第一話 僕はライトノベルの主人公になりたい

  第一話 僕はライトノベルの主人公になりたい


 名前だけはかっこいいのにね。というのが、如月隼人きさらぎ・はやとに対する女子たちの下した結論だった。

 実際の隼人は身長一六七センチに体重五五キロの痩身で、容姿は平凡、運動も勉強も真ん中よりやや下という、これといって特徴のない、いつも日陰にいるような高校一年生の少年だった。それが今、ブレザーの制服姿で教室のほぼ中央の席におり、英語の授業を受けている。これが終われば昼食の時間だ。暦は十月の初旬で、そろそろ残暑も和らいできたころだった。隼人の好きな季節である。

 授業も終わりに差し掛かったころ、英語教師が隼人の右隣の席の女生徒を指名した。

「山本まどかさん」

「はい」

 まどかはそう健やかな声で返事をして立ち上がり、教科書を読み上げ始めた。その少し達者な英語の朗読に聞き惚れながら、隼人はまどかを憧れの目で見つめた。

 山本まどかはとびきりの美少女だ。黒髪を短くして涼しげに首筋を出している。肌は健やかな小麦色で、背丈は一六〇センチだと、女子たちのあいだで話しているのを聞いてしまった。制服はもちろんブレザーである。爽やかで、明るく、優しい、さらには胸もおおきな、隼人の憧れの少女だった。

 隼人はこのままいつまでもまどかの姿を見ていたかった。が、まどかの朗読が終わるか終わらないかのうちに、黒板の上に設置されたスピーカーから鐘の音が聞こえてきた。

「はい、そこまででいいですよ」

 英語教師がそう云うので、まどかはふうとため息をつきながら着席した。その際、隼人の視線に気づいたのか、にこりと微笑みを返してくる。隼人は慌てて前を向いた。

「じゃあ今日の授業はこれでおしまい。日直」

 起立、礼。とお決まりの挨拶が終わって、教師が退室していくと、教室はにわかに騒がしくなった。これから昼休みだ。隼人の通っているこの高校では、昼食は弁当を広げる者と学食へ行く者、購買でパンをもとめてくる者とに分かれる。たとえばまどかは早速仲のよい友人の席に弁当を持ち寄っている。だが隼人は違った。

「おおい、如月」

 その完全に声変わりを終えた低い声に、隼人は苦笑いしながら振り返った。そこに総勢、五人の男子が立っている。先頭にいるのが武田といって、黒の短髪を整髪剤で逆立てており、背丈は隼人と同じくらいだが非常に筋肉質であった。その武田の隣にいるのは上杉だ。ひょろりと痩せているものの、身長が一八九センチと高いので周囲から一目置かれていた。あとの三人はこの武田と上杉の取り巻きである。いや、武田たちの取り巻きということなら、隼人もそうなのかもしれない。

「やあ……」

 そうか細い声で返事をしながら立ち上がった隼人に、武田は千円札を押しつけると云った。

「俺、いつも通りカツサンドと焼きそばパンな。それとカフェオレよろしく」

「武田君、また如月君をパシリにしてるよ。可哀想じゃん」

「俺はおまえらがパン買いに行ってるあいだに机合体させてるだろ」

 そう言葉を交わす武田と上杉の傍らで、隼人は穏やかに苦笑いをした。

「あはは……いいんだよ。なんだったら、今日はみんなの分も僕が買って来ようか?」

「え? マジで?」

 別の男子が声をあげたが、隼人は鷹揚に頷いた。

「うん。たまにはいいよ。あ、でも注文覚えきれないからメモに書いてくれると……」

「じゃあ俺もカツサンドな」「俺、メロンパン」「クリームパン」「珈琲二つ」「オレンジジュース!」

 上杉たちは隼人に次から次へと千円札や五百円硬貨を押しつけながらそう注文を述べた。隼人はそれを急いで手帳に書き取ると、五人の男子ににこやかに微笑みかけた。

「じゃあ、行ってくるよ」

「おう!」

 爽やかな笑顔で送り出してくれる武田に背を向け、隼人は五人分の昼食代をポケットに詰め込んで歩き出した。背後で男子の一人が云う。

「如月君やべえ。俺、明日も頼んじゃおうかな」

「やめとけよ、いじめとか云われちゃうぞ」

 そして笑い声が巻き起こる。隼人はしんみりしながら教室を出ようとしたのだが、そのときついまどかを見てしまった。するとなんの因果か、偶然なのか、まどかも弁当箱を広げながら隼人の方を見ていた。目が合ったのを感じた隼人は、急いで顔を前に向けると、羞恥に顔を灼かれながら教室を飛び出した。

 廊下は昼休みの開放的な空気のなか、生徒の笑顔と話し声に満ちていた。今日も秋晴れの良い天気だ。そんな廊下を、隼人は顔を真っ赧にして走っていく。

 ――情けない奴って、思われたかな?

 だが自分から云い出したことだ。使い走りなどでは断じてない。いや、武田にはいつも使い走りにさせられているが、あれはあれで気の良い男なのだ。挨拶代わりに体当たりされたり、プロレス技の実験台にされたり、貸した漫画がいつまで経っても返って来ないということはあるが、学校帰りに缶珈琲を奢ってくれることもある。

 それに今年の五月、入学から一ヶ月経っても友達が出来なくて教室に馴染めなかった自分に気さくに声をかけてきてくれたのが、武田と上杉なのだった。そういう経緯を考えれば、孤立していないだけありがたいと思うべきだろう。

「でも、やっぱり僕は、情けないかもしれないな」

 隼人はそう小さく呟きながら、購買へと駆け込んでいった。


 教室に戻ってくると武田たちは机を動かして即席の食卓を作っていた。

「お待たせ」

 隼人はそう微笑みかけながら教室中央の食卓に歩み寄ると、両手に抱えていたパンや飲み物を分配し始めた。そのうちに缶珈琲が一つ余ったことに気づいた。さては数を誤ったかと青ざめた隼人に、上杉がその缶珈琲を掴みとってひょいと寄越してくれた。

「あ、これ奢り。今日のお礼だよ」

「あ、ああ、どうも」

 隼人はその缶珈琲を受け取り、面映ゆそうに下を向きながら自分の椅子に腰掛けた。

 それから昼食が始まった。

 武田と上杉はよく喋ったが、隼人はもっぱら聞き役に回るのが常だった。隼人が饒舌になるのはゲームの話題になったときだけである。ゲームの攻略情報について教えてやるときだけが、隼人が武田たちから尊敬される唯一の機会だった。が、この日は隼人が一番苦手としている話題が俎上にあがった。

「ああ、セックスしてえ」

 武田のその言葉に、皆が笑った。隼人も苦笑いだ。

 セックス。

 そんなものは、隼人にとってはことによると一生縁のないものであるような気がした。が、他の五人はそれに対して貪欲なようで、目をぎらぎら輝かせながら語っている。

「でもこのクラスってよ、レベル高えよな。飛び抜けた美人が四人もいる」

「おう。一条とか、いいよな」

 一条奈緒美いちじょう・なおみという少女が、この教室にはいる。彼女はいわゆる素行不良で、目つきが悪く、友達がいないらしい。が、女子のなかでは一七〇センチとずば抜けた長身で、天然だという栗色の髪は腰まであり、狼のように美しかった。隼人も奈緒美には憧れていた。恋ではなく、その姉御肌に惚れていた。

「いやあ、一条は背がでかすぎ。やっぱ、ゆらちゃんでしょ」

 と、また別の男子が名前を挙げた鳥居ゆらというのは、黒髪をおかっぱにした色白の小柄な美少女のことだ。極端な人見知りらしく、仲の良い数人の友達としか話さない。一人でいるときはいつも本を読んでいる。今は教室の片隅で、友達と弁当を広げていた。

「逆玉狙うなら孔雀院!」

 上杉がそう断じた通り、孔雀院輝子くざくいん・てるこは素封家の娘だった。波打つ黒髪を背中まで伸ばした豊艶な美少女で、勉強も運動もよくできる、品行方正な、まさに絵に描いたようなお嬢様なのである。

 立て続けに名の挙がった三人が三人とも素晴らしい美少女だった。しかし隼人の心を淡くときめかせるのは、彼女たちではない。

「山本まどか」

 武田が突然、その名前を挙げた。隼人がはっと息を呑む傍で、別の男子がうんうんと同意の頷きを返している。

「あいつは付き合いやすいよな、性格的に。さっぱりしてるっていうの?」

「だろ? 同じ巨乳でも孔雀院はちょっと高飛車なところがあって気に食わねえし、一条はなんか取っ付きにくいし、そこへいくと山本は最高だよ。話しやすくて胸がでかい」

「武田君、巨乳好きなの?」

「当たり前だろ」

 武田がにやけ面をして肯んじると、座に低い笑いが巻き起こった。隼人は笑えなかったが、愛想笑いだけはしておいた。と、隼人は上杉がこちらをじっと見ているのに気づいた。不思議そうに見返すと、上杉はそれを端緒と口を切った。

