ムタイ、太陽の下でビールを飲む。

1、アルフォンス・ムタイ


 その日、暖かな空気のかたまりがクリューシスの町上空に居座いすわり、朝から町の気温は急速に上昇していった。

「ふえー。こりゃ、春と言うより初夏の陽気だね」

『ロ』の字型に建てられた下宿の回廊から雲ひとつ無い空を見上げ、アルフォンス・ムタイはつぶやいた。

 時刻は午後の一時半。

「こりゃ、部屋にこもって机の前で原稿用紙にらみながら、うんうんうなっている場合じゃないよ」

 二階の回廊から中庭を見下ろす。

 隙間無すきまなく敷かれたクリーム色の敷石しきいし

 中央に屋根付きの井戸。

 やや玄関よりの場所に、木製の屋外テーブルと椅子が置いてある。

「よし! 気分転換だ!」

 アルフォンス・ムタイは、いったん自室に戻ると、右手にビールの入った細首壷ほそくびつぼ、左手に陶器製のカップ、わきの下に革表紙の本を持って再び回廊に現れ、そのまま階段を下りて中庭の屋外テーブルに歩いていった。

 カップをテーブルに置き、つぼからビールを注ぐ。

 壷を置いて椅子に座り、ビールをめながら革表紙のページをり始めた。

「う~ん。雲ひとつ無い青空の下、ビールをチビチビやりながら読みかけの本のを開く。最高だね」

 ふと、二階の自室を見上げると、ムタイの隣の部屋からアラツグ・ブラッドファングが出てくるところだった。

 便所にでも行くのだろう。

 ガックリと肩を落としてトボトボと回廊を歩く姿が何ともみじめだ。

「目は完治したみたいだけど……やっぱり、心理的には立ち直っていないんだな」

 言いながら、七日前の出来事を思い出す……


2、アラツグ


 七日前の昼下がり、ムタイは、この中庭でアラツグとばったり出くわした。

 その時の少年剣士の姿は、それはすさまじいものだった。

 髪といわず、顔といわず、服といわず、全身に飛び散った赤黒い血の痕。

 硬く閉じた両目から、絶え間なく涙が流れ落ちていた。

 さやごと腰から外した長剣で地面をトントン叩きながら歩いている。

 剣のつかにも血がべったり付いていた。

(目が見えないのか?)

