第三話 僕は戦うことに決めた

  第三話 僕は戦うことに決めた


 あれから十日あまりが経った。

 隼人の家には予想された通り、父の同僚や警察、親戚などが訪ねてきたが、彼らはみんなファムが追い払ってくれたので、今のところ問題なく社会生活を送ることができている。生活のしろとしては父の預金を食い潰していた。たとえその金が尽きても、高校を卒業するまではファムがいくらでも面倒をみてくれるのだろう。

 それよりも問題は学校生活のこと、そしてまどかたちのことである。

 隼人と四人の女は、教室で浮いた存在になっていた。それはなにも四人の女がところかまわず隼人に好意をぶつけるようになったからではない。それだけなら、やっかみと白眼視くらいで済んだだろう。しかし現状、隼人たちは教室で孤立しているのだ。なぜか?

 それは結論から云えば、まどかたちの頭がおかしくなっていたからだ。

 たとえばまどかは、いつでもどんなときでもへらへら笑っている女になってしまった。いつも笑顔を絶やさないと云えば聞こえはよいが、うっかり弁当をぶちまけたり、体育の時間にボールが顔に当たって鼻血を出したりしても笑っているのだから、だんだんと奇妙に思われてきたのである。また輝子はロマンティックに歯止めが利かなくなった。まるで夢物語のようなことを平然と語って、周囲を自分から遠ざけている。ゆらは元々無口だったのに拍車がかかった。もう仲のよい友達とも、授業で教師に当てられても一言も口を利かない。彼女が喋るのは隼人に対してだけだ。そして奈緒美は隼人に依存するようになっていた。ひょっとしたら彼女はもともと寂しがり屋だったのかもしれないが、それを制御できなくなっていたのである。今や隼人に少しでもなおざりにされると、すぐにめそめそと泣き出す女になってしまった。

 こうした変貌の結果、四人の女と、そしてその中心にいる隼人は、同級生たちから自然と距離を置かれてしまったのである。

 では隼人はこの十日間どうしていたか? まどかたちとどんな気持ちで逢瀬を重ねていたのか?

 まったく楽しくなかったかと云えば、これはもちろん嘘になる。しかし彼女たちを家に送り届けて一人になり、夢から醒めたような気持ちになるたびに思うのだ。

「僕は、本当にこれでいいのか……」

 隼人はよく晴れた夜空を見上げながらそう呟いていた。今日は日曜日だ。いつものように四人とデートをしてから、輝子の車で一人一人を家に送り、最後に輝子自身と、彼女の立派な邸宅の前で別れた。そのとき、時刻はもう午後九時を回っていた。

 隼人はまっすぐ家に帰ることもできたが、なんとなく夜の繁華街に紛れ込んでいた。夜の街が自分に仮初の自由を与えてくれるような気がした。しかし朝が来れば、また現実に追いつかれるのだ。このままこうしてまどかたちと過ごし、高校を卒業すると同時にファムに殺される。それが自分の人生になる。

「そんな人生でいいのか」

 決して、こんな風になりたかったわけではない。自分はどこで道を間違えたのか? それに自分が死んだあと、残されたまどかたちはどうなるのだろう?

 ――僕が悪魔と契約なんかしたばっかりに、みんなの人生を台無しにしてしまった。

 ファムに刃向かうという考えも頭を掠めたが、恐らくそれをした瞬間に自分は殺されるだろう。あるいは自分もまどかたちと同じように脳を壊されるか。だからもうどうしようもない。だのに完全に開き直ることはできず、心は宙ぶらりんになっている。

「僕は、どうすれば……」

 隼人は赤信号で立ち止まった。目の前をヘッドライトの洪水が流れていく。逃げたい。そう思って、その光りの流れに引き込まれそうになった、そのときだ。

「おっ、如月じゃん」

 隼人ははっと我に返って振り返った。案に違わず、そこには二人の友人の姿がある。

「武田君。上杉君」

 二人とも日曜日の夜だから繁華街で遊んでいたのだろう。初秋の晩は冷えるから、隼人を含めた三人ともが長袖を着ていたり上着を羽織っていたりした。

「なんか、久しぶりだね」

 隼人は少し嬉しくなって微笑みかけた。この十日間、まどかたちに囲まれていた隼人は、逆に武田たちとは疎遠になっていたのだ。すると不思議なもので、特に武田の横暴さには辟易させられていたはずなのに、今はまた一緒に遊びたいなどと思ってしまった。

「これからゲーセンとか、行かない?」

 隼人が淡い期待を胸にそう切り出すと、武田と上杉は顔を見合わせ、揃って自嘲の笑みを浮かべた。顔を前に戻した上杉が隼人の肩をぽんと叩いてくる。

「またまた。もう俺たちと遊んでる場合じゃないんだろ?」

「なんたって四股だもんな。乾く暇がない、ってか?」

 武田の下品な物云いに上杉がわらう。一方、隼人は顔を羞恥に灼かれながらか細い声で抗弁をした。

「そ、そんなんじゃないよ。そんなことしてないし。それに僕は、なんだか今は、武田君たちと遊んでたころが無性に懐かしいっていうか……」

 父や母を煩わしく思っていて、まどかに傍惚れしていて、武田を目の上のたんこぶのように感じていて、上杉に内心で見下されているのに気づかないふりをする。そんないいことなどなにもない退屈な日々が、今となっては愛おしい。

 だがもはや武田も上杉も、かつてのように隼人を格下と見てはいなかった。彼らの隼人を見る目には、卑屈さと隠しきれぬ悔しさが浮かび上がっていたのだ。

 武田は隼人の肩にれ狎れしく腕を回すと、顔に顔を近づけて云った。

「なあ如月先生、一つ俺にも教えて下さいよ。女を落とすコツってやつをさ」

 その瞬間、その一言が、隼人のなかのなにかを壊した。

「やめろ! そんなんじゃない!」

 隼人は叫びながら武田を突き飛ばしていた。後ろへよろけた武田は、一瞬呆気に取られたものの、みるみる顔を怒りにどす黒く染めていく。

「なんだ、こら。やんのか?」

 武田にそう拳を構えられ、また上杉にも冷たい目で射られ、隼人は彼らに背中を向けると一目散に駆け出した。

「なんだよ、あいつ」

 武田がそう吐き捨てたのが、隼人の耳にかろうじて聞き取れた。


 隼人は夜の街を無軌道に走っていた。景色が勢いよく後ろへ流れ去っていく。肺と心臓が限界をうったえてくるが構わずに走る。

「おい、隼人。どうした?」

 影のなかからファムがそう声をかけてきた。

「……うるさい!」

 隼人は忌々しげにそう吐き捨てると、なおも走った。ファムが構わずに話しかけてくる。

「おまえはあの二人を疎んじていたはずじゃなかったのか? それがどうしたんだ?」

「黙れ! もうついてくるな! 一人にしてくれ!」

 するとファムのため息が聞こえた。かと思うと、冷たい声が脚から腹を這い上ってきて、直接隼人の耳に注ぎ込まれた。

「はいはい。それじゃあおうちで待ってるよ。だが覚えておけ、おまえはどこへも逃げられやしないんだ。なんてったって、あたしと契約しちまったんだからね」

 ファムはそれだけ云うと隼人の影から抜け出し、強い風によって一気に舞い上がる凧のように夜空へと急上昇していった。一瞬、その姿を目に留めた通行人もいたようだったが、隼人はもちろん彼らを置き去りにして走り抜けていった。

 一人きりになると、目尻から熱い涙が散った。教室中の男子たちに憎まれているのは、隼人も薄々察してはいたのだ。無理もない。彼らのほとんどがあの四人の誰かに懸想していたのだから、それを一人で独占したとなれば妬まれて然るべきである。武田や上杉にも憎まれてしまった。隼人はそのことが無性に悲しかった。武田などは悪ふざけの過ぎる厄介な友人であったのに、それでも前の方がよかったと思ってしまったのだ。

