少年剣士アラツグ、下宿屋で親友とその婚約者に会う。

1、アラツグ・ブラッドファング


 目を覚ますと、いつもの朝と変わらないおだやかな日差しがカーテン越しにぼんやり下宿部屋を照らしていた。アラツグ・ブラッドファングはベッドに横たわったまま、頭だけを起こして部屋を見回した。

 ガランとした下宿部屋だ。自分が寝ているベッドの他には、衣装戸棚が一つ、書き物机が一つ。机の上にはチビたロウソクが3本刺さった燭台とペン立て。机の横にゴミ箱。それと、枕元に立てかけた「商売道具」

 視線を自分の体に向ける。

 仰向けになった体の、そのちょうど中心部あたりでが掛け布団を押し上げて直立している。

 数年前、まだ師匠のもとで修業に明け暮れていたころ、兄弟弟子のローランドが言った言葉をふと思い出した。

「朝立ちってのはさ、要するに、寝ている間に膀胱ぼうこうまった小便がイチモツを刺激して起きるんだ。だから、便所で小便を流せば収まっちまうのさ」

 思い切って布団から飛び起きた。

 布団の下から少年の並外れた肉体が現れる。

 並の大人より頭一つ半以上高い身長。

 頑丈な骨格の上に、岩石を荒く削ったような筋肉の束をまとっているのが、寝間着ねまきの上からでも分かる。

 顔は流石さすがに十七歳の少年らしく、あどけない……というよりは、ボーッとしていてまりがない。

 短く刈った黒髪と黒い瞳。

 注意深い人間が観察すれば、瞳の奥の奥に、野生の肉食動物にも似た鋭い光が宿っていると気づくかもしれない。

 アラツグは戦闘用長靴を履いて、早足で狭い室内を横切り、下宿部屋の鍵を開けて回廊へ出た。

 この下宿屋は『ロ』の字型の二階建てで、全ての下宿部屋の扉が中庭に面した回廊で繋がっている。

 一階二階ともに回廊に壁は無く、二階に落下防止の手すりが設置されているだけだった。

 建物の材質は、この町の他の家々と同じ、木造、白漆喰しろしっくいの壁、そして素焼きの赤い瓦屋根かわらやねだ。建物を完全に漆喰しっくいで覆わずに所どころ木の柱を露出させているのが、外観上のアクセントになっていた。

 自室の扉の前で一瞬立ち止まって深呼吸。春の朝の気持ち良い外気を吸い込む。それから急いで回廊をまわって階段を降り、一階の下宿人共用の男子便所へ駆け込んだ。

 ホッと一息ついて便所を出たあと、回廊を自室に向かって歩きながら考える。

 朝飯か、それとも朝風呂にでも入ろうか。

「あ、しまった! かたパンの買い置き、昨日の夜に全部食っちまったんだった」

 仕方が無い。まずは風呂に入って、それから食糧調達してくるか……

 いったん部屋に戻って手ぬぐいと石鹸を取り、再び階段を降りる。

 この下宿屋の一階には、男風呂と女風呂が一つずつあった。共同風呂としてはそれほど大きくもないが、それでも一度に四、五人は入れる。この下宿屋専用として考えれば立派なものだ。しかも、どんな魔法を使っているのか知らないが、早朝から夜遅くまで湯船は常に程良く熱いお湯で満たされ、風呂場も脱衣所も清潔に保たれていた。

 脱衣所で寝巻きを脱いで、寝汗を洗い場で流すと、アラツグは湯船に体をけた。

 誰もいない朝の湯に横たわり、タイルを貼った湯船のふちに頭を乗せて天井を見上げると、天窓から差し込む日光が、立ち昇る湯気にキラキラと乱反射するのが見える。ただボーッとそれを眺めているだけで何とも言えず心地よい。

「さて、これから、どうするかな……そろそろ社会復帰しないとなぁ。両替商に預けた金貨もそろそろ底をつくし……」

 天涯孤独の身。自分に仕送りをしてくれる家族は居ない。いつかは貯金も無くなる。師匠の下で厳しい訓練に耐えてやっと身に着けた技術を使って、まずは家賃と食費分だけでも稼がないと。

