※30話 日曜日の、金魚の話(ちょっと長め)
我輩は金魚である。名前は『マグロ』。
生まれは某所の『飼育施設』であり、自分もまた、無数に存在する中の一匹であった。しかし先週、新しい『硝子ケースの家』に越してきた。かつての場所は、やや成長した大勢の仲間が群れていたが、今では側を泳ぐのは一匹のみ。
彼女の名前を『赤身』という。
「赤身よ、今日は外では、雨が降っているようだな」
「それが一体どうしたの? 私たちとは関係ないでしょう。……あと、その変な名前で呼ばないでくれる?」
「呼ばないでくれる、と言われてもな。この屋敷の奥方が授けてくれた名前なのだから、大切にするんである。有象無象の金魚もどきから、我々の個体を識別する、大切な証となったのだから」
「だったら、もう少しまともな名前をつけるべきだったわね」
「それはまぁ確かに」
「金魚はどうやっても、マグロにはなれないのよ……」
赤身の口から、こぷりと水が浮きあがった。
* * *
我輩らの住居は、実に四角い。透明なる硝子にて出来ており、内側には、空気を循環させる機械が一台。流れる風に、人工の藻が揺れる。掃除の手間を省くために、それ以上不要なものは入っていない。実に機能的といえた。
「――外では、ますます雨が強くなってきたようである」
「〝外〟ねぇ……。私たちの外はこの屋敷であって、それ以上の事なんてまったく関係ないでしょう」
「赤身は、少々悲観的なのである」
「悲観的? それこそバカげた話だわ。〝飼育小屋〟で買ってこられた金魚の未来なんて決まってる。悲観的だと思う必要性が、あると思っているの」
「ないんであるか?」
「ないわよ」
「しかし我輩は、一匹限りで購入されなくて良かったのである。奥方が我輩たちを引き取る時、こう言ったのを覚えておるか?」
――1人だけだと、寂しいから。もう1人、一緒に。
「我輩は、この家に赤身とやってこれて、良かったんである」
「あぁ、そう」
赤身は興味なさそうに言って、ゆるりと回遊した。尾がひらりと踊る。我輩はその所作にしばし見惚れてから、気泡をこぼした。
「そういえば、やや、腹が減ったんである」
「もうしばらくしたら、この家の旦那が帰ってくるでしょ」
「今日は気持ち、暗くなるのが早いんである」
「外で雨が降ってるからでしょう。ざあざあ音を立ててるのが、この水の中にまで響いてくるし……べつに、雨なんてどうでもいいし、私には関係ないけどね」
赤身は、素直でないんである。
* * *
我々の場所から見える〝外の雨〟は、ますます勢いを増していた。激しくなった雨足が雷鳴を連れてくる。はるか彼方に浮遊する太陽の姿は覆い隠されて、本来なれば宵闇となった時刻には、すでに一面、どっぷりと暗くなっていた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
ぽーん、ぽーん、ぽーーん。
壁に飾られた時計の針が重なって、それだけが正確に、今日もまた同じものを告げていた。と、その時である。
カリッ、カリッ、カリカリ、ガラッ。
人の戸を開く気配が、硝子の水面を振るわせて聞こえてきた。姿を見せたのは、この屋敷に住まう『日曜日の奥方』である。
この屋敷に住む奥方、我輩らの名づけ親である女性は、ヒトと猫の姿をさまよっている。平日はヒトの姿になり働き、日曜日は黒猫の姿でのんびりしている様だ。
奥方は廊下を進み、ふたたび、戸をカリカリひっかいた。ほんの僅かな隙間を通って、戸の向こう側へと消えていく。おそらく、用を足しに移動したのであろうか。陸地の生き物は、垂れ流しができないので、面倒であると思われる。
赤身が聞いていれば「どうでも良い」と囁くだろう考えがよぎった時に、
――カッ! ピシャッ、ゴロゴロ、ドーンッ!!