 ――父さんも母さんも死んでしまった。山本さんたちも頭がおかしくなってしまった。全部夢だったらいいのに。

 どこかへ逃げたかった。隼人は夜の街が自分をどこかへ逃がしてくれるのではないかと夢見ているのかもしれなかった。

 ――どこでもいい。誰もいないところへ。どこか遠くへ。

「どこへ行くんです?」

 突然、銀の鈴を転がしたような美しい声がかかり、隼人は透明な壁にぶつかったように立ち止まった。

 闇雲に走っているうちに繁華街を外れて、どこか人気のない小路に来てしまったようだった。この小径には人も車も通らず、ただ街灯と人家の明かりがまばらに灯っている。

 そんな道の真ん中に一人の美しい女性が立っていた。白人だ。それは面貌を一目見ただけであきらかだった。背は隼人より高く一七〇センチほどもあり、年齢もまた隼人より少し年上に見えた。十八歳か、十九歳か、まずそのくらいであろう。黒いベールを被っているから、髪の色はわからない。瞳は冷たいアイスブルーで、唇は淡い薔薇色をしていた。服装は白いブラウスに黒い膝丈のスカートで、長い脚は黒いタイツに包まれており、また黒い頑丈そうなブーツを履いている。乳房は抜群におおきい。

 この白人の美女が、今、隼人に日本語で話しかけてきたのだった。

「誰……?」

 美女は隼人のその問いかけを無視して、まっすぐに隼人を指して歩いてきた。

 隼人は痺れたように動けなくなった。なぜといって彼女の隼人を見る氷の瞳は、罪人を咎めるように光っていたからだ。隼人はなにか裁判官に判決を云い渡される犯罪者のような気持ちで、大人しく女が近づいてくるのを待った。

 それにしてもこの美女が頭に被っている黒いベールはなんであろう? 隼人はその被り物には見覚えがある気がして記憶を掘り起こした。そう、これはキリスト教の修道女が身に着けているものだ。もしもこの美女がブラウスとスカートではなく、裾の長い黒の修道服を着ていれば、絵に描いたような修道女シスターになるだろう。

「教会の、人?」

 隼人がそう呟いたとき、ついにその美女が隼人の目の前に立った。

「私はセシリア・ロビン・フッド」

「ロ、ロビン・フッド?」

 それは中世英国における伝説的な義賊の名前ではなかったか。その名を受け継ぐ謎の美女は、小腰を屈めて隼人の顔を覗き込むと、氷の瞳を鋭く細めた。

「――あなた悪魔と契約しましたね?」

 隼人は雷に打たれたように驚き、仰のいた。

「し、知らない!」

 そう一も二もなく否みて後ずさる隼人に、セシリアは容赦なく言葉の矢を射掛けてくる。

「この十日間、あなたをずっと監視していました。悪魔があなたから離れたので、今が好機とご挨拶に伺ったわけです。それであなたとしてはどうなんです? この現状を、どうしたいと思っているのですか?」

「なんにも、知らない!」

 隼人は恐怖していた。恐慌さえしていた。いったい、この女はなんなのだ? なぜファムのことを知っているのか? そしてあるいは、自分を断罪に来た天使なのではないか。

「――っ!」

 隼人は悲鳴を呑み込み、身を翻すと脱兎のごとく逃げ出した。そんな隼人の背中にセシリアの声が追いすがる。

「私はセシリア・ロビン・フッド。覚えておいてくださいね。あなた、もう逃げられませんよ」

 逃げられない。ファム・ファタールからもロビン・フッドからも逃げられない。

 ――どうすればいいんだ、僕は?

 道に迷う隼人に、またしてもセシリアの声が届いた。

「神につくか悪魔につくか選びなさい」

「僕は……っ!」

 隼人は力尽きるまで走り続けた。そうしてもう一歩も動けないでいると、ファムが迎えに来てくれた。夜の街へ逃げんだところで、結局は逃げ切れない。そう思った。


        ◇


 古色蒼然たる巨大な館が、霧深い湖の上にひっそりと建っていた。悪魔図書館である。

 その悪魔図書館のなかは本棚の迷路になっているが、なかには本を読むための卓子と椅子が配されている場所もあった。今はそこに一人の利用者がいる。黒い鳥の翼を背負った、亜麻色の髪の美女だ。その美女が陣取っている巨大な机の上には無数の書物が山と積まれており、どの書物も栞や付箋をつけられていた。

 女は次から次へと新しい本を手に取っては、凄い速度で目を通していく。と、一羽の鳥が青い翼で空気を打ちながら、女に纏い付いていた。

「ミザリィ! ミザリィ! アイーン! アイーン!」

 セキセイインコのエルザだ。白い頭に青い胴と翼を持っているエルザは、覚えさせられた人語をいたずらに繰り返しながら、女の仕事を邪魔していた。

 その女――悪魔図書館の司書ミザリィは、本から目を上げるとうるさいエルザを咎めるように見た。そのとき出し抜けに電話が鳴った。

 ミザリィは本を卓子に置き、おもむろに立ち上がった。カウンターの向こうにある電話台まで歩いていくのは少し時間がかかったが、古典的なダイヤル回転式のアンティーク電話は気長にベルを鳴らし続けていた。

「はい」

 ミザリィが受話器を上げ、ようやく悪魔図書館に静寂が戻った。ミザリィには電話をかけてきた相手が誰なのかわかっていたので、挨拶を飛ばして早手回しに問うた。

「ロビン・フッド、彼には接触した?」

 その返事を聞きながら、ミザリィは二度三度と相槌を打った。

「そう。ええ、こっちも彼女の真名を調べているところよ。もうあと一歩という感じなんだけど、まだわからないわ。どうやら予想以上の大悪魔みたい。ええ、またなにかあったら連絡してちょうだい」

 それから二言三言話をし、ミザリィは受話器を置いた。

 悪魔を調伏するにはその真名を探り当てるのがもっとも確実である。しかしながらあのファム・ファタールは調べてみるとどうやら相当な大物らしく、伝説がいくつもあって、却って真名を絞り込めなかった。

 ロビン・フッドは例の少年に接触したというから、対決も近いであろう。

 ――急がなくては。

 そう決意を新たにしたミザリィの左肩に、このときエルザが舞い降りてきてまた鳴いた。

「アイーン」

 ミザリィはさすがに咎める気にはなれず微苦笑すると、エルザの首筋を指で撫でてやりながら云った。

「アイーンはもう封印された悪魔なのよ? 次はファムの真名でも覚えなさい」

「アイーン」

 エルザはわかっているのかいないのか、また同じように鳴いた。


        ◇


 隼人の通っている学校には校舎が二棟あり、それが三箇所の渡り廊下で結ばれている。鳥瞰するとちょうど漢字の『日』の字を横に倒したように見えるであろう。そしてこの校舎と渡り廊下で仕切られた中庭には植樹がしてあり、ベンチなども配されていて、生徒たちの憩いの場として開放されているのだった。

 そんな中庭のベンチに、隼人は一人で腰掛けていた。よく晴れた月曜日の昼休みのことである。まどかたち四人は当然のように隼人と昼食をともにしようとしたが、隼人はそれを厭がり、隙をついてここまで逃げてきたのだった。昼飯を食うためではない。実際、隼人は食事を手にしてはいなかった。一人になりたかったのは、昨夜、街で出会ったセシリアという女性についてよく考えたかったからだ。

「ねえ、ファム」

「ああん?」

 隼人の影法師から気怠げなファムの声が聞こえた。まるでうたたねしているのを邪魔されたような様子だ。隼人は微笑しながら続けた。

「セシリアって人、知ってる?」

「誰だい、それは?」

「いや、知らないならいいんだ」

 隼人はそそくさと話題を打ち切ってまた考え込んだ。セシリア・ロビン・フッドのことはファムも知らないらしいのだ。彼女はいったい何者であろう。どうしてファムのことを知っているのだろう。