 分かっている。分かっては、いるのだが……

 と、その時。

 下宿屋の近くで、馬車の音が止まった。

 アラツグの耳は異常とも言えるほどに鋭い。いや、聴覚だけでなく五感の全て、そして第六感ともいうべき気配を察知する野性的感覚も、常人よりはるかに優れている。

 天性の並外れた身体能力と感覚は、十歳で師匠に弟子入りしてからの六年間、厳しい修行を通して徹底的に磨き上げられていた。

 師匠の元を去って一年余り。そのほとんどの時間を怠惰に過ごしてきたとはいえ、身体能力・感覚とも全く鈍っていない。

 風呂場でボンヤリと湯船に浸かっていても、あるいは眠っている時でさえ、彼の感覚器官は無意識に周囲から情報を収集し、解析していた。

「やれやれ。この音は……」

 アラツグは、表に停まった馬車を引く機械馬の呼吸音、その独特の野太い息づかいに聞き覚えがあった。

 もう少し湯船に浸かっていたかったが、自分を訪ねてきた客人がいるとなれば、出迎えねばなるまい。


2、ローランド・ブルーシールド


 短く刈った黒髪を手ぬぐいで掻き回しながら階段を上がると、アラツグの下宿部屋の前に一人の少年が立っていた。

 気配を感じたのか、少年がこちらへ振り返った。

 アラツグは平均的な成人男子よりも、さらに頭一つ半以上背が高い。そのアラツグと同じくらいの背丈。筋肉質のアラツグよりは少しだけ細い。髪は金髪。服の仕立ては見るからに最高級品。そして、いかにも実戦には不向きに見える装飾過多で細身の短剣を腰から下げていた。

 全身から「金持ちのお坊ちゃま」の匂いをぷんぷんと発散する美少年だった。

「よう、アラツグ」

 美少年が片手をげて、アラツグに挨拶あいさつをした。

 アラツグも美少年に挨拶を返す。

「やっぱりローランドだったか。久しぶりだな。半年ぶりか?」

 ローランドと呼ばれた少年がニカッと笑った。

 瞬間、彼の周囲に黄金色の後光が差したような錯覚にとらわれる。

(うへぇ……相変わらず凄ぇな。三千年続いた大富豪の末裔のオーラってやつか?)

「突然、どうしたんだ? 何かあったのか?」

 アラツグが同い年の友人に問う。

 ローランドは微笑みながら首を振って見せた。

「別に。特に理由があって来た訳じゃねぇよ……まあ、急に思い立って、共に師匠の下で厳しい修行に明け暮れた親友の様子を見に、って所だ」

暇人ひまじんだなぁ」

「どっちがだよ……アラツグ、お前、まだブラブラしてるのか? 爺くさいこと言うようだが、良い若いもんが、仕事もしないで朝から晩まで遊んでいるのは褒められた話じゃないぞ。お前、ショースケ・オハラって知っているか?」

「ショー……何だって?」

「ショースケ・オハラ。遥か昔、古代ニホンのアイズ・バンダイサンって山に住んでいた男でな。仕事もしないで朝っぱらから風呂に入って酒飲んだあげく、親の財産を使い果たして破産した情けないやつさ。ガキの頃、まだ剣の修行を始める前、死んだ祖父じいさんがよく話してくれたよ……まあ、三千年ものあいだ金貸しと両替商を営んできたブルーシールド家の血を継ぐ者として、俺にも真っ当な人生を歩んで欲しかったんだろうな……反面教師ってやつだ。個人的には、そのショースケ・オハラとやらの人生に共感する気持ちが無いわけでも無いが」

 金髪の少年は、目の前に立っている寝起きそのままのアラツグに向けて手首をひらひらと動かした。

「まあ、とうの昔に死んでる古代ニホン人の話は、さておいて……早くそのくさい寝巻きを着替えろよ。こんな下宿屋の廊下で立ち話もナンだ。積もる話は、別の場所でしよう。どうせ朝飯、まだなんだろう? どこか気の利いた茶屋か飯屋で、たらふく食いながら旧交を温めようじゃないか」

 ローランドの言い分を否定する要素はひとつも無い。

 アラツグは、友人の脇を通って自分の部屋の扉を開けながら答えた。

「ああ、分かった。すぐに着替える。いや、歯磨きがまだだ。少し時間をくれ。音が聞こえたよ。表にご自慢のBMWを停めてあるんだろ? 車内で待っていてくれ。すぐ行くよ」

「ああ」

 ブルーシールド家当主の六男、アラツグと同い年の少年、ローランド・ブルーシールドは、優雅で……それでいて、いつでも戦闘態勢に移れる隙の無い動きで下宿屋の出口に向かって歩いていった。