「なあ、如月君さ、さっき山本のことじっと見てたろ」

「えっ」

 さっきとは英語の授業の最後にまどかが教科書を読み上げていたときのことであろう。あのとき確かに自分はまどかに見とれていた。

「なに? 好きなの?」

 武田が目色を変えてその話題に飛びついてきた。隼人は勘気を蒙る結果になるのではないかとおそれて勢いよくかぶりを振ったが、武田はむしろそのことに腹を立てたようだった。

「なんだよ、正直に云えよ」

「えっと……」

 隼人は食べていたサンドイッチを机に置き、頬を赧く燃やしながら首肯うなずいた。

「まあ、どっちかと云えば……」

「よおし、告れ!」

 武田がそう大声を出したことに、隼人は狼狽した。

「いやっ、なに云ってんの?」

「あ? だって好きなんだろ? なら告っとけよ」

「いやいやいやいや! 武田君こそ、山本さんのことが好きなんでしょ? なんで僕を嗾けるのさ?」

「別に好きなんて云ってねえだろ。俺はただ美人でおっぱいでかくて揉みたいなってだけだから。好きならおまえに譲ってやるよ」

 そう云って武田は莞爾と笑った。が、隼人にとってはまさにありがた迷惑である。こんなかたちで、するはずもない告白を強いられるなど、冗談ではなかった。

「でも如月君さ」

 横から上杉がそうくちばしを挟んでくる。隼人は上杉ならば助けてくれるのではないかと顔を輝かせたが違った。上杉は隼人に値踏みするような視線をあてている。

「こうでもしないと、如月君って一生女に告白とか出来ないんじゃない?」

「そ、れは……」

 それはそうかもしれない。だがそれならそれでいいのだ。なぜ愛の告白だなんて、そんな途方もない勇気をわざわざ奮い起こさねばならないのか。そんなことをしなくとも、待っていればいつか誰かが――と考えたところで隼人は小首を傾げてしまった。

 ――待ってたところで、女の子の方から告白してくれるなんてこと、あるのか?

「ううん……」

 唸り出した隼人を尻目にかけて、やにわに武田が立ち上がった。

「ああ、もういいや」

「えっ?」

 隼人が目を丸くする。そんな隼人の目の前で、武田はこちらに背を向けて友人たちと弁当をつついているまどかに思い切りよく声をかけた。

「おおい! 山本!」

「なに?」

 まどかが箸を休めて武田を振り返った。まどかだけでなく、彼女と昼食を共にしていた友人も、教室にいた他の生徒たちも、武田の大声に耳目を引きつけられていた。果たして武田は衆人環視のなかで朗らかに云った。

「如月がさあ、おまえのこと好きだって!」

「え?」

 まどかの視線が隼人に向かう。隼人はその瞬間に恐怖した。

「ちが……っ!」

 顔を真っ赧にしながら椅子を蹴立てて立ち上がった隼人に、武田が朗らかに笑いかけてくる。

「なっ?」

「いや、違うから! 全然好きとか、そういうんじゃないから! だからえっとあのその……」

「如月君」

 まどかのその言葉に、大慌てで云い訳をしていた隼人は声を奪われたように黙った。教室全体が、水を打ったように静まり返る。そしてまどかは箸を弁当箱の上に置くと、椅子の上でこちらに向き直り、背筋を伸ばして隼人の顔を見据えた。

「ごめん、無理」

 なにか希望の打ち壊されたような、扉から閉め出されたような、そんな絶望が目の前にあった。が、隼人はすぐに苦笑いでそうした絶望を取り繕うことができた。

「だ、だよね……あははっ」

「ごめんね」

 明るく微笑んで、まどかは何事もなかったかのようにまた食事を始めた。隼人はその背中を寂しげに見ながら、しんみりと着席した。一瞬気まずい空気が流れたが、すぐに悪友の一人がおどけるように自らの額を叩いた。

「あちゃあ、マジでふられてやんの」

「落ち込むな、如月君! まだ可愛い女はごまんといるから。次は孔雀院さんあたり行っとく?」

「いいねえ、面白そう!」

 武田たちの笑い声がわっと広がって消えた。隼人もお愛想で苦笑いをしていた。するとだんだん武田たちも興が乗ってきたとみえて、食事をしながら隼人が次に誰に告白するかを真剣に話し合い始めた。どうやら自分はまた別の女子に告白をすることになりそうだ、と隼人が諦め顔で紙パックの林檎ジュースをすすったときである。

「おい、その辺にしとけ」

 突如、ドスの利いた声が座に割って入って、武田たちは一斉に黙り込んだ。隼人は声の主が自分の後ろに立っているのを感じ取って、おそるおそる振り仰いだ。そこには精悍な顔をした一人の長身の男子生徒が立っていた。

「き、木村君……」

 木村剛弘きむら・たけひろは身長一八五センチの巨漢で筋肉質、一年生ながら野球部のエースという傑物だった。その剛弘が今、剣呑な目をして武田たちを睨みつけていた。

「あんま調子に乗ってんじゃねえよ。如月、困ってんだろ」

「お、おう。冗談だよ」

 武田がそう取り繕うと、座には苦笑いが巻き起こった。隼人もほっと安堵の息をついたのだが、そんな隼人の胸倉を剛弘が突然掴んできた。あっと思ったときには、隼人は強引に剛弘の方を向かされていた。

「おめえもおめえだよ。もっとビシッとしろ」

「え……あ……」

 隼人は驚懼して指一本動かせなくなった。剛弘の顔が憤激のあまり強張っているのがわかる。だが、いったい彼はなにをそんなに怒っているのか、自分のなにが彼をそんなにも怒らせたのか。隼人はわけがわからないまま、ともかく剛弘に謝ろうとした。

「ごめ……」

「たけちゃん!」

 突然、思いがけぬ声が隼人と剛弘のあいだに割って入った。隼人が驚きに見開かれた目を向けた先には、まどかが肩を怒らせて立っていた。

「たけちゃん?」

 武田がそう不思議そうに呟くと、傍から別の男子が云った。

「ああ、なんか山本と木村、家が近所の幼馴染らしいよ」

「幼馴染……」

 隼人はそう低声こごえで呟きながら剛弘に視線を戻した。剛弘は隼人の胸倉を掴んだまま、数メートルの距離を隔ててまどかと睨み合っている。

 やがて剛弘はまどかの眼差しに押し負けたように、舌打ちとともに隼人を解放した。隼人は椅子に座り込むと、胸元を手で守るように押さえて小さく咳をした。

 まどかがふうとため息をついた。剛弘は踵を返して自分の席に戻っていく間際に、隼人に一言謝った。

「悪かったな」

「いや……」

 気にしていない、というわけでもなかったが、隼人はこれ以上の波風を立てぬためになにも云わなかった。剛弘は肩をそびやかして自分の席に帰っていった。剛弘とともに昼飯を食っていた野球部員が、日焼けした顔に白い歯を輝かせながら剛弘を迎え入れる。

 ――幼馴染、か。

 隼人は胸裡にそうぽつりと呟いた。


 放課後、隼人は急いで帰り支度を整え、皆に別れを告げて学校を飛び出した。今日は楽しみにしているシリーズ小説の新刊の発売日なのだ。こういうときにまっすぐ書店を目指せるのが、帰宅部のよいところである。

 十月になり、日は短くなってきていた。まだ四時を過ぎたところだが、太陽はもう西に傾いていて、辺りには仄かな暮色が漂っている。風は秋の匂いがした。

 隼人は殷賑いんしんとした駅前に店を構えている大型書店の前にやってきていた。ビルの一階部分がまるまる売り場となっている。学校の往還にある本屋としては最大のもので、高校に入学してから半年、隼人はこの本屋を重宝していた。

 書店に入るや、隼人はまっすぐに少年少女向けの空想小説、いわゆる『ライトノベル』の棚の前までやってきた。

 隼人はこの手の小説が好きだった。漫画やアニメやゲームも好きだった。つまり彼はオタクだったのである。今、隼人が胸を弾ませながら平積みにしてある新刊の山から手に取った一冊は、その題を『魔法学園オーロラブレイド』と云う。現実のようでありながら魔法のある世界で、魔法使いの技術を学ぶ学校に通う主人公の如月カズマが、美少女たちに囲まれる日常を過ごしながら、異能を駆使して理不尽や強敵と戦う物語だ。