 ――神につくか悪魔につくか選びなさい。

 突然、セシリアのその言葉が耳の奥に蘇った。だが今さら神の側について悪魔と戦うなどということが許されるのか。もうなにもかも手遅れではないのか。隼人は膝に手を置き、差し俯いて木陰と自分の影に陰気な視線を注いでいた。

 突然、俯いた視界に男子用の革靴が入り込んで来た。顔を上げると、黒髪を短く刈った、大柄で逞しい少年がこちらを見下ろしていた。

「木村君……」

 それはまどかの幼馴染の、あの木村剛弘であった。

「よお」

 ズボンのポケットに両手を突っ込んだままそう挨拶を寄越した剛弘は、云い訳でもするように話し出した。

「まどかの奴を追いかけてたんだが、この辺りで見失っちまってな。そうしたら代わりにおまえを見つけたんだよ。少し、いいか?」

「う、うん」

 隼人はベンチの真ん中に座っていたのが、右に動いた。空いたところに剛弘が座る。教室中の男子が自分を憎んでいるように、剛弘もまた自分を詰りに来たのではないか。隼人はそう思って身構えた。しかし。

「でよ、おまえあいつと付き合ってるの?」

 思いがけない気さくな口ぶりに目を丸くしながら、隼人はしどろもどろに答え始めた。

「いや、僕としては、友達のつもりなんだけど……」

「ふうん。でもまどかの方は完全におまえのこと好きだよな」

「どうかな……」

 隼人は陰のある微笑を浮かべた。まどかは本来、剛弘のことが好きだったのだ。だがそうとは知らぬ剛弘は、隼人に顔を振り向けてわらった。

「ごまかすなよ。おまえも満更じゃないんだろ?」

「それは、まあ……でも……」

 隼人が口ごもってしまったのに構わず、剛弘は続けた。

「おまえらが好きあってるなら、どんな恋愛をしようとおまえらの自由だよ。ただあんま人前でいちゃつくのは、まずいと思うぜ? みんなどう接すりゃいいのかわかんなくなっちまってるからな。おまけにおまえは、なんだかやたらともてるしよ」

 ――違うんだ。

 喉元まで出て来たそんな言葉が声にならず、隼人は悲しげな笑みを浮かべた。剛弘の話はまだ続いている。

「まどかの奴にも同じようなこと云って釘を刺しておこうと思ったんだが、まあおまえから伝えておいてくれよ。俺の用事はそれだけだ」

 そう切り上げると剛弘は立ち上がった。

「邪魔したな」

 その言葉を別れの句にして、剛弘は歩き出した。隼人はその背中に飛びつかんばかりの勢いで、思わず身を乗り出していた。

「待って! 木村君は、それでいいの?」

「なに?」

 その場に足を縫い止められ、肩越しに振り返った剛弘に向かって、隼人は大声を振り絞った。

「君は山本さんのこと、好きじゃないの?」

 剛弘は一瞬息の止まったように目を丸くしたが、次の瞬間、まるで負けを認めるように寂しげに笑った。

「――ああ、好きだったよ」

 今度は隼人が目を丸くする番だった。剛弘は羞恥のためか頬を赧らめ、青空に視線をさまよわせながら秋風に吹かれている。

「だが、まあ、なんだ、素直になれないうちに、あいつはおまえに夢中になっちまった。あとの祭りってやつさ」

 それは剛弘がそう思っているだけだ。剛弘はまどかのことが好きで、まどかも剛弘のことが好きだった。つまり二人は幸せになれたのだ!

 その事実が、隼人を打ちのめしてしまった。

 しかし潮垂れた隼人の顔に気づいた剛弘が、目に角を立てて大喝する。

「おう、隼人。ビシッとしろ!」

 びくついてしまった隼人に、剛弘は矢継ぎ早の号令を下した。

「起立。気をつけ」

 隼人は云われた通りにきびきび動いて背筋を伸ばした。剛弘が隼人のすぐ目の前に立つ。彼はポケットに隠していた両手を出すと、それをおもむろに持ち上げて、気合いを入れるように隼人の顔を勢いよく挟んだ。肌と肌の打ち合う小気味のよい音がして、隼人は鮮やかな痛みとともに目を醒ました。

 剛弘は熱い瞳で隼人を見つめている。

「俺はもう決めたんだ。おまえにまどかを任せた。だからビシッとしろ」

「うん」

 隼人は一も二もなく応諾した。その返事に気をよくしたように、剛弘は莞爾と笑った。

「よし、それじゃあな。ちゃんと飯食えよ」

 その言葉を最後に剛弘は今度こそ中庭から去っていった。その後ろ姿が見えなくなったあとも、隼人はその場に立ち尽くして剛弘の消えた方を茫然と見つめていた。なにか貴く気高いものが、自分の胸のなかで反響を繰り返し、大きく高まりつつあった。

「そうだ、そうだよ……」

 ややあって、隼人はやっと目覚めたように呟いた。まどかたちをあのようにねじげてしまったのはファムだが、だからといってこのままなにもしないでいるということは、自分がまどかたちの心を踏みつけにしているも同然だった。まどかは本来、剛弘が好きだったのだし、輝子たちにしたところで、他に誰か慕う男がいたかもしれないのに。

「僕は……」

 隼人がそう呟いたとき、傍らに誰かが立つ気配がした。

「見ーつけた」

 その声に振り向いてみると、まどかだった。にこにこと笑いながら、隼人の方へ身を寄せてくる。

「山本さん……」

「私が一番乗りみたい。やったね」

 隼人はそもそも昼休みになると女たちを振り切って逃げてきたのだし、剛弘もまどかをこの辺りで見失ったと云っていた。まどかがついに自分を捜し当てたことに不思議はない。しかし一番にやってきたのが輝子でもゆらでも奈緒美でもなくまどかだったことに、隼人は運命を感じて涙腺が緩んだ。

 ついに隼人の目尻から涙が一粒零れても、まどかはにこにこ笑っている。やはりどこかが壊れているのだ。隼人はたまらなくなってまどかを抱きしめた。まどかは驚いたように声をあげたが、微笑みを絶やさず、されるがままになっていた。

