※35話 たまには、ね。

 子供の頃は、あまり身体が丈夫な方じゃなかった。気づけばすぐに熱を出してしまい、季節の変わり目には、学校を連日欠席した。


(――あ、マズい)


 大人になってからは、もう平気かなと思っていたが、やはり無理が過ぎると熱を出して倒れた。当時、有名なデザイン会社を退社したのは、自分の身体に負担がかかり過ぎたのが原因だったりもする。


(――熱、でてきた)


 日曜日の昼間。

 世間が新生活に向けて慌ただしくなる3月の半ば、気持ち薄着になっていたのが失敗だった。ペンタブを握っていた手が震え、背筋にぞくりとした肌寒さを感じた時には、軽い眩暈を覚えていた。


(――ダメだ。無理して継続すると、後に響く)


 作業中のイラストデータを保存して、画面を閉じる。モニターの横に貼った黄色いポストイットを一枚剥がし、赤と入れ替える。


「けほっ」


 立ち上がると、すぐに咳がでた。暖房器具のスイッチを消した後、ジャケットを羽織って部屋を出る。廊下を渡って居間に着く。


「嫁さん、いる?」

「にゃ?」


 机の上。いつもの場所。敷かれた座布団の上に、二股の尾を持つ黒猫がいた。


「ごめん、俺ちょっと体調悪いから、夜まで寝るよ」

「にゃっ、にゃにゃあ?」

「平気。たぶん、少し寝たら治るからさ。えーと……薬、薬と」


 こういう時の為に、風邪薬は常備してある。救急箱から目的の小瓶を拾いあげて、三錠を一気に飲み干した。


「ん、ぐ。――そういうわけで悪いけど、猫缶と飲み水は用意しとくからさ。腹が空いたら適当にやっといて。ごめんな」

「にゃあにゃ」


 嫁さんは、こくんと頷いた。家族としての付き合いが長くなってくると、風邪ぐらいでは、おたがい動揺しなくなる。それもまぁ、よくある日常の一つに変わるのだ。


「じゃ、おやすみ」

「にゃあ」


 最後にうがいと手洗いをして、俺はさっさと二階の寝室へと上がっていった。


 * * *



 会社を辞めて、家を買った。


 この家で絵を描いて、働いていこうと決めた時、たぶん、いや間違いなく、俺は一人で生きて、死んでいくんだろうなと思った。


 それは、世間的に言えば〝寂しい〟のかもしれないが、自分のプライベートと仕事を区別ができない、あるいは区別したくない人間にとっては、むしろ〝寂しい〟というのは好都合だった。


 芸術家を気取るわけではなかったが、意識は高く持ちたかった。自分なら、期限内に、与えられた案件を、望まれた形で納品できますよ。そういう仕事をしたかった。


 けれど、上手くいかなかった。


 フリーはキツい。会社という後ろ盾がないと、良いように見限られ、足切られ、取って変わられ、自分の中で、どんどんモチベーションが失われていくのを感じた。


 しんどい。つらい。


 それでもいつか、仕事を選り好みせずに続けていれば、風向きが変わると信じて、寝食する事すら止めて、ひたすらイラストを描き続けた。


 お笑いだ。身体が弱くて会社を辞めたのに。今度は自宅で仕事を続けて、机に座っていたら血を吐いた。連日の間、咳が続いていたから、単なる微熱かと思ったら、もっとひどかった。


 ――あぁ。おれ、なんで、絵、描いてるんだっけ?


 よく分からなくなった。入院して、精密検査やら治療なんかを受けている最中に、両親にも心配をかけてしまった。特に母親に関しては、


「やっぱり、お嫁さんがいないとダメねぇ。いいわ、ここはお母さんに任せておきなさい! お母さん、町内会に顔が効くからね! 世界ひろしといえど、ここまで町内会に顔が効くのはお母さんぐらいだものねっ!!」


 暴走した。母親を暴走させてはいけないと、俺も父親も妹も、家族全員が身にしみて知っていたのだが、


「今回は全面的にテメェが悪い。罰として甘んじて受けろ」

「以下、同上」


 正論すぎた。翌日、俺の名前と住所と職業と年収(かつての会社勤め時のデータ)は、母親の手によって、婚活情報サイトに逐一掲載された。ちなみにそこのサイトのイラストは、俺が描いたやつだった。死ぬほど恥ずかしかった。