3、メルセデス・フリューリンク


 中庭の真ん中に掘られた井戸のわきで、塩と豚毛のブラシを使って歯を磨いたあと、部屋に戻って外出着に着がえる。

 寝巻きを脱いでベッドに放り投げ、パンツ一丁の姿で衣装戸棚を開く。

 シャツに、上下の戦闘服。革ベルト、つま先に鉄板を張った戦闘長靴。

 手際よく着ていく。

 そして、最後にベッドのヘッドボードに立てかけた「商売道具」……両手持ちの長剣をベルトの金具に装着した。無駄な装飾は一切無いが、バランス、剣身の強靭さ、ともに申し分ない。怠惰な生活をしていても、剣の手入れだけは真面目にしていたから切れ味も良い。

 下宿屋の玄関を出ると、青色に塗装された馬車が停まっていた。きらきらと金属粒子を散りばめたような光沢を放っている。馬車の梶棒につながれているのは、同じ青色の魔法動力機械馬だ。

 馬も、馬車も、どちらも桁外れに大きい。そして美しく、洗練されて、品がある。

 アラツグは、半年前、この下宿にローランドが同じ青色の馬車で乗りつけた時の事を思い出した。


 * * *


「どうだ? なかなかの物だろう?」

 半年前、初めて間近で見る高級馬車に圧倒されていたアラツグに、ローランドは言ったものだった。

「バイエリオン公国製だぜ」

「すっ、すげえな……」

「バイエリオン・魔法馬車・工房。古代ドイッチェ語で言えば、バイエリオン・マギーコウチャー・ヴェルクシュタット。略してBMWべー・エム・ヴェーだ」

「ベ、ベー・エム・ヴェー……聞いたことあるぞ。たしか、商人たちの間では、その馬車に乗ることが成功のあかしだとか。これが噂のBMWか……」

「そういう事。いわゆる一つの『ステータス・シンボル』だな」

「それにしても、でけぇな……機械馬の肺活量いくらだよ?」

「まあ、数ある工房のシリーズのなかでも、これは型番760と言って、一番でかい部類だから。肺活量? ……確か四千四百……だったかな? ヴイ型8魔筒心臓。過呼吸器付きだ」

「過呼吸器って何だっけ」

「機械馬の口を見てみろ。マスクのような物が付いているだろ? あれが過呼吸器。あの中には小さな風車があってな、息を吐く力を利用して風車を回し、その回転力を利用して、もう一つの風車を回す。二番目の風車は機械馬の鼻に強制的に風を送り込み、その風圧で機械馬の肺活量を擬似的に増やすって仕組みだ」

「肺活量四千四百ってだけでも凄いのに、それをさらに増やすのか? いったい一時間にどれだけの仕事をこなせるんだよ?」

「一時間あたりの仕事量は天然馬に換算して四百五十頭分……だったかな?」

「四百五十頭分……ひええ。この青色の機械馬一頭で、一時間に天然馬四百五十頭と同じ仕事をこなす? ピンと来ないよ」

 数字があまりに現実離れしていて、アラツグには想像することすらできなかった。


 * * *


 ……あれから半年……

 今、目の前に居るその機械馬車は、あの時と同じ「ドロッドロッドロッ……」という独特の低い音で呼吸を繰り返してた。

「……おい……おいっ!」

 ローランドの声に、アラツグは、ハッと我に返る。

「どうしたんだ、ボーッとして」

「……ああ、何度見ても凄い馬車だな、と思ってさ」

「これでも兄貴たちの乗っている馬車に比べれば可愛いものさ。御者を雇う金がもったいなくて、こうして貴様の家まで自分で手綱を握ってきたし……まあ、半年前、初めて自分の馬車を持った時は浮かれたちまったけど、正直、もう飽きたな。天然馬四百五十頭分の力が有ったって、町中まちなかじゃあ、その三分の一だって発揮できないからさ」

 ローランドが、いかにも『大したこと無い』という風に手をひらひらさせた。

「馬車なんて、もう、どうでもいいよ……お前だって、ちょっと頑張りゃ、これくらいの馬車すぐに買えるって。何と言ったって、お前には生まれ付いての才能がある……それも、飛び抜けた才能がな」