 まどかは温かく柔らかかった。隼人はいつまでもこの海に浸っていたかった。いつまでも彼女と恋人ごっこをしていたかった。しかしもう時間である。

 隼人は顔を上げ、まどかの顔を覗き込んだ。可愛らしい、明眸皓歯の美少女だ。自分はこの少女が好きだった。恋の病に罹っていた。それなのに。

「ごめんよ……」

 隼人はやっとのことでそう声を振り絞った。まどかが不思議そうに小首を傾げる。

「どうして? 私、幸せだよ?」

「その幸せは幻なんだ。だって」

 そこで隼人は言葉に詰まった。自分で自分の恋を破らねばならない。だが仕方のないことなのだ。

 ――おまえにまどかを任せた。

 ――神につくか悪魔につくか選びなさい。

 ――そして、僕が君のためにできること。

「君は本当は木村君のことが好きだったはずなんだ」

 するとまどかは、まるで子供の嘘を聞かされたような顔である。

「ええ、たけちゃん? たけちゃんはたけちゃんで、隼人くんは隼人くんだよ。全然違うよ。だって私が好きなのは……あれ?」

 まどかの笑顔を目が裏切っていた。まどかがにこにこ笑いながら泣いている。まどかは自分の手で涙を拭うと、首を傾げた。涙はあとからあとから溢れてきて止まらない。

「おかしいねえ、なんでだろう?」

 まどかとしては、本当に自分がなぜ泣いているのかわからないのだろう。だが隼人は知っているのだ。彼女が涙する意味を。

 隼人は抱擁を解くと出し抜けにまどかの手を掴んだ。

「ついてきて」

「えっ?」

「元に戻してあげるよ」

 隼人はそう云い切ると、まどかを強引に中庭から連れ出した。


 やってきたのは薄暗い、秋でもまだじめついた感じのする体育館裏であった。ここならば人に見られることはない。

 隼人はまどかの手を離すと、足元の影に厳しい眼差しを注いだ。

「出て来い、ファム」

 返事はない。隼人はすぐに大喝した。

「今すぐ姿を見せろ!」

 すると影が動いて、大きく伸びて、隼人とまどかと三角形をつくる位置に、ファム・ファタールが出現した。

 相変わらず黒革のきわどい服を着ているファムは、豊かな胸の前で腕を組むと青黒い竜の翼をひろげて空気を一打ちし、つんと顎を持ち上げて傲岸な視線を隼人に寄越した。

 まどかがにこにこと微笑んだまま小首を傾げた。

「ん? 隼人くん、この人だあれ?」

 隼人はそんなまどかに一瞬微笑みを向けたあと、ファムを睨みつけた。そこを捉えてファムが云った。

「なんのつもりだい? あたしに学校で喋るな、人前に出てくるなって云ったのはおまえだろうが?」

「状況が変わったんだ。今すぐ山本さんを元に戻してもらう」

「ああん?」

 不愉快そうに眉をひそめたファムに、隼人は噛みつくように云った。

「彼女を元に戻せ! 元の、普通の、僕が好きだった、そして木村君のことを好きだった山本まどかさんに!」

 するとファムは大きな牙を見せて隼人を嘲笑った。

「おいおい、隼人。自分がなにを云っているのかわかっているのか? この娘はおまえのいいなりだ。それをどうしてわざわざ手放す必要がある? 気に入っていたんだろう?」

「……問答をするつもりはない。いいからさっさとやれよ」

「いやだね。だいたい、あたしは壊すのは得意でも直すのは苦手なんだ。無理だよ」

 このとき隼人の心の奥底から、鋭いものが外へ飛び出してきた。それは視線となって、言葉となって、ファムに勢いよく突き刺さった。

「ただの暗示を解くだけだろうが! 出来ないなんて云わせない! いいから、やれ! これ以上ぐだぐだ抜かすなら、ぶっ飛ばすぞ!」

 するとファムは俯いてため息をつき、胸の前で組んでいた腕を解くと、顔をあげて諦めたように両手を広げた。

「わかった。わかったよ。やればいいんだろう?」

 ようやく隼人の顔に晴れ間が差した。ファムがまどかに向かって右手を翳す。まどかは微笑みながらも後ろへ退こうとしたが、隼人がその右腕を掴んでその場に留めさせた。

 こちらに顔を振り向けたまどかに、隼人は安心させるように笑いかけた。

「大丈夫。心配ない。次に気がついたときには、元の山本さんだから」

「うん。よくわかんないけど、わかった」

 まどかは一つ頷いてファムを見た。

「知らんぞ、どうなっても」

 ファムがそう云った直後、ファムの右手が青黒く発光したかと思うと、その右手から宵闇が漂い出して蛇となり、まどかの左耳からその頭蓋へ侵入を果たした。

 隼人はその不吉な光景にちょっと戦慄したが、しかしなにごとも起こらず、まどかは穏やかな顔をして、なにか音楽に耳を澄ませているようにじっとしていた。それで隼人も安堵した。だが異変は突如として起こった。

「ぐっ……!」

 まどかが急に苦しみ出したのだ。顔をしかめ、口を無意味に開閉させている。それを見て隼人はすぐに青ざめた。心臓が早鐘を打ち始める。

「おい、大丈夫なのか、これ?」

 隼人はまどかを見たままファムに早口で問うたが、ファムは返事を寄越さない。

「おいってば!」

 隼人は苛立ってファムに顔を振り向けた。ファムは嗤笑を浮かべていた。その面貌から、彼女の悪意が滲み出している。隼人はそれを見て目を剥いた。なにか取り返しのつかぬことが起ころうとしている。そう思って、急いで声を張り上げた。

「待て! ストップだ! やめろ!」

 だが。

「ぐえええっ!」

 突然、まどかが蛙の潰れたような叫び声をあげた。隼人は戦慄して、思わずまどかの右腕を離した。振り向いたとき、まどかの顔は血塗れだった。鼻血を出し、血の涙を流し、耳孔からも出血している。その地獄のような形相を見て隼人は凍りついた。

「隼人、くん……」

 まどかが助けを求めるように隼人に手を伸ばしたとき、ファムが眉をひそめてぼやいた。

「ああ、やっぱ駄目だ」

 次の瞬間、まどかは口から盛大に血を吐きながら前のめりに倒れ、地面に顔面から叩きつけられた。それきりもう、ぴくりとも動かない。

 隼人は時間が止まっているように感じた。その時間の停滞を打ち壊したのは、どことなく楽しげなファムのこんな言葉であった。

「あーあ、死んじゃった」

「死ん……!」

 隼人は一瞬で冷たい水の底に引きずり込まれたような気がした。

 ――死んだ? 死んだ? 死んだだって? こいつはいったいなにを云ってるんだ。そんなの嘘だ。ありえない。

 そう現実を拒否する隼人に、ファムがうきうきと語る。

「二回も頭のなかをいじくったからだ。それにお脳が耐えられなかったんだよ」

 隼人は心臓が燃えているような気がした。胸のなかが苦しかった。倒れているまどかから、ようようのことで視線を引き剥がして、ファムを見る。

「な、なんで……?」

「馬鹿だねえ、隼人。おまえ、忘れちまったのかい? あたしはこの娘の脳を壊したって云ったじゃないか。あれは比喩でもなんでもない。あたしは文字通り、正真正銘、こいつの脳をぶっ壊しておまえを好きになるよう仕向けたんだよ。なにをされてもへらへら笑ってたのはその副作用さ」

「でも、暗示だって、云ったじゃないか」

「だから、ただの暗示だとすぐに目が醒めちまうだろう? そうじゃなくて絶対解けない永久的な暗示をかけたんだから、まあそれは暗示と云うより、脳改造と云ったほうが適切だったかもね。とにかくこの娘は、云わば再起不能だったんだよ。それを無理やり元に戻そうとしたからこうなった。おまえのせいだよ? あたしは無理だって云ったのにさ」

 声にならぬ叫び声が、隼人の開いた口を通り抜けていった。隼人は立っていられなくて、愕然とその場に両膝をつきながらも、まどかにいざりよってその体を揺さぶった。

 けれどどんなに揺すっても、どんなに声をかけても、まどかはぴくりともしなかった。

 まどかは文字通り、九穴から血を流して死んでいた。


        ◇


 その日は朝から雨が降っていて、どこへ行っても雨音の付きまとう陰気な一日であった。

 午前十一時から行われたまどかの葬式を、隼人は淡々とこなした。学校に集まって葬儀会社が用意してくれたバスに乗り込み、葬祭場まで行って葬式に列席し、焼香を済ませ、最後に霊柩車が出発するのを合掌して見送った。心はまどかが死んだときに一緒に死んでしまって、なにも感じないほど冷たくなっていた。熱いのは左の頬だけだ。

 昨夜、通夜の前に剛弘に殴られてから、左頬がずっと熱い。

 ――なんでだ!

 剛弘はそう絶叫しながら隼人を殴りつけた。男子が数人掛かりで剛弘を押え込み、女子は隼人のせいでまどかが死んだわけではないとうったえたが、それでも剛弘は隼人にさらなる拳を浴びせようとしたのである。

 隼人としては、何度殴られてもよかった。いや、いっそまどかと一緒に死にたかった。しかし今日は剛弘ももう落ち着いていたらしい、葬式が終わって、帰りのバスに乗り込もうと列を作っているところへ、剛弘が寄って来て云った。

「よお、如月。昨日は悪かったな……殴っちまって」

「いいんだよ」

 ――実際、僕が殺したようなものなんだから。

 それなのに自分はまだのうのうと生きている。もしもこのままなにもしなかったとしたら、これから先、どんな顔をして生きていけばいいのだ?