 数あるライトノベルのなかでも、隼人はこれが一番好きだった。この小説を読んでいるとき、いつものこの小説世界に飛び込んでいきたいと思う。自分も魔法学園に通いたいと思う。主人公の名字が自分の名字と同じであるせいか、主人公に自分を重ね合わせて、主人公になったつもりで、あの世界で異能をもって戦う幻を見る。だがそんなものは夢だ。その淡い夢を胸に抱えて、隼人はレジに並んでその小説を買った。

 小説はレジ袋は断り、紙のカバーだけをかけてもらって学生服のポケットに入れた。帰りの電車のなかで読もうと思っていたのだ。急げば、今の時間ならまだ帰宅ラッシュに巻き込まれずに済む。隼人は座れるかしらんと期待しながら、書店を出て駅に向かった。

 駅に入り、改札口を抜けたところで、傍らから「あ」という声がした。何気なく顔を振り向けた隼人は、途端に心臓を鷲掴みにされた。

「や、山本さん……!」

 あろうことか、そこには山本まどかがいたのである。どうやら鉢合わせしたらしい。

 まどかはにこりと明るい微笑みを浮かべると、隼人の方へするすると寄って来た。

「如月君もこっちなんだ。家、どこ?」

「えっと……」

 隼人がもごもごと最寄駅の名前を云うと、まどかはぱっと顔を輝かせて頷いた。

「なんだ、隣の駅じゃん。それじゃあ同じ路線だね」

「そうなんですか」

 隼人は無性に逃げ出したくて、気のない返事をして歩度を早めたが、まどかもそれに合わせて隼人を追いかけてきた。ホームへ続くエスカレーターに乗ったところで、隼人は思い切って背後のまどかを振り返った。

「なにか用?」

「用ってほどのことでもないけど、昼間はたけちゃんがごめんね」

「ああ……」

 隼人は剛弘に掴まれた胸倉を片手で撫でながら、愛想笑いを浮かべた。

「気にしてないよ。僕こそ武田君がなんか変なこと云ってごめん」

「うん、私も気にしてないよ。ていうか、あれ、武田君の冗談だよね?」

「う、うん。そうなんだ」

 隼人がそう肯んじたことで、まどかは安心したように笑った。それにつられて隼人もまた笑った。そのときエスカレーターがホームに辿り着き、隼人は急いで前を向いてエスカレーターから降りた。もう話すことはない。そう思って、そのまま逃げるように電車を待つ人の列に並ぶ。だがそんな隼人の隣にまどかが立った。隼人はたちまち気まずさに耐えられなくなり、仕方なく口を切った。

「あの」

「なに?」

 まどかが不思議そうに隼人を見上げてくる。その瞳を近く大きく感じて、隼人は息を凝らしながらもこう訊ねようとした。

 ――どうして僕についてくるの?

 しかしこの問いを口にすれば、自意識過剰と思われるかもしれない。問いが口をつくぎりぎりの瞬間にそう思い至って、隼人は咄嗟に舌先で言葉をげた。

「えっと、小耳に挟んだんだけど、山本さんって木村君とは幼馴染なの?」

「うん、そうだよ。家が隣同士でね」

 へえ、となんでもない顔で相槌を打ちながら、その実、隼人は胸を嫉妬に焦がされはじめていた。幼馴染。その単語は、ライトノベルでは特別な意味を持つ。

「やっぱり、好きなの?」

「え?」

「木村君のこと」

 いったい自分がなにを訊いてしまったのか、隼人は口にしてから気がついた。まどかは思いがけない風に面を吹かれたように目を丸くしている。

 時間の止まったような静寂のなか、隼人は焦り、顔を紅潮させて急いで撤回の言葉を口にしようとした。ところがまどかのわらう方が早かった。

「うん、好きだよ」

 その瞬間、隼人は心臓を握りつぶされたように感じた。まどかはホームから垣間見える青空に目を上げて、まるで自分の夢を語るような顔をする。

「たけちゃんはかっこいいし、昔から頼りになって、私はたけちゃんのことが好き。たけちゃんが私のことどう思ってるかは知らないけど。野球一筋だし」

 そこで言葉を切ったまどかは、首を巡らして視線を隼人の顔の上に置いた。自分がどのような顔をしていたのか、隼人にはわからない。嫉妬に燻った醜い顔をしていたのか、それとも絶望の斧に頭を割られて愕然としていたのか。いずれにせよ、隼人の表情がまどかになにかの心変わりを起こさせたのだろう。

「――なんて、冗談」

「え?」

「嘘だから。本気にしないで」

 まどかは嘘のように微笑んで、すべてを韜晦とうかいせしめようとしたのだった。だが嘘なわけがない。恋をしていない人間は、あのような憧れの目をして異性のことを語ったりはしない。

 山本まどかは木村剛弘のことが好きなのだ。

 その事実を、隼人は自分の胸に打ちつけた。その上で、敢えてまどかに合わせて頷いた。

「そうなんだ」

「そうなの。だからたけちゃんには内緒ね?」

「うん、誰にも云わないよ」

「ありがとう。ふふふ」

「あははっ」

 隼人とまどかは笑い合って、それから黙った。ほどなくして電車がホームに滑り込んできた。電車の扉が開き、客の乗り降りが始まった。しかし隼人はまどかと同じ車両に乗ることを恐怖してその場に踏みとどまった。三歩先を行ったまどかが、隼人がついてこないのに気づいて振り返る。そこを捉えて隼人は早口で云った。

「あ、ごめん。僕、用事思い出した」

「えっ?」

「そういうわけだから、さよなら!」

「あ、うん。さよなら」

 茫然としているまどかをその場に残し、隼人は急ぎ回れ右をして走り出した。もちろん用事があるなどとは嘘である。ただまどかの視界から逃げ出したかったのだ。

 嘘と云えば、昼間に武田がまどかに曝露した隼人の恋心も、まどかは冗談として片付けてしまったが、実際には彼女もあれが冗談でないことくらい判っているだろう。隼人がまどかの剛弘への想いを本気と見抜いていたように。つまり二人は、互いの恋心に触れながらそれを怖れて、気づかなかったふりをしたのである。

 ――なんだか僕ら、嘘ばかりだな。

 失恋の痛みよりもそのことに胸を痛めながら、隼人は駅のホームから改札口へと続く階段を駆け下りていった。


 五分ほどトイレに閉じこもってからホームに戻ったときには、先の電車はとうに出発しており、まどかの姿ももちろんなかった。そのことに安堵をしながら、隼人は次の電車を待ってホーム上をあてどもなく歩き始めた。そのあいだ、頭を占めているのはまどかと剛弘のことだった。

 ――山本さんは木村君のことが好き。

 ――木村君は背も高いし筋肉もすごいしスポーツマンだし顔も性格も男前……そりゃあもてるに決まってる。

 ――それに引き替え、僕はなんの取り柄もない。漫画の知識があったりゲームが上手かったりするだけのオタクの少年を、女の子が好きになるわけがない。

 それが現実。それが現実だ。

「はあ……」

 隼人はため息をつくと立ち止まった。ふと気がつけば、ホームの端の、乗り場から大きく離れて人気もないところまで来てしまっていた。隼人はそこで制服のポケットから一冊の文庫本を取り出した。先ほど購入したライトノベル『魔法学園オーロラブレイド』だ。

 ――こんな世界に生まれていたら。

 隼人はそう想いながら冒頭の口絵に目を通した。こうした魔法のある世界に生まれていたら、自分もこの物語の主人公・如月カズマのように生きられただろうか。それともやはり名も無き端役で終わったろうか。隼人はそうした益体もない考えに囚われながら、気も漫ろに本のページを捲り始めた。そのまま、つまり本に没頭しながら、隼人は人のいる方に戻り始めた。ホームの端をふらふらと歩く。

「貨物列車が通過します。危険ですから、白線の内側に――」

 そうしたアナウンスも聞こえてはいなかった。隼人は白線の外側を歩いていた。白線の外側を歩きながら、人の集まるホームの央程なかほどへと戻っていく。やがて周囲を人が歩いたり立ち止まったりするようになっても、隼人は本から目を上げなかった。もう『魔法学園オーロラブレイド』の世界にさらわれていたのだ。

 そして。

 反対側から歩いてきた男と肩がぶつかったかと思うと、隼人はバランスを崩してホームから線路の上へ転落していた。

「えっ?」

 最初はなにが起こったのかもわからなかった。わかったときには、もうなにもかもが遅い。ブレーキの甲高い音が聴覚を切り裂いていく。貨物列車が警笛を鳴らしながら、線路上に蹲っている隼人に突っ込んでくる。

 ――え? 死ぬ?