 それにしては、案外しっかりした歩調だった。目が見えている時と歩く速度は大して変わらない。

 目を閉じていること、涙を流し続けていること、剣を盲人もうじんの杖のように使っていることから、そう推理できるだけだ。

「ブ……ブラッドファング君!」

 ムタイがアラツグに駆け寄る。

「ど……どうしたんだ、その姿は……」

「ムタイさんですね。事情は、後で話します。少し手伝って頂けますか? ごらんの通り、目が見えないんです」

「あ……ああ。目医者に行こうか? ぼ、僕が手を引いて行ってあげるよ」

「……ありがとうございます。でも、その前に、身ぎれいになりたい。自分では見えませんが、俺、今すごい格好かっこうでしょう?」

「そりゃ……まあ」

「こんな格好で病院なんかへ行ったら、みんなビックリしますよ。医者も、看護婦も、患者も……」

「そりゃ、そうだろうけど……」

 アラツグが、ポケットから鍵を出してムタイに渡す。

「風呂場に行って、血を洗ってきます。俺の部屋から、着替えと手ぬぐいを持ってきて頂けると、ありがたいです」

「わ……わかった。で、でも一人で大丈夫なのかい? 風呂場まで行けるかい?」

「それは、問題無いです。だいたいの位置関係は記憶していますし、微妙な修正は、杖がわりの剣と、音と、かんで何とかします」

「じゃ、じゃあ……わかった」

 ムタイはアラツグと別れ、回廊をまわって階段をのぼり、少年の部屋へと向かった。

 部屋に入って衣装戸棚を開け、適当に上下の衣類を見繕みつくろって手ぬぐいといっしょに両手に抱え、風呂場へ急ぐ。

 脱衣所に入ると、ゆかに血まみれの戦闘服が脱ぎ捨ててあった。

 さやも一緒に放り出してあったが、なぜか長剣自体は無かった。

 きれいな衣類を脱衣かごに入れ、風呂場をのぞく。

 この下宿の風呂場には、石を彫って作ったガーゴイルの頭が四つ、壁から生えている。

 それぞれのガーゴイルの口からは、常時、適温のお湯が流れ続けていた。

 一つが湯船用、三つが洗い場用だ。

 その洗い場用のガーゴイルの下で、裸になったアラツグが全身の血を洗い流していた。

 風呂場の壁に立てかけた剣を見る。血がきれいに洗い流されている。

「ブ、ブラッドファング君……服、持って来たよ。脱衣かごに入れておいた」

「ありがとうございます」

「何か……手伝うことは無いかい?」

「……いえ……あとは、自分で出来ると思います。ありがとうございます」

「じゃ、じゃあ外で待っているよ」

 中庭で待ちながら、血まみれのアラツグの姿を下宿の住人にも大家の家族にも見られなかったのは運が良かったな、と思う。

 この下宿のような集合住宅において、大家が一番心配するのは住民のトラブルだ。

 だから、自分の命を飯のタネに生きる剣士稼業に、部屋を貸す大家は少ない。

 先ほどのアラツグのような凄まじい姿を他の住人や大家の家族が見たら、確実に彼の印象は悪くなるだろう。最悪、立ち退きを要求されるかもしれない……

 程なくアラツグが風呂場から出てきた。

 ムタイの持って来た服を着て、右手に杖がわりの剣、左手に血で汚れた衣類を持っている。

「じゃあ、眼科医の所へ行こうか。僕もいっしょに付いて行ってあげるよ」

「ありがとうございます。その前に、この汚れた服を部屋に置いて来て良いですか?」

「もちろん。ああ、そうだ、鍵、返すよ」

 その後、二人で医者へ行った。

 医者の見立てでは、目を良く洗浄して、一日二日安静にしていれば炎症は収まるだろうという事だった。

 病院からの帰り道で、アラツグが、ぼそり、と言った。

「ムタイさんの言う通りになりましたよ。俺、見事に振られました」

 言いながら、目の周りを包帯でぐるぐる巻きにされたアラツグの顔がゆがむ。

 ああ、今この少年は泣いているのだな、と、アルフォンス・ムタイは思った。


3、アルフォンス・ムタイ


(あれから、もう七日か……)

 医者の言うとおり、目の包帯は翌日にはほどくことが出来た。視力も元通りに戻ったという事だった。

 しかし、失恋の痛手がえるには、まだ大分だいぶ時間が掛かるな、と、元気無く回廊を歩くアラツグの姿を見て思う。

「昼間からビールとは、良いご身分ですね? アルフォンス・ムタイ大先生?」

 突然、声を掛けられ振り向くと、大家の妻セシリア・パナデッロが、テーブルのわきに立ってこちらを見ていた。

「ど……読書をしていたのですよ」

 ムタイが言い訳をする。

「私のような者にとっては、読書も立派な仕事の一部です。ビールは……つ、ついでに飲んでいただけです」

「そうなんですか。私は、てっきり、お酒を飲むついでに読書をしていたんだと思っていましたわ」

「うぐ……」

「まあ、何でも良いですけど、家賃だけはちゃんと払ってくださいね。うちは家賃の滞納に対してだけは、厳しく対処しますからね」

「分かっています。そういうマダムは、なぜハーブ茶のポットとティーカップを持っているのですか」

「こんなに良い天気ですからね。昼下がりに、専業主婦が少しばかり休憩してお茶を飲んだからと言ってばちは当たらないでしょう。少なくとも、締め切り前にのんびり日向ぼっこをしている童話作家よりは罪は軽いと思います」

「うぐぐぐ……」

 言いながら、セシリア・パナデッロはムタイの反対側の椅子に座って、カップに茶を注いだ。

「ときに、エステルさんは元気ですか? その後どうです?」

「さすがに怪物を見たっていう日は、ショックのせいで夜中まで自分の部屋に閉じこもってふさぎこんでいましたけど。翌日にはケロッとして、元気に予備塾へ行きましたよ。今日は、塾が終わったら友達と遊びに行くと言っていたけど……どんな『お友達』なのやら」

「まさか、男友達ですか」

「さあ」

「だって、まだ十四歳でしょう」

「十四歳だからって、何も無いとは限らないでしょう? それくらいの年齢は、成長にばらつきがありますからね。とくにエステルは、最近、急に女の子らしい体つきになっちゃって……まあ、とりあえず日が暮れる前には帰ってくるように言って置きましたが。難しい年頃に入っちゃったのかなと思うと、気が重いわ。自分の少女時代を振り返ってみても、ね」

「エステルさんの交友関係はともかく……僕も、その『怪物』とやらには興味がありますね。それを見たエステルさんがショックで一晩じゅうふさぎぎ込むくらいだから、よほどグロテスクな姿をしていたのか……」