 なにもしないということは、もうありえぬことだった。隼人が今まで行動を起こさなかったのは、ひとえにまどかの葬儀に出席するためである。まどかを見送った以上、もうやるべきことは決まっていた。

 ――僕は。

「隼人様」

 隼人の決意に水を差すように、このとき輝子が隼人に身を寄せてきた。その後ろにはゆらと奈緒美もいる。まどかの突然の死に同級生の誰もが衝撃を受けていたのに、この三人はいつもと変わらず隼人に愛を捧げることしか考えられないようだった。だが、それも仕方のないことなのだ。輝子たちもまどかと同じように、脳を壊されているのだから。

 隼人は彼女たちに優しく微笑みかけながらその背中を押した。

「先にバスに乗ってて。あとから行くから」

「いえ、ご一緒に」

「僕は木村君と話がある。先に行ってて」

 すると輝子たちよりも剛弘の方が驚いた。

「おい、話って……」

「君には云わなきゃいけないことがある」

 隼人はそう断言すると、渋る輝子たちを口づけで黙らせ、自らは剛弘の手を引いてバスに並ぶ列から離れた。教師の目を盗み、青い傘を差して葬儀場から離れていく。剛弘はさすがにためらったらしかった。

「おい、バスが――」

「バスに乗れるかどうかなんて、どうでもいいことだ。どうしても来たくないなら、来なくてもいいけど」

 隼人はそれだけ云うと、バスに背を向けて歩き出した。剛弘は少し逡巡したらしかったが、結局隼人のあとについてきた。


 やってきたのは葬儀場から歩いて五分の公園であった。平日の昼間であるし、雨が降っていることもあって、人っ子一人見られない。

 隼人は剛弘とともに屋根に守られたベンチの前までやってくると傘を閉じてそこに座った。剛弘が隼人の右隣に座る。雨はしとしとと降っている。この公園はそれなりに広く、各種遊具のほかに遊歩道が巡らしてあった。その遊歩道の傍らに、隼人たちの座っているベンチがある。

「ったく、あとでどやされるぜ」

 剛弘がそうぼやいた通り、今ごろはバスのなかで隼人たちの不在が発覚しているころだろう。あとで仕置きがあるに違いない。しかし今の隼人には、そんなことは些事なのだ。

「聞いて、木村君」

 隼人はそう前置きしてから、これまでのことを話し出した。ファムという悪魔と出会ったこと、その悪魔と契約をしたこと、両親が殺されたこと、まどかたちがファムによって狂わされたこと、そしてまどかが死んだときのこと。

 隼人は淡々と話し続け、すべてを話し終えると深いため息をついた。

 雨は相変わらず降り続いている。雨音を除けば、公園は静寂に包まれていた。

「……おい」

 剛弘が不機嫌に唸った。

「そんな与太話をよ、信じろってのか?」

「信じなくてもいい。ただ君には知っておいてほしかったんだ。ただそれだけなんだ」

 隼人はそこで言葉を切ると、すっくりと立ち上がった。傘はベンチに立て掛けて、手ぶらで屋根の下から出て行く。雨が全身を打った。

「おい――」

 腰を浮かせた剛弘を手で制し、隼人は誰もいない遊歩道に向き直ると云った。

「出て来いよ、ファム・ファタール」

 すると存外素直にファムは隼人の影から抜け出して、その青い体を雨の下に晒した。剛弘が目と口を丸くしている。隼人はそれを見てちょっと笑ったものの、すぐに冷たい眼差しをファムに据えた。

「ファム……」

「ふふん。話は終わったかい? それなら、その男の脳も壊しておこうか。それともいっそ殺してしまうかい?」

 隼人はなにも答えず、無防備にファムに近づいて行った。ただだらりと下げた右手の指だけは、揃えてまっすぐに伸ばしていた。それがゆっくりと右肘を引いていく。揃えた右手の指先はファムの体の中央を狙っていた。

「隼人?」

 ファムがそう小首を傾げたとき、隼人はファムの前の前に立った。そして叫ぶ。

「スター、ランサー!」

 隼人の右腕が光りの槍となってファムを刺し貫いた。と見えて、実際のところファムは竜の翼をひろげて空中に舞い上がり、その一撃をやり過ごすと空中に静止した。そこで腕を組み、不遜な顔をして隼人を見下ろしてくる。

「なんのつもりだ、隼人?」

「……僕が間違っていた」

 隼人はそう云いながら、元に戻った右腕をふたたびファムに向けた。その目には瞋恚しんいが滾っている。

「父さんと母さんが殺された時点で、こうするべきだったんだ」

「ふふん。ああ、そうか。なにか。おまえあれか」

「僕は、おまえを、倒す……!」

 隼人は雨空を背負って翼をひろげる女悪魔にそう宣言すると、ふたたび裂帛の気合いを込めて叫んだ。

「スターランサー!」

 右腕が槍となって迸る。それを軽々と躱したファムは、急降下して一気に隼人に詰め寄ると、その右腕を左脇で挟んで締めた。顔と顔を接して、ファム・ファタールがにたりと嗤う。

「らしくなって来たじゃないか」

「ファム……!」

「だが隼人、おまえは一つ心得違いをしているよ。スターランサーはあたしの与えた力だ。それであたしが倒せると思っているのかい?」

「倒す!」

 隼人はファムに頭突きを見舞った。鼻っ柱に額をぶつけられたファムは、口汚い言葉で罵りながら宙に浮かぶと、隼人の顔面を狙って爪先で蹴りを入れた。

「このガキが!」

「ぐうっ!」

 隼人は仰け反ってその蹴りを躱したが、そのまま体勢を崩して雨に濡れた道に尻餅をついてしまった。

「はっ!」

 ファムが鼻先でせせら笑いながら、今度こそ隼人を爪で引き裂こうとする。だがそんなファムに横合いから怒りに満ちた胴間声がかかった。

「おう、待て」

 剛弘だ。剛弘が雨のなかに出て来て、ファムを睨みつけていた。ファムはそんな剛弘を嘲笑いながらも、一応の聞く構えを見せた。剛弘の声は怒りのあまり歪んでいた。

「如月の話は本当だったのか? てことは、なにか?」

 そのとき隼人には、剛弘のこめかみが大きく波打つのが見えた気がした。

「おまえがまどかを殺したんか!」

「あれは事故だよ、事故。手術失敗ってやつだ。手術中に人が死んだからって、執刀医に八つ当たりされても困るねえ」

「てめえ!」

 剛弘は嚇怒して拳を振りあげ、ファムに殴りかかった。ファムはその拳を左掌で受け止めると、そのまま剛弘の拳を掴んで腕を引き、自分の反対側へと剛弘を投げ飛ばした。

「うおっ!」

 そんな叫びをあげて、剛弘は植え込みの向こうの樹に体を叩きつけられた。運悪く頭を打ったのか、それきりぐったりと動かなくなる。

「木村君!」

 そう叫んで立ち上がろうとした目と鼻の先にファムが立った。

「人の心配をしている場合じゃないだろう?」

 云うが早いか、ファムは隼人の首を右手で鷲掴みにすると、そのまま楽々と吊るし上げた。

「ぐあっ!」

 足が地面から離れたのに浮遊感を覚えたのも束の間だった。ファムの右手の親指と人差し指のラインが喉に食い込んで、隼人をたちまち首吊りと同じ状態に落とす。足掻いても藻掻いても、ファムは小揺るぎもしない。