 そんなはずではなかった。こんなに簡単に、こんなに呆気なく、自分の命が終わるはずはなかった。高校生の少年、ホームから転落して列車に轢かれ死亡。自分の死後にそんなニュースが流れ、多くの人間がそれを他人事として聞き流していく。そんなはずではなかったのに、列車のブレーキは間に合わない。

「嘘! 嘘!」

 だが死はそんな一人の人間の叫びなど、容赦なく踏み潰していってしまうのだ。そうして隼人は死んだ。と思われた次の瞬間、なにか横殴りの突風にさらわれたかと思うと、青空高くへ連れ去られていた。

 いったいなにが起こったか。

 隼人はそれと知覚できたわけではなかったが、起こったことを淡々と述べるなら、線路上で列車に轢かれそうになっている自分を横からさらった人物がいたのだ。いや、人ではないかもしれない。なぜならその人物は青い肌をしていて竜の翼が生えていたからだ。

 その青い肌をした銀髪の女は、竜の翼をはためかせ、列車に轢かれそうな隼人を掬い上げてそのまま青空へと舞い上がった。線路の上にはライトノベル『魔法学園オーロラブレイド』が残され、それのみが列車の車輪に引き裂かれたのだった。


 隼人自身には、やはりなにが起こっているのかわからない。自分は一人の美女に横抱きにされて空を飛んでいた。その美女は銀髪で、角が生えており、耳が尖っていて、なにより肌が青い。嘘のように青い。そして背中には竜の羽根が生えていて、それで空気を叩いて空を飛んでいる。

「ああ、そうか。夢なんだ」

「寝惚けてんじゃないよ、この間抜け」

 女はそう云うと、手近な雑居ビルの屋上に舞い降り、そこに隼人を転がした。

「いてっ」

 隼人は転がされたときの痛みと衝撃、それに掌にできた擦り傷を見て、どうやらこれは夢ではないらしいと思った。恐る恐る顔を上げれば、そこはやはりどこかのビルの屋上である。エアコンの室外機が無数にならび、それを繋ぐダクトが張り巡らされ、塔屋ペントハウスが建ち、空いた空間には緑化政策で育てられている植物の鉢が並んでいる。

 ――僕は確かに電車に轢かれそうになったはずだった。それが空を飛んだかと思ったら、こんなところにいる。

 隼人は自分でない誰かが理性的にそう状況を纏めているのを感覚しながら、茫然と立ち上がって背後を振り返った。高さ一メートルほどの塀に囲まれたビルの屋上の縁、清掃用のゴンドラを取り付けるパイプの上に、女悪魔が腕組みしながら立っていた。

 女悪魔だって?

 だがそれは女悪魔としか形容のしようがないのだ。銀髪に金色の目、青い肌、ねじくれた角、尖った耳、目のやり場に困るボンテージのような黒革の衣服、そして背中から生えた一対の黒い翼。すべてが異形のそれである。しかしこのように悪魔的でありながら、同時に美しい女でもあった。背は非常に高く、乳房は巨きく、豊艶な体つきをしている。

「あなたは……」

「あたしはファム・ファタール。見ての通り、悪魔さ」

「悪魔って……」

 まだ夢と現実の見極めがつかぬ隼人を、ファムがにやりと嗤う。すると尖った鋭い歯が露わになった。八重歯などという可愛らしいものではない。ほとんど吸血鬼の牙だ。

「ふふふ。まだ半分、夢を見てるような顔だね」

「だって、こんなの、ありえない。悪魔って」

「悪魔は現実に存在する。このあたしがそうだ」

 ファムはそう云いながら、隼人の足元に鞄を投げて寄越した。隼人のものだ。どうやらここまで飛んでくるあいだに落としそうになったものを、律儀に持っておいてくれたらしい。が、隼人はそれに手を伸ばす気にもなれず、ファムに茫然と眼差しを注いだ。

 彼女は悪魔だという。

 隼人は口元を引きつらせて笑った。

「悪魔っていうと、人間の魂を欲しがるっていうのが定番だけど」

「ああ、そうさ。話が早くて助かるよ。あたしはしばらく働いていなかったんだけどね、たまには悪魔らしいことでもしようと思って動き出したのさ。ところが現代の人間はしけてやがる。あたしがどんな願いでも叶えてやると云ってるのに、悪魔と取引したら不幸になるに決まってるから帰れ、だとさ。実はおまえに会う前に三人ほど当たってみたんだが、全部断られた」

「はあ」

「もちろん頭の悪そうな欲惚けた連中に声をかければ一発だけどね、そういう奴に限って品性がない。つまり好みじゃないわけだ。で、うんうん唸りながら空を飛んでたところ、おまえが電車に轢かれそうになるのが見えたってわけさ」

「それで僕を助けてくれた?」

 隼人は顔を輝かせた。このような異常な状況、尋常でない相手と相対しているのに、自分を救ってくれたという一点だけで、隼人はファムに好意を覚えた。

 そんな隼人を、ファムは嗤った。

「悪魔のあたしが、善意で人助けをすると思うのかい?」

 つまり裏があるのだ。隼人は固唾を呑み、続くファムの言葉に耳を傾けた。

「あの瞬間、あたしは思った。現代の人間が悪魔と契約しようとしないなら、まず貸しを作って無理やり契約させちまえばいい、ってね」

「つまり……命を助けてくれたお礼に、あなたと契約しろってこと?」

「その通り!」

 ファムは我が意を得たりと云わんばかりに笑みを広げ、竜の翼をひろげて軽く前に跳んだ。隼人が後退りするよりずっと早く、隼人の目の前に着地して顔を接してくる。

「もうわかるだろう? あたしはおまえを助けた。だからおまえはあたしと契約しなくちゃならない。どんな願いでも叶えてやるから、死後の魂を差し出せっていう契約をね」

 ファムから漂ってくるきつい香水の匂いが、隼人のまだ眠っていた感覚をすべて目覚めさせた。どうやらこれは徹頭徹尾、現実だ。自分は白昼夢を見ているのでもなんでもない。悪魔は現実にいて、今、隼人に不穏な契約を迫っている。隼人は恐怖に目を見開きながらかぶりを振った。

「い、いやだよ。だってそんなの、不幸になるに決まってる」

 ファウストとメフィストフェレスの昔から、どんな物語においても、悪魔と契約した人間は破滅すると決まっているのだ。

 果たしてそんな隼人の返答を聞いたファムは笑みを消した。

「あ、そ。じゃあ死ね」

「えっ?」

 そう呟いたときには、隼人はもうファムに胸倉を掴まれていた。女性とは思えぬ信じがたい膂力によって宙吊りにされる。

「がっ――!」

 隼人は息苦しさを覚えながら足をばたつかせた。爪先はファムの脚に当たったが、ファムは小揺るぎもせずに踵を返して屋上の縁の方へと歩いていく。

「おらっ!」

 そしてファムは屋上の外側へと腕を突き出し、隼人を数十メートルの高さに吊り上げた。

「ひっ! うわっ……!」

 隼人は下を見て驚懼した。もしファムが手を離せば、自分は真っ逆さまに転落し、アスファルトに叩きつけられて死ぬ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待った! なんでこんな――」

「あたしはおまえを助けた。それもこれもあたしと契約させるためさ。ところがおまえは、あたしと契約しないという。ならあたしがおまえを助けた意味はなんだ?」

 その瞬間、隼人はこの悪魔の意図を理解して鳥肌を立てた。

「契約しなけりゃ殺すっていうのか?」

「元々あたしが助けた命だ。運命に沿わせてやろうってだけじゃないか」

「そんな!」

「なに、電車に轢かれて死ぬのがビルから落ちて死ぬのに変わるだけさ。大したことじゃない」

「ふざけるな、離せ! いや、離すな! やめろ落とすな!」

 必死に足掻く隼人を、ファムは悠々と見つめて翼をひとつはためかせた。

「助かりたいんなら、他に云う言葉があるだろうが。ええっ?」

 隼人の頭にこのとき自分の命を繋ぎ止める一つの言葉が浮かび上がった。だがそれを口にした瞬間、自分は取り返しのつかないことになるのではないか?