 大金持ちの御子息ごしそく様は、友人の顔をまじまじと見つめ、いきまじりに言葉を続けた。

「俺はなぁ、アラツグ。何がくやしいかって、お前がその何百年、いや何千年に一人かもしれない自分の才能をこの安い下宿屋で一日一日腐らせているかと思うとだなぁ……いや、まあいい……それより、飯だ。とにかく朝飯を食いにいこうじゃあないか。さあ、早く馬車に乗れよ。この町は良く知らないんだ。うまい飯屋に案内してくれよ」

 言われるがまま馬車に乗ろうとして、アラツグは、助手席に少女が乗っているのに気づいた。

 いかにも頭の良さそうな、上品なたたずまいの美しい少女だった。

「ど、どうも」

 言いながら、後部座席の扉を開けて、馬車に乗り込む。

 アラツグは同じ年頃の少女が苦手だった。

 十七歳にもなるというのに、何をどう話したら良いのかが分からない。

 まして相手が、目の前にいるような美少女だったりすると、もう声を出すのもやっとだった。

 十歳で剣の師匠に入門して六年間は女っ気全く無し。師匠のもとを離れてからは、下宿屋に引きこもってダラダラと暮らしてきたから、これまた女っ気無しなのだから当たり前といえば当たり前の話だが……

「こんにちは」

 少女が助手席から振り返って挨拶をしてきた。鈴の鳴るような涼しげな声だった。

「あっと、えっと……」

「紹介するよ」

 ローランドが御者席に乗り込みながら、美少女に向かって言った。

「こいつが、例のアラツグ・ブラッドファング。俺と同い年で、師匠のところへ入門したのも偶然に同じ日だったっていう、正真正銘の兄弟弟子だ。いや、同じ日に入門したんだから、双子弟子かな? まあ、考えようによっちゃ、運命的出会い……ってやつかもな?」

「運命的出会いって……何だよ、それ」

「アハハ。そして、ブラッドファング君……こちらの美少女は、フロイライン・メルセデス・フリューリンク」

「始めまして」

 少女が……メルセデス・フリューリンクがニッコリと微笑む。

(すげぇ……笑顔が可愛い……)

「俺の第三婚約者だ」

「え?」

 アラツグが聞き返す。

「えっと、よく聞き取れなかったな……第三……何だって?」

「おいおい勘弁してくれよ。たった一年間、何もせず、ただ下宿屋に引きこもっていただけで、そこまで聴力が衰えたか? 師匠の元に居た頃は、地面に耳を付けて丘の向こうにいる動物の足音を聞き分けた奴がなぁ。いいか、もう一度言うぞ。こちらは、メルセデス・フリューリンク。俺の、だ、い、さ、ん、こ、ん、や、く、しゃ……だ」

「いや、本当はちゃんと聞こえていたんだよ。ただ、ちょっと、その、言葉の意味が良く理解できなくてさ……婚約者って、あれだよな、いわゆる一つの、結婚を前提のお付き合いするっていう、あの、婚約者のことだよな。そ、そ、それで『だいさん』ってどういう意味だっけ。えーっと、エーーとぉぉぉ……」

「第三は第三だろ。いち、にい、さんの『さん』……まあ混乱するのも仕方ないか。

 半年前この下宿に来た時には、第三どころか一人目とも出会っていなかったからな。まあ、あのあと、俺の身にもいろいろあってさ。ばたばたっ、と三人の女と出会って、婚約するハメになっちまった」

「はああ……あははは。十七歳にして、婚約者三人……」

 訳がわからない。気のない笑いで誤魔化すしかない。

「要はタイミングだよ、タイミング。俺って、ほら、家柄もいいし、金はあるし、自分で言うのもナンだけど、ルックスもまあまあ悪くないだろ? おまけに、貴様といっしょに厳しい修行に耐えてきたから、運動神経・忍耐力ともに抜群。頭は生まれつき良いしさ。その気になりゃ、十七歳でも結婚したいって言う女には困らないんだなぁ……これが……」

「自分でそこまで言うかよ。まあ、なんにせよ、とにかく、おめでとうございます」

「ありがとな」

「ありがとうございます」

 ローランドとアラツグは、入門した日も同じなら、修行を終えて師匠から下山を許された日も同じだった。

 あれから一年と少し。

 自分がこの静かな町の下宿屋で日々ダラダラと過ごしている間に、ローランドは確実に人生を前に進めているのだなと思うと、胸がチリリッと……少しだけコゲた。

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