「どうだい? 今謝れば許してやらないでもないよ?」

「な、にを……」

「だってあたしたちは一蓮托生、比翼の鳥、連理の枝、鴛鴦の夫婦じゃないか。云ったろう? あたしがおまえの運命の女ファム・ファタールだって」

「そんな、もの!」

 隼人は息苦しさのなかで右手の指先を揃え、今一度自分の持つ唯一の力を行使しようと息を吸う。

「スター――」

 ランサー、と発声する前にファムの右手の力が強まり、隼人は息を吸うことも声を出すこともできなくなった。ファムの金の瞳が鋭く細められる。

「あくまで逆らおうってのかい。それならここで殺しちまおうかね。今殺したら契約破棄になっておまえの魂をいただけないから、あたしとしても上手くないんだが……」

 やっちゃおうかな。ファムの唇がそういうかたちに動くのを見た隼人は、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。次の瞬間にも殺されると思った。命乞いをすれば、今ならまだ間に合うかもしれない。しかし隼人を後ろから支えているのは、まどかの魂、隼人が勝手に思い描いたまどかの守護霊なのだった。

 最後のチャンスを与える意味でか、ファムが手の力を緩めた。勢いよく息を吸った隼人は、鼻孔を膨らませながらファムを睨みつけた。

「それでも、僕は、おまえを……倒す!」

「ああ、そうかい」

 ファムはそう云って、実につまらなさそうに隼人の首を握り潰そうとした。死の圧力が自分の頸部に襲いかかってくるのを感じた隼人は、目の前が真っ暗になった。そのときである。隼人の絶望の闇を切り裂くように、銀色の巨大ななにかが回転しながら自分とファムのあいだに割って入ってきた。

「なに!」

 ファムが隼人の首から手を離して後ろへ跳び退いた直後、遊歩道の路面を破壊して、隼人の目の前に巨大な銀色の十字架が突き立っていた。

「……え?」

 雨のなか、ふたたび尻餅をついた隼人は、目の前に突如として出現した十字架を夢か幻のように見た。それは本当に巨大な、ことによると墓碑のようにも見える十字架である。大きさは成人女性の背丈ほどもあった。純銀であろうか、全体として銀色に美しく輝いており、また精緻な透かし彫りが随所に施されている。

「なに、これ」

聖大十字武装教典セント・グランドクルス・一番形態エルサレム」

 そんなわけのわからぬ単語が、美しい声によって隼人の耳に吹き込まれた。かと思うと、隼人とファムの注目を一身に浴びて、一人の女性が十字架の後ろに立った。

 尻餅をついている隼人だが、その後ろ姿を一目見ただけでそれが誰なのかわかった。黒いベールに白のブラウスと黒いスカート、黒のタイツにブーツという装いは先日と変わらない。

「君は……ロビン・フッド!」

「セシリア・ロビン・フッドです。少年、あなたの聖邪、見極めさせてもらいました」

 セシリアはそう云いながら巨大な十字架を地面から引き抜き、まるで友人と肩を組むように十字架の腕を自らの肩に担ぎ上げた。

「加勢をしましょう、悪魔狩りの」

 隼人は口をぽかんと開けたまま判断を絶していた。一方、ファムは不愉快そうに竜の翼を一打ちすると眉をひそめた。

「悪魔狩りだと? なにを云っている? なんだ、おまえは!」

 セシリアはそれに答えず、巨大な十字架に手を滑らせた。すると十字架が変形を始めた。回転し、展開し、伸張し、短縮する。それはあっという間に、それこそ魔法か手品のように、巨大なボウガンへと姿を変えてしまった。

「聖大十字武装教典・六番形態クルセイダー」

 目を剥いたファムを目掛けて、セシリアはビッグボウガンの引き金を引いた。あらかじめ装填されていた巨大な銀の矢がファムを目掛けて一直線に飛ぶ。

「ちっ!」

 ファムは電光石火の動きで翼をはためかせ、飛翔してその矢をやり過ごすと、そのまま放物線を描いてセシリアに飛び掛かってきた。

 セシリアはまるで隼人を守るように腰を落として構え、ビッグボウガンにふたたび指を滑らせる。するとボウガンは機械音を立てて、からくり仕掛けの玩具のようにまたその姿を変えた。

「三番形態デュランダル」

 それは巨大な両手大剣だった。セシリアは華奢な両腕でその巨大な剣を構えると、飛び掛かってくるファムを待ち受けた。ファムは右手で手刀を作り、それを裂帛の気合いとともにセシリアの脳天目掛けて振り下ろした。

「セアアッ!」

「……ふっ!」

 剣と手刀がまともに激突した。常識で考えればファムの右腕が切り飛ばされそうなものだが、悪魔たる者の魔性なのか、ファムの右手は銀の大剣と激突し、そのまま鍔迫り合いを演じた。しかし驚愕に目を剥いたのはファムの方だった。

「教化された聖銀製の武装! 貴様、悪魔祓いエクソシストか!」

「ロビン・フッドです」

 セシリアは淡々と応じたが、その背中には緊張が漲っていた。隼人には二人が力比べをしているのが素早く察せられた。すると尻餅をついていたのが、弾かれたように立ち上がる。立ち上がって、セシリアの右手から飛び出し、右手の指先を揃えてファムに狙いをつけた。それを見たファムが鬼のような形相になって牙を剥く。

「隼人……!」

 隼人は構わずに叫んだ。

「スターランサー!」

 右腕が光りの槍となって伸びる。ファムが後ろへ蜻蛉返りしてそれを躱したところへ、セシリアが迫った。

「四番形態ロンギヌス」

 銀の大剣は長槍へと姿を変えた。セシリアはその槍を手に突進し、突く、薙ぐ、払うの流れるような連続攻撃を見せた。しかしファムもさるもの、それを機敏に躱しながら、セシリアに向かって叫ぶ。

「なぜ本職の悪魔祓いが極東ここにいる! 嗅ぎつけるにしても早すぎるぞ!」

「……無視」

「口で無視とか云ってるんじゃない!」

 ファムがついにセシリアの猛攻を掻い潜って、その白い喉に貫手を浴びせようとした。しかし。

「五番形態カテドラル」

 云うが早いか槍は円形の大盾に変形し、ファムのその一撃を未然に防いでいた。

「ちっ! 次から次へと……!」

 顔を引き歪めたファムが一瞬動きを止めた。

 ――今だ!

 先ほどからずっと狙いをつけていた隼人は、今こそとばかりに三度右腕を前へ突き出した。

「スターランサー!」

「くそったれが!」

 ファムはそう吐き捨てて真上へ逃げた。雨の空へと竜の翼で羽ばたいていく。あそこまで距離が離れていると、隼人のスターランサーでは精度に不安があった。隼人はセシリアに視線をあてた。

「セシリア。さっきのビッグボウガンで――」

「矢は一本しかありません」

 思わぬ返答に隼人は肩すかしを食らって目を丸くした。

「じゃあどうするの?」

「こうします」

 セシリアは大盾に指を這わせると、またぞろそれを素早く変形させた。盾は盾のかたちを捨て、まったく別の武器へと変形を遂げる。

「八番形態シルバーウイング」

 セシリアがそう呼んだのは、人の背丈ほどもある巨大なブーメランだった。セシリアはそれを片手で持ち上げると、その場で体を二回転、三回転させ、砲丸投げの選手よろしくブーメランを空へ向かって投擲した。凄まじい風切り音をあげて、ブーメランは空中のファム・ファタール目掛けて回転しながら飛んでいく。

「くっ!」

 ファムは必死に羽ばたいてその一撃を避けた。だがブーメランというものは孤を描いて戻って来るのだ。ファムはその返す一撃も躱してのけたが、雨に濡れて重たくなった銀髪の毛先から十分の一ほどが切断された。そしてブーメランは勢いを減じることなく、殺人的な速度で隼人たちのところへ舞い戻ってくる。

「えっ? あれ? やばくない?」

 危険を感じて腰が退けた隼人の傍らで、セシリアは両手でスカートを摘んで膝上まで持ち上げると、雨を切り裂いて飛翔してくるブーメランに眼差しを据えた。そして大きく息を吸い、それが自分たちを薙ぎ払う寸前にかっと目を見開く。