 そう怖じ気づく隼人を、ファムがまた嗤う。

「そんなにびびることはないさ。だっておまえが上手くやればいいだけの話だろう?」

 それはそうかもしれなかった。悪魔と取引した人間は不幸な結末を迎えると云うけれど、自分が上手く立ち回れば逆に幸福になれるのかもしれない。それに元々ファムに助けられた命だ。取引しないなら殺すという、ファムの云い分にも一理ある。そしてなにより、ここで意地を張ったところで転落死するだけなのだ。

 生か死か。

 そういうことなら、もう選ぶ道は一つしかないではないか。

「わかった」

 隼人が観念したように頷くと、ファムは嬉しげに笑って腕を横へ振り、隼人をふたたび屋上へと転がした。隼人は確かな足場にしがみつくように座り込みながら、血の気の失せた顔をゆるゆると上げた。ファムが屋上の塀に腰掛け、優雅に足を組んでいる。

「さあ、願いを云いな」

「いや、急に云われても……」

「なんかあるだろう。金が欲しいとか女が欲しいとか」

 一瞬、まどかの顔が目の前を過ぎったが、まさかそんなことを悪魔に願うわけにはいかない。隼人は急いでその面影を振り払うと、へっぴり腰で立ち上がってファムを見た。

「どんな願いでも叶えてくれるの?」

「悪魔ファム・ファタールの名において約束しよう」

 ファムはいっそ権高に断じた。その声に胸を打たれた隼人は、このとき自分自身に問いかけてみた。自分は今なにがしたいのか。なにを望んでいるのか。なにが欲しいのか。どこへ行ってなにになりたいのか。

「僕は――」

 頭のなかに浮かんだのは、自分と同じ名字を持つ架空のヒーローの顔だった。隼人は憧れを胸に燃やしながら、両手を握り締めて叫ぶ。

「僕はライトノベルの主人公になりたい! 如月カズマみたいな!」

「は?」

 隼人としては一世一代の錦の幟を掲げたつもりであったのに、ファムは唖然茫然といった様子で目と口を丸くした。

「ライ、ノベ……? なんだい、それは?」

「え? 知らないの?」

 隼人は拍子抜けしながらもファムにライトノベルの概要を語って聞かせた。話し終えると、ファムは憤然と吐き捨てた。

「知るか、そんなもん!」

「そんなもんって……とにかく僕は、ラノベの主人公みたいになりたいの。してくれよ」

「はあっ」

 ファムは大仰にため息をつくと俯いた。その拍子に銀の前髪が顔にかかる。顔をあげたファムは、髪を掻き上げると黄玉トパーズの瞳で隼人を睨みつけてきた。

「まあいいだろう。その代わり、おまえはあたしに死後の魂を捧げるんだ。いいね? えっと……」

「如月隼人」

 隼人はファムがどうして言葉に詰まったのか、素早く心づいてそう名乗りをあげた。

 うふっ、とファムが嗤う。

「あーあ、簡単に名前を教えちまって。これでもう契約成立だよ?」

 隼人はちょっと青ざめた。そういえばファンタジー小説においては、しばしば名前が契約において重要な意味を持つ。それがこの場合も当て嵌められたのであろうか。だが、もはや契約は成ったのだ。

「う、うん……」

 隼人は物怖じしながらも頷いた。

「よし、決まりだ。我、ファム・ファタール。汝、如月隼人。ここに悪の契りを交わさん。あたしとおまえは一蓮托生、比翼の鳥、連理の枝、鴛鴦の夫婦だと心得よ」

「ふ、夫婦って――」

 思わず顔を赧らめた隼人の目の前で、ファムは塀の上に躍り上がると、茜色を帯びてきた空を背景にばさりと竜の翼をひろげた。

「あたしがおまえの、運命の女ファム・ファタールってことさ」

 その言葉とともにファムは舞い上がった。隼人は目を剥き、急いで塀のところまで駆けつけてファムを見上げた。

「待って! どこへ行くの?」

「ライトノベルとかいうものについて、ちょっと調べてくるよ。今晩にでもおまえの家を訪ねるから、窓を開けておきな」

「いや、その前にここから降ろしてよ!」

 自分はファムによってこのビルの屋上に転がされたのだった。塔屋内部への扉は当然施錠されているであろうし、このままではここに閉じ込められてしまうことになる。

「はあ、世話が焼けるね」

 ファムはそう呟くと一転して急降下し、隼人の襟首と落ちていた鞄を掴むや一気に数十メートル下の路上まで隼人を運んで、そこで隼人と鞄の二つを抛り出した。

「じゃあね」

 ファムはそう一言告げて、今度こそ空の彼方へ飛び去っていた。路上では、急に空から降ってきた隼人に、偶さか行き合わせた人々が目を丸くしている。えへっ、とごまかすように一人笑った隼人は、急いで鞄を引っ掴むとその場から慌ただしく逃げ出した。

 しばらく走って、どうやら誰にも注目されていないと感じた隼人は走るのをやめた。そこはなんの変哲もない街角で、人や車が往来を行き交っている。いつも利用している駅の近くだった。『魔法学園オーロラブレイド』を買った書店も視界に入っている。

「……マジかよ」

 隼人は今さらながら制服越しに心臓を押さえて、自分の正気を疑った。だが今しがたの出来事は現実だ。

「僕は悪魔と取引をしてしまった」

 隼人はそれを恐ろしいと思った。だが同時に喜んでもいた。退屈な日常が音を立てて壊れていく。今、自分の目の前には、現実ではありえぬ非日常への扉が開いているのだ。


        ◇


「――と、いうわけなのさ」

 ミザリィはファム・ファタールから、彼女がライトノベルを求めることになった経緯を、ざっくばらんにではあるが聞かされていた。

 舞台はふたたび悪魔図書館である。

「日本の、如月隼人……」

「そう。で、ライトノベルの棚はまだなのかい?」

 二人は図書館の入り口で話していたわけではなかった。ミザリィは司書としてファムをライトノベルの棚まで案内する旁々、ファムから話を聞かせてもらっていたのである。図書館はその外観から窺うよりも、遙かに広大な内部空間を持っていた。この悪魔図書館は空間が歪曲していて、ここには無限冊の書物が収められているのである。そしてどこにどの本があるのかを把握しているのは、司書ミザリィただ一人というわけだった。

 ミザリィはつと足を止めた。

「ここ」

 本棚に挟まれた小径の真ん中で足を止めたミザリィは、右側の棚に向き直ると背伸びして一冊の本を手にとった。緑の装丁が美しい本で、表紙に一枚の絵が使われている。そこでは金髪を左右で髷にしている美少女が勝ち気な笑顔を浮かべていた。制服を着たその体は、どうやら電撃を身に纏っているようだ。

「これはライトノベルの概念書とでもいうべきもの。ライトノベルにも色々あるけど、それがどういうものかを知りたいのなら、この一冊で事足りる」

「ほう……」

 ファムは金の瞳を興味深そうに見開いて、ミザリィの差し出した本を受け取り、早速その場で開いて読み始めた。読みながら元来た道を引き返していく。ミザリィは黙ってそのあとについていった。ファムは本の内容を徒然に読み上げ始めた。

「少年向けライトノベルの主人公……これか。主人公は一般に十代の少年に限られる。それ以外の年代の者が主人公になることは少ない。これは主な読者層が中高生であり、彼らの共感と感情移入を容易にするためであると思われる。その容姿は平凡と描写されているもののイラストに起こされるとハンサム、性格は熱血漢か意気地なしのどちらか、家庭は中流、多くはなに不自由のない暮らしを送っていながら、親は滅多に登場しない。同居していないこともある。これは十代の少年が親を煩わしく思うためである。理想はおしゃれな都会で一人暮らし、お金は親が出してくれる……」

 そこまで読んだファムが本から目を上げて、傍らを歩くミザリィを軽く睨んできた。

「なんだい、これは?」

「そういうものなの」

 ミザリィが素っ気なく答えると、ファムは鼻先でせせら笑ったらしかった。

「そういうものに、あいつはなりたい、と」

 ファムは悪意のしたたる笑顔になってまたライトノベルを読み始めた。

「物語の始まりにおいて、ライトノベルの主人公は平和な日常の世界で生きている。その日常はメインヒロインとの出会いと同時に壊れ、主人公は非日常の世界へ引きずり込まれる。これがライトノベルの典型的な導入である。これと同時に特殊な武器や異能力を獲得する場合も多い。またライトノベルの主人公はもてる。メインヒロインを筆頭に五人前後の美少女に好意を寄せられ、ハーレム状態となる。その物語の本筋は少年少女だけで進められ、大人は本筋から除外されるか、もしくは敵として描かれる。ストーリィの主な舞台は学園。ヒロインとの関係は様々だが、いずれも最後はヒロインのために奮起してハッピーエンド……と」

 はあ、とため息をついてファムは本を閉じた。そこを見澄ましてミザリィが云う。

「それはいずれもテンプレートと呼ばれるもので、実際は今あなたが読み上げたものに当てはまらないものが多い。重要なのはそのテンプレートの裏に隠れている本質を見極めることよ、ファム」