 アラツグが血まみれになって帰ってきた同じ日、この町のどこかで奇怪な生き物の死骸が発見されたらしい。

 しかもあとで聞いた話では、エステル・パナデッロとアラツグも、その怪物を間近で見ているという事だった。

 ひょっとしたら、アラツグが血まみれだった事や、一時的に目が見えなくなった事と、その怪物は関係があるのではないかとも疑ってみたが、藪蛇やぶへびになるのも嫌だったので、ムタイは大家の妻からも娘からも、あえて詳細は聞かないことにしていた。

 その時、用を足したアラツグが男子便所から出てきた。

 部屋から出てきた時と変わらず、回廊をトボトボと力無ちからなく歩いていく。

「ブラッドファング君……まだ、立ち直っていないの?」

 セシリアが少年の姿を見て言った。

「ええ。そうみたいです」

「まったく、あんな図体して、情けない!」

「奥さん、それは、ちょっとブラッドファング君に厳しすぎますよ。男の失恋と言うのは、案外物なのです」

 この大家の奥方は、アラツグがダーク・エルフの少女に振られたという事を何故なぜか知っていた。

 実は、その現場にエステルも居て、アラツグがエルフに振られるところを見ていたのかも知れない、と、ムタイは想像してみる。その一部始終いちぶしじゅうを母親に話したのかも。

(ひょっとしてエステルさんが、あの日、一晩じゅうふさぎ込んでいたのは、ブラッドファング君がエルフの少女に告白するのを見ていたからでは……つまり、エステルさんは実はブラッドファング君のことが好きだと仮定したら……い、いや、さすがにそれは妄想し過ぎか……)

「ブラッドファング君! ブラッドォォォファァァァングゥゥゥく~ん!」

 いきなりセシリアが大声を出した。

 アラツグが、ハッとなってこちらを向く。

「ちょっと、こっちに来なさい! 話があるわ!」

 本当は嫌だけど仕方が無い……そんな雰囲気で、アラツグが中庭を横切って、のろのろ歩いてくる。

「ど、どうしたんですか、いきなり」

 ムタイが、小声でセシリアにたずねねる。

「私、昔から、ああ言うのを見るとイライラしてくるのよね。男のくせに、いつまでもイジけて……」

「そんな、いくらなんでも、可愛そうですよ。彼は、まだ十代ですよ」

 そう言っている間にも、アラツグはこちらにどんどん近づいてくる。

「なんか、用ですか?」

 二人が座っているテーブルのそばまで来て、アラツグが言った。

「エステルに聞いたわ」

 大家の奥方がアラツグに言う。

「あなた、エルフの女の子に大声で『付き合ってくれ』なんて言ったんだってね。その挙句あげくに、見事ばっさりと振られた」

「……」

「まず、最初に言っておくわ。大勢の野次馬やじうまの前で、しかも、変なにおいのする怪物の死骸の横で、大声で口説かれて『はい』という女は居ません」

(そ……そんな大胆なことをしたのか……ブラッドファング君は……い、意外と挑戦者チャレンジャーなんだな)

 ムタイが驚いてアラツグを見る。

「そして……ここからが本題だけど……。男が、振られた女を引きずって何時いつまでもイジけてるのは、とっても迷惑です!」

「はぁ?」

 アラツグとムタイが、同時に奥方の顔を見る。

「いい? 世界中どこへ行っても、男と女の出生比率は50対50です。これが、どういう事か分かる? この世に男が五十人居れば、同じ数だけ女も居るということ。

 ブラッドファング君……きみが、そのエルフだか何だか知らないけど、振られた女の子を諦めきれないとね……!」

「ああ……なるほど……」

 確かに計算上はその通りだと、ムタイが妙に納得してしまう。

「まあ、サミアは一夫多妻制の都市国家くにだから、女にとっては常に売手市場うりてしじょうだけどね。一夫一婦制の都市国家くににでも行って御覧なさい。あなたが振られた女を忘れられない、ただそれだけの事で、確実に恋愛市場で女が一人余るわ」