 ――そして紆余曲折あって、俺は猫又の嫁さんと結婚したのであったとさ。

 


 紆余曲折に関しては、割愛させてもらおうか。

 

「そこが大事だろ!?」とか言われても困る。なんだったら、そこらの適当な夫婦を捕まえて聞いてみると良い。「なにがキッカケで結婚されましたか?」と。


 本音で良いなら、9割方は、こう答えるに違いない。



 「 あの頃は、若かった 」



 * * *


 「……は」


 気づいたら、深夜だった。枕元には置時計と盆があり、盆の上には水差しと、果物ゼリーが数個置かれていた。買い置きの覚えはなかったから、とっさに、嫁さんがコンビニ辺りで買ってきてくれたのかと思ったが、


「嫁さん……?」


 いない。時計を見れば、もう丑三つ時の時間。つまり『月曜日』だった。


「よっ、と……」


 ほんの少し立ちくらみがしたが、体調は悪くない。


「イラスト、仕上げないと」


 一瞬、嫁さんの事を忘れて、頭が仕事の内容に切り替わる。


 ――退院後、俺の仕事は上手く回りはじめた。それまで、一心になって頑張ってきたのが身を結んだのかもしれないが、実はそれ以上に〝がくっ〟と力が抜けたのだ。


 もう少しだけ、〝適当にやろう〟。


 部屋を出た。階段を降りる。トントン、軽やかなリズムが続く。廊下の先、台所の明かりがついている。なにか、パチパチと弾ける音が聞こえてくる。


「……なにやってんだ?」


 割とどうでもいいことに振り回されて。たまには、必然性のない価値観に出会う。扉を開くと、その先には、桃色のエプロンをつけた嫁さんがいる。


「あ、旦那さん」

「嫁さん、こんな時間になにやってんの」

「トンカツ揚げてます~」


 丑三つ時。いわば午前二時。台所からは、パチパチと油の爆ぜる音がする。ちょっと、ホラーだった。


「ほら。今日のお夕飯、じゃなくて、昨日のお夕飯。トンカツの予定だったじゃないですか~。余った分は今日のお弁当に回して」

「いやそうだけどさ……。午前2時になんでトンカツ揚げてんの。嫁さん、今日も仕事だろう」

「だって、月曜日にならないと、人間になれないじゃないですか~。私、旦那さんのために、とりあえずコンビニ行って、ゼリーと栄養ドリンク買って、それからお肉が古くなっちゃいけないと思って、トンカツ揚げ始めたんですよ。褒めてください~」

「朝起きられなくなっても知らないぞ」

「お昼寝たっぷりしたから、平気ですっ! 私だって、たまには一人で料理できるんですよ! 妻ですからね!!」

「はいはい。いいから、変わるから。あーあー、パン粉も小麦粉も使いすぎ。大量に余るじゃんコレ。卵も何個割ったの? 今朝の目玉焼き作れなくなるぞ」

「な、なんですかっ、いきなりやってきて、私の料理にダメ出しですかっ!!」

「まぁ一通りできてるんだけどさ。嫁さん、分量とか、計り方とか甘いんだよ。あっ、ほらそこのカツ拾って早く。もう揚がってる」

「な、なんで分かるんですかっ!?」

「音で。普段台所に立たない人間って、そこらの判断が疎いよな」

「ぐ、ぐぬぬ~っ! 病み上がりだと思って、甘くしていた私が間違いでした! もう看病してあげませんっ、料理もお弁当作りも任せますっ!」

「待ちたまえ」


 エプロンを脱ぎ捨てて、立ち去ろうとする嫁さんの肩を掴む。


「――洗い物から逃れようたって、そうはいかんぞ……」

「くっ!」

 

 揚げ物は、作るよりも、片付ける方が大変なのは、主夫ならば誰もがご存じだ。



 そしていつもの翌朝。俺は眠たそうに欠伸をする嫁さんを送りだした後、冷えたトンカツを一切れ食べてから、書きかけのイラストに向き合った。


「うん、やっぱちょっと焦げてるな……」

 

 不規則で、不確かで、不器用で。だけど、とびきり美味い。時がある。

 嫁さんの作った手料理を食べながら、俺は悟ったのだ。

 

「私生活が微妙に思い通りにいかなかったり、奇妙なことが続くと、むしろイラストの出来ってよくなるよな。そんな気がする……」


 あくまで私見だが、そんな気は、する。しなくない?

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