「わかってるよ。要するにパッとしないガキがパッとするための願望を肯定してやればいいんだろ? 可愛い牝と選ばれし者的な特殊能力がセットでやってきて、退屈な日常よさようなら、そして本当の自分よこんにちは、ってね。ついでに憎たらしい敵役を出して、そいつを倒してスカッとさせてやればいいわけだ」

「そう。そして舞台は学園……十代の少年にとっては学園が世界だから、ここを外すのはありえない。政治や社会問題とは無縁。親は煩わしいので出さない。大人は灰色の存在として。女の子はたくさん出す。これらがライトノベルの守られるべきたしなみ」

「ふん、まだるっこしいねえ。若い男なんざ、金と女をたっぷり与えて好きなだけ遊ばせてやれば、幸せですって云うに決まってるだろうに、なんでこんな七面倒くさい手順を踏まなきゃならないんだか」

「みんなそういうのが好きなのよ……」

 そうした話をしているうちに、二人は本棚の小径を抜けて図書館の入り口に戻ってきた。目の前に外へ続く大扉がある。ミザリィは足を止めたが、ファムは歩度を緩めることなくその扉へ近づいていった。そんなファムの背中にミザリィは声を投げた。

「ファム、行くの?」

「ああ。まあそういう契約だからね。なんとかあいつをライトノベルの主人公様にしてやるさ」

「そう」

「そういうわけだから、この本は借りていくよ。世話になったね」

 ファムはミザリィに背中を向けたまま、右手に持った本を軽く掲げると、扉を開けて外へ出て行った。まもなく悪魔の飛び立つ羽音が聞こえた。


 一人になると、ミザリィはおもむろにカウンターの後ろへ回って、そこにある電話台の前に立った。電話は昔ながらの回転ダイヤル式で、象牙色に金の螺鈿細工が施されたアンティーク仕様だ。ミザリィは受話器を上げると無言でダイヤルを回した。相手の電話に繋がるまでにまず時間がかかり、さらに数回のコール音を経てようやく相手が出た。

「もしもし、ロビン・フッド? ええ、ええ、そう。悪魔よ。まだ生き残りがいたの。名前はファム・ファタール。真名はわからない。今から調べてみるけど、時間は約束できないわ。だって仕方ないでしょう。六世紀も姿を見せなかったのよ? 私の預かり知らないところでたおれたのだとばかり思っていたわ。今は日本の如月隼人という少年と契約したみたい。ええ、もう行ったわ。やるなら急いでちょうだい。百年ぶりだから当代にとっては初めてのことになるでしょうけど。とにかく連絡はしたわ。ええ、それじゃ……」

 通話を終え、ミザリィは受話器を下ろした。それから手近な椅子に腰掛けて天井を仰ぐ。するとその瞬間を待っていたように、高い天井からインコのエルザが舞い降りてきた。

 ミザリィが微笑みながら右手の人差し指を差し出すと、エルザはその指にとまり、毛繕いを始めた。時折、思い出したようにミザリィの仕込んだ声で鳴く。

「アイーン、アイーン」

「アイーンは、前の悪魔の真名だったわね」

 悪魔の時代は終わってしまった。多くの悪魔は既に封印され、たとえばこの悪魔図書館に利用者があったのも百年ぶりのことだ。

 つまり、この悪魔図書館の利用者は全滅したのである。

 なぜか?

「愚かなファム・ファタール。あなた出て来なければよかったのよ。ずっと怠惰な眠りを貪っていればよかったんだわ」

 ミザリィはエルザに目を注ぎながら、一人うっそりと呟いた。


        ◇


 電車とバスを乗り継ぎ、隼人が自宅に辿り着いたのは夕方六時を過ぎてからのことだった。ファムとの出会いがまだ頭をぼんやりとさせていて、気も漫ろに歩いてきたため、いつもより遅くなってしまったのだ。

 自宅はなんの変哲もない二階建ての家だ。隼人の父は大学進学を機に田舎から上京してきた男で、結婚と同時にここ埼玉某市の住宅街に家を買ったらしい。隼人にとっては、幼いころから住み慣れた我が家である。

 家のなかに入ると、なにかの煮物であろうか、夕餉の支度のよい匂いがした。

「ただいま」

 隼人は居間に顔を出して、キッチンカウンターの向こうで立ち働いていた母にそう声をかけると、すぐに顔を引っ込めて階段を上ろうとした。ところが母が素早く居間から姿を見せて声をかけてきた。

「隼人、ちょっと待ちなさい」

「なに?」

 隼人は階段の途中で立ち止まると、うるさげに母を振り返った。

「あんた、このあいだの返事、まだ聞いてないわよ? 考えとくって云ってたけど」

「このあいだの返事?」

「塾のことよ」

「ああ……」

 隼人はうんざりといった様子で母から目を逸らした。九月の中間考査で隼人の成績が下降気味だったのだ。そこで両親が隼人に塾を勧めてきたのが、つい先日のことだった。

「俺まだ高一だよ? 受験なんて当分先のことなんだからさ」

「なに云ってんの。あんたのおつむじゃね、今のうちからきちんと勉強しておかないと良い大学に行けないよ?」

「べつに大学なんてどこでもいいだろ。自分の学力に合ったそこそこのとこでさ」

「今、無理してでも頑張っておけば、あとで楽になるから――」

「ああ、はいはい」

 隼人はお茶を濁して逃げようとした。が、母が目に角を立てて階段を一歩上ってくる。

「じゃあ行くのね?」

「……ああ」

「そういうことで、お父さんに話すからね?」

「ああ!」

 隼人は投げ遣りに承知すると、跫音あしおとも荒く階段を登り切った。とっつきの自分の部屋に入って明かりを点けると、扉を叩きつけるようにして閉めた。

 隼人の部屋は十畳ほどの洋室である。南側に窓があり、パソコンの載った学習机のほか、本棚、箪笥、寝台、カーペットと座卓、テレビラック、オーディオラックなど一通りのものが揃っている。一人息子であるせいか、なかなかいい部屋と家具をもらっていた。しかし今の隼人は鞄を床に投げ出すやベッドに腰掛け、憤然として枕に拳を叩きつけた。

「なんだよ、くそっ!」

 本当に親というのは口やかましい。自分とて受験生ともなれば塾に行くのも吝かではないが、あと一年くらいは遊ばせておいてほしかった。

「あーあ、塾か。めんどくさいな……」

 隼人は寝台のうえに仰向けに横たわると、天井を見ながらため息をついた。

「いっそ一人暮らしだったらよかったのに」

 如月カズマのように。と思って、隼人ははたと起き上がった。

「そうだ」

 買ったばかりの『魔法学園オーロラブレイド』は線路に落としてきてしまったようだが、それは今さら惜しくなかった。それよりもファムである。隼人はあたふたと寝台を離れるや南向きの窓に取り付き、それを半分ほど開けた。今夜訪ねるから、窓を開けておけと云われたのを思い出したのだ。

 隼人はすっかり日の暮れた夜空を見上げてほうとため息をついた。あの悪魔がこの退屈な日常を破壊してくれる。

「上手くやってみせる」

 隼人は祈るようにそう呟いた。心の底では怯えてもいたのだ。悪魔と取引をした人間は不幸になると決まっている。それなのに自分は、命を人質に取られたとはいえ、悪魔と契約してしまった。一瞬、窓を閉めて鍵をかけておこうかという考えも頭を過ぎったが、そうしたところで意味はないだろう。賽は投げられたのだ。

「上手くやってみせるさ」

 隼人はもう一度、自分を鼓舞するようにそう呟いた。


 夕飯が終わって風呂にも入り、午後十時を過ぎたころになっても、ファムはまだ姿を見せなかった。隼人はまだ眠たくはなかったが、ファムを待ってそわつくのにも疲れてきたころである。机に向かってインターネットをやっていたが、あまり身が入らない。いつも楽しく見ている動画サイトも、今日ばかりは色褪せて見えた。

「まだかなあ」

 隼人は水色のカーテンに縁取られた窓を見た。夕方開けたときのまま、向かって右側の窓が半分ほど開いている。そこから涼しい夜風が吹き込んでくる。夏であれば虫が入ってくることをおそれて、こんな風には窓を開けていられなかった。

「はあ」

 隼人はため息とともに目を伏せ、また目を上げた。そのときにはもう、窓の向こうに青い肌をした女悪魔が立っていた。

「うわっ!」

 隼人は驚いて椅子ごと後ろにひっくり返った。椅子の背凭れが衝撃を和らげてくれたとはいえ、けたたましい音がして隼人は天地の感覚をなくした。

「なにやってんだい」

 そう呆れた声とともにファムが窓を開け、桟を跨いで隼人の部屋に踏み込んで来た。それだけで室内の温度が下がったような気がする。青い半袖のシャツに緑のハーフパンツという部屋着姿の隼人は、寒気を覚えながらも急いで立ち上がって椅子を元に戻すとファムに向き直った。

