるということは、相手に支配されるということだからね。このあたしにしたところで、真名を知られちまったら万事休すの百年目だ。

「名前……」

 隼人は小さく呟いた。一方、ファムは部屋を飛び回るインコに翻弄されている。そのインコが、飛び回りながら一つの名前を叫んでいる。

「イシュタル! イシュタル!」

「鳥があっ!」

 ファムはヒステリックな声をあげてまた黒い爪で虚空を裂いた。壁と家具が切り裂かれるが、インコは辛くもその一撃を逃れた。逃れて、ちょうどそのとき壁際に立った一人の女性の左肩に舞い降りた。

「あっ!」と声をあげた隼人は、思いがけない金色の光りに目を奪われて、そのまま魂まで引き抜かれた。壁に叩きつけられたときにベールが外れたのだろう。その黒いベールに隠されていた長い金髪をあらわにしただけで、まるで別人だった。夜が昼に変わったような印象さえ受ける。だがアイスブルーの瞳といい、右手に携えた銀の長槍といい、彼女に間違いない。隼人はぱっと顔を輝かせた。

「セシリア! よかった、気がついたんだね」

「はい。そしてもう大丈夫」

 セシリアは左手を胸元に当てたかと思うと、ブラウスのぼたんを一つ外して襟元を寛がせた。そうしてそこから、銀の鎖を通した十字架のペンダントを引き出すと、それをファムに向かって突きつけてみせた。

「悪魔イシュタル、十字架の前に跪け」

 ファムは息を呑んで悲愴な顔をしたが、逆らうことができず、唯々諾々とその場に両膝をつき、愕然と両手をつかえた。

 そう、そうなのだ! 隼人はもうなにが起こったのかわかっていた。

「つまりイシュタルっていうのが……」

「はい。この悪魔の真名です」

 セシリアはそう淡々とした声で肯んじると、ファムを、いや、悪魔イシュタルをアイスブルーの瞳で見下ろした。

「真名を知られた悪魔はその者に魂を支配される。つまりイシュタル、あなたは詰みました。ゲームオーバーです」

「馬鹿な……」

 イシュタルはまだ自分の身に起きたことが信じられないようだった。

「馬鹿な、馬鹿な、このあたしを誰だと思っている? あたしは金星の……おお、そのあたしが、こんな一羽の鳥のために!」

「その一羽の鳥を見逃したのはあなたでしょう。大悪魔がとんだ失態ですね」

 言葉とは裏腹にセシリアにはイシュタルを馬鹿にしたところがなかった。実に淡々とイシュタルに向かって話していた。それが突然、隼人の方に目を向けた。

「では隼人、おやりなさい」

「え?」

 目を丸くした隼人に、セシリアは右手に持っていた銀の長槍を差し出してきた。

「悪魔と契約したのはあなたです。今こそ自らの意志で、その契約を破棄しなさい」

 気を呑まれたのも一瞬のことで、隼人はまなじりを決するとセシリアの傍まで行き、彼女の手から銀の槍を受け取った。ロンギヌスと呼ばれていたこの槍は持ってみると意外に軽く、そして冷たかった。イシュタルは動けない。十字架を突きつけ続けるセシリアによって動きを封じられているからだ。

 隼人は槍を両手で握り締めると、ゆっくりイシュタルに向き直った。

「おい、よせ、隼人。あたしとおまえの仲じゃないか」

「ああ、そうだな。僕とおまえの仲だ」

 隼人は微笑んだが、イシュタルは笑わなかった。隼人の言葉の奥にある、炎のような決意を感じ取ったためだろう。果たして隼人は冷たい殺意に心を染めた。

「僕とおまえの仲だから、僕のこの手できっちり始末をつけてやる」

「こ、殺すのか……?」

 隼人は返事の代わりに槍を構えた。その穂先は、イシュタルの心臓を狙っている。

「スターランサーは駄目でも、この槍なら効くだろう?」

 イシュタルは息を呑んだが、やがて余裕のある微笑を浮かべた。

「まあ待て。話を聞け。今からでも遅くないから後ろの女を倒すんだ」

「なに?」

「その女の武器はおまえが持っている。壁にぶち込まれたダメージだって回復し切っているはずがない。今ならおまえでも倒せるはずだ」

「ああ、それは迂闊でした」

 セシリアが隼人の後ろで、自分の軽率さをあっさりと認めた。つまり彼女は唯一の武器を隼人に手渡してしまったのだ。それに壁に大穴が空くほどの衝撃を受けたのだから、もしかしたら今だって、立っているのがやっとかもしれない。