「いや……奥さん、それは言いすぎ……」

「とにかく!」

 ムタイの冷静な言葉を大声でき消し、セシリアが言った。

「男が失恋で、いつまでもイジけているというのは、それ自体、女にとってっごい迷惑なの! まず第一に、見ていてイライラするのよ。だから……」

 そう言って、いきなり立ち上がると、大家の妻はアラツグ背中をドンッ、と叩いた。

「元気出して! しっかりしなさい、って。分かった?」

「は……はあ……」

「な~んか、気のない返事だけど、まあ良いわ。あんまりいじめても、逆効果だろうしね。以上! 部屋に戻って良いわよ」

 アラツグが部屋に戻ろうとした所を、再度セシリアが呼び止める。

「ああ、それから……」

 アラツグが振り返る。

「ブラッドファング君……あなた、実は結構だっていう自覚ある?」

「はあ?」

「お友達の、ブルーシールド商会の御曹司おんぞうしさま程じゃないけどね。それでも、あのお坊ちゃんとは、また違った魅力があるわ。あなたには」

「魅力ですか……」

「何ていうか、こう……普段は、ぬぼーっとして冴えない感じだけど、その下に秘められた『野生の力』とでもいうのか……そんな物を時々感じるわ。女は、そういうのを案外、本能的に感じ取るからね。ブラッドファング君、自信を持っても良いと思うわよ。すぐに良いが見つかるって」

「そ……そうっスか?」

 アラツグが、ちょっと嬉しそうにした。

 少年の顔に久しぶりに浮かんだ表情だった。

(さすが、マダム……)

 ムタイは感心した。

(男を持ち上げるのが上手うまいなぁ……でも……あと一押し、足りないなぁ……男が失恋から復活するには、さ。立ち直るためには『実践的ノウハウ』が必要なんだよな。まあ、こればっかりは同じ男じゃないと、アドバイスできないか。仕方が無い……)

 それまでは黙っていようと思っていたムタイが、アラツグに声を掛ける決心をする。

「ブラッドファング君。僕からも、一言いいかな?」

 アラツグが、ムタイの方を向く。

「自分語りになっちゃうんだけど……僕、アカデメイア時代に、当時付き合っていた女性に振られた事があるんだ」

「そ、そうなんですか……」

「僕、彼女のこと、ものすごい好きだったからさあ、ものすごい落ち込んで、大変な思いをしたんだよ。食事は喉を通らないし、夜中に目が覚めて眠れなくなっちゃうし、もちろん勉強は手に付かないし、一日中、学生寮でゴロゴロする日が続いて。体重が一ヶ月で十カ・マーグも落ちちゃったりして。さすがに、このままじゃヤバいと思ってね。何をしたと思う?」

「……さ、さあ……」

「僕、アカデメイア時代、実は陸上やってたんだ。長距離。いわゆる『マラトン』ってやつ」

「ああ、あの都市国家マラトンの故事にちなんだ競技で、四十二・一九五カ・レテム走るという……」

「……そう。まあ、成績は大したこと無かったけどね。それで、失恋から一ヶ月ほどしたある日、その頃は既に引退して勉強に専念していたんだけど、もう一度って思い立ったんだよ」

「走ったんですか」

「うん。走った。今、思い出してみても、なぜ走ろうなんて思ったのか、自分でも謎なんだけど。とにかく走った。そしたら少しずつ、元気になって行ったんだ。ご飯も食べられるようになったし、授業にも少しずつ出られるようになってね。理由は分からないんだけど、多分『無心になって、体を動かした』ことが、良かったんだと思う。ある種の生理現象が働いたんだね。だから、さ、ブラッドファング君。訓練、再開したら? 剣士としての訓練を。厳しい修行時代を思い出して体を動かすのが良いと思うよ。君は、剣士なんだから」

「……」

 しばらく黙って考え込んでいたアラツグが、最後に深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。パナデッロの奥さん。ありがとうございます。ムタイさん。なんか、俺、みんなに心配かけてたんですね。すいません。おかげで、すこしずつ前に進もうって気になってきました。まだ本調子じゃないけど」

「良いのよ。別に。ブラッドファング君が元気になってくれれば」

「そういう事だね」

「じゃあ、俺、これで失礼します」

 そう言って、アラツグは自室に帰っていった。

「なかなかじゃない? ……ムタイさん。見直したわ。魔法少女が温泉に入る童話を書くしか能が無いと思ってたけど」

「ひどいな。奥さん」

「へええ……体を動かして、失恋から立ち直る……ねぇ」

「これ、処方箋として案外有効なんですよ」

 ペロリッ。

「あれ? パナデッロの奥さん、いま、舌なめずり、しませんでした?」

「ええ? ま、まさか。見間違いよ。じゃ、じゃあ、私、これで行くわ。晩ご飯の支度したくも、そろそろ始めなくちゃいけないし……じゃあね。ムタイさんも、何時いつまでもダラダラお酒飲んでないで、そろそろ執筆に戻ったら?」

「ちぇっ。はいはい、おおせの通りにします」

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