「こ、こんばんは」

「約束通り、おまえをライトノベルの主人公にしてやるよ」

 ファムは微笑んでいたが、それがどうにも悪意のしたたる笑みである。隼人は上目遣いに、猜疑心に満ちた目をファムにあてた。

「本当に?」

「信用しな。契約は果たすさ。さあ、まずは右手を出すんだ」

 隼人はちょっとためらったが、結局は云われた通りに右手を差し出した。それをファムに双の手で包み持たれると、その冷たい、ほとんど体温のないような感覚に隼人は凍りついた。そうした怯懦を嘲ったのか、口元を歪めてわらったファムは低い声で呪文を唱え始めた。異国の言葉で、不吉な韻を踏んでいるように思えた。

 隼人は目を瞠った。呪文が唱えられるにつれて、ファムに包み持たれた右手が紫色に輝き始めたからである。感覚はない。冷たいと思っていたファムの手の温度も感じなくなっている。右手が消えてしまったようだ。そして。

「オーン」

 呪文をそう締め括ったファムは、隼人の手を離すとその体を横にどけた。隼人は急いで手を引き、自分の右手に目を凝らしながら右手を握ったり開いたりした。ごく当たり前に動く。感覚も蘇っていた。一見して変わったところはないが、なにかをされたのはあきらかだ。隼人は弾かれたようにファムを見た。

「いったい、なにをしたんだ?」

「それが知りたきゃ、窓辺に立ちな」

 隼人はファムの意図をはかりかねた。が、数秒を挟んで窓の前に動いた。窓はファムが入ってきたときのまま、大きく開け放たれている。ファムが隼人の斜め後ろに立って腕を組んだ。

「右手の指を揃えて手刀を作りな」

「う、うん」

 隼人は云われた通り、右手を手刀に変えた。

「そうしたら、その手刀を夜空に向かって突き出しながら叫べ。スターランサー!」

「え、ええ?」

 隼人は目を丸くして肩越しにファムを振り返った。そこでは自分より背の高い彼女が、腕組みしてこちらを見下ろしていた。

「いいからさっさとやってみな」

 隼人は顔を前に戻して夜空を弱々しく睨んだ。ファムの提案は、十六歳の少年には滑稽に思えたのである。しかしながら好奇心が鎖に繋がれた犬のように吠え猛っていた。それをどうにも無視できない。

「よし」

 隼人は顔つきを引き締め、夜空の一点、青い星に狙いを定めた。そこへ向かって右手を突き出しながら叫ぶ。

「スターランサー!」

 その瞬間、右手が白銀に輝いたかと思うと急激に伸びた。伸張した。右肘から先が光りの槍となって、空気を切り裂く音とともに高く高く伸び、湾曲して夜空を刺した。青い星を刺し貫いたところで槍の伸張は止まり、次の瞬間には幻のように消え失せて元の右腕に戻っていた。

 隼人は時間の止まったように静止していた。だが心が雀躍とし出すのをどうしようもない。それはやがて肉体にも及び、隼人は快哉をあげていた。

「すげえっ! うわっ、うわっ、なにこれ凄い! 凄いよファム!」

「気に入ったかい?」

「うん!」

 隼人はファムを顔を輝かせて振り仰いだ。

「そいつはよかった」

 ファムは嗤うと、部屋のなかへ向かって歩き出しながら一冊の書を手に取った。その本はなんの前触れもなく、手品か魔法のようにファムの手のなかに現れたので隼人を驚かせた。

「こいつはラノベの概要を記した書、ということらしい。図書館で借りてきたんだ」

 問わず語りにそう述べたファムは、座卓に腰掛けると脚を高く優雅に組んだ。

「これによるとラノベの主人公には異能が必要みたいだからね、今のをくれてやったのさ。まあ使い道はないだろうが、大事にしな」

「うん」

 隼人はまだ胸をどきつかせながら、自分の右腕を大切そうに撫でた。

 一方、ファムは本のページを捲りながら、しかつめらしい顔をして一人呟いている。

「ライトノベルの主人公の条件……十代の少年であること、これはいい。異能の力は今くれてやった。ヒロインは――」

 そこで言葉を切ったファムは本から顔をあげて隼人に眼差しを据えた。

「ヒロインは、あたしでいいね?」

「え、あ、うん。そうだね」

 隼人は戸惑いを隠しきれなかったものの、拒否はせずに首肯うなずいた。青い肌で身長が一九〇センチもありそうな女性は隼人の好みから外れていたが、自分の退屈な日常を壊してくれたことを思えば、彼女こそが自分にとってのメインヒロインなのだと判断せざるを得ない。ファムは隼人のその返答に気を良くしたように笑う。

「まあ当然だ。あたしがおまえの運命の女ファム・ファタールなんだから」

 ファム・ファタール。その言葉の意味を、隼人は既にインターネットで調べていた。それによるとファム・ファタールには確かに『運命の女』という意味があるらしい。だが他にも『悪女』だとか『男を破滅させる女』だとかいう意味もあるのだ。

 隼人はちょっとうそ寒くなりながらもファムに歩み寄って訊いた。

「ねえ、ファム。そのファムっていうのは、本名なの?」

「もちろん通り名さ」

「じゃあ本当の名前は?」

 隼人は何気なく尋ねたのだが、ファムはたちまち顔を強張らせた。

「悪魔が自分の本名を教えることはない。真の名前を知られるということは、相手に支配されるということだからね。このあたしにしたところで、真名を知られちまったら万事休すの百年目だ」

「そ、そうなんだ……じゃあ、訊いても無駄だね」

「当たり前さ」

 ファムは素っ気なく答えると、また本に目を落として読み始めた。

「学園生活でハーレム……これは明日なんとかしよう。あとはおしゃれな都会で何不自由のない一人暮らしってことだけど、ここは東京だったかい?」

「いや、埼玉。首都圏って意味じゃ、ほとんど同じようなもんだけど」

 隼人はそう云いながら、椅子を跨いで逆向きに座った。背もたれに肘をかけてファムを見る。

「でも一人暮らしは無理だよ。うちは普通のサラリーマン家庭だし、母さんは主婦だし……だいたい高校生で一人暮らしなんて普通じゃありえない。漫画やゲームの世界ではよくある設定だけどさ」

「ふうん、そうかい」

 ファムはそうした隼人の意見を、路傍の石ころほどにも気にかけていないようだった。隼人はそれを感じ取り、軽く不満を覚えたものの黙っていた。

 ところが、このとき部屋の外から思わぬ第三者の声がした。

「――隼人、さっきからなにバタバタしてるの?」

「げっ!」

 母だ。どうやらうるさくしすぎたらしい。階段を上る足音が家を通して伝わってくる。

「やばい、ファム、母さんだ!」

「なにがやばいんだい?」

 ファムは本から目を上げて不思議そうに小首を傾げた。隼人は苛立たしげに椅子から立ち上がると急いで窓を指差した。

「おまえを見られたらやばいだろ。なんて説明するんだよ? とにかく早く隠れてくれ。いったん外に出て行って――」

「どうして逃げ隠れする必要がある?」

 ファムは嗤笑とともに本を閉じ、立ち上がって扉に体を向けた。母の足音はもう部屋のすぐ前まで迫っていた。

 ――どう考えてもまずいだろ。

 隼人が胸裡にそう呟いたとき、扉が開いて、ファムと母は呆気なく対面した。隼人に小言を云おうとしていたに違いない母は、ファムを見て目を丸くする。

「えっ、誰?」

 母のその問いかけは、ファムではなく隼人に向けられたものだった。だがなんと説明したものか。絶句しかけていた隼人の口は、ひとまず無難な返答をした。

「と、友達……」

 そんな言葉で母が納得するはずがないことはわかっていた。なぜといってファムは青い肌に竜の翼を背負った異形なのだ。しかしまさか悪魔だなどと思うはずがないから、出来のいい仮装かなにかだと判断するだろう。すると今度はこんな時間に親の目を盗んで女性を部屋に連れ込んでいたということになる。

 だがそうした隼人の推測と、隼人の母の戸惑いを鼻先でせせら笑って、ファムは本を小脇に挟んだまま母の前にまで進み出た。

「如月隼人のお母さん?」

「え、ええ」

 母は言葉が通じると知って少し顔を明るくした。

「そうですけど、あなたは?」

「初めまして、さようなら」

 ファムが右腕を勢いよく真横へ振り切った。その鳥が翼をひろげるような一撃が母の首から上を吹き飛ばし、扉の外の壁を真っ赤に染めた。部屋着姿の母の体がゆっくり仰向けに倒れていく。人の体の倒れるときの、あの意外に大きな音がした。

