悪魔物語、叛逆ライトノベル
太陽ひかる
プロローグ
プロローグ
天と地の狭間のどこか、一年を通して深い霧が立ちこめている湖の上に、その館は建っていた。古びた物云わぬ洋館が、塀も庭もなく、ただ湖面に門を構えているのだ。この摩訶不思議な建物、もとより人間の業で建てられたものではない。
「ここに来るのも、何百年ぶりかねえ」
そんな軽口とともに、一人の女が館の前に舞い降りた。玄関の扉の前に石段付の足場が付いている。雨除けとなる屋根は無いが、飛来した者が降り立つにはまさに格好の場所だった。霧のなかに建っているだけあって辺りは肌寒い。女は急いで青黒い竜のような翼を畳むと、チョコレート色をした両開きの扉を押し開け、屋敷のなかへと踏み込んでいった。空気の匂いが、涼しげな湖面のそれから古いインクの匂いに変わった。
女は屋敷のなかをぐるりと見渡した。百合の花を模したガラスシェードのランプがいくつも天井からぶら下がっている。その花明かりの下で、本棚が壁という壁を埋め尽くし、さらには壁だけでなく部屋のなかにも列をなして、さながら本棚の迷路を作り出している。しかも天井が高いから、自分が本棚の谷底にいるような錯覚を起こさせる。ここはいったい、なんであろうか?
「悪魔図書館……昔からしけたところだったが、ちょっと来ないあいだにずいぶん寂しくなったじゃないか」
図書館は図書館の常として静謐に包まれていたけれど、それにしても静かすぎる。女がそれを訝ってそう独りごちたとき、臙脂色の絨毯を踏みしめて、本棚の作る小径の奥から一人の女性が姿を現した。
「いらっしゃい」
その女は亜麻色の髪を背中まで伸ばした美女だった。前髪を真ん中で分けて形のよい額を出している。瞳は鳶色で肌は
竜の羽根を持つ女は、黒い鳥の翼を持つ女に向かって嗤いかけた。
「司書ミザリィ。どれだけぶりかね?」
「六百四十一年ぶりよ、ファム・ファタール」
「もうそんなになるかい」
ファムは銀色をした前髪を一房、指先に絡め取って口笛を吹いた。
この女の名前はファム・ファタール。銀色の髪を腰まで伸ばし、禍々しい金色の瞳を持つ大柄な女だ。すこぶるつきの美女だが、人間の男が彼女を見れば十中八九おののくだろう。なぜといって、彼女の肌は青い。死人のような、などという青さではなく、深海のブルーだ。それが豊艶な体つきをしていて、きわどいボンテージのような黒革の衣裳を身に着けている。銀髪から垣間見える耳は尖っており、こめかみの位置からはねじくれた角が生えていた。そして青黒い竜の翼を背負っている。まさしく女悪魔といった異形だった。
ミザリィはそんなファムを見て、無表情ながら目を細めた。
「悪魔ファム・ファタール。怠惰なあなたが動き出すなんて、なにかあったの?」
「別に。あんまりさぼりすぎたからね、久しぶりに悪魔らしいことでもしようと思ってさ。そっちこそなんだい、この有様は?」
ファムは図書館のなかを見渡して
「すっかり閑古鳥が鳴いてるじゃないか」
「時代は変わったのよ、ファム。悪魔はもうほとんど封印されてしまったわ。この悪魔図書館に悪魔が訪れたのも、これが百年ぶりのこと」
「へえ、そいつは知らなかった」
どうやら自分が惰眠を貪っていた数世紀のあいだに、悪魔の時代はとっくに終わりを告げていたようだ。ミザリィは小さく嘆息すると、本棚がどこまでも聳えている高い天井を仰ぎ見て、そっと右手を差し伸べた。
「今では、私とお喋りしてくれるのはエルザだけ」
「エルザ?」
ファムが眉をひそめたそのとき、どこからともなく翼のはばたく音がして、一羽の小さな鳥が舞い降りてきた。それは白い頭に青い胴と翼を具えた細身の鳥で、よく懐いているのか、ミザリィが伸ばした右手の人差し指にとまるとミザリィを見て
「アイーン、アイーン」
インコのあのつたない人語が図書館に響く。ミザリィはどこか得意そうな顔をしてファムを振り仰いだ。
「セキセイインコのエルザよ。魔力で寿命を延ばしていて、もう百年以上生きているわ。とても頭がいいの」
「アイーン」
エルザのその声に、ファムは閉口しかけた。
「……とても頭がよさそうには見えないけどね。なんだい、そのアイーンってのは?」
「覚えさせたの」
「もっとマシな言葉を覚えさせなよ」
ため息混じりにぼやいたファムにくすりと笑いかけたミザリィは、指揮棒でも振るように右手をさっと動かした。するとエルザはミザリィの指を蹴り、翼を
それを見送ってから、ミザリィは威儀を正すとファムを振り返って云った。
「それにしてもファム・ファタール。あなた、出て来なければよかったのよ。今の現世は、悪魔にとって怖いところだわ。下手に動き出すと、痛い目を見るわよ?」
「他の連中のように?」
ファムは喉の奥で嗤いながら、豊かな胸の前で傲然と腕を組んだ。
「そんなドジは踏まないさ。それよりあたしがこうしてこの図書館を訪れたってことは――」
「なにか調べ物があるんでしょう?」
ミザリィの早手回しの問いに、ファムは満足そうに
「ああ、ライトノベルという本を借りたい」
その言葉にミザリィは小首を傾げた。
「ライトノベル。二十一世紀初頭の日本にあらわれたある小説群の総称。主に十代から二十代の読者を対象とする。表紙にイラストが用いられているのが特徴。SF、ファンタジー、ラブコメなど、ジャンルは多種多様。欲しいなら今すぐ『ライトノベル』を探して持ってくるけど――」
悪魔図書館の司書ミザリィはそう請け合いながらも、ファムの顔から不思議そうな目を離さない。ついに彼女は、雛が卵の殻を割るように疑問のくちばしを出した。
「そんなこと調べてどうするの?」
するとファムは苦笑いをして、身振り手振りを交えながら語り始めた。
「いや、ほらさ。悪魔ってのは一般に人間の願いを叶えてやるのと引き替えに魂をいただくだろう? それはあたしも例外じゃない。で、今日、極東のちんけな島国の坊やと契約したんだけどさ、その坊やの願いってのが『ライトノベルの主人公になりたい』なんだよ。で、ラノベっていうの? とりあえずそれを調べなきゃ話にならないだろう」
「僕はライトノベルの主人公になりたい?」
ミザリィが呟くと、ファムは口の端を吊り上げて嗤った。
「ま、そういうことさ」
はははっ、とファム・ファタールが
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