「イヤアッ!」

 セシリアは裂帛の気合いとともに、右脚を百八十度の高さまで勢いよく蹴り上げた。その蹴りによって撃ち落とされたブーメランはセシリアの真上に跳ね上がったかと思うと、回転しながら落ちてきてセシリアの右側に勢いよく突き刺さった。それが細かく振動しており、隼人の耳には精妙な楽器の余韻のように聞こえた。

「ふうっ」

 セシリアはそう息をついて真上に蹴り上げていた右足を下ろすと、たくし上げていたスカートの裾をそっと正した。

「おお……」

 今の曲芸じみたブーメランの撃ち落としを目撃した隼人としては、そんな嘆声を漏らすことしかできない。一方のファムは、自分の髪を束ねて掴み、毛先が斜めに切断されているのを見て怒りに震えていた。

「お、おのれ……私の髪を!」

 隼人は一瞬、ファムがそのまま怒りに任せて飛び掛かってくるのではないかと身構えた。しかしファムは、大きく深呼吸して、瞋恚を調伏したらしかった。それを見たセシリアが目を細める。

「却って冷静になりましたか。さすがは大悪魔と云ったところですね」

 ファムは大悪魔だという。その威厳に相応しく、ファムは豊かな胸の前で腕を組むと、空中に立ってセシリアを見下ろしてきた。

「やってくれたな、教会の犬が!」

 セシリアは地面に突き刺さっているブーメランに右手を添えると、黙ってファムを見返した。その左側には隼人がいて、やはりファムを見上げている。雨がまともに顔を打って、ときには目にも入ったが、隼人はさすがにファムから目を逸らさなかった。ファムが不愉快そうに唇を噛むのが見えた。

「おい、犬! そこをどけ! あたしと隼人のあいだに割り込むんじゃない! あたしがその少年の運命の女ファム・ファタールだ!」

「悪魔が運命の女? 認めるわけにはいきませんね」

「おまえが認めようと認めまいと知ったことか!」

「ではヒロイン交代と行きましょう」

「なに?」

 目を丸くしたファムに見せつけるように、セシリアは左手で隼人を抱き寄せると、頬と頬を接し、右手の人差し指をファムへ向かって挑戦的に突きつけた。

「私がメインヒロインです」

「貴様……!」

 ファムは急降下の構えを見せた。セシリアが素早く右手でブーメランを手繰り寄せる。しかし、ファムはそこでぴたりと動きを止めた。それきり雨に打たれながらなにごとか考え込んでいる。


        ◇


 怒りに我を忘れないというのは、ファム・ファタールの具える優れた資質の一つであった。しかし怒りに駆られずとも、冷静にセシリアたちと戦うことはできたのだ。それが攻撃を思い留まって考え込んでしまっているのは、一つの疑問が晴れぬからであった。

 ――なぜあの女は、あたしと隼人のことをこうも早くに嗅ぎつけたんだ?

 ここはキリストの勢力が及ばぬ極東の島国である。手始めに二人ほど殺したが暗示を使ったこともあって、まだ騒ぎにはなっていない。それが遠く離れたバチカン市国の奴輩やつばらめに悪魔の仕業だと看破され、悪魔祓いが派遣されてくるころにはすべて片付いているはずだった。それにこの現代においては悪魔が少ない。教会の武装宣教団にしろ聖杯騎士団にしろ、対異教徒ならともかく、対悪魔を想定した戦闘力や諜報力は弱体化しているはずなのだ。

 ――それがなぜ? それにセシリアという名前は先日、隼人が漏らしていた。つまりあいつは今日じゃなく、それ以前に隼人に接触していたんだ。早い、早い、早すぎる!

 となると誰かがファムの動き出したことを教会に通報したのである。隼人ではありえない。あの子供は英語もろくに話せないのだ。

 してみると、他にファムが蠢動しているのを知っていたのは誰か?

 このときファムの頭に一人の女の姿が鮮やかに描き出され、瞬間、ファムは落雷のあったように全身を仰け反らせた。

「ミザリィ!」

 ファムは苦虫をかみつぶすように呻きながら、ここから遠く離れた悪魔図書館のある方を勢いよく睨みつけた。

 あの悪魔図書館の司書をしている、黒い翼の堕天使が自分を裏切り、罠に嵌めようとしたのか? だがなぜ? いやしかし、あの悪魔図書館を利用していた悪魔は全滅したのではなかったか? その裏にミザリィがいたとしたら?

「おお! おお!」

 ファムは片手で顔の半分を覆った。もし自分の予測がすべて当たっているのだとしたら、実に忌々しいことだった。断じて許せぬことだった。


        ◇


「……降りてきませんね」

 セシリアが上空およそ三十メートルの高さで静止しているファムを見上げながらそう呟いた。ファムは片手で顔の半分を覆っている。なにか強い衝撃を受けているようだ。と隼人が考えていると、ファムが突然こちらを見下ろしてきて叫んだ。

「ロビン・フッドとか云ったな、勝負は一時預けるぞ」

「えっ?」

 とは隼人の漏らした声だ。セシリアは眉ひとつ動かしていない。

「そして隼人、おまえの魂はあたしのものだということを忘れるな! おまえの願いは、あとできっちり叶えてやる」

 ファムはそれだけ云うと空中で身を翻し、黒い流れ星のように雨の空を西へ向かって飛び去っていった。隼人はそうしたファムの変心を信じられず、ファムの飛び去っていくのを穴のあくほど見つめていたが、なにごともなく降り続ける雨に打たれているうちに緊張の糸が切れてくしゃみをした。

 それでセシリアも目元を和ませてため息をつき、傍らのブーメランを十字架のかたちに戻した。一番形態エルサレムと呼ばれていた、あの巨大な十字架だ。

 セシリアは十字架の腕に片手を置いて云った。

「なぜここで退くのかわかりません。が、ひとまず戦闘終了です」


 それから隼人たちは植え込みの藪を掻き分け、芝生の上に転がっていた剛弘のところへ駆け寄った。セシリアが体を起こさせ、活を入れると剛弘はすぐに目を醒ましたが、樹に叩きつけられたのと雨に打たれたのとで体が上手く動かせないらしい。そこで隼人とセシリアは剛弘に肩を貸し、屋根の下のベンチに運んでそこに座らせた。

 隼人は剛弘の上着を脱がせると、懐からハンカチを取り出して雨と土に汚れた顔を拭いてやった。

「すまねえ……」

 剛弘は珍しく気弱な笑みを浮かべた。一方、セシリアは剛弘の体のあちこちを検めて一つ頷いた。

「大したことはありません。ただ雨と地面に体温を奪われたのがまずかったようです。早急に温めた方がいいでしょう」

 そうすらすらと述べるセシリアに、剛弘は胡乱な視線をあてながら隼人に訊いた。

「……で、こいつ誰なんだよ?」

「僕にもよくわからないけど、とにかく僕らを助けてくれたんだよ」

 隼人がそう述べると、セシリアは咳払いを一つして云った。

「私はフッド家の現当主です。名前はセシリア。ファム・ファタールはどう思ったか知りませんが、今回の来日は家業のゆえであって、教会の人間としてやってきたわけではありませんよ? ご覧の通り、修道会に所属している身ですから、協力関係にはありますが」

「家業?」

 隼人がそう鸚鵡返しに尋ねると、セシリアは一つ頷いてすらすらと答えた。

「簡単に云えば、私の家は代々悪魔退治を生業としているのです。フリーランスのハンターです。が、詳しい話はまた日を改めてにしましょう。私はまだ他にやることがあります」

 セシリアは云うが早いか踵を返して、雨に打たれているあの巨大な銀の十字架に向かって歩き出した。隼人は慌てて引き止めた。

「あの、ちょっと!」

 するとセシリアは隼人に背中を向けたまま云った。

「如月隼人、明日の朝九時、あなたの家に伺います。今日のところは、あなたはそこの彼を家まで送ってあげなさい」

 その言葉には有無を云わせぬものがあった。隼人としては彼女を引き止めてもっと色々なことを尋ねたかったのだが、今はそれらの問いをすべて呑み込み、その背中に向かって急いで云った。