「あ――」

 やっと声が出た。そう思ったときには、隼人は叫んでいた。

「ああああああ! か、か、か、母さん! 母さん! うわあああっ!」

「うふっ」

 ファムの右手は綺麗なものだったが、血の飛沫が少しはかかったらしかった。ファムはそれを真っ赤な舌で舐め取ると、狂ったように叫び声をまき散らしている隼人を振り返り、睨んだ。

「黙りな」

 隼人は蛇に喉を締め上げられたように黙った。ファムの一言には、それだけの力が込められていた。隼人は混乱し、恐怖と狂気に満ちた両の瞳を母の死体からファムに移した。

「なっ、なっ、なっ」

「はい、深呼吸」

 ファムがからかうようにそう云った直後、隼人はやっとファムに食ってかかった。

「なにやってんだよ、おまえは! か、母さんが、母さんが――」

「殺してやったよ。すっきりしたろ?」

「はああ?」

 わけがわからない。隼人は狂気に頭まで浸かりそうになった。母の死が信じられない。それが現実だとしたら、自分は次の瞬間にでも気狂いになってしまいそうだった。

 そんな隼人の前で、ファムは小脇に抱えていた本を手に取って開いた。例の、ライトノベルの概念書である。ファムは教師が生徒に説くようにしてその本を読み上げ始めた。

「この本にはこう書いてある。ライトノベルにおいては作品中に主人公の親が登場しないものが多い。これは十代の少年少女の多くが親を煩わしく思っているためである。海外出張などで長期に亘って家を空けていることも珍しくない。ライトノベル読者にとっての理想、親のいない、自由で快適な一人暮らしを実現しているのだ」

 そこまで読み上げたファムは本を閉じると、隼人を見て嗤った。

「ラノベの主人公に親はいらない。読者はそうお望みだ。だから殺してやった」

 隼人は梟のように目を丸くして、もはや声も出てこなかった。半ば開いた口から、魂までもがどこかへ泳いでいきそうだ。

 このようにして自分を見失っていた隼人の耳に、このとき人の好さそうな男の声が聞こえてきた。

「おおい、隼人。今の叫び声なんだ?」

「とっ――!」

 茫然自失の体にあった隼人の体が、このとき電気を浴びたように動き出した。

「父さん」

 父だ。父がどうやら階段の下から呼びかけている。

「父さん風呂入ってたんだが、慌てて出て来ちゃったよ。おおい」

「父さん」

 隼人は父に惹かれて一歩足を前に踏み出した。だがそれよりずっと機敏な動作で、ファムが戸口の方に体を向けた。左手を返したかと思うとライトノベルの概念書が魔法のように消えた。そして竜の翼が獰猛にひろがる。

「もう一人いたか」

 隼人ははっと息を呑んだ。ファムがなにをする気かわかったからだ。隼人はファムを止めようとその背中に手を伸ばしながら、自らは喉を抉るようにして叫んだ。

「父さん! 逃げて!」

「あははははっ!」

 ファムは竜の翼で空気を叩くと、ふわりと舞い上がり、信じがたい速度で部屋を飛び出して急角度で左に折れた。そこはもう階段で、階段の下には父がいるはずだった。

「うおっ!」

 そんな父の断末魔の声さえ、ファムの爪牙に掻き消されてしまった。

 ……。

 階段の下には父の死体がある。部屋の外には母の死体がある。隼人はそれらの現実を閉め出すように、部屋の扉を閉めて鍵をかけ、部屋のなかに立てこもっていた。だが一人にはなれなかった。ファムが隼人の寝台に優雅に腰掛けて、部屋の片隅で三角座りをしている隼人を嘲笑いながら見下ろしている。隼人はずっと黙り込んでいたが、やがて胸に溜まったものをどうしようもなくなって吐き出した。

「どうすんだよ」

「え?」

 そのとぼけた返事に隼人は膝に埋めていた顔をあげると、ファムを睨みつけた。

「どうするんだよ!」

「もう寝な。あしたまでには死体は綺麗に片付けておいてやるよ」

「そういうことを云ってるんじゃない!」

 隼人は憤激に任せて立ち上がると、ファムに詰め寄って叫んだ。

「父さんを返せ! 母さんを返せ! ふざけんな! 僕はこんな風にしてほしかったんじゃない!」

 するとファムは黄玉の瞳を細めた。

「黙りな」

「ぐっ!」

 またしても不思議な呪縛が働いて隼人の喉を締め上げた。ファムに黙れと云われるともう一言も喋れなくなる。部屋に静けさが戻ると、ファムは満足そうな顔をして語り始めた。

「まず親を返せっていうのは無理な相談だ。あたしは物を壊すのは得意でも直すのは苦手だからねえ。で、こんな風にしてほしかったんじゃないって云うけど、おまえはライトノベルの主人公になりたいと云ったじゃないか。どんな願いにするのかはおまえの勝手だが、それをどう叶えるかはあたしの勝手だ」

 ファムはそこで言葉を切ると、またあのライトノベルの概念書をどこからか取り出して開いた。

「それにね、あたしはちゃんと売れ線を狙ってるんだよ」

「え?」

「ライトノベルと一口に云っても色々ある。が、商売である以上は需要というのがあるんだよ。売れ線というのがね。そこであたしも、その売れ線とやらに沿ってみることにしたんだ。つまり読者が喜びそうな設定に、ライトノベル主人公のテンプレートに、おまえを当て嵌めることにした。だから親は消した。それが読者様のお望みだからね」

 ファムは本を閉じて消すと隼人を見て嗤った。

「おまえだってそうなんだろ? 親のことを煩わしいとか思ってたんだろ? で、親が海外出張だの特殊な学校で寮生活だのするライトノベルの主人公のことをいいなあって思ってたんだろ? そういう風になりたかったんだろ?」

「そ、れは……」

「だからそういう風にしてやった。文句を云うんじゃない」

 犬に噛まれたときのような恐怖が、隼人をして意気阻喪させた。隼人はその場で膝から崩れ落ちると、両手をついて途方に暮れた。もはやファムに食ってかかるような気力は残っていなかったが、先のことを考えると絶望しかない。隼人はこれから起こるであろう色々な問題を数え始めた。

「でも親がいなくて、この先どうやって生きていけばいいんだよ」

「金のことなら心配ないよ。必要なものがあれば云いな。なんでも調達してきてやるからさ。高校を出るまでは、おまえの面倒はあたしが見てやる」

「人が来るぞ。父さんの会社の人とか、親戚とか、警察とか」

「それがなんだってんだい。あたしは悪魔だ。そんなものはどうとでもなる。警察に悪魔が逮捕できると思うのか?」

 隼人は板張りの床の上で手を握り締めた。顔を上げ、ファムを睨む。

「僕はっ」

「なあ隼人。おまえは悪魔と契約したんだ。だからこうなることはわかっていたはずだろう。わかっていなくちゃならなかった」

 ファム・ファタールが嗤う。その剥き出しの悪意を見て、隼人はこの女悪魔が決して無神経ではないことを悟った。ファムは隼人がどんな気持ちか、わかっている。わかっていてやっているのだ。

「おまえ……!」

 心の底から込み上げてきた怒りは、しかし弱い犬のように吠えていた。目は涙に潤んでいて、ファムに噛みつく勇気がない。

「あははははっ!」

 ファムはそう哄笑をまき散らすと、竜の翼をひろげ、寝台に腰掛けていたのがふわりと舞い上がって隼人のすぐ前に着地した。

「隼人、もう眠りなよ。明日も学校があるんだろう? ライトノベルの舞台は学園というのが定番だからね。明日からが本番だ。楽しみにしておいでよ。あはははは!」

 ファムはふたたび舞い上がると、壁をすり抜けて消えてしまった。ただ哄笑だけが尾を引いて、隼人の頭のなかを冷たい刃となって引き裂いていた。

 ――僕は悪魔に魂を売ってしまった。

 これからどうなるのだろう。


 その晩、隼人は夢のなかで父と母に会った。目が醒めると枕が濡れていた。それからすべてが夢だったのではないかと淡い期待を覚えながら部屋の扉を開けた。が、目の前の壁は血で汚れていた。階段の下にも血の痕があった。家のなかを見て回ったが、しんとしていて、テレビと風呂の電源が入ったままになっていた。

 父さんと母さんは死んでしまった。そう悟って、隼人はまた少し泣いた。

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