鮮明なる輝きが〝外の空〟より、地上に落ちた。やや遅れ、轟音が混じって地に広がる。
「近くである」
「すぐそこね」
二重の硝子を隔てた内側には、まったく影響はなかった。ないように思われたが、先ほどまで奥方のいた部屋の明かりが、ふっと消えた。
「停電である」
世界がよりいっそう、静かになる。〝えれきてる〟の供給が途絶え、空気を循環させる機械が停止したのである。
「ほら、見たまえよ、赤身。やはり〝外〟の影響がないとは言えぬのだ」
「のんびり言ってる場合? このままだと私たち、空気が絶えて死ぬわよ」
赤身がゆらゆら、不安そうに、尾ひれを揺らして言う。
「死にたくない。まだ死にたくないよ。マグロ、私――イヤだよ」
「うむ。万が一、このまま空気が止まってしまったら。えらいこっちゃ」
「……じゃあ、これが最後かもしれないから言っとく。わたし、私ね……本当は、マグロの事が――」
「赤身……」
「にゃ~」
と、そこへ、唐突に奥方が参上した。何故か、のんびりと大あくびをして、この場で眠った。空気の読めない生き物である。
* * *
夜もだいぶ更けてから、やっと灯りがついた。雨の音も落ち着きはじめた中、ヒトの手が格子戸を開き、我輩らの前に現れた影があった。
「……なにやってんだ」
屋敷の旦那は、開口一番そう言った。十数時間、ずっと座りっぱなしだったのか、全体的にかなりくたびれていた。岩のように硬いペンダコのついた、節くれた指先を伸ばしかけ、
「……」
しかし何を思ったのか、半日の間に延びた無精ひげをなぞりながら、呟いた。
「紙と、ペン……」
幽鬼のように。ふらふらと。なにかを求めて立ち去っていった。
* * *
戻ってきた旦那は、画用紙と、色鉛筆を持って再び現れた。丸椅子に座り、ぴっと鉛筆を立てる。
「――ついさっきまで、ずっと絵を描いていたんじゃないのかしら」
「そういう生き物なのである」
許されるなら、ただ、息をするように、絵を描いて生きている。ヒトはそれを「天分」と呼ぶのかもしれないが、ただ水の中を泳いでいれば良い、金魚の我輩にはさっぱり分からぬ。
「これもまた、化け物ね」
赤身が言った。
「絵描きとかいう、化け物だわ」
同意である。おそらくは、屋敷の旦那もまた、つい今しがたまで、なにか別の生き物になっていたに違いなかった。
そうして、半時間も経ったろうか。
「……にゃ?」
奥方が目を覚まし、ふあぁ~っとあくびをする。
側に旦那がいることに気がついた。
「おはよう、嫁さん、大あくびの瞬間をご提供してくれてありがとうな」
「ふ、ふにゃあぁっ!!」
悶える。その様子を旦那は笑って見過ごして、それから、手にした画用紙の一頁をこちらに見せてきた。――我輩たちにも、見える位置で。
「ほら、これ。なかなか上手く描けてると思わないか?」
「にゃあ!」
我輩も見る。切り取られた紙片の内。閉ざされた硝子の箱の中。
「嫁さん、築地のホンマグロを腹いっぱい食うのが、野望の一つだったよな?」
絵。偽りの世界。しかしそこには、小さな水槽から飛び出して、無数の彩色と共に大空へと飛び出したホンマグロが二匹、自由に彩られていた。そして背鰭には、一匹の黒猫が、嬉しそうにかぶりついている。
「にゃあ~!」
ありえない。無意味だ。それを口にするのは、簡単である。赤身の言うとおり、しょせんは金魚の分際である我輩が、いろいろと、アレやコレを考えたところで、やはりなにも意味はないのかもしれない。だが、
「――それでも、悪くないと、我輩は思うのである。赤身はどうであるか」
「べつに……」
赤身は尾ひれを揺らして、狭い世界を、ゆらりゆらりと離れていく。別段、気にしていない素振りではあるも、ささやかな尾鰭の揺れ具合が「嬉しい」と言っていた。そして、それが分かるのは、同じ金魚の我輩のみである。
それだけで、金魚として生を受けたことに、喜びを覚えるのだ。
では、最後にもう一度、自己紹介をしておこう。
我輩は金魚である。名前は『マグロ』。
今日も循環する硝子の箱の中、ゆらり、ゆらりと泳いでいる。
愛しい相方の赤身と共に、この世界を二人きり、静かに生きている。
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