「あの、ありがとう! 助けてくれて」

 すると十字架の前に立ったセシリアはそこで隼人を振り返り、隼人に厳かな眼差しを据えた。

「感謝は神になさい」

「えっ?」

「あなたたちを助けたのは私かもしれません。しかし私をここへ遣わしたのは神なのです。ですから、感謝は神になさい」

「あ、うん。えっと、アーメン?」

 するとセシリアは雨のなかに咲く花のように笑った。それから十字架を担ぎ上げて、鳥のように飛び去っていく。それを見送った剛弘がぼやいた。

「なんだったんだ、あいつ?」

「敵じゃないと思うよ」

 隼人はそう云うと剛弘に向き直った。

「立てる? 行こうか」

 ここはまどかの葬儀場に近い公園であり、つまりまどかの地元の町だった。つまりまどかの幼馴染である剛弘の地元でもあり、彼の家はこのすぐ近くにあるのだ。

 隼人は剛弘を家まで送り届けると、すぐ風呂に入って体を温めるように念押ししてから木村邸をあとにした。自宅に担任から電話がかかってきてきつく叱られたのは、その日の夕方のことである。ただまどかの死に衝撃を受けたせいだろうといたわってくれたのか、譴責だけで済んだ。


        ◇


 天と地の狭間のどこか、霧深い湖の上に悪魔図書館がひっそりと佇んでいる。ファム・ファタールがその大扉を蹴破って図書館のなかへ飛び込んでくると、立ち仕事をしていたミザリィもさすがに驚いてその動きを止めた。

 ミザリィは亜麻色の髪が背中の半ばまである、黒い翼の美女である。素っ気ないベージュのワンピースを着ているのもいつもと変わらない。ファムはそのミザリィに向かって、口から火を吐くような勢いで訊ねた。

「ミザリィ、あんたに訊きたいことがある」

「なあに?」

「あたしのことをロビン・フッドとかいう悪魔祓いにばらさなかったか? 敵の動きが速すぎる。情報が漏れたとしたらあんた以外にいないんだ」

 ファムは今すぐにでもミザリィを爪で引き裂いてやりたいらしかった。両腕がわなないている。それを見たミザリィは、しかし恐怖せず、くすりと笑ってあっさりと認めた。

「そうよ。こんなに早く看破するなんて、さすがね、ファム・ファタール」

 するとファムは目を剥いてミザリィに飛び掛かってきた。素晴らしい蹴りがミザリィの細い体をあっけなく吹き飛ばし、本棚に激突させる。本棚の一つが奥に倒れ、そこにあった本棚に支えられて止まる。ミザリィ自身は、傾いた本棚に背中を預けて大の字になっていた。立ち上がれない。戦闘力のない自分は、暴力の前ではなすすべがない。

 ファムはミザリィに詰め寄ると、冷たい瞳でミザリィを見下ろして訊ねた。

「なぜだ?」

 ミザリィは微笑した。ファムがたちまち顔を強張らせる。

「なにがおかしい?」

「……嬉しいのよ。なぜなら私は長いあいだずっと待っていたの。この私の正体を曝露するときを。この悪魔図書館の利用者が全滅した今、これが私の正体を明かす最初で最後のチャンスだわ」

 ファムは少し鼻白んだようだった。それは相手が既に死を覚悟していることを悟って、気味悪く思ったのだった。手脚を投げ出したミザリィは、傾いた本棚に寝そべりながら黒い翼をちょっと動かしてみせた。

「見ての通り、私は堕天使。でも神に叛いたわけじゃないの。最初からスパイとして悪魔たちのあいだに降り立ったのよ。つまりなにもかも全部罠だったの。それだけ」

「そうか。そういうことか」

 ファムは納得したように頷くと、ミザリィの傍らに片膝をついた。そして右手の指を揃えて手刀をつくり、その先端をミザリィの左胸、心臓のある位置に狙い定める。次の瞬間に自分の心臓が串刺しにされるのを悟りながら、しかしミザリィは微笑んだ。

「でもそれももうおしまい。やっと私の務めも終わる。長かったわ。本当に長かった」

「抗わないのかい?」

「やるべきことはやったもの。もういいの。もう疲れたわ。眠らせてちょうだい」

 ミザリィはそう云って目を閉じた。ファムはそんなミザリィの寝顔をしばらく眺めていたが、やがてなんの情緒もなく右手をミザリィの胸に突き込んだ。ミザリィは自分の心臓が引き裂かれるのを感じて、もはや逃れられぬ死の手に掴まり、微笑した。

「人間ならば即死だが堕天使のおまえは今少し生き長らえるだろう」

 ファムはそう云ってミザリィの胸から右手を引き抜くと、人気のない悪魔図書館を忌々しげに見渡して右手をさっと横に振った。炎が生じて、それが図書館の本や本棚に燃え移った。火はみるみるうちに燃え広がって、無限に聳えるような本棚を這い上り、ついには天井を舐める。

 ファムはそうした炎を見て、煙を厭がるように一歩後退った。そしてもうぴくりともしないミザリィに向かって嗤笑を送る。

「万が一にも蘇れぬよう、火葬にしてやる。さらば堕天使。眠れ」

 ファムはそれだけ云うと身を翻し、悪魔図書館から飛び出していった。それきり戻ってくる気配もない。しかしながらミザリィはまだ生きていた。とはいえ、時間の問題だということはミザリィ自身が一番よくわかっていた。もう指一本動かせない。燃え盛る炎が空気を温め、小さな竜巻を起こしている。煙が喉を刺してきて苦しいが、咳き込むような力もない。視界が暗くなっていく。

 そんなミザリィの視界を一羽の鳥が横切った。かと思うとそれはミザリィの傍らに舞い降り、小首を傾げて間抜けな声で鳴いた。

「ミザリィ! ミザリィ! アイーン!」

 ミザリィの口元を微笑が掠めた。それはミザリィの飼っているセキセイインコのエルザだった。エルザは炎と煙を怖れるでもなく、青い翼をひろげてまた鳴いた。

「アイーン!」

「ふ、ふ……詰めが甘かったわね、ファム・ファタール。この子のこと、忘れてたでしょう」

 ミザリィは最後の力を振り絞って顔を傾けると、エルザの目を覗き込んで問いかけた。

「ねえ、エルザ。覚えた?」

 するとエルザは軽い電撃に打たれたように痙攣してから、翼をたたんで考え込むように首を傾げた。

「アイ、アイー……イ……」

 ミザリィは祈りを込めて、希望を込めてエルザを見た。そのとき、エルザはいっそ雄々しいまでに翼をひろげ、煙の渦巻く天井に向かって高らかといた。

「イシュタル!」

 その声を聞いた瞬間、ミザリィは安堵してしまった。繋ぎ止めていた命が、流れ落ちていくのを感じた。エルザは得意になって翼を動かしながら何度もその名前を繰り返し謳っている。

「イシュタル! イシュタル! イシュタル!」

 ミザリィは目を閉じて微笑みながら、眠る前の子供のような、疲れ切った声で云った。

「行きなさい。ロビン・フッドのところへ。その名前を伝えて……」

 それきりミザリィはもう動かなかった。エルザがミザリィの体の上に飛び乗り、翼を動かしたり名前を呼んだりしても目を開けない。そのうちに火と煙が迫ってきた。

 エルザは悪魔図書館の開け放たれた扉の方を見ると、最後にもう一度ミザリィを見てから飛び立った。必死に羽ばたいて、扉の外へ飛び出していく。湖面に漂う霧を真一文字に突っ切って、遠い空へ。

 一方、湖の上では悪魔図書館がいよいよ炎上していた。太古の昔より多くの悪魔に利用され、あまたの叡智を蒐めたこの図書館も、建物がまるごと燃えて崩れ落ち、ついには湖の底へと沈んでしまった。

 あとには霧深い湖だけが残された。

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