「今からでも遅くないから、もう一度あたしにつけ。そうすれば金でも女でも好きなものを宛がってやるぞ?」

「でもそのあとで僕を殺すんだろう?」

「ところがあたしはもうおまえに真名を知られちまってる。何千年と生きてきて初めてのへまだ。こうなると、あたしはもうおまえの奴隷なんだよ。なんならあたし自身がおまえの奴隷になってやってもいい。おまえのファム・ファタールに」

「へえ。いいね、それ」

 隼人は素っ気なく笑うと、イシュタルに向かって一歩を踏み出した。イシュタルがぎょっとしたように目を剥いた。

「おい、あたしの話を聞いてたか?」

「ああ、ちゃんと聞いたよ。そして答えはノーだ」

 イシュタルは驚愕と恐怖に目を見開いた。

「よく考えろ。未だかつてこのあたしを征服した男はいない。そのあたしと組めば、おまえは地上の暴君にだってなれるんだぞ?」

「だからなんだ? 頼むからもう喋るなよ」

「隼人」

「往生際くらい大人しくしてくれ」

 隼人は暗い目をしてさらにイシュタルに迫った。そしてそこで足を止め、頭のなかで数を数えた。一二の三で飛び出すために。

「隼人」

 ――一二の。

「隼人ォォォ!」

 ――三!

 隼人は床を蹴り、放たれた矢のようにイシュタルへ突っ込んだ。両手に握り締められた銀の槍は狙い過たずイシュタルの心臓を串刺しにし、その穂先は彼女の背中を突き破って飛び出した。イシュタルの口から漏れる叫びがぴたりと止まった。そして彼女の体が燃える。イシュタルのあの悪魔的に美しい肢体が、まるごと青い炎となって炎上する。

「お、おおおお――」

 まるで地獄の釜の蓋が開いたような、そこで釜茹でにされている亡者のような叫びをあげ、イシュタルは燃え崩れ始めた。豊艶なからだが焼け落ちて、黒い骨があらわになる。青い炎のなかで、美しかった顔もいつしか髑髏に変わってしまった。そしてその黒い髑髏さえ灰となると、やがて青の火勢が衰え、すべてが燃え尽きて消えた。

 そのとき隼人は自分の右腕からなにかが消えていくのを感じた。それは熱いような冷たいような、不思議な感覚を残して、隼人の腕から飛び去っていったのである。今、イシュタルに与えられた異能の力、スターランサーが失われたのだ。それはつまり、隼人にこの力を与えた者が消滅したことを意味しているのではないか。

「し、死んだ……?」

「はい」

 セシリアが突きつけていた十字架のペンダントを下ろして、満足そうに首肯した。

「悪魔イシュタルは滅びました。おめでとうございます、隼人」

「あ、ありがとう」

 思わずそう返事をしてしまってから、緊張の山を乗り越えた反動でか、隼人はその場に座り込んでしまった。それから涙ぐんで、セシリアに顔を向ける。

「本当に、ありがとう」

「感謝は神になさい」

 セシリアはそう云って微笑み、十字架を大切そうに握り締めると、突然、糸の切れたように前のめりに倒れた。驚いた例のインコがセシリアの肩から飛び立って窓の外へと逃げて行く。隼人は一瞬なにが起こったのかわからなかったが、人が倒れるときの大きな音が隼人に現実を叩きつけた。

「セシリア!」

 隼人は槍を投げ捨てるとセシリアに駆けつけて片膝をつき、その体を抱き起こした。やはり壁にめり込むほどの勢いで叩きつけられたのは、彼女に相当な打撃を与えていたのだ。

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